文京区

2017年8月23日 (水)

水道橋~浅草橋

今日は午後から循環器内科の定期検診日。 水道橋のクリニックへ行き、帰りは浅草橋の我が家まで、猛暑の中、汗ダラダラで歩いてきた。
 
 
 
①後楽森ビル・・・・・・・・・・・・・庭園の後楽園を背にして、外堀通りに面する後楽森ビル(写真中央)。 地上19階、地下5階のビルは平成12年(2000)3月に竣工した。 このビルの地下部分は、東京都下水道局後楽ポンプ所として利用されている。 ポンプ場の上空の部分の権利を森ビルが借り受け、賃貸ビルとしたものである。、、、、、私の通う循環器内科クリニックはこのビルの中にある。 通い始めて十数年、吾輩の血圧・血糖・コレステロールなどの各種数値はもとより、他の病院・医院の受診・手術履歴も含め、院長先生のコンピュータに極秘情報として記録され管理されている。 わが命をコントロールしている、きわめて大事なクリニックである。 北朝鮮のICBMがここに落ちてこないように願うばかりだ。
 
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神田川・・・・・・・・・・・外堀通りとJR中央線の間を流れ下る神田川。 この川に舟を浮かべ、漕がずとも寝ていれば我が家のある浅草橋に流れ下ることができるのだが、今の時代では実現は無理だ!
 
・・・・・・・・・・・・・・後楽橋の際にある千代田清掃事務所三崎町中継所では、「はしけ」と呼ばれるごみ運搬船に、千代田区と文京区で収集されたゴミが積み替えられている。 「はしけ」一隻でごみ収集車15~20台分のゴミを運べるそうだ、バツグンの輸送効率、都心を走り抜ける収集車の低減にも役立つ。 「はしけ」は神田川を下り隅田川から東京湾の中央防波堤外側埋地処分場にゴミを運び、ゴミは埋立処分される。、、、、、私の幼き頃(終戦直後)は、秋葉原などにも中継所があり、神田川、隅田川は数多くのごみ運搬船、汚わい船が行き来していた。 私も、その川でハゼを釣って遊んでいた子供の一人である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・白山通りが走る水道橋から、お茶の水方向の川筋を眺めると、左岸に神田川分水路の口が見える。、、、、、分水路とは、地下に作られた人工の川で、道路で言うとバイパスのような役割がある。 つまり、台風などで増えた水量を吸収し、洪水を防ぐ目的で造られている。 神田川も洪水対策として、上流側から高田馬場分水路、江戸川橋分水路、水道橋分水路、お茶の水分水路と続いている。 写真の分水路の口は、水道橋分水路の出口で、お茶の水分水路の入り口である。 口の上部の道路際に「お茶の水分水路」の碑がある。、、、、暗いけど、探検気分で、一度は入ってみてみたいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・「お茶の水分水路」の碑の隣に、もう一つ碑がある。 それが「神田上水懸樋(掛樋)跡」の碑である。 水道橋からお茶の水方向に上る、お茶の水坂 の途中である。、、、、、 坂の途中、神田川をまたぐように架かっていた江戸時代、神田川に木製の樋(とい)を架け、神田上水を通し、神田、日本橋方面に給水していた掛桶(かけひ)と呼ばれるものがあった。 掛桶は明治34年(1901)まで、その役割を果たしていたそうだ。、、、、、掛桶の模型が近くの東京都水道歴史館にあったので、ラッキー、撮ってきた!
 
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③東京都水道歴史館・・・・・・・・・水道歴史館は、東京都水道局本郷給水所の施設上部に造られた人工地盤上に建てられた水道局のPR施設である。 人工地盤上には公苑も造られており、木々が茂り、小川が流れ、穏やかな空間を創り出している。、、、、、猛暑の中を歩き、チョイと熱中症が心配になった。 冷房の効いた歴史館で一休み。
 
・・・・・・・・・・・・江戸から東京まで、400年間の水道の歴史を語る施設である。 江戸時代の玉川上水に始まり、現代の高度浄水施設までをパネル・模型・資料で知ることができる。、、、、、親切に音声ガイダンスも貸してくれる。 外国語でも聞こえるので、チャンネルを間違えると、チンプンカンプンとなる。、、、、、夏休みの宿題「自由研究」で訪れている親子も多い。 この時期らしいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・水道歴史館の裏側は、本郷給水所公苑として、人工地盤上に和風庭園と洋風庭園が造られ公開されている。、、、、、あまりにも日差しが強く、木陰で休む人が一人、二人ほど。
 
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④御茶ノ水駅バリアフリー整備工事・・・・・・・・・・・非常に狭い構内に、いかにしてバリアフリー化するか難しい問題である。 その答えは、現在のホーム上に人工地盤を造り、そこをコンコースとして、階段、エスカレータを整備するらしい。 計画では、2018年度内にバリアフリー関連整備を終え、2020年までに駅舎・駅前広場などの工事を終える予定らしい。、、、、、只今、人工地盤構築中。 難しい工事だ、事故を起こさないように“安全第一”。
 
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⑤東京都下水道局和泉町ポンプ所・・・・・・・・・・・・・秋葉原の電気街を抜け、昭和通りを越え、浅草橋方面に向かうと千代田区神田和泉町に入る。 その一角に、大正11年(1922)に建てられた鉄筋コンクリート造2階建て、外装は煉瓦風タイルを貼り付け新しくなっているが、元の形状を保った小さな建物がある。 現在は無人となった和泉町ポンプ所である。、、、、、、建物を囲う煉瓦塀は、古い煉瓦がそのまま残っている。、、、、、私の幼き頃と建物の雰囲気は変わっていない。 当時は、周辺に焼け野原もあり、夕方近くになると薄暗く、妖怪でも出そうなチョイト怖い建物だった。 
 
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●・・・・・・・・・・・・タップリ汗をかき、濡れた服で我が家に到着。 約2時間の散歩でした。

2017年5月 5日 (金)

浅草橋~東中野

浅草橋の我が家から、総武・中央線沿いに飯田橋まで行き、そこから地下鉄東西線の神楽坂、早稲田をとおり、馬場下交差点からは学習院女子大、百人町アパートを抜けて東中野駅までの散歩です。、、、、GWのすいた都心を歩いてきた。
 
 
 
●am7:50・・・・・・・・・・・・浅草橋駅西口をスタートする。、、、、秋葉原の隣だが、人影も少ない寂しい駅である。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・両国~浅草橋~秋葉原~お茶の水間は昭和7年の開業で、この間の高架部分、架道橋は当時のままである。 耐震工事のため高架下の建物は壊され、スッポンポンの状態で、チョイト悲しい姿をさらしている!
 
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●am8:00・・・・・・・・・・・・秋葉原駅昭和通り口を通過。
 
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●am8:20・・・・・・・・・・・・昌平橋交差点を通過。、、、、、、神田川 に架かる昌平橋は関東大震災のあった大正12年(1923)に、震災直前に完成した。 そのため、昭和 5年(1930)に修復工事が行われた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・交差点の頭上には総武線の松住町架道橋が架かる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・また昌平橋からは、神田川の川幅いっぱいに大股を広げた総武線神田川橋梁が見える。 お股の奥には丸ノ内線神田川橋梁聖橋(工事中)が見える。
 
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●am8:25・・・・・・・・・・・・昌平坂を上る。、、、、、、別名「相生坂」とも言う、湯島聖堂前の昌平坂を上り丸ノ内線お茶の水駅に出る。、、、、、急な坂ではないがダラダラ上る坂は、手術で肺活量が小さくなった私にはキツイ!ゼイゼイ・ハアハア、美人を見るとドキドキ・ビクビク。
 
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●am8:40・・・・・・・・・・・・引き続き、お茶の水坂を下る。、、、、、、お茶の水と水道橋の間で、神田川の北側(文京区、外堀通り)にある坂。、、、、、、今日の外堀通りは行きかう車も少なく、神田川沿いの緑を眺め歩くのは、気分爽快。
 
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・・・・・・・・・・・・・坂を下ると水道橋交差点に出る。 右に後楽園遊園地、左に水道橋駅
 
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●am9:00・・・・・・・・・・・・飯田橋交差点を通過。、、、、ここからは、地下鉄東西線のルート沿いに歩く。
 
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●am9:20・・・・・・・・・・・・神楽坂駅を通過。、、、、飯田橋からは、熊谷組本社牛込消防署を通り、裏道を歩いて坂上(新宿区矢来町)にでる。
 
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●am9:40・・・・・・・・・・・・早稲田町の龍善寺を通過。、、、、早稲田通りに面してたつズングリ・ムックリの寺院が、真宗大谷派の龍善寺。 寛永15年(1638)千駄ヶ谷に天台宗寺院として創建し、その後、寛文7年(1667)早稲田に移転した。、、、、なんだか、チベットの寺院を模したような建物で好きになれないね。
 
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・・・・・・・・・・・・・・道路を挟み龍善寺の隣、小さな祠に落馬地蔵が祀られている。 寛永3年(1626)、三代将軍徳川家光が鷹狩をしに高田馬場へ向かう途中、ここで急に馬がいななき、立ち上がったため落馬した。 馬の名手だった家光が落馬するには、何かあったのだろうと、村人が調べると、近くを流れる川の橋の下から1体の地蔵菩薩の石像が現れた。 そのことを、家光に報告すると「尊いお地蔵様を粗末にしたからだ」と家光は「落馬地蔵」と名付けお堂を作ってお祀りするように命じた。、、、、家光が命じたわりには、粗末な祠に祀られているね。 隣の龍善寺に堂を寄進してもらうといいね。
 
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●am9:50・・・・・・・・・・・・早稲田駅を通過し、穴八幡宮鳥居前から東西線にサヨナラして、諏訪通りに入る。
 
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●am10:10・・・・・・・・・・・・穴八幡から諏訪通りに入ると、これまた嫌いなダラダラの上り坂。 早稲田大学、戸山公園の前をとおり、長い煉瓦塀が伸びる学習院女子大前に出る。 坂道は終わり諏訪神社前を抜けると、前方に山手線のガードが見えた。
 
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●am10:20・・・・・・・・・・・・諏訪通りの先で西武新宿線・埼京線・山手線の上下6線が走るガードをくぐり山手線の外に出る。、、、、これで、秋葉原から高田馬場まで山手線を横断したしたことになる。 御苦労!
 
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●am10:30・・・・・・・・・・・・百人町の都営アパートを内を突き抜ける。 ここを抜けると神田川に出て、川沿いに歩けば東中野駅。
 
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●am10:50・・・・・・・・・・・・東中野駅へ到着。 今日の散歩はここまでとする。
 
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●・・・・・・・・・・・・・・・・・今日のルートの総延長は9.6km程、歩数は1万6千歩。、、、ア~ア、疲れた!
 

2017年4月26日 (水)

後楽園

今日は循環器内科の定期検診日。 庭園「後楽園」の南側にあるクリニック。 検診後は庭園に寄り、さらに地下鉄「後楽園」駅周辺を歩いてきた。
 
 
 
①後楽橋・・・・・・・・・・後楽園の場外馬券売り場へ通う人はよくご存じの橋。 競馬新聞を片手に水道橋駅から馬券売り場(黄色いビル)に直結する人道橋「後楽園ブリッジ」の隣に並行して架かる橋。、、、、神田川に架かり、千代田区三崎町2・3丁目と文京区後楽1丁目を結ぶ橋。 関東大震災の復興橋の一つで、昭和2年(1927)11月2日に架設され、長さ21.0m、幅22.56mの鉄製のアーチを描く橋桁が特徴的な橋。 建設時の工事費は13万7千円也。、、、、名の由来はズバリ“後楽園”。
 
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②トヨタ自動車東京本社ビル・・・・・・・・・・私が診察を受けるクリニックが入居する「後楽森ビル」(19階建て)と並ぶ、地上19階/地下5階建て、高さ89mの高層ビル。 設計は日建設計、施工は大林組+竹中工務店+清水建設、昭和57年(1982)の竣工。
 
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・・・・・・・・・・・・・・小石川後楽園の南側に隣接しているため景観に配慮した設計となっている。 敷地周囲には公開空地があり、緑豊かな散策路となっている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・後楽園の築地塀に接する北側の空地は、隣の森ビル、住宅金融支援機構のビルへと続く、長い散策路が実現している。、、、、、二人で歩くにはいい処。
 
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・・・・・・・・・・・・・・振り返ると築地塀は後楽園の入口へ延びる。 つつじ(?)が花の散策路を作り誘導してくれる。
 
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③小石川後楽園・・・・・・・・・・寛永6年(1629)に水戸徳川家の中屋敷として造られたもので、水戸黄門(光圀)の代に完成した。 石造りの太鼓橋、杭州の西湖を模した堤、など中国趣味豊かな庭園である。、、、、、現後楽園(庭園)は、明治時代に組織された東京砲兵工廠の敷地の中央に位置していた。 砲兵工廠は、南の外堀通り、東の白山通り、北の春日通り、そして西は春日通の富坂上と外堀通りの飯田橋職安前を結ぶ線、で囲われた広大な敷地である。 そこには、現在の後楽園遊園地、球場、文京区役所、中央大学理工学部、小石川運動場なども含まれる。、、、、実際に当時の地図を見ると、現在の庭園部分は砲兵工廠敷地の中央にそのまま残され、周囲に各種建物が配されていた。 それゆえ、江戸時代の名園は破壊されることなく、今日見ることができるのである。
 
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・・・・・・・・・・・・・・チョイと余談だが、10年ほど前までは、写真中央の建物の5階に私のデスクがあった。 毎日、名園を眺めながら一生懸命タバコを吸っていたね!
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・・・・・・・・・・・・・・園内に今日の散歩で見たかったものが二つある。、、、、一つは、昭和10年(1935)に建立された「陸軍造兵廠 東京工廠跡 記念碑」である。 特異な形は、砲兵工廠の敷地をかたどっている。 まさに、小石川後楽園が工廠の跡であることを示している。
 
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・・・・・・・・・・・・・・二つ目は、園内に残る工廠時代の弾丸製造機械の一部。 どうやって、使用しものか、私には判らん。 案内板などは一切なく、静かに置かれている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・庭園を出て、地下鉄後楽園駅の方に向かう築地塀には、江戸城外堀の石垣を再利用して組まれている。 石には、築いた大名を表す刻印を見ることができる。
 
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④東京都戦没者霊苑・・・・・・・・・・春日通に面し、中央大学理工学部と礫川公園の間に、東京都関係戦没者16万人の霊を祀る霊苑がある。 この地も砲兵工廠の跡地の一部である。 ここには小石川陸軍工科学校があった。 霊苑の設計は建築家:相田武文による。、、、、、、昭和6年(1931)の満州事変から終戦までの戦没者に、手を合わせてきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・苑内には遺品を展示する施設もある。、、、、どうもダメだ、遺品を見ると目が潤む。
 
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・・・・・・・・・・・・・・苑内の片隅に、「諸工伝習所跡記念碑 陸軍砲兵工科 工科学校跡」と刻まれた碑が、訪れる人もなく静かにたっている。、、、、、明治5年 (1872)に諸工伝習所を創立し、その後陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校と名はかわったが、昭和20年(1945)までの73年間陸軍技術の教育が行われていたところ。、、、、、諸工伝習所創立100周年にあたる昭和47年(1972)に、卒業生が碑を建立したものである。、、、、、私の父は、ここにあった陸軍工科学校の卒業生の一人である。 今日は、亡き父にかわり、母校に訪れてみた。
 
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●・・・・・・・・・・・小石川の砲兵工廠跡として、現存する建物はないが、広大な敷地がその後どのように変わっていったか、地図を見ながらチョイト勉強するかな。

2017年1月 6日 (金)

西日暮里~駒込

西日暮里駅から、裏通りを気ままに歩き駒込駅まで、坂と寺社巡りとなった、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
①西日暮里駅・・・・・・・・・・・・昭和46年(1971)4月20日に開業した、山手線の駅としては最も新しい駅である。 接続する地下鉄千代田線の西日暮里駅は、昭和44年(1969)12月20日の開業である。 JRは田端~日暮里間に、千代田線との乗換駅として開業したため、隣駅との駅間距離も500m程で短い。 一般の改札口はガード下の小さな出入口のみで、地下には千代田線との連絡用の大きな乗り換え改札がある。 JRと地下鉄の“乗り換え客のための乗換駅”である。 その乗り換え客に、100m程離れた日暮里舎人ライナーからの乗り換え客も合流し、朝の駅は人の流れが絶えることはない。
 
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②ひぐらし坂と向陵稲荷坂・・・・・・・・・・西日暮里駅の西側に名門受験校開成学園がある。 その開成高校のキャンパスを挟むように、東側には「ひぐらし坂」、西側には「向陵稲荷坂」がある。
 
・・・・・・・・・・・・ひぐらし坂、、、、、駅前歩道橋に続き開成高校の東側を上っていく坂。 坂の名は、平成2年(1990)、「ひぐらしの里」に因み、地元から要望によって、愛称として命名されたそうだ。 ナン~~ダ、ソレダケ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・向陵稲荷坂(こうりょういなりざか)、、、、、、開成高校校舎と開成中学校舎の間を上る坂。 この一帯は古く道灌山であった。 坂の途中には向陵稲荷(佐竹右京大夫の屋敷に祀られていた)があり、坂の由来となる。 
 
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③道灌山・・・・・・・・・・・開成高校の北側(ひぐらし坂を上った処)からは、JRの線路を見下ろすことができる。 日暮里4丁目の道灌山だ。 この山には、かつて秋田藩主佐竹右京大夫の屋敷があった。 屋敷の見晴台からは、筑波山、国府台(市川市)などを望むことができたそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・道灌山から荒川区西日暮里4と北区田端1の区境を下る道灌山坂がある。 この坂も、地元の要望で平成18年(2006)に名付けられたそうだ。、、、、、地元の要望で命名してくれるなら、我が家の前の通りは「雅万歩横丁」と名付けてもらえないか(?) 区長に会ったら聞いてみよう。
 
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④与楽寺・・・・・・・・・・北区田端1丁目に入り、真言宗豊山派の宝珠山地蔵院与楽寺に寄った。 与楽寺の創建年代は不詳であるが、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだと言われ、慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領し、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・只今、山門は基礎工事中で無い。 その姿の見えない山門前の坂を与楽寺坂という。 今はアパートとなり、面影は残っていないが、この坂の上に芥川龍之介が住んでいた。
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⑤田端八幡神社~吉祥寺・・・・・・・・・・・・与楽寺から裏道を抜けると、田端八幡神社に出た。 これより、田端八幡神社、隣の東覚寺、不忍通りを越えて文京区本駒込3の天祖神社、吉祥寺までは、平成14年6月に歩いていた。 今日はダイジェスト版で!
 
・・・・・・・・・・・・・田端八幡神社、、、、、、、平成4年(1992)に再建され、翌年5月に遷座祭が行われた社殿。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東覚寺、、、、、、、昔は田端八幡神社の別当寺であった東覚寺。 今は、谷中七福神の福禄寿を祀り、商売繁盛を実践しているのか(?) 今日も七福神巡りの団体さんが参拝してる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・天祖神社、、、、、、本駒込の天祖神社。 空襲により消失した社殿も、昭和29年(1954)新築し現在に至る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・吉祥寺、、、、、、中央線の吉祥寺駅周辺には吉祥寺という寺はない。 ここ本駒込の吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことにより、かつての地を偲び吉祥寺と命名したそうだ。
 
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⑥神明都電車庫跡公園・・・・・・・・・・本駒込4の勤労福祉会館と都営住宅に隣接する公園。 かつて、ここには都電の神明町車庫があった、その跡地である。 公園内には、都電6000形一両と、貨物車の乙2号一両が、雨ざらし状態で保存されている。、、、、、、都電6000形は290両が製造され、台数としては一番多い車両である。 保存されている6063号電車は、昭和24年(1949)3月に造られ青山車庫に配属され、その後、大久保車庫、南千住車庫を経て、昭和42年(1967)9月に神明町車庫に配属された。 3年後の、昭和45年(1970)12月に荒川車庫へ転属し、昭和53年(1978)4月に廃車となった。 きっと、私も南千住車庫の時代に乗ったことがある車両だろう。、、、、、、乙2号は、昭和16年(1941)に造られ、荒川車庫で資材運搬などで使われ、昭和46年(1971)3月に廃車となった。、、、、、、どちらの車両とも、チョイと痛々しい姿となっている。 もう少し手入れして欲しいね!
 
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⑦駒込富士神社・・・・・・・・・・・・吉祥寺から駒込駅へ向かう途中に、駒込富士神社がある。 富士神社は、天正2年(1574)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、駿河の富士浅間社を勧請して、本郷村(元富士神社地、現:東大本郷キャンパス)に創建した。 寛永6年(1629)、本郷の地が加賀藩前田家の上屋敷に充てられ、前方後円墳のあった当地に移転した。 現社殿は昭和37年(1962)頃の再建である。、、、、、古墳が富士塚に変わったのか(?) 社殿は塚の上だ。、、、、、神社は氏子を持たず、富士講組織で成り立っていたそうだ。
 
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駒込駅 ・・・・・・・・・・今日は荒川区の西日暮里駅で下車し、北区、文京区を歩き、豊島区の駒込駅から帰宅。 
 
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2016年12月25日 (日)

浅草橋~水道橋

我が家(浅草橋)から蔵前橋通り沿いに歩いて水道橋駅まで、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
①甚内神社・・・・・・・・・・我が家から1分半の至近距離にある、浅草橋3丁目、裏通りの小さな社の甚内神社(じんないじんじゃ)。 神社の由緒は、、、「甚内霊神」の名で江戸時代初期に創建された。 「甚内」は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。 武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(おこり、=マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。、、、、、、今でも、8月の甚内の命日には、有志の方から子供に菓子が配られている。 地域にピッタリと密着した神社である。
 
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②鳥越神社・・・・・・・・・・こちらは浅草橋の町とは蔵前橋通りを挟み向かい合わせる鳥越2丁目にある、「鳥越の夜祭」で全国的に有名な神社。、、、、白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥明神と称したのに始まる。 前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。 それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。 江戸時代までは2万坪の広大な敷地を有していたが、徳川幕府にほとんどの土地を取り上げられたそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・神社前の蔵前橋通り。 この通りは、関東大震災後に、造られた文京区湯島から江戸川区小岩に伸びる通りである。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・道筋の植え込みには、早くもスイセンが咲いていた。
 
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③櫻稲荷神社・・・・・・・・・台東区台東2丁目、蔵前橋通りから入る細い参道に朱塗りの鳥居がある。 これぞ、知る人は知る、知らん人は知らん、「櫻稲荷神社」だ! 神社は大名の藤堂家邸内に鎮座していた稲荷神社で、関東大震災後に地元の岡本悟一氏が奉受して桜稲荷神社としたといいます。 昭和27年(1952)には京都伏見稲荷神社より分霊を勧請、鎮座した。、、、、、この細い路地に、“よくぞ祀ったお稲荷さん”と云うわけだ!
 
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④神田キリスト教会・・・・・・・・・・・・ 蔵前橋通りと中央通りが交差する末広町交差点。 その南東側(旧:松富町)で私は育ち、南西側に教会はある。、、、、、、私の知る戦後の教会の姿はなく、現教会は平成3年(1991)に建て替えられた。、、、、、秋葉原、電気街の裏通りにある神田キリスト教会は、日本聖公会の教会で、明治10年(1877)に献堂された。 その後、震災、戦災を経て現在に行っている。、、、、、今日は、教会の方に昔の教会を撮った写真がないか聞いてみたが、残念ながら見ることはできなかった。
 
・・・・・・・・・・・・・玄関にはクリスマスリースが飾られ、今日はクリスマス礼拝の日。
 
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・・・・・・・・・・・・・・チョイと、聖堂を拝見。 三角の天井が奥行の深さをを演出し、心落ち着く空間である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・平成9年(1997)に設置されたオランダライル社製のパイプオルガン(2段鍵盤+ペダル、20ストップ)を演奏してくれた。 このオルガンは、北ドイツ・バロック様式で作られた楽器らしい。 (私には、チンプンカンプン?)
 
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⑤明神下 神田川・・・・・・・・・・・江戸末期の文化2年(1805)創業の、うなぎ蒲焼の老舗。 太い丸太の門柱と長く伸びる黒板塀。 純和風の二階建ての建物は、昭和27年(1952)の再建と言われている。、、、、、、本日は休業日だが、約200年続いた味がしみ込んでいるのか、前を通ったら鰻を焼く匂いがする。 ご飯を持ってきたら店の前で食事ができるかもね。
 
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神田明神・・・・・・・・・・例年、企業の初詣で賑わう神社。 今年も迎える準備は着々と進んでいるようだ、巫女さんも忙しそうで写真を撮るのに応えてくれそうもない。 今日は建物だけで、我慢・ガマン。
 
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⑦霊雲寺・・・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・清水坂を上り、妻恋神社に手を合わせ、霊雲寺に向かう。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・文京区湯島2丁目、霊雲寺(れいうんじ)は真言宗霊雲寺派総本山の寺。 本尊は胎蔵界・金剛界大日如来。 元禄4年(1691)徳川幕府の永代祈願所として、江戸城から見て鬼門にあたる北東の当地に創建された。、、、、、、、震災・戦災で堂宇を焼失し、現本堂は昭和51年(1976)に建てられた。 湯島にあっては広い境内で、いずれ鐘楼なども再建されるようだ。
 
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⑧水道橋のガード・・・・・・・・・・・水道橋駅東口、白山通りに架かる二つの架道橋。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、緩行線が走る新水道橋架道橋。  明治37年(1904)に開通した、甲武鉄道発注のHarkort製(ドイツの橋梁メーカ)プレートガーダーの橋。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・新水道橋架道橋(緩行用、左側)に並行する、水道橋架道橋(急行用、右側)。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・水道橋架道橋は水道橋駅南側の快速が走る鉄橋で、東京歯科大の横、ガード下にはおにぎり屋さんなどの店舗もある。 形式は、複線下路カンチレバープレートガーダーラーメン脚一体高架橋。 8径間で橋長151.18m。
 
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⑨水道橋駅・・・・・・・・・・・駅名の由来は神田上水の掛樋(すなわち、水道の通る橋)が近くにあったことによる。 明治39年(1906)9月24日、甲武鉄道の駅として開業した。、、、、、古い駅でホーム上屋には古レールを再利用した架構を見ることができる。、、、、、、55年程前の私は、ここから都電に乗り換え白山の学校に通った。 それから35年後には勤務する会社が水道橋駅の近くとなった。 今は、世話になる内科クリニックが水道橋にある、いつもでも縁の切れない駅である。
 
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2016年11月25日 (金)

東大の黄葉

東大 の黄葉を見に本郷キャンパスに行ってきた。 JRお茶の水駅から千代田線千駄木駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。
 
 
・・・・・・・・・・・・・東大構内に入る門は多いが、赤門の南側(本郷通りからは、赤門の右手の裏通り)にある懐徳門を入ると、両側に煉瓦の塊が置かれている。 一つは医学部薬局の基礎、もう一つは前田侯爵邸懐徳館の基礎で、共に建物は現存せず、構内整備の中で基礎部分が発掘されたものである。 前田侯爵邸に使われた煉瓦(次の1枚目の写真)は日本煉瓦製造会社製の機械で整形された煉瓦である。 医学部薬局に使われた煉瓦(2枚目の写真)は、小菅収監製の手作りで整形した煉瓦である。 比べてみると、侯爵邸の煉瓦は形が整っているようだ。 小菅収監(刑務所)のは、チョイと不揃いだが“味”のある煉瓦。、、、、小菅収監製の煉瓦には桜の刻印がある。 作った人には桜の刺青があったかも。
 
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・・・・・・・・・・・・・・ご存じ、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門(通称:赤門)。 文政10年(1827)に前田家が第11代将軍徳川家斉の第21女:溶姫を迎える際に造られた切妻造りの薬医門である。 左右の番所は唐破風造り。 国の重要文化財なり。、、、、東大では有名な門なので、正門と間違える人もいる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・懐徳館(かいとくかん)、、、、、旧前田家の邸宅で、明治天皇の行幸に際し、和館と洋館が建設されたが、東京大空襲で焼失した。 現在の建物は、昭和26年(1951)に再建した和館である。、、、、、一般には非公開の建物、私は東大卒ではないので、知らずに入ってしまった。 ゴメン!
 
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・・・・・・・・・・・・史料編纂所・社会科学研究所・・・・・・総合図書館(昭和3年(1928)の建築、設計:内田祥三)の増築部として建てられた。 図書館の正面は北側で、現在改修中。 史料編纂所の出入口は西側に造られている。、、、、チョイと内部も拝見。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・史料編纂所の半地下に「明治新聞雑誌文庫」と標した入口がある。、、、、、明治期の日本で刊行された新聞雑誌最大のコレクションを有する、明治初期から戦前期にかけての新聞・雑誌、資料を中心とした資料収集、調査、整理を進めているそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・本日の散歩の目的地、正門前の黄葉。 正門から安田講堂に向かいイエローロードは、お見事!
 
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・・・・・・・・・・・・・農学部のある弥生キャンパスも黄葉の盛り。 落ち葉を踏みしめ校舎へ向かう学生、イチョウは滑るから要注意!
 
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・・・・・・・・・・・・・・黄葉の中、忠犬ハチ公とじゃれあい喜ぶ上野英三郎博士。、、、、ハチ公没後80年にあたる平成27年(2015)3月8日に、除幕式が行われた、農学部正門横の「上野英三郎博士とハチ公」像。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黄葉を堪能し、千駄木駅から帰る。

2016年10月19日 (水)

飯田橋~江戸川橋

飯田橋駅から、神田川の北側の町:文京区後楽・春日・小日向をぶらついて江戸川橋駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。
 
 
①飯田橋駅前・・・・・・・・・・飯田橋駅前の歩道橋から駅を眺め、振り返ると首都高の下を流れる神田川が見える。 今日の散歩は神田川の北側(写真では右側)の町を歩いてきた。
 
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②小石川諏訪神社・・・・・・・・・・文京区後楽2、裏道に入りさらに裏道に入る、素人さんには判りにくい処にある神社。 私はサラリーマン時代、この近くに勤務しており、神社のあることは知っていた。、、、、、小石川諏訪神社は、牛天神北野神社の別当を勤めていた梅本坊乗観が明徳元年(1390)に創建したといわれている。、、、、判りにくい奥にある神社だが、境内は結構広いものだ。
 
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③牛天神北野神社・・・・・・・・・・・・源頼朝が戦で、当地(春日1)にあった岩に腰掛け居眠りをした。そのとき夢で、牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」と告げられた。 その年の秋に長男頼家が誕生し、翌年(1184)には平家を西海に追はらうことができたことから、頼朝はこの岩を祀り牛天神を創建した。 以来、境内にある牛の形をした岩(拝殿前の石)を撫でると願いが叶うといわれてる。、、、、、小石川の高台にあり、参道の階段はチョイときついね。 上がりきったら、肺活量が小さくなった私は呼吸が苦しく、ゼイゼイ・ハアハア!
 
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④文京区立第三中学校・・・・・・・・・・・後楽園方面から伝通院へ向かう坂の途中に、メタセコイアの木が正門前に並ぶ区立第三中学校がある。 チョイと見には、学校と思えない趣のある学校だ、昭和22年(1967)に開校し、昭和24年(1969)に旧三井邸跡に校舎が建てられた、現在も三井邸の馬屋が校内に残っているそうだ。、、、校名の第三中の「三」は三井家の「三」にちなんだそうだ。、、、、正門前の坂は「安藤坂」といい、坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があった。
 
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⑤永井荷風生育地・・・・・・・・・・・『あめりか物語』、『墨東綺譚』、『断腸亭日乗』などを執筆した小説家:永井荷風(1879~1959)が生まれた旧居跡。 今はマンション、住宅の建つ、文京区春日2-20(旧金富町45)。 明治12年(1879)に荷風は内務衛生局の官僚である父:永井久一郎の長男としてこの地に生まれ、この地から現在のお茶の水女子大付属幼稚園、学芸大附属竹早小学校などに通った、子供の時からのエリートであった。、、、、、いつの頃からか、銀座のカフェー、浅草のストリップ劇場、玉ノ井の私娼街に通い、文化勲章を受章する大小説家となった。、、、、、、まことに羨ましく、まねてみたい一生!
 
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⑥丸ノ内線・・・・・・・・・・・昭和29年(1954)1月20日に開通した、丸ノ内線池袋~お茶の水間では、茗荷谷駅、後楽園駅の前後で地上を走る。 茗荷谷付近では、住宅地の中の切通しを走る姿を、春日2丁目の数か所の跨線橋から見ることができる。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、後楽園側のトンネルから顔をだす丸ノ内線。
 
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・・・・・・・・・・・・・・つぎは、跨線橋前後のアプローチが面白いポイント。、、、、まずは、住宅の間にある車は通れない細い道を奥に進むと、跨線橋に上がる坂に続く。 坂を上れば、丸ノ内線の頭上に出る。 その先、10m程平坦な道となり、ここから階段坂となる。 細い山道のような階段坂を上る。 上りきると、一車線程の細い道となる。 車は春日通り(国道)から遠回りして進入できるが、歩行者は直進して春日通りに出る、しかし最後に止めの小さな階段がある。、、、、、日々、各戸にまわる宅配業者・清掃業者にとっては、ここの集配は大変そうだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・次の跨線橋は国際仏教学大学院大の脇にある。、、、、、直線的に進んでくる電車が良く見える。 写真奥の跨線橋は、先ほど渡った車の通らない跨線橋。
 
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⑦国際仏教学大学院大学・・・・・・・・・・春日2丁目、丸ノ内線の脇に、平成8年(1996)に霊友会の国際仏教学研究所を基礎として設立された、日本で一番小さい大学。 定員は20名で、5年一貫制の博士課程のみである。、、、、、校舎は、槇総合計画事務所の設計、竹中工務店の施工で建てられた。、、、、モダンすぎて、仏教を研究する施設とは思えないね。
 
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・・・・・・・・・・・・・・この地は、徳川幕府最後の将軍:徳川慶喜(1837~1913)終焉の地である。 慶応2年(1866)第15代将軍に就任し、翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し、水戸・駿府に隠棲した。 明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901)この地に移り住んだ。 大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。 享年76歳。、、、、、構内には慶喜邸時代からの大銀杏が残っている。 
 
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⑧小日向神社・・・・・・・・・・文京区小日向1丁目と2丁目の境に、服部坂(はっとりさか)がある。 坂の名は、江戸時代、坂上に、徳川家康幕下の旗本、三河の出で、千葉県夷隅郡岩熊村の領主(300石):服部権太夫が住んでいたことから名付けられた。、、、、その跡地に、現在は小日向神社が鎮座する。、、、、小日向神社は、当社付近にあった氷川神社と八幡神社とが合祀して明治2年に小日向神社となった。
 
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⑨鷺坂・・・・・・・・・・江戸川橋の北東にある鷺坂(さぎさか)。 坂の上は住宅地で堀口大学(詩人・仏文学者)などが住んでいた。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって「鷺坂」という坂名がつけられた。 S字型に曲がり、勾配は急であるが、江戸の香がする情緒ある坂だ。
 
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⑩今宮神社・・・・・・・・・・・鷺坂を下り、小日向と音羽の境となる道を北に向かうと、音羽1丁目に今宮神社がある。 元禄10年(1697)に五代将軍徳川綱吉の生母:桂昌院の発願により、護国寺建立に際して京都紫野の今宮神社から分霊を勧請したことを創祀とする。 背後には崖上の住宅が迫り、覆いかぶさるように見える。、、、、、鳩山邸のある音羽の町の鎮守で、ひょっとすると、鳩山由紀夫、故鳩山邦夫の兄弟もこの神社で遊んだかも?
 
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●・・・・・・・・・・・江戸川橋駅から帰宅。
 

2016年9月 1日 (木)

お茶の水坂

今日は水道橋のクリニックにて、循環器系の定期検診の日。 約30項目の検査項目の結果は、中性脂肪が基準値よりチョイと高いだけ、先生からは『合格』の言葉をもらう。、、、、受付嬢には、笑顔で次回の予約をして、クリニックを後にする。 気分よく、お茶の水坂の周辺をうろつき、我が家(浅草橋)まで歩いて帰ることにした。、、、、9千歩、7kmの散歩。

 
 

①水道橋交差点・・・・・・・・南北の白山通りと東西の外堀通りの交差点。、、、、、私が卒業した中・高等学校は、ここ水道橋から都電に乗って白山通りを北へ行った指ガ谷町(現:文京区白山)にある。 また、50代の勤務地は後楽園の近く、今通うクリニックもこの近く、通学・通勤で50年以上見続けてきた交差点だが、50年前の面影はなく、自分の年を感じる交差点となってしまった。、、、、、写真、手前から中央奥に向かう道が外堀通りで、奥の坂が「お茶の水坂」である。

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②都立工芸高等学校・・・・・・・・・・・水道橋交差点に建つ都立高校。 明治40年(1907)、東京府立工芸学校として京橋区築地に開校した。 大正12年(1923)の今日、関東大震災のため校舎は全焼し、昭和2年(1927)本郷区元町の現在地に新校舎が落成した。 この時の校舎は、平成4年(1992)まで使用されていたが、平成9年(1997)に現在の地上9階/地下2階の新校舎が完成した。
 
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③昭和第一高等学校・・・・・・・・・・お茶の水坂に面し、都立工芸高等学校の隣に建つ昭和第一高等学校。 昭和4年(1929)の開校した男子校だが、平成17年(2005)から男女共学となる。、、、、私の中・高等学校は男子校で、近くの女子校の生徒が眩しく、美しく見えたものだ。 顔も見られず、声もかけられず、手紙は字が下手で書けず、内気で恥ずかしがり屋な学生だった。 今、想えば、時間を無駄にし、もったいないことをした。、、、、時計塔のある校舎は、昭和6年(1931)竣工、鉄筋コンクリート造4階建て、設計は木田保造(主に北海道函館で活躍し、多くの作品を残している)、施工は木田組。
 
・・・・・・・・・・・・・・・駿河台から遠望する
 
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・・・・・・・・・・・・・・・時計塔のある正面
 
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・・・・・・・・・・・・・・・玄関前はチョイと狭く、正面から撮れない!
 
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④元町公園
・・・・・・・・・・・お茶の水坂に面し、昭和第一高等学校の隣にある、関東大震災の復興公園。 昭和5年(1930)に開園し、その後改修されているが建設当時のデザインが随所に残され、いまも“昭和”の匂いが残る貴重な公園。 
 
・・・・・・・・・・・・・・坂に面した公園の正面入口のデザインは素晴らしい!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・正面階段上部にはアーチ状の壁泉もある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・水が階段状に落ちる“カスケード”と呼ぶ施設。 何年も前に、水は蒸発したようだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・太い円柱の“パーゴラ”。
 
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・・・・・・・・・・・・・・大谷石を貼りつけた公園の隅のモニュメント。 鷹をデザインしたようだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・広場を囲むコンクリート柵に造られた十字の穴。
 
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・・・・・・・・・・・・・・今は造らない、2方向へ向かうコンクリート製のすべり台。 
 
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⑤旧東京市元町尋常小学校(旧文京区立元町小学校)
・・・・・・・・・・・復興公園「元町公園」の隣りに復興小学校「元町尋常小学校」が残っている。 明治44年(1911)に創立し、震災後の昭和2年(1927)に現在地に移転し、鉄筋コンクリート造の校舎となった。 その後、少子化のため平成10年(1998)に閉校となる。 玄関から校章・校名が取り外され、現在は順天堂大学などに貸し出されている。、、、、、ちなみに、江戸時代(元禄)から続いた「元町」の地名は昭和40年に消え、現在は本郷1丁目である。
 
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⑥お茶の水坂・・・・・・・・・・・水道橋交差点から順天堂医院まで外堀通りを上る坂。
 
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・・・・・・・・・・・・・坂の途中に神田川に架かっていた「神田上水懸樋(掛樋)跡」の碑がある。、、、、、江戸時代、神田川に木製の樋(とい)を架け、神田上水を通し、神田、日本橋方面に給水していた。 明治34年(1901)まで、日本最大の都市水道として、大きな役割を果たした。 この樋は、掛桶(かけひ)と呼ばれていたそうだ。、、、、つまりは、神田川に架けられた、木製の水路である。
 
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⑦旧都教育庁お茶の水庁舎・・・・・・・・・お茶の水坂を上がり本郷給水所の近くに、都の施設「トウキョウワンダーサイト」がある。 この建物は、都の庁舎として長年利用されてきたが、現在は若い芸術家の発表施設となっている。、、、建物は年代不詳だが、私の推定では昭和初期だな。、、、、内部はギャラリーとして利用され、無料で誰でも観ることができる。
 
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2016年4月29日 (金)

雑司が谷

JR目白駅から、鬼子母神のある豊島区雑司が谷をじっくりとぶらつき、地下鉄護国寺駅まで、1万歩、7kmの散歩です。



①都電 鬼子母神前
・・・・・・・・・・・・都電荒川線が通る、鬼子母神前停留場と都電雑司が谷停留場間の都道は、只今、地下道路の建設工事中。 明治通りのバイパスルートとして、渋谷区広尾5丁目から北区滝野川2丁目に至る約14kmの都市計画道路の一部区間である。 この間は道路中央の専用軌道を都電が走り、その両側に1車線の車道と歩道が整備され、都電の軌道の真下に片側6.0m/2車線のトンネルが2本造られる。 この区間を含む、豊島区高田3丁目から南池袋2丁目までの約1.4kmは、事業費が370億円で2019年度までに完成する予定。、、、、、目白通りの千登世橋から見る都電、大鳥神社の鳥居越しに見る都電、都電の景色が変わりそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・地下鉄副都心線の雑司が谷駅前。 写真左の仮囲いの中を都電が走っている。

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・・・・・・・・・・・・・・鬼子母神前停留場、、、、、、仮の停留場でしばらくの辛抱!

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・・・・・・・・・・・・・・大鳥神社の鳥居前も工事中

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②鬼子母神
・・・・・・・・・・・・鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として信仰されている。 日蓮宗では、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められている。 女神であり、吉祥天の母である。、、、、、ここ雑司が谷の鬼子母神は、入谷の鬼子母神、千葉県市川の鬼子母神と並び、江戸三大鬼子母神の一つ。

・・・・・・・・・・・・・・鬼子母神前停留場から伸びる参道は、樹齢400年のケヤキも並ぶ石畳となっている。

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・・・・・・・・・・・・・ケヤキ並木が終わると、鬼子母神が祀られている本堂が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・鬼子母神堂の本堂、、、、、、、鬼子母神堂は、法明寺(南池袋3)の境外仏堂。 堂は、永禄4年(1561)に現:清土鬼子母神堂で発掘した鬼子母神像を、稲荷社のあった現在地に村民が天正6年(1576)に堂を建立した。 その後、寛文4年(1664)、松平安藝守光晟の寄進により本堂が建立された。 昭和51年(1976)から3年間をかけ、江戸時代の姿に戻す解体復元の大修理が行われた。

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・・・・・・・・・・・・・・境内の大イチョウは、応永年間(1394~1428)に植えられたもので、樹齢700年に達し、「子授けイチョウ」とも呼ばれているそうだ。 樹高:30m、幹周:8m。

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③大鳥神社
・・・・・・・・・・・・大鳥神社は、もともと鷺明神と称して、正徳2年(1712)鬼子母神境内に祀られた。 明治の神仏分離後に現在地(雑司が谷3)へ遷座した。 現社殿は昭和56年(1981)に造営されたものである。、、、、、この神社も、毎年11月の酉の市では商売繁盛を願う人で賑わい。 そして最後に笑うのは、多いに商売繁盛した神社である。

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④雑司ケ谷霊園
・・・・・・・・・・・・・明治5年(1872)、神葬墓地として開設。 明治7年(1874)に共葬墓地となった都営墓地。 約10万㎡の広い霊園で、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月、夏目漱石、東条英機、東郷青児など、多くの著名人が眠っている。、、、、、墓を守る人がいなくなり無縁墳墓として改葬される旨の立て札が立てられた墓も散見される。 立派な墓石の前に、改葬の立て札をみて、チョイと悲しくなるね!

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⑤雑司が谷旧宣教師館
・・・・・・・・・・旧宣教師館(雑司が谷1)は、明治40年(1907)にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自宅兼布教活動の拠点として建てたもの。 マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。 豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築で、明治期の宣教師館としても大変貴重なものである。、、、、、、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を残した、木造2階建ての質素な外国人住宅。、、、、、、今年3月にリニューアル工事も完了し、内外装とも美しくなった。

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⑥清土鬼子母神
・・・・・・・・・・・・雑司が谷1丁目と境を接する、文京区目白台2丁目に日蓮宗の清土鬼子母神堂がある。 清土鬼子母神堂は、雑司が谷の鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像が、永禄4年(1561)、柳下若狭守の下男山本丹右衛門によって掘り出された場所だといわれている。 清土は当地の旧地名(雑司ヶ谷村小名清土)で、清土鬼子母神と称されている。

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護国寺
・・・・・・・・・・・・護国寺前の護国寺駅から地下鉄に乗車。

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2016年2月24日 (水)

護国寺~新大塚

地下鉄有楽町線の護国寺駅から、1km程離れた丸ノ内線の新大塚駅まで、豊島岡墓地の裏通りを歩き回って、1万歩、8kmの散歩です。



①護国寺駅
・・・・・・・・・・池袋~銀座一丁目間が有楽町線として開通した昭和49年(1974)10月30日に同時に開業した駅である。 出入口は駅名のごとく、護国寺の山門前にあり、参拝には都合のよい位置にある。

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②護国寺
・・・・・・・・・・・真言宗豊山派大本山の神齢山悉地院護国寺は、5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681)に創建された。 本尊は桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観音菩薩像で、“絶対秘仏”となっているそうだ。 “秘仏”で拝顔できなければ、像が有るか、無いかもわからず、ひょっとしたら古物商に売ってしまったかも?(失礼!)、、、、、、現在の観音堂は元禄10年(1697)に建てられた、華麗で雄大な本堂である。、、、、、、、境内は広く茶室なども配され、墓地は著名人の墓も多く、見るべきものも多い寺である。

・・・・・・・・・・・・・・山門をくぐり、奥へ進むと階段の上に不老門が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・階段を上がりきると正面に堂々とした本堂を見ることができる。

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・・・・・・・・・・・・・・多宝塔鐘楼大師堂、惣門など、歴史ある古い建物も多い。

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・・・・・・・・・・・・・惣門の前に「音羽ゆりかご会」の案内があった。 懐かしい名だ!、、、、昭和8年(1933)ここ護国寺で発足した児童合唱団で、NHKの東京放送児童合唱団の母体でもある。、、、、、私にとっては、昭和20年代(まだ、幼児の頃)、ピーピー、ガーガー雑音を出すラジオを通し、「ゆりかごのうた」、「お猿のかごや」、「みかんの花咲く丘」、「里の秋」などなど、いろいろな童謡・歌を聞き、今でも心に残っている。 合唱団とともに、当時、川田三姉妹とよばれた川田正子、孝子、美智子や、松島とも子、小鳩くるみ、近藤圭子、渡辺典子など、多くの少女童謡歌手もいた。 さらに思い出すのは、歌のおばさん、松田トシ、安西愛子、、、、、みんな懐かしい人達だ! 不思議と、私が覚えているのは女性ばかり!

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③豊島岡墓地
・・・・・・・・・・・・護国寺の隣には、天皇・皇后を除く皇族専用の墓地である、豊島岡墓地(としまがおかぼち)がある。、、、、、この地は、元々は護国寺の所有地であったが、明治天皇の皇子が死産した際に、時の政府が皇室専用の墓地とした。 約8万平方メートルの広さの中に、63名(61基)の墓があるそうだ。、、、、一般庶民は立ち入り禁止なのか、門は閉ざされていた。

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④吹上稲荷神社
・・・・・・・・・・ひょっとしたら、豊島岡墓地の中を覗けるかとおもい、外周を歩いてみることにした。

・・・・・・・・・・・・・墓地に沿い細い道を歩く。 私好みの裏道で、嬉しくなるね!

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・・・・・・・・・・・・・・細い道を行くと鳥居が見えた。 豊島岡墓地に背を見せるように、吹上稲荷神社がある。、、、、、元和8年(1622)、德川秀忠が日光山より稲荷大神の御神体を戴き、江戸城中紅葉山吹上御殿に「東稲荷宮」と称し祀った。 その後、徳川家から水戸家の分家松平大学頭家へ、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として、現:小石川4丁目に遷座し、吹上稲荷神社と称した。 さらにその後も幾度かの遷座を経て、明治45年(1912)に、現在地(大塚5)に遷座した。

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・・・・・・・・・・・・・吹上稲荷神社の境内を抜けて、北の方角に30m程歩くと、住宅の脇に「東京市管理 大塚先儒墓所入口 徳川時代儒者之墓所」と標した門柱のようなものがある。、、、、、奥の門扉は閉じられて墓所を見ることはできなかったが、ここ(豊島岡墓地に隣接する一画)には、古賀精里、尾藤二洲ら寛政の三博士(寛政の三助)はじめ木下順庵、室鳩巣らの墓がある。(注:登場する儒学者の皆さんについては、私の知らない人たちだった。)

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⑤戦前の住宅2軒
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・・・・・・・・・・・・チョイとした坂を上り、豊島岡墓地のほぼ北側に来ると、墓地を囲むコンクリート塀が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・この付近(大塚5-36)で、横道に2軒の戦前の住宅が並んでいる。、、、、、戦前の大塚5丁目の空気が残っているようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・こちらのお宅は、現在でも住宅として利用されているようだ。

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・・・・・・・・・・・・・築80年のこちらは、レンタルスペース「国彩館」と称している。
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・・・・・・・・・・・・・大塚5丁目の裏道はここで終わる。(写真右側の塀の中が墓地)

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・・・・・・・・・・・・・墓地の北側は大塚6丁目。6丁目側の墓地の塀は新しくなり、まっすぐ西へ伸びている。、、、、あらためて、墓地の大きさにビックリ。

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⑥大塚の階段坂
・・・・・・・・・・・大塚6丁目の東側は坂の多い町のようだ。 私のように、よそ者には町の風情を演出する、細い裏通りの坂道・階段も、住んでる人には辛いかも? 

・・・・・・・・・・・・・まずは、この階段坂。 チョイと長いよ!

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・・・・・・・・・・・・・次は、こちらの大塚坂下町公園。 下から階段を上っていく公園。 出入り口は1ヵ所だけなので、老人には向かないね! 

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・・・・・・・・・・・・・こちらの路地は、途中に料亭風の住宅もある、石畳の路地。 ここを抜けると新大塚駅に出る。

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