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2017年7月2日 - 2017年7月8日

2017年7月 6日 (木)

瑞江~一之江

都営新宿線瑞江駅から隣の一之江駅まで、寺社を巡り、1万歩の散歩です。
・・・・・・・・帰宅後調べてみたら、ほぼ同じルートを、2015/12/4に逆向きに歩いていた。 
 
 
 
瑞江駅 ・・・・・・・・・・・昭和61年(1986)9月14日、船堀~篠崎間開業に伴い開業。 島式ホーム1面2線の地下駅であるが、上下線の両外側、壁の向こうに通過線がそれぞれ1本ずつあるそうだ。、、、、、都民には火葬場のある駅として有名だ!
 
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②豊田神社・・・・・・・・・・・『豊田佐吉を祭神として祀り、レクサスを供える神社』と言いたいが、「トヨタ」とは縁もゆかりもない江戸川区東瑞江の神社。 創建年代不詳。 現在の豊田神社がある一円の地は下鎌田村と称していた。 下鎌田村には香取社、神明社、山王社があり、香取山神明寺長寿院が別当寺となっていた。 明治初年廃仏毀釈により香取山神明寺長寿院が廃寺となり、その跡地に神明社の社殿を遷座し、天照大御神・経津主命の2神を祭神とした。
 
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・・・・・・・・・・・・・・境内には「下鎌田の富士塚」として、大正5年に築造された標高3mの富士塚がある。、、、、、今の時代なら、シンデレラ城でも造れば氏子は増えるかもね。
 
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③泉福寺・・・・・・・・・豊田神社から南東方向に300m程歩くと、東瑞江2丁目、曲がりくねった道の奥に浄土宗の泉福寺がある。 創建年代不詳。 京都の知恩院を総本山とし、東京芝の増上寺を大本山とする寺。(なんじゃ!総本山と大本山?)、、、、、、明治15年(1882)、落雷により本堂・庫裡とも一瞬にして灰となり、同17年、茅葺きの本堂を再建し、平成16年(2004)に現在の本堂が竣工した。、、、、、静かな場所に、緑豊かに佇む、癒される寺。
 
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・・・・・・・・・・・・・・境内に、かわいらしいスイレンが咲いていた。、、、、、今年、我が家では5千円はたいてスイレン鉢を購入し、花は日本橋三越から買い、メダカも入れて、屋上で育てているが、今だ咲かない、頼むから咲いてくれ!
 
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④山王神社・・・・・・・・・・江戸川3丁目にある中社。 鳥居、狛犬、社殿、水盤などすべて新築。 鳥居の扁額には「日枝神社・三峯神社」と併記している。
 
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・・・・・・・・・・・・・・神社は鎌田川親水緑道の脇、住宅地の奥に鎮座する。 この付近は、緑道が整備されているからか、緑豊かで鎌倉の住宅街の裏道を思い出させるようだ。 (チョイと大袈裟に言ってしまった。)
 
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⑤明福寺・・・・・・・・・・篠崎街道に面する浄土宗の明福寺。 嘉禄2年(1226)親鸞聖人が常陸国から上洛の途中、この地の人々が昇天に苦しんでいたので、雨乞いをにより雨を降らせて村人を救った。 その時の草庵が寺の始まりらしい。、、、、、前回来た時と同様に、今日も附属幼稚園の見送りに、境内には若いママがウヨウヨ。 恐怖を感じた私は、“長居は無用!”  そそくさと境内をあとにする。
 
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⑥上今井八雲神社・・・・・・・・・・江戸川3丁目、篠崎街道に面し鎮座するのは上今井八雲神社。 神社の創建年代は不詳であるが、永禄7年(1564)に創建した香取神社(上今井香取神社)と並んで当地周辺で尊崇された。 昭和41年(1966)、上今井香取神社に合併された。、、、、、、神社の前は、対岸に行徳を見る旧江戸川が流れている。 昔は水路の神として、江戸川を航行する舟が安全を祈願した。
 
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⑦金蔵寺・・・・・・・・・・・浄土宗寺院の寶徳山寿松院金蔵寺。 金蔵寺は、応永22年(1415)頃が創建され、享徳3年(1455)頃に中興した。 現在の本堂は昭和11年(1936)に上棟した。 江戸時代は末寺として、数ヶ寺を擁するチョイト大きな寺であった。
 
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・・・・・・・・・・・・・金蔵寺から200m程離れた処に、名のない地蔵さんが祀られている。、、、、、お祀りしている近所の方に聞いたら、、、『お地蔵さんの立つこの場所に、昔、金蔵寺の本堂があり、住職の墓もあったそうだ。 そして、お地蔵さんの前の通りは現在の金蔵寺へつながり、ここに霊が通っていたそうだ。』 近所の方は、『古くからの人も減り、私が守らなければ・・・・』と言っていた。 (何か、判るような判らない話だ。 もうチョイと説明してもらわないと???)
 
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一之江駅 ・・・・・・・・・瑞江の方から来ると、駅手前で新中川に出る。 ここに架かる瑞江大橋を渡り駅に向かう。、、、、、、駅は昭和61年(1986)9月14日に開業した島式ホーム1面2線の地下駅。
 
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2017年7月 4日 (火)

堀切

今年は早々と今日から、台風3号が九州に上陸し、今夜は東京に最接近する予定。 既に全国では台風による猛烈な雨に襲われ、土砂崩れ、浸水の情報も流れている。
 
荒川の決壊が気にかかり、『もし決壊するとしたら京成本線荒川橋梁の付近が一番危ない処だ!』と、自分で決めたので、台風が直撃する前に確認しておくことにした。、、、、、と、言うことで、今日の散歩は、京成本線堀切菖蒲園駅で下車し、京成本線荒川橋梁を見て、対岸の東武伊勢崎線堀切駅まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
堀切菖蒲園駅・・・・・・・・・・今日は堀切菖蒲園駅から西の荒川・綾瀬川に向かうことにした。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・線路沿いに歩き、首都高の下に綾瀬川に架かる橋梁が見えてきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・京成本線と並行する都道314号線の堀切橋に上る階段下で、ガードを抜けて、北に折れてみる。
 
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②小谷野神社・・・・・・・・・京成本線の北側(堀切4)に、元禄10年(1697)にはすでに鎮座していた小谷野神社がある。 現在の社殿は昭和47年(1972)9月に造営された。、、、、、、桃の実を開いて厄を免れる病気平癒、災厄解除の「桃祭り」という神事が残る神社。 なんだか勝手に想像すると、私には妙にエロっぽく感じ、見てみたくなる神事だ!
 
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③首都高の下・・・・・・・・・・小谷野神社の脇から綾瀬川左岸の護岸上に出た。 首都高中央環状線の真下である。 綾瀬川に架かる堀切橋(荒川と綾瀬川に、連続して架かる)が見える。、、、、、、次の2枚の写真から、綾瀬川の水位が堀切の町より高いのを推測できると思う。
 
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・・・・・・・・・・・・・・頭上の首都高は何やら大掛かり工事をしている?、、、、何の工事?、、、、、堀切・小菅間の路線拡幅工事である。 この間、綾瀬川の上に車線を増設し、3車線を4車線にするのだ。
 
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④正覚寺・・・・・・・・綾瀬川と荒川が接近し並行して流れる処(葛飾区小菅1)に、真言宗豊山派の常照山阿弥陀院正覚寺がある。 創立年代は不詳であるが、文禄元年(1592、室町時代末期)に創建されたようだ。 現在の諸堂は、高速道路と隣の下水道処理施設工事のために建て替えられた。、、、、、大正の荒川放水路開削工事の開始以前には、この地に小菅村県庁舎があり、正覚寺にはわが国最初の公立学校といわれる「小菅県立学校」が開かれ、県庁職員をはじめ一般村民の教育にあたった。
 
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⑤小菅水再生センター・・・・・・・・・正覚寺の西側、荒川と綾瀬川が近接する地点に、葛飾区と足立区の一部の汚水を処理する小菅水再生センターがある。 処理した水は荒川及び綾瀬川に放流され、発生した汚泥は葛西水再生センターへ圧送し処理される。 センターは、昭和48年(1973)にまず雨水ポンプ設備の運転を開始し、昭和52年(1977)から下水処理施設として本格稼働しました。、、、、、屋上は四季折々に咲く花々や樹木の美しい葛飾区の公園になっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・水再生センター屋上から見た荒川
 
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⑥綾瀬排水機場・・・・・・・・・・・小菅水再生センターの下流側に綾瀬排水機場がある。 ここは、大雨などで綾瀬川の水位が上昇し、綾瀬川が氾濫することのないように、綾瀬川の水を荒川に排水する施設。 昭和58年(1983)に1号機が完成した。
 
・・・・・・・・・・・・・・案内板にあった写真
 
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・・・・・・・・・・・・・・・綾瀬川左岸から撮った取水口
 
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・・・・・・・・・・・・・・荒川左岸からパチリ
 
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・・・・・・・・・・・・・・荒川への排水口
 
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⑦綾瀬水門・・・・・・・・・・・・増水時に、荒川の水が綾瀬川に逆流することを防ぐために設けられた。また、荒川と綾瀬川の舟運を確保するための通路でもある。 大正11年(1922)に完成し、昭和48年(1973)に改築。
 
・・・・・・・・・・・・・・綾瀬川左岸から撮影
 
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・・・・・・・・・・・・・・荒川側
 
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京成本線荒川橋梁 ・・・・・・・・・・・京成本線荒川橋梁/綾瀬川橋梁は昭和6年(1931)に完成した。 その後80年以上経過し、両岸(葛飾区・足立区)の地盤は沈下し、堤防のかさ上げが計画されているが、足立区側の用地取得が進まず、橋梁の付け替えもできず、治水上の弱点となっている。、、、、、私の独断的予測では、もし荒川・綾瀬川が氾濫するとしたら、ここの堤防の決壊から始まるのかも????、、、、今日も、よわい70を超えた年寄りが堤防に立ち、荒川・綾瀬川の水面を一人静かに眺め、憂いていた。(正直に言うと、電車を見たかっただけかもね!)
 
・・・・・・・・・・・・・右:荒川と左:綾瀬川を仕切る土手上の道。 京成本線に寄って途切れている。 その先の都道314号の堀切橋とは高さが揃っている。 京成本線のレール面は約2m低い。、、、、、、チョイと怖いね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・横から見ると、右:都道314号の堀切橋、左:京成本線荒川橋梁。 ここから、都内に水が漏れるかも? “東京水没!”
 
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・・・・・・・・・・・・・・怖そうな話を忘れ、スカイライナーをパチリ!
 
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●・・・・・・・・・・・・・・・この後、堀切橋を渡り、東武伊勢崎線堀切駅 から帰宅。
●・・・・・・・・・・・・・・・どうやら、今晩は堤防決壊のおそれはないだろう。 安心して熟睡することにした。

2017年7月 3日 (月)

かっぱ橋本通り

朝の天気予報で、『本日は猛暑日、熱中症に注意を!』と呼び掛けている。 こんな日に散歩に出て、道路上で泡噴いて、意識を失い、ぐったりし。 見ず知らずの親切な御仁が救急車を呼んでくれ、救急隊は受け入れ先の病院を手配し、警察は家族に連絡し、通りすがりの人は「行き倒れらしいよ、飲まず食わずで、可哀そうに!」と同情し、心あるお年寄りが「食事の足しにでもしなさい」と千円札を私のふところに入れ、それを見ていた周りの人も競って財布から札束を私のふところに、、、、、、いつの間にか、私のふところには数十万円の札束が、ニヤニヤ・シメシメ、と、よろこんだ瞬間、救急病院で意識が戻り、恥をかくのがオチだ!
 
暑い日の散歩はひかえよう!、、、、、今日は朝から家にこもっていた。 でも、外出の口実はいくらでもある。、、、、3時過ぎ、『チョイと、整形外科に行ってくるよ!(万年腰痛の為、時々、腰を伸ばしてもらう)』、『その足で、浅草へ行って真夏用の帽子を買ってくるよ!』と、家を出た。、、、、と言うことで浅草へ行き、帰りは「かっぱ橋本通り」を上野まで、夕刻の散歩をしてきた。
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・「新仲見世」をウロウロ、可愛い娘にキョロキョロ、帽子屋さん・扇子屋さん・レコード屋さんに寄りブラブラ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・「国際通り」に出た! 道の向こうに「かっぱ橋本通り」が見える。 このまま帰るのは脳がない、味噌もない、つまらない!、、、、、ヨシ、今日は「かっぱ橋本通り」を制覇しよう! 
 
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・・・・・・・・・・・・・・・「かっぱ橋本通り」は、有名な「かっぱ橋道具街」と道の中程で交差する商店街。 東の端は「国際通り」の「公園六区入口交差点」、西の端は「昭和通り」の「北上野一丁目交差点」である。 。、、、、、その昔、寛永寺の高僧が浅草寺に詣でる「御成道」として整備された。 浅草は江戸時代から庶民の娯楽の中心であった街。その浅草と上野をつなぐ幹線路として、明治・大正時代は、終日賑わいをみせていた。 明治時代には、線路の上に馬車が走る「馬車鉄道」も運行したそうだ。、、、、、かっぱ橋本通りには、3つの商店街が直線状に連なっており、総延長約1.2kmのかっぱ橋本通りは、只今、『下町七夕まつり』と称し、七夕飾りを楽しむことができる。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・一直線のかっぱ橋本通りは、どこからでも東側(浅草側)の正面にスカイツリーを望むことができる。、、、、、まるでスカイツリーを予測してつくられた道のようでもある。
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りの創業:明治36年の老舗:「どぜう飯田屋」。 「駒形どぜう」と下町の味を二分する“どぜう屋”。、、、、チョイと余談だが、私は大学生時代飯田屋の前辺りの家で、家庭教師のバイトを4年間やっていた。 夜10時頃のこの付近は、七色のネオン輝く、魅惑的な街であった。 今も面影は残るが、チョイと暗くなったかな?
 
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・・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りのイメージキャラクター:かっぱ。 通りのアッチ・コッチに!、、、、、365日立ちんぼで疲れたのか、傷ついた“かっぱ”もいる。
 
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・・・・・・・・・・・・・「かっぱ橋本通り」と直交する「かっぱ橋道具街」。、、、、、交差点付近には、平成15年(2003)に「合羽橋道具街」が誕生してから90年を迎えるにあたり、これを記念してシンボル像「かっぱ河太郎」が建立された。 像は彫刻家:西村祐一氏と工芸作家:北村真一氏の制作。 現在は暗渠となった道具街通りの下を流れる新堀川などの堀割工事を手伝ったとされる河童伝説に基づいて、台東区の支援協力のもと、道具街中央ポケットパークに建立した。
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋(合羽橋)の由来について、、、、、、、「合羽」の由来は2つの説がある。 ①ひとつは、今はない新堀川の整備を行った雨合羽の商人、合羽屋喜八の話である。 今から200年ほど前の文化年間の時代。この辺りは水はけが悪い低地で、雨が降るたびに洪水となり、人々は困り果てていた。 そこで、合羽屋喜八が私財を投じて、水路をつくる工事に着手。 しかし工事はことのほか難航し、これをみた隅田川の河童たちが同情し、喜八の良心にも心を打たれて、夜な夜な工事を手伝い、工事は無事に完成した。 通称かっぱ寺とよばれる曹源寺には、合羽屋喜八の墓がある。 ②もうひとつの説は、橋の近くにあった、伊予新谷加藤家下屋敷にまつわる話。 屋敷に住んでいた下級武士たちは、内職に雨合羽を作っていた。 その雨合羽をこの橋にかけて乾かしていたことから「合羽橋」と呼ばれるようになった。、、、、、合羽橋はなくなり、合羽(かっぱ)伝説が残る。、、、、どちらの説にしても、“かっぱ橋”は“河童橋”ではなく、“合羽橋”である。
 
 
・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りのほぼ中間地点(台東区松が谷3)に、曹洞宗の曹源寺がある。 曹源寺は、慶長3年(1598)頃、現在の丸の内に開山した、その後湯島を経て現在地へ移転した。、、、、ここには、文化11年(1814)、私財を投じて水路を造った合羽屋喜八が祀られているのだが、今日は17時を過ぎ閉門された。 残念!!!
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通り曹源寺近くに、可愛い色気のある河童の像があり、『ここが台東区の真ん中 つまり「へそ」と言われている 台東区』と標されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りの上野側の端、昭和通りとの交差点に到着。、、、、、汗びっしょり、でも元気だ。 熱中症にならず、よかった!
 
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2017年7月 2日 (日)

増上寺

午前中に家族で選挙を済ませ、午後はチョックラ芝の増上寺に行ってきた。 増上寺・浜松町周辺を歩き、1万歩の散歩。
 
 
 
増上寺・・・・・・・・・・徳川家の菩提寺である、浄土宗寺院の三縁山広度院増上寺。 増上寺の創建年代等は不詳であるが、空海の弟子が麹町(千代田区)あたりに真言宗光明寺と称して建立したのが始まりらしい。 その後、明徳4年(1393、室町時代)に、浄土宗に改め、三縁山増上寺と改号した。、、、、天正18年(1590、豊臣秀吉の小田原征伐の年)に、家康が増上寺の前を通りかかったことが縁で、源誉存応上人と親しくなり、菩提寺となるきっかけとなった。、、、、その後、増上寺は麹町から日比谷に移転し、秀吉が死去した慶長3年(1598)に現在の芝へ移転した。 江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林(学問所)の筆頭となる。、、、、、、明治時代に移ると、新政府は明治6年(1873)の太政官布達により全国に公園を整備することとなった。 東京では、芝増上寺、上野寛永寺、浅草、深川、飛鳥山が、東京で最初の公園として指定された。(徳川の菩提寺が狙われたようだ?) 公園化が進み、さらに戦災で大きく被災し、戦後の混乱期には国土計画(プリンスホテル)と土地登記のトラブルも生じた。 現在は、地名は「芝公園」だが、かつての増上寺の境内には、東京タワーがあり、プリンスホテルがあり、公園らしき緑地が点在し、もちろん増上寺自体も残り、まとまりのない“公園”となっている。
 
 
①大門・・・・・・・・・・・増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門。 現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年(1937)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものだ。 旧大門は慶長3年(1598)に、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康より寺の表門として譲られたものである。 その旧大門は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊の恐れが生じ、両国・回向院に移築されたが、昭和20年(1945)の空襲により焼失した。、、、、、戦後、このコンクリート製の大門の所有者が不明となり、増上寺では昭和49年(1974)頃から東京都に対し境内整備の一環として大門の譲与を求めていたが、都の所有物か、否か、結論が出なかった。 その後東京都が調査を行い、都の所有物であり都の財産台帳から誤って抹消されたものであると認めると同時に、大門の建物としての鑑定を行い資産的価値はないものとして増上寺に無償で譲与することを決定。 昨年(2016年)3月25日に東京都と増上寺の間で契約書を取り交わし、東京都から増上寺に返還された。、、、、戦後の混乱が70年経った今でも続いているようだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大門の交差点横に、昭和7年(1932)に区が設置した鉄筋コンクリート造の半地下式の「大門際公衆便所」がある。 かれこれ10年程前に、和風のデザインに改修され清潔な公衆となっている。、、、、、、ちなみに、半地下式の公衆便所は、九段会館際、東京国立博物館などにもあったが、今はいくつ残っているのか?
 
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②三解脱門・・・・・・・・・増上寺の表の顔として、日比谷通りに面して建っている中門。 都内有数の古い建造物で、東日本最大級のこの門は只今、耐震工事中である。、、、、、、元和8年(1622)に再建された。 増上寺が江戸初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門を言う。、、、、、私が高校生の頃、この前を走る都電に乗って、毎週塾に通った思い出の門。 当時は、頭はおろかで、勉強をむさぼっていた割には、出来の悪さに自分にいかり、解脱していなかったようだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・3年前に撮影した三解脱門。
 
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③旧方丈門(黒門)・・・・・・・・・・・慶安年間(1648~1652)、三代将軍家光の寄進で建立された。 この門は、御成門交差点付近にあった増上寺方丈の表門で、黒漆塗りの門である。 方丈は明治時代に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となった。 それゆえ門は、鐘楼の脇に移築し、さらに昭和55年(1980)に増上寺の通用門として日比谷通りに面する、三解脱門の左隣に移築された。、、、、転々と移築され、黒く薄汚れたような、何となく可哀そうな門だ。
 
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④大殿(本堂)・・・・・・・・・・・旧本堂は戦災で焼失したため、昭和49年(1974)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるように設計され、再建された本堂。 本尊は阿弥陀如来(室町期製作)。、、、、首都圏では最大級の御堂で、間口48m、奥行45m、高さ23m。 石段を登りつめた2階に本堂、3階に道場、1階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室がある。
 
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⑤安国殿・・・・・・・・・・・戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂として使用していた建物を、昭和49年(1974)、再建された新大殿の北側に移転し、「安国殿」とした。 その安国殿は老朽化のため、平成23年(2011)に新しい安国殿が再建されました。、、、、まだ、新しい匂いも残っているようだ、堂内にはお守り・お札・羊羹・写真集などグッズが並んでいる。 売店かな???
 
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⑥鐘楼堂・・・・・・・・・・・最初の鐘楼堂は寛永10年(1633)に建立されたが焼失した。 現在の鐘楼堂は戦後の再建によるものであります。 鐘楼堂の大梵鐘は、延宝元年(1673)に鋳造したものである。 江戸三大名鐘の一つに数えられている。、、、、、現在も、朝と夕べ、二回撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもある。、、、、、浅草橋の我が家までは、音も聞こえなず煩悩は浄化されないので、今だ、よからぬことを考えては日々を過ごし、迷い多く安らぐことがないね。
 
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⑦経蔵・・・・・・・・・・・徳川幕府の助成により、慶長10年(1605)に建立された経蔵は内部中央に八角形の輪蔵を配する、八間四面、土蔵造りの典型的な経蔵である。 こちらも、寺社建築を得意とする松井建設の手により、只今、耐震工事中。
 
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・・・・・・・・・・・・・・3年前に撮影した経蔵。
 
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⑧徳川将軍家墓所・・・・・・・・・・増上寺は上野寛永寺と共に徳川将軍家の菩提寺。 増上寺には、二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂夫人)ら5人の正室、三代家光側室桂昌院(五代綱吉実母)はじめ5人の側室、及び、三代家光第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。、、、、、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)と呼ばれ、増上寺大殿を中央にして、その左右に並んでいた。 御霊屋はいずれも、日光東照宮のように荘重美麗な外観で観る人を圧倒していたようだ。 残念であるが、昭和20年(1945)の空襲で、ほぼ全ての建物が焼失した。 さらに、御霊屋跡はプリンスホテル、公園となり、墓所宝塔も一か所に集められてしまった。、、、、今日は宝塔が集められて改葬された現在の将軍家墓所の中を見てきた。
 
・・・・・・・・・・・・・現墓所の門。 元は六代家宣の宝塔前の中門であった。、、、、6人の将軍の墓(宝塔)が、この門の後ろに納められている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・門の後ろには、正面右に二代秀忠夫婦、左に六代家宣夫婦の宝塔を配し、両サイドには家継・家重・家慶・家茂・静寛院和宮・将軍生母側室の塔が並ぶ。
 
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・・・・・・・・・・・・・秀忠夫婦の石塔。 秀忠の宝塔は焼失し、正室江与の石塔に合祀されている。、、、、、世が世ならば、台徳院霊廟と称する壮大な墓所が残されているのだが、徳川の世は遠く去り、大東亜戦争に負け、今は夫婦で小さな墓に眠る秀忠に、哀れさを感じた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・静寛院和宮の青銅製宝塔
 
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⑨台徳院霊廟・惣門・・・・・・・・・・台徳院霊廟は、二代徳川秀忠の霊廟建築である。 壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったが、一部の建物を除き、戦災で焼失した。 惣門は数少ない罹災を免れた建築である。 寛永9年(1632)に造営された。
 
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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・芝公園にはまだまだ古いもがある、、、、、このあと、芝丸山古墳にのぼり、チョイと「芝」の町を歩き帰宅。

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