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2016年11月 4日 (金)

浅草橋~錦糸町

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、京葉道路沿いに街道の南側の裏道をウロウロ・クネクネ・イッタリキタリ錦糸町駅まで、1万1千歩、7kmの散歩です。
 
 
浅草橋 ・・・・・・・・・・・・浅草橋から柳橋を見ながら、屋形船の並ぶ神田川を越える。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・『柳橋ぶらぶらマップ』なるパンフレットに載っていた昭和36年(1961)の柳橋。 浅草橋の上空から撮影したと思われる写真。、、、、、、当時は料亭が並び、夜になると人力車・黒塗りの車が料亭前にズラリ並んでいた時代だ! 屋形船のサイズも、今より小さく、お二人でちょうどよい大きさだ!、、、、、この頃、私は15歳。
 
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両国広小路 ・・・・・・・・・・・・・両国橋西詰(中央区東日本橋)に、両国広小路の碑がある。、、、、、碑の裏面には、建立の経緯が記され、その一部に次のように書かれていた。 『・・・・・明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ・・・・・・』 つまりは、現在の地名:中央区「東日本橋」の前は「日本橋両国」であった。 さらにそれ以前の江戸時代は、「両国」であった。 対岸の墨田区側は、江戸時代は「向両国」であり、「本所東両国」に変わり、現在は「両国」となった。、、、、昔、中央区にあった地名「両国」は、今、墨田区に移った、ということである。
 
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③「日の恩や」句碑・・・・・・・・・・・両国橋を渡ると南際に、昭和3年に建立された、赤穂浪士:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑がある。、、、、、この句は、討ち入りの夜、俳句の師匠:宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。 意味は『太陽のおかげで、積年の厚く張った氷が、たちまち融けた。』ということ。 “恩”とは、吉良邸の隣屋敷が、討ち入りの際、吉良家の助太刀をせず、通報もせず、見守っていてくれた事を指しそうだ。、、、、、当時、携帯、スマホがあったら、討ち入りは失敗したかも?
 
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④岡田商事・・・・・・・・・・・・両国橋際に建つ旧岡田菊治郎商会。 建築年代不詳だが、木製ドア、半円の窓、照明が作る雰囲気は、大正ロマンか、昭和モダンか?、、、、マントをはおり、山高帽に、ステッキ姿の、会長が出てきそうな建物だ!
 
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⑤回向院・・・・・・・・・・・両国橋の先には回向院がある。 浄土宗の回向院は、振袖火事(1657年)の死者を埋葬し供養したのが起源となる。 出開帳や勧進相撲が行われ、江戸庶民の信仰の場ともなった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・ご存じ、鼠小僧次郎吉の墓はこちら。、、、、墓石を削り、財布に入れておくと金回りが良くなるそうだ。 でも、墓石を削らずに、「お前立ち」を削ってと高札に書いてある。 “お前立ち”を削ったら、インポになるかも、心配だ! (考えすぎか?) 
 
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・・・・・・・・・・・・・・境内の「力塚」は、昭和11年(1936)に、相撲協会が建立したもの。 碑の玉垣には当時横綱:玉錦、武蔵山をはじめとして、力士の名が刻まれている。、、、、、大きな一枚石の碑は力強い印象を受けるね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・石造海難供養碑、、、、、、回向院には、明暦の大火を契機に、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されている。 その中に大きな六基の海難供養碑もある。、、、、海がないのに海難供養碑、しかも半分は伊勢白子の海難供養、なぜだ? (私には判らない!)
 
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⑥本所松坂町跡・・・・・・・・・・・・両国6丁目、京葉道路に建つ碑。 碑文には、『碑ヲ中心トスル一帶ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ然ルニ大正大震災後ニ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之レヲ勒ス   昭和七年六月當町會建立』と記されている。、、、、昭和4年(1929)11月1日で、おいらの「松坂町」の名が消えるぞ、江戸っ子なら後世に残る石に刻んで町名を残そうと、考えたようだ。、、、、、近くの吉良邸跡が観光資源になることを意識してのことか?
 
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⑦本所松坂町公園・・・・・・・・・・・『時は元禄15年12月の14日、江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓・・・・・』ご存知、忠臣蔵! その吉良邸跡が公園となっている。、、、、まずは、公園の全景を! 写真に写っている範囲が、現在の公園で、29.5坪あまり。 討ち入り時の吉良邸は2550坪あり、公園の86倍の広さがあった。、、、、“公園”としているが、“史跡”とした方がいいかも。
 
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・・・・・・・・・・・・・なまこ壁の中は、「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に、解説のパネル、吉良公座像などがある。、、、、来月は、いよいよ師走、ここと、泉岳寺は忙しくなるね。、、、、、私は、昭和36年(1961)東映映画、片岡千恵蔵主演の『赤穂浪士』をDVDで見ることにする。 
 
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⑧両国小学校・・・・・・・・・・・明治5年(1872)8月に、戸枝一氏が回向院の民家を借り、幼育舎を起こし、付近の子供50名を教育したのが、両国小学校の始まり。 明治8年(1875)10月18日に回向院境内に学校が創立した。、、、、老舗中の老舗の名門小学校。
 
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・・・・・・・・・・・・・・構内に、芥川龍之介文学碑がある。、、、、文豪:芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日に現:中央区明石町で誕生した。 生後7ヶ月の頃、現在の墨田区両国にある母の実家の芥川家に預けられた。 両国小学校は、その芥川が通った学校である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・芥川龍之介文学碑の脇に、駆逐艦「不知火」の碇が残されている。、、、、、この錨は日露戦争(1904~1905)で活躍した駆逐艦「不知火」(明治31年製造)のもので、両国の鉄鋼業:岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものだ。
 
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⑨勝海舟誕生地・・・・・・・・・・両国小学校の隣は両国公園。 ここは、勝海舟誕生地である。、、、、無血開城した勝海舟は、墨田区の本所亀沢町に誕生しました。 文政6年(1823)1月30日に、父方の実家男谷精一郎家に産まれた。 青年期まで墨田の地で学問や剣術の修行に励みました。 その男谷家の跡地は両国公園となっている。 公園内には、「勝海舟生誕の地」の碑が立っている。
 
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●・・・・・・・・・・・・・・・・・この後、玉の肌石鹸、両国高校、などを巡り錦糸町駅へ、、、、、これ以上書いていると、今夜は眠れなくなりそうなので、ここまでとする。 あしからず。、、、、、あ~~、あ~~、歳のせいか疲れた!
 
●・・・・・・・・・・・・・・・・・鼠小僧の「お前立ち」を削り持ち帰ったが、今夜はご利益がなさそうだ!

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