2024年10月 6日 (日)

武蔵一宮 女体神社

武蔵一宮である氷川女体神社と氷川神社を巡り、1万1千歩の散歩。



● 今朝、食事前に地図を見てると、JR東浦和駅の北3㎞程に“氷川女体神社”がある。 20年程前、JR川崎駅前(神奈川県)の“女体神社”に参ったことがある。 この時は、“女体”と称してもそれらしき謂れや関連する物も無く、極々普通の神社であった。 東浦和の“女体神社”も同様に普通の神社と変わりはないと思ったが、“女体”の文字の前に“武蔵一宮”と冠し、「武蔵一宮 氷川女体神社」と称してる。 起きがけの寝ぼけた状態で、助平爺の要らぬ妄想が始まり、ひょっとしたら、“御神体は女体かも?”、“拝殿前には撫で牛ならぬ、撫で女体があるかも?”、“御守りは女体を模したフィギュアかも?”  『ヨシ早速、武蔵一宮の氷川女体神社へ行ってみよう!』・・・・・と言うことで、早めの昼食後、一雨降りそうな曇り空の下、武蔵一宮氷川女体神社へ“Let's go!”

・・・・・・・・・・ JR東浦和駅前からバスに乗り、神社に近い朝日坂上バス停で下車。 歩いて数分、神社に向かう。 住宅地の坂を下ると「見沼代用水西線」と称する小川が流れ、そこに朱塗りの橋が架かり、正面に高台の境内に向かう階段と鳥居が見える。
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● やってきました「武蔵一宮 氷川女体神社」へ。、、、、氷川女体神社の由緒は、社伝によると、第10代崇神天皇の時代に勧請をしたと伝えられている。 氷川女体神社の“女体”は、祭神である稲田姫命(いなだひめのみこと、女神)に由来し、日本書紀のなかでは、稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫とされている。 また、一説には、当社である氷川女体神社(女体社)と、大宮区高鼻町にある大宮氷川神社(祭神:須佐之男命・男体社)、見沼区中川にある中山神社(祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて、“武蔵一宮”と称したと伝えられている。 この三社は、地図上では氷川女体神社から北西へ、中山神社、大宮氷川神社へ向かい、一直線上に並んでいる。 また中山神社はその中間に位置する。 氷川女体神社の拝殿には、武蔵国一宮の扁額が掲げられてる。 中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されたそうだ。、、、、現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立した。 本殿は三間社流れ造りで全面に朱の漆が塗られ、拝殿と相の間で結ばれており、形式的には権現造りに近い建造物です。
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・・・・・・・・・・ 祭神は古の女神、生身の女神ではない! 撫で牛ならぬ撫で女体もなし! 御守りはフィギュアではなく普通の御札! せめて社務所の巫女さんは若い女性を期待したが、登場したのは60歳ほどの古の女性。 妄想の全ては幻想であった! 、、、、罰当たりな妄想は封印し『神さまゴメンナサイ!』 賽銭箱に100円硬貨数枚を投げ入れ、神聖な気持ちで二礼二拍手一礼する。




● 女体神社から、曼殊沙華の咲く見沼代用水西線沿いにしばらく歩き、“芝原”と言う所からバスに乗る。 乗ったバスは浦和駅行き。 ここまで来たら、ついでに大宮氷川神社に寄って行こう!
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● 大宮駅から氷川神社の長い参道を歩き「武蔵一宮 氷川神社」に参る。、、、、氷川神社の祭神は男体である須佐之男命(すさのおのみこと)。 ここ大宮の氷川神社は関東一円(約280社)に広がり信仰される各地の“氷川神社”の中心的となる総本社である。 また、歴史も古く、地名“大宮”は氷川神社を指すものである。、、、、氷川神社は、孝昭天皇3年(紀元前473)に創建、日本武尊が東征の際には当社に祈願したと伝えられている。成務天皇(130~190)の代に出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり当社を奉崇し、出雲国斐伊川の名より氷川神社と称するようになったそうだ。、、、、現在の社殿の多くは紀元2600年(=昭和15年(1940))を記念して造替されたものである。 国の文化財と称する古い建物はないと思われる。
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・・・・・・・・・・ 氷川神社に参った後は、参道沿いの“氷川だんご”にお立ち寄り!、、、、今日の散歩は、女体が団子に変わった!

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2024年9月30日 (月)

新田橋

北区王子と足立区新田を結び、隅田川に架かる新田橋(しんでんばし)は、幹線道路の橋ではなく、2車線の狭いバス通りに架かる地元の人のみぞ知る橋である。 古い木橋のようなデザインの橋で、私の好きな橋の一つでもある。 この橋が架け替えられると聞いて、チョイト見に行ってきた。 京浜東北線の王子駅から歩きはじめ、新田橋を渡り、新田一丁目のバス停まで、1万2千歩の散歩です。



● 今日は昼の時間帯にJR京浜東北線の王子駅で下車する。 王子駅から、旧大蔵省印刷局今は国立印刷局の前の都道を北東に向かって歩く。 溝田橋交差点で明治通りを横断する。
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● 溝田橋交差点を過ぎ、石神井川の縁「あすか緑地」際に、庚申塔の小堂が立っている。 中に彫りの深い文字で「庚申塔」が見える。 残念だが、この右側面に造立年が刻まれていたようだが、欠損のため造立年は不明である。
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・・・・・・・・・・ 新田橋に向かうため、豊島二丁目バス停の先で裏通りに入ると、丁重に祀られた庚申塔がある(北区豊島2-5)。 堂には、今年「令和六年」の庚申日が表示され、庚申信仰が続いているようだ。、、、、堂の中には、左から造立不明の馬頭観音塔、昭和5年(1930)の青面金剛庚申塔、寛文4年(1669)の板碑型庚申塔が納められている。
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● 北区豊島1丁目から、地元の住民しか知らない愛称がついた一方通行の「王子郵便局通り」を歩き、郵便局の横を通り過ぎると「紀州通り」と呼ばれるバス通りに出た。
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● 王子郵便局通りから紀州通りに出る角、スーパーの一画に「白龍神社」なる新しい小さな社がある。、、、、白龍神社は、白羊鉛筆の創業者小林直喜の父が、滋賀県から北海道へ移る際に、屋敷神として祀っていたものを持参して祀り続けてきた社で、昭和25年(1950)白羊鉛筆を設立すると、会社の敷地中央に祀ったとそうだ。 平成5年(1993)白羊鉛筆を閉じてベネフォームへ移行する際に社を現在地に遷し、外部に開放した。 御神徳一位の木は別名アララギとも呼ばれ古くから笏(しゃく)の材料として用いられ、鉛筆の素材でもあった。 家業の励みに日夜一位の神に感謝し、一位の自生する深山の御恩を仰いだ。、、、、玉垣には鉛筆に関連する会社名が並んでいる。(私が知ってる、コーリン鉛筆、キリン鉛筆が無いぞ!)
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● 紀州通りに面し、道路名の謂れとなった「紀州神社」の旗がなびいてる。、、、、紀州神社の祭神は現在、五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命である。 元亨年中(1321~1324)、紀州熊野の鈴木重尚が王子村にきて、豊島氏(豊島景村)とはかり、紀州五十太祗神社を同村に勧請したのに始まり、天正年中(1573-92)豊島村と王子村との間に争論が起こった際、豊島村の産土神を王子村に置くのは本意ではないと小名宮ノ前に移し、更に小名馬場に移し、後に現在地に移したものといわれてる。、、、、今年は創建700年、盛大に祭りが行われるのかな?
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● 紀州通りから「新田橋通り」と言う、こちらも地元の人しか知らないような細い通りを北へ歩くと、「新田橋(しんでんばし)」がある。
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・・・・・・・・・・ 新田橋は、右岸(南岸)の北区豊島8丁目と、左岸(北岸)の足立区新田3丁目を結び、隅田川に架かる鋼道路橋である。 橋長114.0m、幅9.0mの5径間単純鋼桁橋で、昭和36年(1961)3月に竣工した。、、、、この地にはもともと「野新田(やしんでん)の渡し」という農業渡船があり、荒川放水路(現:荒川)開削に伴って中州状に孤立した付近の交通路として利用されていた。 昭和14年(1939)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て昭和36年に現在の橋に架け替えられた。珍しいA字型をした橋脚は、木橋時代の橋脚を模したものである。 都心にあってこのデザインは何とも言えず好きだ! 架け替え前によく見ておこうと思い、今日、わざわざやって来たのだ! だが、上流側には仮設の歩道橋が架かり、下流側の両岸は高い護岸が構築されており、橋脚がよく見えない!(今日は、下流側の隙間から覗くように橋脚を見て来た)
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・・・・・・・・・・ ところで、新田橋の架け替え工事は、橋の老朽化や構造上の問題から「架替の必要性あり」判定され、架替に向け事業が進められている。 平成29~30年度には地元説明会が開催され、令和元年に新田橋仮橋架設工事に着手し現在に至ってる。 今後は、令和6~8年度に仮橋へのライフラインの移設工事を行い、令和9年度から架替工事を進め、概ね10年後の完成を目指す。 なんと完成まで、まだまだあと15年程を要するそうだ!(完成時には、俺、死んでる!
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● 新田橋を渡り足立区に入った、新田の町を歩き、町の北はずれ「新田一丁目」バス停を目指す。
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新田一丁目バス停の前に「新田稲荷神社」がある。 このバス停は王子駅・池袋駅から来る都営バスの終点である。 バスはここで折り返す。 バスを待つ間、チョイト神社に二礼二拍手一礼する。、、、、新田稲荷神社の創建は元禄10年(1697)と伝えられる。 社殿は戦災により、一度焼失するも、昭和22年(1947)に再建され、現在に至る。 境内に2基の庚申塔がある。、、、、夏の暑さで緑一面となった境内は絵になるね! 
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・・・・・・・・・・ 折り返し王子駅行きのバスが来た。 乗って帰ろう!
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2024年9月25日 (水)

築地ブラブラ

都営浅草線の東銀座駅で下車し、築地の本願寺、築地小劇場跡、築地カトリック教会、鉄砲洲稲荷神社と巡り、宝町駅まで、1万1千歩の散歩です。



● 昭和通りと晴海通り交差する、交差点の直下に東銀座駅(ひがしぎんざえき)がある。 東銀座駅は昭和38年(1963)2月28日、都営地下鉄1号線(現:浅草線)と営団地下鉄(東京メトロ)日比谷線の東銀座駅が同時に開業した駅である。、、、、浅草線の駅は昭和通りの直下にある相対式ホーム2面2線の地下駅であるが、ホームに立っても反対方向行きのホームは見えない。 それは、上下線の線路の間に地下道(昭和通り三原橋交差点のアンダーパス)や駐車場があるため、ホームの向かい側は全面が壁となっているためである。 また、ホーム間の連絡通路は改札外にあり、改札内での上下ホームの行き来はできない。 上下線のホームを間違えると、地上に出るか?、地下のさらに地下にある連絡通路を利用することになり、年寄りには辛く厳しい駅である。
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・・・・・・・・・・ 東銀座駅の泉岳寺方面行改札を出ると、地下で歌舞伎座のビルに入り、歌舞伎座正面玄関前に出ることができる。、、、、現在の歌舞伎座は5代目の建物で、隈研吾の設計による地上29階建ての「歌舞伎座タワー」と一体となってる。 外観は4代目の建物によく似たデザインである。 
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● 歌舞伎座前から横道に入り、「旧日産本社ビル」(現:銀座六丁目スクエア)の前を通る。 懐かしいビルだ! 銀座4丁目の角に、現在の日産ギャラリーができる以前は、このビルの1階にショールームがあった。 加山雄三の若大将シリーズのロケ地でもあった旧日産本社ビル、取り壊されず、まだ残っていたか! 感激!、、、、昭和43年(1968)竣工の17階ビルである。 2009年までは日産自動車の本社ビルであった、その後、読売新聞東京本社の仮社屋として活用されていた。 現在は銀座六丁目スクエアとしてオフィスビルとなっている。
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● 築地の交差点、外人さんがスマホを場外市場に向けてパチリ! 築地市場は豊洲に移転したが、場外市場は今も元気に商い中!
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● 築地に古代インド様式(天竺様式)の建物がある。 “築地の本願寺さん”と呼ばれてるこの寺は、正式には「浄土真宗本願寺派 築地本願寺」と言う。 その発祥は、元和3年(1617)、西本願寺の別院として、JR浅草橋駅の南側:横山町(中央区)にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていた。 しかし、明暦3年(1657)の振袖火事で焼失してしまった。 その後、幕府から八丁堀の先の海上への移転が許可された。 そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(土地の名は“築地”)、延宝7年(1679)に「築地御坊」として再建された。 その後、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和6年(1931)に起工、3年後の昭和9年に落成され現在に至る。 なお、施工は寺社建築を得意とする松井組(現:松井建設)である。 この建物は、インド様式の石造りで、本堂内は伝統的な真宗寺院の造りとなっている。、、、、広い境内に散見するのは外人観光客と、境内を斜めに横切り通勤する日本人のサラリーマン。
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● 築地本願寺から北へ200m程、NTTデータ築地ビルの外壁に、「築地小劇場跡」の碑がある。 築地小劇場は、土方与志と小山内薫が大正13年(1924)に開設した日本初の新劇の常設劇場である。 劇場の面積は100坪弱、平屋の建物で、客席は400~500席。 電気を用いた世界初の照明室を備えていた。 クッペル・ホリゾント(クッペル=ドーム、ホリゾント=舞台背景の幕)と呼ばれるドーム型の湾曲壁を設け、天井が高く、可動舞台を備えていた。 高度な照明設備と優れた舞台を備えていたため、演劇の実験室としての役割を果たしたそうだ。、、、、“新劇”と言われても、演劇には縁遠い私には“何が何だかさっぱり判らん”。 でも“築地小劇場”の名は知ってるぞ!
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● 築地の隣接する明石町、聖路加病院の隣りに「カトリック築地教会」がある。 カトリック築地教会は東京で最古のカトリック教会。 また当教会の聖堂は平成11年(1999)東京都景観条例により歴史的建造物に選定された。 さらに平成13年には中央区からも文化財に選定された。、、、、築地教会は、明治4年(1871)に鉄砲洲の稲荷橋近くにひらかれた「稲荷橋教会」を前身とし、明治7年に築地居留地(明石町)に移転した。 現在の聖堂は、関東大震災によって明治11年創建の旧聖堂が焼失したため、昭和2年(1927)に再建されたもので、教会としては珍しいギリシア神殿パルテノン風の建物である。、、、、ゴテゴテせずに白を基調とした簡素な聖堂で、落ち着いた雰囲気で祈りを捧げるのもいいね!
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・・・・・・・・・・ 教会の前に「暁星学園発祥の地」の石碑がある。 東京に住む人には、ミッションスクールとして有名な暁星学園を知る人は多いと思う。 その暁星学園の発祥は、カトリック築地教会敷地内に神学校として開設した家塾が母体となっており、設立は明治21年(1888)である。
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● 八丁堀駅方面に歩いて行くと「鉄砲洲稲荷神社」の前に出た。 『チョイト、手を合わせて行くか!』、、、、立派な富士塚もある神社で、御利益を期待して、100円硬貨を投げ入れ、二礼二拍手一礼。 御利益、宜しく!
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● 鉄砲洲稲荷神社から都営浅草線の宝町駅に出て帰宅する。
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