JR目白駅から、鬼子母神のある豊島区雑司が谷をじっくりとぶらつき、地下鉄護国寺駅まで、1万歩、7kmの散歩です。
①都電 鬼子母神前・・・・・・・・・・・・都電荒川線が通る、鬼子母神前停留場と都電雑司が谷停留場間の都道は、只今、地下道路の建設工事中。 明治通りのバイパスルートとして、渋谷区広尾5丁目から北区滝野川2丁目に至る約14kmの都市計画道路の一部区間である。 この間は道路中央の専用軌道を都電が走り、その両側に1車線の車道と歩道が整備され、都電の軌道の真下に片側6.0m/2車線のトンネルが2本造られる。 この区間を含む、豊島区高田3丁目から南池袋2丁目までの約1.4kmは、事業費が370億円で2019年度までに完成する予定。、、、、、目白通りの千登世橋から見る都電、大鳥神社の鳥居越しに見る都電、都電の景色が変わりそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・地下鉄副都心線の雑司が谷駅前。 写真左の仮囲いの中を都電が走っている。
・・・・・・・・・・・・・・鬼子母神前停留場、、、、、、仮の停留場でしばらくの辛抱!
②鬼子母神・・・・・・・・・・・・鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として信仰されている。 日蓮宗では、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められている。 女神であり、吉祥天の母である。、、、、、ここ雑司が谷の鬼子母神は、入谷の鬼子母神、千葉県市川の鬼子母神と並び、江戸三大鬼子母神の一つ。
・・・・・・・・・・・・・・鬼子母神前停留場から伸びる参道は、樹齢400年のケヤキも並ぶ石畳となっている。
・・・・・・・・・・・・・ケヤキ並木が終わると、鬼子母神が祀られている本堂が見える。
・・・・・・・・・・・・・・鬼子母神堂の本堂、、、、、、、鬼子母神堂は、法明寺(南池袋3)の境外仏堂。 堂は、永禄4年(1561)に現:清土鬼子母神堂で発掘した鬼子母神像を、稲荷社のあった現在地に村民が天正6年(1576)に堂を建立した。 その後、寛文4年(1664)、松平安藝守光晟の寄進により本堂が建立された。 昭和51年(1976)から3年間をかけ、江戸時代の姿に戻す解体復元の大修理が行われた。
・・・・・・・・・・・・・・境内の大イチョウは、応永年間(1394~1428)に植えられたもので、樹齢700年に達し、「子授けイチョウ」とも呼ばれているそうだ。 樹高:30m、幹周:8m。
③大鳥神社・・・・・・・・・・・・大鳥神社は、もともと鷺明神と称して、正徳2年(1712)鬼子母神境内に祀られた。 明治の神仏分離後に現在地(雑司が谷3)へ遷座した。 現社殿は昭和56年(1981)に造営されたものである。、、、、、この神社も、毎年11月の酉の市では商売繁盛を願う人で賑わい。 そして最後に笑うのは、多いに商売繁盛した神社である。
④雑司ケ谷霊園・・・・・・・・・・・・・明治5年(1872)、神葬墓地として開設。 明治7年(1874)に共葬墓地となった都営墓地。 約10万㎡の広い霊園で、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月、夏目漱石、東条英機、東郷青児など、多くの著名人が眠っている。、、、、、墓を守る人がいなくなり無縁墳墓として改葬される旨の立て札が立てられた墓も散見される。 立派な墓石の前に、改葬の立て札をみて、チョイと悲しくなるね!
⑤雑司が谷旧宣教師館・・・・・・・・・・旧宣教師館(雑司が谷1)は、明治40年(1907)にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自宅兼布教活動の拠点として建てたもの。 マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。 豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築で、明治期の宣教師館としても大変貴重なものである。、、、、、、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を残した、木造2階建ての質素な外国人住宅。、、、、、、今年3月にリニューアル工事も完了し、内外装とも美しくなった。
⑥清土鬼子母神・・・・・・・・・・・・雑司が谷1丁目と境を接する、文京区目白台2丁目に日蓮宗の清土鬼子母神堂がある。 清土鬼子母神堂は、雑司が谷の鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像が、永禄4年(1561)、柳下若狭守の下男山本丹右衛門によって掘り出された場所だといわれている。 清土は当地の旧地名(雑司ヶ谷村小名清土)で、清土鬼子母神と称されている。
⑦護国寺 ・・・・・・・・・・・・護国寺前の護国寺駅から地下鉄に乗車。
JR駒込駅から、桜の染井地区を抜けて都営三田線新板橋まで、染井吉野の発祥地を巡る、1万1千歩、8kmの散歩です。・・・・・・・途中、染井霊園で、私のカメラのシャッターが故障し撮影できず。 その後は、ただただ、ひたすら歩くだけの散歩となった。 (カメラは、メーカのサービスセンターに入院させた。)
①駒込駅 ・・・・・・・・・・・・明治43年(1910)に開業した山手線の駅。 土地が傾斜しているため、池袋寄りの改札口はホームから上って橋上駅舎にある、田端寄りの改札口はホームから階段を下り線路下にある。
②駒込橋・・・・・・・・・・駒込橋は関東大震災以降に架けられた山手線の跨線橋である。 現在の橋は地下鉄南北線の工事に伴い、平成3年(1991)に架け替えられたもので、欄干には染井吉野の桜と富士山がデザインされている。
・・・・・・・・・・・・・・橋の北詰、「染井吉野桜記念公園」に旧橋の欄干が保存されているが、「染井よしの桜まつり」の旗挿し台として活躍中だった。、、、、、文化財をたいせつに!
・・・・・・・・・・・・・・公園内の桜
③妙義神社・・・・・・・・・・・・駒込3丁目の当神社は、日本武尊が東征時に陣を構えたところで、白雉2年(651)に社が建てられ、当初は「白鳥社」と称した。 社殿は鉄筋コンクリート造だが、創建は豊島区最古の神社らしい。、、、、、文明3年(1471)から文明11年(1479)までに大田道灌が三度の出陣に際して戦勝祈願し、いずれも勝利したところから勝負の神として信仰を集めている。 夏のサマージャンボの時は、ここで一等当選を祈願するかな?
④中央聖書神学校・・・・・・・・・・・妙義神社に隣接して、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の聖職者育成の為の学校がある。 学校の母体は昭和4年(1929)に開設された聖霊神学院だそうだ。 戦時中は閉鎖され、戦後、昭和25年(1950)に開校した。 現在はチャペル、寮、図書館などが備わり、3年制・96単位のカリキュラムによる教育が行われているそうだ。、、、、、、1700坪のキャンパスに建物が美しく配されていた。
⑤旧丹羽家腕木門・住宅蔵・・・・・・・・・・中央聖書神学校の西方200m程の処に、染井の植木職人として活躍した丹羽家の土地が公園となっている。、、、、、、そこには、腕木で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式の、簡素であるが格式のある門が残されている。 津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したらしいが、年代は不明である。、、、、、、そして、園内にもう一つ、正面4.5m×奥行5.5m、鉄筋コンクリート造、地上2階/地下1階、切妻造妻入桟瓦葺の蔵がある。 こちらは国登録有形文化財。 この蔵は、昭和11年(1936)、旧丹羽家の八代目茂右衛門が建てた蔵。、、、、、、門・蔵ともに、状態もよく保存されていた。
⑥西福寺・・・・・・・・・・・駒込小学校正門前に真言宗豊山派の西福寺がある。 創建年代不詳であるが、江戸時代初期には既に創建されていたとおもわれる。
・・・・・・・・・・・・・右手に西福寺の塀がある、小学校前の通り。 正面奥には、染井吉野の発祥地と言われている「染井よしの桜の里公園」があり、西福寺の隣奥に「染井稲荷神社」がある。、、、、、すでに、地元は花見で浮かれた状態のようだ!
・・・・・・・・・・・・・西福寺も本堂まで提灯が連なり、法事でもあったらどうなるのか?、、、、提灯に明かりを灯し、夜桜で宴を開き仏を送ると、仏も酔ってあの世に行かず、現世に戻るかも?
・・・・・・・・・・・・・・西福寺の墓地では、桜の大木が開花していた。
・・・・・・・・・・・・・・墓地の一角に、徳川将軍家の御用植木師として名高かった伊藤伊兵衛政武(宝暦7年(1757)没)の墓がある。
⑦染井稲荷神社・・・・・・・・・・・1600年代の創建といわれている染井稲荷神社。 ご神体は十地面観音石像とのこと。 社殿は震災・戦災に遭わず、300年以上経ているそうだ。
・・・・・・・・・・・・・拝殿に奉納されている「カンシンの股くぐり」の額は貴重なものらしい。
⑧染井よしの桜の里公園・・・・・・・・・・・染井稲荷神社の向かい側に、豊島区が「ソメイヨシノ」の発祥の地とする公園がある。 染井の一帯は植木屋が集まって住んでいた地域で、今や全国的に植樹されている「ソメイヨシノ」は、ここ染井の地から広まった。 そのことを後に伝え残す場所として、区は銀行の跡地を取得し、近隣住民と検討を重ね計画した公園。、、、、、正確の発祥地と言うより、染井と言う地で「ソメイヨシノ」が生まれたことを記念する公園のようだ。、、、、、、公園では、祭りの準備が行われていたが、園内の桜は一分咲き!
⑨染井霊園 ・・・・・・・・・・・園内の桜も、チョイと早いようだ!