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2017年7月24日 (月)

小菅~綾瀬

東武伊勢崎線の小菅駅で下車し、裏通りをブラブラ、常磐線綾瀬駅まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
①小菅駅・・・・・・・・・・現実は、刑務所の時代は遠い昔に終わり、近代的な拘置所の時代に変わった“小菅”である。、、、、、、小菅駅にホーム立った私は、目の前の東京拘置所を見ると、やくざ映画の影響か? 小菅駅で降りる若い男性は“親分に差し入れに来たチンピラか?”、若い女性は“刑があける日を待つ愛する男に会いに来たのか?”、カバンを下げたサラリーマン風の男は“正義の味方の弁護士か?”、和服の女性は“背中に登り竜が彫られた姉御か?”、小太りのおばさんは“差し入れ屋のやりてババアか?”、ハゲの親爺は“私腹を肥やした悪徳元刑務官か?”、、、、、人を見る目が狂ってしまう。 
 
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・・・・・・・・・・・・・小菅駅で下車したものの、『さて、どっちへ歩こうか?』 『今後の為に、より深く拘置所を知っておくべきか?、拘置所とは反対側を歩いてみるか?』 迷っていると、金髪の外人さんが駅に向かって来た。 『これで決まった!外人さんがやって来た、拘置所とは反対の方向へ行こう!』
 
・・・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線の高架下を抜け、常磐線・千代田線の高架下を抜け、足立区足立2丁目の裏道を歩く。
 
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②庚申塔・・・・・・・・・・住宅が立ち並ぶ東武伊勢崎線の線路沿い(足立2-31)に、庚申塔が二基、他に出羽三山巡礼供養塔、 「庚申塚修復記念」の石塔がある。 祠の中に建つ庚申塔には、「安永九年庚子十二月吉日五反野村講中拾二人」と刻まれている。 安永9年(1780)、この近くの五反野村の12名の人々が庚申講を結成し、主に長寿を願う行事が満願に達したのを記念してこの庚申塔を建立したそうだ。、、、、、庚申塔に札束のレプリカが供えられていたが、どういう意味かな? 本物なら頂戴してくるのだが、、、、
 
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③下山国鉄総裁追憶碑・・・・・・・・・・・・・西綾瀬1丁目の常磐線ガード脇に、初代国鉄総裁を偲ぶ碑がある。 戦前生まれの人であれば、御存じ、下山事件の下山貞則総裁を偲ぶものである。、、、、、事件のあらましは、、、、昭和24年(1949)7月5日、下山初代国鉄総裁は朝8時過ぎに大田区上池上の自宅を公用車で出勤した。 途中、銀行等に寄り、9時半頃、日本橋三越で車を降り、入店しそのまま消息が途絶えた。 翌日の午前0時半頃、常磐線:北千住~綾瀬間の東武伊勢崎線が頭上を交差する地点において汽車に轢かれた下山総裁の遺体が発見された。 検視の結果は、遺体から生活反応が見られなかった事から、列車に轢かれた時に総裁が生きていたか、死んでいたかが問題となった。 自殺か、他殺か?。 警察からは公式の捜査結果が発表されないままに捜査は打ち切られ、迷宮入りとなった。 当時は高インフレにあえぐ経済の立て直しのために緊縮財政がとられ、6月には行政機関職員定員法が施行され、これにより国鉄に対し10万人近い人員削減が求められていた。 また、同年7月15日には三鷹事件、8月17日には松川事件が発生している。、、、、、、私は、当時3歳、まだ世の中の情勢に疎く、事件には無関心であった。 ゴメン!
 
・・・・・・・・・・・・・碑は、昭和26年(1951)、事件現場付近に建立されたが、平成3年(1991)常磐線荒川橋梁改良工事に伴い、現在地に移設された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・事件現場、、、、、写真奥は北千住側、手前が綾瀬側。 左側に常磐線が走る。 中央の電車は千代田線。 奥に常磐線・千代田線の上を交差して東武伊勢崎線が走る。 事件現場(総裁の遺体発見現場)はこの交差部分らしい。 追憶碑は手前のガードの左手奥にある。
 
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④西綾瀬の町から綾瀬の町へ・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・農家の匂いが残る、西綾瀬3丁目を抜けて行く
 
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・・・・・・・・・・・・・どこかの里山に佇む寺の雰囲気が残る、新義真言宗の長性寺(西綾瀬3)は、寛永元年(1624)に創建した。 荒川辺八十八ヶ所霊場50番札所。
 
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・・・・・・・・・・・・・・弘道小学校(西綾瀬4)は、明治11年(1878)創立の歴史のある小学校。当初は現在の綾瀬川左岸(綾瀬4)の常磐線線路際にあった。 大正15年(1926)に現在地に移転した。 校名は論語衛需公篇の「子日人能弘道非道弘人」からとされているが、近くを水戸街道が通っており、水戸藩の藩校「弘道館」を意識したのかも?
 
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・・・・・・・・・・・・・・弘道小学校前の通り。
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・・・・・・・・・・・・・・この通りに「綾瀬村役場跡」の碑がある。、、、、綾瀬村は明治22年(1889)から昭和7年(1932)まで存在した自治体で、その後東京市足立区に吸収された。
 
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・・・・・・・・・・・・・綾瀬川に架かる五兵衛橋を渡り、西綾瀬から綾瀬に入る。、、、、、五兵衛橋は、この辺を開拓した金子五兵衛に由来している。江戸時代の初め、金子五兵衛は他の者と一緒に武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から転入して開拓し、一帯はその名をとって五兵衛新田村となった。、、、、この橋の初代は、寛永年間(1624~1644)に綾瀬川が内匠橋から伊藤谷橋あたりまで新川として開削されたため村が東西に分断されるため、代償として長さ12間、幅9尺の土橋が幕府によって設置されました。 これが五兵衛橋の初代です。 その後、橋は何度か架け替えら、現橋は平成10年(1998)に架けられた歩道橋である。、、、、、この橋の先代の橋は、「男はつらいよ」第26作「寅次郎かもめ歌」に登場している。 マドンナ役の伊藤蘭が入学する学校が葛飾高校(架空)で、通学途中で渡る橋が五兵衛橋。、、、、一見、たいしたことない歩道橋だが、歴史あり、エピソードありで、驚きだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・五兵衛橋を渡り綾瀬4丁目に入ると、大地主のような門構えの住宅がある。 門の前には足立区教育委員会の名で、「金子家文書」と標記した案内板が立てられていた。、、、この金子家は金子五兵衛の家である。、、、、そして、金子文書とは、新撰組近藤勇が流山で捉えられる前、慶応4年(1868)3月14日から4月1日までの19日間、あの新撰組が、金子家や近くの観音寺に分宿していた。 総勢227人もの大集団で、世情柄精神的な負担や、その世話(経費)などで大層迷惑を蒙った上に、後日明治政府から、強い叱責があったという。 近藤勇らが五兵衛新田の金子家に滞在した事は、その賄方の記録として金子家文書に残っている。 現在近藤勇として一般に知られている袖内に腕組みした写真も、金子家が所蔵しているらしい。
 
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・・・・・・・・・・・・・・綾瀬駅の北側(綾瀬4)に、綾瀬稲荷神社がある。 この神社は、創建年代は不詳であるが、五兵衛新田の鎮守社であったといい、明治7年(1874)に五兵衛神社と、昭和42年(1967)年に綾瀬稲荷神社と改称した。
 
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⑤綾瀬駅・・・・・・・・・・綾瀬駅に停まる電車は千代田線だけ。 千代田線は地下鉄の路線。 その線を走るのはJRの電車(常磐緩行線)。 窓から横を見ればJRの電車(常磐快速線)が通過する。 次の北千住で常磐快速線に乗り換えると、浅草橋まではJR料金。 西日暮里で山手線に乗り換えると、浅草橋までは地下鉄+JR料金。、、、、、ややっこしい!勝手にしろ!
 
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