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2019年5月22日 (水)

緋牡丹に会いに東照宮へ

私のスケジュールは、今だに10連休の余波が続いている。 何かと言えば、医療機関の診察が全て10連休明けの先週・今週に集中したのだ。 先週は、中野の病院で眼科検診、秋葉原の病院では心臓血管外科の検診、ご近所のクリニックで整形外科の検診とリハビリ。 今日は、上野の病院で泌尿器科の検診と、飯田橋のクリニックで循環器内科の検診、明日は再びご近所の整形外科。 さらに“おまけ”で、10連休中は予定外の風邪でダウンし、ご近所のクリニックで診てもらった。 散歩に出るより、病院通いのほうが多いようだ! 幸い、どこの医療機関でも“異常なし”と言ってくれるが、必ず次回の予約をさせられ、“またのおこしをお待ちしてます”とカモにされているのかも?

朝8時に家を出て、上野の病院で朝一の診察を受けた後、上野東照宮へ行ってきた。 9千歩の散歩。




●上野に来た、日米の軍人 ・・・・・・・・・・病院を後に上野駅を抜けて上野公園に出ると。 平日の朝にもかかわらず、ゾロゾロ駅から美術館・動物園に向かって歩く人・人・人。 子供の姿は見えず、暇な中高年ばかり、しかも女性が多いね!、、、、私も暇な人間の一人で、東照宮の看板が目に入る。 そうだ「牡丹の東照宮」に行ってみよう! チョイト小股が切れ上がった『緋牡丹のお竜』姐さんに遇えるかも!、、、、ここで問題。「小股」とはどこのこと?(答えは、ブログを最後まで読んで!)

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・・・・・・・・・・・・・・東照宮参道の鳥居前に「小松宮彰仁親王銅像」がある。 なぜここにあるの?、、、、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう、弘化3年(1846)1月16日~明治36年(1903)2月26日)は、日本の皇族、陸軍軍人で、彰義隊の上野戦争時の官軍征討総督だった。、、、、戊辰戦争に従軍した後、明治10年(1877)、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立され、その総長に就任した。明治20年(1887)、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。、、、、今日(22日)、皇后雅子さまは、日本赤十字社の名誉総裁として赤十字全国大会に出席されたが、総裁の座はこの当時から皇族が務めていたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・小松宮彰仁親王銅像の後ろに、昭和4年(1929)に建てられたグラント将軍植樹碑がある。 グラント将軍は南北戦争時代の北軍の将軍で、南軍のリー将軍と並ぶ有名な将軍。、、、、明治10年(1877)から約2年間、グラント将軍は家族同伴で世界を周遊した。 その際、来日し、明治12年8月25日、上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。 碑は、正面に将軍の胸像を刻み、左右に和文、英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。、、、、南北戦争と言えば、私には、ジョン・ウェインが主演した西部劇「黄色いリボン」、「アパッチ砦」の時代である。 その頃、家族同伴の世界旅行とは贅沢であり、危険であり、勇気のいる行動だったであろう。 スゴイ!

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●緋牡丹のお竜に会えず、昇り龍と降り龍を拝見! ・・・・「ぼたん苑」を期待して来てみたら春の開園は先週までで閉苑していた。 “小股の切れ上がったお竜さん”にも会えず、残念無念また来年!、、、、じっくりと東照宮を拝観することにした。

・・・・・・・・・・・・・・まずは、東照宮の正面に延びる表参道の大石鳥居。 盤石の基礎工事により、安政の大地震にも、関東大震災にもビクともしなかった御影石の鳥居である。 この鳥居は、寛永11年3代将軍家光が上洛の折、西の丸で火災があり、留守居の老中酒井忠世は責任を感じ寛永寺に蟄居謹慎したが、家光の逆鱗に触れ失脚した。 そのためか天和年間(1681~1684)に解体され土中に埋められてしまった。 7代の末裔忠知が、100年後の享保19年、先祖の建てたこの大鳥居を、幕府の許可を得て土中より掘出し清掃研磨、改修整備し再建したした。、、、、国指定重要文化財。

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・・・・・・・・・・・・・・大石鳥居をくぐると、水舎門(みずのやもん)が見える。 水舎門は慶安4年(1651)阿部重次が建築奉納したもので、本来は門ではなく、社殿右前にあった御水舎の屋根だけを、昭和39年(1964)に移して門の屋根とした。、、、、国宝かと思ったが、価値は低そうだ!

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・・・・・・・・・・・・・・水舎門をくぐると、参道の左右に石灯籠が並んでいる。 200基以上あり、ほとんどが現在の社殿の建築の年、慶安4年(1651)に諸大名より奉納されたもの。 大きいものは、寛永8年(1631)に佐久間勝之より奉納されたもので、高さ6.8m程である。、、、、200基あれば、家庭のインテリアに1基ぐらい無くなっても判らないかも? 

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・・・・・・・・・・・・・・石灯籠が並ぶ参道の南側に「ぼたん苑」がある。 参道に面したぼたん苑の出入口は閉ざされていた。

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・・・・・・・・・・・・・・石灯籠の後ろ、柵の中に五重塔が見える。 旧寛永寺五重塔(重要文化財、=旧東照宮五重塔)である。 寛永8年(1631)建立の初代の塔が寛永16年(1639)に焼失した後、同年ただちに下総・古河城主 土井利勝によって再建された。 現在、塔は上野動物園の敷地内にあり、所有者は東京都である。、、、、初代の五重塔はもともと上野東照宮の一部として建てられたが、明治になってから神仏分離令により、塔は東照宮から寛永寺の所属となり、さらに昭和33年(1958)に同寺より東京都に寄付され(塔が動物園の敷地内にあるため)、現在では上野公園の管理下にある。、、、、塔を拝観したい人は、拝観料ならぬ入場料を払い動物園に入園する。 帰りにはパンダを只で見ることができる、おまけ付き!

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・・・・・・・・・・・・・・・石灯籠の奥には、諸大名から奉納された48基の銅灯籠がある。 灯籠は劣化がひどく痛々しいものもあるが、国指定重要文化財だ。、、、唐門両側に3基ずつある6基の銅灯籠は、紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より寄進されたもの。

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・・・・・・・・・・・・・・参道正面に慶安4年(1651)の造営の唐門(国指定重要文化財)がある。 正式名称は唐破風造り四脚門である。 柱内外の四額面には左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻がある。 室町桃山時代の技術を集大成したものと云われている。、、、、日光東照宮の陽明門と比較しては失礼に当たるかも?

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・・・・・・・・・・・・・・ 菱格子の向こう側が透けて見えるので、透塀とよばれている拝殿をぐるりと囲う塀。 慶安4年(1651)造営。 こちらも国指定重要文化財。 上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上、色鮮やかに生き生きとした表現で彫られている。

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・・・・・・・・・・・・・・慶安4年(1651)に造営された、拝殿、幣殿、本殿で構成される権現造りの社殿。 国指定重要文化財。 文化財保護の為と社殿内は非公開となっている。、、、、金色の社殿は、ぜひ中を見てみたいね!

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・・・・・・・・・・・・・・東照宮から階段を下り不忍池の方に向かう参道がある。 この参道の階段下に、明治6年(1873)、江戸城内紅葉山東照宮より移築した不忍口鳥居がある。 御影石で造られた大きな鳥居だ。、、、、この鳥居の足元(〇印)には、明治時代の水準測量に使用した“不”の字に似た几号水準点が残されている。 この水準点、現在は使用されていない珍しいもの。

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●「小股」を“おまた”と読むな!・・・・・“おまたの切れ上がった”と読むと、チョイト卑猥だね。、、、、「小股の切れ上がった」とは、「スタイルがバツグン」、「凛とした態度」、「色っぽい仕草」などを感じさせる言葉。 ところで、女性の「小股」とは、イロイロな説があるらしい。 主な説を紹介すると、、、、①「うなじ」を指す。(女性の綺麗なうなじは色気ムンムン。 私はこの説をいままで信じてきた!)  ②そのものズバリ「股」を指す。(女性の股は見るのが難しいね?)  ③「脚」を指す。(着物の裾から、チラチラ見える部分、色気を感じるところだ!)  ④「足首」を指す。(世の中には、足首フェッチもいるからね!)  ⑤特定の場所ではなく、女性の動作・仕草を指す。(“小股”の二字と結びつけるが難しそうだ!)、、、、どうやら、これが正解と云えるものはないそうだ!

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