2024年12月11日 (水)

餓死者を葬った四寺

久しぶりに閻魔さまの顔を見たくなり北千住に行ってきた。 北千住駅からスタートし、北千住1・2丁目界隈を歩き、東武伊勢崎線の牛田駅まで、9千歩の散歩です。


北千住駅はJR常磐線、東京メトロ日比谷線・千代田線、東武鉄道伊勢崎線、首都圏新都市鉄道つくばエキスプレス4社5路線が乗り入れており、1日あたりの乗降客数は約160万人と言われてる大ターミナル駅である。 この首都圏有数のターミナル:北千住駅であるが、ここから“新宿”、“池袋”の大ターミナルへ向かう路線は一本もない! これは何とも不思議なことだ?、、、、明治29年(1896)12月25日に日本鉄道線(現在の常磐線)の駅が開業。 明治32年(1899)8月27日には東武鉄道の駅が開業。 明治39年(1906)、日本鉄道の駅が国有化される。 昭和37年(1962)5月31日に帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)日比谷線の駅が開業。 昭和44年(1969)12月20日 、千代田線の駅が開業。 平成17年(2005)8月24日、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅が開業。 ついでに、現:駅ビルの「ルミネ北千住」が開業したのは、昭和60年(1985)である。 開業当時は「北千住ウイズ」という名であった。
2412110823140
2412110818530
2412110810210



● 北千住駅から歩いて5・6分程の所に、真言宗豊山派の氷川山地蔵院金蔵寺がある。 金蔵寺は、建武2年(1335)の創建と伝えられている。  、、、、本尊は、かつては地蔵菩薩であったが、現在は閻魔大王と言われてる。 私は、今までに数回この寺には来たが、いつも本堂は閉められ、本尊の姿を拝したことがない。 ネットで調べてみても本尊の写真は載ってない。 ぜひ一目拝んでみたい閻魔さま!
2412110829280


・・・・・・・・・・ 金蔵寺では本尊の閻魔さま以上に有名なのが、山門を入ってすぐ左手に2基の供養塔が並んでいる。 向かって左側の南無阿弥陀仏を刻んだものが「千住遊女供養塔」。 この供養塔は、千住宿の多くの飯盛旅籠に勤めそこで亡くなった遊女が、当時「投げ込み寺」であったこの寺に葬られた。 その薄幸な遊女生涯を哀れみ供養するため建てられた。、、、、右側に無縁塔と彫られた供養塔は「天保餓死者供養塔」。 こちらは、有名な天保の大飢饉(1833~1837)で亡くなった者を供養するため建てられた。 塔は当時の名主:永野長右衛門が天保11年(1840)に建立したものでその碑文によれば、天保8年の年当地では828名の犠牲者が出た。 その犠牲者を近隣の寺に葬ったとされている。 勝専寺に321人、慈眼寺に61人、不動院に76人、そしてこの金蔵寺に370人を葬ったそうだ。(そこで今日の散歩は、この4寺を巡ることにした!) 

2412110832220



● 金蔵寺から西へ約250m歩くと、赤く塗られた山門の三宮神山大鷲院勝専寺(浄土宗)がある。 勝専寺は文応元年(1260)の創建。 勝専寺を開いた新井政勝の父・新井政次が荒川(現:隅田川)に網を投じたところ、千手観音像が網にかかったのが寺の由緒だという。 この千手観音は寺の寺宝となっており、地名「千住」の由来といわれている。、、、、勝専寺の本堂は明治39年(1906)に建てられたコンクリート造で化粧レンガで覆われています。
2412110850420
2412110853580


・・・・・・・・・・ 勝専寺の本尊は阿弥陀如来であるが、この寺にも閻魔さまが居る。 ここの閻魔さまは、閻魔堂に一人住い。 像は寛政元年(1789)の木像。
2412110855430
2412110855240



● 勝専寺から南に300m程歩くと、慈眼寺(じげんじ)と不動院が隣り合わせにある。 新義真言宗の慈眼寺は、千龍山妙智院と号す。 慈眼寺は、行覚上人が関東巡錫の時の正和3年(1314)に創建した。 当寺の本尊であった観音菩薩像は東京大空襲で焼失してしまった。 また、諸堂も戦災で被災し、残っていたのは現在の山門だけだそうだ。
2412110915010
2412110917040



● 新義真言宗の不動院は、白幡山薬師寺と号す。 不動院は、元弘2年(1332)秀天上人が開山となり創建した。 創建の翌年には鎌倉が陥落し南北朝の戦乱が始まると言うまさにその時期です。 本来は慈眼寺の護摩堂であったが独立して一寺となったといわれてる。 本尊は不動明王。
2412110910440
2412110913060


・・・・・・・・・・ 境内には、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建てた遊女の無縁塔がある。 遊女も、飢餓者も、南無阿弥陀仏。
2412110911580



● 四寺を巡った後は、「北千住大踏切」を渡り牛田駅に向かう。、、、、「北千住大踏切」は、北千住駅の南側にある、JRと東武鉄道が走る踏切をいう。 4社5線が乗り入れる北千住駅であるが、東京メトロ千代田線と日比谷線、つくばエクスプレス線の3線は、高架または地下で立体交差しており、踏切を通ることはない。 JRと東武鉄道は地平を走り、両路線は運行本数も多いため、ここの踏切は「開かずの踏切」となっている。、、、、地元の足立区ではこの大踏切の除却を議論しているが、ここを通る鉄道に加え周辺道路も交通量が多く難しそうだ。 2018年末には、鉄道の高架化・地下化それぞれの立体交差化にかかる事業費を、前者は1000億円、後者は3000億円と試算している。 
2412110927090
2412110930460


・・・・・・・・・・ 大踏切は、JR常磐線の「北千住一丁目踏切」(注:北千住一丁目という地名は無い)と東武伊勢崎線の「22番踏切」の2本が並んでいる。 両踏切は非常に近接しているので、両社とも係員を配置している。 しかし、踏切横断の危険は常にあり油断できない!
2412110928080
2412110931580
2412110931380


2412110932590
2412110935360
2412110933420



● 大踏切から牛田駅まで歩き、ここから帰る!
2412110953060
2412110958040

2024年12月 6日 (金)

変わる京成立石駅

去る11月30日、京成押上線の連続立体化工事に伴う、四ツ木~青砥間の下り線切り替えが行われた。 それにより京成立石駅では、これまでの下りホームが閉鎖され、新たに仮下り線ホームが利用されるようになった。 今日の散歩は、立石駅の様子を見たのち亀有まで歩く、1万1千歩の歩きです。



京成押上線の「京成立石駅」は大正元年(1912)11月3日に開業した。 先月までは相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有していた。 駅名は、“京成立石”が正式な駅名で、旅客向け案内では“京成”を省略して「立石」としている 。、、、、午前8時前、通勤時間にはチョイト早い、下り電車から降りる人はまだ少ない。、、、、私は初めて降りた、仮の下りホーム。 幅が狭くて、危ないな!
2412060740130

・・・・・・・・・・ 
京成押上線高架化事業は、四ツ木~青砥間(約2.2㎞)を連続立体高架化し、11か所の踏切をなくし、あわせて側道を整備するもの。 京成立石駅では、下り線の切り替えが行われ。 11月30日の始発から、これまで上下線を合わせ、相対式ホーム2面2線の構造であったホームから、これまでの下り線ホームに背を合わせるように仮の下り線ホームを設置し、ホームの切り替えが行われた。
2412060801400
2412060801280

・・・・・・・・・・ 仮下りホームの前は、仮囲いで囲まれた広大な駅前北口再開発の用地がド~~ンと広がり、立石の風景が一変した!、、、、ここには2棟の高層ビルが建ち、葛飾区役所も入る予定だ! 駅前にあった「呑んべ横丁は跡形もなくなくなった。
2412060741149_stitch
2412060755450

・・・・・・・・・・ 現在、立石駅は上下線それぞれ改札(出入口)が別になっており、上下線の行き来はできない。、、、、以前使用していた橋上駅舎も閉鎖され、取壊しが進められている。
2412060751570
2412060808210
2412060809541

・・・・・・・・・・ 踏切で足止めをくらい遮断機が上がると、上りの改札口へ一斉に向かう通勤通学客。
2412060744450

・・・・・・・・・・ 駅前北口再開発は、敷地面積 約2.1haで、42階建ての住宅棟、20階建ての公益サービス棟を建設する構想で、現在既存建物の解体が仮囲いの中で進められている。
2412060752500
2412060757200



● 立石から亀有までは、概ねバス通りをひたすら歩く。

・・・・・・・・・・ 立石駅前のバス通りからスタート
2412060814100

・・・・・・・・・・ 京成本線の青砥~お花茶屋間の高架下を抜ける
2412060831410
2412060831580

・・・・・・・・・・ 国道6号(水戸街道)を横断
2412060847050

・・・・・・・・・・ 天台宗寺院の延命寺に立ち寄り手を合わせる。 延命寺は、三圍山真珠院と号す。 近江国三井寺の大僧都源慶(~1352)が三囲神社の別当寺として創建、寺社地が御用地となったため元禄6年(1693)小梅村へ移転した。 明治維新後の神仏分離令により、三囲神社と分離、関東大震災に罹災し、昭和2年(1927)当地へ移、、、、当山の山号「三圍山」は墨田区本所三圍神社に由来する。
2412060857410

・・・・・・・・・・ UR都市機構の「すまいる亀有」前を通過
2412060911320

・・・・・・・・・・ 亀有駅前の「亀有 上宿商店会」を抜ける
2412060936580


● 人気マンガのキャラクターが迎えてくれる亀有駅、、、、鉄道開業の当初は隣接する新宿地区に「新宿駅」(にいじゅくえき)を設ける予定だった。 しかし、亀有~新宿間にある中川にかかっていた有料橋を利用する客が激減するとの理由で同地区の者が亀有地区への設置を主張し、その一方で亀有地区の地主が土地を寄贈したため、この地に駅が置かれることになったそうだ。 駅の開業は明治30年(1897)5月17日。 明治39年(1906)に、日本鉄道が国有化され、国有鉄道の駅となる。
2412060940320
2412060942390
2412060943170
2412060948461

2024年12月 3日 (火)

大久保から中野

我が家(浅草橋駅)からJR中央・総武線で乗り換えなしの23分、JR大久保駅で下車、今日の散歩の始まり。 いつものように裏通りを歩き、途中で宝仙寺(中野)によって、JR中野駅まで1万1千歩の散歩です。



● 中央・総武線の大久保駅は、明治28年(1895)5月5日に甲武鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には甲武鉄道の国有化により国鉄の駅となる。 大久保駅は昭和6年(1931)に高架化工事があ完成する。 現在は、島式ホーム1面2線の高架駅で、出入口は北口と南口の2ヶ所。、、、、ホーム上屋は古いレールと木組みでできてる、歴史を感じるね!
2412030737130
2412030738440
2412030741390

・・・・・・・・・・ 南口(新宿寄り)は大久保駅の裏口である。 裏通りの高架下に口を開けたスタイルの出入口がある。 また、自動改札機は何やら怪しげな古レールに囲まれている。 古レールが高架の天井を支えているようだ?
2412030742520
2412030743400

・・・・・・・・・・ 北口は大久保通りに面する高架下にある。 大久保駅の表玄関、チャント売店もある。 山手線の新大久保駅までは約300mだ!
2412030748370
2412030749010
2412030753040


● 大久保駅から大久保通りを西(中野方面)に歩き、神田川の手前で裏通りに入る。
2412030802340
2412030814020


● 「柏橋」は新宿区と中野区の区界(神田川)に架かる橋。 
新宿側の現町名は「北新宿」という味気ない名前になってしまっているが、以前は「柏木」であった。 「柏木」という旧地名は「柏木小中学校」などに残っているが、JR中央・総武線東中野駅も昔は「柏木駅」という名前であった。 中野区側の町名は「東中野」、これまた、味気ない名前だ!
2412030816510
2412030816200

・・・・・・・・・・ 柏橋から神田川の上流側を眺めると、先の橋(末広橋)の手前に開口部が見える。 この開口部は、杉並区、中野区を流れる桃園川(ももぞのがわ、別名:中野川)が神田川に合流する出口である。 桃園川は全区間暗渠化され、流れを見ることはできない。
2412030818520


● 柏橋を渡り、道なりに歩くと正面に小さな社の「第六天神社
」がある。、、、、この神社、元々は中野区内有数の旧家が奉納した屋敷神で江戸時代には耕作地の片隅に奉られていた。 しかし後に小作人たちの多くがここに参詣するようになった為、明治の初めに共同祭祀とされ社格も与えられた。 境内の石碑には、『御由緒 悠久の昔江戸蔵前の第六天神宮(榊神社)御分霊を奉斎 古来より第一 の別宮として尊祀せられて居ります』と彫られてる。
2412030822450
2412030824380


● 第六天神社から西へ300m程歩くと、「氷川神社」がある。 今年3月に訪れた神社だ!
 、、、、今日は、年末ジャンボの当選を祈願してきた。、、、、境内のイチョウの黄葉は御見事!
2412030830580
2412030833360
2412030832350


● 氷川神社からは、暗渠化された桃園川の上に造られた桃園川緑道を歩き、宝仙寺に向かう。
2412030847510


● 中野区中央2丁目にある「宝仙寺(ほうせんじ)」は、真言宗豊山派の寺院。 山号は明王山。 千年近くの歴史を誇る古刹で、境内も広い寺院。、、、、広い境内には、戦前、中野町役場が置かれていた。、、、、後三年の役(1083~)の時、護持していた不動明王像を安置するために寛治年間(1087~1094)に源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれた。 本尊は鎌倉時代には秘仏になった。室町時代になり、現在の位置に移転した。 江戸時代には、優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受け発展した。 また、当寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加することもあった。、、、、堂宇は戦災を被ったものの、戦後再建され、三重塔や本堂を見ることができる。、、、、寺の周囲には付属の宝仙学園が運営する、こども教育宝仙大学、宝仙学園中学校・高等学校、宝仙学園小学校、宝仙学園幼稚園の校舎が取り囲んでいる。 寺より大きな敷地面積を有しているかも? 賽銭・お布施より入学金・授業料かな?
2412030858150
2412030912420
2412030900520


● 宝仙寺の墓地の向かいに小さな公園がある。 そこには、「山政醤油醸造所のレンガ塀」の一部が残されてる。 塀の建造は、明治32年(1899)と推定されている。 中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれました。 石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られている。 当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていたらしい。 また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業であったそうだ。
2412030916260


● 宝仙寺から裏道を、右に・左に・折れ・曲がり、「
中野区立紅葉山公園」に着いた。、、、、その名の如く、紅葉見物。 ついでに、園内に保存されている「C11蒸気機関車」もパチリ!
2412030936000
2412030936040
2412030937550


中野駅南口に到着。、、、、これまでの南口は北口と比べると大きな施設もなく、商店街・飲食街とも規模も小さく、元気がなかった。 しかし、ここ数年の間に、駅前の公団住宅が壊され巨大な中野駅前ビルが建てられ、駅前ロータリーの再整備が行われた。 活気が出てきた!
2412030948010
2412030948080
2412030947520

«有楽町から浅草橋