2025年1月18日 (土)

“和樂備”?

このところ、寒さに負けて出不精となっていた、『今日は寒くても歩くぞ!』と気合を入れて散歩することにした。 散歩は、京浜東北線の蕨駅からスタートすることにした。



● 京浜東北線の蕨駅(わらびえき)は、明治26年(1893)7月16日に日本鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には、鉄道国有法により国有化された。 開業130年以上経た“老舗の駅”だ! 現在の駅は島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。 改札は橋上の1ヶ所だけだが、出入口は東西にそれぞれ1ヶ所ずつある。、、、、令和5年(2023)度のJR東日本エリア内の1日平均の乗車人員では、私が住む浅草橋駅は90位の48,054人であるが、蕨駅はなんと78位で53,921人、完敗である。(チョイト悔しいね!)、、、、【蛇足】駅名(市名も同じ)の『蕨』を“わらび”と読める人は多いが、漢字を書ける人は少ないと思うね! 私もその一人である。 ついでの話で、蕨市は全国で最も面積の小さな市、全国で最も人口密度の高い市である。
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・・・・・・・・・・ さて、相変わらず散歩の行先を具体的に決めていない私は、改札を出て東口に出るか?西口に出るか?悩んでしまう。 駅コンコースから町を眺め、以前東口に出て歩いたこと
思いだした。 そして『今日は西口から歩くことにする!』、、、、西口の階段脇には「蕨駅 開設記念碑」がある。
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● 蕨駅西口正面の「駅前通り」を歩くが、人通りも少なく、店もオープン前、キョロキョロする楽しみも無い。 チョイト裏道を歩く。
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・・・・・・・・・・ 「和樂備神社」の前に出た。 “和樂備”? 何て読むのだ! “わがくび”かな? “我が首”とは? チョイト悩んだが、神社の案内を呼んで納得!、、、、和樂備神社の社名は、全国的な神社合祀令により蕨町内に元々あった八幡社と18の鎮守社を明治44年(1911)に合祀して減らした際に、各集落の合意を得るため町長の草案を基に万葉仮名を用いた「和樂備(わらび)神社」と名付けられたそうだ。 境内に末社や石碑、歌碑、力石などが多くあり、合祀によって集約した名残と思われる。、、、、大正2年(1913)から本殿の覆屋を新築、引き続き社務所を建設。 さらに、昭和25年(1950)からは神楽殿の新築、昭和39年(1964)に幣殿・拝殿の改築、昭和49年(1974)に社務所の改築と続く。 また、平成8年(1996)には不審火により社殿全焼し、翌9年には再建を果す。 よって、和樂備神社の建造物は比較的新しい建物である。 また、境内は広く、大きな池などもある。 おそらく蕨市民にとっては、お宮参り七五三、初詣などで参拝した人も多いことと思われる。
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● 和樂備神社に参拝した後は、裏通りを抜けて再び「駅前通り」に出た。 駅前通りと旧中山道が交差する、蕨市中央5丁目の交差点の歩道部分に、「中山道 六十九次 蕨宿」(“蕨”の部分欠落)と標されている。 中山道は日本橋から京三条大橋まで、蕨宿は最初の宿場である「板橋」の次、二番目の宿場であった。 現在は何となく旧街道らしい雰囲気の街並みが残っているが、その当時の建物などは残っていないらしい。
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・・・・・・・・・・ “蕨宿”の標示の脇に「蕨町道路元標」が残っている。 この道路元標は、「蕨町」のときに造られたもの。 明治22年(1889)に蕨宿・塚越村が合併し、蕨町として発足した。 その後、一度も市町村合併を経験せず、昭和34年(1959)4月1日市制施行する。
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● 国道17号(=中山道)を越えると戸田市となる。 戸田市に入るとJR埼京線の戸田駅がある。、、、、戸田駅は、昭和60年(1985)9月30日に、国鉄の駅として開業する。 昭和62年(1987)JR東日本の駅になる。 島式ホーム1面2線の高架駅。 1日平均乗車人員は約2万人。
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・・・・・・・・・・ 埼京線の隣りを、新幹線が疾走する
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● 今日の散歩はここまで、戸田駅から帰る。 9千歩の散歩

2025年1月13日 (月)

大井の大佛

今日は成人の日で祝日、浅草橋駅から都営浅草線西馬込行きに乗る。 学生はいない、サラリーマンの姿も見えず、朝8時の電車は空いている。 ガラガラの浅草線は久しぶりだ! 『さてさて、何処で降りようか?』 特に行先のあてもなく終点の一つ手前馬込駅で下車する。 駅前で地図を見て、JR大井町まで歩くことにした。 9千歩の散歩です。
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● 「馬込(まごめ)駅」は、昭和43年(1968)11月15日、浅草線(当時は都営1号線)西馬込~泉岳寺間開業時に設けられた駅。この区間の開業によって、浅草線は全通した。 ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。 改札口は地下1階に2か所あり、その内の1ヶ所の出入口は環七通りと第二京浜が交差する日本初の立体交差点「松原橋交差点」の下にある。(今日は、別の出入口を利用した)、、、、駅は第二京浜(=国道1号)の地下にあり、国道の交通量は多いと思うが、駅前には大きな店舗はなく、比較的静かな落ち着いた駅である。
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・・・・・・・・・・ 駅前の第二京浜
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● 南北に伸びる第二京浜を挟んで、東側は東馬込の町、西側は北馬込の町。 JR大井町駅を目指す私は、東馬込の町を抜け、品川区西大井の町を北東方向に歩き、大井町駅に向かうことにした。 馬込駅から東馬込の町に入ると、起伏の多いことに気が付いた。 到る所に階段・坂道があり、登ったり下ったり、年寄りにはキツイ町である。
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● 大田区東馬込から隣の品川区西大井の町に入ると天台宗寺院の「帰命山養玉院如来寺」がる。 この寺は、かつて上野(台東区)にあった養玉院と芝高輪(港区)にあった如来寺の2寺が大正12年(1923)に合併して成立し、前身二寺の名称から「帰命山養玉院如来寺」と号した。、、、、如来寺は寛永年間(1624~1644)に芝高輪に創立されら寺で、五智如来が安置されているところから、俗に高輪の大佛と呼ばれ、明治41年(1908)に現在地に移転した。 大壇越に大和高取藩主植村侯があり、歴代の墓域がある。、、、、養玉院は寛永12年(1635)に創立され、上野寛永寺の塔頭三明院がその前身である。 元禄11年(1698)に下谷坂本に移って養玉院と改め、この頃対馬の領主宗家の菩提寺となる。 大正12年(1923)如来寺と合併して、現在の場所に移った。、、、、私は、この寺に5年程前にも訪れてる。 久しぶりです!

・・・・・・・・・・ 平成元年(1989)に落慶した山門、、、、山門をから本堂まではチョイトした上り坂
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寛永5年(1628)頃建立された養玉院の本堂。 大正12年(1923)下谷坂本から移築したものである。 現在の本堂
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・・・・・・・・・・ 本堂の隣りに、
五智如来堂の瑞應殿(ずいおうでん)がある。 瑞應殿には五智如来像(大日如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来)が安置されている。 五智如来とは密教の主尊である大日如来の有する5種の智恵を象徴したものである。 5体とも像高:約3mで、「大井の大佛(おおいのおおぼとけ)」として親しまれている。 ただし、薬師如来像以外は享保10年(1725)と延享2年(1745)の火災で焼失、その後再興された。
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・・・・・・・・・・墓地には
対馬厳原の藩主宗対馬守を弔う宗家墓所がある。、、、、宗氏(そうし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。
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・・・・・・・・・・ また植村家墓所もある、、、、植村家保は天保8年(1837)、近江膳所藩主・本多康禎の七男として生まれる。 嘉永6年(1853)に高取藩の第12代藩主・植村家興が急死したため、その末期養子となって家督を継ぎ、第13代藩主となる。
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● 如来寺から300m程北東に歩くと、新幹線高架橋の下に金子跨線橋
(品川区西大井4)がある。 ごく普通のコンクリート橋で、これといった特徴もない。 建設年は不明であるが、昭和39年(1964)以前の東海道新幹線建設時に架けられたものと思われる。 新幹線は高架の上で、その高架下に跨線橋が架かり、跨線橋の下には堀割の底を横須賀線の電車が通るという三層構造になっている。

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● 裏道を歩き北東に向かうと、カメラのニコン本社のある「光学通り」に出た。、、、、ニコン本社の建物は、「本社/イノベーションセンター」と、既存の自社施設を改修した「イーストサイト」「ウエストサイト」の合計3棟から成る。 約400億円を投じて竣工した本社/イノベーションセンターには、本社勤務社員の7割超を占める約3000人がここで働く。 建物は鉄骨造6階建て。 全長約150mの東西に長い形状をしており、延べ面積は約4万2000m2。 設計は三菱地所設計、施工は安藤ハザマ。、、、、スマートな感じの建物だ!
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● ニコン本社ビルの向かい側、歩道の中に「元禄八年銘道標」がある。 脇の案内板には以下のように書かれてる。 『本道標は、元禄8年(1695)に品川用水に石橋を架けた大井村の寂証ら58名の念仏講中が、石橋の安寧と通行者の安全を願って建立。 正面に「南無阿弥陀仏」、側面には「従是(これより)池上本門寺道」「従是奥澤九品佛道」という行先を刻んでいる。 この道は東海道と中原街道を結ぶ道の途中にあり、池上本門寺と九品仏方面に至る分岐点に建てられたもの。 (以下略)』、、、、建てられてから300年以上経過し、彫られた文字も読みにくくなったようだ!
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● 光学通りを歩いて、JR大井町駅に到着。、、、、駅周辺には振袖の娘が目立つ『そうだ! 今日は成人の日』 大井町駅前の区民会館で祝の集いがあるようだ。、、、、私の成人式は60年程昔のこと、何をどこでやったかスッカリ忘れた!
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・・・・・・・・・・ 大井町駅から電車で帰宅
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2025年1月 8日 (水)

江戸三座の猿若町

年末から私の足が、度々つる(こむら返り)ので、泌尿器科でもらった頻尿の治療薬が原因かと思い、早速、泌尿器科へ行ってきた。 医者の話では、そのような副作用は考えにくいらしいが、とりあえず服用を止めることにした。 これにてこむら返りは“一件落着”となれば良いのだが?
ところで、私が通う泌尿器科は、浅草の「浅草寺」裏(馬道交差点)にあり、江戸時代の猿若町(さるわかちょう)付近にある。 現在の住居表示では台東区浅草6丁目である。、、、、診療後にチョイト猿若町をブラブラし、浅草寺を裏から抜けて、帰宅した。 8千歩



● 旧猿若町の街角に台東区で設置した「旧町名由来案内 下町しるべ 旧浅草猿若町」によると、次のように記されている。 『この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保十二年(1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋町・木挽町(いずれも現・中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保十三年から翌四年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座(=守田座)が世にいう「猿若三座(江戸三座)」である。  町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。
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・・・・・・・・・・ “天保の改革”を推進した、老中:水野越前守忠邦は、①幕府内部の質素倹約、②庶民生活の統制、⓷農民の都市流入抑制、④経済安定を目標とて政治を行った。 その一つ庶民生活の統制を目指し、奢侈取締・風俗粛正策の一環として、江戸中の芝居小屋をここ一ヵ所に集めるために新しくつくられた町が、猿若町である。、、、、水野越前守は当初、芝居小屋を廃止するつもりであったらしい。 その時の北町奉行:遠山左衛門尉景元(あの、桜吹雪の金さん)の献言により一ヵ所に集めて、取り締まりを強化する方針に変更されたと言われてる。

・・・・・・・・・・ 各芝居小屋は、天保十三年から十四年(1842~1843)にかけて、現在の中央区人形町、銀座東から、台東区浅草へ相次いで移転した。 将軍様の御膝下から、外濠の先にある浅草の田圃に移転させられた。 もう少し北へ歩くと「べらぼう」の蔦屋重三郎の舞台である吉原がある。

・・・・・・・・・・ “猿若町”の名は、江戸歌舞伎芝居の始まりといわれる猿若勘三郎(現歌舞伎の名門:中村勘三郎の先祖)の名前から、つけられたと言われてる。猿若勘三郎は、「猿若」という名の歌舞伎狂言を創作した。

・・・・・・・・・・ 明治十年頃までに芝居小屋は各地に移転し、町の賑わいは終わり。 その後は、震災、戦災をへて、浅草の履物や革製品の問屋街に変わって行った。 中村座は明治17年に現:台東区鳥越へ、市村座は明治25年に現:台東区台東1丁目の凸版印刷本社がある処に移転した。 守田座は明治5年に中央区新富町に移転し新富座と改称。 三座とも、その後火災、震災により廃座となる。


・・・・・・・・・・ 旧猿若町の中央を南北に伸びる道を歩くと、西側に中村座(写真2番目の雪洞型)、市村座(3番目の石碑)、守田座(=河原崎座、4番目の石碑)の跡がある。
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・・・・・・・・・・ 震災、戦災で復興した現在の猿若町には、芝居小屋を当時をイメージできるものは残っていない。



● 猿若町から被官稲荷神社・浅草神社・浅草寺に参り帰宅する。
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