« 2017年7月16日 - 2017年7月22日 | トップページ | 2017年7月30日 - 2017年8月5日 »

2017年7月23日 - 2017年7月29日

2017年7月28日 (金)

台東区台東

歳をとるとアッチャコッチャが故障し、私の耳は数年前から音波の受診状況がチョイト悪く、音波受信機を耳の穴に入れて音量を拡大している、世間では“補聴器”と呼んでいる機械である。  私が愛用する受信機はコンピュータ内蔵のデジタル式で、自分で音量調整ができないため、今日は散歩を兼ね、調整に東上野まで行ってきた。 我が家(浅草橋)から「台東区台東」の町を抜け、東上野までの8千歩です。
 
 
 
台東区の由来・・・・・・・・昭和22年(1947)3月15日、旧東京市の下谷区と浅草区が合併するとき、両区ともに下町文化の根付く由緒ある土地のため、合併後の名称決めは紛糾した。 様々な案が考え出され、最終的に下谷区側の案は「上野区」、浅草区側の案は「東区」に収束したが、結局まとまらず、都知事の案により下谷区台東小学校にて既に採用されていた「台東」の語を用い「台東区」とした。 『康煕字典』では「台東(たいとう)」という熟語に「日出るところ衆人が集まって栄える場所」の語義があり、また「台」に“悦ぶ”の意があるので上野山つまり下谷区に当て、「東」には“春”の義があって浅草区を指すと解釈。 双方の区に、こじつけ、まさに理に適うところから、これを区名に選定したそうだ。、、、、私は浅草区の時代に生まれた住人だが、これほどの立派な(屁)理屈を踏まえた名誉ある区名とは知らなんだ! 昨今多い、新〇〇、東〇〇のように、新・中・元・東・西・南・北を冠した区名より素晴らしいね!
 
台東区台東とは・・・・・・・・台東区“台東”と聞いて、どの辺りかピンとくる人は、地元の住人か、地元に勤めている人か、“台東”で交通事故を起こした人ぐらいだろう。、、、、、“台東”にある大手企業は、台東1の印刷会社である凸版印刷、台東4に紫色のビルで店舗を展開するディスカウントストアの多慶屋が有名。 地理的には、秋葉原と御徒町の間で、昭和通りの東側である。、、、、、現在の“台東”の町は、対馬厳原藩宗家上屋敷・伊勢久居藩藤堂家上屋敷・旗本士宅などのあった下谷二長町。 秋田藩佐竹家上屋敷・津藩藤堂家中屋敷・大洲藩加藤家中屋敷・出羽矢島生駒家上屋敷など武家地であった下谷竹町。大洲藩加藤家上屋敷・御徒組大繩地・旗本士宅であった御徒町。 以上の、下谷二長町、下谷竹町、御徒町を中心として、昭和39年(1964)の新住居表示にて、区名から取って名付けられたもので、“台東”の由来とは関係ない。、、、、、区名は真剣に考えたが、町名はめんどくさいので区名のパクリ。 いい加減なものだ!
 
 
 
①旧柳北小学校・・・・・・・・・・このブログをよく見る人は、ご存じ、吾輩の母校。、、、明治9年(1876)、第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立され、明治20年(1887)に柳北女子尋常高等小学校、明治41年(1908)に柳北尋常小学校と改称した。 大正15年(1926)には、現在の鉄筋コンクリート3階建校舎が竣工し、昭和36年(1961)には東京都台東区立柳北小学校として、吾輩が卒業した。 平成13年(2001)には涙を流し閉校となる。、、、、、現在は、廃校の再活用で、蔵前小学校の建て替えの為、仮校舎として使用中。、、、、、この学校の西側に台東区台東1丁目と千代田区和泉町が広がる。
 
1707281231090
 
 
②三井記念病院・・・・・・・・・・・千代田区和泉町にある、三井財閥系の企業により支援されている総合病院。 現建物は平成23年(2011)9月に竣工した地上19階建ての病院。、、、、、三井記念病院は、安政5年(1858)に江戸お玉が池に開設された種痘所を前身として、東京帝国大学附属病院の跡地(現在地)に、明治39年(1906)に三井家総代三井八郎右衞門により、「三井慈善病院」として設立された。 以後、昔も今も、東京大学医学部の協力の下に診療している。、、、、、我が家では、家族全員がこの病院に昔から世話になっており、吾輩が幼き頃の小児科、我妻の娘の出産、我がオヤジのガン治療、我が母の白内障手術など、いつも、いつも、お世話になります。 極め付きは、3年前、吾輩が大動脈解離で大動脈置換手術を受けたのも、この病院である。 その節は、ありがとうございます。
 
1707281239180_2
 
1707281238110
 
・・・・・・・・・・・・三井記念病院は千代田区和泉町、道路を挟み斜め前に凸版印刷の本社がある。 こちらは台東区台東1丁目。、、、、ここは、かつての市村座の跡地。 (写真は4年前に撮影)
 
2012_0312_153652_5
 
 
③櫻稲荷神社・・・・・・・・・台東区台東2丁目、蔵前橋通りに、朱塗りの鳥居が立つ細い参道の入り口がある。 こちらは「櫻稲荷神社」と称し、大名の藤堂家邸内に鎮座していた稲荷神社。 関東大震災後に地元の岡本悟一氏が奉受して桜稲荷神社とした。 昭和27年(1952)には京都伏見稲荷神社より分霊を勧請、鎮座した。、、、、、この細い路地に、“よくぞ祀ったお稲荷さん”と云うわけだ!
 
1707281247520_2
 
1707281248280_3_2
 
 
④竹町金刀比羅神社・・・・・・・・・・当神社は、当地(台東2丁目)周辺にあった生駒讃岐守一正の邸内鎮守として創建したといわれている。、、、、江戸には金刀比羅神社が多く分祠されているが、当神社は江戸最古の分祠と言われている。
 
1707281252240_3
 
 
⑤台東の建築・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・5軒長屋、、、、、、、、昭和15年(1940)頃の建物。 右端は森永牛乳の店であった。 2階には錆びたエンゼルマークと、懐かしい森永マミーの球形の看板が残されている!
 
1707281256380
 
・・・・・・・・・・・・・・・台東製作所、、、、、、3階部分は増築された鉄筋コンクリート造り(?)の建物。 戦前の建築らしい(?)。
 
1707281257390_2
 
・・・・・・・・・・・・・・6軒長屋、、、、、、、、1件だけ銅板建築の名残が残る長屋だが、そろそろマンションに生まれ変わかも?
 
1707281258520
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・9軒長屋+9軒長屋、、、、、、、、凄い! 車はもちろん入れない狭い路地に、9軒長屋が向かい合わせに立ち並ぶ。 路地からは2階までしか見えないが、3階に部屋を増築した部分も見える。
 
1707281300230_2
 
1707281301240
 
1707281301460_2
 
⑥佐竹商店街・・・・・・・・・・台東3丁目・4丁目の東側に、「佐竹商店街」のアーケードがある。 明治31年(1898)に商店街組合を結成し、金沢の片町商店街に続き、日本で2番に古い商店街である。 商店街名の“佐竹”は、江戸時代に当地に出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷(藩主:佐竹氏)があったことに由来する。 商店街の北端は、春日通りで御徒町駅までは、目と鼻の先。、、、、、吾輩の若き頃は、地元の客で終日にぎわっていた商店街だが、日ごとに寂しくなるようだ。
 
1707281356370
 
1707281314070
 
 
 
●・・・・・・・・・・・春日通を横断し東上野の町に入る。 暦の神宮館の前をとおり、下谷神社 で手を合わせ。、、、、、、用事が済めば、今日はコミュニティーバスで我が家まで帰宅。
 
1707281401160
 
1707281415280_3
 
1707281439301

2017年7月24日 (月)

小菅~綾瀬

東武伊勢崎線の小菅駅で下車し、裏通りをブラブラ、常磐線綾瀬駅まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
①小菅駅・・・・・・・・・・現実は、刑務所の時代は遠い昔に終わり、近代的な拘置所の時代に変わった“小菅”である。、、、、、、小菅駅にホーム立った私は、目の前の東京拘置所を見ると、やくざ映画の影響か? 小菅駅で降りる若い男性は“親分に差し入れに来たチンピラか?”、若い女性は“刑があける日を待つ愛する男に会いに来たのか?”、カバンを下げたサラリーマン風の男は“正義の味方の弁護士か?”、和服の女性は“背中に登り竜が彫られた姉御か?”、小太りのおばさんは“差し入れ屋のやりてババアか?”、ハゲの親爺は“私腹を肥やした悪徳元刑務官か?”、、、、、人を見る目が狂ってしまう。 
 
1707240817421
 
1707240818420
 
1707240820060
 
1707240826260
 
・・・・・・・・・・・・・小菅駅で下車したものの、『さて、どっちへ歩こうか?』 『今後の為に、より深く拘置所を知っておくべきか?、拘置所とは反対側を歩いてみるか?』 迷っていると、金髪の外人さんが駅に向かって来た。 『これで決まった!外人さんがやって来た、拘置所とは反対の方向へ行こう!』
 
・・・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線の高架下を抜け、常磐線・千代田線の高架下を抜け、足立区足立2丁目の裏道を歩く。
 
1707240833270
 
 
②庚申塔・・・・・・・・・・住宅が立ち並ぶ東武伊勢崎線の線路沿い(足立2-31)に、庚申塔が二基、他に出羽三山巡礼供養塔、 「庚申塚修復記念」の石塔がある。 祠の中に建つ庚申塔には、「安永九年庚子十二月吉日五反野村講中拾二人」と刻まれている。 安永9年(1780)、この近くの五反野村の12名の人々が庚申講を結成し、主に長寿を願う行事が満願に達したのを記念してこの庚申塔を建立したそうだ。、、、、、庚申塔に札束のレプリカが供えられていたが、どういう意味かな? 本物なら頂戴してくるのだが、、、、
 
1707240841090_4
 
1707240838580_2_2
 
 
③下山国鉄総裁追憶碑・・・・・・・・・・・・・西綾瀬1丁目の常磐線ガード脇に、初代国鉄総裁を偲ぶ碑がある。 戦前生まれの人であれば、御存じ、下山事件の下山貞則総裁を偲ぶものである。、、、、、事件のあらましは、、、、昭和24年(1949)7月5日、下山初代国鉄総裁は朝8時過ぎに大田区上池上の自宅を公用車で出勤した。 途中、銀行等に寄り、9時半頃、日本橋三越で車を降り、入店しそのまま消息が途絶えた。 翌日の午前0時半頃、常磐線:北千住~綾瀬間の東武伊勢崎線が頭上を交差する地点において汽車に轢かれた下山総裁の遺体が発見された。 検視の結果は、遺体から生活反応が見られなかった事から、列車に轢かれた時に総裁が生きていたか、死んでいたかが問題となった。 自殺か、他殺か?。 警察からは公式の捜査結果が発表されないままに捜査は打ち切られ、迷宮入りとなった。 当時は高インフレにあえぐ経済の立て直しのために緊縮財政がとられ、6月には行政機関職員定員法が施行され、これにより国鉄に対し10万人近い人員削減が求められていた。 また、同年7月15日には三鷹事件、8月17日には松川事件が発生している。、、、、、、私は、当時3歳、まだ世の中の情勢に疎く、事件には無関心であった。 ゴメン!
 
・・・・・・・・・・・・・碑は、昭和26年(1951)、事件現場付近に建立されたが、平成3年(1991)常磐線荒川橋梁改良工事に伴い、現在地に移設された。
 
1707240848390
 
1707240847370
 
・・・・・・・・・・・・・・事件現場、、、、、写真奥は北千住側、手前が綾瀬側。 左側に常磐線が走る。 中央の電車は千代田線。 奥に常磐線・千代田線の上を交差して東武伊勢崎線が走る。 事件現場(総裁の遺体発見現場)はこの交差部分らしい。 追憶碑は手前のガードの左手奥にある。
 
1707240859450
 
 
④西綾瀬の町から綾瀬の町へ・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・農家の匂いが残る、西綾瀬3丁目を抜けて行く
 
1707240906110_2
 
・・・・・・・・・・・・・どこかの里山に佇む寺の雰囲気が残る、新義真言宗の長性寺(西綾瀬3)は、寛永元年(1624)に創建した。 荒川辺八十八ヶ所霊場50番札所。
 
1707240916140_4
 
・・・・・・・・・・・・・・弘道小学校(西綾瀬4)は、明治11年(1878)創立の歴史のある小学校。当初は現在の綾瀬川左岸(綾瀬4)の常磐線線路際にあった。 大正15年(1926)に現在地に移転した。 校名は論語衛需公篇の「子日人能弘道非道弘人」からとされているが、近くを水戸街道が通っており、水戸藩の藩校「弘道館」を意識したのかも?
 
1707240922130
 
・・・・・・・・・・・・・・弘道小学校前の通り。
1707240927070_4
・・・・・・・・・・・・・・この通りに「綾瀬村役場跡」の碑がある。、、、、綾瀬村は明治22年(1889)から昭和7年(1932)まで存在した自治体で、その後東京市足立区に吸収された。
 
1707240923550
 
・・・・・・・・・・・・・綾瀬川に架かる五兵衛橋を渡り、西綾瀬から綾瀬に入る。、、、、、五兵衛橋は、この辺を開拓した金子五兵衛に由来している。江戸時代の初め、金子五兵衛は他の者と一緒に武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から転入して開拓し、一帯はその名をとって五兵衛新田村となった。、、、、この橋の初代は、寛永年間(1624~1644)に綾瀬川が内匠橋から伊藤谷橋あたりまで新川として開削されたため村が東西に分断されるため、代償として長さ12間、幅9尺の土橋が幕府によって設置されました。 これが五兵衛橋の初代です。 その後、橋は何度か架け替えら、現橋は平成10年(1998)に架けられた歩道橋である。、、、、、この橋の先代の橋は、「男はつらいよ」第26作「寅次郎かもめ歌」に登場している。 マドンナ役の伊藤蘭が入学する学校が葛飾高校(架空)で、通学途中で渡る橋が五兵衛橋。、、、、一見、たいしたことない歩道橋だが、歴史あり、エピソードありで、驚きだ!
 
1707240934250
 
1707240933550_2
1707240930320
 
・・・・・・・・・・・・・・五兵衛橋を渡り綾瀬4丁目に入ると、大地主のような門構えの住宅がある。 門の前には足立区教育委員会の名で、「金子家文書」と標記した案内板が立てられていた。、、、この金子家は金子五兵衛の家である。、、、、そして、金子文書とは、新撰組近藤勇が流山で捉えられる前、慶応4年(1868)3月14日から4月1日までの19日間、あの新撰組が、金子家や近くの観音寺に分宿していた。 総勢227人もの大集団で、世情柄精神的な負担や、その世話(経費)などで大層迷惑を蒙った上に、後日明治政府から、強い叱責があったという。 近藤勇らが五兵衛新田の金子家に滞在した事は、その賄方の記録として金子家文書に残っている。 現在近藤勇として一般に知られている袖内に腕組みした写真も、金子家が所蔵しているらしい。
 
1707240938260
 
・・・・・・・・・・・・・・綾瀬駅の北側(綾瀬4)に、綾瀬稲荷神社がある。 この神社は、創建年代は不詳であるが、五兵衛新田の鎮守社であったといい、明治7年(1874)に五兵衛神社と、昭和42年(1967)年に綾瀬稲荷神社と改称した。
 
1707240945410
 
1707240951060
 
 
⑤綾瀬駅・・・・・・・・・・綾瀬駅に停まる電車は千代田線だけ。 千代田線は地下鉄の路線。 その線を走るのはJRの電車(常磐緩行線)。 窓から横を見ればJRの電車(常磐快速線)が通過する。 次の北千住で常磐快速線に乗り換えると、浅草橋まではJR料金。 西日暮里で山手線に乗り換えると、浅草橋までは地下鉄+JR料金。、、、、、ややっこしい!勝手にしろ!
 
1707241005570
 
1707241006470
 
1707241010350_2

2017年7月23日 (日)

深川

江戸六地蔵巡りも、いよいよ最後、今日の散歩は第五番の霊巌寺である。 都営新宿線の森下駅で下車し門前仲町まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
①森下駅・・・・・・・・・・・都営新宿線の島式ホーム1面2線を有する地下駅。 昭和53年(1978)12月21日に都営新宿線の駅として開業し、平成12年(2000)12月12日に大江戸線が開業し乗換駅となる。、、、、、今日は日曜日、通勤客も少なく、駅は閑散としていた。
 
1707230802310
 
1707230809500
 
1707230816480
 
 
②深川神明宮・・・・・・・・・慶長年間(1596~1615)、摂津の人・深川八郎右衛門が一族を引き連れて当地を開拓するにあたり、屋敷内に小祠を設けて伊勢神宮の御分霊を奉斎したことに始まる。慶長元年江戸に入った徳川家康がこの地を訪れ、八郎右衛門に地名を尋ねたところ、未だ人も少なく“地名はない”と答えたので、八郎右衛門の姓をとって「深川」とするよう命じたという。 これが「深川」の始まり。、、、、、、その後、江戸の繁栄に伴って深川も発展し、神明宮は深川の総鎮守として崇敬を集めた。、、、、、現在は、寿老神を祀り、正月の七福神巡りで参拝客を増やしている。 ガッポリ!
 
1707230821190
 
1707230823470
 
・・・・・・・・・・・・・・大正・昭和の日本画家:伊東深水は、明治31年(1898)2月4日、ここ深川神明宮の門前で生まれたそうだ。 小学一年生まで深川で過ごし、二年生の時深川を離れた。 深水の雅号は深川の水にちなんでいる。 昭和47年5月8日没。、、、、ちなみに、深水の娘:朝丘雪路は昭和10年(1935)7月23日に東京市京橋区築地で生まれた。
 
 
 
③新小名木川水門・・・・・・・・・・・・小名木川は徳川家康が造った人工の運河で中川(今の旧中川)と隅田川を結んでいる。、、、、、、最も隅田川寄り(清澄2・常盤1)には萬年橋が架かっている。 その東隣りに新小名木川水門がある。、、、、、、これまで、鋼製単葉ローラーゲート形式、高さ11mのゲートが3連の水門(昭和36年(1961)に完成)であったが、耐震化工事で、1ゲートを撤去し、2連のゲートに改修される。
 
1707230840320_2
 
1707230841510
 
1707230835260
 
・・・・・・・・・・・・・・完成予想図
 
1707230834040_2
 
 
④清洲寮・・・・・・・・・・・江東区白河に建つ、“寮”とは言っても、民間のアパート。 大林組の設計・施工で、昭和8年(1933)に竣工した、鉄筋コンクリート造4階建ての建物。 総戸数66戸、長さ70m程の建物は大きい!、、、、、、最近、改装したようだが、むき出しの水道管、木製の引き戸、玄関床のカラータイル・壁のスクラッチタイルなど、昭和レトロの匂いがプンプン。 現在もアパートとして人気のある建物で、昭和のハイカラを求め空室待ちの人もいるようだ。
 
1707230850300
 
1707230854550_2_2
 
1707230903250
 
1707230902540_4_2
 
1707230903430
 
1707230901440
 
1707230859290_2
 
 
⑤霊巌寺・・・・・・・・・清洲寮とは背中合わせの霊巌寺は、寛永元年(1624)、霊巌島(現:中央区新川)にて創建したが、明暦3年(1657)の大火で被災し、万治元年(1658)に現在地(江東区白河1)に移転した。
 
1707230921440
 
1707230920460_2
 
・・・・・・・・・・・・・・江戸六地蔵の第五番が、ここ霊巌寺にある。、、、、、水戸街道を見守る像の高さは、2.73m。 深川の地蔵坊正元が発願し、享保2年(1717)に造立された。 製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。、、、、、ここの像は低い位置に置かれ、顔立ち、姿も細部までよく見ることができる。 風雨にさらされ、チョイと傷みが見られる。 早い治療が必要かも?
 
1707230911220
 
1707230919470
 
・・・・・・・・・・・・・・八代将軍徳川吉宗の孫にあたる松平定信(1758~1829)は、天明7年(1787)に老中となり、寛政の改革を行った。 その定信の墓所も、ここ霊巌寺にある。、、、、、突然ですがここで問題、松平定信が命名した超有名な菓子屋の名が現在も残っている、その菓子屋の名は?、、、、、答えは、全国に展開した「風月堂」である。 江戸時代、風月堂の本家となる、江戸・京橋鈴木町の「大坂屋」は定信に重用され、松平家の御用菓子商に指定され屋号も「凮月堂清白」(“風”の字は、“几”中が“百”)の5文字を頂戴した。 現在は、本家筋が上野凮月堂、暖簾分けされたのは神戸凮月堂、東京(銀座)凮月堂、長野凮月堂、甲府凮月堂などなど。 ちなみに、私も好きな銘菓「ゴーフル」は全国の凮月堂で売られている。
 
1707230917200
 
1707230918220
 
 
⑥永代寺・・・・・・・・・・霊巌寺から南へ約1.2km、深川不動尊の参道脇に永代寺がある。 永代寺は寛永元年(1624)に、永代島に創建された。 江戸時代には富岡八幡宮の別当寺で、江戸六地蔵の第六番として栄えたが、明治元年(1868)の神仏分離により廃寺となった。 享保5年(1720)に造立した六地蔵はこの時取り壊された。 現在の永代寺は、明治29年(1996)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興したものである。
 
・・・・・・・・・・・・・現在の永代寺は、お不動様の参道に面した一画にある。本堂の上に塔がのる珍しい寺だ。
 
1707231012430
 
・・・・・・・・・・・・・・境内の隅に、取り壊された六地蔵に代わる地蔵様として、子育地蔵+取持地蔵の二体ペアにて仕込み中である。
 
1707231014300_3
 
・・・・・・・・・・・・・・今日はついでに、旧永代寺の寺域を歩いてみた。 旧永代寺は広く(約2万2千坪)、まず富岡八幡宮は永代寺が別当寺であった。 境内では骨董市が開かれていた。
 
1707230952510_2
 
1707230957350
 
・・・・・・・・・・・・・・旧永代寺が廃寺となった後、その一画に、明治11年(1878)に成田不動の分霊が引っ越してきたのが現在の深川不動尊である。、、、、旧永代寺には11の塔頭があり、その一つ吉祥院が現在の永代寺である。、、、、、地蔵さんは、どうやら不動さんに母屋を取られたようだ。
 
1707231009380
 
・・・・・・・・・・・・・・富岡八幡宮と深川不動尊、永代寺などの周辺に、深川公園が点在する。 この公園も旧永代寺の跡地である。、、、、、公園の中に立つ「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑。、、、、、燈明塔も旧永代寺跡に立っている。
 
1707231010480_2
 
1707231011030_2
 
・・・・・・・・・・・・・ここでまた問題です。、、、、「門前仲町」の“門前”とは?、、、、もう、お判りですね、豆助!  そう、門前は永代寺の門前のことだったのです。 
 
 
 
●・・・・・・・・・・・・・これにて、江戸六地蔵を全て巡ったことにする。 門前仲町から都バスで浅草橋へ帰ることにした。、、、、「東京都シルバーパス」を持っていると、都内の主要バス、都営地下鉄は、年2万円ほどで乗り放題。 ありがたいね!

« 2017年7月16日 - 2017年7月22日 | トップページ | 2017年7月30日 - 2017年8月5日 »