江東区

2019年9月 6日 (金)

新装開店の閘門

先日、荒川ロックゲートという閘門を見てきた、今日は小名木川にある扇橋閘門を見てきた。 JR総武線錦糸町駅から歩いて扇橋閘門へ行き、じっくり見た後は、暑さに負けバスで錦糸町へ戻り帰宅。 9千歩




●錦糸町は牛乳の産地! ・・・・・・・明治27年(1894)12月9日に総武鉄道(私鉄)の本所駅として開業。 明治40年(1907)に国有化。 大正4年(1915)に錦糸町駅に改称。 島式ホーム2面4線の高架駅で、現在は両国駅をしのぐターミナル駅。、、、、私の知る、昭和30年代の錦糸町駅は木造駅舎の地上駅で、ホーム北側には留置線などがあり、その北側には駄菓子問屋、花火・玩具問屋があったように記憶している。 現在の北口ロータリー周辺のこと。 南口には江東楽天地と映画館街(洋画に邦画、チャンバラ、西部劇、ピンク、何でもあった)があり、都電も走っていた、半世紀前の古い話だ。 昭和36年(1961)には、南口に駅ビルテルミナが開業した。

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・・・・・・・・・・・・・・南口駅前のバス乗り場の中に、明治から大正に活躍した歌人で、小説『野菊の墓』の作者:伊藤佐千夫が搾乳業を営んだ「伊藤左千夫牧舎兼住居跡 」の説明板がある。、、、、伊藤左千夫は、元治元年に上総国武射郡殿台村(現:千葉県山武市)の農家の四男として生まれた。 18歳の時上京して明治法律学校(明治大学:私の先輩になる)に入学したが、眼病のため中退し農業に従事した。 22歳の時再び上京、神田の牛乳店に勤めた。 その後、26歳のとき、この地に牧舎つき住居を購入して独立、牛乳搾取業を始めたそうだ。 30歳で、同業の伊藤並根に茶の湯、短歌を学ぶ。 明治33年正岡子規の門に入り、作歌に励みます。 子規歿後は、根岸派の機関誌『馬酔木』『アララギ』により活発に作歌を続け、多くの著名な歌人を育てた。 大正2年(1913)転居先の江東区大島で脳溢血のため急逝した、享年50歳。、、、、この地で搾乳していたなんて、想像できないね!  もし、今でも牧場を持っていれば、凄い大地主だ。

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●牡丹は散った! ・・・・・・錦糸町駅前から南に歩き、首都高7号小松川線の下に、埋め戻され公園・駐輪場となった堅川に架かっていた牡丹橋の親柱が残されている。、、、、ここに架かっていた牡丹橋は長さ35.29m、幅員11.00mの鋼橋(3径間鋼板ゲルバー指橋)で、関東大震災の復興事業により、昭和4年(1929)に架けられた。 橋名は橋の南側にあった「牡丹園」に由来する。 牡丹園は明治にオープンした、季節になると花を観ようと多くの見物客で賑わったそうだ。 関東大震災で焼失し、その名だけを橋名にとどめた。 粋な名の橋だが、その姿は無く、川も暗渠となり、チョイト寂しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・旧牡丹橋が架かっていた牡丹橋通り(錦糸町駅前から新大橋通りまで南北に伸びる道路)は、振り返り北を見るとスカイツリーが道路の先によく見える!

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●薬師寺の聖観音? ・・・・・・・牡丹橋通りがぶつかる新大橋通りを横断し、さらに南へ向かい小松橋通りを歩く。 江東区猿江1丁目で重願寺前に出る。 重願寺浄土宗寺院で不虚山当知院と号す。 天正18年(1590)千葉邦胤の娘、不虚大禅尼によって日本橋郡代屋敷に草創、寛永6年(1629)本蓮社願譽是哲上人が開山した。 寛政7年(1795)に現在地の猿江に移転した。、、、、ここの山門の柱は、奈良の薬師寺の講堂に使用されていた木材で作られているそうだ。 平成16年(2004)の建立という新しいもの。、、、、本堂は鉄筋コンクリート造りの2階建てのビルで、平成29年(2017)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・・・本堂左に立つ「みまもり観音」は、関東大震災や東京大空襲などで殉難された多くの人々の冥福を祈り、天災や戦争のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため、檀信徒をはじめ、猿江地区6ヶ町内有志を中心に、昭和56年(1981)造立された。、、、、「みまもり観音」の名称には、観音の限りない大慈悲によって亡き人々、いま生きる我々を日々に「見守り給え」という祈りが込められているそうだ。 その像は、奈良薬師寺東院堂の本尊である国宝「聖観音像」を原型に拝借、実写して二・二倍にして鋳造された。 つまりは、奈良に行かずとも聖観音像が拝める

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●化粧直しした閘門 ・・・・・・・重願寺から南へ200m程、小名木川に架かる小松橋に出る。 小松橋と西側の新扇橋の間に、今日の散歩の目的地、橋閘門がある。 次の写真は、2014年1月の扇橋閘門。 (昨年、小松橋、新扇橋、扇橋閘門について、こちらで説明している)


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・・・・・・・・・・・・・・・新装開店の扇橋閘門。 今年の春、姿を現した耐震補強工事が完了した扇橋閘門。 取付護岸の補強工事が終わり、閘門の支柱は鉄筋補強され、ゲートは新品に交換、上部の機械室はシースルーのスケスケ、管理棟は耐震補強し綺麗になった外装。

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●暑い暑い! ・・・・・・扇橋閘門に着いた頃は、気温は30℃を超え、汗びっしょり。 パンツの中も汗でムレムレ。 熱中症が恐くなり、閘門を見たら帰ることにした。、、、、扇橋一丁目バス停から錦糸町駅行で帰路につく。

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2019年9月 3日 (火)

コレ!地蔵さま?

東大島にある荒川ロックゲートが見たくなり行ってきた。 都営新宿線東大島駅で下車し、大島小松川公園を抜け、荒川土手のロックゲートの開閉をジックリ見て、江東区東砂3丁目の生田神社まで南下し、神社からは東砂の町を北上し小名木川を越えて、東大島駅に戻る。 1万1千歩




●出口を間違えたら一大事! ・・・・・・・東大島の所在は駅長室がある江東区大島9丁目である。 『江東区と江戸川区の区境の河川橋上駅で全国でも珍しい駅』として、2000年に関東の駅百選に定められた。 同じような河川橋上駅として、東京では北赤羽駅がある。、、、、東大島駅は昭和53年(1978)12月21日に都営新宿線の駅として開業した。 駅は江東区と江戸川区の区境となっている旧中川の真上にホームがあるため、西側の大島口は江東区、東側の小松川口は江戸川区にある。 東西の出口を間違えて下車すると、川を渡って戻ることになり一大事! 今日の私は荒川に行くので、間違えずに小松川口から出た。

・・・・・・・・・・・・・昨年改修工事が終わり、明るく眺望が良くなったホーム。

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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、江戸川区側の小松川口。、、、、乗降客は反対側:江東区側の大島口の方が多いようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・川の上の駅、、、、『来年からは釣り人にホームを開放して、釣りをできるようにする』という話は、アリマセン!

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●閘門を20分で通過! ・・・・・大島・小松川公園旧小松川閘門荒川ロックゲートの詳細は、こちら 2016/11/29の記事を見て!
・・・・・・・・・・・・・・東大島駅の南側で、東に荒川、西に旧中川に挟まれて都立の「大島・小松川公園」がある。、、、、公園の中央にはシンボル的に旧小松川閘門が、下半身を埋められ頭だけ出している。、、、、今日は昨夜からの雨で、公園は湿っぽく、雑草は茂り、暑さでムンムン・ムレムレ・ムシムシ。 空は一雨降りそうでムズムズ。 

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・・・・・・・・・・・・・・荒川ロックゲートは、閘門を通れる大きさの船であれば、いつでも通行できるそうだ。 ただし、利用は平日の8:45~16:30で、無料。、、、、今日はチョウド8:45に、ここ荒川ロックゲートに到着した。 朝一番に通る船があり、閘門を通過する一部始終を見ることができた。 

              ① 8:40 荒川側のゲート前に到着

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              ② 8:40 ローラーゲートが巻き上げられる
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              ③      ゲートが上る
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              ④ 8:40 ゲートの外(荒川)で待機していた船が閘門に入る
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              ⑤ 8:43 閘門の両側のゲートが下ろされる1909030827560
              ⑥ 8:47 閘門内の水位を下げ始める。 荒川と中川の本日の水位差は2.3m





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              ⑦ 8:47 水位が下がり始めた。 両側の壁が濡れて、水位の低下が判る

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              ⑧ 8:51 荒川の水位に比べ2.3m低くなり、水位調整完了!
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              ⑨ 8:52 旧中川側のゲートが上り始める
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              ⑩ 8:54 ゲートは上がり船は出ていく。 約20分間の出来事だった。
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●神社でUターン! ・・・・・・・荒川ロックゲートから裏道を歩き、江東区東砂3丁目の生田神社に出てきた。、、、生田神社は、当地開拓の際に旧太郎兵衛新田村の鎮守として慶安年間(1648~1651)に創建したと云われている。、、、、元禄初年(1688~1703)疫病のさい、里民当社に祈願し安全を得、特に産婦の安全を守護し、神徳を崇め遠近より参詣が多いそうだ。(私には、本当に参拝人が多いとは思えない)、、、、東大島駅からここまで歩いてきたが、雨粒が落ちてきた、チョイト寂れた商店街沿いに東大島駅に戻ることにした。 
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●“地蔵”をイメージできない! ・・・・・・小名木川にくると、雨粒も落ちてこず、蒸し暑さが残るだけ!

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・・・・・・・・・・・・・・川を渡り、大島8丁目に入ると宝塔寺がある。 真言宗智山派寺院の宝塔寺は、稲荷山小名院と号す。 宝塔寺は、慶長15年(1610)法印賢意が創建。、、、、境内に安置されている塩なめ地蔵は、もとは、小名木川沿いにあったものを昭和初期に移したものです。江戸時代に、小名木川や行徳道を通る商人たちが、この地蔵の前で休憩し、商売繁盛を願って塩を供えたのが由来と伝えられています。また仏前の塩をもらっていぼにぬると治るともいわれ、別名「いぼ取り地蔵」とも呼ばれていました。、、、、私は、どう見ても“地蔵”の姿をイメージできず、“アレ”をイメージしてしまう。 “アレ”に塩を供えると、何となくナメクジみたいに縮んでしまいそうだね!

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2019年8月13日 (火)

宵の亀戸線

猛暑は続き、日中は外出も嫌になり、今日は夜の散歩にした。 東武鉄道亀戸線の亀戸駅から曳舟駅まで亀戸線に乗り曳舟駅で下車し、線路沿いに亀戸駅まで歩いてきた。 汗だくの1万1千歩。、、、、このコースの散歩は個人的に好きで、日中に歩いたブログはコチラを見てね!



●都心のローカル線で出発! ・・・・・・・・・・まずは、夕暮れの亀戸駅。、、、、2両連結の電車が、10分間隔で走っているが、亀戸駅を出る頃には空いた座席は無し。 盆休み期間中にもかかわらず、通勤客が多いね。 

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●8分で終点! ・・・・・・・亀戸駅から4駅目、所要時間8分、終点曳舟駅に到着、折り返し亀戸行となるワンマンカー。 亀戸線ホームは2両分だけの短いホーム。
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●下町の軒先を走り抜ける! ・・・・・スカイツリーが見下ろす、木造住宅の密集した墨田区京島地区を走り抜ける亀戸線。 下町の「キラキラ橘商店街」も店仕舞いし買い物客の姿はない。

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●ポッンと都会に一駅! ・・・・・・曳舟駅の隣り小村井駅(おむらいえき)、、、、江戸時代からこの辺りは小村井村と称していたことに由来する駅名。 駅は明治通りに面しているが、大きな商業施設はなく、周辺は暗く、静かだ!

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●もう着いた! ・・・・・・次の東あずま駅までは600m、線路沿いに歩けば近い!、、、、途中の踏切りも2カ所だけ。

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●ローカル線のローカル駅! ・・・・・・東あずま駅は、付近一帯の地名:吾嬬(あづま)に由来する。 しかし駅名は“東あづま”ではなく“東あずま”、理由は不明。 駅は都道476号(丸八通り)に面する。、、、、一日の乗降客が8,000人に満たない小さな駅。

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●家路に急ぐ! ・・・・・・次の駅:亀戸水神駅に向かう。、、、、東あずま駅から立花団地へ帰る人、、、、静かな丸八通り、、、、蔵前橋通りの跨線橋から見る亀戸線

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●天神にあらず水神! ・・・・・・駅名そのまま亀戸水神駅亀戸水神宮の最寄り駅。 駅は亀戸駅から700m程の距離である。、、、、一日の平均乗降客は約4000人で、都内ではワースト5に入る都心のローカル駅。

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●亀戸の明かり ・・・・・終点の亀戸に向かう。、、、亀戸線は踏切が多い、、、、踏切を渡るつとその先にはJR総武線のガード、、、、線路の先に亀戸駅の明かりが見える

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●散歩の起点は散歩の終点! ・・・・・亀戸駅に戻った!

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2019年7月26日 (金)

深川の三十三間堂

一気に夏到来、これからは外出時に熱中症を心配しなければならない、暑い暑い夏だ!

今日の散歩は、都営浅草線日本橋駅から、永代通りに沿って地下鉄東西線木場駅までの、1万2千歩です。 




●間違えたら一大事! ・・・・・・昭和7年(1932)、中央通りに東京地下鉄道(現:東京メトロ)の日本橋駅が開業。 昭和38年(1963)2月28日、中央通りと約200m離れて並行する昭和通りに、都営地下鉄1号線(現:浅草線)の江戸橋駅開業。 昭和42年(1967)には、中央通りの日本橋駅と、昭和通りの江戸橋駅を連絡するように永代通りに東西線の日本橋駅が開業する。 これにより、日本橋駅と江戸橋駅は乗換駅となる。 平成元年(1989)都営地下鉄浅草線の江戸橋駅を日本橋駅に改称。、、、、浅草線の日本橋駅は、相対式ホーム2面2線の駅であるが、改札内にはホーム間の連絡通路が無いため、行先により利用する改札を使い分ける必要がある。、、、、我が家のある浅草線の浅草橋駅の隣り駅は東日本橋駅、三越デパートに近いのがJR総武快速線の新日本橋駅、そしてここ日本橋駅。 どれも“日本橋”間違えないように!(大阪メトロにも日本橋駅があるけど、ここと間違えたら悲惨!)

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・・・・・・・・・・・・・・浅草線から地上に出ると、昭和通りと永代通りが交差する「江戸橋一丁目交差点

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●撤去されずに50年 ・・・・・・永代通りの日本橋駅と茅場町駅の間に、かつて流れていた楓川(かえでがわ)を渡る千代田橋が残されている。 千代田橋の最初の架橋は昭和3年(1928)。 東京オリンピックに間に合うように、昭和37年(1962)に川は埋め立てられ、頭上には首都高が造られ、千代田橋は使命を終えた。 その後今日まで、千代田橋はなぜか撤去されず残されている。 当時、急速に進んだ都市開発の波にもまれ、取り残されたこの橋に悲哀を感じる。

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●暑さに耐え、今日もお勤め! ・・・・・・日本橋駅から約500mで隣の茅場町駅。 通勤する人がゾロゾロと地下駅から掃き出されてくる。、、、、亀島川に架かる霊岸橋を渡り、昔の霊岸島、今は中央区新川である。、、、、大手企業の本社ビルが立ち並ぶ、バブルの象徴と言われるビルもその一つ。

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●只今、化粧中! ・・・・・・永代通りが隅田川を越える永代橋。 橋の素顔を見たかったが、只今、一年がかりの塗装工事で、暑さ寒さに耐えられるよう厚化粧中だ!、、、、橋から見る、青空の下の隅田川。 画になるね!

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●味噌屋の逸話 
・・・・・永代橋を渡り江東区佐賀1の乳熊ビル前に、ちくま味噌(株)の建てた「赤穂義士休息の地」の石碑がある。 赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名であるが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友であった。 元禄15年(1702)12月14日本所松坂町(墨田区両国)の吉良邸討入後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋際の乳熊屋味噌店の前にさしかかる。 乳熊屋は上棟の日に当たり、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労をねぎらった。 大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったそうだ。 ちくま味噌では、現在「元禄浪士あま酒」として販売している。 老舗の味噌屋には、それなりの話が残っているものだね。、、、、ところで、恥ずかしながら、私は今日まで「ちくま味噌」の“ちくま”は“千曲”で信州の会社だと思っていた。 “乳熊”は伊勢乳熊郷の地名であった。 慶安の頃(1648~1651)竹口作兵衛義道が、一旗揚げようと伊勢乳熊郷から江戸へやってきて、日本橋で塗物商を営んでいたが、元禄の初め(1688~)深川永代橋際の現在地で味噌醸造を営み、乳熊屋作兵衛商店といったのが、今の「ちくま味噌」の始まりだそうだ。

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●蒲鉾にあらずミカンなり! ・・・・・蒲鉾屋のお稲荷さんと間違えそうな、大和総研(永代1-14)の敷地の東角地にある紀文稲荷神社。 江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地に祀ったのが紀文稲荷神社。 紀国屋文左衛門は第5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保荻原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられていた。 その文左衛門の店は八丁堀にあり、下屋敷が深川にあり、船蔵もこの周辺にあり、縦横に伸びた運河によって結ばれていた。 そこで、文左衛門は、この付近時この付近一帯の航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷さんを祀った。、、、蒲鉾屋にあらず、ミカン屋のお稲荷さんだった!

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●度々の参拝、建物は見飽きた! ・・・・・・門前仲町駅前をとうり、永代寺深川不動尊深川不動燈明塔富岡八幡宮と、定番の寺社を巡る。

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●国産第一号の鉄橋 ・・・・・・
富岡八幡宮の東側に「八幡掘遊歩道」があり、そこには歴史ある人道橋2橋の上部が残されている。

・・・・・・・・・・・・・・江東区木場の大横川(旧大島川)に架かり、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな人道橋。 大正時代、岐阜県から上京し、木場で開業医をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める供養の意味を込めて架けた橋である。 当初「新船橋」と名付けられたが、新田医師の亡きあと「新田橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の新田橋はコチラ

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・・・・・・・・・・・・・・旧弾正橋は、明治11年(1878)工部省赤羽製作所にて作られた国産第1号の鉄橋。 長さ15.2m、幅3mの単径間アーチ型式。 近代橋梁技術史上において価値の高い橋で、国の重要文化財に指定されている。 昭和4年(1929)に現在地(八幡堀)に移され八幡橋と改称し、人道橋として使用されてきた。、、、、堀は埋め立てられ、橋の下は遊歩道となっている。

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●三十三間堂があった! ・・・・・旧弾正橋(八幡橋)を渡り東に向かうと深川八幡東交差点。 この交差点角に「三十三間堂跡」がある。、、、、江戸三十三間堂は、京都蓮華王院に模して、寛永19年(1642)に浅草において建立された。 ここ深川に移されたのは元禄14年(1701)のことである。 深川の三十三間堂は、南北六十六間・東西四間の堂舎であり、本尊は千手観音だったといわれている。 現在でも、京都の三十三間堂において通し矢が行われているが、江戸時代は、この三十三間堂においても、諸士の弓術稽古のために通し矢が行われていた。 深川三十三間堂は、明治5年(1872)に廃棄解体され、本尊は正覚寺(深川2)に移された。 跡地は明治時代に、堂域そのままに細長い深川墓地として利用されたが、大正時代には数矢小学校と住宅に変わった。 その後、数矢小学校は富岡八幡宮の北側の現在地に移転した。、、、三十三間堂が建っていた場所は、明治2年~昭和6年、深川数矢町(かずやちょう)といった。 町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なるを以って町に名づくという」ことに因んでいる。 現在は富岡2丁目に含まれ、数矢町は消滅したが、この名は、数矢小学校の校名に残っている。 


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●200億円の工事! ・・・・・・東西線の木場駅は昭和42年(1967)9月14日に開業した。 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。 深さ22.4mと、東西線で一番深い位置に存在する。 開削工法で掘られた両端部以外は単線シールド工法で掘られたためホーム中央に壁があり、単式ホームを隣り合わせとしたような構造である。この単線シールド工法で建設された駅は日本の地下鉄として初である。このような構造のため、改札口と連絡する階段・エスカレーターはホームの両端にあり、それ以外の位置ではホーム間の行き来はできない。階段はエスカレーターの奥にある。、、、、開業してから50年、狭いホームの改良工事が進められている。 シールドの壁を撤去し、広い空間を造りホームを広げる総工事費200億円の大工事。乞うご期待!

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2019年3月18日 (月)

消えた洲崎遊廓

地下鉄東西線の東陽町駅で下車し、かつてあった洲崎遊廓の跡を追って木場に出て、木場公園のバス停まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●中央区のような江東区 ・・・・・・・・・・・地下鉄東西線は、昭和39年(1964)12月23日、高田馬場~九段下間の開業に始まり西と東に延伸し、昭和42年(1967)9月14日に中野から東陽町までつながった。、、、、東陽町駅は永代通りの地下にある、相対式2面2線構造の地下駅である。 一日に12万人が乗り降りする大きな駅である。、、、、私は日本橋から満員電車に乗ってきたが、東陽町で一斉に下車。 アレ・レ? 電車はガラガラ
 
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・・・・・・・・・・・・・・駅周辺には、大企業のオフィスが並び、朝は地下から出てくる通勤客が絶えない。、、、、多くのサラリーマンに紛れ、地下鉄の階段を上ると、中央区日本橋のビジネス街に出るようだ。 江東区とは思えない!
 
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●男のパラダイス ・・・・・・・・・・・東陽町駅と木場駅の間、永代通りの南側に東陽1丁目の町がある。 この1丁目の全域が、戦後は「洲崎パラダイス」と呼ばれた、吉原とならぶ大歓楽街:「洲崎遊廓」であった。(この頃、私は乳飲み子で実態は? 残念!)、、、、歴史は明治まで遡り、、、、明治20年までに富坂(文京区)に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、風紀上の観点から直近に存在した根津遊郭の移転計画が発足した。 しかし受け入れ先となるはずの、最大の歓楽街だった吉原には受け入れの余裕がなかった。 そこで、洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽1丁目に洲崎弁天町が誕生した。 大正時代末期には300軒前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街となった。 昭和33年(1958)の売春防止法成立まで遊廓が設置されていた。
 
・・・・・・・・・・・・・洲崎遊廓は長崎の出島のように、海に突き出した形態で、周囲は堤防となっている。 遊女が逃げられない造りである。 遊廓の入口に当たる処は、永代通りと並行に流れていた洲崎川に架かる洲崎橋。  この橋を渡ると、正面に幅の広い大門通りがあり、左右に遊廓があったそうだ。、、、、写真は、東陽3丁目交差点(永代通り)の南側にあった洲崎橋の跡地に作られた碑。 洲崎川は埋め立てられ緑道となっている。 洲崎橋の正面に伸びる「大門通り」。 
 
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・・・・・・・・・・・・・現在も遊廓(東陽1丁目)を囲んでいる堤防。 現在は周囲の町に比べ、東陽1丁目の地盤が低く、斜路・階段などで隣接の町とつながっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・洲崎遊廓は現:東陽1丁目の中央を南北に貫く大門通りによって、洲崎弁天町1丁目(西側)・2丁目(東側)として、東西に分けられていた。 遊廓の時代は、洲崎弁天町全域が廓であったが、戦後は東側だけが洲崎パラダイスとして指定地となり、100軒程のカフェーがあったそうだ。、、、、当時の建物は全て取り壊され、今は住宅、マンション、アパートが並ぶ街。
 
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・・・・・・・・・・・・・洲崎パラダイスの頃の建物と思われる、どちらも取り壊された。 (平成22年に撮影)
 
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・・・・・・・・・・・・・遊廓の地の東南に、現在、「都営 洲崎弁天町アパート」がある。 かつてここには、遊廓の娼妓たちの性病の検診と治療を行っていた都営洲崎病院があった。、、、現在は、昭和40年~42年に建てられた都営住宅がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・都営洲崎弁天町アパートの一画に「洲崎遊郭追善供養歌碑」がある。、、、、性病で死んでいった娼妓たちを供養したものだ。 「白菊のはなにひまなくおく露のなき人しのふなみたなりけり」と彫られている。 昭和6年(1931)11月9日洲崎遊郭開業50周年記念法要に信州善光寺大本願119世大宮尼智栄上人が詠んだもの。 建立は洲崎三業組合。、、、、遊郭の存在が忘れられる半世紀あまり、はっきりと遊廓が在ったことを標す遺構だ。、、、、ここで亡くなった娼妓たちは、江東区平野2にある浄心寺で弔われた。 境内に洲崎遊女合葬墓がある。
 
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●洲崎弁天だ! ・・・・・・・・・・・東陽1丁目の西隣の木場6丁目に洲崎神社がある。 元禄13年(1700)の創建。 洲崎神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神として祀っている。、、、、洲崎遊郭に隣接し、文人墨客だけでなく、遊女の参拝もあったであろうね!
 
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・・・・・・・・・・・・・境内には、「波除碑(なみよけのひ)」がある。これは、寛政3年(1791)に高潮により多数の死者を出したため、幕府が洲崎弁天社の西を空き地にしてその境界に建てた碑のひとつである。、、、、、東日本大震災の津波と同様に、多くの人命が失われたことを忘れずに、後世に伝えるものだ!
 
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●深川にぴったしの景観 ・・・・・・・・・・・・・・木場駅と洲崎神社を結ぶ、赤く塗られた鮮やかな新田橋(にったばし)。 大横川に架かる人道橋である。、、、、明治から昭和初期にかけ、木場5丁目で医院を開業していた医師:新田清三郎さんが、不慮の事故で亡くした夫人の霊を慰めるため、供養で架けた橋。、、、、、現在の橋は平成12年(2000)に架け替えられたものである。 当時の橋は深川富岡八幡の近くに保存されている。
 
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●360度の芝生、広い! ・・・・・・・・・・・散歩の最後は、木場公園を横切り帰る! 
 
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2019年2月16日 (土)

亀戸の梅屋敷

総武線亀戸駅から、亀戸水神、亀戸天神、亀戸香取神社、吾嬬神社、小村井香取神社と巡り、東武亀戸線小村井駅まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
●天神様の駅 ・・・・・・・今日は土曜日、通勤客も少なく、早朝に下車する人もまばらだ。、、、、明治37年(1904)3月29日1904、総武鉄道の駅として開業。 駅の歴史を語るようなものは、なにも見つけられないが古株の駅である。、、、いつも改札前で売っている「くず餅」の売店も、まで出てない。 帰りに、寄ってみよう!
 
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●“お水”の神 ・・・・・・・まずは、東武亀戸線 の駅名となった亀戸水神へ参る。 JR亀戸駅から北東に700m程の処に鎮座する水神さまで、社号は「亀戸水神宮」。、、、、亀戸水神宮の創建は古く、室町幕府十二代将軍足利義晴の治世の頃(1521~1546)と推定されている。 土民が水害から免れん為の祈願として、大和国吉野の丹生川上神社から勧請したもので、祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神。、、、、艶めかしい“お水”の神様ではない。 間違えないで! でも、キャバ嬢姿の女神がいたら神社に詣でる人も増えるかもね!
 
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・・・・・・・・・・・・・神社に隣接して、城東署の「水神森地域安全センター」(旧交番)がある。 この建物は木造で、昭和初期に建てられたものかも?
 
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●蘇った亀戸梅屋敷 ・・・・・・・・亀戸駅前の明治通りと、亀戸天神前の蔵前橋通りが交差する亀戸四丁目交差点角に、「亀戸梅屋敷」がある。、、、、浮世絵師・歌川広重が描いたこともある江戸時代の亀戸に実在した梅屋敷は現存しない。 平成の世に、当時の亀戸梅屋敷をモチーフにして、観光案内所や物産店、江戸切子ギャラリー、寄席等をミックスした観光施設「亀戸梅屋敷」が作られた。
 
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・・・・・・・・・・・・・【補足】 江戸時代初期、亀戸天神の北東に大きな梅園があった。 ここには、「清香庵」と評する屋敷があり、一般に「梅屋敷」と呼ばれていたそうだ。 明治43年(1910)の洪水と工場の排煙などから梅の大部分が枯れてしまい、廃園となった。 その跡地に小さな梅屋敷伏見稲荷神社(亀戸3)が残っている。、、、、(今日の散歩では寄らなかったので、2016/1/4撮影の写真で代用)
 
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●思ったほど、ウメの木はなかった! ・・・・・・・・・・・“ウメ”と云えば“天神さま”。 そこで、亀戸天神周辺の商店街は「梅まつり」のポスター、旗で集客中。 
 
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・・・・・・・・・・・・・雅万歩も梅の香に誘われ、亀戸天神 へ、スタコラ・サッサ・ホイ・サッサとやってきた。 
 
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・・・・・・・・・・・・・太鼓橋の上から境内を眺め、『アレ、なんか変だ? “天神様”なので“ウメ”の花が境内を埋めているはずだが?』 期待した程にウメの木はなく、境内は藤棚ばかりだ!、、、、何度も来ていた境内、ウメの木がこんなに少ないとは、今日初めて気がついた。、、、、ウメの木は境内に300本程あるそうだが、木には大小あり、まだ花をつけていない木もあり、境内の広さに比べ寂しいものだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・天神さまに手を合わせ、拝殿に置かれた大宰府の梅を観賞する。
 
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・・・・・・・・・・・・・境内のウメを観て行こう!
 
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●梅は咲いたが 桜はまだかいな ・・・・・・・・・・・次は、亀戸天神の東側に鎮座する亀戸香取神社 。 蔵前橋通りから入る参道は昭和レトロな看板建築でおもてなし。、、、、こちらは、“ウメ”の木はなく、“サクラ”がお勧め。 特に、参道には数種の八重桜が咲き乱れ、なかには黄緑色の花を咲かせる「鬱金」もある。、、、、4月になったら出直そう!
 
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●可愛い狛犬 ・・・・・・・・・・・・香取神社から北へ、北十間川を越え墨田区に入ると、川に面し「吾嬬神社」(墨田区立花1)がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・吾嬬神社は、日本武尊東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘媛が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できたものの、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだそうだ。 後、弟橘媛を慕って正治2年(1200)宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家が吾妻権現として社殿を造営した。 当地名立花は、この弟橘(立花)媛の言い伝えにより命名されたと言われている。、、、、拝殿は鉄筋コンクリート造、、、、、本殿前の小さな狛犬は安永2年(1773)の作。 この狛犬、小さくて持ち運びしやすく、かつ古く、古物商が狙いそうだ。 仏像の盗難が多い御時世、要注意! 
 
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●ウメも好き 若い娘はもっと好き ・・・・・・・・「花王東京工場」の北側(墨田区文化2)に「小村井香取神社」がある。 小村井香取神社は、永萬元年(1165)の葛西御厨の文書などに鎮守村名が記載されていることから、平安時代末期に千葉県香取郡から移住・開拓した人々の氏神として創建したといわれている。 江戸時代には、東隣に作られた小村井梅園が盛況で、将軍家の御成りもあったといいますが、明治43年の大水で廃園となりました。、、、、ここも梅園の跡地であり、梅屋敷があった処だ。、、、、平成6年(1994)、往時を偲び、境内に120本のウメの木を植え「香梅園」と名付け開園した。、、、、今日は、その香梅園の梅まつりの開催日。 地元名士(?)が集まり、若い娘の親善大使も参加して、セレモニーの真最中。
 
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・・・・・・・・・・・・・香梅園は小さな庭園。 ウメの木120本は本当か?
 
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・・・・・・・・・・・・・神社の前で、な・なんと、「ミゼット」だ! 昭和32年(1957)~昭和47年(1972)まで、販売されていた小型三輪自動車。、、、、大村崑が演じる、懐かしいミゼットのコマーシャルを思い出した。 崑ちゃんが何度も繰り返す、「ミゼット」、「ミゼット」、、、、、
 
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●下町の駅 ・・・・・・・小村井駅(おむらいえき)は、東武鉄道亀戸線の駅。 相対式ホーム2面2線の地上駅だが、駅舎は曳舟方面ホームの東あずま寄りにあるだけ、上下線ホーム間を連絡する地下通路が設置されている。 昭和3年(1928)4月15日開業。、、、亀戸駅に着いたら、“くず餅”買うの忘れないように!
 
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2019年2月 2日 (土)

6車線の京葉道路

我が家(浅草橋)から、両国橋を渡り、錦糸町でJRA場外馬券売り場を覗き、亀戸駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●まずは隅田川を越える ・・・・・・・・中央区と墨田区を結ぶ両国橋を渡る。
 
・・・・・・・・・・・・・・京葉道路は浅草橋交差点から始まる。 
 
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・・・・・・・・・・・・・両国橋は、明暦の大火(1657)の大惨事を教訓に万治2年(1659)に、隅田川に架けられた橋。、、、、現在の橋は、昭和7年(1932)に架けられた。 大きな球形がついた親柱は両国橋のシンボル。
 
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・・・・・・・・・・・・・橋の東詰(墨田区両国)には、向島の俳諧師:宝井其角の弟子であった赤穂浪士の一人:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑がある。 この句は討ち入りの夜、師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。、、、、道端で出会い、サッと句を詠むなんて、私にはできない。 カッコいいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・大高源吾の句碑の後ろには、大きな忠魂碑。 こちらは、明治37年・38年の戦役での戦病死者、すなわち日露戦争でご出征し、護国の為に身命を捧げられた英霊に、陸軍元帥大山巌筆による表忠碑。、、、、大きく、立派な碑だ。
 
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●早く広げて!・・・・・・・・・両国橋を渡ると、ここから錦糸町の江東橋までは、京葉道路は4車線道路である。 現在、東京国道事務所では6車線に拡幅することが計画されている。 地元への説明会なども実施されているようだ。 高架として、混雑の緩和、安全の確保、緊急輸送道路の確保などが見込まれている。、、、、この都市計画が決定したのは、雅万歩の生まれる前の昭和21年(1946)3月だった。 70余年、経過した!
 
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・・・・・・・・・・・・・京葉道路の歩道上(両国3)に、「本所松坂町址」の碑が建っている。 元来この辺りは、あの吉良邸があったところである。 関東大震災後の区画整理により町名が変更された。この碑は近世史上著名の地「松坂町」を偲んで、昭和7年に建立された。
 
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・・・・・・・・・・・・・京葉道路の両側は建物も新しくなり、歴史を語るものは見あたらない。
 
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●ここからは6車線!・・・・・・・・・・・・・ 江東橋は京葉道路(国道)に架かる橋で、この橋からは6車線となり幅(35m)も広く、橋の長さ(20.8m)に対し倍近くある。 明治31年(1898)創架で、現在の橋は平成8年(1996)に架け替えられた新しい橋だ。、、、、橋の下を流れる大横川は暗渠化され、現在はスカイツリーが眺められる大横川親水公園となっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・6車線となった京葉道路。
 
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・・・・・・・・・・・・・・江東橋の東詰に、明治34年(1901)創立の名門:都立両国高校がある。 作家:芥川龍之介の母校。、、、、両国高校の一画に、「国産マッチ発祥の地」と刻まれた 御影石の記念碑がある。 石川県金沢出身の 清水誠はフランス留学から帰国後、明治9年(1876)に, この地に「新燧社」を設立し、本格的にマッチの製造を始めた。 2年後には我が国始めての輸出が行われ、太平洋戦争前まで続いた。、、、、今は、マッチが使い捨てライターに変わり、チャッカマンに変わり、お目にかかることがまれとなった。
 
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●IT化された! ・・・・・・・・錦糸町駅前のJRA。 チョックラ、朝の場外馬券売り場を覗いてみた。 競馬を止めて50年、馬券の買い方も変わり、面白そうだ! やってみたくなるね。
 
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●工場が消えた! ・・・・・・・・・・・・錦糸町駅前から、亀戸へ向かう。、、、、この辺り、かつては鉄工場などが並ぶ工場地帯だった。 今や近代邸なビルとマンションが並び、世も変わった!
 
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●時代ごとに変わる! ・・・・・・・・・・亀戸駅前を通り過ぎ、京葉道路の南側、昭和の時代には第二精工舎の工場があったところ。 平成になり、ショッピングセンター「サンストリート亀戸」に変わり。 次の時代は、25階建ての住居棟と6階建ての商業棟ができるそうだ。 (写真:左側の工事現場)
 
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●今日のお帰りは? ・・・・・・・・・・・・亀戸駅の“勝手口”(正式には東口)から。
 
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2018年12月14日 (金)

北風吹きぬく夢の島

連日の寒さ、散歩する気力も凍り、部屋に籠って珈琲飲んで、本を開いて昼寝して、夜はお目々パッチリ眠れずに、ウトウトした頃、暗い・寒い朝がやって来た。 『今日こそ、健康的に散歩するぞ!』と、飛び起き、朝食済ませて玄関出ると、『やっぱり寒い! どこへ行こうか?』 駅への道すがら、以前から行こうと思っていた、夢の島の第五福竜丸展示館へ行くことにした。 『あそこなら、屋内で暖かいし、久しく行ってないので、散歩にバッチシだ!』、、、、、、と、云うことで、新木場駅に向かった。
 
 
 
●神が見放した、寒い駅・・・・・・・・・昭和13年(1938から都民のゴミ処理を目的に、東京湾の埋め立てが始まった。 戦時中は埋め立ても中止されたが、戦後再開し昭和42年(1967)まで続いた。 昭和53年(1978)には夢の島公園が開園した。、、、、公園の南側に営団有楽町線の新木場駅が開業したのは昭和63年(1988)6月である。 同じ年の12月には京葉線の新木場駅も開業した。 平成2年(1990)には、京葉線の新木場~東京間が延伸開業し、京葉線の途中駅となる。 平成8年(1996)には東京臨海高速鉄道臨海副都心線(後のりんかい線)の新木場駅も開業する。 現在はJR・東京メトロ・東京臨海高速鉄道の駅である。、、、、、、駅は高架の4階建てで、1階は出入口と飲食店、2階は東京メトロ有楽町線のホームと東京臨海高速鉄道りんかい線のホームがある。 3階は各線の改札口が並ぶコンコース、4階は京葉線のホームである。 各鉄道とも、島式ホーム1面2線。
 
・・・・・・・・・・・・駅外観。
 
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・・・・・・・・・・・・・・2階の各線の改札。 電車が到着すると、客がド~と出てくる、乗り換えるようだ。 3線の合計で一日の乗降客数は33万人以上になるらしい。
 
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・・・・・・・・・・・・・・京葉線。 北風が顔に打ち付け、鼻水は出る、頬はこわばる、帽子は飛びそう、こんな日に来なければよかったと、後悔するが遅すぎた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・ガーン、なんたることだ!、、、、、駅構内の夢の島公園掲示板を見ると、「第五福竜丸展示館」は来年3月まで休館。 下調べもせず、思い付きで来たのが失敗だった。 ガッカリ、この寒さの中、神は我を見放した。 どうしよう?
 
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●今日は厄日だ!・・・・・・・・・・・とりあえず、夢の島熱帯植物館にでも行くか。 北風をまともに受けながら、公園に向かうと、またもやガーン。 なんたることだ、公園は整備中でいたるところで掘り返していた。、、、、ガード・ウーマンに尋ねると、「植物館は開いていますが、工事の為チョイト遠回りして下さい」と言われた。 どうも今日は厄日のようだ、こうなりゃ、植物館もあきらめて、明治通りを亀戸方向へ歩くことにした。
 
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・・・・・・・・・・・・・植物館のドーム屋根を眺めながら、明治通りを歩く。
 
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・・・・・・・・・・・・・北風に海風を混ぜ、風力もチョイト強く吹き付けてくる。 昔は股引き、今はメンズタイツ、履いてくればよかった、後悔しながら夢の島大橋(昭和55年(1980)竣工)を渡る。
 
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●「蟻の町」の教会・・・・・・・・・・・夢の島大橋を渡ると、JR京葉線潮見駅に近いこと、潮見には「カトリック潮見教会があることを思い出す。 寄ってみることにした。、、、、、「カトリック潮見教会」は昭和35年(1960)に創立し、聖堂は「蟻の町のマリア」を冠している。、、、、現聖堂は昭和61年(1986)に間組の手で竣工した。
 
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・・・・・・・・・・・・・蟻の町の教会、、、、、、戦後、隅田川の言問橋の西詰に、廃品回収で生計を立てていた「蟻の会」という共同体があった。 ここに住む人は、職も、家もない人たちだった。 その町に、大学教授の娘で裕福な家庭に育った北原怜子(さとこ)が訪れるようになった。 怜子は見舞いに訪れるだけでは納得できず、自ら「バタ屋」となり町にすみ、蟻の町の子供たちの世話をした。 しかし、怜子はまもなく結核を患い、28歳の若さで息を引き取った。 隅田公園(台東区)にあった「蟻の町」は、昭和35年に江東区枝川に移り、そこに怜子の願いでもあった教会が建てられた。 その後、蟻の会の人々も徐々に離れ、会は解散した。、、、、、、カトリック潮見教会には、ロザリオを手にした怜子の像、枝川にあった当時の教会の十字架がある。 
 
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●汁粉が欲しい!・・・・・・・・・・・・・・時間も早いが、寒い散歩を終わらして、潮見駅から帰る。 8千歩だった。 帰ったら、汁粉が食べたいね!
 
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2018年12月 7日 (金)

戦後の名橋、葛西橋

埼玉県から流れ下る荒川は、東京湾に出る河口付近では、右岸(西側)が江東区で、左岸(東側)は江戸川区である。 この両区を結び葛西橋が架かっている。 今日の散歩は葛西橋を歩いて渡ってみようと、江戸川区側の「葛西橋東詰」バス停からスタートし、橋を渡り、江東区東砂・南砂・北砂の裏道を歩き「北砂5丁目」バス停まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
●アレ、誰も降りないの?・・・・・・・・・・・現在の葛西橋の東詰(江戸川区)めにバス停「葛西橋東詰」がある。 亀戸から朝の通勤客を乗せ、立ってる人もいるバスだが、この停留場で下車したのは私だけだった。 橋の際で、乗降する人の少ない停留場みたいだ、降りる時チョイト申し訳ない気がしたね!
 
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●55年経った戦後の名橋・・・・・・・・・葛西橋(かさいばし)は、西岸の江東区東砂と東岸の江戸川区西葛西を結んで、荒川と中川に架かる。 橋上には、「葛西橋通り」(都道475号)を通す。、、、、橋の工事は昭和34年(1959)に着工し、約3年数ヵ月要し、昭和38年(1963)に完成した。 全長727.4m、幅員15.0m、最大支間長142.0mの鋼カンチレバー吊補剛桁橋である。 チョイト見、清洲橋のような吊り橋に見えるが桁橋である。 下部工は鹿島建設、上部工は横河橋梁・他が施工を担当。 総事業費約19億円也。、、、、、竣工時は荒川の最下流に架かる橋で交通量も多かったが、現在は600m程下流に清砂大橋、さらに2.0km下流には湾岸道路の荒川河口橋が架かり、混雑が緩和している。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・葛西橋は、並行して流れる荒川と中川を連続して越える。 その両川を隔てる堤防上には首都高速中央環状線が走っている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・今朝は、うっすら靄(もや)がかかった曇り空。 橋上から眺める景色も、私の頭の中と同じで、ぼーっとしてスッキリしない。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・葛西橋は現在の橋が完成する以前には、約300mほど上流側に架けられていた、「旧葛西橋 」である。 清洲橋通りが荒川にぶつかる延長線上に旧葛西橋があった。 現在は旧橋の姿はなく、河川敷に案内板がある。
 
 
 
●東砂の相撲部屋・・・・・・・・・・・・江東区東砂に“ふんどし姿”の力士を発見。、、、、平成27年(2015)に北の湖部屋を引き継いで誕生した山響部屋の前だ。 平成29年(2017)に部屋は、現在の東砂に移転したそうだ。 稽古に励んで面白い相撲を見せて欲しいね、期待します。 (力士の名前が判らずゴメンなさい)
 
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●富岡から富賀岡に、さらに富岡に!・・・・・・・・・・南砂7丁目に富賀岡八幡宮がある。、、、、横浜市金沢区富岡東に鎌倉時代の創建である富岡八幡宮がある。 これを勧請したのが南砂の元八幡と呼ばれる富賀岡八幡宮である。 さらにこれを勧請したのが、門前仲町駅の近くにある江戸最大の八幡様:富岡八幡宮だ。、、、、社殿は、幾多の水害、空襲などで大きな被害を受け、昭和36年(1961)に鉄筋コンクリート造で現社殿が再建された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・本殿の後ろに、富賀岡八幡宮の富士塚がある。 江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚。
 
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・・・・・・・・・・・・・境内にある「砂村新左衛門顕彰碑」は、現在の南砂1丁目から7丁目までと東砂8丁目を含むほぼ全域の地を、湿原や洋上から、干拓と埋立てによって、万治2年(1659)、砂村新田に変えた福井県鯖江市出身の砂村新左衛門の遺徳を偲び、平成11年に建てられた。
 
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●全長約3.7kmの都内最大の親水公園・・・・・・・・・・・南砂5丁目の仙台堀川公園 を抜けて行く。、、、、、樹々は秋色に染まっていた。 既に、葉のない木もある。 
 
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●静かな裏道・・・・・・・・北砂6丁目の裏道に入る、生活の匂いはするが、人影はすくない。、、、、下町らしい、ざわつきが無く、チョイト期待ハズレの裏道。 
 
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・・・・・・・・・・・・北砂6丁目を抜けると、「北砂5丁目」のバス停があった。 散歩はココまで。
 
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2018年10月16日 (火)

閻魔大王ご縁日

毎月16日は全国的に閻魔さんのご縁日である。 今日は、浅草橋の我が家から深川のゑんま堂まで散歩することにした。 1万歩。、、、、、、ちなみに、お薬師さんは毎月8日、観音さまは毎月18日、お地蔵さんは毎月24日、弁天さまは己巳(つちのとみ)の日、お稲荷さんは午の日が、それぞれのご縁日である。 覚えておくと敬老会で役立つ知識。
 
 
 
●そろそろ出勤時間・・・・・・・・・・午前8時前、ボチボチ、駅から掃き出される人が増えてくる時間。 私も散歩に出る。
 
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●真正面に見える・・・・・・・・・・東日本橋1丁目と2丁目、町境の道路からは、正面にスカイツリーが見える。、、、、、、スカイツリーの見え具合で今日の運勢を占う人もいるかも? 今日は、全体に薄ぼんやり見える、運勢は『先を読む目が曇り波乱の一日』。
 
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●陶器造りの神社・・・・・・・・・・・・日本橋浜町3丁目、超高層ビルの下に浜町神社がある。 神社が鎮座する地は、安政年間に徳川幕府から島津家へ土地の引き渡しがあり、土地に祀られていた天明年間に創始と云われる稲荷を島津稲荷として崇敬してきたといいわれている。 関東大震災後、浜町神社を改称していたものの、戦災により焼失、昭和28年(1953)に浜町神社として改めて建立した。 平成12年(2000)、再開発により現社殿を建立。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・浜町神社境内には、埴安大神(はにやすのおおかみ)・加藤四郎左衛門景正命・加藤民吉命を祭神とする陶栄神社がある。 埴安大神は土の神で天照大神の兄弟神とされている。 加藤命と称する2柱は、瀬戸焼の歴史の重要人物で鎌倉前期の陶工景正が「陶祖」と呼ばれ、江戸時代の陶工民吉が瀬戸に磁器をもたらした功績から「磁祖」と呼ばれている。、、、、、この神社の社殿は、昭和44年(1969)愛知県常滑市の陶工により、住吉造りを模し、総釉彩陶器製でつくられている。 また、台座には平安時代以降の陶片が使用されている。、、、、、、注連縄と賽銭箱は陶器ではなかった! 
 
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●化粧中につき顔は出せない!・・・・・・・・・昭和3年(1928)に完成した天下の名橋、重要文化財の清洲橋 も90年経過した、小じわが目立つのか、厚化粧が剥げたのか、只今、塗装工事中。 恥ずかしくて、顔も出せないらしい。
 
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●エレキテルの地・・・・・・・・・・・平賀源内(1728~1780)は安永5年(1777)にエレキテル(摩擦起電器)を完成させ、自宅にて電気実験を行ない安永8年(1780)に51歳にて没した。 自宅のあった江東区清澄1丁目には平賀源内電気実験の地の碑が建っている。、、、、、、死因は感電死? 本当は酒に酔い喧嘩して投獄され、破傷風で死んだそうだ。(コレ、ホントらしい。) 今でも、同類の人はいるね!
 
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●田中角栄と間違えないで!・・・・・・・・・・清澄1丁目のアサノコンクリート深川工場の一角に浅野総一郎の像がある。 この地は、明治8年(1875)、工部省が日本初のセメントを製造した工場があった場所で、明治16年(1883)に浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場「浅野セメント」として発展した。  浅野セメントは、戦後日本セメントに改称し、平成10年(1998)には「秩父小野田セメント」と合併して、業界最大手の「太平洋セメント」となった。
 
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・・・・・・・・・・・・・浅野総一郎の像の脇にあった、「明治23年 当時のセメント工場全景」。、、、、、、手前に隅田川が描かれている。
 
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●国宝級のミドリ・・・・・・・・江東区佐賀町1丁目と福住1丁目を結ぶ小さな橋は、昭和4年(1929)に竣工した鋼鉄製トラス橋の緑橋。 大島川西支川に架かり、橋長は23m程、チョイト膨れたトラスのデザインは可愛いものだ。、、、、、関東大震災の復興橋で、歴史的にも貴重な橋なので、個人的には“国宝”(チョイト大袈裟)に指定する。
 
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●福禄寿はいずこに!・・・・・・・・・・深川2丁目の浄土宗寺院の雙修山養源院心行寺は、元和2年(1616)八丁堀に創建し、寛永10年(1633)現在地に移転した。 現本堂は昭和43年(1968)に竣工した。、、、、、深川七福神の福禄寿が六角堂に安置されているが施錠され、姿は見えず、声も聞こえず、軟禁状態。 
 
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閻魔大王のご縁日・・・・・・・・・・“深川ゑんま堂”は、真言宗豊山派の法乗院で賢台山賢法寺と号す。 法乗院は寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年(1641)には現在地(深川2丁目)に移転した。 江戸三閻魔の一つらしいが、昔の閻魔堂は戦災で焼けた。 現在は平成元年(1989)に再建された“ハイテク閻魔様”で、賽銭を入れるとコンピューター制御で堂内には煌びやかに照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じた説教が流れてくる見世物小屋並みの、高さ3.5mの大きな閻魔がある。、、、、、、、笑っちゃいけないが、笑いたくなる、これぞ“笑い地獄”か? 歴史を感じることができない寺だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・本日は、ご縁日。 本堂1階では、天明4年(1784)に描かれた全16枚の『地獄・極楽図』が展示され、御仏の教えを説いてくれます。
 
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●昭和の市営食堂・・・・・・・・・・・門前仲町1丁目に、震災後の昭和7年(1932)に建てられた旧東京市深川食堂の建物が残されている。 建物は角地に建つ鉄筋コンクリート造2階建て、明るい大きな窓で開放的で、モダンなデザインである。、、、、、震災復興事業の一つとして、低所得者のための市営食堂として利用された。昭和11年(1936)食堂は閉鎖され、終戦後は職業斡旋施設として利用され、昭和51年(1976)から江東区内職補導所となり、平成18年(2006)に閉鎖された。、、、、現在は国・登録有形文化財の指定を受け、『深川東京モダン館』と称し、江東区全域を対象とした観光案内スペースとして、また、新たな文化の発信スペースとして活用している。
 
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●お帰りは門前仲町から・・・・・・・・・・
 
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