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2016年5月

2016年5月31日 (火)

木下街道 (船橋法典~馬込沢)

一昨日の続きで、木下街道を船橋法典駅(JR武蔵野線)から馬込沢駅(東武野田線)まで歩いてきた。 1万1千歩、8km。



①船橋法典駅
・・・・・・・・・・起点:府中本町から、終点:西船橋まで、公営ギャンブル場を数珠つなぎする武蔵野線、船橋法典駅は中山競馬場最寄り駅。 ちなみに、府中本町駅は東京競馬と多摩川競艇の最寄り駅。 戸田ボート、川口オートは武蔵浦和、南浦和乗り換えでスグ。 浦和競馬は南浦和下車。 船橋競馬、船橋オートは西船橋の隣駅:南船橋駅が最寄り駅。 『オヤ?この中に競輪場がないね』、心配無用、新秋津駅で無料バスに乗り換えれば、20分で西武園競輪場。、、、、、いずれ、武蔵野線にギャンブル・ツアーに便利な『開運 ギャンブル号』が運行されるかも。

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・・・・・・・・・・・・・・駅前の木下街道にでる。、、、、チョイと曇り空が気にかかる。

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②七面堂
・・・・・・・・・・・・船橋法典駅から400m程歩くと、木下街道に面して、階段の上に小さな七面堂(船橋市藤原2)がある。 江戸初期の天和(1681~1684)頃に創建されたものが再建されたそうだ。、、、、、七面さまは、身延山の守護神:七面天女(七面大明神)のことで、本地は竜女、弁才天、または吉祥天であるから美女である。 堂は閉じられ美女の御尊顔を拝することはできなかった。、、、、賽銭を入れたら、『チョットだけよ!』と言って、チラット姿を見せてくれると、ありがたいのだがね。

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・・・・・・・・・・・・・・(上の写真)階段下の墓石の形をした石の左側に小さな標柱がある。 ここに「海軍」と刻まれている。 この地は海軍が管理していたのか?

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③藤原観音堂
・・・・・・・・・・・・七面堂から街道を500m程歩くと、次は観音堂がある。 またもや美女系の仏を祀る堂、こんどこそ顔を見てみたいと思ったが施錠されていた。 賽銭を入れる穴からカメラを入れてパチリ。 撮ってガッカリ、艶っぽい観音様はどこにもいない。、、、、、あとで知ったことだが、観音堂に祀られる観音様は身代わり観音と呼ばれ、大切にされ、33年に一度御開帳される秘仏だそうだ。 次は2027年になるらしい、私が仏になっているかも?

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・・・・・・・・・・・・・・これも、あとで知った話だが、、、、、観音堂がある、この場所には、かつて修行中の宮本武蔵が住んでいたそうだ。(嘘か真か、武蔵のみぞ知る) 松尾芭蕉や十返舎一九も鹿島神宮詣で、木下街道を通ったので、観音堂に立ち寄ったかも、この観音堂は歴史ヒストリアの舞台かも?

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④藤原神社
・・・・・・・・・・・観音堂から更に200m程進むと、街道の左側には藤原神社(船橋市藤原3)がある。 神社のある藤原新田は開墾して延宝3年(1675)に村となった。 開墾発頭人:鈴木甚右衛門家が本姓”藤原氏”であったことに因んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・この付近では、街道を歩くにも歩道幅が狭く、横を大型のダンプが飛ばしていくと、風で飛ばされそう。 歩行者には危険な道である。

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⑤上山神明宮
・・・・・・・・・・・木下街道を挟んで、藤原神社の向かいに、上山神明宮の参道入口の鳥居が見える。、、、、、チョイと街道から外れ参道を奥へ進む。

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・・・・・・・・・・・・・・上山神明宮(船橋市上山町2)は、旧上山新田村鎮守さま。 延宝2年(1674)の創建。 広い境内には、神明造の本殿のほかに、牛頭天王宮、三峰神社、古峯神社、稲荷大明神、道祖神等の境内社もある。、、、、木立に囲まれ、『おらが村の鎮守さま』の風情が残る。

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⑥船橋市藤原5丁目付近の木下街道
・・・・・・・・・・・・・狭い街道 そんなに急いで どこへ行くのか わからない

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⑦上山町3丁目の住宅
・・・・・・・・・・・藤原5丁目付近の木下街道の南側は上山町3丁目で、一帯は新興住宅地のようだ。 チョイと街道をはずれ奥へ歩いてみた。 新しい、おしゃれな分譲住宅が並んでいる。

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⑧熱田神社
・・・・・・・・・・・上山町の道に、方向感覚を狂わされ、階段、坂をアップ・ダウンし、熱田神社の前に出た。、、、、木下街道の南側をグニャグニャ歩いたようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・熱田神社(船橋市旭町2)は、旧後貝塚村鎮守。 樹木の茂る境内は思ったより奥行きがあり広く感じた。 社殿は、木々が邪魔し、撮影できず。 

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・・・・・・・・・・・・熱田神社に手を合わせ、木下街道に戻った。

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⑨馬込沢駅
・・・・・・・・・・大正12年(1923)、法典駅として開業し、翌年に馬込沢駅と改称した。 地名の「馬込沢」は、駅ホームの北側がかかる鎌ヶ谷市の地名である。 駅の南側は、船橋市藤原7丁目である。、、、、、、相対式ホーム2面2線を有する地上駅だが、盛土上にホームがある。 改札口はホーム下に、半地下の状態で造られている。

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2016年5月29日 (日)

木下街道 (下総中山~船橋法典)

先日、中山競馬場の方向へ歩くつもりが、法華経寺の方角へ向かってしまった。 その時、帰宅後、地図を見たら、競馬場の近くに「木下街道」が通っていることを知った。、、、、、今日は、総武線の下総中山駅で下車し、「木下街道」の起点から街道を歩き、武蔵野線の船橋法典駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

木下街道・・・・・・・・・木下(きおろし)街道は旧江戸川の本行徳河岸から八幡、鎌ヶ谷、白井を経て利根川の木下河岸(成田線木下駅近く)までの約9里の街道。 江戸時代中期(元禄の頃)、江戸の人口は100万人以上となり、江戸前の魚貝類だけでは供給が間に合わず、銚子沖で獲れた魚貝類を江戸に運ぶために整備された道である。 銚子で水揚げされた魚貝類は舟で利根川を遡り、木下河岸で馬に積み替え陸路で本行徳河岸まで運び、再び舟に乗せ替えて日本橋・小網町の河岸まで運ばれた。、、、、、、現在の木下街道は、「千葉県道59号市川印西線」で、千葉県市川市鬼越(鬼越二丁目交差点)を起点として、印西市大森(中ノ口交差点)を終点とする県道である。



①木下街道起点
・・・・・・・・・国道14号(千葉街道)の「鬼越二丁目交差点」が木下街道の起点である。

・・・・・・・・・・・・・国道14号(千葉街道)から見る鬼越二丁目交差点。

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・・・・・・・・・・・・・木下街道から見る交差点。 T型交差点の正面には、国登録有形文化財の中村家住宅がある。、、、、、車が文化財の住宅に突っ込んでいきそうだ!

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・・・・・・・・・・・・・中村家の前から見る木下街道。

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②中村家住宅
・・・・・・・・・・・・中村家は、明治時代には陸軍御用達の馬糧商(ばりょうしょう)を営み、大正時代になると味噌醸造業に転じた。 馬糧商時代の倉庫を転用するなどして、広大な味噌工場を有し、東京方面に出荷するほどの大規模醸造所であった。 敷地内に建つ、主屋、離れ、煉瓦蔵、土蔵、北蔵及び事務所、倉庫、稲荷社、防空壕、門及び石塀、これら全ては国登録有形文化財に指定されている。、、、、、、どの建物も、明治時代以降のものだが、たくさんあるので、できることなら、博物館にして公開して欲しいね。

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③高石神社
・・・・・・・・・・鬼越二丁目交差点から50m程北へ向かった地に鎮座する神功皇后を祀る神社。 創建年代は不詳であるが、室町時代の中期(1438年頃)以前らしい。

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④立体交差化
・・・・・・・・・・・現在、京成本線と木下街道は平面交差のため、踏切遮断による交通渋滞が著しく、また、歩道が狭く歩行者も危険なため、県は、平成11年(1999年)度から平成32年(2020)度にかけて立体交差化事業を進めている。 総事業費:約63億円で、踏切を挟み465mの区間で、幅員を36m程に広げ、車道を掘り下げ踏切の下を通すことにするらしい。、、、、、只今、用地取得中です。

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⑤泰福寺
・・・・・・・・・・・・京成電鉄の踏切を越えて、街道の裏を250m程北東に進むと、日蓮宗の泰福寺がある。 開山の僧:日寂はもと浅草寺(天台宗)の僧であったが、弘安年間(1278~1288)に富木常忍(とき じょうにん、1216~1299)によって日蓮宗に改宗し、泰福寺の開祖となった。、、、、、、遠い昔は改宗する僧は多かったようだ、今のサラリーマンも転職が多いからね。

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・・・・・・・・・・・・・・・泰福寺の境内を回るように、急な坂と塀で遮られた裏道がある。 その途中に、庭の木立に囲まれ、昭和初期の建築と思われる住宅:TA邸があった。

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⑥東山魁夷記念館
・・・・・・・・・・・・市川市中山1丁目、木下街道に面して建つ「東山魁夷記念館」。 この建物は、東山魁夷が、戦後、死去するまで暮らしていた自宅に隣接して建てられ、平成17年(2005)11月に開館した。 魁夷の留学の地:ドイツの雰囲気を意識した、八角形の塔のある西洋風外観の建物となっている。、、、、、、上野精養軒の直営のカフェレストランで、コーヒータイムと思ったが、時刻は9:00で開館1時間前、入ることもできず、“残念でした、またのおこしを!”

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⑦中山1丁目付近の木下街道
・・・・・・・・・・木下街道は、このあたりでは、市川市中山1丁目と市川市北方3丁目の境となっている。

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⑧北方十字路交差点
・・・・・・・・・・・・市川市若宮3、木下街道と千葉県道180号松戸原木線の交差点。、、、、、交差点の横には、中山競馬場があり、馬券を求めて今日も多くの人が“ご来場”。 交差点は混雑するぞ!

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⑨中山競馬場
・・・・・・・・・・中山競馬場の歴史は、明治40年(1907)、松戸競馬場が開設されたことに始まる。 大正7年(1918)に、松戸から船橋へ、大正12年(1923)には、現在地へ移転する。 昭和19年(1934)から昭和22年(1947)までは、日本軍、進駐軍などに接収され、競馬場は閉鎖された。 返還後、昭和29年(1954)には、日本中央競馬会中山競馬場となる。、、、、、今日は、中山でのレースは開催されていないが、馬券は売っている、中へ入ってきた。 本日は日本ダービー(東京競馬場にて)、馬券を求めてファンがゾロゾロ。

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・・・・・・・・・・・・・・熱心に新聞読む人、床に座って予想する人、階段で横になって考える人、、、皆さん熱心だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・正門前に復元した旧正門:「メモリアルゲート」。
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⑩船橋法典駅
・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・競馬場を出て、船橋法典駅に向け、木下街道を歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・船橋法典駅、、、、、、、昭和53年(1978)、国鉄の武蔵野線の駅として開業した。 ホームは掘割の下にあり、駅舎は掘割の上に在る。 島式ホーム1面2線。

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2016年5月26日 (木)

中山法華経寺

サミットの影響か?事故か? 電車の運行が乱れ、どこで下車するか考えもせずに成田行きの快速に乗ってしまった。 京成小岩、京成八幡と過ぎ、次の東中山で下車した。 駅前で中山競馬場の文字が目に入り、とりあえず目指すは『競馬場』と意気込んで、住宅と畑がミックスした裏道を歩き始めた。 そして、着いた処は、以前来たことのある「奥の院」。 なんと、方向を間違えたようだ。 こうなりゃ、間違えも仏の導きと思い、中山の法華経寺に参拝して、総武線下総中山駅から帰ってきた。 8千歩、6㎞。



①東中山駅
・・・・・・・・・・・・・・昭和10年(1935)10月4日、中山競馬場への最寄り駅として、臨時駅「東中山」が設置された。 昭和28年(1953)には常設駅となる。、、、、、、駅前には、コンビニが一店あるのみ。 中山競馬場が近くになかったら、普通列車しか停車しない駅である。

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・・・・・・・・・・・・・駅前から中山競馬場行きの臨時バスが、レース開催日および場外発売日に運行されており、その乗り場として広いスペースが確保されている。

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②住宅と畑
・・・・・・・・・・東中山駅から、自分の感をたよりに、北の方角に向かうと、畑の中に点在する、マンション、分譲住宅が目に入ってくる。 どの建物も新しく、若い人向けの住宅が中心である。

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③若宮八幡神社
・・・・・・・・・・・・畑の中を行くと若宮八幡神社がある。 ここの住所は、市川市若宮2丁目と表示されている。、、、、、、神社は、富木常忍(ときじょうにん、1216~129、鎌倉時代の下総国の豪族)の館の鎮守社として創建された。、、、、、常忍は、日蓮の弟子でもあり、かつて本妙寺と法華寺が合併し法華経寺となった、その法華寺を建立したのは常忍である。、、、、、社殿は鉄筋コンクリート造で昭和40年代に建てられたものか?

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④奥之院
・・・・・・・・・・八幡神社から北西の方角に、日蓮宗の奥之院(市川市若宮)はある。、、、、、、奥之院は、日蓮聖人が文応元年(1260)富木常忍の館に逃れてきた。 そして館に建立した法華堂の地だと言われている。 法華堂は後に法華寺と改称、さらに中山の本妙寺と合寺して法華経寺となり、当地は奥之院と称されるようになった。、、、、、建物は鉄筋コンクリート造で戦後に建て替えられたようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・境内には、正月の七福神詣でを狙ったと思われる、新しそうな弁天像が祀られている。 現代的な女性の顔をした弁天様だ。、、、、、思いきって、沢尻○リカ似の顔にして、薄いコスチュームを身に着け、エレキギターをもつ、現代版の弁天様にしたら若者の初詣も増えること間違いなし! 失礼しました。

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⑤法華経寺
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・・・・・・・・・・・・・奥之院から法華経寺までの参道は、寺社詣でが盛んであった頃の雰囲気が残っているようだ。 昭和16年(1941)に建てられた奥之院への道標、奥之院向かいゆるやかな勾配のついたカーブ、多くの信者が歩いた参道だ。

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・・・・・・・・・・・・・・祖師堂、、、、、、延宝6年(1678)に上棟式が行われ、17年後の元禄15年(1702)に落慶式が行われた堂。 比翼入母屋造りの建物は国の重要文化財に指定されている。

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・・・・・・・・・・・・・・五重塔、、、、、、元和8年(1622)に加賀前田公から寄進された五重塔。

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・・・・・・・・・・・・・・聖教殿、、、、、、国宝の立正安国論を始め重要文化財64点などを保存している建物。 昭和6年の建設で、設計は東京帝国大学教授の伊東忠太。 施工はは清水組(現:清水建設)。、、、、、中に入ってみたいね!

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・・・・・・・・・・・・・・法華堂、、、、、、室町時代後期の建築と推定されている。

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・・・・・・・・・・・・・鬼子母大尊神堂、、、、、、平成10年(1998)、清水建設の施工。

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・・・・・・・・・・・・・仁王門、、、、、通称、赤門とも言うそうだ。 仁王門の創建は江戸の初期、寛永13年であるが、その後、幾度か再建され現在の門は大正末期に再建された。 門に掲げられている扁額の「正中山」は、本阿弥光悦の書である。

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中山駅・下総中山駅
・・・・・・・・・法華経寺から京成本線中山駅JR総武線下総中山駅までは近い。 どちらの駅も、駅前の歓楽街が見当たらない、静かな駅である。

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2016年5月25日 (水)

かっぱ橋本通り

夕方近く、浅草に用事ができ、散歩がてら行くことに、、、、、、我が家(浅草橋)から歩いて行くのも厭きたので、今日は上野駅から「かっぱ橋本通り」を抜けて浅草へ行ってきた。 7千歩、5km。


かっぱ橋本通り
、、、、、、、昭和通りの北上野一丁目交差点(上野駅の北東)から、ほぼ直線的に東に伸び、国際通りの公園六区入口交差点(浅草寺の西)までの、1.2kmにわたる道。 寛永寺の高僧が浅草寺に詣でる「御成道」として整備されたそうだ。 でも私の推測では、当時(江戸時代)の浅草は繁華街であり、吉原遊郭も近く、上野の坊さんは遊びたくて、浅草寺詣でしたのかも?(どこかの知事みたいに、セコイ話かも)、、、、、国際的に有名な「かっぱ橋道具街」は、かっぱ橋本通りと、合羽橋交差点で直交している。

・・・・・・・・・・・・・「合羽橋」の由来の有力な説は、『今から200年程前の江戸時代、この辺りは水はけが悪い低地で、雨が降るたびに洪水となり、人々は困り果てていた。 そこで、雨合羽の商人:合羽屋喜八が私財を投じて、水路をつくる工事に着手したが、工事は難航した。 これをみた隅田川の河童たちが同情し、喜八の良心にも心を打たれて、夜な夜な工事を手伝い、工事は無事に完成した。』、、、、、それゆえ、“かっぱばし”のマスコットは河童であるが、“河童橋”と書かないで、“合羽橋”である。

●・・・・・・・・・・・今日は改札口にも警察官が立ち、物々しい警備の上野駅入谷口

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●・・・・・・・・・・・駅前には、日本最古の鉄道学校「岩倉高等学校」がある。 以前は男子校であったが、平成26年(2014)から男女共学となった。 卒業生の中から、女性運転手も誕生するかな?

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●・・・・・・・・・・・昭和通りの北上野一丁目交差点。 中央奥に見える通りが、かっぱ橋本通りである。 かっぱ橋本通りの奥に、スカイツリーが薄く見える。

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●・・・・・・・・・・・・塀ごしに地下鉄銀座線の車両が見える、東京地下鉄の銀座線車庫

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●・・・・・・・・・・・・上野方面から来ると、地下鉄車庫を過ぎ清洲橋通りを越えると、かっぱ橋本通りにある最初の商店街「かっぱ通り商和会」がある。、、、、かっぱ橋本通り商和会は、東上野付近の延長300mの商店街。 戦前は清島商和会と山伏商和会が並立していたが、昭和26年(1951)に一本化し現在の名称になった。、、、、この辺では、商店街も寂れ店舗がマンションに変身しているそうだ。

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●・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通り沿いには、多くの河童が客を招いている。 まずは、信用金庫前に立っていた河童。

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●・・・・・・・・・・・・次なる河童は、自らを「縛られ河童」と名のっている。 摘み食いしたので、レストラン前に立っているのか?

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●・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通り曹源寺近くに、河童の像のモニュメントがあり、『ここが台東区のまん中 つまり「へそ」といわれている』と標されている。 この像、よくよく見ると女性の河童のようで、可愛い色気がある。

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●・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りのほぼ中間地点に、曹洞宗の曹源寺がある。 曹源寺は、吉祥寺5世用山元照大和尚(慶長3年(1598)歿)が現在の丸の内に開山した、その後湯島を経て現在地へ移転した。、、、、文化11年(1814)、私財を投じて水路を造った合羽屋喜八が没し、菩提寺であるここ曹源寺に葬られた。 そして寺には、河童大明神が祀られ、   商売繁昌・火水難除などに霊験著しいといわれている。 寺はかっぱ寺と呼ばれている。 堂の中には、河童が描かれている。

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●・・・・・・・・・・・曹源寺前の肉屋さんには、これまた奇妙な河童が二匹。

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●・・・・・・・・・・・曹源寺前のかっぱ橋本通り。

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●・・・・・・・・・・・・松が谷2丁目の角にあるタバコ屋さん。 建物は、数年前に外部を塗り直し、サッシも取り換えたが、戦前の看板建築である。

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●・・・・・・・・・・・松が谷3丁目付近のかっぱ橋本通りは、「かっぱ橋かおう会商店街」。 かっぱ橋本通りのほぼ中間に位置する延長400mの商店街。 昭和4年(1929)「華王会」として結成した古い商店街である。

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●・・・・・・・・・・・セトモノ屋さんの前に立つ河童。

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●・・・・・・・・・・・・・合羽橋交差点。 交差する広い通りは「かっぱ橋道具街」。 今や、外人観光客が喜ぶ観光スポットの一つ。

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●・・・・・・・・・・・かっぱ橋道具街と国際通りに挟まれた部分が、「公西会商店街」。 本通りの中では、もっとも浅草寄りにある商店街。

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●・・・・・・・・・・・・店番している河童。

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●・・・・・・・・・・・・薬局前で、逆立ちする河童。 

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●・・・・・・・・・・・・物産店の前で、退屈そうな河童。

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●・・・・・・・・・・・・最後は、国際通りに出て、かっぱ橋本通りもここまで!

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●・・・・・・・・・・・これから先は、観音様に手を合わせ、用事を済ませて帰宅。

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2016年5月23日 (月)

八広~平井

京成押上線八広駅から、総武線平井駅まで、1万歩、7kmの散歩です。



①八広駅
・・・・・・・・大正12年(1923)7月11日、荒川放水路(現:荒川)の土手上に「荒川」駅として開業した。 平成6年(1994)4月1日、荒川駅を「八広駅」に改称。、、、、、駅名の「八広(やひろ)」は、昭和40年(1965)の住居表示実施のとき、8町が合併して成立することになり、“八”の字を採り、さらに八の字の“末広がり”から“広”を借用し、「八広 」と名付けられた。、、、、、平成9年(1997)から平成11年(1999)にかけ、荒川橋梁の架け替え工事に合わせ、単式ホームの1番線(上り線)と、島式ホームの2・3番線(下り線)を有する高架駅となった。、、、、、高架ホーム下の荒川寄り、奥まった位置に、駅出入り口があり、駅前商店街、駅前旅館、駅前パチンコ屋、駅前ソバ屋、いずれも見当たらない。 面白味のない駅だ!

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・・・・・・・・・・・・・ホームの端から、京成押上線荒川橋梁はスグ目の前である。 川向こうの四ツ木駅 と似た造りである。

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京成押上線荒川橋梁
・・・・・・・・・・・平成4年(1992)の架け替え工事着手時には、荒川の水面から約4.3mの高さに橋梁の桁下があり、橋桁に船が頻繁に衝突する状態だった。また、地盤沈下により堤防の高さよりも橋梁は低い位置に在った。(京成本線荒川橋梁でも、同一の事象が発生しているが、未解決である。) 国交省は約400億円の事業費で橋梁の架け替えを行い、平成11年(1999)に現在の荒川橋梁の共用が開始された。 現在の荒川橋梁は川の水面より8.3mの高さに桁下があり、堤防よりも高くなっている。、、、、、、7径間下路ワーレントラスの構造で、複線軌道により全長473m、平成14年(2002)に竣工。

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③木根川橋
・・・・・・・・・・・・・京成押上線荒川橋梁の下流に架かる木根川橋(きねかわばし)。 墨田区八広と葛飾区東四つ木を結び、昭和44年(1969)に完成した。 橋の長さは466m、片側1車線で、幅の狭い橋だが、トラスのシルエットが美しいトラス橋である。

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④八広・東墨田の町
・・・・・・・・・・京成押上線の南側、墨田区八広と東墨田の町界付近をブラブラ。 この付近には豚皮の加工工場が多く、町を歩くと鞣し革の匂いと薬品の匂いが混ざったような独特の臭いがする。 申し訳ないが、私には、この臭いは好きになれないね。、、、、、今日の散歩では、革の工場をチョイと避けて歩いてきた。

・・・・・・・・・・・・・・墨田清掃工場の煙突を仰ぐ、東墨田2丁目。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和58年(1983)に建てられた、総戸数69戸の都営墨田二丁目アパート

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・・・・・・・・・・・・・・何だか年代物の建物のように見える墨田区社会福祉会館

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・・・・・・・・・・・・・・革の工場だけでなく、プラスチック製品、ガラス製品、機械部品工場など、いろいろな工場の町でもある。

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・・・・・・・・・・・・・巨大な墨田清掃工場。 333億円の費用と約3年半の建設期間を要し、平成10年(1998)に建てられた。 焼却能力は600トン/日で、余熱を利用した発電では13,000kWの出力がある。 また、近隣の健康施設への余熱供給も行われている。

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・・・・・・・・・・・・・・清掃工場の隣には、余熱を利用したプールがある「すみだスポーツ健康センター」が設置されている。

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⑤平井橋
・・・・・・・・・・墨田区立花と江戸川区平井を結び、旧中川に昭和55年(1980)に架けられた平井橋。、、、、、、護岸は整備され、自然の景観に近づいた。 いいね!

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⑥平井駅
・・・・・・・・・・・明治32年(1899)4月28日、総武鉄道の駅として開業。  明治40年(1907)9月1日、総武鉄道が国有化され、官設鉄道の駅となる。 

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2016年5月22日 (日)

四ツ木~牛田

京成押上線四ツ木駅から、堀切菖蒲園に寄って菖蒲の咲き具合をチェックし、堀切橋を渡って東武スカイツリーライン牛田駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



四ツ木駅
・・・・・・・・・・・荒川と土手を挟み並行して流れる綾瀬川に接するように四ツ木駅がある。 駅は大正元年(1912)に開業し、大正12年(1923)には荒川放水路(現:荒川)の開削に伴い現在地に移転。 平成11年(1999)には京成押上線の荒川橋梁架け替え工事に伴い相対式ホーム2面2線の高架駅となった。、、、、、、京成線の都内の駅の中では、ダントツに乗降客(一日14,000人程度)の少ない駅である。 駅周辺には、何もない、あるのは雑草の生えた空き地と「四つ木の灸 」。

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②四つ木の町
・・・・・・・・・・駅周辺は、木造家屋が密集し、金属加工の家内工場などもある、住宅と工場の混在する地域である。 昭和の下町を求め、駅から北に向かい、裏道を歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・・・隣の立石駅寄りに、大型店舗のヨーカドーがあり、駅前の「まいろーど四つ木商店街」は壊滅状態である。、、、、、商店街を元気にする“赤まむし”のような特効薬はないかな?

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・・・・・・・・・・・・・・・商店街の中程から西に折れると、西光寺がある。、、、、、、葛西郡渋江郷(現:四つ木)の領主だった葛西三郎清重の館に親鸞上人が逗留し、自ら阿弥陀如来の像を画いて与えた。 清重は随喜のあまり聖人に帰依し、浄土真宗雨降山西光寺として嘉禄元年(1225)に創建した。 その後、寺は衰退し無住状態となった。 寛永年間(1624~43)に天台宗の僧が止宿して、由緒ある寺の法灯が絶えることを惜しみ、浅草伝法院の門末:超越山西光寺として再興した。

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・・・・・・・・・・・・・四つ木の町の中央を国道6号(=水戸街道)が突き抜ける。

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・・・・・・・・・・・・・・四つ木の町の電柱には、「3.0m」と表示されている。 町の西側を流れる荒川が氾濫すると、3m以上浸水する可能性ありと、注意を促す表示である。、、、、、表示されている電柱のはるか上部(2階の窓の下あたり)に赤いテープが貼られ3.0mの位置が示されている、この地域の住民はさぞ怖いことだろう!

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③堀切四季のみち
・・・・・・・・・・堀切1丁目付近に、「堀切四季のみち」がある。 春には121本のソメイヨシノが桜色のトンネルを作る、下町の桜の名所だ。 全長約1kmの桜の並木は、かつては用水路だった。

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④堀切菖蒲園
・・・・・・・・・・・・・菖蒲にはチョイと早いが、立ち寄ってきた。、、、、江戸時代、百姓の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まり。 「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・歌川広重の浮世絵にも登場する。 戦前まで、堀切には武蔵園、吉野園、観花園、小高園、堀切園などの菖蒲園があった。 昭和34年(1959)、堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。 昭和50年(1975)に葛飾区へ移管され、現在に至る。 現在は、貴重な江戸系ハナショウブを中心に約200種類、6000株のハナショウブが植えられている。、、、、、、6月には「葛飾菖蒲まつり」も開かれ、町全体がにぎやかに彩られる時期をむかえます。 町では、アジサイも咲き彩を添え、友情出演する!

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⑤堀切橋
・・・・・・・・・・・東京都にあり荒川と綾瀬川に架かり、橋の西岸は足立区柳原、東岸は葛飾区堀切を結んでいる。 全長514.5m、幅17mの現在の堀切橋は、昭和42年(1967)に架けられた。 それ以前は、大正13年(1923)に木桁橋として架けられたが、戦時中破損し現在の橋に架け替えられた。

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⑥京成本線荒川橋梁/綾瀬川橋梁
・・・・・・・・・・堀切橋の上流側に並行して架かる荒川橋梁/綾瀬川橋梁は昭和6年(1931)に完成し、同時に青砥駅~日暮里駅間が開業した。 全長446.99mの橋梁である。 橋梁は両端が6スパンの単線上路式プレートガーター橋、中間が3スパンの複線下路式曲弦ワーレントラス橋である。 トラスは東京石川島造船所製である。 施工は大林組。、、、、、この荒川橋梁は、桁下が荒川上下流の周辺の堤防に比べて約4m低く、治水上の弱点となっている。架け替えに向け設計中らしい。

・・・・・・・・・・・・・・綾瀬川橋梁

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・・・・・・・・・・・・・・・荒川橋梁

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・・・・・・・・・・・・・・堤防との取り付け部分。 荒川橋梁の方が堤防や、隣の堀切橋より低く、荒川が氾濫する場合、ここからか? 都民の命が懸かる京成本線荒川橋梁なり!

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⑦牛田駅
・・・・・・・・・・・昭和7年(1932)に開業した下町の駅。 京成電鉄本線の京成関屋駅とは、道路を挟み向かい合わせにある。

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・・・・・・・・・・・・・・もちろん、快速、急行、特急は、通過していく。

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・・・・・・・・・・・・・・「うしだ」を見る客の“うしろだ”。 苦しい、親父ギャグ。

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2016年5月20日 (金)

金町~亀有

京成金町駅から、東京理科大を抜け、飯塚橋を渡り、亀有駅まで、1万3千歩、9kmの散歩です。



京成金町駅
・・・・・・・・・・明治32年(1899)に金町線の前身である帝釈人車軌道の金町駅が開業した。 大正2年(1913)10月21日、私が誕生する丁度33年前に、京成電気軌道は人車軌道を改軌して柴又~金町間に乗り入れた。 これにより、押上~高砂~金町が京成で結ばれ、乗客の利便性は向上した。、、、、現在の京成金町駅は、単式ホーム1面1線の地上駅。 日中は15分間隔で4両編成の電車が発着している。、、、、、単線の終着駅、ホームと道路の段差が小さい地上駅、ローカル色の残る駅である。

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②金町末広商店会
・・・・・・・・・・・・・・京成金町駅を出て、JR線に沿い西側に金町末広商店会がある。 加盟店舗数は50店程で古い商店街の佇まいを色濃く残しているが、チョイと寂れてきたかな?

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③赤レンガ倉庫
・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・金町駅から西に700m程の位置に、昭和43年(1968)竣工、東急建設施工の東葛西架道橋がある。 ここを抜けると東京理科大学葛飾キャンパス に続く。

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・・・・・・・・・・・・・・東葛西架道橋を抜けてJR常磐線の北側に出ると、赤レンガの倉庫が2棟、“立ち入り禁止”の状態で、ひっそりと残されている。、、、、、、この地(東京理科大のキャンパスの敷地も含め)にはかつて三菱製紙中川工場があった。 平成15年(2003)に工場は閉鎖され、赤レンガ倉庫が2棟と地球釜が残された。、、、、、、倉庫の今後の利用については謎となっている。 倉庫には「UR都市機構」名で、不法投棄禁止の表示があるので、所有者はURか? いつまでも、雨ざらしは可愛そうだね!

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・・・・・・・・・・・・・・理科大キャンパスと一体となった公園には、三菱製紙中川工場で、古紙を再生する際に使われた地球釜がモニュメントとして残されている。

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④都営南水元一丁目第2アパート
・・・・・・・・理科大を抜け北へ進むと、都営住宅が見えた。 昭和60年(1985)から翌年にかけ建てられた団地である。 8棟、273戸の普通の団地。、、、、、団地の中を、冷やかしの素通りで、御免。

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⑤飯塚橋
・・・・・・・・・・葛飾区南水元と足立区大谷田を結び、中川に架かる飯塚橋。 平成6年(1994)、現在の橋に架け替えられた。、、、橋長:303.0m、幅員:20.2m、形式:鋼箱桁、鋼鈑桁。、、、、、昭和25年(1950)、旧飯塚橋が架橋されるまでは、ここに渡し舟が運行されていたそうだ。 

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⑥中川公園
・・・・・・・・・・飯塚橋を渡り足立区に入ると、中川水再生センター(下水処理場)を挟み2地区に分かれて中川公園がある。 再生センター内は立ち入り禁止のため、公園を通り抜け春を実感してきた。、、、、ザクロ、ビワ、アジサイ、只今準備中です、しばしお待ちを!

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⑦亀有駅
・・・・・・・・1897年(明治30年(1897)、日本鉄道の駅として開業。、、、、、上野方面行きの電車は全て地下鉄千代田線となり、北千住で乗り換えが必要で、チョイと不便だ。

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・・・・・・・・・・・・・・コミック「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公:警察官両津勘吉の像などが亀有公園、亀有駅、香取神社など駅周辺に点在している。 私はコミックを見ていないので、興味はないが、好きな人は像巡りをしているそうだ。、、、、駅前のバス停と亀有公園で。

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2016年5月19日 (木)

東十条~大師前

昨日は赤羽駅、今日は手前の東十条駅から歩いてみた。 駅から東に向かい、西新井大師の最寄り駅:大師前駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。



東十条駅北口
・・・・・・・・・・京浜東北線の前身である京浜線が、赤羽まで延伸された昭和6年(1931)8月1日、途中駅として「下十条駅」 が開業した。 下十条駅が「東十条駅」に改称したのは、昭和32年(1957)である。、、、、2つの島式ホームで中線1本を挟む2面3線の地上駅。 改札口はホーム両端の跨線橋上にある。 北口は改札を出ると橋上で東西に分かれ、西側は台地の崖上に出る、東側は東十条商店街に出る。

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・・・・・・・・・・・・・・駅前から「東十条商店街」が東に向かい約800m伸びている。 地下鉄南北線が地下を走る「北本通り」まで続く、長~い商店街だ。 朝は店も開いておらず、ひたすら駅に向かうサラリーマンを避けて歩くことになる。

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・・・・・・・・・・・・・東十条商店街の端は、北区神谷1丁目の北本通りの交差点である。

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②道なりに進む
・・・・・・・・・東十条商店街から、北本通りを横切り、さらに道なりに先へ進む。

・・・・・・・・・・・・・・神谷1丁目あたりは、マンション、URの住宅などが建ち並ぶ、、、、

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・・・・・・・・・・・・・「東京成徳大学 中学校・高等学校」の校舎(北区豊島8)が、、、、、大正15年(1926)の創立。 青江三奈の母校。

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・・・・・・・・・・・・・道は、北区豊島7丁目で、真言宗豊山派の清光寺にぶつかる。 清光寺は、豊島清光が開基となり創建、鎌倉期は大寺でしたが、太田道灌との戦いに敗れた豊島泰経とともに衰退、戦国時代末期の豊島明重が再興した。

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新田橋
・・・・・・・・・・・・隅田川に架かり、北岸の足立区新田地区と、南岸の北区豊島地区を結ぶ新田橋(しんでんはし)。 5径間単純鋼桁橋で、橋長は114.0m、幅員は9.0m、昭和36年(1961)の竣工である。、、、、かつての木橋時代の橋脚を模して、A字型の橋脚として、古き橋を偲ぶデザインとなっている。、、、、、この橋は都が架けたものではなく、北区が架けた橋である。 予算がないのか?、高欄の塗装などが剥げ落ちている、早く修理して!

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④荒川堤防
・・・・・・・・・新田橋を渡ると足立区新田地区である。 新田は隅田川と荒川に囲まれた三角州のような地区である。、、、、、新田の荒川岸は高い堤防で守られているが、下から見ると、谷底から見上げるようだ。 上から見ると、5階ぐらいから見下ろすようだ。 チョイと高すぎるね!

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⑤鹿浜橋
・・・・・・・・・・・・荒川に架かる環状七号線の橋。南岸の足立区新田と北岸の足立区鹿浜をつなぐ橋として、昭和40年(1965)に開通した。 橋長は451.3m。

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⑥鹿浜虫切り
・・・・・・・・・・・鹿浜橋を渡り、鹿浜1丁目に入り脇道に「鹿浜虫切り」の看板を見つけた。 地元では有名な鍼灸院らしい。(私の住む、浅草橋では聞いたことがないね。)、、、、“虫切り”とは、奈良時代から伝わる、夜泣き、ひきつけ、食が細いなどの、赤ちゃんの“かんの虫”を抑える療法。 かんの強い赤ちゃんの神経をほぐし、穏やかな心を促進するといわれています。、、、、屋敷のような門構えの、“ありがたい”鍼灸院のようだ。、、、、できれば、妻の癪の虫と、我が腹の虫も退治してほしいね。

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⑦環七通りをひたすら歩く
・・・・・・・・・鹿浜虫切りをあとにして、鹿浜交差点から環七通りを歩くことにした。 幹線道路は大きな建物、新しい建物、ファミレス、中古車販売などが並び、散歩では、私好みの見るべきものが少なく、スタコラサッサ、ホイサッサと歩けるのだ。、、、、、鹿浜交差点から、大師線大師前駅までは、約3kmのほぼ直線道路。

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⑧大師駅
・・・・・・・・・・東武大師線 の終着駅。 単式ホーム1面1線の高架駅である。 現在の駅は平成3年(1991)に完成。

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2016年5月18日 (水)

赤羽の団地

赤羽駅で下車し、『どっちの方角に歩こうか?』と自問。 『チョイと、久しぶりに来たので、赤羽台団地でも見て行こうか。』と自答。 赤羽台団地に足を踏み入れ、ついでに隣の桐ヶ丘団地にも寄ってみた、広い団地で適当に歩いていたら、タイムアウト!。 結局、赤羽駅に戻り、1万歩、7kmの散歩となった。



赤羽駅
・・・・・・・・・・・明治16年(1883)に上野~熊谷間(日本鉄道)が開通したが、この時はまだ赤羽駅はできてなかった。 明治18年(1885)3月1日、大宮方面から品川に向かう路線(現:埼京線、その前は赤羽線。)の分岐駅として赤羽駅が設置された。、、、、一日約9万人が乗車する駅であり、埼京線、京浜東北線、宇都宮線、高崎線、湘南新宿ラインの乗換駅でもある。 朝の通勤時間帯、乗換客でホーム下の通路は、もの凄い人の流れである。

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②大坂
・・・・・・・・坂の案内には、『この坂は、赤羽根駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂(おおさか)の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また、政右衛門坂(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます。』と、標されている。、、、、どこにでもある、何の変哲もない坂。 なぜか、懐かしさを感じる、私の好きな坂。

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赤羽台団地
・・・・・・・・・・・大坂を上ると、そこは赤羽台団地である。、、、、、昭和37年(1962)から、日本住宅公団による、東京23区内では初めての大規模団地として建設された。 全55棟、3373戸。、、、、、赤羽台団地では、建物の老朽化、耐震上の課題などもあり、平成12年(2000)に建替え事業に着手した。 平成18年(2006)から、「ヌーヴェル赤羽台」として、順次、新しい建物に生まれ変わっている。

・・・・・・・・・・・・・・大坂を上がると、錆の出た古い案内図がある。 よく見ると、団地左側にはヌーヴェル赤羽台A・B・C街区が加筆修正されている。 しかし、これもまた古くなった、現在はD街区も誕生している。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和37年の建物か? 棟番号が一桁の棟が並んでいる。、、、、いずれ建て替えられる運命だ!

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・・・・・・・・・・・・・・団地内に祀られている猿田彦大神、、、、、、神社というより祠である。、、、、“猿田彦”はコーヒーの神様ではなく、道祖神信仰と結びつき、性にまつわる信仰の部分だけを取り出したようなチョイとスケベな神さまで、男女の縁結び、出産、性病治癒などに霊験ありと言われている。 建築の神様でもある。

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・・・・・・・・・・・・・・団地内に残るスターハウス、、、、、、昭和30年代に建てられた、星型住宅(平面を見ると、中央に階段があり、3方向に部屋が配されている)が、ここには4棟残されている。、、、、、公団では昭和39年(1964)に名和団地(愛知県)でのスターハウスを最後に建築していない。 貴重な建物である。

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・・・・・・・・・・・・・ヌーヴェル赤羽台、、、、、、各街区は中央に駐車場を配して、四角く囲むように高層の棟が建っている。
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④法善寺
・・・・・・・・・・・♪♪包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修行 ~~~♪♪は、藤島桓夫が歌う「月の法善寺横丁」。  ♪♪赤い夕映え 通天閣も 染めて燃えてる 夕陽ケ丘よ 娘なりゃこそ 意地かけまする  ~~~ 恋の思案の法善寺 ~~~♪♪は、フランク永井が歌う「大阪ぐらし」。、、、、、どちらも大阪の法善寺が舞台の、いい歌だ。、、、、、法善寺の参道を、雪駄をつっかけ、懐には包丁をしまい、雪の中行く我が姿。 横に唐傘を差し向ける我が恋女房。 いいね、映画のワンシーン。、、、、、現実は、暖簾のさがる横丁はなく、恋と意地をかける水掛不動もない、あるのは法善寺幼稚園。 こちらは、赤羽の法善寺だ。、、、、、大正12年(1923)、浅草清島町から現在地(赤羽台)に移ってきた浄土真宗の法善寺。

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桐ヶ丘団地
・・・・・・・・・・・・赤羽台団地の西側に広がる都営アパート。 北区桐ヶ丘の町の大部分が都営住宅で占めている。 桐ヶ丘には、「都営桐ヶ丘アパート」として昭和34年(1959)~昭和50年(1975)にかけて建てられた、約140棟、総戸数約2200戸と、「都営桐ヶ丘一丁目アパート」として平成10年(1998)~平成21年(2009)に建てられた、約40棟、総戸数約2000戸がある。、、、、、今日の散歩は、団地内に緑の多くし、小さな棟を多く配した、北側の地区を重点的に歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・・・北側地区の案内図も色あせ、作り直して欲しいね。

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・・・・・・・・・・・・・・南側に増築し部屋を広げた棟が多くみられるが、北側は古さが目立つ。

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・・・・・・・・・・・・・給水塔は静かに団地を見下ろしている。

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・・・・・・・・・・・・・桐ヶ丘団地では、昭和30年代のスターハウスに変わり、昭和40年代の四角いボックス型のポイントハウスが残っている。

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・・・・・・・・・・・・・・・緑の多い明るい団地だが、住んでる人は高齢者が多いようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・東側地区、西側地区は緑も少なく、中・高層の建物が道路に面して並ぶ。

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・・・・・・・・・・・・・・桐ヶ丘中央商店街、、、、、、団地の中央に位置し、30店舗以上が店を開けているはずだが、空いてる店は5店舗ぐらい。 他の店は、シャッターが下りっぱなしのようだ。、、、、、真昼のゴーストタウン?
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・・・・・・・・・・・・・・・店の前に便器!、、、、、誰がここでやるのだ? 商売の邪魔、早くどかして!

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2016年5月16日 (月)

六郷橋

京浜急行六郷土手駅から、六郷橋を渡り京急川崎駅まで、1万歩、7kmの散歩です。



①六郷土手駅
・・・・・・・・・・・京浜電気鉄道の六郷堤駅として、明治39年(1906)に開業。 昭和46年(1971)に六郷川橋梁の架け替え工事に合わせ、相対式2面2線の高架駅となる。 ホームの南端は多摩川に架かる六郷川橋梁 の直前まで伸びている。、、、、、23区最南端の駅である。 私の住む浅草橋より、チョイとは暖かいかも?

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②北野神社
・・・・・・・・・・六郷土手駅と六郷橋北詰の間にある北野天神。 創建年代不詳。、、、、、徳川八代将軍吉宗が乗った馬が暴走したとき、北野天神のご加護のおかげで、落馬を免れたとされたことから「止め天神」と呼ばれている。 以来「落馬止め」が転じて「落ちない」につながり、合格祈願、学業成就、五穀豊穣、雷除けなど、「落ちない」ことに関しご利益が期待できるらしい。、、、、昭和20年(1945)の空襲により社殿は焼失し、昭和58年(1683)に再興した。

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・・・・・・・・・・・・・・・『河原橋』と彫られた踏み石が境内に残されている。 「河原橋」は、六郷の渡しに行くのにどうしても渡らなければならなかった橋で、その橋の踏石。 両側がよしやぶで、人目につかない河原橋は村の若い男女が、人知れず忍び会う橋でもあった。、、、、星も隠れた、曇天の暗い場所、もし2組のカップルが同時刻に忍び合い、相手を間違えたら、幸か、不幸か? これも江戸時代のロマンスか?

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③六郷橋
・・・・・・・・・六郷川(多摩川)には、江戸時代初期:家康が架橋を命じた「六郷大橋」があった。橋の長さは200m程あり、まさに大橋であったが、貞享5年(1688)の大洪水で橋が流失してからは、幕府も再架橋を断念していた。 明治期には木造の左内橋が架けられた。 その後、近代化が求められ、大正9年(1920)に着工し、大正14年(1925)にタイドアーチ式の旧六郷橋が完成した。 昭和60年(1985)、旧六郷橋は現六郷橋に架け替えられた。

・・・・・・・・・・・・・・昭和50年代の旧六郷橋、川崎側から奥の大田区側を望む。(平成15年10月17日 国土交通省川崎国道事務所:発行のパンフレット「旧六郷橋 親柱物語」より) 

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・・・・・・・・・・・・・・北詰(大田区側)の宮本台緑地公園に旧橋の橋門と親柱が当時のまま保存されている。

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・・・・・・・・・・・・・現在の六郷橋、、、、、、北詰(大田区東六郷)と南詰(川崎市川崎区本町)を結び多摩川(六郷川)に架かる、国道15号(第一京浜国道)の橋である。旧橋と対照して新六郷橋とも呼ばれる。、、、、、昭和54年(1979)に着工し、段階的に工事を進め、昭和59年(1984)に旧橋の上流側に新橋の一部が完成する。 その後も工事は続き、昭和62年(1987)に橋梁部分は完成した。 引き続き、工事はランプウェーの構築、周辺整備などが行われ、最終的に現在の姿になったのは、平成9年(1997)である。 総工費は約125億円と言われている。、、、、、、六郷橋は、長さ443.7m、幅34.4m。、、、、橋は、上下線分離され2本架けられている。

・・・・・・・・・・・・・大田区側から撮影

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・・・・・・・・・・・・・橋上から撮影

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・・・・・・・・・・・・・川崎市側から撮影

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④六郷橋駅跡
・・・・・・・・・・六郷橋の南詰(川崎市側)の橋下を京急大師線が走っている。 大師線が六郷橋上り線(東京方面行き)の下を通過する位置に、駅の跡が残されている。、、、、、、かつて京浜急行の前身である大師電気鉄道は、明治32年(1899)に川崎駅(初代)~大師駅間を開業した。 明治35年(1902)には、(初代)川崎駅~(2代)川崎駅(現:京急川崎駅)まで線路を延長し、川崎駅(初代)は六郷橋駅と名称変更した。 大正14年(1925)、旧六郷橋が架橋され大師線は立体交差となり、これより大正15年(1926)線路も変更されて、2代目の六郷橋駅が開業した。 2代目の六郷橋駅は戦時中に営業を休業し、昭和24年(1949)に廃止となった。、、、、2代目の六郷橋駅跡は六郷橋上り線側の人道から見下ろすことができる。 ホーム幅は狭く、長さも2両編成分ほどと短い。

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・・・・・・・・・・・・・・付近を通過する、現在の大師線。、、、、、3両編成でゆっくりと通過していく。

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⑤川崎市役所本館
・・・・・・・・・・・川崎駅に近い宮本町に建つ、市役所本館だが、耐震性能が低く今年度中に取り壊されることとなった。 すでに、建物は閉鎖されている。、、、、、時計台が印象的な、タイル張りのシンプルなデザインの鉄骨鉄筋コンクリート造、4階建ての庁舎。 設計は元田稔、施工は直喜鋳鋼鉄工所、昭和12年(1937)竣工。、、、、、内部も見たくなったが、警備が厳重で、忍び込むことは断念した。

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⑥砂子の里資料館
・・・・・・・・・・川崎駅に近い川崎市川崎区砂子(いさご)に、元参議院議員の斎藤文夫氏が、コレクションした浮世絵を展示する、旧東海道沿いにある私立美術館がある。 平成13年(2001)にオープンしたなまこ壁の建物は、江戸町屋風のデザインである。、、、、、ただいま、三代目歌川豊国の作で、東海道53次の宿場に名所と歌舞伎役者をコラボした浮世絵をが展示されている。、、、、、大変貴重な浮世絵だそうで、若い娘は一人もおらず、十人ほどのお年寄りが鑑賞していた。 私も仲間に入れてもらい鑑賞。

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⑦京急川崎駅
、・・・・・・・・・・・明治35年(1902)川崎駅として開業した。 昭和41年(1966)には、高架駅となり、本線は2階、大師線は1階となる。

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2016年5月14日 (土)

三社祭

今日は中学校のクラス会。 私の中学校は男子校だったので、集まる仲間は還暦をだいぶ昔に祝った爺さんばかり。 一輪の花もなく、姥桜もない、にぎやかなクラス会であった。

クラス会は浅草で行われたので、会場に行く前に、三社祭 (5月13・14・15日)に寄ってみた。

●・・・・・・・・・・・・・雷門は、担ぎ手と、見物客と、観光客と、警察官で、超満員。

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●・・・・・・・・・・・・・鯔背な兄さん、粋な姉さん、あっちにも、こっちにも!

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●・・・・・・・・・・・・雷門に不審な紙包みが?、、、、爆買い観光客の食べ残しの包みのようだ。、、、、お巡りさん、警備にご苦労さん。

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●・・・・・・・・・・・ポーズを決める外人さん

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●・・・・・・・・・・・おみやげに何を買おうか、迷っちゃう!

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●・・・・・・・・・・・テキサスから来られた人か? かっこいいね!、、、、カメラも小さく見えて、貫禄十分!

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●・・・・・・・・・・・こちらの美人四人は、隣の韓国からか? 四人揃って、ハイポーズ!

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●・・・・・・・・・・・仲見世の横にも、神輿が来た!  しっかり担げよ!

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●・・・・・・・・・・・本堂前に、町内神輿の渡御。 人を掻き分け、俺も見たいよ、見せてくれ!

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●・・・・・・・・・・・おや!次は、子供神輿だ。 そして後ろに、ベビーカーの親分が。

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●・・・・・・・・・・・みんな、いい顔してるね。 男に惚れられる男!

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●・・・・・・・・・・・本堂で手を合わせ。 美人には目くばせし、キッと睨まれ、はずかしや!

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●・・・・・・・・・・・そうだ『三社祭り』だ、三社さま(浅草神社)に参拝して行かないと、、、、

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●・・・・・・・・・・・そろそろクラス会の時刻、、、、これにて、祭り見物は“the end”

2016年5月12日 (木)

鶯谷~御徒町

昨日は腰が痛く整形外科で腰を引っ張ってもらった。 今日は、一昨年に手術した大動脈解離の、その後についてCT検査などの定期検診。 もちろん、結果は良好。 明日は、循環器の定期診断と、頭の四大病(ボケ、脳卒中、くも膜下出血、あれもうひとつ?)をMRIによる予防検診。 連日の医者通いで、ゆっくり散歩もできず、今日は夕方近くに歩いてきた。

鶯谷駅から、上野公園の周り(上野桜木、池之端、御徒町)を歩き、御徒町駅まで、1万歩、7kmの散歩です。



①寛永寺坂橋
・・・・・・・・・・・鶯谷駅 の北西で、JR線(山手線、東北本線など)に架かる跨線橋。 橋の上を通るのは言問い通り。、、、、橋の東端は台東区根岸でラブホテル街、西端は上野公園に続く台地上の上野桜木の町で住宅と寛永寺。、、、、、、昭和3年(1928)に竣工。

・・・・・・・・・・・・・鶯谷駅ホーム端から見る寛永寺坂橋。

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・・・・・・・・・・・・・・鶯谷駅から、なんとなく恥ずかしい気持ちでホテル街を抜ける。

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・・・・・・・・・・・・・・老朽化してきた寛永寺坂橋。

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②上野トンネル
・・・・・・・・・・・・寛永寺坂橋を渡り上野桜木2丁目に京成電鉄の上野トンネルがある。 ここから、上野公園の西郷さん銅像下の京成上野駅までトンネルは続く。、、、、、昭和8年(1933)完成。、、、、、、トンネルを入ると、50mもいかずに寛永寺坂駅跡を通過する。 窓越しに、よく見ていると、暗闇の中にホーム跡が見えるはず。
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③上野桜木の建物
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・言問い通りにめんした、元おでん屋さん。 この界隈にては、名物店であった趣きのある、おでんの提灯の似合う一軒家。、、、、、残念ながら、数年前に廃業しました。

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・・・・・・・・・・・・・・SU邸、、、、、、左側が洋風、右側が和風の折衷建築は、大正10年(1921)に建てられた。、、、、表札、郵便受けにテープが貼られていた、取り壊されるのか?

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・・・・・・・・・・・・・・桃林堂上野店、、、、、、、、大阪は八尾に本店がある大正14年(1925)創業の和菓子屋。 上野店は藝大前の通りをぬけたところに在る。、、、、、、こちらの名物「小鯛焼」も、ぜひ、自分で足を運び賞味してください。
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・・・・・・・・・・・・・・・市田邸、、、、、、、日本橋布問屋の隠宅として明治40年(1907)頃に建てられた、寄棟造、桟瓦葺、押縁下見板張の木造2階建住宅。 国の登録有形文化、、、、、、玄関前の木が茂り、正面は良く見えず残念である。

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・・・・・・・・・・・・・・・OI邸、、、、、、、、、年代?

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④池之端の建物
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・清水坂の煉瓦蔵、、、、、、、動物園裏の池之端4丁目にある清水坂、そこに煉瓦造りの蔵がある。 以前から何に使われているのか謎の建物。、、、、、昔の変電所で、現在は東京動物園協会倉庫かも?

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・・・・・・・・・・・・六龍鉱泉、、、、、、動物園裏の路地の奥にある老舗銭湯で、昭和6年(1931)に開業した。 建物は当時のまま。 お客も当時のまま?

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・・・・・・・・・・・・・旧忍旅館、、、、、、池之端3丁目に建つ元旅館、現在は個人住宅。 昭和4年(1929)に建てられた、木造3階+搭屋、モルタル塗りの建物は、一見石造りに見える。 各階の窓廻り、柱のデザインはバツグン!

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・・・・・・・・・・・・・森鴎外旧居跡、、、、、、、、動物園裏のホテル鴎外荘の内庭の中に、明治の文豪:森鴎外の旧居が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・池之端の食品ラベル印刷所「両山堂 」。、、、、、、、大谷石の建物は昭和29年(1954)に建てられた。、、、、、数年前までは、隣に印刷工場、住宅風建物などもあった。 今はマンションとなっている。

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⑤不忍池
・・・・・・・・・・・二人でボートはいいね。 このあと二人でディナー、そしてそのあとは、、、、、

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2016年5月10日 (火)

千葉寺

京成電鉄千原線の千葉寺駅から千葉大医学部まで、8千歩、6㎞の散歩です。



①千葉寺駅
・・・・・・・・・・千葉寺駅(ちばでらえき)は、千葉市中央区千葉寺町にある京成電鉄千原線の駅。、、、、、平成4年(1992)に、千葉急行電鉄の千葉中央~大森台間の開通に伴い開業した。 平成10年(1998)に、千葉急行電鉄は京成電鉄へ譲渡され、駅は京成千原線の駅となる。、、、、、千原線は全線複線化可能な状態で、用地取得や、駅・路線の建設などが行われたが、開通時より全線単線で営業されている。 そのため、千葉寺駅は相対式ホーム2面2線の駅として造られたが、現在は1面1線の高架駅として使用している。、、、、、駅名は「ちばでら」で近くのお寺は「せんようじ(千葉寺)」。 「あさくさ(浅草)」にある「せんそうじ(浅草寺)」、「くまがや(熊谷)」の「ゆうこくじ(熊谷寺)」と同類だ。

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②千葉寺
・・・・・・・・・・千葉寺駅から北へ600m程歩いた処にある千葉寺(せんようじ)。 真言宗豊山派の寺は海上山と号し、本尊は十一面観音である。

・・・・・・・・・・・・・・いまだ来たことのなかった寺なので、駅から適当に歩いたら、病院裏の急な坂を上がることになった。、、、、千葉寺は高台の上にある。

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・・・・・・・・・・・・・・・坂の上には、大網街道がとおり、文政11年(1828)の建築である仁王門は街道に面して建っている。、、、、、、仁王門は千社札をベタベタ貼られ、年寄りの膏薬のようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・・鐘楼も文政11年(1828)に建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・奈良時代の和銅2年(709)この地を訪れた行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したと言われている。1160年(永暦元年)に堂宇を焼失している。 千葉氏の居城である千葉城(亥鼻城)に近いことから千葉氏の祈願所となった。、、、、、、本堂(観音堂)は先の大戦で焼失し、昭和51年(1976)に鉄筋コンクリート造で再建された。

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・・・・・・・・・・・・・・・境内の大イチョウ、、、、、、、和銅2年(709)に行基がもたらしたといわれている。 観音様だけでなく、イチョウも持ってきた行基は、よく気の付く僧だね。、、、、樹高30m、目通り8mもある大イチョウとなった。 イチョウの乳房も大きくなり、婆さんの垂れ乳のようだ。

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③カトリック千葉寺教会
・・・・・・・・・・・千葉寺前の大網街道を北へ歩くと、小高い丘の上に十字架を掲げた教会があった。 教会好きの私は、即、お立ち寄り。、、、、昭和30年(1955)、聖コロンバン会によって約300坪の用地が取得され、翌年に鉄筋コンクリート造2階建ての司祭館と、半地下の旧聖堂(現在のホール)が完成した。 昭和42年(1967)には現在の聖堂が旧聖堂の上部に完成した。 シンプルな聖堂である。

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④妙導寺
・・・・・・・・・・カトリック教会のある丘の上の裏道を行くと、本門佛立宗の妙導寺があった。、、、、、「本門佛立宗」の寺は、浄土宗、日蓮宗などと比べると少ない。 我が祖父母は東京の乗泉寺(渋谷)の信者で、小学校入学までの我が身は、毎週、寺に付いて行ったことを覚えてる。 御経も、いまだ忘れずに記憶しているほどだ! 我が義父は妙要寺(小岩)の信者。 我が祖父母は西千葉の唱題寺に眠っており、我が身の合格祈願は清雄寺(本所)と、いずれの寺も本門佛立宗である。、、、、「本門佛立宗」の文字を見たら、手を合わせたくなった。 チョイと立ち寄り合掌!

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千葉大医学部
・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・妙導寺から、千葉市中央区葛城の裏道を歩いていると、向こうの丘の上に、見覚えのある千葉大医学部の建物が見えた。

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・・・・・・・・・・・・・・・以前来たのは2年前、『行かずばなるまい、男の義理だ!』と、勝手に思い、坂を下り、また上り、足が向かうは千葉大医学部!

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・・・・・・・・・・・・・着いた処は千葉大医学部本館。、、、、、、昭和11年(1936)に、柴垣鼎太郎(文部省)の設計、大林組の施工で建てられた、鉄筋コンクリート造4階建ての巨大な病院建築。 外壁はスクラッチタイル貼り、落ち着いた雰囲気の建物である。、、、、、チョイと内部も拝見。

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●・・・・・・・・・・・・・・・本館を見たところで、雲行きが怪しくなってきた。 千葉駅から帰宅することに、、、、、

2016年5月 8日 (日)

東京国立博物館

鯉のぼりは泳ぎ疲れ、来年までひと休みしたくなった、GW最後の日。 五月晴れの下、夫婦で東京国立博物館 へ行ってきた。 7千歩、5kmのプチ散歩。


●・・・・・・・・・・・GW最後の日、上野公園は、近場で間に合わせる人が溢れてる。 幼児連れは動物園、悪ガキ連れは科学博物館、仲良しカップルは西洋美術館の「カラヴァッジョ展」、骨董好きの夫婦は東京都美術館の「若冲展」、我々暇な夫婦にはたくさん観れて割安な国立博物館。 それぞれ行き先は違えど、上野公園は人・人・人、、、、

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●・・・・・・・・・・・・・外人観光客は、日の当たる公園で×××××。 我が夫婦も、「チラリ横目で 見て見ぬ振りを 若い二人が うらやまし」

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●・・・・・・・・・・・・東京国立博物館では、「黄金のアフガニスタン-守りぬかれたシルクロードの秘宝-」と、「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」の二つの特別展が開かれていた。、、、、、我が夫婦は、「黄金のアフガニスタン」を観ることにした。 どうも、金目(かねめ)のものに目が向く年寄りになったようだ。

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●・・・・・・・・・・・1979年からのアフガニスタン紛争で、アフガニスタン国立博物館の収蔵品に略奪・焼失の危機がせまる。 1989年、アフガニスタン国立博物館の館員たちは、秘宝を守るため秘密裏に収蔵品を運び出した。 1993年には博物館はロケット弾で、大きな被害を受け、収蔵品は永遠に帰らぬものとなったと、皆が思った。 2004年、博物館の館員たちが秘宝を隠していたのは、中央銀行の地下の金庫であった。 タリバン政権が崩壊し、アフガニスタンの黄金の秘宝が十数年の眠りから覚め、再びよみがえることとなった。、、、、そして今年、世界10か国を巡回した秘宝が、日本で公開されることとなった。、、、、、展示品は、紀元前2100年頃のインダス・メソポタミア文明時代の遺跡からの発掘品に始まり、1世紀の遊牧民の王族が身に着けていた豪華絢爛・アッと驚く金の装飾品の数々が、表慶館の1階・2階にズラリと並べられている。、、、、一つぐらい、ちょろまかしても気が付かないと思うぐらいの数。  (館内撮影禁止のため写真無し)


●・・・・・・・・・・・「黄金のアフガニスタン」を展示している表慶館。、、、、、建物は重要文化財。 明治42年(1909)、東宮皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚を祝う目的で開館した。 設計は宮廷建築家:片山東熊(かたやまとうくま)。 石造及び煉瓦造2階建て、ネオ・バロック様式の建物。

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●・・・・・・・・・・・・中央にデンとひかえる建物は、こちらも重要文化財の本館。 昭和7年(1932)に着工し、昭和12年(1937)に竣工し、翌年に開館した、帝冠様式の代表的建築である。 設計は、銀座のシンボル:和光ビル(服部時計店)などを手掛けた渡辺仁(1887~1973)。、、、、、、熊本地震を思い出し、この建物が地震で壊れないか気にかかる。 もし、壊れたら、日本の国宝を失ってしまうので、いまのうちに我が家で一・二点保管してあげようか?

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●・・・・・・・・・・・「生誕150年 黒田清輝」を開いている平成館。 皇太子徳仁親王(浩宮)の成婚を記念して、平成11年(1999)に竣工・開館した。 設計は安井建築設計事務所。、、、、今日は、こちらには入れず、建物だけ見てサヨウナラ!

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●・・・・・・・・・・・・こちらも、平成11年(1999)に竣工した法隆寺宝物館。 設計は、東洋館を設計した谷口吉郎の息子さん:谷口吉生(たにぐちよしお)です。 線の細い、綺麗な建物。、、、、いいね親子で、それぞれが設計した建物があるなんて。 うらやましい。

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●・・・・・・・・・・・谷口吉郎(1904~1979)の設計による東洋館。 昭和43年(1968)に開館した、中国、朝鮮半島をはじめ、東南アジア、インド、エジプトなどの美術品を展示している。、、、、、広い空間と太い柱が、寺の本堂にいるような静寂を感じさせる、私の好きな建物。

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●・・・・・・・・・・・・最高の美術品を鑑賞したあとは、東洋館隣のカフェで、私の好きなアップルパイ。、、、、ハート形の皿も似合う、我が夫婦。
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2016年5月 7日 (土)

大森~大井町

大森駅で下車し『どっちに行こうか?』、迷う男はホームで土器のブロンズを見たら、大森貝塚に行きたくなった。 今日の散歩は、大森から大井町駅まで、1万1千歩、8kmです。



①大森駅
・・・・・・・・・・・このブログにたびたび登場した大森駅。 明治9年(1876)に開業した、島式ホーム1面2線の駅である。 ホーム中央付近には、縄文式土器形のブロンズ像を飾った「日本考古学発祥の地」碑がある。、、、、、碑の側面には、『・・・・・アメリカの動物学者モース博士が1877(明治10年)横浜より新橋に向かう汽車の窓から 大森貝塚を発見し, これが契機となって日本の考古学が発達しました。・・・・・』と、標されている。

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・・・・・・・・・・・・・ホームの東京寄りに、橋上改札の北口がある。 きょうはGWに続く土曜日、まだ連休中のサラリーマンもいるようで、駅はすいている。

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②大森貝塚
・・・・・・・・・・・モース博士が発掘した処と言われている、大森貝塚の跡は2カ所現存する。 一つは、大田区のビル横を入った線路際の「大森貝墟」の碑が建つ処。 もう一つは、「大森貝墟」から約250m北に行った品川区の公園内にある線路際の「大森貝塚」碑の処。、、、、、、モース博士の発掘した位置の詳細が残されてなかったため、大田区と品川区で、こっちが“本家”、こちらは“元祖”の騒動となったが、現在では、証拠の古文書などもみつかり、品川区側がモース博士の発掘場所らしい。

・・・・・・・・・・・・大森貝墟の碑、、、、、、池上通り山王口交差点前、NTTデータ大森山王ビルの横を入って、階段を下ると、線路際に「大森貝墟」と彫った碑が線路側に向いて建てられている。、、、、、、車窓から一瞬見えるが、字まで読めない! 観光列車なら碑の前で速度を落とし、車内アナウンスでもあるのだが、京浜東北線だから無理だ!

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・・・・・・・・・・・・大森貝塚の碑、、、、、、池上通りをチョイと北上すると品川区に入る。 そこに大森貝塚遺跡庭園がある。 こちらも、庭園の奥に進むと、線路際に「大森貝塚」と彫った碑がある。、、、、、、庭園は、中央には霧が発生する広場があり、その周囲を回廊が囲み、横にモース博士の胸像が置かれ、縄文時代をイメージするように造られている。

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③桐畑地下道
・・・・・・・・・・・・・・大森貝塚遺跡庭園の北側に、JR東海道線・京浜東北線の地下を抜ける桐畑地下道がある。 以前、この地点には「桐畑踏切」があったが、事故も発生し危険なため平成5年(1993)に地下道に改装された。、、、、、、地下道中央の壁には、貝塚から出土した実物の貝殻を使用し、貝塚の断面が復元されている。 線路の真下の貝塚だ!
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④鹿島神社
・・・・・・・・大井6丁目に鎮座し、かつて大井村の鎮守であった鹿島神社。 安和2年(969=平安時代)に、南品川の常行三昧寺(現:常行寺)の僧が、現在地に隣の来迎寺と共に創建した。 常陸の鹿島明神を勧請したと伝えられている。、、、、、、現在の社殿は昭和6年(1931)に竣工した。 綺麗な屋根勾配の神社である。

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⑤来迎院
・・・・・・・・・・大井6丁目、天台宗寺院の来迎院は安和2年(969)に、鹿島神社と共に創建した。 もとは、鹿島神社の別当である。
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・・・・・・・・・・・・・・寺の前の道路工事により、境内は分断されたため、江戸時代の石仏が道路を挟み門前に祀られている。 

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⑥大井の建物
・・・・・・・・・・・いずれの建物も戦前の建築と思われる、、、

・・・・・・・・・・・・・・飯野装芸、、、、、、、、池上通りに面して建つ大井5丁目の表具、表装店。 木造3階建て+木造2階建て、モルタル塗り。 一見、鉄筋コンクリート風の造り。 おそらく戦前の建物だろう?

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・・・・・・・・・・・・・YO邸、、、、、、、、ハーフチェンバー様式の木造2階建て住宅(大井7)。 戦前に建てられたものか? 玄関には、円柱とステンドグラスが、チラリと見える。

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・・・・・・・・・・・・・・KI邸・・・・・・・・・・・・木造1階建て、昭和初期(?)の住宅(大井7)。 玄関部分は、寺のような彫り物で飾られている。

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・・・・・・・・・・・・・・HA邸、、、、、、、大井3丁目に建つ歴史のありそうな住宅。 

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⑦大井町駅
・・・・・・・・・・・大正3年(1914)、京浜線(後に京浜東北線)の運行開始と同時に旅客駅として開業した。、、、、、昭和2年(1927)には目黒蒲田電鉄(現:東急)大井町線が開業。平成14年(2002)東京臨海高速鉄道りんかい線の大井町駅が開業。、、、、、1面2線の島式ホーム、脇には東海道線の上下2本の線路がある。ホームの上は駅ビル「アトレ」。、、、、、、、そうだ! 私はまだ大井町駅から“りんかい線”に乗ったことがない。 ぜひ、死ぬまでに、ここから乗ってみよう! 神に誓って、帰宅する。
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2016年5月 5日 (木)

中野~西新宿

JR中野駅から、地下鉄丸ノ内線西新宿駅まで、1万歩、8kmの散歩です。



①中野駅前住宅
・・・・・・・・・・・・中野駅1番線ホーム新宿寄りに立つと、目の前に古色蒼然としたアパートが見える。 昭和26年(1951)に建てられた、鉄筋コンクリート造4階建て、7棟248戸からなる東京都住宅供給公社の団地。 建築当初は、6畳と4畳半の二間、台所、トイレ、玄関(風呂無し)という間取りで、戦後のモダン住宅として注目されたそうだ。、、、、、敷地面積約1万㎡は、再開発計画「中野2丁目再開発」の核となるのか? できれば、同潤会アパートを思い出すようなこの団地、このまま残して欲しいね。

・・・・・・・・・・・・・・・ホームから見る中野駅前住宅

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・・・・・・・・・・・・・・シブイ、案内図。

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・・・・・・・・・・・・・・外壁の汚れにも年季が入り、昭和モダンの住宅が

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・・・・・・・・・・・・・・・南側は、ベランダの一部をつぶし、増築したようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・階段入口の周りに、チョイとばかりタイルを貼って、ワンポイント。

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・・・・・・・・・・・・・・・団地の前は駅ホーム、通勤・通学に便利な一等地。

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②C11-368
・・・・・・・・・駅に隣接する中野電車区の南側に中野紅葉山公園がある。 ここに保存されている「C11-368」機関車は、私と同い年の、昭和21年(1946)生まれ。 私より早い引退で、昭和47年(1972)に石巻線で引退した。、、、、、案内板によると、『C−11は代表的なタンク機関車で、昭和7年C−10の改良型として都市近郊や支線の旅客用に誕生しましたが、やがて貨物用・入換用にと用途をひろげ、15年間で400機近く製造されました。 C−11−368は昭和21年製作で、第4次製造に含まれる車輛です。標準型と異なり炭車上部が斜でなくなったリサイドタンクやキャブ下側の線が変更されたりしています。 ここへ来るまでは延べ113万kmを走破し昭和47年7月まで、石巻線(宮城県石巻〜女川間)で活躍していた機関車です。』 

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③三味線橋
・・・・・・・・・・・紅葉山公園から南へ200m程歩くと、小さな橋の跡が残っている。 ここに流れたいた桃園川は、数十年前に暗渠化され遊歩道となった。 遊歩道に残る三味線橋の親柱と青海波文様の欄干。 親柱には、「昭和三十五年三月成」と標されていた。、、、、いつも橋の近くで三味線の音色がしていたから、「三味線橋」となったそうだ。 浅草橋の我が家でも、昭和の末期まで、向かいの御主人が弾く三味線の音が聞えたものである。 よき時代の風情が消えていく、残念!

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④白玉稲荷神社
・・・・・・・・・・・中野区中央3-23-15に在る神社。 創建時期不明。 謂れは知らず!、、、、、中野坂上交差点に近い中野区中央2-8-24に同名の神社があり、何か曰く因縁がありそうだ!、、、、、“白玉ぜんざい”を連想させる、美味しそうな神社だ!

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⑤明徳稲荷神社
・・・・・・・・・・白玉稲荷神社から東へ250m程いった処に鎮座するお稲荷さん。 当地(かつて中野村)の名主堀江家の屋敷神として江戸時代に創建され、大正時代に堀江家から譲り受けて明徳稲荷神社となったといわれてる。

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⑥山政醤油醸造所のレンガ塀
・・・・・・・・・・・・・・中野の宝仙寺横の小さな公園にある、フランス積みのレンガ塀。 青梅街道沿いに、明治初期に創業した山政醤油醸造所のレンガ塀(明治32年(1899)建造)を移築したものである。、、、、中野の青梅街道沿い一帯は、中野の商工業の中心地として賑わっていた。 味噌・醤油・蕎麦粉が、当時の地場産業だったそうだ!

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⑦宝仙寺
・・・・・・・・・・中野区でも屈指の広い境内を持つ、真言宗豊山派の寺で、寛治年間(1087-1093)に源義家によって現在地に創建された。 堂宇は戦災で被災し、本堂、御影堂、三重塔などは戦後再建された。、、、、、付属の宝仙学園は幼稚園から短大まで備えて、教育を行っている。

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・・・・・・・・・・・・・・石臼塚、、、、、、、昔、近くの神田川には蕎麦粉を引く水車がかなりの数設置されていた。しかし機械化により水車は無くなり、蕎麦粉を引いた石臼も不要となり放置された状態になった。 それを見た宝仙寺住職が供養のため石臼を集め塚をこしらえたそうだ!、、、、、中野に、これほど多くの水車があったとは!

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・・・・・・・・・・・・・石臼塚の隣には、中野町(現:中野区)役場跡の碑がある。

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⑧中野坂上交差点に
・・・・・・・・・交差点の3角に建つ超高層ビル

・・・・・・・・・・・・・・中央1丁目には、住友中野坂上ビル。、、、、、、オフィスが主体のビルであるが、上層部(21F~24F)は都心型賃貸マンションとして居住エリアになっている。 高さ:103m(地上24階、地下2階)、平成11年(1999)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・本町1丁目には、ハーモニースクエア。、、、、、、オフィスビルであるハーモニータワーを中心に、住居棟であるハーモニーテラス・ハーモニーハイツといったオフィスと住居とが一体となったスタイルのビル群。 高さ:125m(地上28階、地下2階)、平成9年(1997)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・本町2丁目には、中野サンブライトツインビル。、、、、、、富士ゼロックスの拠点の一つであり、また債権回収や企業再生などを手がける整理回収機構本社もおかれている。 高さ:134m(地上30階)、平成8年(1996)竣工。

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⑨中本一稲荷神社
・・・・・・・・・・中野坂上から青梅街道沿いに下りてくると、淀橋の手前に朱塗りの鳥居と急な石段が見える。 15段ほど登ると、チョイトした高台に神社は祀られている。 創建年代は不明だが、300年の歴史ある神社らしい、ほんとかな~~? 社殿は昭和31年(1956)の再建。 神社の名「中本一(なかほんいち)」は、当神社のある旧地名が「中野本町通り一丁目」であった。 なんだ、つまらん!

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淀橋
・・・・・・・・・・・・中野坂上の方から来ると、この橋までが中野区、橋を渡ると新宿区。 下を流れるは神田川。 川で溺れれば、土左衛門になって我が家(浅草橋)まで自然に運んでくれる、宅急便のような便利な川だ!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・橋を渡れば西新宿。

2016年5月 3日 (火)

白金台

GWの真っただ中、混雑を避け、白金台の東京都庭園美術館へ夫婦で散歩してきた。 7千歩、5km。



①東京都庭園美術館
・・・・・・・・・今日の散歩は、庭園美術館(旧朝香宮邸)で開催している『メディチ家の至宝-ルネサンスのジュエリーと名画』を見ることにある。、、、、私はアール・デコ建築の代表格として旧朝香宮邸を見ること、妻はメディチ家のジュエリーに興味を示したようだ。、、、、朝香宮は、戦前は陸軍大将を務め、戦後は皇籍離脱しゴルフ三昧の生活を送り、昭和56年(1981)に死去した。 その朝香宮邸として昭和8年(1933)に、宮内省匠寮(権藤要吉)の設計、戸田組の施工で竣工した、アール・デコ様式の鉄筋コンクリート造2階建(一部3階)の建物。 正面玄関に飾っている女神像など、内部のガラス装飾は有名である。、、、、、この建物には、朝香宮が皇室離脱する昭和22年(1947)までここで暮らし、その後は、総理公邸、迎賓館(プリンスホテル所有)、プリンスホテル本社、庭園美術館(東京都所有)と、変遷した。、、、、、内部の写真撮影は禁止、展示品のお持ち帰りも禁止、残念、無念、諦めた。

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②旧渡辺甚吉邸
・・・・・・・庭園美術館に近い白金台4丁目に建つ洋館に立ち寄ってみた。、、、、美濃の大地主で十六銀行の初代頭取だった渡辺甚吉邸として建てられ、数年前までスリランカ大使公邸として使われていた。 いまは、白金甚夢(じんむ)迎賓館と呼ばれ、民営の結婚式場・レストランとなっている。、、、、、、チュードル様式の流れを汲む伝統的なハーフティンバースタイルの木造2階建ての建物は、昭和9年(1934)に竣工した。 設計は、後に大日本土木会長を務めた遠藤健三。 施工はエンド建築工務所。、、、、、歴史ある洋館で結婚式とは、いいね。 誰か招待してくれないか?

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THE TENDER HOUSE・・・・・・・・・・妻とくる散歩には“ひと休み”がつきものである。 今日の御休み処は「THE TENDER HOUSE」。、、、、、60過ぎの恋人同士が語らうには、場違いか?

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④旧伝染病研究所
・・・・・・・・・明治25年(1892)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎が初代所長を務めた「大日本私立衛生会付属伝染病研究所」が、大正5年(1916)に東京帝国大学の付属研究所となる。 その伝染病研究所の建物として、昭和12年(1937)に竣工、設計は内田祥三、施工は大倉土木(現:大成建設)と大林組。 内田祥三の作品は、東大の本郷や駒場キャンパスに多く残っており、「内田ゴシック」と言われるデザインに特徴を持つ建物である。、、、、、現在は、東大白金キャンパスにある東京大学医科学研究所1号館。  ヒトゲノム、生体物理医学、何だか、私には解からん研究をしているそうだ。、、、、、最先端の研究をするには、ボロボロになった建物は、チョイと悲しいので、改修工事が行われる予定らしい。

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⑤旧国立公衆衛生院
・・・・・・・・・・・東京大学医科学研究所1号館と地続きで隣接する「旧国立公衆衛生院」。 こちらも内田祥三の設計で、大倉土木(現:大成建設)の施工により、昭和15年(1940)に建てられた、鉄骨鉄筋コンクリート造5階建て(一部8階)で、城塞のような美しさをみせる建物。、、、、、現在、所有する港区が保存・再利用に取り組んでいる。 早く、仮囲いをはずし、美しい全身を見せて欲しい。

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2016年5月 2日 (月)

上野~日暮里

上野駅から裏道と墓地を歩き日暮里駅まで、途中で立ち止まり、見るものも多く、8千歩、6㎞のブラブラ散歩です。



①線路わきの細い道
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・「公園口」とは線路を挟み反対側にある「入谷口」から上野駅を出て、北へ(鶯谷方向へ)550m程歩くと上野郵便局(下谷1)がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・郵便局前は金網越しに線路が見え、常磐線の特急列車も待機中。 ここで、私も金網にしがみついて、じっくり電車を見る。 いい歳して、チョイと恥ずかしいね!

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・・・・・・・・・・・・・・鶯谷方向を見ると、郵便局前の広い通りから、線路沿いに入っていく道がある。

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・・・・・・・・・・・・・・この道を入っていく。 車も入れそうですね、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・ところがどっこい、ギッ・チョン・チョン、人がすれ違うのがやっとの幅になる。 

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・・・・・・・・・・・・・・・道は新坂橋(鶯谷駅南口前を通る跨線橋)にぶつかると右に曲がり、華学園1号館前に出て、道幅も広くなる。、、、、、知る人ぞ知る、鶯谷駅から下谷1丁目方面に向かう近道である。

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・・・・・・・・・・・・・・・新坂橋(跨線橋)から線路を見る。 左側のビルの植栽と線路の間に、通ってきた細い道がある。

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・・・・・・・・・・・・・・跨線橋を渡ると鶯谷南口前。、、、、、南口は国立博物館、寛永寺への最寄り駅、北口はラブホテル街への最寄り駅。 どちらが、利用客が多いか? 私の目視では北口の方が多いようだ!

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②寛永寺
・・・・・・・・・・・・・寛永寺は、台東区上野桜木にある天台宗関東総本山の寺院。東叡山寛永寺円頓院と号す。 開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺。 慶応4年(1868)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。

・・・・・・・・・・・・・南側(写真:左側)は国立博物館、北側(右側)は寛永寺の霊園に挟まれた、博物館裏の静かな通りがある。 人通りは少なく、しかも、観光客などの一見さんが通ることは少ない。

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・・・・・・・・・・・・・・通りの中程に、霊園の塀を切り取ったような形で、国の重要文化財である徳川家綱霊廟勅額門が残されている。 四代将軍家綱は、慶安4年(1651)に父:家光の死に伴って、わずか十歳で将軍の座につき、延宝8年(1680)に39歳で没した。 家綱の勅額門は、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられている。 つまり、父の“おさがり”を活用したのだ。

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・・・・・・・・・・・・・・霊園の前の道が、博物館の北端で折れる位置に霊園入口がある。 ここに、もう一つ勅額門が残されている。 こちらは、犬将軍として有名な、五代将軍の徳川綱吉霊廟勅額門である。 国の重要文化財。、、、、話のついでに、この綱吉の霊廟の中に、16代将軍家定の墓所もあり、隣には天璋院篤姫の墓所もあるそうだ。(非公開だと!)

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・・・・・・・・・・・・・・徳川綱吉霊廟勅額門のある寛永寺第一霊園(台東区上野桜木1)は、JRの線路敷に面し、鶯谷駅ホーム南側の台地に在る。

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・・・・・・・・・・・・・・霊園を抜けると、寛永寺の根本中堂がある。 元禄11年(1698)上野公園に建立された根本中堂は、慶応4年(1868)彰義隊の戦争で焼失した。現在の根本中堂は、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を現在地に移築し再建したものだ。、、、、、チョイと本堂(撮影禁止)に上がらせてもらい、手を合わせてきた。 仏壇前には、三つ葉葵の家紋が30か所ほど刺繍された幕が下がり、寛永寺と徳川家の強い結びつきを実感させられた。

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・・・・・・・・・・・・・境内の隅にある寛永寺幼稚園。 玄関の庇部分には旧字体で左流れに「寛永寺幼稚園」と記され、庇を支える円柱に時代を感じる園舎は、大正12年(1923)の建築である。 木造平屋建てであるが、数年前に外装を変えたため、当時の姿が確認できるのは玄関部分だけのようだ。

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③寛永寺坂駅跡
・・・・・・・・・・・・寛永寺をあとにして、言問通りに出ると、上野桜木二丁目交差点がある。 この角に京成本線の寛永寺坂駅(地下駅)があった。 駅は京成が都心進出を果たした上野~日暮里間開通の昭和8年(1933)に開設され、10年後の昭和18年(1943)に閉鎖された。 戦後、昭和21年11月に営業再開するが翌年8月に再び営業休止となり、昭和28年(1953)に廃止となった。 その後、運送会社の倉庫として昨年末まで使用していた。、、、、、今日前を通ったら、駅舎跡が仮囲いで閉鎖されていた。

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・・・・・・・・・・・・・・4年前(2012)、倉庫として使用しているときの内部の写真。、、、、、上から、地下ホームに通じる階段部分、駅務室と思われる一角、そこの扉。

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④谷中霊園
・・・・・・・・・・・明治政府が、現:台東区谷中に、明治7年(1874)に開設した公共墓地。 現在は都営霊園となっているが、霊園内に飛地状に天王寺墓地と寛永寺墓地が点在している。 特に寛永寺の墓地には徳川慶喜の墓などもある。、、、、、私も墓巡りする歳となってきたのか、何かいやな雰囲気だ!

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⑤御隠殿坂橋
・・・・・・・・・・・・・台地上の谷中霊園から、崖下のJR東北本線の線路群を越えて、根岸に下りる跨線橋。 竣工は昭和3年(1928)頃らしい。

・・・・・・・・・・・・・・谷中霊園内の道を進むと御隠殿坂橋(ごいんでんざかはし)に出会う。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の取り付け部のコンクリートと鉄パイプの手摺も味がある。
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・・・・・・・・・・・・・山手線と京浜東北線4本、新幹線(地下)2本、東北本線(宇都宮線、高崎線)4本、常磐線2本、合計10本の線路を跨ぐ御隠殿坂橋。

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⑥京成電鉄跨線橋
・・・・・・・・・・・寛永寺坂駅跡の下を通過した直後、地上に顔を出し日暮里駅に向かう京成線が、大きくカーブしながらJRの線路を跨いでいく。 京成が都心に乗り入れるため、昭和8年(1922)に開通させた部分である。 御隠殿坂橋の南側に架かる橋。

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2016年5月 1日 (日)

荻窪~井荻

JR荻窪駅から、北へ歩いて、西武新宿線井荻駅まで、1万歩、7kmの散歩です。



①荻窪駅
・・・・・・・・・・・・明治24年(1891)、甲武鉄道の駅として開業。 15年後に甲武鉄道が国有化され、複線化された。 昭和7年(1932)には中央線・総武線の直通運転も開始。、、、、、現在は、島式ホーム2面4線の地上駅。 ホームの東西両端に改札があり、東側は地下の改札を出ると地下鉄丸ノ内線改札とつながっている。 西側は跨線橋上に改札がある。、、、、、今日は西側の改札を通り、駅の北側に出た。

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②教会通り
・・・・・・・・・・・・・たびたび利用する駅だが、私は周辺の地理に薄暗く、駅を出たが右に行こうか? 左に行こうか? とりあえず、駅前の青梅街道を横断してみることにした。

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・・・・・・・・・・・・・・横断した歩道橋の前で、「教会通り」の文字が目に飛び込んできた。 『ナヌ~~ 教会通りだと。 宗教建築の好きの我の心を揺さぶるネーミング。 行かずばなるまい!』 今日の散歩は決まった!

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・・・・・・・・・・・・・・旗のイラストで、蔓が商店街形を示し、下が青梅街道側の入口、先に教会が描かれている。

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・・・・・・・・・・・・・・青梅街道より、北の方向へ約300m、天沼教会まで続く商店街である。 どうやら、古くからの地元の商店街らしく、大きな店舗、コンビニ、チェーン店のような店舗はなく、家族経営の店が多そうだ。 幅員4m程の狭い通りが、折れ曲がって伸びていく。

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③東京衛生病院
・・・・・・・・・・・・・・教会通りの終点に大きな病院が見えた、「東京衛生病院」である。  病院の案内図を見ると、大きな敷地の中に、天沼教会を取り囲むように、病院と付属のクリニックなどの建物が配されている。、、、、、この病院は昭和4年(1929)、現在の杉並区天沼3丁目で、わずか20床から出発し、現在は10の診療科を備えた病床数186床の総合病院である。、、、、、運営はセブンスデー・アドベンチスト教団の医療法人アドベンチスト会。 国内にはセブンスデー・アドベンチスト教団が経営する系列の病院として神戸アドベンチスト病院と沖縄のアドベンチストメディカルセンターがあるそうだ。

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④天沼教会
・・・・・・・・・・・・・東京衛生病院の隣に、セブンスデー・アドベンチスト教団(プロテスタント系)の天沼教会がある。 この教会は、大正6年(1917)に、武蔵野の空気が残る雑木林の中に燦然と建てられたそうだ。、、、、、、現在の会堂は昭和58年(1983)に竣工した。 4年後の平成元年(1989)には、ドイツのシュッケ社製による18ストップの大きなパイプオルガンが設置され、聖歌隊による讃美歌と合わせ聞くことができるようになった。、、、、、質素で、スマートな教会だった。

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⑤妙正寺から井荻駅
・・・・・・・・・・この間は、昨年4月に歩いたルートの逆

・・・・・・・・・・・・・・妙正寺、、、、、、法光山妙正寺は、日蓮宗の寺で十界諸尊を本尊とし、ほかに大黒天・鬼子母神・三十番神・弁財天などの諸像が祀られている。 像の多い、チョイと欲ばりな寺院。、、、、文和元年(1352)、中山法華経寺(千葉県)の日祐上人が、妙正寺のほとりに堂を建て諸像を勧請したのが始まり。、、、、天保元年(1830)に本堂は古文書類と共に焼失したが、天保3年(1832)に再建され、昭和6年(1931)に改築して今日に至っている。

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・・・・・・・・・・・・・・妙正寺公園、、、、、、、妙正寺の北側に在る公園で、園内の池は妙正寺川の水源である。 妙正寺川は新宿区下落合1付近で神田川に合流する一級河川。

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・・・・・・・・・・・・・・中瀬天祖神社、、、、、、、、中瀬天祖神社は、妙正寺公園の北隣にある神社です。 創建年代は不詳。 妙正寺が十羅刹堂として創建したといわれている。 明治維新後に天祖神社と改称したらしい。

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・・・・・・・・・・・・・井荻駅、、、、、、、井荻駅(いおぎえき)は、昭和2年(1927)に開業した、西武鉄道新宿線の駅である。 現在は相対式ホーム2面3線の地上駅。

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