荒川区

2017年8月 2日 (水)

浅草橋~北千住

今朝の天気予報では、『今日は曇り一時雨、気温は低く30℃以下、熱中症の心配なし』。 『ヨシ、今日は健康の為、タップリ歩いてくる!』と、我が家(浅草橋)をでて、北に向かい北千住駅まで、1万5千歩の散歩です。
 
 
 
①左衛門橋通り・・・・・・・・・・・台東区内を南北に通る左衛門橋通り(さえもんばしどおり、正式名:台第52号線)は、神田川に架かる左衛門橋 (台東区浅草橋1丁目)から、台東区入谷1丁目までである。 我が家から100m程で、左衛門橋通りの「浅草橋地区センター」バス停に出られる。、、、、、ここから、今日の散歩はスタート!
 
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・・・・・・・・・・・・・・バス停の前には、我が母校「旧台東区立柳北小学」と「柳北公園」がある。、、、、、校舎も、公園も、関東大震災の復興事業として、昭和初期に整備された。 吾輩が小学生の頃は夕飯の時刻まで、毎日のように遊んだ公園だが、今は遊ぶ子供も少なく、園内の遊具なども片隅に寄せられてしまった。
 
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・・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りを越え、台東区小島の町。  横に入ると、如意輪観音が祀られているが、由緒は?
 
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・・・・・・・・・・・・・・春日通りとの交差点では、夏休み中の登校日か? 学校に向かう子供たちがいた。、、、、、吾輩が小学生の頃は、この日は夏休みの宿題の途中経過を持っていく日で、何も出来ていない宿題帳を見せる、いや~な日だった。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・元浅草4丁目には、左衛門橋通りに面して、江戸時代初期(徳川家光の頃)に開山した、浄土宗の誓教寺 がある。 墓地には、フランスの印象派の画家に大きな影響を与えた、浮世絵師:葛飾北斎の墓がある。、、、、、チョイト、手を合わせて行く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・地下鉄銀座線が道路下を通り、仏壇屋が並ぶ浅草通りを横断し、左衛門橋通りは台東区松が谷に入る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・左衛門橋通り沿いに多くの寺院が並んでいる。 その内の一か寺。、、、、、日蓮宗の妙音寺は、安立院日雄聖人(元和5年寂)が開山し、慶長15年(1611)に馬喰町に創建した。 明暦の大火により、馬喰町から現在地へ移転した。、、、境内には弁財天も祀られている。、、、、“弁財天”と聞くと、オールヌードで琵琶を演じる姿が頭に浮かび、なにやら胸がドキドキしてしまう。 ここでは、残念だが姿を拝見できなかった!
 
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・・・・・・・・・・・・・・妙音寺の先(東上野6)には、親鸞聖人の門弟が建保2年(1214)下総国横曽根に創建し、慶長7年(1602)に江戸へ移転した坂東報恩寺がある。江戸では三回移転し、文化3年(1806)に現在地へ移転した。、、、、、本堂は鉄筋コンクリート造だが、チョイと古いかも?
 
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・・・・・・・・・・・・・・報恩寺から100m程北には、伊能忠敬の墓、幡随院長兵衛の墓、谷文晁の墓などがある、浄土宗増上寺の末寺:源空寺がある。 この寺も、明暦3年(1657)の大火に遭って類焼し、現在地に移転した。、、、、、本堂は最近、美しいフォルムの建物に替わった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・松が谷二丁目交差点で「かっぱ橋本通り 」を横切ると、秋葉神社 の鳥居が見える。 ここも、チョイと手を合わせて行くことにした。、、、、左衛門橋通りには寺社が多く軒を連ね、賽銭も底をつく。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・言問通りを越えると入谷に入り、入谷1丁目で左衛門橋通りも終わる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・入谷1丁目には、昭和4年(1929)に建てられた、明治33年(1900)創業の酒屋「水上酒本店」の建物がある。 木造3階建てのどっしりした建物である。
 
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②日光街道・・・・・・・・・・・・・左衛門橋通りは入谷で終わり、50m程西側に国道4号線(昭和通り、日光街道)が通っている。 我が脚は、引き続き日光街道に移り北上する。
 
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・・・・・・・・・・・・・・明治通りと交差する大関横丁交差点をとおり、常磐線のガードをくぐり、旧「王子電気軌道」本社ビルであった梅沢写真館の前を進む。、、、、チョイと雲行きが怪しくなってきたが、“雨降らば降れ 風吹かば吹け”の境地で先へ行く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・荒川区南千住1にある、曹洞宗寺院の円通寺 には、吾輩がこよなく愛する明治時代の几号水準点があるのだが、今日は素通りすることにした。、、、、戊辰戦争の際に傷ついた寛永寺の黒門、彰義隊の志士の墓もある。 
 
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・・・・・・・・・・・・・『中山式の腹巻』、『中山式の快癒器』と聞いてピンときた人は、かなりの年配だろう。 戦後、雑誌、新聞などで盛んにPRされた健康器具である。 幼き頃から病弱であった創業者の中山武欧氏の発明で、医療器具として大いに売れたそうだ。 もちろん、現在も製造されている。 その製造・販売元がこちらの会社「中山式産業(株)」(荒川区南千住6)だ。、、、、、屋上の看板のロゴが、昔と変わらぬ字体で懐かしいね!、、、、会社のhpより、発売当初の快癒器の写真を拝借しました。
 
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・・・・・・・・・・・・・日光街道に面する素盞雄神社では、境内に面白いものがあった。、、、、、氏子61ヶ町の手ぬぐいに風鈴を添えた旗を境内に飾り、涼を呼んでいた。 粋でいいね、気に入った!
 
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・・・・・・・・・・・・・・隅田川に架かる千住大橋 が見えた! この橋を渡れば足立区、北千住駅は近い。 でも、その前に京成本線の千住大橋駅がある。 駅は高架下にあり、日光街道に面して高架下に店舗があるはず(?) アレ・レ・無い! シャッターが降りてる?
 
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・・・・・・・・・・・・・北千住駅に近づくと、小粒の雨が落ちてきた。 駅まで急ぐ。、、、、、ほぼ濡れずに駅に到着。
 
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2017年5月27日 (土)

南千住~町屋

今日は南千住駅から歩き始めたが、三ノ輪橋停留場で都電を見たら、乗ってみたくなる。 乗ったら今度は歩きたくなり、町屋駅前から町屋の町をブラブラ。 尾竹橋際にてコミュニティバスに乗り帰宅のすることに! 1万1千歩。

 
 
①南千住から三ノ輪橋へ・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・毎度のことだが、今日も駅前で東西南北いずれに向かうか悩む。 とりあえず西に向かうことにした。、、、、ひょっとすると、一雨くるかも? いやな、空模様だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・・裏道に小さなかわいらしい千住基督教会があった。、、、、、大正3年(1914)にこの地に設立した教会。 戦時中は、建物も壊され教会は閉鎖していた。 昭和25年(1949)に再出発したそうだ。、、、、小さいがパイプオルガンを備えている。
 
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・・・・・・・・・・・・・おや、南千住一帯は来週(6/2・3・4)、千住大橋の近くに鎮座する素戔雄神社のお祭り「天王祭 」だ。 町中にはポスターが貼られている。 古い家には、除災・招福のお札が貼られている。、、、、、浅草橋駅裏の銀杏岡八幡神社 も来週お祭りだ、我が妻も町内の御神酒所の準備で忙しそう。 私はのんびり散歩をするだけ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・三ノ輪橋の日光街道に面する浄土宗の公春院は、寛文10年(1670)に創建した古寺である。、、、、、ここには、かつて、周囲約4m、高さ14m程の樹齢500年を超える「証拠の松」と言われた大木があった。 この松は、寺の境内にあり、寺の古さを示す証拠として名づけられたそうだ。 松は昭和9年(1934)に枯死したため伐採された。
 
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都電荒川線 ・・・・・・・・・・・専用軌道を走る荒川線の線路沿いには、バラの花が咲き誇っている。 
 
・・・・・・・・・・・・・・現在は梅澤写真館、、、、、、、昭和2年(1927)に完成した旧王子電気軌道の本社ビル。 関東大震災後の東京では、鉄筋コンクリート造、3階建てのモダンなビルだった。 正面1階をとおり抜けると奥に“三ノ輪”の停留場がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・三ノ輪橋停留場、、、、、沿線にはバラの手入れをする多くの人がいた、ありがとう!
 
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・・・・・・・・・・・・・・『あ~~乗りたいな!』と思ったら、乗ってしまった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・『二人が降りた! ヨシ、私も!』と、町屋駅前停留場で下車。
 
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③町屋2~6丁目・・・・・・・・・・・・・・都電荒川線町屋駅前停留場の北側一帯が町屋の町である。 その町の中央を南北にとおる尾竹橋がある。 今日は尾竹橋通りの西側をぶらついてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・町屋2丁目、町屋駅前の飲食街のチョイト奥にある原稲荷神社は、天正18年(1590)、徳川家康の江戸入府にともなって、三河国(愛知県)の百姓が町屋に移住してきたときに創建されたと言われている。、、、、、素戔雄神社の天王祭では、神輿が泊まる御旅所となっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・神社の北側の裏道に入る。 道は曲がりくねり、工場・住宅が密集する下町である。 昭和の木造アパートが多い。 中には朽ちた住宅もある。、、、、、曲がる裏道は、方向感覚を鈍らせ、『アレ? さっき歩いた道だ!』
 
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●・・・・・・・・・・・・ブラブラ歩き、隅田川に架か尾竹橋 るの南詰付近で、ちょうど荒川区のコミュニティバスが来た。 瞬間見えた「町屋駅前」の文字、『アツ、これに乗れば帰れる』。 躊躇せずに飛び乗って、帰宅する。

2017年5月16日 (火)

東尾久の通り

西日暮里駅から京成本線新三河島駅前をぬけて、都電荒川線東尾久三丁目停留場付近にでた。 ここから、「大門通り」と称する裏道を歩いて、尾久の原公園にぶつかる。 さらに「石門通り」を歩き日暮里舎人ライナー熊野前駅まで、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
西日暮里駅 ・・・・・・・・・・・昭和44年(1969)12月20日、地下鉄千代田線の西日暮里駅が開業し、2年後の昭和46年(1971)4月20日に乗換駅として国鉄の西日暮里駅が開業した。 現在は、近くに日暮里舎人ライナーの西日暮里駅も開業しており、朝は乗換客で混雑する。
 
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②新三河島駅・・・・・・・・・・・JR西日暮里駅の東側を京成本線が走る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・京成本線は常盤貨物線 を高架で越え新三河島駅へ向かう。 ちなみに、踏切は貨物線の「日暮里八丁目三号踏切」。、、、、こんな名前覚えても、何の役にも立たず、ただただ鉄道オタクであるのみ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・新三河島駅 、、、、、昭和6年(1931)に開業した京成本線の駅。 都内の京成本線の駅では最も乗降客の少ない駅。 スグ、忘れられる駅。
 
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③尾久の原防災通り・・・・・・・・・・・・荒川区東尾久1(明治通り冠新道入口交差点)から北へ東尾久6(都立尾久の原公園前)まで伸びる約1.36kmの道路。
 
・・・・・・・・・・・・・・手前の明治通りから北へのびる防災通り。
 
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・・・・・・・・・・・・・・防災通りをチョイト歩くと、スーパーの前に「消防道路」の碑が立っている。、、、、、、防災通りは、戦時中に空襲による延焼防止を目的に建物を強制疎開させ造られた疎開道路である。 その跡地を整備し昭和48年(1973)に地元では「消防道路」となった。 平成24年(2012)に荒川区は「尾久の原 防災通り」と命名したそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・防災通りが都電と交差する手前に、天台宗の寺院:満光寺(まんこうじ)がある。 創建は南北朝末か室町時代と伝えられている。、、、、、歴史ある寺院だが、建物は新しい。 現本堂は昭和44年(1969)に建て替えられた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・都電荒川線を横切り、東尾久3丁目に入る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・東尾久6丁目の草陰に地蔵尊が寂しげに祀られていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・町屋4丁目では、荒川区唯一の美術館:「ぬりえ美術館」の前を通る。 館長:金子マサさんは、「きいちのぬりえ」で有名な蔦谷喜一さんの姪である。 館長は、ぬりえを文化として保存するために、平成14年(2002)に美術館を開館した。、、、、、残念であるが、本日は休館日。 一度入館してみたいものだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・防災通りの北の端は、大門小学校のチョイト先で都立尾久の原公園で終わる。、、、、、公園は、かつて旭電化工業(現:ADEKA)尾久工場があったところ。 昭和52年(1977)に東京都が跡地を買収し、跡地の東半分が公園として整備され平成5年(1993)に開園した。 広々とした明るい公園である。
 
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④都電荒川線・・・・・・・・・・町屋二丁目停留場、東尾久三丁目停留場付近でパチリ! 
 
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⑤大門通り・・・・・・・・・・・・尾久三丁目停留場の北側に「大門通り」があった。 “大門”と聞くと、吉原の大門を思い出し、“大門”=“花街”の連想しかできない私は、早速この町の銭湯のおばあさんに聞いてみた。、、、、、おばあさんの話では、昔から大門町(=大門村)と呼ぶ地名であったそうで、花街とは縁がないらしい。、、、、、、南の端(尾久三丁目停留場)から、北の端(ぬりえ美術館から尾久の原公園前までは防災通りと重複)まで歩いてきた。総延長約416m。 
 
・・・・・・・・・・・・・・・写真順に、、、、、、停留場前、大門通りの南端。、、、、、大門湯、、、、、チョイト古い医院の看板、診療科目に「気管食道科」。(奥には、新しい立派な医院がある)、、、、、道中程に祀られている子育地蔵尊。、、、、曲がりくねり進むと、ぬりえ美術館の前に出る。
 
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⑥石門通り・・・・・・・・尾久の原公園の西側100m程行くと、「石門通り」の北端(東尾久6-34)で、ここから南へ道は伸び、東尾久6-39が南端となる。 全長345mの道で、かつては商店街であったが、今日訪れてみると、商店街はなくなっていた。 “石門”は、近くの下尾久石尊という石を祀る社があり、その参道であったことに由来するらしい。
 
・・・・・・・・・・・・・・・写真順に、、、、、、石門通りの北端。、、、、、撤去されていた、かつての商工会の門柱。(2013年撮影)、、、、、ここにも子育地蔵尊が祀られている、、、、、、地蔵の後ろは北豊島高等学校、、、、、、商店街は無くなり、店は閉じられている、、、、、車歩分離した道路のカラータイルが続く、、、、、、石門通りの南端
 
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⑦熊野前駅・・・・・・・・・・・・平成20年(2008)に開業した、日暮里舎人ライナーの熊野前駅。、、、、、今日の散歩はここまで!
 
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2017年4月13日 (木)

土手通り

今日は、散歩の帰りに浅草に寄って買い物をする予定で家を出た。 『何処へ行こうか?』、とりあえず、我が家(浅草橋)から浅草を経由する南千住行のバスに乗り、バスの中で考えることにした。 バスが浅草を過ぎ、山谷堀公園が見え、「土手通り」を歩いてみたくなる、決定である。 泪橋でバスを降り、三ノ輪から待乳山聖天まで「土手通り」を歩いてきた。
 
 
●土手通りとは・・・・・・・台東区東浅草1丁目(馬道通りとの接続点)から台東区日本堤2丁目(三ノ輪二丁目交差点)までの直線道路(約1km)である。、、、、、「日本堤(にほんづつみ)」という土手があったことにちなんで命名された。
 
●日本堤とは・・・・・・・・現在は台東区北部の町名の一つであるが、元々は隅田川の氾濫による洪水を防ぐ目的で、元和6年(1621)に、江戸幕府によって築かれた堤防である。 幕府は、待乳山を崩した土で、今戸橋(現:待乳山聖天近く)から箕輪浄閑寺(現:荒川区三ノ輪)まで堤防:日本堤を築いた。 堤防の北側には、石神井川から分かれた音無川の下流となる山谷堀が流れていた。 また、明暦の大火(1657)以降、堤防の南側には“あの吉原”が人形町から移転してきた。 以後、日本堤は「吉原土手」とも呼ばれ、また、土手上は見晴らしがよく長さも6町余りあり、「土手八丁」とも言われた。、、、、、現在の「土手通り」は、この日本堤の取り壊された跡である。
 
 
浄閑寺 ・・・・・・・・・・・・日本堤の北の端(荒川区南千住2)に位置する、吉原遊女の投げ込み寺。、、、、“駆け込み寺”なら救われるが、“投げ込み寺”は屍となり葬られるだけ。、、、、花又花酔の川柳に「生れては苦界 死しては浄閑寺」とある。
 
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②日本堤の北端・・・・・・・・・・・・・浄閑寺前の三叉路が日本堤の北端である。 また、王子で石神井川から分かれた音無川は日暮里を経て浄閑寺の西側に流れ、ここから山谷堀となって隅田川に注いでいた。(現在は暗渠となっている)
 
・・・・・・・・・・・・・浄閑寺前(左端の手前陰に浄閑寺がある)の三叉路。 写真中央の道路が土手の跡。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・土手の跡をイメージされる勾配。 駐車している車が傾いている。 写真中央の居酒屋の前面道路と裏側の道路には高低差がある。 
 
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③三ノ輪二丁目交差点・・・・・・・・・道路幅も広くなり、ここから公式には「土手通り」。 交差するのは明治通り。
 
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④日本堤・・・・・・・・・・・・バス停は「日本堤」 、バス停の北側一帯の町名は「日本堤」 、土手の「日本堤」は昭和2年(1927)に取り壊された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・日本堤の町は、かつては革製品の加工工場が多かった処。 また あのドヤ街として名をはせた「山谷 」の一部も含んだ町である。、、、、、日本堤の中心的商店街「いろは会も頑張っている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・“土手通り”と云えば、“土手の中江”と云われる、明治38年(1905)創業の桜鍋の店:「中江(なかえ)」をイメージ。 隣の「伊勢屋」は明治22年(1889)創業の天婦羅屋。 現在の建物は、それぞれ、大正末期から昭和初期に建てられたもの。、、、、、吉原へ出向く粋人は、桜鍋を食して元気倍増!、穴子で精力回復! 行きも帰りも良い良い。
 
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吉原 ・・・・・・・・・・・・行ったことのない人でも、行ってみたい“ご存じ吉原”。 その入口大門へ向かう、土手通りから入る参道(?)に“見返り柳”が立っている。 吉原から帰る客が、この柳のあたりで、後ろ髪を引かれる思いで遊郭を振り返ったといわれている。、、、、今の時代、遊郭はなくなり、あるのはソープランド。 遊び方も変わり、後ろ髪を引かれる人はいなくなったかも。
 
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・・・・・・・・・・・・・昭和21年GHQの命令で公娼制度は廃止され、吉原遊郭は“赤線”となった。 12年後の昭和33年2月28日売春防止法の施行により“赤線”も消えた。 、、、、その“赤線”当時の建物と思われる建物が数棟、「土手通り」裏に残っている。
 
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⑥旧待乳山小学校(現台東区立東浅草小学校)・・・・・・・・・・土手通りの吉原大門交差点近くに建つ旧待乳山(まつちやま)小学校は、明治6年の創立の小学校で、現在は近くの田中小学校と合併し東浅草小学校に変わっている。 ここの校舎は関東大震災後に建てられた復興小学校である。、、、、、東京市の設計、芝江初五郎の施工にて、昭和3年(1928)に竣工した鉄筋コンクリート3階建ての校舎である。、、、、山谷堀はこの校舎の近くを流れていたようだ。
 
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山谷堀公園 ・・・・・・・・・・旧待乳山小学校の近くから、山谷堀公園は始まり、待乳山聖天の裏まで続き、今戸橋跡で隅田公園にぶつかる。、、、、、あっち、こっちで散ったサクラを掃き寄せる光景が見られた。 この時期は、綺麗だが、大変だ!
 
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⑧土手通りはここまで・・・・・・・「土手通り」の公式の南端は台東区東浅草1丁目である。 写真手前から歩いてきた「土手通り」はここで終わり、右の「馬道通り」に続く。  直進すると山谷堀の最下流であった今戸橋に出る。
 
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2017年3月24日 (金)

三河島事故

昨夜、寝ながら読んだ本に「三河島事故」の話があり、事故現場には何も残されていないとの記述があった。 今朝、起きると気になり、チョイト事故現場に行ってみることにした。 常磐線南千住駅から、事故の跡を求めウロウロ。 結局、隣の三河島駅まで9千歩の散歩となった。
 
・・・・・・・・・・三河島事故、、、、、昭和37年(1962)5月3日(憲法記念日)の21時37分頃、田端発水戸行のD51牽引の貨物列車が三河島駅を過ぎたところにある、貨物線が本線に合流するポイントで、安全側線に衝突し脱線した。 そこに上野発取手行の下り電車が衝突。 さらに数分後、取手発上野行の上り電車が衝突した。 二重衝突である。 死者160人、重軽傷者383名を出した、日本の鉄道史上に残る大惨事となった。
 
 
①南千住から三河島方面を遠望・・・・・・・・・・事故後50年以上経過し、事故を語る人も少なく、町も変わっているが、現場には何か残っていないか? 行ってみよう!
 
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②盛土を走る常磐線・・・・・・・・・・三河島~南千住間は盛土で、線路際まで建物が迫っているところもある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・煉瓦造りの第3三の輪ガード
 
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・・・・・・・・・・・・・・この付近が事故現場と思われるところ。 線路際まで建物が迫っている、三河島事故の現場を標すものは何もない。、、、、、、線路は4本あり両外側の2本が貨物線、内側の2本が常盤線本線となっている。 貨物線は田端方面から三河島駅の先(南千住側)で本線に合流している。
 
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●・・・・・・・・・・・・事故の原因は、貨物列車の機関士の信号無視であった。、、、、その日は、早朝から地震の影響でダイヤが乱れていた。 定刻通り運行していた45両編成の貨物列車は貨物線から常磐線本線に合流するポイントに向かっていた。 そのころ、貨物列車より先にポイントを通過している予定の下り電車は、ダイヤの乱れで遅れていた。 下り電車を通すためポイントが切り替わっていなかったが、貨物列車の機関士は本線との合流地点手前の勾配上で停止すると再起動が難しいことから見切りで列車を進めてしまい、脱線を引き起こした。 そこに、遅れていた下り電車が突入しこちらも脱線した。 不幸なことに、約6分後、早いスピードで走ってきた上り電車が脱線した下り電車に激突し、大惨事となった。
 
 
③浄正寺・・・・・・・・・・・・三河島事故を記憶にとどめ慰霊する聖観音像が、三河島駅の北東(荒川3丁目)にある浄土宗の清国山快楽院浄正寺に建立され、現在も献花が絶えない。、、、、、昭和37年(1962)に発生した事故では、遺体収容所となったそうだ。
 
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●・・・・・・・・・・・事故の起きた昭和37年(1962)、私は16歳だった。 当時、新聞、TVのニュースで惨事が報道されていたことは記憶しているが、事の重大さ、悲惨さを痛感することはなかった。、、、、現場を見ず、報道の表面を読んだにすぎず、他人事として受け止めていたのかも。、、、、碑の側面に刻まれた詩:「三河島事故に捧ぐ   安らかに眠れとは 如何に悲しき言の葉か つま待つ家の帰り路を 知るよしもなき此の惨事 あゝ たれぞ知る此の惨事」、、、、、未だに身元が判明しない犠牲者が一人いるそうだ。
 
 
④三河島駅・・・・・・・・・・・島式ホーム1面2線の高架駅であるが、本線の両外側に一本づつ線路がある。 これが貨物線である。 
 
・・・・・・・・・・・・・事故現場からは、尾竹橋通りを挟み向かい側に駅がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・本線の外側(写真右側)にもう一本線路がある、これが貨物線。 貨物線は勾配がついている。 三河島駅の先(南千住側)で本線に合流する。 その合流点が事故現場。
 
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●・・・・・・・・・・・事故後、再発防止策として、自動列車停止装置(ATS)の設置を急ぎ、昭和41年(1966)までに国鉄前線に設置された。
 
●・・・・・・・・・・・「三河島」の地名は太田道灌の時代からある歴史ある地名だが、この事故が原因か(?)、昭和43年(1968)の住居表示にて消えた!、、、、現在は、駅名(JR、京成)として残るのみ。 これ、また、悲し!

2017年2月 6日 (月)

白鬚橋

今日も浅草橋から、南千住行の都バスに乗って「清川二丁目」で下車し、白鬚橋を渡り、京成曳舟駅まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
①清川二丁目・・・・・・・・・台東区の北東に位置する“清川地区”。 その清川の北半分が、商業地であり住宅地でもある、清川2丁目である。 また、ドヤ街:“山谷”の一画でもある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・バス停の前には、チョイと古そうな建物(戦前の建築?)がある。 現在は、1階がカラオケで、2階が理容室。、、、、、1階は改装し、2階は塗り替えられたが、2階外部のデザイン形状は変化していない。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・二丁目南側のアサヒ会通りに面した木造モルタル塗りの7軒長屋。 、、、、台東区周辺には、このような木造の長屋が随所に残っている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・大通りからチョイと横に入ると寶珠稲荷神社がある。、、、、、寶珠稲荷神社の創建年代は不詳だが、天正17年(1598)には浅草寺門前町の浅草町の鎮守として祀られていたそうだ。 万治元年(1658)浅草町が御用地となり、町と共に亀戸に移転、天和二年(1682)に当地へ再度移転した、神社の出戻りである。、、、、、現在は町中の小さな一画に鎮座するお稲荷さん。
 
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.・・・・・・・・・・・・・・清川2丁目の町の中央にどっしりと腰を下ろす玉姫稲荷神社 。 神社の周囲には簡易宿泊所が並び、労務者、ホームレスの姿も散見される。、、、、、神社の隣の公園では、10人程のホームレスが集めた空き缶を換金していた。 チョイと慣れないと会話もし難い雰囲気だ。
 
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②橋場不動尊・・・・・・・・・・清川2丁目の東隣は台東区橋場2丁目、ここに、天平宝字4年(760)の創建の橋場不動尊がある。 当初は法相(ほっそう)宗の寺で、長寛元年(1163)に天台宗に改め、鎌倉時代以降は浅草寺末寺となり、現在は比叡山延暦寺の末寺だ。、、、、、明治末年の大火、関東大震災、そして昭和20年の東京大空襲、いずれも不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に崇められている。、、、、、、江戸時代の建築様式を残す小さな堂は簡素な佇まいで、下町の庶民の寺である。
 
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白鬚橋 ・・・・・・・・・・・隅田川の最上流から数えて19番目の橋。 橋上は明治通りを通し、西岸(右岸)の荒川区南千住および台東区橋場と、東岸(左岸)の墨田区堤通を結ぶ関東大震災の復興橋。、、、、もともとは、「橋場の渡し」と「白鬚の渡し」という渡船場があった場所である。 大正3年(1914)に初めて橋が架けられたが、有料の木橋であった。 震災後は、東京府が買い取り復興事業として現在の橋が架けられた。、、、、、下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋という形式で、橋長は168.8m、幅員は22.1m。 昭和3年(1928)7月に着工し、昭和6年(1931)8月に竣工した。 増田淳(ますだじゅん、1883~1947)の設計、大林組の施工、川崎造船所の橋桁制作である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・上流(水神大橋側)を望む。、、、、写真右側が墨田区堤通、左側が荒川区南千住。
 
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・・・・・・・・・・・・・・下流側(桜橋側)を望む。、、、、写真右側は台東区橋場、左側は墨田区。
 
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④白鬚橋病院・・・・・・・・・白鬚橋を渡ると、忘れることのできない病院である。、、、、、あれは、4年前の厄日の事だった。 鐘ヶ淵駅前で転び、こちらに救急搬送された、その節はお世話になりました。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・【雑談】 私は生まれてこれまで、6回半救急車にお世話になった。 搬送された病院はどこも一流処で、某警察病院、東京の国立大学附属病院(2件)、東京の私立病院(3件)。 いずれも、異なる病気で脱臼・貧血・大動脈瘤などなど。 そして、大阪では救急車が駆けつけてくれたが、世話にならず回復。 どこの病院でも親切に診ていただき、おかげさまで、今はいたって元気。、、、、、救急隊・救急病院に感謝です。
 
 
 
●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この後、京成曳舟駅から帰宅。

2017年2月 4日 (土)

水神大橋

浅草橋の我が家から、都バスで飛ばして15分、南千住の手前に泪橋(なみだばし)停留所がある。 今日の散歩はここから、隅田川最上流から数えて18番目の橋:「水神大橋」を渡り、東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅前をとおり、京成押上線の八広駅まで、1万2千歩です。
 
 
 
①泪橋・・・・・・・・・・・台東区と荒川区の区境である「明治通り」と、言問橋と千住大橋を結ぶ「吉野通り」が交差する処が「泪橋交差点」である。、、、、、、泪橋は、荒川区南千住にある小塚原刑場跡 近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋。 現在では、思川が暗渠化されたため橋の面影はなく、名前だけが交差点、バス停に残されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・泪橋の由来は、、、、、江戸時代、小塚原刑場では磔・火焙り・獄門が行われ、牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。 小塚原は山谷地区の北側にあり、刑場との間には思川が流れ、橋がかかっていた。 刑場にはこの橋を渡って行った。 橋は、罪人にとってはこの世との別れの場であり、家族や身内には、処刑される者との今生の悲しい別れの場となった。 互いに、この橋の上で泪を流し別れたことから、「泪橋」と呼ばれた。、、、、、橋も川もなくなり、せめて石碑ぐらい建てて名を残して欲しいね。
 
・・・・・・・・・・・・・・・泪橋を中心とした台東区・荒川区にまたがる「山谷地区」は、江戸時代は日光街道の宿場であった。 戦後は、安い木賃宿が簡易宿泊所となり、“ドヤ街”を形成した。 現在も泪橋の周辺には、多くの簡易宿泊所がある。 一部では、利用客が労務者から外人観光客に変わり、玄関前に「welcome」の看板を出している。
 
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②咲いた、咲いた、サクラが咲いた・・・・・・・・・今日は立春、南千住では春が来た!
 
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③瑞光橋公園・・・・・・・・・・・・・JR貨物の隅田川駅の東端近く、隅田川沿いに入江を利用した公園がある。 面積は約13,000㎡、平成18年(2006)6月8日に開園した。
 
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・・・・・・・・・・・・・入江の奥には、「汐入水門」の跡が残されている。、、、、、水門跡の案内番には次のように説明されていた。 「汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、昭和28年に誕生した。隅田川貨物駅は明治30年に石炭の集散地として開設された駅である。 鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのための運河が造られた。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。水門は、この水害を防ぐために建造されたのである。しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道 ・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和45年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。」
 
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・・・・・・・・・・・・・・昭和30年頃の汐入水門
 
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・・・・・・・・・・・・・入江の入り口には、公園内の橋として瑞光橋が架けられている。
 
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④水神大橋・・・・・・・・・・・・・水神大橋は、隅田川に架かり、荒川区南千住と墨田区堤通を結ぶ。 ここには、もともと「水神の渡し」という渡船場があった。、、、、、 3径間連続ニールセンローゼ桁橋、橋長は157.0m、昭和59年(1984)に着工し、平成元年(1989年)3月に竣工した。、、、、、、あいにく、只今、塗装の塗り替え工事中で足場で覆われ全容は見えない。 イスラム女性のブルカだと思って、隠された顔を想像するのも一興か?
 
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・・・・・・・・・・・・・・ブルカをチョイとめくって、3年前の水神大橋。
 
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・・・・・・・・・・・・・橋上から、上流側(千住汐入大橋側)を眺める。
 
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・・・・・・・・・・・・股下(橋下)から、下流側(白鬚橋側)を眺める。
 
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⑤円徳寺・・・・・・・・・・・水神大橋を過ぎ、鐘ヶ淵駅方向に直進すると墨田5丁目に、曹洞宗の醍醐山円徳寺がある。 朱塗りの山門が目立ち、赤門寺とも呼ばれているそうだ。、、、、、慶長18年(1613)に文京区駒込にある吉祥寺の和尚の開山。 本尊は薬師如来。、、、、、、境内には大きな、寛文12年の庚申塔が祀られている。
 
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⑥墨田聖書教会・・・・・・・・・・・・鐘ヶ淵駅から八広駅に向かう途中、墨田3丁目の裏通りに建つ教会。、、、、、、戦後、アメリカ人宣教師と地元の人たちとの協力により昭和29年(1954)に創立した日本オープンバイブル教団(プロテスタント)の教会。 かまぼこ形兵舎を再生し、使い続けられている、都会にあっては珍しいモダン建築である。
 
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2017年2月 3日 (金)

千住汐入大橋

南千住駅から、隅田川の上流から17番目の千住汐入大橋を渡り、旧綾瀬川の合流部を見て、東武伊勢崎線堀切駅まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
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①胡録神社・・・・・・・・・・南千住駅の北東、JR貨物の隅田川駅の先は、高層マンションばかりが建ち並ぶ汐入地区(南千住8丁目)。 その中央付近に、今から450年以上前の永禄4年(1561)8月の創立の胡録神社がある。、、、、、汐入地区の再開発は、昭和44年(1969)、東京都が荒川区東部:「汐入地区」の大規模再開発基本構想を発表した時点から始まる。 木造家屋が一軒も残ることなく、高層化されたのは平成22年(2010)の汐入東小学校が完成した時点である。

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・・・・・・・・・・・・・歴史ある神社だが、平成15年(2003)に汐入地区の再開発計画に従い、境内地を前方に遷座した。、、、、、鳥居も、玉垣も、新しくなり新築のようだ!

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・・・・・・・・・・・・・上杉謙信の家臣:高田嘉左衛門なる者は、川中島合戦に敗れ、十余名の同志とともに当地に厄難を逃れ、永住の地と定めた。 村落生活の安寧を祈願するため、両足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)の両祭神を享保4年(1719)に奉斎した。、、、、、歴史ある神社だが、平成15年に汐入地区の再開発計画に従い、境内地を前方に遷座した。、、、、、本殿は嘉永5年(1852)に造営され、拝殿は昭和2年(1927)に竣工された。

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・・・・・・・・・・・・・今日は節分、境内では豆まきの準備中。 境内のウメも、明日の立春前に咲き始めた。

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②千住汐入大橋・・・・・・・・・・・南岸(右岸)の荒川区南千住8丁目(汐入地区)と北岸(左岸)の足立区千住曙町を結ぶ橋。 隅田川に架かる橋の中では新しく、平成18年(2006))2月19日に開通した。 都が災害時の防災拠点として整備している白鬚西地区(墨田区)の主要連絡路であり、足立区、荒川区、葛飾区を相互に繋ぐ重要拠点として架橋された。、、、、橋長158.6mの2径間連続鋼床鈑箱桁橋。、、、、、橋のあったこの地には、かつて「汐入の渡し」があったそうだ。
 
・・・・・・・・・・・・・・上流側から見る千住汐入大橋。 左側は足立区千住曙町。
 
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・・・・・・・・・・・・・・下流側から見る。 対岸は荒川区南千住。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・スマートな印象の橋。 幅員は20.0m。
 
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・・・・・・・・・・・・・・橋上から見る上流。 写真左側は荒川区南千住(汐入地区)。 右側は足立区千住地区。
 
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③旧綾瀬川・・・・・・・・・・・・綾瀬川は 埼玉県桶川市に端を発し、伊奈町、さいたま市、越谷、草加を経て都内葛飾区西小岩で中川に合流した後、東京湾に注ぐ、総延長47.6kmの一級河川。 昭和5年(1930)の荒川放水路完成にともない、綾瀬川は墨田区・足立区と葛飾区に分断された。 葛飾区側は荒川放水路(現:荒川)に沿って区の西側を流れ下り、西小岩で中川と合流する。 墨田区・足立区側は荒川の隅田水門から分流し、墨田区堤通2・墨田5と足立区千住曙町の区境として、隅田川に注いでいる450mの部分である。 この450mを旧綾瀬川と呼んでいる。、、、、、今日は隅田川との合流点から、荒川の隅田水門に向かって歩いてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・・次の写真を撮影している荒川区南千住とは、隅田川を挟み対岸の旧綾瀬川合流地点。、、、、、、写真中央が合流地点で、旧綾瀬川の頭上を首都高6号向島線が走る。 また首都高の桁下に綾瀬橋のアーチが見える。、、、、、対岸の右側は墨田区、左側は足立区である。 つまり、ここは3区の境。
 
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・・・・・・・・・・・・・・おまけの話、、、、、合流点の足立区側に見える、「伊澤造船」という造船所は、明治10年(1877)に創業した古い歴史をもつ会社である。、、、、隅田川には、多くの造船所があったそうだが、現存する造船所はここ一か所だけである。
 
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・・・・・・・・・・・・・・綾瀬橋、、、、、、 旧綾瀬川が隅田川に合流する墨田区墨堤2丁目と足立区千住曙町を結ぶ。 昭和33年(1958)7月に竣工した、橋長61.5m、幅20.5m、墨堤通りを通す橋。、、、、、荒川にチョン切られ、本家の綾瀬川からは外れ、隅田川沿いに置き忘れられたかわいそうな“綾瀬橋”。 さらに、暗い人生を歩むがごとく、首都高が覆いかぶさり、存在感も薄くなり、心痛める“綾瀬川”。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線堀切駅前の人道橋から見る旧綾瀬川。 右側の車道が、水面より低く見えるのは私だけか?、、、、、カミソリ堤防が崩壊したら“東京水没”である。 恐ろしいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・隅田水門、、、、、、荒川と隅田川を結ぶ旧綾瀬川の始点にある水門。 この水門は、増水時に荒川の水が隅田川に流入するのを防ぐ目的で造られた。 現水門は昭和43年(1968)に竣工した。、、、、普段、水門は開いており、船が荒川と隅田川を行き来している。、、、、、水門の脇を通るのは東武伊勢崎線の、堀切~鐘ヶ淵間である。
 
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④荒川土手から・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・隅田水門の脇抜け、荒川を越え、対岸の綾瀬川沿いに北上する首都高(向島線と中央環状線が合流する)。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・・荒川の上流には堀切橋が見える。
 
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2017年1月29日 (日)

鉄道の隅田川橋梁

隅田川の橋、上流から数え14・15・16番目は、千住大橋の下流に束になって架かる、JR常磐線・つくばエクスプレス・地下鉄日比谷線の各隅田川橋梁である。
南千住駅からあるきはじめ、千住大橋で隅田川を越えて、東武伊勢崎線の牛田駅まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
①鉄道の隅田川橋梁群・・・・・・・・・JR常磐線つくばエクスプレス地下鉄日比谷線の各隅田川橋梁が、右岸:荒川区南千住と左岸:足立区千住関屋町をとおり、並行し架橋されている。、、、、、両岸ともカミソリ堤防と、堤防ギリギリに建てられたマンション・工場で河岸に出ることが難しい。 写真撮影は困難を極め、不法侵入罪を覚悟し、チョイと内緒でパチリ・パチリ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・南千住駅から、JR貨物の隅田川駅 の脇を抜け、 南千住8丁目の高層集合住宅に向かう。、、、、、“勝手知ったる他人の家”で、なんの躊躇もなく、断りもなく、スタコラ・サッサとお邪魔し、防犯カメラに私の姿を残してきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・高層ビルからの写真、、、、、地下鉄日比谷線の車両基地と、その後ろ(写真中央)に隅田川橋梁群が見える。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・日比谷線南千住駅から引き込み線が出ている、検査と清掃を行う千住検車区(車両基地)は昭和36年(1961)3月28日に発足した。、、、、、この敷地、もともとは国鉄の隅田川貨物駅の一部であった。 当時、常磐線で運ばれてきた石炭を、隅田川に面するこの場所から、船積みし東京の各地に運んだそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・3橋梁の揃い踏み。、、、、マンションの間からパチリ!、、、、、左から、常磐線隅田川橋梁(左:上流側)、つくばエキスプレス隅田川橋梁(中央)、日比谷線隅田川橋梁(右:下流側)。、、、、、上流の2橋梁は、JR東日本が発注した橋梁で、鋼下路曲弦ワーレントラス橋、橋長128.4mで、同じデザインで設計されている。 常磐線の橋梁は平成14年(2002)竣工、つくばエキスプレスの橋梁は平成15年(2003)竣工。 日比谷線の橋梁は、下路式ワーレントラス橋で、橋長は約131m、昭和37年(1962)竣工。
 
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・・・・・・・・・・・・・・右岸の橋梁下を上流側から順に撮影。
 
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・・・・・・・・・・・・・・上流の千住大橋(新橋)から見る隅田川橋梁群。
 
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・・・・・・・・・・・・・・下流側から見ると、、、、、どちらから見ても、3橋のトラスが重なり見ずらいね!
 
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②日枝神社・・・・・・・・・・荒川区南千住7丁目に、歯神:山王清兵衛を祀った祠がある。 江戸時代は山王社と呼ばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和5年(1316)に創建されたそうだ。、、、、いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。 俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。、、、、、今は、境内の周囲に策がめぐらされ、中に近寄ることはできない。
 
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③岡田商事引込線跡・・・・・・・・・・荒川区から千住大橋を渡り足立区に入り、墨堤通りを京成本線沿いに京成関屋駅の方に向かうと、千住関屋町で京成本線の下にレールの跡が残されているのを見ることができる。 レールの先は墨堤通りを横断し、東武伊勢崎線に向いている。 間違いなく、伊勢崎線から分岐していた跡だ!、、、、、鉄道省の時代、東武鉄道は自由に北千住駅を使うことができなかったため、大正13年(1924)、鉄道省管理の北千住駅から外れた現在の千住東に「中千住駅」を開業した。 昭和19年(1944)、さらに中千住駅から隅田川まで貨物線を伸ばし、市街の住民のウンコ(糞尿)を積んだオアイ船から、列車にウンコを積み替え、埼玉方面の農家に肥料を運んだ。、、、、現在は、岡田商事という鉄骨解体業者の敷地で、残っているレールはこの時の貨物線の跡である。
 
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2017年1月27日 (金)

京成本線隅田川橋梁~千住大橋

隅田川上流から10番目の橋は京成本線隅田川橋梁、11番目は東京電力送電橋、12番目は千住水管橋、13番目は千住大橋。 今日の散歩は、10番目から13番目までの4橋を歩いてきた。 地下鉄千代田線町屋駅から京成本線千住大橋駅まで、1万2千歩。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・下の航空写真は平成4年(1992)撮影。 上水千住水管橋が写っている。
 
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①上水千住水管橋跡・・・・・・・・・・上流の尾竹橋と、下流の京成本線隅田川橋梁の間に、今は無き「上水千住水管橋」があった。 都水道局の上水管が隅田川を越えていたが、老朽化と耐震性問題により平成25年(2013)5月に撤去された。、、、、水管橋のあった位置には、かつて「一本松の渡し」があり、千住と町屋を結ぶ生活路でもあったそうだ。、、、、カミソリ堤防が行く手を阻み河岸には出られない、行き止まりの道の正面に水管橋はあったが、その痕跡は何も残っていない。、、、、、残っていれば、最上流から10番目の橋梁だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・上水千住水管橋跡と京成本線隅田川橋梁の間で、写真の行き止まりの道路下に地下鉄千代田線が走っている。 道路の先は隅田川のカミソリ堤防。
 
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②京成本線隅田川橋梁・・・・・・・・・・・・三河島水再生センターの北側で隅田川を渡る京成本線。 この付近の隅田川はカミソリ堤防で河岸が遮られ、隅田川橋梁に近づくことが難しく撮影には苦労した。、、、、、京成本線の上野~青砥間の開業は昭和6年(1931)なので、隅田川橋梁もこの頃の架橋と思われる。 橋長約125mの下路トラス橋。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・撮影の邪魔するカモメに、カラスに、ハトポッポ。 堤防は糞で汚れ、糞を踏んだ私は、糞害に憤慨した。 フ~~ン!
 
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・・・・・・・・・・・・・・右岸(荒川区南千住)から、薄曇りの下流を望む。
 
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③東京電力送電橋・・・・・・・・・・荒川区南千住と足立区千住橋戸町に架かる、東京電力の送電用の専用橋。 細めのアーチリブが華奢に見える鋼タイドアーチ桁橋で、長さ約104m。 昭和38年(1963)の竣工か(?)
 
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④千住水管橋・・・・・・・・・・・千住大橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋がある。 この工業用水は隅田川左岸の墨田区、江東区、江戸川区の地盤沈下対策を目的に供給しているもの。、、、、、千住大橋のスグ脇に架けられているため、震災復興橋としての名橋である千住大橋の姿を見るのに邪魔な存在である。 どかして欲しいね!
 
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⑤千住大橋・・・・・・・・・・・・関東大震災復興橋のひとつ。 親柱や電灯が復元されている。 下流側に昭和48年(1973)竣工の新橋がくっついている。
 
・・・・・・・・・・・・・・・旧橋は、昭和2年(1927)12月12日に竣工した鋼タイドアーチ橋。 現在は日光街道の下り線専用となっている。 設計は白鬚橋も手掛けた増田淳(1883~1947、橋梁技術者)である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・新橋は、南千住交差点から始まる橋長502.5mの3径間連続鋼箱桁橋で、昭和48年(1973)2月に開通した。 車は上り専用である。 旧橋と隣り合わせで架かるが、旧橋より高い位置に架かる。
 
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