台東区

2019年1月30日 (水)

東京だョおっ母さん

我が家(浅草橋)から江戸通りを南に歩き、日本銀行前に出ると、新旧の常盤橋が三橋ある。 この常盤橋を見て、大手町から皇居前に出て、東京駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●お勤め御苦労さま!・・・・・・・・・浅草橋、馬喰町、小伝馬町、室町と、江戸通りを歩き、外堀通りと交わる新常盤橋交差点に出る。、、、、時刻は9時前、マフラーとマスクで顔を隠した人が、私を追い越していく。  あせるな いそぐな たまには遅刻で リフレッシュ、、、、、我が家から新常盤橋まで、ブラブラ歩いて50分也。 
 
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●石と皿の“ときわばし”・・・・・・・・・・・日本銀行の西側を流れる日本橋川。 そこに、上流側から、新常盤橋、常磐橋、常盤橋と、「ときわばし」が3橋並んで架かっている。 3橋は千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んでいる。、、、、写真は、免震化工事中の日本銀行本店本館。
 
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・・・・・・・・・・・・まずは、「新常盤橋」、、、、、この橋は、大正9年(1920)の市電(戦後は三輪橋~都庁前の31系統路線)開通に合わせ、現在の江戸通りの延長線上にに架けられた橋である。 コンクリート造の三連アーチ橋であった。、、、、昭和63年、東北新幹線高架工事に伴い、現橋に架け替えられた。、、、、隣りに新幹線の高架橋、頭上に首都高都心環状線が架かり、橋の全容が見えにくい。
 
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・・・・・・・・・・・・・・次は、“元祖ときわばし”であるが、残念ながら落橋の危機にさらされ、只今文化財として修復工事中。 その為、近くに立ち入ることもできない。、、、、ところで、この「ときわばし」は、“盤”と“磐”の違いで、「常磐橋」と書く。、、、、初代は、常磐橋御門の見附橋として、天正18年(1590)の架橋と言われている。、、、、現在の橋は明治10年(1877)に架けられた、石造のアーチ橋である。 多数の肥後(熊本)の石工が集められ、橋の架設に当たったと言われている。、、、、、国指定の文化財で、修復工事は基礎部分から全面的にやり直されていたが、途中で東日本大震災があり、工事中の橋も被災し、工期は大幅に延長されている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・以下の写真は、7年前、工事着手直前の常磐橋。 全景と親柱
 
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・・・・・・・・・・・・・・最後は「常盤橋」である。 上流の「常磐橋」は古くて小さな石橋で、かつ歴史的に貴重な橋であったため、昭和元年(1926)に、主要幹線の橋として隣りに新しい橋を架けた。 これが“磐”を“盤”に変えた「常盤橋」である。、、、、橋のデザインは常磐橋を模した、2連のアーチ橋(不等間隔)として造られた。、、、親柱の隣りにラーメン屋の屋台があった、お品書きは新しそうだ、するとこれは?
 
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●ビルの名も判らない田舎者となった・・・・・・・大手町界隈の再開発ビル群を抜ける。、、、、どのビルも。現代的でカッコイイが、個性の薄れた、不動産屋の安直ビルに思える。 
 
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●おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょね・・・・・・・・・・・必ず記念撮影する皇居正門石橋(二重橋はこの奥にある)、その脇に、懐かしい交番「祝田町見張所」がある。石橋のできた、明治21年(1888)前後にこの交番も造られたようだ。、、、、皇居前広場から農協の団体が消え、修学旅行の学生も消え、はとバスの団体が細々、残るは東南アジアを中心とした外人さん。 時代も変わったね!
 
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・・・・・・・・・・・・・皇居前から見た丸ノ内
 
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●おっ母さん ここが ここが 東京駅 記念に写真を とりましょね・・・・・・・・・・・東京駅に赤帽がいた頃が懐かしく思われるのは、年とった証拠かな?
 
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2019年1月29日 (火)

浅草橋はどっちの区

今日も北風が吹く寒い日である。 寒さに負けじと散歩に出るか?、暖かい我が家でゴロゴロするか?、、、、悩みに悩み、とりあえず、遠い処に出て行きたくないので、『浅草橋まで散歩しよう』と、浅草橋の我が家を出た。 「浅草橋」を渡り、「浅草橋交差点」でウロチョロしていたら、中国人か韓国人か、可愛い娘がキャリーバックを引いて浅草方向に歩いて行く。 その後ろ姿を見送り、『ヨシ、俺も男だ! 今日は浅草まで歩こう!』、、、、と、云うことで、江戸通りを浅草まで歩いてきた。 1万歩
 
 
 
●元祖:浅草橋とは?・・・・・・・・・・元祖「浅草橋 」は、外堀(神田川)に架かる橋で、台東区浅草橋・柳橋と中央区東日本橋・日本橋馬喰町を結ぶ。 旧江戸郭内の日本橋から浅草・吉原に通じる橋で、かつては浅草見附があった。 橋の北詰に「浅草見附跡」の碑がある。、、、、、浅草橋は江戸36見附の一つ、浅草橋御門として寛永年間に架けられた。 現在の橋は、昭和5(1930)年1月に開通。 
 
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●“浅草橋”をめぐる、台東区と中央区の三角関係(?)相関図・・・・・・・・・・・・・・・
 
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●台東区の“浅草橋”・・・・・・・・・・総武線の浅草橋駅は、昭和7年(1932)の開業当初から「浅草橋」を名乗り、都営浅草線の浅草橋駅も昭和40年(1965)開業時からの駅名である。 さらに、昭和7年(1932)に完成した、総武線のガードは「浅草橋架道橋」である。、、、、しかし、現町名で「台東区浅草橋」を名乗る町は、かつて(住居表示が変わる以前)「浅草〇〇町」と称していた。 雅万歩も出生地は「浅草區浅草新福井町」で“浅草橋”とはなっていない。 さらに、江戸通りを走る都電の駅前の停留場は「浅草橋駅前」であった。
 
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●中央区の“浅草橋”・・・・・・・・・・中央区にある交通の要所:「浅草橋交差点」。 ここは、「江戸通り」が南北に走り、「靖国通りが」西に向かい、「京葉道路」が東に向かい、「清杉通り」が南に向かう、幹線道路の五叉路である。 間違いなく昔から“浅草橋”を名乗っていた。、、、、明治30年代に開通した市電では、浅草橋交差点内の停留場名は当初から「浅草橋」である。 市電が都電と変わっても、「浅草橋」停留場名は昭和40年代の廃線まで続いた。(現在は、交差点付近のバス停名として「浅草橋」を使用中)、、、、昭和4年(1929)に浅草橋交差点付近の道路拡張工事の写真が土木学会に保管されている、そこにも“浅草橋付近”と加筆されている。、、、昭和60年頃造られた、交差点の地下道名は「浅草橋交差点横断地下歩道」である。、、、、中央区では、交差点名以外では“浅草橋”を使用していないようだ。
 
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●“浅草橋”はどっちのもの?・・・・・・・・・・・・・・“浅草橋”の使用実績からみると、中央区の方が早かったようだ。 しかし現状は、地名、駅名とも台東区で使用中。 コリャ、難しい判定で、両区の引き分けとする。 何が何だか判らんが、メデタシ・メデタシ???
 
 
 
●雨に濡れず冬は暖かく寝心地は良い・・・・・・・・・・さて、浅草橋交差点横断地下歩道について、もう少し書くと、、、、、交差点角から階段を下りて地下道に達すると、ナント「国土交通省」と書いた三角コーンがズラリ並んでお出迎え! 知らない人は『工事で並べたのかな?』 所々に段ボールが置かれている。、、、もう、お判りですね、豆助!、、、、段ボールはホームレスの寝室。 コーンはホームレスの占領を避けるために置かれたもの。 30年ぐらい前は、ズラリ並んだ段ボールで通るのが怖いぐらいだった。 今は、ほんのチョイト改善し、寝泊まりする人も少ない。
 
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・・・・・・・・・・・・・・もう一言、、、、、地下道の入口には何も書かれていないのだが、この地下道はJR総武快速線の馬喰町駅に直結しているのだ。 さらには、都営新宿線の馬喰横山駅にもつながっている。 さらにさらに、もう少し地下道を歩くと都営浅草線の東日本橋駅に到達する。、、、、不親切にも、このことは地下道入口にシッカリと明示されていない!(地図上ではつながっているが)、、、、我が家では、子供が幼い頃、雨が降って外で遊べないときには、この地下道で走り回らせた思いでがある。
 
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●老舗も多い江戸通り・・・・・・・・・・・地下道から我が家へ戻るかと、浅草橋を渡り、駅前付近に来ると、外人観光客(主に東南アジア系)が目立つ。 特に最近、浅草橋はリーズナブルなビジネスホテルの建設ラッシュで、ホテルの前にホテル、ホテルの隣りにホテル。、、、、皆さん、浅草・銀座・新宿・上野を目指し駅に向かうようだ。 浅草橋はこれらの繁華街に20分で行ける、便利な処!、、、、可愛い娘もいる、つい道を教えてあげたくなるけど、誰も聞いてくれない。、、、、今日の寒さの中、浅草に行く娘もいた。 私もつられて、江戸通りを浅草まで歩いてきた。
 
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2019年1月 9日 (水)

寒さに負けて西洋美術館へ

今日は、東上野の病院で、泌尿器科の定期検診日。 昨年暮れに前立腺癌の検査を行い、本日はその結果のお告げがある日。 受付の可愛いマリアさまを見つめながら、悪いお告げがないように神に祈る。、、、先生から、『心配することはないですね』と神の言葉を聞いて、ホットした。
帰りは、上野公園を抜けて日暮里方面に向かうつもりで病院を出ると、気温7℃、風速6m/s、強風注意報も出ている久しぶりの北風、コリャ寒い! やせ我慢しながら、国立西洋美術館前まで来ると、『常設展 65歳以上無料』の文字を発見! 急遽、散歩の行く先変更、「今日は美術鑑賞して帰ろう!」、、、、ということで、国立西洋美術館に行ってきた。
 
 
 
●北風吹きぬく 寒い上野・・・・・・・・・・・・・北風が吹き抜ける上野駅。 雲はすっ飛び綺麗な青空、日は低く影は長い。、、、、正面玄関と公園口を結ぶパンダ橋の上も人影はまばら。 
 
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●考える人の美術館・・・・・・・・・・平成28年(2016)世界遺産に登録された、ル・コルビュジェ(1887~1965、近代建築の三大巨匠の一人、スイス生まれでフランスで活躍)の設計による国立西洋美術館。、、、、、寒さに負けた男一匹、入場無料の甘い言葉に誘われて、しばしの暖を求め玄関先から奥へ、、、、、『世界遺産で暖をとるなんて粋だね!』
 
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・・・・・・・・・・・・・国立西洋美術館は、先の大戦後、フランス政府に差し押さえられていた、川崎造船所社長:松方幸次郎がヨーロッパで収集した西洋美術品「松方コレクション」の寄贈返還を受けるため設立された。、、、、その時の返還条件の一つに国立西洋美術館の建設があった。 日本政府はル・コルビュジェに設計を依頼し、清水建設の施工により昭和34年(1959)に完成した。
 
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・・・・・・・・・・・・・・建物の中心に置かれた「19世紀ホール」(ル・コルビュジェの命名)は、吹き抜けの大きな空間である。 天井には明り取りの三角形のトップライトがあり、やわらかな光が差し込んでくる。 その天井を支える打ちっぱなしの大きな円柱。 そして、大きな斜路が観る人を2階へ誘導する。 この空間にロダンの彫刻が配されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・19世紀ホールを囲むように、外周に展示室が配されている。、、、、、どの絵も超一級の作品のようだ。 西洋美術館には4000点以上の収蔵作品があるそうだ、1点1億円とすると、全部で・・・・・・?
 
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・・・・・・・・・・・・・雅万歩がチョイと気に入った作品2点、カルロ・ドルチの『哀しみの聖母』(1650年頃)と、マリー=ガブリエル・カペの『自画像』(1783年)、、、、、我が家に飾りたいが、この絵に合う部屋がないね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・ル・コルビュジェが設計した西洋美術館本館の接続する新館がある。 この新館は、ル・コルビュジェの設計を手伝った前川國男の設計。 こちらは外観を撮影することはできなかった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・新館から中庭をとおして本館を望む。
 
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・・・・・・・・・・・・・・前庭には、おなじみロダンの『地獄の門』と『考える人』、、、、、最近、テレビで見る、鶴瓶の「考える人」(太田胃散のコマーシャル)の方がなじみやすかも?
 
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2019年1月 5日 (土)

チョイト、マイナーな神社巡り

三が日は過ぎたがまだ松の内、平成最後の年の散歩始めは我が家の近くの神社巡りから。 浅草橋の氏神様からスタートし、柳橋、東日本橋、大伝馬町、秋葉原の、チョイトマイナーで、チョイト歴史ある、普段参拝する人の少ない神社を巡り我が家に戻る、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●何はともあれ氏神様から・・・・・・・浅草橋駅東口(江戸通り側)裏、飲食店と問屋が並ぶ裏通りに、せせこましく祀られた銀杏岡八幡神社。 御祭神は、誉田別皇命と武内宿祢命の二神。 雅万歩の氏神様である。、、、、、中世、この付近には小高い丘があり隅田川が一望できたそうだ。 源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。、、、、江戸時代には、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となったといわれている。 ちなみに、雅万歩出生時の住所は浅草区新福井町(現:浅草橋2)であった。 
 
・・・・・・・・・・・・・浅草橋1丁目と2丁目の境「福井町通り」は、まだ正月気分で人通りも少ない。、、、、福井町は元和4年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町である。 新福井町は、明治5年(1872)、出羽秋田城主佐竹家らの邸地跡に誕生したが、福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられた。そして、昭和39(1964)の住居表示にて、両町は現在の浅草橋一、二丁目になった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・銀杏岡八幡神社。 コンクリート造の鳥居と社殿。 
 
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●花柳界のちっぽけな神社・・・・・・・浅草橋駅から総武線の高架橋に沿って両国の側に歩くと、隅田川沿いのビルの角に小社がある。 これぞ、“知る人ぞ知る 知らん人は知らん!”、かの有名ではない石塚稲荷神社である。、、、、石塚神社の祭神は倉稲魂命であり。 神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといわれ、元禄元年(1688)当地へ移転した。 火伏神と言う事で火除けの神。 戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建された。 玉垣には右から「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」「卯の木」「深川亭」「二葉」「鶴の家」と続いている。 柳橋の橋の袂から隅田川沿いに建っていた料亭の名である。 神社を中心に、花柳界:柳橋の料亭が家並みを連ねていた。、、、、雅万歩の小学生の頃(昭和30年代)は神社の近くに、見番(組合)があり、銭湯があった。 料亭は愛用できなかったが、銭湯はよく利用した。
 
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●花柳界の神社・・・・・・・・柳橋にもう一社、有名ではない神社がある。 その名は、篠塚稲荷神社。、、、、篠塚稲荷神社の御祭神は倉稲魂命、創建年代は不詳。 正平年間(1346~1369)に新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に主家再興の祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったそうだ。 延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったが、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残った。、、、、、神社の近くに小学校の同級生が住んでいて、お母さんは柳橋の芸者さんだった。 家は黒板塀の家で、放課後よく遊びに行った処。
 
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・・・・・・・・・・・・・手を合わせた後、柳橋を渡り中央区に入る。 橋の左側には、料亭:亀清楼が営業中。、、、、柳橋から上流:浅草橋を眺める。、、、、この辺りは、雅万歩の遊び場の一つで、船宿の桟橋から四手網を持ってハゼ釣りした処。
 
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●七味唐辛子の薬研堀・・・・・・・・・・・・・柳橋を渡り京葉道路を横切ると、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院 の呼び込み用の赤い旗が、道路わきで“おいでおいで”をしている。、、、、手招きで“おいでおいで”されると男は弱いもの、ついフラフラと誘い込まれて、身ぐるみ剥がされ、身も心も寒い寒いこととなる。 ここでは旗の手招きなので、安心して誘われ、賽銭とられても心は暖かくなる。、、、、天正13年(1585)豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、安置されていた不動明王尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、兵火を逃れて遥々東国に下ってきた。 僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。 これが当不動院の開創。、、、、、“薬研堀”とは、現在の東日本橋にあった運河のことで、この辺りの運河の断面はⅤ字形をしており、漢方の調薬道具に似ていることから“薬研堀”と呼ばれていた。 堀の名が地名となり、この辺りで“七味唐辛子”を売る店があったことから、薬研堀の七味唐辛子が有名になった。 不動院とは直接関係なし。
 
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●昭和7年の銀行建築・・・・・・・・・・・薬研堀から日本橋堀留町へ向かう途中、日本橋富沢町に国登録文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店 の建物がある。 外観は、明治から昭和初期に建てられた銀行・保険会社の建物に多く見られる、西欧古典主義様式によるデザイン。 この建物では1、2階を貫くコリント式の大オーダーが通りに面して並んでいる。 建物角の、隅切りされた正面のデザインに建築家の苦労の跡が見られる。、、、、現在は「ハリオグラスビル」として使用されている。
 
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●宝くじの神様に賽銭はずむ・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線の小伝馬町駅に近い、日本橋堀留町の椙森神社(すぎのもりじんじゃ)に到着。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。、、、、早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在では、「東京2020大会協賛くじ」を売ってオリンピックの財源確保するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、サッパリ当たらない。 今日は拝殿横にある「富塚」にも手を合わせてきた。 『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ヨロシク』
 
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・・・・・・・・・・・・・【蛇足】 ① 明治維新以後も、東京の古社として盛んに信仰されたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年(1931)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。 自社の再建には富くじを発行しなかったらしい!  ②神社は日本橋七福神 の内の一社で、恵比寿神を祀っている。
 
 
 
●べったら漬けの神様・・・・・・・・・・・・ここまで来たらチョックラべったら漬けの神様にもご挨拶していくことにした。 椙森神社から西に250m程、日本橋本町の駐車場に挟まれた小さな小さな宝田恵比寿神社。、、、、宝田恵比寿神社は、宇迦能御魂命・素盞嗚尊・大国主命・事代主命・大穴持命・少彦名命の6柱を祀る。 集団管理体制の神社。、、、、、元は江戸城外宝田村の鎮守だった。 創建年代は不詳だが、慶長年間の江戸城改築の際、移転したものといわれる。 移転作業を命ぜられた馬込勘解由は、家康の命に従って千代田・宝田・祝田3ヶ村の常盤橋外へ無事移転させ、大業を成し遂げた功により、徳川家繁栄祈念の恵比寿像を授けられ、平穏守護の神体として、鎮守の社に安置したのが今日に至った。 その像の作者は鎌倉時代の名仏師運慶と伝えられている。、、、、、神社のある、旧大伝馬町は江戸開府以来の木綿問屋の町で、1月と10月には繁栄を祈って盛大に夷講を行った。 現在は10月のみに開催されているが、宝田恵比寿は、商売繁盛、一家繁栄、火伏せの神として崇敬者は広く関東一円におよび、10月19日・20日の「べったら市」恵比寿神祭が盛大に行われる。 明治6年神田神社(神田明神)の兼務となり、大正12年大震災の災厄を蒙ったが、本殿のみは炎上を免れ、のち拝殿を再建し今日に至っている。、、、、、宝田恵比寿神社も、日本橋七福神の一社。
 
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●体験したい伝馬町牢屋敷・・・・・・・・・・宝田恵比寿神社のある旧大伝馬町(現:日本橋本町)から、伝馬町の牢屋敷があった小伝馬町は、江戸通りを挟み隣り同士だ。 チョイト寄ってみよう!、、、、日本橋小伝馬町にある高野山真言宗の寺院:大安楽寺(だいあんらくじ)は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡にある。 明治15年(1888)、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して創建されました。 高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。、、、、ここの牢屋敷は、延宝5年(1677)常磐橋門外からここに移されて、明治8年(1875)市ヶ谷監獄ができるまで使用されていた。 今は、当時を語るようなものは何も残っていない。 体験入牢できるような施設を作ったら、訪れる人も多くなるかも?
 
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●天照大神の兄姉神を祀る神社・・・・・・・・伝馬町牢屋敷跡から北西に約250m、千代田区岩本町2丁目に金山神社がある。、、、ナンジャ! 正月だというのに、誰もいない、扉もとじられたまま、コリャどうなっているのか、サッパリ判らん? とりあえず、二礼二拍一礼して行くことにした。、、、、金山神社は、昭和の初めに東京金物同業組合が総本宮南宮大社の御分霊を組合事務所に奉斎し創建されました。 第二次大戦の災禍にあったものの、昭和29年11月8日に再建されました。、、、、御祭神の金山彦命、金山姫命の二柱は、伊勢に鎮座される天照大神の兄姉神で、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司る神である。 金属業界には打って付けの神だ。、、、、天照大神の兄姉神が、金属業界の神とは知らなかった!
 
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●たぬきの神社・・・・・・・・・・岩本町まで来たら、靖国通りを越え、神田川沿い(千代田区須田町2)にある柳森神社(やなぎのもりじんじゃ)に寄って行こう。、、、、、長禄3年(1459)、太田道潅が江戸城を築いた際、現在の神田佐久間町辺りに柳を植えて鬼門除けの柳の森とした。 その鎮守として祀られたことを創祀とする。 万治2年(1659)、神田川の築堤のため現在地に移転した。 烏森神社(新橋)・椙森神社とともに江戸三森と称された。、、、、、境内社の福寿社は5代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像を祀る。狸に「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして信仰を集める。 かつては八百屋の娘から将軍の生母になった桂昌院にあやかりたいという女性たちに崇められた。 当初は江戸城内に祀られていたが、後に旗本の瓦林邸内に移され、明治維新に際して柳森神社で祀るようになった。、、、、、ここも、正月だというのに、訪れる人は少ない。 神社も、特別に人を出していないようだ。
 
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●引越しの日通が引越し・・・・・・・・・・和泉橋を渡り神田川を越え、秋葉原駅前から浅草橋方向に歩くと三井記念病院があり、その隣は日本通運の敷地である。 現在、13階建ての新本社ビルを建設中、その一画に、金綱稲荷神社(きんつないなりじんじゃ)がある。 神社は日通金綱稲荷奉賛会によって維持されている。、、、、、およそ420年、前日本通運の前身である飛脚問屋京屋弥兵衛が、日頃から五穀豊穣・商売繁盛・衣食住の神・道中の安全の神として崇められていた伏見稲荷大社を信仰し参拝していましたが、浪速・京・江戸間の運送業務を始めるにあたり、自店に“御霊”を勧請した。 ある日夢枕に、ご神霊が立ち「汝の篤信のため金の綱を授ける」とのお告げがあり、自店で奉祀している神様を「金綱稲荷」と称した。 その時、祀った場所が、現在の地(神田和泉町)であり、日本通運の創業の地でもある。、、、、日本通運は現本社の所在地:港区から、2021年に新本社ビルに移転し、創業地に帰ることになる。 
 
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●神社巡りのゴールは我が家・・・・・・・金綱稲荷神社から、浅草橋の我が家までは徒歩5分。 つまり、千代田区神田和泉町と台東区浅草橋は隣り同士の町である。 出発した福井町通りに戻った。
 
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2019年1月 2日 (水)

宝くじ当選を祈願し浅草寺

穏やかな正月を迎え家族全員で初詣。 今日の浅草寺は超満員の状態で、雷門前から規制され、仲見世から本堂まで渋滞行列である。、、、、今年こそ、チョイト遠慮気味に『宝くじ、前後賞の1.5億円当選』を期待し、お賽銭も奮発し100円で、じっくり、懇ろに、しつこく、祈願した。 ついでに、家族の無病息災、鶴寿千歳を願い、おまけに、夫婦円満も願ってきた。、、、いよいよ、平成31年の始まりです、今年も雅万歩を続けられることに喜びを感じ、一年を過ごせればこれ幸いです。

 
 
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2018年12月31日 (月)

大晦日の浅草寺

今年も平穏無事に過ごせた御礼に浅草寺にお参りしてきた。 チョイと待てよ! 本当に『平穏無事』で良かったのか? 浅草寺への道すがら、考えてみた。 正直な気持ちでは、『ジャンボに当たりたかった』、『白石麻衣の握手会に行きたかった』、『病院通いを減らしたかった』、などなど、いろいろ実現したかったこと、実行したくなかったことがあるある、考えるときりがない。、、、、、来年は多少変化の多い年にしよう! 初詣では、『ジャンボ、前後賞で1.5億円当選』、『白石麻衣のサインをゲット』、『通院している、眼科・整形外科・泌尿器科・心臓血管外科・循環器内科・歯科を半分に』、などなど、少々遠慮して、お願いすることにした。
 
 
 
●・・・・・・・・・・・大晦日の夕刻、お参りする人は少ないと思ったら、アリャ~! 何じゃコリャ~? 明らかに、去年より今年は、外人観光客の数は増えている、日本人はどこにいるのか、周囲は外人ばかりがゾロゾロ。、、、、、日本も観光立国になったようだ。 
 
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●・・・・・・・・・本堂の東南、仲見世の裏側に、弁天山と呼ばれる小高い丘がある。 ここには、弁天堂鐘楼が建っている。 弁天堂は今年の仕事納めを済ませ、家主の弁天様が江の島の実家に帰省したのか、扉は閉まり静かである。 弁天堂に祀られている弁天さまは、白髪のため「老女弁財天」と呼ばれているそうだ。 若いピチピチの弁天様なら拝観したいが、乳の垂れた老女なら遠慮する。、、、、弁天堂の前には、元禄5年(1692)第五代将軍徳川綱吉(1646~1709)の命により下総国関宿藩主牧野成貞が金200両を寄進、改鋳した梵鐘がある。 この鐘は、江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉の句:「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘である。 昭和20年(1945)の東京大空襲では、鐘楼は焼失し昭和25年(1950)に再建された、またこの時、鐘は幸いにも無事に残った。 鐘は、現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴らされる。 また、大みそかには、除夜の鐘として鳴らされる。、、、、、私が中学生の頃までは、約2km離れた浅草橋の我が家でもこの鐘の音が聞こえていたが、今は残念ながら、高層ビルも建ち聞こえない。
 
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2018年12月28日 (金)

年末寒波の東向島

年末寒波襲来の日本列島。 今朝の台東区は気温6℃、風速5m/s。 家を出るなり、『寒い!コリャ、散歩に出るんじゃなかった、失敗!』と、自分に言いながら浅草橋駅に向かう。 この寒さの中、散歩の途中で具合が悪くなって救急車にお世話になると恥ずかしいので、近場の曳舟から歩くことにした。 ここからなら、異常事態になっても、タクシーで家まで帰れるからね。
東武伊勢崎線の曳舟駅から、東向島の町を抜け、白鬚橋から台東区に入り今戸神社まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●リニューアルした駅・・・・・・・・曳舟駅 は、明治35年(1902)4月1日の吾妻橋(業平橋)~北千住間開業時にできた駅で、開業120周年まであと4年。、、、、駅は伊勢崎線が発着する島式ホーム2面4線と、亀戸線専用の片面ホーム1面1線の高架駅である。 改札口は最近リニューアルした高架下に1か所あるのみ、改札を出ると東西の出口に分かれる。、、、、駅は明るくなり、女性は綺麗に見える。(気のせいか?)
 
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●路地尊て何?・・・・・・・・・駅から北へ、水戸街道(=国道6号)を横断し、東向島1丁目の裏通りに芝の覆われた広い一角がある。 奥にシャレた平屋の建物がある。 公園にしては遊具が無い、住宅にしては開放的すぎる、建物の前まで行くと「一寺言問集会所」と表示されてた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・一寺言問集会所の「一寺言問」とは地名か(?)、聞いたことがないな。、、、、、墨田区向島5丁目、東向島1・3丁目、堤通1丁目の隅田川と水戸街道に挟まれた地域の名前であった。 この地域内の、二つの小学校が災害時の防災活動拠点となっていることから、第一寺島小の「一寺」と言問小の「言問」を合わせ、「一寺言問地区」が誕生したそうだ。 地区内には6町内会があり、細い道の住人が皆で燃えないいえ町づくりを目指し、活動している。
 
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・・・・・・・・・・・・・その敷地の隅に、「路地尊」と標した金属製の祠のようなものが建っている。 はたまた、これは何か? 雨水を利用した地域内消火設備と教えてくれた、地中に雨水を貯めるタンクがあり、いざという時、手押しポンプで汲み上げるそうだ。 地域内に数か所の路地尊が設置されている。 「路地尊」の名は、細い通りの住人であることを互いに認識し、コミュニケーションを尊重していこうとの思いがあるそうだ。、、、、この辺りは、木造住宅も密集し、防火意識の高い処である。 路地尊が役立たないことを願うね。
 
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●消えてゆく赤線地帯・・・・・・・・向島5丁目と東向島1丁目の境には、「鳩の街通り商店街」がある。 この商店街の付近は、戦時中、「玉の井」の娼家が焼き出され移転し、新たに開業した処で「鳩の街 」と呼ばれている。 戦後は、米軍の慰安施設となり、さらに、日本人相手の赤線地帯となった。 昭和27年には、娼家が108軒、娼婦が298人いたそうだ。(念のため、私は6歳、知るよしもない)、、、、、今は、狭い路地は変わらないが、建物はほとんど建て替わり、当時の面影を残す建物は少なくなった。、、、、今日は、路地を歩くと日が射さず、風が吹き付け、寒い寒い!
 
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・・・・・・・・・・・・・・鳩の街通り商店街の中程にある保育園の付近に、作家「吉川英治旧居跡」の案内板があった。、、、、吉川英治が住んでいたのは、赤線ができる以前の大正6年頃と思われる。 
 
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・・・・・・・・・・・・・鳩の街通り商店街の北詰の少し先に、「露伴児童遊園」がある。 ここは文豪幸田露伴が、明治41年(1908)から大正13年(1924)まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡。
 
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●姿見えない地蔵尊・・・・・・・・・地蔵通りが墨堤通りにぶつかる角(東向島3丁目)に、子育地蔵尊が祀られている。、、、、、地蔵尊の由来は案内板によると、『文化年間(1804~1817)に隅田川の堤防修築工事の際、 土中から発見されたと伝えられている地蔵様で。 当初は村の子供たちが、 神輿がわりにこの地蔵様をかついでいたそうだ。 ところがこの地に古くから住む植木屋平作方の雇人夫婦が、ある日、田地で殺害されましたが、この地蔵が村のこどもの口をかりて犯人をお告げになり、 たちまち犯人を捕えることができた。 この奇跡に驚いた平作は、 当所に地蔵を安置して供養を怠らず。 その後、将軍家斉が当地に鷹狩に来て、 平作方に小憩の際、 地蔵の由来を聞いて感銘し、帰城の時にお参りした。 平作はこれを記念して小堂を建てて、 地蔵を安置したところ、 多くの人々が参詣するようになった。』、、、、、小さな境内に、庚申塔、道標などが並んでいる。 しかし、地蔵尊は暗い堂内に祀られているようで、残念ながら姿が見えない。
 
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●ちんブラブラ・・・・・・・・・・・・・・東向島3丁目、墨堤通りに面して白鬚神社がある。、、、、天暦5年(951、=平安時代初期)に近江の白鬚大明神の分霊をこの地(旧寺島村)に祀った。 商売繁盛、方災除け、厄除けの神として多くの人々の崇敬を受けている。、、、、、神社には、七福神の一つ寿老人が祀られており、毎年正月は「隅田川七福神巡り」で参拝する人が多い。、、、、、既に神社は初詣の準備が終わったのか、提灯がぶら下がっていた。、、、、小学生の頃 ♪ ちょうちんブラブラ ♪ という歌詞の歌(?)があって、初めの“ちょう”を小さな声で、その後を大きな声で歌った記憶があるが、何の歌だったか?
 
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●空にカーブが映える橋・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)に竣工した白鬚橋 (しらひげばし)を渡り、隅田川をこえ台東区に入る。、、、、、北風ビュービュー、橋の上ではブルブル、超寒い。
 
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●寒い寒い猫神社・・・・・・・・台東区に入り、今戸神社 に立ち寄る。、、、、今戸神社は、御祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神様を祀っている事から、縁結びに御利益あると言われている。 今日も寒波襲来の下、若い娘が参拝していた。、、、、私は、そろそろギブアップ。 もうこれ以上寒さに耐えられない! バスで帰宅することにした。
 
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2018年11月23日 (金)

二人連れの浅草

夕食前の散歩と買い物。 チョイト浅草へ、、、、
 
 
 
●かっぱの通り道・・・・・・・・・国際通りの東側は浅草六区・仲見世・浅草寺である。 私の散歩は、国際通り西側の八幡神社付近から。
 
・・・・・・・・・・・・まずは、西浅草2丁目の八幡神社。 神社は、江戸時代当地域にあった田島山誓願寺が宇佐八幡宮の御神霊分神を勧請して元禄13年(1700)創建された。 明治維新に際して浅草神社の兼務社となる。 昭和20年(1945)の空襲で被災し、昭和24年(1949)に再建した。 その後、昭和47年(1972)に鉄筋コンクリート造により現社殿が完成した。
 
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・・・・・・・・・・・・・八幡神社近くの「かっぱ橋本通り」をチョイト歩く。、、、、「かっぱ橋道具街」に直交する商店街。 商店が多く並ぶが、“どぜう”の飯田屋はその中でもピカピカのピカイチ。 創業:明治36年(1903)の老舗。 お腹が鳴るね!
 
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●カッポレ・カッポレ・そこどけ・カップル・・・・・・・・・・・浅草六区をぶらつき、木馬館を覗き、浅草寺へ向かう。、、、、祝日のせいかカップルが多い、羨ましいね!、、、、、大衆演劇の木馬館は御老人専門(?)
 
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●収入が気になる寺、さぞ儲かっているでしょう!・・・・・・・・境内は、“満員御礼”の垂幕があってもよさそうな混み様。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、浅草寺本堂の左奥にある淡島堂に参る。、、、、元禄年間(1688~1704)に紀州加太の淡島明神を勧請して堂が建立された。 現在の淡島堂は、戦後、旧影向堂の仮本堂であった建物を移築・改修したもので、本尊は阿弥陀如来。、、、、、毎年2月8日には、淡島堂にて「針供養」が営まれる。 この日は、日頃使用して折れた針を柔らかい豆腐に刺して感謝の意を表すもので、多くのご婦人方で賑わうそうだ。、、、、注射針も焼き豆腐に刺して供養し、若い看護士さんで賑わうといいね! 見に来たい!
 
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・・・・・・・・・・・・・淡島堂と本堂の間に橋本薬師堂がある。、、、、当初は観音堂の北方にあって北薬師と呼ばれた。慶安3年(1649)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀に架かる橋の傍らにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成6年(1994)現在の場所に移転、建物は桁行3間×梁間3間。 屋根は入母屋造瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇の内、浅草神社の社殿と同時代で二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。 薬師如来座像を本尊とし他に前立ちの薬師如来と十二神将像が安置されている。、、、、扉は閉まり、中は見えない。
 
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・・・・・・・・・・・・・さて、本堂に到着。 浅草寺本堂は本尊の聖観世音菩薩を奉安することにちなみ、観音堂とも呼ばれる。 旧本堂は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失した。 その後全国の信徒からの浄財により、昭和33年(1958)に今日の本堂が再建された。  本堂の設計は川崎大師、増上寺なども手掛けた大岡 實(1900~1987)、施工は清水建設。
 
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・・・・・・・・・・・・・・本堂周辺もパチリ!
 
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●皆さん幸せ!・・・・・・・・・・・おみくじ“吉”で喜び、“凶”で騒ぎ、どちらにしても今宵は泊まって二人は幸せ。 どうも羨ましいカップルばかり。 
 
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●日も落ち、男一人さみしく帰る・・・・・・・・・寒くなった、青森でも初雪が観測されたそうだ、風邪をひかないように、温かい缶コーヒーで飲みながら帰ることにした。
 
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2018年11月 7日 (水)

壁に藁束つめた奏楽堂

去年の春、男の一物に痛みを感じ、上野の病院で診てもらった。 以来、この病院には定期的にお世話になり、今日もその後の定期検診があった。 『その後、いかがですか』 『ハイ、気になるような痛み、異常はなく、オシッコの出もいいです』 『それは良かった、では次回は年明けにしましょう』 診察は簡単に終わったと思った時、『アッ、調子いいようなので、前立腺癌の検査しておきましょうね、採血して帰ってください。 結果は次回お知らせします』のお言葉。 アリャリャ、コリャ、ひょとすると、癌があるのかな? 先生は何か隠していないか? 脳裏をかすめる嫌な予感。 もし癌があったら、しかも末期癌で全摘出手術、ウヮ~~70歳過ぎて御釜になるかも、恥ずかし~~い! この正月は、癌が見つからないことを祈り、願うばかり。、、、、、焦心に駆られ、病院をあとにする。 
 
上野駅前まで歩いてきたら、癌のことはスッカリ・サッパリ・キッパリ忘れ、奏楽堂が見たくなり寄ってきた。
 
 
 
●日本最古の音楽ホール・・・・・・・・・・上野公園の東京都美術館の北側、そして東京藝術大学に隣接する閑静な地に奏楽堂がある。 森の中の木造の建物は明治のロマンと懐かしさをよみがえらせ佇んでいる。、、、、、奏楽堂(旧東京音楽学校奏楽堂)は、東京藝術大学音楽学部 の前身、東京音楽学校の校舎として、文部技官山口半六と久留正道の設計による、木造2階建て桟瓦葺の建物は、明治23年(1890)5月に完成した。 2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です。、、、、、昭和40年代(1965~)に入ると、建物の老朽化が目立つようになり、奏楽堂を東京藝術大学から犬山の明治村へ移す話が出てきた。 しかし、反対意見もあり、昭和58年(1983)に台東区が大学から譲り受けることとなる。 その後、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開を開始した。 国指定重要文化財
 
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・・・・・・・・・・・・・・ 奏楽堂前には、同郷の彫刻家朝倉文夫の手による瀧廉太郎像が置かれている。 23歳で没した瀧が、「荒城の月」の曲を考えている姿か? この像は郷里の大分県竹田市の岡城趾にも同じものが置かれているそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・内部は学校らしくシンプルな造りである。
 
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・・・・・・・・・・・・・2階にある日本最古の音楽ホール。 今は建物全体を奏楽堂と呼んでいるが、かつては、この部屋を「奏楽堂」と称したそうだ。、、、、、梁行16.4m、桁行26.4m、客席338席の小さなホール。 天井は音響を考慮して中央部がヴォールト状(蒲鉾型)になっている。 壁にはスチーム暖房がズラリ。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・舞台中央のパイプオルガンは、徳川頼貞侯爵が大正3年(1914)に英国アボット・スミス社に発注し、大正9年(1920)11月にお披露目された。 パイプの総数は1,379本あるそうだ。、、、、数えてみたが、どう見ても100本以上あるとは思えない。 残りのパイプはどこに隠した!
 
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・・・・・・・・・・・・・・ホールの漆喰壁の中には、防音と音響上の効果を狙い、藁束(わらたば)がぎっしりつめられているそうだ。、、、、、先人の知恵!
 
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●こちらは大ホール・・・・・・・・・チョイト、現代の大ホールを見て帰ろうと、上野の東京文化会館に寄ってみた。 『大ホール内部の見学ダメ!』だった。、、、、、建築家:前川國男の代表作で、昭和36年(1961)日本建築学会賞作品賞を受賞した建物。 東京での本格的なクラシック音楽のホールとしては初期のものである。 その後、東京には、クラシック音楽専用として昭和57年(1982)のザ・シンフォニーホール、昭和61年(1986)のサントリーホール等、最新の音響設計技術を用いたホールが開館された。 東京文化会館は平成11年(1999)の改装により、古さを感じさせない音楽ホールとして健在である。
 
・・・・・・・・・・・・・・今日は全景写真が撮れなかったので、平成23年撮影の全景
 
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・・・・・・・・・・・・・・私の好きな現代建築の一つ
 
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・・・・・・・・・・・・・・・エントランス部分も、パチリ!
 
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●そろそろ紅葉・・・・・・・・・・上野の森にも秋が来た。 
 
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2018年11月 1日 (木)

今年も酉の市

●よく効く御守・・・・・・・・・・・一年は早いもの、カレンダーも残るは霜月・師走の二枚のみ。 気持ちは、のんびりした行楽・食欲・文化の秋から、年末・年始の準備にそろそろ切り替えだ。 今日は「一の酉」、午後から夫婦で浅草鷲神社 の「酉の市」へ行ってきた。 毎年、授与される開運の「熊手御守」だけでなく、今年は「三の酉」まであり神社の隣の長國寺では「火除御守」をもらってきた。

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●・・・・・・・・・・・・お参り済ませ、熊手やさんをチョイト拝見。
 
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●また来年、酉の市に来よう!・・・・・・・・・ヨオー、チョチョチョン・チョチョチョン・チョチョチョン・パ、、、、、福が授かり、7億円当たり、来年は大きな熊手を買うか!

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