中央区

2019年7月26日 (金)

深川の三十三間堂

一気に夏到来、これからは外出時に熱中症を心配しなければならない、暑い暑い夏だ!

今日の散歩は、都営浅草線日本橋駅から、永代通りに沿って地下鉄東西線木場駅までの、1万2千歩です。 




●間違えたら一大事! ・・・・・・昭和7年(1932)、中央通りに東京地下鉄道(現:東京メトロ)の日本橋駅が開業。 昭和38年(1963)2月28日、中央通りと約200m離れて並行する昭和通りに、都営地下鉄1号線(現:浅草線)の江戸橋駅開業。 昭和42年(1967)には、中央通りの日本橋駅と、昭和通りの江戸橋駅を連絡するように永代通りに東西線の日本橋駅が開業する。 これにより、日本橋駅と江戸橋駅は乗換駅となる。 平成元年(1989)都営地下鉄浅草線の江戸橋駅を日本橋駅に改称。、、、、浅草線の日本橋駅は、相対式ホーム2面2線の駅であるが、改札内にはホーム間の連絡通路が無いため、行先により利用する改札を使い分ける必要がある。、、、、我が家のある浅草線の浅草橋駅の隣り駅は東日本橋駅、三越デパートに近いのがJR総武快速線の新日本橋駅、そしてここ日本橋駅。 どれも“日本橋”間違えないように!(大阪メトロにも日本橋駅があるけど、ここと間違えたら悲惨!)

1907260724201

1907260725210

1907260726160

1907260730170

・・・・・・・・・・・・・・浅草線から地上に出ると、昭和通りと永代通りが交差する「江戸橋一丁目交差点

1907260729110

1907260732420



●撤去されずに50年 ・・・・・・永代通りの日本橋駅と茅場町駅の間に、かつて流れていた楓川(かえでがわ)を渡る千代田橋が残されている。 千代田橋の最初の架橋は昭和3年(1928)。 東京オリンピックに間に合うように、昭和37年(1962)に川は埋め立てられ、頭上には首都高が造られ、千代田橋は使命を終えた。 その後今日まで、千代田橋はなぜか撤去されず残されている。 当時、急速に進んだ都市開発の波にもまれ、取り残されたこの橋に悲哀を感じる。

1907260735290

1907260737570



●暑さに耐え、今日もお勤め! ・・・・・・日本橋駅から約500mで隣の茅場町駅。 通勤する人がゾロゾロと地下駅から掃き出されてくる。、、、、亀島川に架かる霊岸橋を渡り、昔の霊岸島、今は中央区新川である。、、、、大手企業の本社ビルが立ち並ぶ、バブルの象徴と言われるビルもその一つ。

1907260746530

1907260747540

1907260755090

1907260757110



●只今、化粧中! ・・・・・・永代通りが隅田川を越える永代橋。 橋の素顔を見たかったが、只今、一年がかりの塗装工事で、暑さ寒さに耐えられるよう厚化粧中だ!、、、、橋から見る、青空の下の隅田川。 画になるね!

1907260801030

1907260803200



●味噌屋の逸話 
・・・・・永代橋を渡り江東区佐賀1の乳熊ビル前に、ちくま味噌(株)の建てた「赤穂義士休息の地」の石碑がある。 赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名であるが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友であった。 元禄15年(1702)12月14日本所松坂町(墨田区両国)の吉良邸討入後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋際の乳熊屋味噌店の前にさしかかる。 乳熊屋は上棟の日に当たり、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労をねぎらった。 大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったそうだ。 ちくま味噌では、現在「元禄浪士あま酒」として販売している。 老舗の味噌屋には、それなりの話が残っているものだね。、、、、ところで、恥ずかしながら、私は今日まで「ちくま味噌」の“ちくま”は“千曲”で信州の会社だと思っていた。 “乳熊”は伊勢乳熊郷の地名であった。 慶安の頃(1648~1651)竹口作兵衛義道が、一旗揚げようと伊勢乳熊郷から江戸へやってきて、日本橋で塗物商を営んでいたが、元禄の初め(1688~)深川永代橋際の現在地で味噌醸造を営み、乳熊屋作兵衛商店といったのが、今の「ちくま味噌」の始まりだそうだ。

1907260809370

1907260808150



●蒲鉾にあらずミカンなり! ・・・・・蒲鉾屋のお稲荷さんと間違えそうな、大和総研(永代1-14)の敷地の東角地にある紀文稲荷神社。 江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地に祀ったのが紀文稲荷神社。 紀国屋文左衛門は第5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保荻原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられていた。 その文左衛門の店は八丁堀にあり、下屋敷が深川にあり、船蔵もこの周辺にあり、縦横に伸びた運河によって結ばれていた。 そこで、文左衛門は、この付近時この付近一帯の航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷さんを祀った。、、、蒲鉾屋にあらず、ミカン屋のお稲荷さんだった!

1907260816470



●度々の参拝、建物は見飽きた! ・・・・・・門前仲町駅前をとうり、永代寺深川不動尊深川不動燈明塔富岡八幡宮と、定番の寺社を巡る。

1907260833550

1907260834500

1907260900530

1907260849471

1907260843570

1907260908020



●国産第一号の鉄橋 ・・・・・・
富岡八幡宮の東側に「八幡掘遊歩道」があり、そこには歴史ある人道橋2橋の上部が残されている。

・・・・・・・・・・・・・・江東区木場の大横川(旧大島川)に架かり、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな人道橋。 大正時代、岐阜県から上京し、木場で開業医をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める供養の意味を込めて架けた橋である。 当初「新船橋」と名付けられたが、新田医師の亡きあと「新田橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の新田橋はコチラ

1907260922350

・・・・・・・・・・・・・・旧弾正橋は、明治11年(1878)工部省赤羽製作所にて作られた国産第1号の鉄橋。 長さ15.2m、幅3mの単径間アーチ型式。 近代橋梁技術史上において価値の高い橋で、国の重要文化財に指定されている。 昭和4年(1929)に現在地(八幡堀)に移され八幡橋と改称し、人道橋として使用されてきた。、、、、堀は埋め立てられ、橋の下は遊歩道となっている。

1907260919150

1907260926100



●三十三間堂があった! ・・・・・旧弾正橋(八幡橋)を渡り東に向かうと深川八幡東交差点。 この交差点角に「三十三間堂跡」がある。、、、、江戸三十三間堂は、京都蓮華王院に模して、寛永19年(1642)に浅草において建立された。 ここ深川に移されたのは元禄14年(1701)のことである。 深川の三十三間堂は、南北六十六間・東西四間の堂舎であり、本尊は千手観音だったといわれている。 現在でも、京都の三十三間堂において通し矢が行われているが、江戸時代は、この三十三間堂においても、諸士の弓術稽古のために通し矢が行われていた。 深川三十三間堂は、明治5年(1872)に廃棄解体され、本尊は正覚寺(深川2)に移された。 跡地は明治時代に、堂域そのままに細長い深川墓地として利用されたが、大正時代には数矢小学校と住宅に変わった。 その後、数矢小学校は富岡八幡宮の北側の現在地に移転した。、、、三十三間堂が建っていた場所は、明治2年~昭和6年、深川数矢町(かずやちょう)といった。 町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なるを以って町に名づくという」ことに因んでいる。 現在は富岡2丁目に含まれ、数矢町は消滅したが、この名は、数矢小学校の校名に残っている。 


1907260928390

1907260929340



●200億円の工事! ・・・・・・東西線の木場駅は昭和42年(1967)9月14日に開業した。 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。 深さ22.4mと、東西線で一番深い位置に存在する。 開削工法で掘られた両端部以外は単線シールド工法で掘られたためホーム中央に壁があり、単式ホームを隣り合わせとしたような構造である。この単線シールド工法で建設された駅は日本の地下鉄として初である。このような構造のため、改札口と連絡する階段・エスカレーターはホームの両端にあり、それ以外の位置ではホーム間の行き来はできない。階段はエスカレーターの奥にある。、、、、開業してから50年、狭いホームの改良工事が進められている。 シールドの壁を撤去し、広い空間を造りホームを広げる総工事費200億円の大工事。乞うご期待!

1907260939520

1907260943330

1907260945280

2019年2月 2日 (土)

6車線の京葉道路

我が家(浅草橋)から、両国橋を渡り、錦糸町でJRA場外馬券売り場を覗き、亀戸駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●まずは隅田川を越える ・・・・・・・・中央区と墨田区を結ぶ両国橋を渡る。
 
・・・・・・・・・・・・・・京葉道路は浅草橋交差点から始まる。 
 
1902020747480
 
・・・・・・・・・・・・・両国橋は、明暦の大火(1657)の大惨事を教訓に万治2年(1659)に、隅田川に架けられた橋。、、、、現在の橋は、昭和7年(1932)に架けられた。 大きな球形がついた親柱は両国橋のシンボル。
 
1902020753130
 
1902020755081_stitch
 
1902020800200
 
・・・・・・・・・・・・・橋の東詰(墨田区両国)には、向島の俳諧師:宝井其角の弟子であった赤穂浪士の一人:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑がある。 この句は討ち入りの夜、師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。、、、、道端で出会い、サッと句を詠むなんて、私にはできない。 カッコいいね!
 
1902020801300_2
 
・・・・・・・・・・・・・大高源吾の句碑の後ろには、大きな忠魂碑。 こちらは、明治37年・38年の戦役での戦病死者、すなわち日露戦争でご出征し、護国の為に身命を捧げられた英霊に、陸軍元帥大山巌筆による表忠碑。、、、、大きく、立派な碑だ。
 
1902020802030
 
 
 
●早く広げて!・・・・・・・・・両国橋を渡ると、ここから錦糸町の江東橋までは、京葉道路は4車線道路である。 現在、東京国道事務所では6車線に拡幅することが計画されている。 地元への説明会なども実施されているようだ。 高架として、混雑の緩和、安全の確保、緊急輸送道路の確保などが見込まれている。、、、、この都市計画が決定したのは、雅万歩の生まれる前の昭和21年(1946)3月だった。 70余年、経過した!
 
1902020810350
 
・・・・・・・・・・・・・京葉道路の歩道上(両国3)に、「本所松坂町址」の碑が建っている。 元来この辺りは、あの吉良邸があったところである。 関東大震災後の区画整理により町名が変更された。この碑は近世史上著名の地「松坂町」を偲んで、昭和7年に建立された。
 
1902020811500_2
 
・・・・・・・・・・・・・京葉道路の両側は建物も新しくなり、歴史を語るものは見あたらない。
 
1902020823080
 
1902020831261
 
1902020838250
 
 
 
●ここからは6車線!・・・・・・・・・・・・・ 江東橋は京葉道路(国道)に架かる橋で、この橋からは6車線となり幅(35m)も広く、橋の長さ(20.8m)に対し倍近くある。 明治31年(1898)創架で、現在の橋は平成8年(1996)に架け替えられた新しい橋だ。、、、、橋の下を流れる大横川は暗渠化され、現在はスカイツリーが眺められる大横川親水公園となっている。
 
1902020842380
 
1902020843510
 
1902020850080
 
1902020845200
 
・・・・・・・・・・・・・・6車線となった京葉道路。
 
1902020854040
 
・・・・・・・・・・・・・・江東橋の東詰に、明治34年(1901)創立の名門:都立両国高校がある。 作家:芥川龍之介の母校。、、、、両国高校の一画に、「国産マッチ発祥の地」と刻まれた 御影石の記念碑がある。 石川県金沢出身の 清水誠はフランス留学から帰国後、明治9年(1876)に, この地に「新燧社」を設立し、本格的にマッチの製造を始めた。 2年後には我が国始めての輸出が行われ、太平洋戦争前まで続いた。、、、、今は、マッチが使い捨てライターに変わり、チャッカマンに変わり、お目にかかることがまれとなった。
 
1902020858060
 
1902020854440
 
 
 
●IT化された! ・・・・・・・・錦糸町駅前のJRA。 チョックラ、朝の場外馬券売り場を覗いてみた。 競馬を止めて50年、馬券の買い方も変わり、面白そうだ! やってみたくなるね。
 
1902020906250
 
1902020909510
 
1902020909560
 
 
 
●工場が消えた! ・・・・・・・・・・・・錦糸町駅前から、亀戸へ向かう。、、、、この辺り、かつては鉄工場などが並ぶ工場地帯だった。 今や近代邸なビルとマンションが並び、世も変わった!
 
1902020921020
 
1902020924350
 
1902020939440
 
1902020944400
 
 
 
●時代ごとに変わる! ・・・・・・・・・・亀戸駅前を通り過ぎ、京葉道路の南側、昭和の時代には第二精工舎の工場があったところ。 平成になり、ショッピングセンター「サンストリート亀戸」に変わり。 次の時代は、25階建ての住居棟と6階建ての商業棟ができるそうだ。 (写真:左側の工事現場)
 
1902020959201_stitch_2
 
 
 
●今日のお帰りは? ・・・・・・・・・・・・亀戸駅の“勝手口”(正式には東口)から。
 
1902021003390
 
1902021011290

2019年2月 1日 (金)

九段の雅万歩

我が家(浅草橋)から、浅草橋交差点、須田町、神保町、九段坂と、靖国通りを歩き、市ヶ谷駅まで、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
浅草橋から 九段まで かって知ったる この道を 杖にたよらず 一刻あまり 友よきたぞや 逢いにきた ・・・・・・・・この世に生を受け七十余年、生まれは浅草橋、育ちは神田、通学は靖国通り、大学はチョイト駿河台、勤めは九段上と、何かとお世話になり、ナンダカンダ・鼻かんだと思い出多い靖国通り 。、、、今日も、通り沿いの一軒一軒に思いを馳せ、歩いた。  
 
・・・・・・・・・・・・・我が家に近い浅草橋駅“裏口”(正式には西口と云う)
 
1902010739580
 
・・・・・・・・・・・・・靖国通りの起点:浅草橋交差点。 ホテルの隣りにホテルが建って、裏にもホテル。
 
1902010750000
 
・・・・・・・・・・・・12系統(新宿駅~両国駅前)、25系統(日比谷~西荒川)、29系統(須田町~葛西橋)の都電が走っていた靖国通り(浅草橋交差点付近)
 
1902010755380
 
・・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと交差する東神田交差点。 40年程前まで、都電の「豊島町」停留所があり、私も通学時ここで乗り降りしたこともある。
 
1902010800250
 
・・・・・・・・・・・・・ここ岩本町交差点の角にあるビルに、一時、私の机があったこともある。
 
1902010809220
 
・・・・・・・・・・・・・新幹線・東京上野ライン・山手線・京浜東北線のガードをくぐり、中央線のガードもくぐる。、、、、、40年の間に2つのガードが増えた、変化する東京!
 
1902010816470
 
1902010828320
 
・・・・・・・・・・・・・須田町交差点。 写真中央のビルは、弘化3年(1846、江戸時代)創業、宮内庁御用達の果物屋(フルーツパーラー)「万惣」の跡地。、、、、、私も祖母と、よく果物を買いに行った店。 ついでに、フルーツポンチも!、、、、、甘い思い出。 
 
1902010834321_stitch_2
 
・・・・・・・・・・・・・淡路町交差点。 右横をはいると、「神田 志乃だ寿司」がある。 いまだに、おつかいで、稲荷ずしを買いに行かされる雅万歩。、、、移転前の「交通博物館」も、この横にあった。
 
1902010849560
 
・・・・・・・・・・・・・小川町交差点。 交差点から大手町方向に100m程の処に、YMCA本部のビルがあった。 地下のプールでは、フルチンで泳がされた。、、、、恥ずかしい思いで。
 
1902010853400
 
・・・・・・・・・・・・・・駿河台下交差点。 我が母校の校舎が見えるが、ここは文系のキャンパス。 私は理工系で、川崎のキャンパス学んだ。 でも、チョイト可愛い娘(松原智恵子?)に逢いたく、文系の数科目を受講していた。、、、、青いレモンの思い出。
 
1902010901150
 
・・・・・・・・・・・・神保町交差点。 水道橋方向に曲がると、エロ本(知る人ぞ知るH書店)がある。 雨上りに入店し、買ったばかりの高い傘を忘れてきた、後で気がついたが、恥ずかしくて問いかけることもできず。、、、、にがい思い出。
 
1902010910420
 
・・・・・・・・・・・・・九段下交差点。 サラリーマン時代、九段上から坂を下り、交差点裏の雀荘へ、度々負けた!、、、、、頭にきた思い出。 雀荘はなくなっている。
 
1902010925300
 
 
 
●空をつくよな 大鳥居 こんな立派な おやしろに 神とまつられ もったいなさよ 雅万歩は泣けます うれしさに ・・・・・・・・・靖国神社に着きました。 神妙に手を合わせる。
 
・・・・・・・・・・・・・高さ25m、日本一の大鳥居。 昭和49年(1974)、1億6000万円で建てられた。、、、、、鳥居は鋼管で造られているが、内部にコンクリートが充填されている。 
 
1902010934570
 
・・・・・・・・・・・・・・境内の中程には、大村益次郎の像が建っている。 明治26年(1883)に作られた、日本初の銅像。 上野戦争で司令官として彰義隊の立て籠もる上野寛永寺を見つめている姿で、大村と靖国神社の関係は、大村が東京招魂社の設立に熱心だったことによる。、、、、、私とこの像の関係は、社会人になって新人研修があり、近くの市ヶ谷ユースホステルに宿泊していた。 その夜、同期の仲間と飲酒し、翌朝叱責をくらい、この像の台座の上で正座をさせられた。、、、、脚の痛い思い出。
 
1902010936190
 
1902010937350
 
・・・・・・・・・・・・・第二鳥居と神門。 神門の内側に、東京の桜の開花を予測する標本木がある。 今年の開花も早そうだが、まだ蕾を見て予測するには早そうだ。
 
1902010940180
 
1902010941510
 
・・・・・・・・・・・・・・明治34年(1901)に建てられた拝殿、その後ろに明治5年(1872)に建てられた本殿がある。、、、、246万6千余柱の神霊が鎮まる。
 
1902010946150
 
1902010944460
 
 
 
●鳶が鷹の子 生んだよで 今じゃ果報が 身にあまる 泰緬鉄道が みたいばかりに 逢いにきたぞや 九段坂 ・・・・・・・・・靖国神社の境内にある、明治15年(1882)に開館した遊就館は、遺品などを収蔵、展示する施設である。 館内には、靖國神社に鎮まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやその事蹟を今に伝える貴重な史・資料が展示されている。 今日は拝観せずに、ショップで軍歌を収めたCDをチョイト見てきた。
 
・・・・・・・・・・・・・遊就館は、陸軍省経理局建築課 (陸軍技師内藤太郎・柳井平八、顧問伊東忠太) の設計、銭高組の施工で、昭和6年(1931)に竣工した。 戦後は一時、本社の建物をGHQにより接収された富国徴兵保険相互会社(現:富国生命)に、貸し出していた。 その後、昭和61年(1986)に遊就館再開となる。
 
1902010947260
 
1902010957590
 
・・・・・・・・・・・・・ついでに、遊就館入口ロビーに展示している、C56-31機関車(泰緬鉄道として活躍)は、戦時中、泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。、、、、、昭和11年(1936)に日本車輛製造(株)で製作され、戦時中タイで活躍し、昭和52年(1977)に引退した。 引退後、泰緬鉄道を建設に関係した南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金してタイから譲り受け、神社に奉納された。
 
1902010948180
 
 
 
●・・・・・・・・・・・・・お帰りは市ヶ谷駅から。
 
1902011015160
 
1902011019250

2019年1月30日 (水)

東京だョおっ母さん

我が家(浅草橋)から江戸通りを南に歩き、日本銀行前に出ると、新旧の常盤橋が三橋ある。 この常盤橋を見て、大手町から皇居前に出て、東京駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●お勤め御苦労さま!・・・・・・・・・浅草橋、馬喰町、小伝馬町、室町と、江戸通りを歩き、外堀通りと交わる新常盤橋交差点に出る。、、、、時刻は9時前、マフラーとマスクで顔を隠した人が、私を追い越していく。  あせるな いそぐな たまには遅刻で リフレッシュ、、、、、我が家から新常盤橋まで、ブラブラ歩いて50分也。 
 
1901300744330
 
1901300751330
 
1901300756240
 
1901300810470
 
1901300817420
 
1901300826270
 
1901300827440
 
1901300833510
 
1901300851060
 
 
 
●石と皿の“ときわばし”・・・・・・・・・・・日本銀行の西側を流れる日本橋川。 そこに、上流側から、新常盤橋、常磐橋、常盤橋と、「ときわばし」が3橋並んで架かっている。 3橋は千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んでいる。、、、、写真は、免震化工事中の日本銀行本店本館。
 
1901300908430
 
・・・・・・・・・・・・まずは、「新常盤橋」、、、、、この橋は、大正9年(1920)の市電(戦後は三輪橋~都庁前の31系統路線)開通に合わせ、現在の江戸通りの延長線上にに架けられた橋である。 コンクリート造の三連アーチ橋であった。、、、、昭和63年、東北新幹線高架工事に伴い、現橋に架け替えられた。、、、、隣りに新幹線の高架橋、頭上に首都高都心環状線が架かり、橋の全容が見えにくい。
 
1901300902550_2
 
1901300900210_2
 
1901300854340_2
 
・・・・・・・・・・・・・・次は、“元祖ときわばし”であるが、残念ながら落橋の危機にさらされ、只今文化財として修復工事中。 その為、近くに立ち入ることもできない。、、、、ところで、この「ときわばし」は、“盤”と“磐”の違いで、「常磐橋」と書く。、、、、初代は、常磐橋御門の見附橋として、天正18年(1590)の架橋と言われている。、、、、現在の橋は明治10年(1877)に架けられた、石造のアーチ橋である。 多数の肥後(熊本)の石工が集められ、橋の架設に当たったと言われている。、、、、、国指定の文化財で、修復工事は基礎部分から全面的にやり直されていたが、途中で東日本大震災があり、工事中の橋も被災し、工期は大幅に延長されている。 
 
1901300909360
 
・・・・・・・・・・・・・・以下の写真は、7年前、工事着手直前の常磐橋。 全景と親柱
 
2012_0527_0928041
 
2012_0221_092133
 
_20101116_083910
 
・・・・・・・・・・・・・・最後は「常盤橋」である。 上流の「常磐橋」は古くて小さな石橋で、かつ歴史的に貴重な橋であったため、昭和元年(1926)に、主要幹線の橋として隣りに新しい橋を架けた。 これが“磐”を“盤”に変えた「常盤橋」である。、、、、橋のデザインは常磐橋を模した、2連のアーチ橋(不等間隔)として造られた。、、、親柱の隣りにラーメン屋の屋台があった、お品書きは新しそうだ、するとこれは?
 
1901300922190
 
1901300918010
 
1901300909170
 
 
 
●ビルの名も判らない田舎者となった・・・・・・・大手町界隈の再開発ビル群を抜ける。、、、、どのビルも。現代的でカッコイイが、個性の薄れた、不動産屋の安直ビルに思える。 
 
1901300926390
 
1901300927260
 
1901300929020
 
1901300938130
 
1901300939211
 
1901300945070
 
1901300946290
 
 
 
●おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょね・・・・・・・・・・・必ず記念撮影する皇居正門石橋(二重橋はこの奥にある)、その脇に、懐かしい交番「祝田町見張所」がある。石橋のできた、明治21年(1888)前後にこの交番も造られたようだ。、、、、皇居前広場から農協の団体が消え、修学旅行の学生も消え、はとバスの団体が細々、残るは東南アジアを中心とした外人さん。 時代も変わったね!
 
1901301006010
 
1901301008530
 
・・・・・・・・・・・・・皇居前から見た丸ノ内
 
1901301001291_stitch_2
 
 
 
●おっ母さん ここが ここが 東京駅 記念に写真を とりましょね・・・・・・・・・・・東京駅に赤帽がいた頃が懐かしく思われるのは、年とった証拠かな?
 
1901301026431_stitch_2

2019年1月29日 (火)

浅草橋はどっちの区

今日も北風が吹く寒い日である。 寒さに負けじと散歩に出るか?、暖かい我が家でゴロゴロするか?、、、、悩みに悩み、とりあえず、遠い処に出て行きたくないので、『浅草橋まで散歩しよう』と、浅草橋の我が家を出た。 「浅草橋」を渡り、「浅草橋交差点」でウロチョロしていたら、中国人か韓国人か、可愛い娘がキャリーバックを引いて浅草方向に歩いて行く。 その後ろ姿を見送り、『ヨシ、俺も男だ! 今日は浅草まで歩こう!』、、、、と、云うことで、江戸通りを浅草まで歩いてきた。 1万歩
 
 
 
●元祖:浅草橋とは?・・・・・・・・・・元祖「浅草橋 」は、外堀(神田川)に架かる橋で、台東区浅草橋・柳橋と中央区東日本橋・日本橋馬喰町を結ぶ。 旧江戸郭内の日本橋から浅草・吉原に通じる橋で、かつては浅草見附があった。 橋の北詰に「浅草見附跡」の碑がある。、、、、、浅草橋は江戸36見附の一つ、浅草橋御門として寛永年間に架けられた。 現在の橋は、昭和5(1930)年1月に開通。 
 
1901290817520
 
1901290753520
 
 
 
●“浅草橋”をめぐる、台東区と中央区の三角関係(?)相関図・・・・・・・・・・・・・・・
 
Photo_2
 
 
 
●台東区の“浅草橋”・・・・・・・・・・総武線の浅草橋駅は、昭和7年(1932)の開業当初から「浅草橋」を名乗り、都営浅草線の浅草橋駅も昭和40年(1965)開業時からの駅名である。 さらに、昭和7年(1932)に完成した、総武線のガードは「浅草橋架道橋」である。、、、、しかし、現町名で「台東区浅草橋」を名乗る町は、かつて(住居表示が変わる以前)「浅草〇〇町」と称していた。 雅万歩も出生地は「浅草區浅草新福井町」で“浅草橋”とはなっていない。 さらに、江戸通りを走る都電の駅前の停留場は「浅草橋駅前」であった。
 
1901290826400
 
1901290828070
 
1901290824210
 
1901290825020
 
 
 
●中央区の“浅草橋”・・・・・・・・・・中央区にある交通の要所:「浅草橋交差点」。 ここは、「江戸通り」が南北に走り、「靖国通りが」西に向かい、「京葉道路」が東に向かい、「清杉通り」が南に向かう、幹線道路の五叉路である。 間違いなく昔から“浅草橋”を名乗っていた。、、、、明治30年代に開通した市電では、浅草橋交差点内の停留場名は当初から「浅草橋」である。 市電が都電と変わっても、「浅草橋」停留場名は昭和40年代の廃線まで続いた。(現在は、交差点付近のバス停名として「浅草橋」を使用中)、、、、昭和4年(1929)に浅草橋交差点付近の道路拡張工事の写真が土木学会に保管されている、そこにも“浅草橋付近”と加筆されている。、、、昭和60年頃造られた、交差点の地下道名は「浅草橋交差点横断地下歩道」である。、、、、中央区では、交差点名以外では“浅草橋”を使用していないようだ。
 
1901290811371_stitch
 
1901290803310
 
 
 
●“浅草橋”はどっちのもの?・・・・・・・・・・・・・・“浅草橋”の使用実績からみると、中央区の方が早かったようだ。 しかし現状は、地名、駅名とも台東区で使用中。 コリャ、難しい判定で、両区の引き分けとする。 何が何だか判らんが、メデタシ・メデタシ???
 
 
 
●雨に濡れず冬は暖かく寝心地は良い・・・・・・・・・・さて、浅草橋交差点横断地下歩道について、もう少し書くと、、、、、交差点角から階段を下りて地下道に達すると、ナント「国土交通省」と書いた三角コーンがズラリ並んでお出迎え! 知らない人は『工事で並べたのかな?』 所々に段ボールが置かれている。、、、もう、お判りですね、豆助!、、、、段ボールはホームレスの寝室。 コーンはホームレスの占領を避けるために置かれたもの。 30年ぐらい前は、ズラリ並んだ段ボールで通るのが怖いぐらいだった。 今は、ほんのチョイト改善し、寝泊まりする人も少ない。
 
1901290805110
 
1901290806340
 
1901290806280
 
・・・・・・・・・・・・・・もう一言、、、、、地下道の入口には何も書かれていないのだが、この地下道はJR総武快速線の馬喰町駅に直結しているのだ。 さらには、都営新宿線の馬喰横山駅にもつながっている。 さらにさらに、もう少し地下道を歩くと都営浅草線の東日本橋駅に到達する。、、、、不親切にも、このことは地下道入口にシッカリと明示されていない!(地図上ではつながっているが)、、、、我が家では、子供が幼い頃、雨が降って外で遊べないときには、この地下道で走り回らせた思いでがある。
 
1901290807540
 
 
 
●老舗も多い江戸通り・・・・・・・・・・・地下道から我が家へ戻るかと、浅草橋を渡り、駅前付近に来ると、外人観光客(主に東南アジア系)が目立つ。 特に最近、浅草橋はリーズナブルなビジネスホテルの建設ラッシュで、ホテルの前にホテル、ホテルの隣りにホテル。、、、、皆さん、浅草・銀座・新宿・上野を目指し駅に向かうようだ。 浅草橋はこれらの繁華街に20分で行ける、便利な処!、、、、可愛い娘もいる、つい道を教えてあげたくなるけど、誰も聞いてくれない。、、、、今日の寒さの中、浅草に行く娘もいた。 私もつられて、江戸通りを浅草まで歩いてきた。
 
1901290822340
 
1901290830330
 
1901290902050
 
1901290912060
 
1901290906120
 
1901290915550
 
1901290916540
 
1901290945060_2

2019年1月 5日 (土)

チョイト、マイナーな神社巡り

三が日は過ぎたがまだ松の内、平成最後の年の散歩始めは我が家の近くの神社巡りから。 浅草橋の氏神様からスタートし、柳橋、東日本橋、大伝馬町、秋葉原の、チョイトマイナーで、チョイト歴史ある、普段参拝する人の少ない神社を巡り我が家に戻る、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●何はともあれ氏神様から・・・・・・・浅草橋駅東口(江戸通り側)裏、飲食店と問屋が並ぶ裏通りに、せせこましく祀られた銀杏岡八幡神社。 御祭神は、誉田別皇命と武内宿祢命の二神。 雅万歩の氏神様である。、、、、、中世、この付近には小高い丘があり隅田川が一望できたそうだ。 源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。、、、、江戸時代には、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となったといわれている。 ちなみに、雅万歩出生時の住所は浅草区新福井町(現:浅草橋2)であった。 
 
・・・・・・・・・・・・・浅草橋1丁目と2丁目の境「福井町通り」は、まだ正月気分で人通りも少ない。、、、、福井町は元和4年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町である。 新福井町は、明治5年(1872)、出羽秋田城主佐竹家らの邸地跡に誕生したが、福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられた。そして、昭和39(1964)の住居表示にて、両町は現在の浅草橋一、二丁目になった。
 
1901050750270
 
・・・・・・・・・・・・・・銀杏岡八幡神社。 コンクリート造の鳥居と社殿。 
 
1901050756530
 
1901050755320
 
1901050753400
 
 
 
●花柳界のちっぽけな神社・・・・・・・浅草橋駅から総武線の高架橋に沿って両国の側に歩くと、隅田川沿いのビルの角に小社がある。 これぞ、“知る人ぞ知る 知らん人は知らん!”、かの有名ではない石塚稲荷神社である。、、、、石塚神社の祭神は倉稲魂命であり。 神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといわれ、元禄元年(1688)当地へ移転した。 火伏神と言う事で火除けの神。 戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建された。 玉垣には右から「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」「卯の木」「深川亭」「二葉」「鶴の家」と続いている。 柳橋の橋の袂から隅田川沿いに建っていた料亭の名である。 神社を中心に、花柳界:柳橋の料亭が家並みを連ねていた。、、、、雅万歩の小学生の頃(昭和30年代)は神社の近くに、見番(組合)があり、銭湯があった。 料亭は愛用できなかったが、銭湯はよく利用した。
 
1901050803080
 
1901050803400
 
 
 
●花柳界の神社・・・・・・・・柳橋にもう一社、有名ではない神社がある。 その名は、篠塚稲荷神社。、、、、篠塚稲荷神社の御祭神は倉稲魂命、創建年代は不詳。 正平年間(1346~1369)に新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に主家再興の祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったそうだ。 延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったが、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残った。、、、、、神社の近くに小学校の同級生が住んでいて、お母さんは柳橋の芸者さんだった。 家は黒板塀の家で、放課後よく遊びに行った処。
 
1901050811310
 
・・・・・・・・・・・・・手を合わせた後、柳橋を渡り中央区に入る。 橋の左側には、料亭:亀清楼が営業中。、、、、柳橋から上流:浅草橋を眺める。、、、、この辺りは、雅万歩の遊び場の一つで、船宿の桟橋から四手網を持ってハゼ釣りした処。
 
1901050813580
 
1901050815200
 
 
 
●七味唐辛子の薬研堀・・・・・・・・・・・・・柳橋を渡り京葉道路を横切ると、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院 の呼び込み用の赤い旗が、道路わきで“おいでおいで”をしている。、、、、手招きで“おいでおいで”されると男は弱いもの、ついフラフラと誘い込まれて、身ぐるみ剥がされ、身も心も寒い寒いこととなる。 ここでは旗の手招きなので、安心して誘われ、賽銭とられても心は暖かくなる。、、、、天正13年(1585)豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、安置されていた不動明王尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、兵火を逃れて遥々東国に下ってきた。 僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。 これが当不動院の開創。、、、、、“薬研堀”とは、現在の東日本橋にあった運河のことで、この辺りの運河の断面はⅤ字形をしており、漢方の調薬道具に似ていることから“薬研堀”と呼ばれていた。 堀の名が地名となり、この辺りで“七味唐辛子”を売る店があったことから、薬研堀の七味唐辛子が有名になった。 不動院とは直接関係なし。
 
1901050818170
 
1901050825580_2
 
 
 
●昭和7年の銀行建築・・・・・・・・・・・薬研堀から日本橋堀留町へ向かう途中、日本橋富沢町に国登録文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店 の建物がある。 外観は、明治から昭和初期に建てられた銀行・保険会社の建物に多く見られる、西欧古典主義様式によるデザイン。 この建物では1、2階を貫くコリント式の大オーダーが通りに面して並んでいる。 建物角の、隅切りされた正面のデザインに建築家の苦労の跡が見られる。、、、、現在は「ハリオグラスビル」として使用されている。
 
1901050850140
 
1901050851160_2
 
 
 
●宝くじの神様に賽銭はずむ・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線の小伝馬町駅に近い、日本橋堀留町の椙森神社(すぎのもりじんじゃ)に到着。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。、、、、早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在では、「東京2020大会協賛くじ」を売ってオリンピックの財源確保するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、サッパリ当たらない。 今日は拝殿横にある「富塚」にも手を合わせてきた。 『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ヨロシク』
 
1901050901040
 
1901050857550
 
1901050859010_2
 
・・・・・・・・・・・・・【蛇足】 ① 明治維新以後も、東京の古社として盛んに信仰されたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年(1931)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。 自社の再建には富くじを発行しなかったらしい!  ②神社は日本橋七福神 の内の一社で、恵比寿神を祀っている。
 
 
 
●べったら漬けの神様・・・・・・・・・・・・ここまで来たらチョックラべったら漬けの神様にもご挨拶していくことにした。 椙森神社から西に250m程、日本橋本町の駐車場に挟まれた小さな小さな宝田恵比寿神社。、、、、宝田恵比寿神社は、宇迦能御魂命・素盞嗚尊・大国主命・事代主命・大穴持命・少彦名命の6柱を祀る。 集団管理体制の神社。、、、、、元は江戸城外宝田村の鎮守だった。 創建年代は不詳だが、慶長年間の江戸城改築の際、移転したものといわれる。 移転作業を命ぜられた馬込勘解由は、家康の命に従って千代田・宝田・祝田3ヶ村の常盤橋外へ無事移転させ、大業を成し遂げた功により、徳川家繁栄祈念の恵比寿像を授けられ、平穏守護の神体として、鎮守の社に安置したのが今日に至った。 その像の作者は鎌倉時代の名仏師運慶と伝えられている。、、、、、神社のある、旧大伝馬町は江戸開府以来の木綿問屋の町で、1月と10月には繁栄を祈って盛大に夷講を行った。 現在は10月のみに開催されているが、宝田恵比寿は、商売繁盛、一家繁栄、火伏せの神として崇敬者は広く関東一円におよび、10月19日・20日の「べったら市」恵比寿神祭が盛大に行われる。 明治6年神田神社(神田明神)の兼務となり、大正12年大震災の災厄を蒙ったが、本殿のみは炎上を免れ、のち拝殿を再建し今日に至っている。、、、、、宝田恵比寿神社も、日本橋七福神の一社。
 
1901050911010
 
1901050910060_2
 
 
 
●体験したい伝馬町牢屋敷・・・・・・・・・・宝田恵比寿神社のある旧大伝馬町(現:日本橋本町)から、伝馬町の牢屋敷があった小伝馬町は、江戸通りを挟み隣り同士だ。 チョイト寄ってみよう!、、、、日本橋小伝馬町にある高野山真言宗の寺院:大安楽寺(だいあんらくじ)は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡にある。 明治15年(1888)、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して創建されました。 高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。、、、、ここの牢屋敷は、延宝5年(1677)常磐橋門外からここに移されて、明治8年(1875)市ヶ谷監獄ができるまで使用されていた。 今は、当時を語るようなものは何も残っていない。 体験入牢できるような施設を作ったら、訪れる人も多くなるかも?
 
1901050929220
 
 
 
●天照大神の兄姉神を祀る神社・・・・・・・・伝馬町牢屋敷跡から北西に約250m、千代田区岩本町2丁目に金山神社がある。、、、ナンジャ! 正月だというのに、誰もいない、扉もとじられたまま、コリャどうなっているのか、サッパリ判らん? とりあえず、二礼二拍一礼して行くことにした。、、、、金山神社は、昭和の初めに東京金物同業組合が総本宮南宮大社の御分霊を組合事務所に奉斎し創建されました。 第二次大戦の災禍にあったものの、昭和29年11月8日に再建されました。、、、、御祭神の金山彦命、金山姫命の二柱は、伊勢に鎮座される天照大神の兄姉神で、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司る神である。 金属業界には打って付けの神だ。、、、、天照大神の兄姉神が、金属業界の神とは知らなかった!
 
1901050949160
 
 
 
●たぬきの神社・・・・・・・・・・岩本町まで来たら、靖国通りを越え、神田川沿い(千代田区須田町2)にある柳森神社(やなぎのもりじんじゃ)に寄って行こう。、、、、、長禄3年(1459)、太田道潅が江戸城を築いた際、現在の神田佐久間町辺りに柳を植えて鬼門除けの柳の森とした。 その鎮守として祀られたことを創祀とする。 万治2年(1659)、神田川の築堤のため現在地に移転した。 烏森神社(新橋)・椙森神社とともに江戸三森と称された。、、、、、境内社の福寿社は5代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像を祀る。狸に「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして信仰を集める。 かつては八百屋の娘から将軍の生母になった桂昌院にあやかりたいという女性たちに崇められた。 当初は江戸城内に祀られていたが、後に旗本の瓦林邸内に移され、明治維新に際して柳森神社で祀るようになった。、、、、、ここも、正月だというのに、訪れる人は少ない。 神社も、特別に人を出していないようだ。
 
1901051000500
 
1901051005570
 
1901051004400_2
 
 
 
●引越しの日通が引越し・・・・・・・・・・和泉橋を渡り神田川を越え、秋葉原駅前から浅草橋方向に歩くと三井記念病院があり、その隣は日本通運の敷地である。 現在、13階建ての新本社ビルを建設中、その一画に、金綱稲荷神社(きんつないなりじんじゃ)がある。 神社は日通金綱稲荷奉賛会によって維持されている。、、、、、およそ420年、前日本通運の前身である飛脚問屋京屋弥兵衛が、日頃から五穀豊穣・商売繁盛・衣食住の神・道中の安全の神として崇められていた伏見稲荷大社を信仰し参拝していましたが、浪速・京・江戸間の運送業務を始めるにあたり、自店に“御霊”を勧請した。 ある日夢枕に、ご神霊が立ち「汝の篤信のため金の綱を授ける」とのお告げがあり、自店で奉祀している神様を「金綱稲荷」と称した。 その時、祀った場所が、現在の地(神田和泉町)であり、日本通運の創業の地でもある。、、、、日本通運は現本社の所在地:港区から、2021年に新本社ビルに移転し、創業地に帰ることになる。 
 
1901051021040
 
1901051020280
 
 
 
●神社巡りのゴールは我が家・・・・・・・金綱稲荷神社から、浅草橋の我が家までは徒歩5分。 つまり、千代田区神田和泉町と台東区浅草橋は隣り同士の町である。 出発した福井町通りに戻った。
 
1901051028160

2018年12月30日 (日)

年末休暇で銀座へ

一年は早いもので明日は大晦日、一年中日曜日の私には忙しいはずはないのだが、なぜか年末の数日は毎年忙しくなる。 午後から、チョイト買い物に日本橋・銀座に行ってきた。、、、、、散歩は年末で休み!、、、、、何を買ったか? ナイショだけれど、一つだけ教えると、柳家小菊のCD:『江戸のラブソング』
 
 
1812301615430
 
1812301615080_2
 
1812301620370
 
1812301622370
 
1812301624240
 
1812301632560
 
1812301635140
 
1812301656370
 
1812301700540
 
1812301705260
 
1812301706280
 
1812301712040

2018年10月16日 (火)

閻魔大王ご縁日

毎月16日は全国的に閻魔さんのご縁日である。 今日は、浅草橋の我が家から深川のゑんま堂まで散歩することにした。 1万歩。、、、、、、ちなみに、お薬師さんは毎月8日、観音さまは毎月18日、お地蔵さんは毎月24日、弁天さまは己巳(つちのとみ)の日、お稲荷さんは午の日が、それぞれのご縁日である。 覚えておくと敬老会で役立つ知識。
 
 
 
●そろそろ出勤時間・・・・・・・・・・午前8時前、ボチボチ、駅から掃き出される人が増えてくる時間。 私も散歩に出る。
 
1810160740510
 
1810160744360
 
1810160748470
 
 
●真正面に見える・・・・・・・・・・東日本橋1丁目と2丁目、町境の道路からは、正面にスカイツリーが見える。、、、、、、スカイツリーの見え具合で今日の運勢を占う人もいるかも? 今日は、全体に薄ぼんやり見える、運勢は『先を読む目が曇り波乱の一日』。
 
1810160801400
 
 
●陶器造りの神社・・・・・・・・・・・・日本橋浜町3丁目、超高層ビルの下に浜町神社がある。 神社が鎮座する地は、安政年間に徳川幕府から島津家へ土地の引き渡しがあり、土地に祀られていた天明年間に創始と云われる稲荷を島津稲荷として崇敬してきたといいわれている。 関東大震災後、浜町神社を改称していたものの、戦災により焼失、昭和28年(1953)に浜町神社として改めて建立した。 平成12年(2000)、再開発により現社殿を建立。
 
1810160824380
 
・・・・・・・・・・・・・・・浜町神社境内には、埴安大神(はにやすのおおかみ)・加藤四郎左衛門景正命・加藤民吉命を祭神とする陶栄神社がある。 埴安大神は土の神で天照大神の兄弟神とされている。 加藤命と称する2柱は、瀬戸焼の歴史の重要人物で鎌倉前期の陶工景正が「陶祖」と呼ばれ、江戸時代の陶工民吉が瀬戸に磁器をもたらした功績から「磁祖」と呼ばれている。、、、、、この神社の社殿は、昭和44年(1969)愛知県常滑市の陶工により、住吉造りを模し、総釉彩陶器製でつくられている。 また、台座には平安時代以降の陶片が使用されている。、、、、、、注連縄と賽銭箱は陶器ではなかった! 
 
1810160828000
 
 
●化粧中につき顔は出せない!・・・・・・・・・昭和3年(1928)に完成した天下の名橋、重要文化財の清洲橋 も90年経過した、小じわが目立つのか、厚化粧が剥げたのか、只今、塗装工事中。 恥ずかしくて、顔も出せないらしい。
 
1810160837300
 
1810160843150
 
 
●エレキテルの地・・・・・・・・・・・平賀源内(1728~1780)は安永5年(1777)にエレキテル(摩擦起電器)を完成させ、自宅にて電気実験を行ない安永8年(1780)に51歳にて没した。 自宅のあった江東区清澄1丁目には平賀源内電気実験の地の碑が建っている。、、、、、、死因は感電死? 本当は酒に酔い喧嘩して投獄され、破傷風で死んだそうだ。(コレ、ホントらしい。) 今でも、同類の人はいるね!
 
1810160846260_2
 
 
●田中角栄と間違えないで!・・・・・・・・・・清澄1丁目のアサノコンクリート深川工場の一角に浅野総一郎の像がある。 この地は、明治8年(1875)、工部省が日本初のセメントを製造した工場があった場所で、明治16年(1883)に浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場「浅野セメント」として発展した。  浅野セメントは、戦後日本セメントに改称し、平成10年(1998)には「秩父小野田セメント」と合併して、業界最大手の「太平洋セメント」となった。
 
1810160848140_2
 
・・・・・・・・・・・・・浅野総一郎の像の脇にあった、「明治23年 当時のセメント工場全景」。、、、、、、手前に隅田川が描かれている。
 
1810160848580
 
 
●国宝級のミドリ・・・・・・・・江東区佐賀町1丁目と福住1丁目を結ぶ小さな橋は、昭和4年(1929)に竣工した鋼鉄製トラス橋の緑橋。 大島川西支川に架かり、橋長は23m程、チョイト膨れたトラスのデザインは可愛いものだ。、、、、、関東大震災の復興橋で、歴史的にも貴重な橋なので、個人的には“国宝”(チョイト大袈裟)に指定する。
 
1810160909550
 
1810160906240
 
1810160911510
 
1810160905200
 
 
●福禄寿はいずこに!・・・・・・・・・・深川2丁目の浄土宗寺院の雙修山養源院心行寺は、元和2年(1616)八丁堀に創建し、寛永10年(1633)現在地に移転した。 現本堂は昭和43年(1968)に竣工した。、、、、、深川七福神の福禄寿が六角堂に安置されているが施錠され、姿は見えず、声も聞こえず、軟禁状態。 
 
1810160925380
 
1810160923230
 
 
閻魔大王のご縁日・・・・・・・・・・“深川ゑんま堂”は、真言宗豊山派の法乗院で賢台山賢法寺と号す。 法乗院は寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年(1641)には現在地(深川2丁目)に移転した。 江戸三閻魔の一つらしいが、昔の閻魔堂は戦災で焼けた。 現在は平成元年(1989)に再建された“ハイテク閻魔様”で、賽銭を入れるとコンピューター制御で堂内には煌びやかに照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じた説教が流れてくる見世物小屋並みの、高さ3.5mの大きな閻魔がある。、、、、、、、笑っちゃいけないが、笑いたくなる、これぞ“笑い地獄”か? 歴史を感じることができない寺だ!
 
1810160927281
 
1810160929390
 
・・・・・・・・・・・・・・本日は、ご縁日。 本堂1階では、天明4年(1784)に描かれた全16枚の『地獄・極楽図』が展示され、御仏の教えを説いてくれます。
 
1810160934160_2
 
1810160934460_2
 
 
●昭和の市営食堂・・・・・・・・・・・門前仲町1丁目に、震災後の昭和7年(1932)に建てられた旧東京市深川食堂の建物が残されている。 建物は角地に建つ鉄筋コンクリート造2階建て、明るい大きな窓で開放的で、モダンなデザインである。、、、、、震災復興事業の一つとして、低所得者のための市営食堂として利用された。昭和11年(1936)食堂は閉鎖され、終戦後は職業斡旋施設として利用され、昭和51年(1976)から江東区内職補導所となり、平成18年(2006)に閉鎖された。、、、、現在は国・登録有形文化財の指定を受け、『深川東京モダン館』と称し、江東区全域を対象とした観光案内スペースとして、また、新たな文化の発信スペースとして活用している。
 
1810160946440
 
 
●お帰りは門前仲町から・・・・・・・・・・
 
1810161000281

2018年10月 1日 (月)

人助けした新大橋

日本列島を縦断した猛烈な台風24号が過ぎ去り、朝から台風一過の青空。 『さて、散歩に行くぞ!』と声を張りあげたが、チョイと待て『熱中症に御注意!』とNHKのお天気お姉さんの声。 『青空の下に出ると、なるほど、久しぶりの30℃超えは、お目々クラクラ、お肌イタイタ、日差しが強い』。 暑さに鈍くなった身体に要注意、急に心配になり、散歩は夕方にしよう!、、、、、改めて午後3時過ぎに、夕飯までの間散歩に出た。 浅草橋の我が家から中央区浜町を抜け、「新大橋」を渡り江東区森下へ、墨田区両国を周り、両国橋を渡り我が家まで、1万歩の散歩をしました。、、、、、今日の話は新大橋です。
 
 
 
●古くなった新大橋・・・・・・・・・・まず現在の新大橋は、隅田川に架かり、橋上には新大橋通り(都道50号)をとおす2径間連続斜張橋。 西岸は中央区日本橋浜町、東岸は江東区新大橋。 橋長は 170.0m、幅員は 24.0m、竣工 昭和52年(1977)3月27日。 橋の中間に黄色の塔が2本、空に向かって伸び、塔から両岸方向に出た、2本のケーブルが桁を支えている。シンプルな構造の斜張橋である。、、、、、竣工してから既に41年になる、“新”大橋ではなく、“古”大橋であるが、古さを感じさせない橋。
 
1810011556080
 
1810011559500
 
1810011612160_2
 
1810011617340
 
 
●チョイト、助平心で下からパチリ・・・・・・・・・・普段見ることが少ない橋底。 スカートの中を見る気分に似ているのかな? 両岸には耐震装置も付いている。
 
1810011558260_2
 
1810011601050
 
 
●夕日に照らされ・・・・・・・・そろそろ、夜の顔に変わる時刻? 
 
1810011639290
 
1810011635060
 
1810011621130
 
 
●現新大橋は何代目?・・・・・・・・・・元禄6年(1694)12月7日、隅田川に3番目の橋として「新大橋」が架けられた。 「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と命名された。、、、、、その後、新大橋は幾度も、流失、崩壊し、その都度架け替えられ、回数は20回以上になったそうだ。 最後の木橋は、明治18年(1885)に架けられた。、、、、、明治45年(1912)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在位置に架けられた。 この橋は、戦後まで使用され、現在の橋に変わることになった。 旧新大橋は、現在、愛知県の明治村に移築保存されている。
 
・・・・・・・・・・・・・西岸の説明板に載っていた旧新大橋の写真。
 
1810011606080
 
・・・・・・・・・・・・・・東岸には旧新大橋の橋柱が保存されている。
 
1810011626390_2
 
・・・・・・・・・・・・・・関東大震災の折には、旧新大橋は他の橋がことごとく焼け落ちる中で唯一被災せずに残り、避難道として、多くの命を救った。、、、、、それからは、「人助け橋(お助け橋)」と称されている。 震災後、このとき助けられた人により、「震災避難記念碑」が西岸に建てられた。
 
1810011606470_2

2018年7月 7日 (土)

浅草橋~新小岩

7月に入り、暑い日、雨の日が続き、あいだの散歩日和の日は病院に御招待され、なかなか散歩できる日がなかった。 朝5時、ベッドの中で『今日は散歩できそうだ、歩くぞ! お通じを良くするぞ!』。 できるだけ長い距離を歩きたく、京葉道路をひたすら歩くことにした。
 
 
 
am7:55・・・・・・・土曜日のせいか、通勤する人は少なく、学生だけがパラパラ歩く浅草橋。、、、、、連日の雨によるのか(?) 神田川の水位も上昇している。
 
180707075104038
 
180707075612040
 
 
am8:00・・・・・・・「浅草橋交差点 」は、靖国通り(都道302号)の終点であり、京葉道路(国道14号)の起点(公式には浅草橋交差点から300m程東の両国橋が起点)である。
 
180707075749041
 
 
am8:00・・・・・・・両国橋 の西詰(中央区側)には、かつて江戸で最大の盛り場だった「両国広小路」の碑がある。 もともとは、明暦の大火(1657年)後、両国橋が架けられ、橋の両詰に「火除け地」として、広小路が整備された。 その後、西詰の広小路は、いつしか、見世物小屋、茶店などがひしめきあう、江戸一番の繁華街となった。 上野、浅草とともに江戸三大広小路の一つ。、、、、、新宿歌舞伎町のような繁華街として現在まで残っていれば、我が家から近く、私の人生感もチョットは変わっていたかも?
 
180707080002044
 
180707080117047
 
 
am8:10・・・・・・・両国「回向院」前を通過。
 
180707080858055
 
 
am8:10・・・・・・・回向院前から150m程東に向かうと、「横綱横丁」と称す横丁がある。 この横丁の入口の東側が、作家:芥川龍之介の生育の地であったそうだ。 芥川は明治25年(1892)、東京市京橋区入船町の牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれ、辰年辰の日辰の刻の生まれにより龍之介と命名されたと言われてる。 生後7ヶ月で生母ふくの病のため、当時本所区小泉町(ここが生育の地)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となったそうだ。、、、、、浅草橋の路地裏に雅万歩の誕生・生育の地の碑が建つのも夢ではないかも(?)
 
180707081218059
 
180707081155058
 
 
am8:35・・・・・・・江戸時代庶民の信仰と行楽を兼ねた成田山新勝寺の参詣は、2・3泊の手頃な旅行コースとして人気があったそうだ。 江戸市中からの参詣コースとしては、現:水戸街道の葛飾区新宿から東に向かい小岩、市川、八幡へと進む道と、日本橋小網町から水路で隅田川を下り行徳から陸路を八幡へ向かう道の2ルートがあった。 明治時代になると、浅草橋から両国橋を渡り小岩、市川を経由して向かう道を千葉街道と称するようになり、これが現在の京葉道路となったそうだ。 この京葉道路にかかる旧江東橋は東関東の水運の大動脈として、江戸時代以降、東京の市民生活を支えてきた運河の一つ「大横川」に大正15年(1926)に架けられた。 現在の江東橋は平成7年(1995)に架け替えられたものである。 現:江東橋の西詰に、旧江東橋の親柱が残されている。、、、、、江東橋付近の大横川は暗渠化され川筋は親水公園に変わった。
 
180707083418066
 
180707083513068
 
 
am8:45・・・・・・・錦糸町駅前を通過。、、、、、駅前のバス停横に「伊藤佐千夫牧舎兼住居跡」の案内と歌碑が建っている。 ここ錦糸町駅前に、明治22年(1889)から明治45年(1912)まで、明治の歌人:伊藤佐千夫の経営する牧舎と住居があったそうだ。、、、、現存していれば、新鮮な牛乳が飲める駅前のミルクスタンドとして繁昌したかも(?)
 
180707084504078
 
180707084307073
 
 
am8:50・・・・・・・錦糸町駅の東350m程の処に、京葉道路に面し都営江東橋4丁目アパートがある。 昭和52年(1977)に完成した総戸数220戸の都営住宅。 施工は飛島建設。、、、、、この都営住宅の1階は都営バスの車庫となっている。 完成当時は斬新な構造の車庫で、内部にはターンテーブルも供えられているそうだ。、、、、、ここがバスの車庫となる以前は都電の車庫であった。 昭和47年(1972)の都電廃止で、都営住宅と都バスの車庫に生まれ変わった。
 
180707084859082
 
 
am8:55・・・・・・・錦糸町と亀戸の間に流れる運河:横十間川に架かる橋が松代橋である。 現在の橋は昭和44年(1969)に架けられた1径間鋼製桁の橋である。 以前は、昭和5年(1930)に完成した鋼製桁の震災復興橋が架けられていた。 上流側にはJR横十間川橋梁が架かる。、、、、、橋名は西岸にあった旧町名に由来するらしい。
 
180707085204085
 
180707085325091
 
 
am9:00・・・・・・・JR東日本の総武本線貨物支線である越中島支線の下を抜け、亀戸駅の南を通過する。
 
1807070901150101
 
1807070904260106
 
 
am9:15・・・・・・・亀戸駅を過ぎ、亀戸6丁目に入ると、、、、、、私の親友が経営する不動産屋の前に来た。 チラリ、店先を覗くと親友御夫妻の姿が見える、まだお客が来ていないようだ。 チョイト寄って行こう!、、、、気持ちは短時間で失礼するつもりで寄ったが、『友有り、遠方より歩いて来たる。 亦た久しぶりや。』 お茶もいただき、私のバカ話は止まらず、小一時間話し込んでしまった。 お仕事の邪魔をしてしまい、失礼しました。
 
1807070914380111
 
 
am10:00・・・・・・・散歩を続ける。 向かうは東へ!
 
1807071002040113
 
1807071009550116
 
 
am10:15・・・・・・・中川新橋を渡り旧中川を越える。 江東区亀戸と江戸川区平井を結ぶ橋。
 
180707101526001
 
180707101612002
 
 
am10:25・・・・・・・江戸川区小松川の再開発地区に建ち並ぶマンション群を見ながら歩く。
 
180707102220003
 
 
am10:30・・・・・・・荒川に架かる小松川大橋 を渡る。 この橋は下り線と上り線が方向別に架橋されている。 上流側(下り)が小松川橋、下流側(上り)が新小松川橋です。 下りの小松川橋が昭和44年(1969)に開通し、上りの新小松川橋は昭和47年(1972)に開通した。 全長500m程の橋である。、、、、、橋上は風が強く、帽子を押さえながら渡って来た。、、、、、荒川は川幅イッパイに流れ、河川敷も水の下である。 上流ではだいぶ降ったようだ。
 
180707102754006
 
180707103300012
 
 
am10:40・・・・・・・小松川大橋を渡り、江戸川区松島の小松川署前を通過する。、、、、、ここまで、浅草橋交差点から7kmである。(日本橋からは9km)
 
180707104035015
 
 
●・・・・・・・・・・・・・・・京葉道路の散歩は小松川署の先で終了とした。 これより裏道を歩き新小岩駅に出て帰宅する。
 
180707104924019
 
 
 
●・・・・・・・・・・・・・・・今日は1万6千歩の散歩でした。

より以前の記事一覧