台東区

2017年9月22日 (金)

浅草橋~平井

今朝のNHK天気予報で、東京の天気は、午前中は曇り、正午からは小雨、夜は雨と受け止めた。 午前中は天気ももちそうなので、我が家から総武線沿いに歩いてみることにした。 浅草橋の我が家から平井駅まで、1万4千歩の散歩です。
 
 
①浅草橋を発つ・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・高架ホーム下の店舗、駅前の飲食店、どこも、まだ閉まっている。、、、、、高級ブランドの店、三つ星レストランなんてない。 あるのはビーズ屋さん、安売り雑貨屋さん、超B級飲食店ばかり。
 
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・・・・・・・・・・・・・・朝8時、そろそろ駅から職場に向かう人も出てきた。
 
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②両国橋を渡る・・・・・・・・・・“雨降る天気”は嘘のような“爽やかな晴れ”。 
 
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③両国駅付近を通過・・・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・今日は回向院 には立ち寄らず素通り。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・・両国駅の南側、京葉道路に面した両国3丁目22番は芥川龍之介が18歳まで育った処。 芥川は回向院の隣にあった小学校に通ったそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・江戸東京博物館前から北斎通りに入る。
 
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北斎通りを行く ・・・・・・・・・・・・江戸東京博物館前から錦糸公園の先の錦糸橋(横十間川)までの通りを言う。 江戸東京博物館前から横川までは、かつての本所南割下水(ほんじょみなみわりげすい)と呼ばれた、道路の真ん中を掘り割った下水路であった。 割下水は昭和初期に暗渠化され、平成の世になり歩道などが整備され、平成6年(1994)から「北斎通り」と称した。
 
・・・・・・・・・・・・・・・すみだ北斎美術館(墨田区亀沢2)の敷地は、江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷あった。 この近くには葛飾北斎が住んでいた、つまり北斎の地元にできた美術館である。、、、、、、妹島和世建築設計事務所の設計、大林組+東武谷内田建設の施工による、RC造地上4階/地下1階建ての美術館。、、、、、大変残念なことだが、私はまだ入館したことが無いので、コメントなし。
 
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・・・・・・・・・・・・・・こちらも亀沢にある、日本相撲協会が直営の相撲神社で、「野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)」。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・「北斎通り」、名前は粋で、江戸趣味を感じさせるが、通りには古い建物は残っておらず、またシャレた店舗が並んでいるわけでもない。 鋼管、パイプなどを扱う会社が多く、恋人同士の散歩にはチョイと不向きである。
 
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・・・・・・・・・・・・・・北斎通りは錦糸町駅手前で大横川親水公園と交差する。 東京スカイツリーの足下から、南に江東区木場方面に流れる大横川。 その一部を暗渠化し、整備されて親水公園となっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・錦糸町駅の北側を再開発した「アルカタワーズ」。 3棟の超高層オフィスビルと、ホテル、シンフォニーホール、商業施設ビル、高層住宅などで構成されている。 前を貫く道路は北斎通り。、、、、、、サラリーマン時代、私のデスクも一時期このビルの中にあった。 今は懐かしいビル。
 
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・・・・・・・・・・・・・・津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年(1910)に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神とした。
 
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・・・・・・・・・・・・・・錦糸町駅北口前をしたすら東に向かう。
 
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・・・・・・・・・・・・・・ 錦糸公園の奥に建つ「Olinas」の超高層ビル。 ここは、時計の旧精工舎の工場跡地である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・錦糸公園の東側に残る、旧病院建築。 現在は、昭和19年(1944)に病院跡に移転した阪上製作所の社屋となっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・北斎通りは両国の江戸東京博物館前より東に真直ぐ伸びて、ここ横十間川に架かる錦糸橋までである。 これより江東区亀戸の町となる。
 
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⑤亀戸駅前を行く・・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・亀戸駅前を通り抜け、我が足は東へ向かう。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東武亀戸線 をチョイト見て、ついでに写真も撮って、先を急ぐ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・丸八通りを横切って、亀戸中央公園を抜けると、旧中川に出る。
 
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⑥旧中川を越えれば平井駅・・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・旧中川は江東新橋 で越える。 超えると、そこは江戸川区平井の町。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りから、チョイとそれると平井駅 に出る。 駅前に着くと、ちょうど、ポッリと落ちてきたが、まだ傘は必要なさそうだ、帰ることにした。
 
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2017年9月 1日 (金)

震災記念日

9月1日は「防災の日」であるが、中高年には「震災記念日」と言ったほうが、通りがいいかも。 終戦直後に生まれた私にとっては、、、、、9月1日は、前日の夜までに、やっとこ終わらせた夏休みの宿題をもって登校する日で、昼からは震災記念堂に参り、屋台で水鉄砲・綿あめ・ヨーヨー風船を買ってもらう日であった。 生まれて70年間、隅田川を挟み震災記念堂の対岸(浅草橋)に住む私は、今でもほぼ毎年慰霊に訪れている。 今日も、朝から焼香に行ってきた。
 
 
 
●震災記念堂まで・・・・・・・・・・・浅草橋から震災記念堂までは、蔵前橋を渡り隅田川を越えれば、20分程で行くことができる。 
 
・・・・・・・・・・・・・・通勤のサラリーマンが駅から散らばる8時過ぎに、『チョクラ行って来る』と家を出た。
 
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・・・・・・・・・・・・・・創建は推古天皇9年(601)頃と言われている須賀神社(台東区浅草橋2)。  当時、この地に疫病が流行した。 ところが、このあたりの森に牛頭天王を祭った祠があり、その祠に郷の人々は病気平癒を祈った処、尽く快気した。 以来、江戸時代には 祇園社、蔵前牛頭天王、団子天王、笹団子天王、などと呼ばれ、経済力のある氏子の札差らに支えられ 祭礼も盛大に行われた。 そして明治時代の神仏分離令により、天台宗東叡山寛永寺真鏡山宝現院大円寺より分離され、須賀神社と改名した古社である。、、、、、、社殿は、関東大震災の災失、第二次世界大戦の焼失のため  昭和36年(1961)鉄筋コンクリート造にて再建された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・須賀神社の裏には、知る人も少なくなったが、関東大震災までは閻魔堂があったそうだ。、、、、、江戸時代に華徳院という閻魔王を御本尊とする寺があった、この寺が閻魔堂である。 下谷坂本の善養寺、内藤新宿の太宗寺 と共に江戸三大閻魔のひとつに数えられ、参拝客でにぎわったそうだ。、、、、華徳院は現在は杉並区に移り、かつて閻魔堂が在った場所(浅草橋2:玩具会館)の植え込みに小さな石碑が立っている。、、、、閻魔さまが残っていれば、名所の少ない浅草橋にとっては、浅草の観音さまと勝負できる観光名所になったかも(?)
 
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・・・・・・・・・・・・・・創業文久2年(1862)、江戸時代から続く佃煮の老舗「鮒佐」。 大正3年(1914)創業は、扇子・団扇の専門店「松根屋」。 ともに、須賀神社の並びです。、、、、、、江戸の味と文化を残す老舗がしっかりとある、『ちょいとおいでよ浅草橋
 
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・・・・・・・・・・・・・・江戸通りの隅田川寄りには榊神社 (蔵前3)がある。、、、、、こちらの神社にも手を合わせ、お賽銭10円分の幸を祈る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・神社の先で隅田川に出て、蔵前橋を渡る。
 
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●震災記念堂・・・・・・・・・・・墨田区横網町公園に建つ東京都慰霊堂 。 「震災記念堂」とは、昭和51年(1976)までの呼称である。 この年、第二次世界大戦における空襲で死亡した遺骨も合祀し、「東京都慰霊堂」と改称した。、、、、本堂は文化勲章を受章した伊東忠太の設計によるもので、200坪の講堂と三重塔を持つ寺院風の建築である。 三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。 講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。 施工は戸田組(現:戸田建設)。、、、、、今日は式典が行われることは想定していたが、それ以前に行けば焼香できると思っていたが、あまかった! “秋篠宮ご夫妻が参列”されその警備、“朝鮮人犠牲者への小池百合子都知事や山本亨墨田区長が今年から追悼文をやめた件”でのイザコザなどで、やたらめったら警備が厳重だった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・今日は、式典前に来たのだが本堂の最前列に置かれた焼香台には近寄れず、遠くから手を合わせてきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・三重塔の下にある納骨堂の方は、特に厳重に警備する様子もなく、焼香できた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・警察・消防・赤十字など関係機関から多くの人が出て、震災の犠牲者を慰霊する都の大法要、震災時に「虐殺」されたとする朝鮮人らを追悼する団体の式典、その犠牲者数に疑義を唱える団体の慰霊祭などが、行われていた。、、、、静かに、厳粛に、慰霊したかった一般の参列者にとっては、納得できない「震災記念日」であったかも?
 
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2017年8月10日 (木)

浅草寺の謎

朝から涼しい一日が始まった。 だがときおり、空飛ぶ雀がお漏らしたようにポツリポツリと雨粒が落ちてくる、散歩には不向きの空模様。 朝食後、浅草に出かける用事を思い出し、午前中にチョイと浅草寺に立ち寄ってきた。
 
 
 
①雷門は工事中・・・・・・・・・・・浅草の玄関口『雷門』は、天慶5年(942)に建立され、以来、幾度も焼失・再建を繰り返している。 現:雷門は、昭和35年(1960)、松下電器産業:社長:松下幸之助の寄進により、大成建設の施工で再建された。 再建後すでに50年以上の時を経て、屋根瓦等が老朽化したため、改修工事に着工したそうだ。、、、、、雷門の周囲に足場が組まれ、シートが張られている。 シートには、雷門をイメージできるよう、屋根の写真がプリントされていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・仮囲いにあった、昭和35年当時の雷門の写真。、、、、、写真では、雷門と本堂の間にある、宝蔵門、五重塔はまだ建てられていない。 
 
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②宝蔵門・・・・・・・・・・かつては仁王門とよばれていたが、昭和20年(1945)、東京大空襲により観音堂・五重塔・経蔵などとともに焼失した。 昭和39年(1964)に大谷重工業社長:大谷米太郎夫妻の寄進により、鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建した。 この時、経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、仁王門から宝蔵門に改称した。、、、、、大谷米太郎(1881年7月24日~1968年5月19日)は、稲川部屋所属の元大相撲力士で、後に実業家。 太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称され、戦後は、「日本の三大億万長者」の一人に称された。 ホテル:ニューオオタ二の創業者でもある。 夫妻の像が浅草寺裏手にある。、、、、、、雷門・宝蔵門とも、個人の寄進で建ってしまうのだから、「浅草寺」は凄いね!
 
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③五重塔・・・・・・・・・・浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)、本堂と共に建立され、その後数度倒壊・炎上したが、その都度再建された。  徳川家光により本堂・仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)、他の堂宇とともに焼失。 戦後、昭和48年(1973)に、現在の五重塔が塔院とともに再建された。、、、、、塔は、鉄骨・鉄筋コンクリート造で、地上53.32mである。、、、、、塔の内部は非公開とのこと。 一人一万円で観光客を受け入れて、上らせたら儲かると思うよ。
 
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・・・・・・・・・・・・・本堂に向かい現在の塔は左側にあるが、かつては右側に五重塔があり、戦災で昭和20年(1945)に焼失した。 その跡には、碑が建てられている。
 
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④本堂・・・・・・・・・・御本尊:聖観世音菩薩を奉安し、観音堂とも呼ばれる本堂。 国宝であった旧本堂は、昭和20年(1945)の東京大空襲により焼失し、昭和33年(1958)に現在の本堂が再建された。、、、、、、間口34.5m、奥行32.7m、高さ29.4mの鉄筋コンクリート造、本瓦葺、入母屋造り。、、、、、、平成22年(2010)には、屋根瓦を軽量のチタン瓦に葺きかえ、重さは従来の1/3となった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・今日は本堂の周りを一周。 正面、右側面、背面、左側面の順に。
 
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・・・・・・・・・・・・・ここで、吾輩が生まれて最近まで気付かなかったことを、、、、『浅草寺の本堂は広い境内に単独で建っているが、多くの寺に見られるような、寺務所・庫裏・客殿などと結ぶ渡り廊下が無いのだ。 三社祭、初詣などの行事では、本堂を囲むように人が集まり、身動きが取れない状態となる。 このような時、僧侶の移動はどうするのかな?』 70年間、浅草寺に参り最近気づいた疑問である。、、、、、答えは“簡単”。 ナント、本堂と五重塔を結ぶ地下道が造られていたのだ! 五重塔の1階は寺務所になっており、さらに、五重塔と伝法院も繋がっている。 この事実はホントのことである、ただし訪れた人による、地下通路の写真撮影などは禁止されているようで、あまり知られていないだけ。 デズニーランドの地下に従業員の移動用通路が造られているのと同じようなものだ。
 
・・・・・・・・・・・・・チョイと本堂から五重塔を眺め、地下通路の在りそうな位置を推測してみた。
 
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・・・・・・・・・・・・・(くもじいの気分で!) 『なんじゃ、こりは? お札所の裏に、何やら怪しき構造物があるのぅ。 空気の換気設備のようじゃ。 くもみ、下りてみてみよう!』、、、、、現地でじっくり見ると、お札所とは関係なさそうで、どうやら地下通路に関係ありそうだ。 残念だが、今日の推測はここまでにしておく、、、、、
 
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・・・・・・・・・・・・・・機会あれば、ぜひ一度、地下通路を歩いてみたい! 謎を解くまでは、簡単に死ねぬ!

2017年8月 2日 (水)

浅草橋~北千住

今朝の天気予報では、『今日は曇り一時雨、気温は低く30℃以下、熱中症の心配なし』。 『ヨシ、今日は健康の為、タップリ歩いてくる!』と、我が家(浅草橋)をでて、北に向かい北千住駅まで、1万5千歩の散歩です。
 
 
 
①左衛門橋通り・・・・・・・・・・・台東区内を南北に通る左衛門橋通り(さえもんばしどおり、正式名:台第52号線)は、神田川に架かる左衛門橋 (台東区浅草橋1丁目)から、台東区入谷1丁目までである。 我が家から100m程で、左衛門橋通りの「浅草橋地区センター」バス停に出られる。、、、、、ここから、今日の散歩はスタート!
 
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・・・・・・・・・・・・・・バス停の前には、我が母校「旧台東区立柳北小学」と「柳北公園」がある。、、、、、校舎も、公園も、関東大震災の復興事業として、昭和初期に整備された。 吾輩が小学生の頃は夕飯の時刻まで、毎日のように遊んだ公園だが、今は遊ぶ子供も少なく、園内の遊具なども片隅に寄せられてしまった。
 
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・・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りを越え、台東区小島の町。  横に入ると、如意輪観音が祀られているが、由緒は?
 
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・・・・・・・・・・・・・・春日通りとの交差点では、夏休み中の登校日か? 学校に向かう子供たちがいた。、、、、、吾輩が小学生の頃は、この日は夏休みの宿題の途中経過を持っていく日で、何も出来ていない宿題帳を見せる、いや~な日だった。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・元浅草4丁目には、左衛門橋通りに面して、江戸時代初期(徳川家光の頃)に開山した、浄土宗の誓教寺 がある。 墓地には、フランスの印象派の画家に大きな影響を与えた、浮世絵師:葛飾北斎の墓がある。、、、、、チョイト、手を合わせて行く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・地下鉄銀座線が道路下を通り、仏壇屋が並ぶ浅草通りを横断し、左衛門橋通りは台東区松が谷に入る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・左衛門橋通り沿いに多くの寺院が並んでいる。 その内の一か寺。、、、、、日蓮宗の妙音寺は、安立院日雄聖人(元和5年寂)が開山し、慶長15年(1611)に馬喰町に創建した。 明暦の大火により、馬喰町から現在地へ移転した。、、、境内には弁財天も祀られている。、、、、“弁財天”と聞くと、オールヌードで琵琶を演じる姿が頭に浮かび、なにやら胸がドキドキしてしまう。 ここでは、残念だが姿を拝見できなかった!
 
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・・・・・・・・・・・・・・妙音寺の先(東上野6)には、親鸞聖人の門弟が建保2年(1214)下総国横曽根に創建し、慶長7年(1602)に江戸へ移転した坂東報恩寺がある。江戸では三回移転し、文化3年(1806)に現在地へ移転した。、、、、、本堂は鉄筋コンクリート造だが、チョイと古いかも?
 
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・・・・・・・・・・・・・・報恩寺から100m程北には、伊能忠敬の墓、幡随院長兵衛の墓、谷文晁の墓などがある、浄土宗増上寺の末寺:源空寺がある。 この寺も、明暦3年(1657)の大火に遭って類焼し、現在地に移転した。、、、、、本堂は最近、美しいフォルムの建物に替わった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・松が谷二丁目交差点で「かっぱ橋本通り 」を横切ると、秋葉神社 の鳥居が見える。 ここも、チョイと手を合わせて行くことにした。、、、、左衛門橋通りには寺社が多く軒を連ね、賽銭も底をつく。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・言問通りを越えると入谷に入り、入谷1丁目で左衛門橋通りも終わる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・入谷1丁目には、昭和4年(1929)に建てられた、明治33年(1900)創業の酒屋「水上酒本店」の建物がある。 木造3階建てのどっしりした建物である。
 
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②日光街道・・・・・・・・・・・・・左衛門橋通りは入谷で終わり、50m程西側に国道4号線(昭和通り、日光街道)が通っている。 我が脚は、引き続き日光街道に移り北上する。
 
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・・・・・・・・・・・・・・明治通りと交差する大関横丁交差点をとおり、常磐線のガードをくぐり、旧「王子電気軌道」本社ビルであった梅沢写真館の前を進む。、、、、チョイと雲行きが怪しくなってきたが、“雨降らば降れ 風吹かば吹け”の境地で先へ行く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・荒川区南千住1にある、曹洞宗寺院の円通寺 には、吾輩がこよなく愛する明治時代の几号水準点があるのだが、今日は素通りすることにした。、、、、戊辰戦争の際に傷ついた寛永寺の黒門、彰義隊の志士の墓もある。 
 
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・・・・・・・・・・・・・『中山式の腹巻』、『中山式の快癒器』と聞いてピンときた人は、かなりの年配だろう。 戦後、雑誌、新聞などで盛んにPRされた健康器具である。 幼き頃から病弱であった創業者の中山武欧氏の発明で、医療器具として大いに売れたそうだ。 もちろん、現在も製造されている。 その製造・販売元がこちらの会社「中山式産業(株)」(荒川区南千住6)だ。、、、、、屋上の看板のロゴが、昔と変わらぬ字体で懐かしいね!、、、、会社のhpより、発売当初の快癒器の写真を拝借しました。
 
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・・・・・・・・・・・・・日光街道に面する素盞雄神社では、境内に面白いものがあった。、、、、、氏子61ヶ町の手ぬぐいに風鈴を添えた旗を境内に飾り、涼を呼んでいた。 粋でいいね、気に入った!
 
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・・・・・・・・・・・・・・隅田川に架かる千住大橋 が見えた! この橋を渡れば足立区、北千住駅は近い。 でも、その前に京成本線の千住大橋駅がある。 駅は高架下にあり、日光街道に面して高架下に店舗があるはず(?) アレ・レ・無い! シャッターが降りてる?
 
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・・・・・・・・・・・・・北千住駅に近づくと、小粒の雨が落ちてきた。 駅まで急ぐ。、、、、、ほぼ濡れずに駅に到着。
 
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2017年7月28日 (金)

台東区台東

歳をとるとアッチャコッチャが故障し、私の耳は数年前から音波の受診状況がチョイト悪く、音波受信機を耳の穴に入れて音量を拡大している、世間では“補聴器”と呼んでいる機械である。  私が愛用する受信機はコンピュータ内蔵のデジタル式で、自分で音量調整ができないため、今日は散歩を兼ね、調整に東上野まで行ってきた。 我が家(浅草橋)から「台東区台東」の町を抜け、東上野までの8千歩です。
 
 
 
台東区の由来・・・・・・・・昭和22年(1947)3月15日、旧東京市の下谷区と浅草区が合併するとき、両区ともに下町文化の根付く由緒ある土地のため、合併後の名称決めは紛糾した。 様々な案が考え出され、最終的に下谷区側の案は「上野区」、浅草区側の案は「東区」に収束したが、結局まとまらず、都知事の案により下谷区台東小学校にて既に採用されていた「台東」の語を用い「台東区」とした。 『康煕字典』では「台東(たいとう)」という熟語に「日出るところ衆人が集まって栄える場所」の語義があり、また「台」に“悦ぶ”の意があるので上野山つまり下谷区に当て、「東」には“春”の義があって浅草区を指すと解釈。 双方の区に、こじつけ、まさに理に適うところから、これを区名に選定したそうだ。、、、、私は浅草区の時代に生まれた住人だが、これほどの立派な(屁)理屈を踏まえた名誉ある区名とは知らなんだ! 昨今多い、新〇〇、東〇〇のように、新・中・元・東・西・南・北を冠した区名より素晴らしいね!
 
台東区台東とは・・・・・・・・台東区“台東”と聞いて、どの辺りかピンとくる人は、地元の住人か、地元に勤めている人か、“台東”で交通事故を起こした人ぐらいだろう。、、、、、“台東”にある大手企業は、台東1の印刷会社である凸版印刷、台東4に紫色のビルで店舗を展開するディスカウントストアの多慶屋が有名。 地理的には、秋葉原と御徒町の間で、昭和通りの東側である。、、、、、現在の“台東”の町は、対馬厳原藩宗家上屋敷・伊勢久居藩藤堂家上屋敷・旗本士宅などのあった下谷二長町。 秋田藩佐竹家上屋敷・津藩藤堂家中屋敷・大洲藩加藤家中屋敷・出羽矢島生駒家上屋敷など武家地であった下谷竹町。大洲藩加藤家上屋敷・御徒組大繩地・旗本士宅であった御徒町。 以上の、下谷二長町、下谷竹町、御徒町を中心として、昭和39年(1964)の新住居表示にて、区名から取って名付けられたもので、“台東”の由来とは関係ない。、、、、、区名は真剣に考えたが、町名はめんどくさいので区名のパクリ。 いい加減なものだ!
 
 
 
①旧柳北小学校・・・・・・・・・・このブログをよく見る人は、ご存じ、吾輩の母校。、、、明治9年(1876)、第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立され、明治20年(1887)に柳北女子尋常高等小学校、明治41年(1908)に柳北尋常小学校と改称した。 大正15年(1926)には、現在の鉄筋コンクリート3階建校舎が竣工し、昭和36年(1961)には東京都台東区立柳北小学校として、吾輩が卒業した。 平成13年(2001)には涙を流し閉校となる。、、、、、現在は、廃校の再活用で、蔵前小学校の建て替えの為、仮校舎として使用中。、、、、、この学校の西側に台東区台東1丁目と千代田区和泉町が広がる。
 
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②三井記念病院・・・・・・・・・・・千代田区和泉町にある、三井財閥系の企業により支援されている総合病院。 現建物は平成23年(2011)9月に竣工した地上19階建ての病院。、、、、、三井記念病院は、安政5年(1858)に江戸お玉が池に開設された種痘所を前身として、東京帝国大学附属病院の跡地(現在地)に、明治39年(1906)に三井家総代三井八郎右衞門により、「三井慈善病院」として設立された。 以後、昔も今も、東京大学医学部の協力の下に診療している。、、、、、我が家では、家族全員がこの病院に昔から世話になっており、吾輩が幼き頃の小児科、我妻の娘の出産、我がオヤジのガン治療、我が母の白内障手術など、いつも、いつも、お世話になります。 極め付きは、3年前、吾輩が大動脈解離で大動脈置換手術を受けたのも、この病院である。 その節は、ありがとうございます。
 
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・・・・・・・・・・・・三井記念病院は千代田区和泉町、道路を挟み斜め前に凸版印刷の本社がある。 こちらは台東区台東1丁目。、、、、ここは、かつての市村座の跡地。 (写真は4年前に撮影)
 
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③櫻稲荷神社・・・・・・・・・台東区台東2丁目、蔵前橋通りに、朱塗りの鳥居が立つ細い参道の入り口がある。 こちらは「櫻稲荷神社」と称し、大名の藤堂家邸内に鎮座していた稲荷神社。 関東大震災後に地元の岡本悟一氏が奉受して桜稲荷神社とした。 昭和27年(1952)には京都伏見稲荷神社より分霊を勧請、鎮座した。、、、、、この細い路地に、“よくぞ祀ったお稲荷さん”と云うわけだ!
 
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④竹町金刀比羅神社・・・・・・・・・・当神社は、当地(台東2丁目)周辺にあった生駒讃岐守一正の邸内鎮守として創建したといわれている。、、、、江戸には金刀比羅神社が多く分祠されているが、当神社は江戸最古の分祠と言われている。
 
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⑤台東の建築・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・5軒長屋、、、、、、、、昭和15年(1940)頃の建物。 右端は森永牛乳の店であった。 2階には錆びたエンゼルマークと、懐かしい森永マミーの球形の看板が残されている!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・台東製作所、、、、、、3階部分は増築された鉄筋コンクリート造り(?)の建物。 戦前の建築らしい(?)。
 
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・・・・・・・・・・・・・・6軒長屋、、、、、、、、1件だけ銅板建築の名残が残る長屋だが、そろそろマンションに生まれ変わかも?
 
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・・・・・・・・・・・・・・・9軒長屋+9軒長屋、、、、、、、、凄い! 車はもちろん入れない狭い路地に、9軒長屋が向かい合わせに立ち並ぶ。 路地からは2階までしか見えないが、3階に部屋を増築した部分も見える。
 
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⑥佐竹商店街・・・・・・・・・・台東3丁目・4丁目の東側に、「佐竹商店街」のアーケードがある。 明治31年(1898)に商店街組合を結成し、金沢の片町商店街に続き、日本で2番に古い商店街である。 商店街名の“佐竹”は、江戸時代に当地に出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷(藩主:佐竹氏)があったことに由来する。 商店街の北端は、春日通りで御徒町駅までは、目と鼻の先。、、、、、吾輩の若き頃は、地元の客で終日にぎわっていた商店街だが、日ごとに寂しくなるようだ。
 
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●・・・・・・・・・・・春日通を横断し東上野の町に入る。 暦の神宮館の前をとおり、下谷神社 で手を合わせ。、、、、、、用事が済めば、今日はコミュニティーバスで我が家まで帰宅。
 
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2017年7月12日 (水)

橋場・千束

今日も30℃超え、連日の猛暑である。 遠くに出て行くのはひかえ、地元台東区内を散歩しよう。 今日は台東区の北の端:橋場(はしば)から、吉原遊郭のあった千束(せんぞく)付近まで歩いてきた。
 
 
①橋場不動尊・・・・・・・・・隅田川に架かる白鬚橋の西詰に通称:橋場不動尊はある。 正式には砂尾山橋場寺不動院と称する天台宗の寺院。 不動院は、天平宝字4年(760)に創建された。、、、、、江戸時代の建築様式を残す、弘化2年(1845)に建てた小さな堂は簡素な佇まいで、不動尊は下町の庶民に崇められている。
 
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・・・・・・・・・・・・・橋場不動尊参道前の道路(都道314号)の向かい側、歩道上に几号水準点が残されている。、、、、、几号水準点は、明治時代初期に内務省が実施した高低測量(水準測量)に用いた標石である。 現在では、東京から塩釜にかけ、全国約340か所に設置されたことが明らかとなっている。 内現存するのは150か所程で、その内都心に残っているのは40か所程である。  「几」は「几帳面」の「几」で「き」と読み、“机”の意味がある。 この標石に彫られた記号(漢字の“不”に似た記号)が三脚のついた机に似ていることから「几号水準点」と呼ばれる。、、、、、今から100年以上前の水準点で、しかも現在は使われていないものである。 道路を舗装管理する人も、なんだか訳わからず、埋めたり移設してはいけないものと思い込み、そのままにして現在に至ったものと思われる。
 
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②橋場の長屋・・・・・・・・・・・台東区橋場には古い家も多く残っている。 写真は木造の7軒長屋と奥に5軒長屋が見える。
 
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③お化け地蔵・・・・・・・・・・・・橋場2丁目、松吟寺の境内に享保6年(1721)に建立された、高さ3m程の地蔵尊がある。 この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刺総泉寺の境内地であった。 門前一帯を浅茅ケ原といい、その松並木の道の傍らにこの石地蔵が祀られていた。 地蔵はかつて大きな笠をかぶり、その笠が人知れず向きをかえたから「お化け地蔵」と呼ばれたといわれている。  総泉寺は昭和4年(1929)板橋区へ移転し、「お化け地蔵」だけが、ここに取り残されたのである。、、、、、脇の常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられた。 地蔵も常夜灯も朽ちてきたね。
 
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④出山寺・・・・・・・・・台東区清川1丁目、曹洞宗の明星山出山寺(しゅっさんじ)は、総泉寺の和尚が延宝4年(1676、江戸時代前期)以前に開山・創建した。、、、、、朱塗りの小さな本堂が印象的な寺。
 
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・・・・・・・・・・・・・・境内には、江戸時代初期、寛文の頃(1661~1673)、新吉原雁金屋の遊女「釆女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。 時に十七才の采女は悲しみ、浅茅ヶ原の鏡が池に身を投じた。 翌朝、草刈りの人たちが、 『名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが池にしずめば』 としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。 境内には、文化元年(1804)大田南畝ら文人たちによって建立された采女塚の碑がある。、、、、、昔は遊女に惚れて己の身を滅ぼす者ばかり、今は惚れたらストーカーとなり相手の身を滅ぼす者ばかり。
 
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⑤東禅寺・・・・・・・・・・・東浅草の曹洞宗洞雲山東禅寺は、寛永元年(1624)に創建された。 寺は本堂前で、江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が出迎えてくれる。 高さは、2.71mある。、、、、、“江戸六地蔵”とは、、、、、江戸深川の地蔵坊正元が、病気平癒に感謝して、多くの人々の浄財を集め、宝永3年(1706)に江戸の出入口となる街道の6箇所に地蔵菩薩像を造立した。第一番は東海道の品川寺、第二番は奥州街道の東禅寺、第三番は甲州街道の太宗寺、第四番は中山道眞性寺、第五番は水戸街道の霊巌寺、第六番は千葉街道の永代寺である。(第六番は現存しない) 
 
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・・・・・・・・・・・・・東禅寺には、もう一つ像がある。 こちらは、六地蔵の左わきで、座して地蔵菩薩の説教を聞いている二人の老夫婦の像。、、、、、“あんパン”の「銀座木村屋總本店」創業者夫婦(木村安兵衛、ブン)の像だ、夫婦が埋葬されている寺に、大正7年(1918)に建てられた。、、、、、お供えは、もちろんアンパンだろう?
 
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⑥吉原・・・・・・・・・・・・・かつての遊郭、今はソープランド街。
 
・・・・・・・・・・・・・吉原大門の前に建った復興小学校:旧待乳山小学校 。 現在は東浅草小学校。、、、、いい場所にあったね! 放課後、スグに行けた?
 
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・・・・・・・・・・・・・「よし原大門」と記した柱が両側に立つ「仲之町通り」。モダン(?)な外装のソープランドが並ぶ、交差する脇の通りもズラリと並ぶ。、、、、、私には、目の毒、気の毒、懐の毒。 いそいそと通り抜けて行く。
 
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・・・・・・・・・・・・・通り抜けた処に、廓の守り神:吉原神社 がある。、、、、チョイと賽銭もはずみ、家内安全、身体健康を祈願する。 
 
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・・・・・・・・・・・・・神社の隣には、20年ほど前まで台東産院があり、今は台東区立の「台東病院」となっている。 我が家でも今年になって、94歳の母が内科の診察を受け、私も数回付き添いで通った。、、、、遊郭が現存していれば、入院してもいいかもね!

2017年7月 9日 (日)

四万六千日

私が住み、観音様が住む台東区では、気象庁の発表で35度を超え、『猛暑日』となった。 70歳を超えて熱中症で倒れ、救急車で運ばれ、若い看護婦さんに“下”の世話になるは、チョイと恥ずかしいので、家で自重することにした。 『散歩は休み!』のはずだった。

昼食時に、『今日はほおずき市ね!』、『昼から行ってみようか!』で即決。 夫婦で、ガンガン照りの浅草寺へお参りに行ってきた。、、、、、(昨年のほおずき市は、こちら。)

 

・・・・・・・・・・・・・汗を拭き拭き、大勢の参拝客で、暑い暑い浅草寺。

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・・・・・・・・・・・・・・大勢の人に見られて恥ずかしいのか、赤く色づいたほおずき。
 
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・・・・・・・・・・・・・・笑顔がかわいい、今年の“ほおずき娘”。
 
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2017年7月 3日 (月)

かっぱ橋本通り

朝の天気予報で、『本日は猛暑日、熱中症に注意を!』と呼び掛けている。 こんな日に散歩に出て、道路上で泡噴いて、意識を失い、ぐったりし。 見ず知らずの親切な御仁が救急車を呼んでくれ、救急隊は受け入れ先の病院を手配し、警察は家族に連絡し、通りすがりの人は「行き倒れらしいよ、飲まず食わずで、可哀そうに!」と同情し、心あるお年寄りが「食事の足しにでもしなさい」と千円札を私のふところに入れ、それを見ていた周りの人も競って財布から札束を私のふところに、、、、、、いつの間にか、私のふところには数十万円の札束が、ニヤニヤ・シメシメ、と、よろこんだ瞬間、救急病院で意識が戻り、恥をかくのがオチだ!
 
暑い日の散歩はひかえよう!、、、、、今日は朝から家にこもっていた。 でも、外出の口実はいくらでもある。、、、、3時過ぎ、『チョイと、整形外科に行ってくるよ!(万年腰痛の為、時々、腰を伸ばしてもらう)』、『その足で、浅草へ行って真夏用の帽子を買ってくるよ!』と、家を出た。、、、、と言うことで浅草へ行き、帰りは「かっぱ橋本通り」を上野まで、夕刻の散歩をしてきた。
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・「新仲見世」をウロウロ、可愛い娘にキョロキョロ、帽子屋さん・扇子屋さん・レコード屋さんに寄りブラブラ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・「国際通り」に出た! 道の向こうに「かっぱ橋本通り」が見える。 このまま帰るのは脳がない、味噌もない、つまらない!、、、、、ヨシ、今日は「かっぱ橋本通り」を制覇しよう! 
 
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・・・・・・・・・・・・・・・「かっぱ橋本通り」は、有名な「かっぱ橋道具街」と道の中程で交差する商店街。 東の端は「国際通り」の「公園六区入口交差点」、西の端は「昭和通り」の「北上野一丁目交差点」である。 。、、、、、その昔、寛永寺の高僧が浅草寺に詣でる「御成道」として整備された。 浅草は江戸時代から庶民の娯楽の中心であった街。その浅草と上野をつなぐ幹線路として、明治・大正時代は、終日賑わいをみせていた。 明治時代には、線路の上に馬車が走る「馬車鉄道」も運行したそうだ。、、、、、かっぱ橋本通りには、3つの商店街が直線状に連なっており、総延長約1.2kmのかっぱ橋本通りは、只今、『下町七夕まつり』と称し、七夕飾りを楽しむことができる。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・一直線のかっぱ橋本通りは、どこからでも東側(浅草側)の正面にスカイツリーを望むことができる。、、、、、まるでスカイツリーを予測してつくられた道のようでもある。
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りの創業:明治36年の老舗:「どぜう飯田屋」。 「駒形どぜう」と下町の味を二分する“どぜう屋”。、、、、チョイと余談だが、私は大学生時代飯田屋の前辺りの家で、家庭教師のバイトを4年間やっていた。 夜10時頃のこの付近は、七色のネオン輝く、魅惑的な街であった。 今も面影は残るが、チョイと暗くなったかな?
 
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・・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りのイメージキャラクター:かっぱ。 通りのアッチ・コッチに!、、、、、365日立ちんぼで疲れたのか、傷ついた“かっぱ”もいる。
 
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・・・・・・・・・・・・・「かっぱ橋本通り」と直交する「かっぱ橋道具街」。、、、、、交差点付近には、平成15年(2003)に「合羽橋道具街」が誕生してから90年を迎えるにあたり、これを記念してシンボル像「かっぱ河太郎」が建立された。 像は彫刻家:西村祐一氏と工芸作家:北村真一氏の制作。 現在は暗渠となった道具街通りの下を流れる新堀川などの堀割工事を手伝ったとされる河童伝説に基づいて、台東区の支援協力のもと、道具街中央ポケットパークに建立した。
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋(合羽橋)の由来について、、、、、、、「合羽」の由来は2つの説がある。 ①ひとつは、今はない新堀川の整備を行った雨合羽の商人、合羽屋喜八の話である。 今から200年ほど前の文化年間の時代。この辺りは水はけが悪い低地で、雨が降るたびに洪水となり、人々は困り果てていた。 そこで、合羽屋喜八が私財を投じて、水路をつくる工事に着手。 しかし工事はことのほか難航し、これをみた隅田川の河童たちが同情し、喜八の良心にも心を打たれて、夜な夜な工事を手伝い、工事は無事に完成した。 通称かっぱ寺とよばれる曹源寺には、合羽屋喜八の墓がある。 ②もうひとつの説は、橋の近くにあった、伊予新谷加藤家下屋敷にまつわる話。 屋敷に住んでいた下級武士たちは、内職に雨合羽を作っていた。 その雨合羽をこの橋にかけて乾かしていたことから「合羽橋」と呼ばれるようになった。、、、、、合羽橋はなくなり、合羽(かっぱ)伝説が残る。、、、、どちらの説にしても、“かっぱ橋”は“河童橋”ではなく、“合羽橋”である。
 
 
・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りのほぼ中間地点(台東区松が谷3)に、曹洞宗の曹源寺がある。 曹源寺は、慶長3年(1598)頃、現在の丸の内に開山した、その後湯島を経て現在地へ移転した。、、、、ここには、文化11年(1814)、私財を投じて水路を造った合羽屋喜八が祀られているのだが、今日は17時を過ぎ閉門された。 残念!!!
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通り曹源寺近くに、可愛い色気のある河童の像があり、『ここが台東区の真ん中 つまり「へそ」と言われている 台東区』と標されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りの上野側の端、昭和通りとの交差点に到着。、、、、、汗びっしょり、でも元気だ。 熱中症にならず、よかった!
 
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2017年6月29日 (木)

谷中の墓地

梅雨の晴れ間とは言えず、曇り空である。 ひょっとすると降るかもしれず、散歩は近場にしておこうと、谷中の墓地を歩いてきた。 墓地の中を1万歩。
 
 
 
谷中の墓地・・・・・・・・・・・・台東区谷中(上野公園の北側)にある都立谷中霊園と、寛永寺墓地・天王寺墓地などを含む10万㎡を超える区域。、、、、、下の谷中霊園案内図には、黄色・緑色で色分けされた墓地の中に、寛永寺の墓地、天王寺の墓地が白色で抜かれている。、、、、、徳川慶喜の墓は、谷中霊園の中にある寛永寺の墓地の中の徳川慶喜公墓所にある。 ややこしい、わかりにくい、墓が無秩序に並んでいる谷中の墓地だ。、、、、、、元々は寛永寺・天王寺などの寺院が所有していた墓地であったが、明治政府は神仏分離政策を推し進めるため、寺院以外の神社などが管理する墓地の必要性に迫られた。 そこで、寺院が所有する墓地の一部を没収して谷中霊園とした。 それゆえ現在は、都立谷中霊園・寛永寺の墓地・天王寺の墓地などが混在し、整理のつかない墓地となった。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・墓地は無防備で、墓地の周囲に特別に柵があるわけでもない。 入口はあっちゃ、こっちゃにある。 ここは日暮里駅西口脇の入り口。
 
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・・・・・・・・・・・・・墓地のほぼ中央を抜ける、花見の名所「さくら通り」。 日暮里駅と谷中の町を結ぶ、通勤通学の主要道路となっている。 夜も人通りが多く、怖い道ではない。 五重塔跡には駐在所もある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・その「さくら通り」の中程に、谷中の五重塔跡がある。 焼けた五重塔は日蓮宗の寺院:天王寺の五重塔である。 約34mの関東では最も高い塔であった。 昭和32年に放火により焼失してしまった。 現在は礎石が残るのみとなった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・駅とは反対側の「さくら通り」の端部には、谷中墓地開設とほぼ同時期に開業した生花問屋の「花重」(国登録有形文化財)がある。 明治10年(1877)に前身建物を背面側に曳屋し,木造2階建の店舗兼居室を建てた。 1階は店舗で、現在は花屋を営み、2階は3室に区切って畳敷の居室としている。 江戸・明治期の谷中の風致を今に伝える建築である。、、、、、花重の前にも風情ある「ふじむらや」の建物がたっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・なんだ、かんだ、言っても、古い谷中の墓地だから、著名人の墓は、♪♪ワンサカ・ワンサ・ワンサカ・ワンサ・イェーイ・イェーイ・イェイ・イェーイ♪♪と並び立っている。
都立谷中霊園の案内図に載っている著名人の墓は約60基。 寛永寺・天王寺の墓地も含めると、120基を超える。、、、、、私の好みで、選んでみると、朝倉文夫(彫刻家)、天津乙女(宝塚)、稲垣浩(映画監督)、円地文子(作家)、柏戸(横綱)、河内桃子(女優)、獅子文六(作家)、ニコライ・カサートキン(宣教師)、鳩山一郎(政治家)、花柳寿輔(日舞)、森繁久彌(役者)、横山大観(日本画)などがある、、、、、いくつかの墓を紹介すつ。
 
・・・・・・・・・・・・・19代横綱:常陸山の墓。 引退後は出羽海谷右衛門を名乗る。
 
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・・・・・・・・・・・・・浅草「神谷バー」の創設者:神谷伝兵衛の墓(写真:左側)。 伝兵衛さんはハチブドー酒 も出荷した。
 
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・・・・・・・・・・・・・歌舞伎役者:市川圓蔵の墓。 写真右から六代目、七代目、八代目。 六代目市川圓蔵(1800~1871)は五代目圓蔵の未亡人の養子。 七代目圓蔵(1836~1911)は六代目の養子。 八代目圓蔵(1882~1966)は七代目の次男坊。 当代:九代目は八代目の子である、まだ墓はない。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・初代三遊亭圓遊(嘉永3年(1850)~明治40年(1907))は明治時代に活躍した落語家。 江戸小石川の出身。 実子は落語家を継いだが、芸未熟にして花柳流の師匠となる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・『牧野日本植物図鑑』の著者:牧野富太郎博士(文久2年(1862)~昭和32年(1957))の墓。 草花を愛し、植物学に貢献した学者。 『雑草という名の植物は無い』と言った人。 うまいこと言う人だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・戦前から戦後にかけての二枚目スターの代表格、長谷川一夫(明治41年(1908)~昭和59年(1984))の墓。  小さな石塔が並ぶ、中央が長谷川一夫(林長二郎)の墓石。 あの大スターの墓にしては小さすぎるね。
 
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・・・・・・・・・・・・・こちらは墓ではないが、「オッペケペー節」の川上音二郎(文久4年(1864)~明治44年(1911))の顕彰碑の台座。 台座の上の、音二郎の像は戦中に金属供出で無くなった。 ちなみに墓は博多の承天寺にある。
 
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・・・・・・・・・・・・・川上音二郎の顕彰碑の近くには、毒婦高橋お伝(嘉永3年(1850)~明治12年(1879))の墓がある。 高橋お伝は、日本で最後に斬首刑に処せられた女囚と言われている。 ここ谷中の墓地には骨は無く、本当の墓は小塚原回向院 にある。
 
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・・・・・・・・・・・・・さて、谷中の墓地と言えば徳川慶喜(1837~1913)の墓。 谷中の墓地の中程、寛永寺の墓地の中に柵で囲われ、夫人と共に葬られている。、、、、、歴代の将軍とは異なり、円墳状の質素な墓である。
 
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・・・・・・・・・・・・・そして渋沢栄一の墓。 渋沢栄一(天保11年(1840)~昭和6年(1931))は徳川慶喜の家臣として仕え。 大政奉還後は官僚、実業家として、第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。 その墓が慶喜の墓の近く、広い区画の中に巨大な大きさの墓石が建っている。(中央が渋沢栄一の墓)
 
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・・・・・・・・・・・・・谷中の墓地は鶯谷~日暮里間のJR線路際まで広がっている。 その線路沿いには、キリスト教の教会墓地が並んでいる。 十字架を墓石に刻み込んだ墓が崖に沿って並ぶ様子は、なんとなく私に、キリスト教徒の迫害を思い出させてしまった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・「さくら通り」に面し天王寺山門前、市川圓蔵の墓と神谷伝右衛門の墓の中間付近に明治時代の水準測量の基準点である「几号水準点」が残されている。 明治8年(1875)頃、内務省による大三角測量の際に設置されたものと推定されている。 おそらく通る人も、この石が何であるか気づかず通り過ぎていると思われる。 ひょっとすると、邪魔な石だと思われているかも?、、、、、上野公園周辺にはこのほかに、東照宮鳥居脇 谷中浄名院入口下谷三島神社 などに几号水準点を見ることができる。
 
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2017年6月23日 (金)

上野東照宮

朝一で、上野の病院で診察を受け、その足で上野東照宮に立ち寄ってきた。 不覚にも、万歩計は携帯せず。 

 

①東京文化会館・・・・・・・・・・建築家:前川國男(明治38年(1905)生~昭和61年(1986)没)の代表作で、昭和36年(1961)日本建築学会賞作品賞を受賞した。 戦後の早い時期に建てられ、50年経過した今でも古さを感じさせない、東京の本格的なクラシック音楽のホールである。 平成11年(1999)には大規模な改装も行われた。、、、、、前川國男は私の好きな建築家の一人。 東京都文化会館は大学受験に際し建築学科を志望するきっかけとなった作品。

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②小松宮彰仁親王銅像・・・・・・・・・上野公園の銅像と言えば、「西郷さん」しか、思い出せない人が多い。、、、、、動物園正門の左わきの木陰に小松宮彰仁親王の銅像がある。 この小松宮彰仁親王(弘化3年(1846)生~明治36年(1903)没、慶応3年(1867)には東伏見宮嘉彰と改称。)は、皇族であり、戊辰戦争、西南戦争に参戦した軍人。 また、日本赤十字社の前身:博愛社の総長でもあった。、、、、、西南戦争では西郷軍を征伐する側で敵対関係になる。 銅像になっても、上野の山で争わぬように、2体の銅像は離されて置かれているようだ。
 
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③グラント将軍植樹碑・・・・・・・・・・・小松宮彰仁親王の銅像の裏側に、昭和4年(1929)に建てられたグラント将軍植樹碑がある。 グラント将軍は南北戦争時代の北軍の将軍で、南軍のリー将軍と並ぶ有名な将軍。、、、、、、明治10年(1877)から約2年間、グラント将軍は家族同伴で世界を周遊した。 その際、来日し、明治12年8月25日、上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。 碑は、正面に将軍の胸像を刻み、左右に和文、英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。、、、、、私には、ジョン・ウェインが主演した西部劇の時代の将軍だ。 来日したことを知る人も少ないだろうね。
 
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④上野東照宮・・・・・・・・・上野動物園の南側にある、東照大権現(徳川家康)を祀る神社。、、、、元和2年(1616)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と天海僧正に遺言され。 寛永4年(1627)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。 現社殿は慶安4年(1651)に徳川家光が改築した。 平成の世に社殿は修復工事が行われた。
 
・・・・・・・・・・・・・動物園の南隣にある大石鳥居。 寛永10年(1633)に酒井忠世が奉納した、備前の御影石を使用した鳥居。 国指定重要文化財。、、、、、右端の売店が戦後の上野の象徴か?
 
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・・・・・・・・・・・・・・大石鳥居をくぐると水舎門(神門)がある。 水舎門をくぐると、参道の左右に200基以上あると言われている石灯籠が並ぶ。 ほとんどが現在の社殿を建築した慶安4年(1651)に諸大名より奉納されたものらしい。、、、、一基ぐらい無くなってもバレそうもないが、盗む人はいないようだ。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・水舎門の手前左奥にある「おばけ灯籠」。 寛永8年(1631)に織田信長の武将:佐久間盛次の四男である、信濃の佐久間大膳亮勝之が寄進したもの。 高さ6.06m、笠石の周囲3.63mで、京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大灯籠とともに日本三大灯籠である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・参道の柵越しに見える、動物園の中の旧寛永寺五重塔。 この塔はもともと上野東照宮の一部であった。 明治の神仏分離令により寛永寺の所属となり、さらに昭和33年(1958)に同寺より東京都に寄付され、現在では上野公園の管理下にある。 塔は寛永8年(1631)に建立され、寛永16年3月に花見客の失火により焼失し、現存する塔はその後直ちに再建されたものである。 高さ32.3m。 国指定の重要文化財。、、、、、周囲にライオン、ヒョウなどを放し飼いしたら来園者によろこばれるかもね。
 
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・・・・・・・・・・・・・・明治7年(1874)に深川木場組合から奉納された神楽殿。 屋根勾配の美しさは評判が高い。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・唐門前に並ぶ、諸大名から奉納された全48基の銅灯籠。 中には紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より2基ずつ寄進されたものもある。 国指定重要文化財。、、、、、だいぶ劣化したものもあるようだ、修理できないものか?
 
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・・・・・・・・・・・・・慶安4年(1651)に造営された唐門と社殿。 国指定重要文化財で、社殿内は非公開。 金色殿とも呼ばれており、参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造りです。 唐門は唐破風造り四脚門。
 
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・・・・・・・・・・・・・・明治6年(1873)、江戸城内紅葉山東照宮より移築した不忍口鳥居。 御影石で造られた大きな鳥居である。 この鳥居の足元(〇印)に、明治時代の水準測量に使用した几号水準点が残されている。 もちろん、現在は使用されていない。   
 
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⑤五條天神社・花園稲荷神社・・・・・・・・・・東照宮不忍口を出て、不忍池弁財天の方向に歩くと、五條天神社・花園稲荷神社がある。 ここには、医薬祖神の五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)と、倉稲魂命を祭神とする花園稲荷神社が並び祀られている。
 
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・・・・・・・・・・・・・五條天神社の祭神は大国主命と少彦名命で、この二神は「薬祖神」として祀られています。 確かに皮を剥がれた因幡の白ウサギを助けたり、温泉の神と崇められている。 また、“天神さま”の菅原道真公は、寛永18年(1641)に合祀された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・五條天神社のすぐ隣に花園稲荷神社がある。 元々は弥左衛門狐を祀った稲荷神社であった。 現在でも、旧社殿に石窟が残っており、穴稲荷が祀られている。
 
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⑥不忍池・・・・・・・・・・・ハスの咲き具合を観察して帰ることにした。 一面、葉が茂り、夏到来を感じさせるが、ハスの蕾は探さないと見つからない。 開花まであと一か月程かかるかな?
 
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