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2016年12月 8日 (木)

南千住~新三河島

南千住駅から京成本線新三河島駅まで、1万歩、7kmの路地裏散歩です。
 
 
①小塚原刑場・・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線の南千住駅南口前に、小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)跡はある。 江戸時代から明治初期にかけ荒川区南千住2丁目に存在した刑場で、大和田刑場(八王子)、鈴ヶ森刑場(大森)とともに三大刑場といわれたそうだ。、、、、、小塚原刑場は寛文7年(1667)以前に浅草から移転したといわれている。 間口60間(約108m)、奥行30間(約54m)程の敷地で、周囲は草茫々の処であった。、、、、現在跡地には延命寺があり、境内に首切地蔵が祀られている。 刑死者の菩提を弔うため、寛保元年(1741)に刑場敷地内に造立された地蔵さん。 日光街道沿いで多くの人が往来し地蔵を目にし、いつしか、「首切地蔵」と呼ばれるようになった。、、、、、27個の花崗岩を組み合わせた高さが4m程の座像である。 明治28年(1895)、土浦線(現:常磐貨物線 )敷設工事の敷地から、現在地に移転した。
 
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②回向院・・・・・・・・・・・延命寺と常磐線のガードを挟み北側にある回向院。 小塚原刑場では、死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるくらいだったため、夏は周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったらしい。 寛文7年(1667)に両国回向院 の住職が刑死者を弔うため、刑場に隣接し常行堂を創建した。これが後に回向院となり、現在も橋本左内、吉田松陰、鼠小僧、高橋お伝などの刑死者の墓がある。、、、、、鼠小僧の墓は、両国、南千住の両回向院にある。 分骨したのか?
 
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・・・・・・・・・・・・・・明和8年(1771)にターヘル・アナトミアを手に入れた蘭学者杉田玄白・前野良沢らが解剖図の正確性を確認するため、小塚原刑場において刑死者の腑分けに立ち合い、図の正確さにビックリした有名な出来事を記念した碑がある。 碑は昭和34年(1959)建立。
 
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③南千住5丁目・1丁目の路地・・・・・・・・・・・都電荒川線の北側、南千住5丁目と1丁目の路地を歩いてきた。
 
・・・・・・・・・・・・南千住には多くの簡易旅館があるが、その旅館を外人観光客のために改装したと思われる宿が回向院裏にあった。、、、、客が労務者から外人観光客に変わり、宿の雰囲気はもちろんだが、町の雰囲気も変わってきた。
 
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.・・・・・・・・・・・・・・回向院裏の道は、小さな・小さな社の金福稲荷神社の脇に出た。 貞和3年(1347)足利時代に創建され由緒あり、霊験あらたか、パワースポットのようなお稲荷さんだ。
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・・・・・・・・・・・・・・南千住5丁目、彰義隊士の墓がある円通寺 裏の路地を歩く。、、、、、長い折れ曲がった路地は、懐かしい“昭和の下町”が残っているようだ! 
 
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都電荒川線 ・・・・・・・・・・・・・7000形を改良し、今年5月30日より運用を開始した7700形
 
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⑤宮地陸橋・・・・・・・・・荒川2丁目と4丁目の境に伸びる荒川中央通りを抜けて、明治通り、尾竹橋通り、道灌山通りが交差する宮地交差点に出た。 現在明治通りと呼んでいる通りは、昭和7年(1932)に拡幅工事が完成するまで荷馬車がすれ違うのも容易でない狭い道だったそうだ。 現在は、交通量の増大で、明治通りは宮地陸橋で交差点を越える。、、、、、宮地陸橋は昭和49年(1974)に完成した。 橋脚部分に人道を通すことができるように穴が開いている。 おそらく、ここに歩道橋を造り、交差点の横断歩道を廃止する計画でもあったのか?
 
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⑥新三河島駅・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)12月19日に開業した京成本線の駅。 島式ホーム1面2線の高架駅である。 ホームの成田寄りは明治通りの上にかかっている。
 
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