2020年12月 1日 (火)

四谷の階段

『勝負の三週間』、『不要不急の外出自粛』、『3密回避』、『年寄りは寝てろ(誰が言った?)』と言われると、暇な年寄りの私は遠方の散歩に出にくいね。 今日は昼過ぎから、四谷の寺町を散策してきた。、、、、JR中央線の信濃町駅から、新宿区須賀町・若葉周辺の寺社を巡って四ツ谷駅まで、8千歩の散歩です。



● 空いてる電車に乗って、浅草橋駅から7駅目(所要15分)の信濃町駅で下車する。 北側の擁壁、南側の首都高に挟まれ、頭上は駅ビルに覆われたホームは昼間と言えども薄暗く、トンネルの中に降りるようだ。 ホーム頭上の駅ビル1階部分が改札口で、「外苑東通り」に出る。、、、、薄暗いホームの照明をミラーボールに変えたら、お客さんに喜ばれるかも?

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● 信濃町駅から「外苑東通り」を北へ歩き、左門町に入ると一本東側の裏道に日蓮宗の長照山陽運寺がある。 陽運寺は昭和初期に創建した。、、、、寺の向かい(左門町17)には、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家があった。 そこで、陽運寺は昭和27年(1952)に「於岩稲荷立正殿」を建て、当時から現在に至り中央区新川にある「於岩稲荷」にあやかり、「於岩稲荷はこちらが本物」と盛んに信者を集めたそうだ。 今では、この寺が本家の様に見えるが、元々は、田宮家の向かいに寺があっただけのこと。、、、、商魂たくましく、境内にはカフェが作られ、軽食が食べられるようになっていた。 お守りなど、グッズも売っている。 

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● 陽運寺の前には、「四谷於岩稲荷田宮神社分社」がある。 この地にあった田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 稲荷は、貧乏所帯を切り盛りし、商家奉公で家を隆昌させ夫婦仲も良かった信心深い於岩(お岩さん)が信心してお参りしていたことから評判となり、寛永13年(1636)という於岩の死後、彼女の徳に肖ろうと善男善女がお参りするようになり、100年ほど後に於岩稲荷として田宮家の菩提寺妙行寺(若葉2)の境内に移して独立させた。 その後、妙行寺は明治42年(1909)に、現在の豊島区西巣鴨に移転し、於岩の墓もこちらにある。 於岩さんは貞女であった。、、、、江戸庶民に慕われ、信仰された実在の於岩さんを、貞女とは180度反対の幽霊にしたのは、江戸時代の文化文政期(1800年頃)の歌舞伎戯作者の鶴屋南北と歌舞伎役者の尾上菊五郎だ。 実在の人物の人気にあやかり、正反対の「東海道四谷怪談」を作り・演じたことで、「四谷怪談を上演すると必ず怪我人が出る。お岩の祟りだ」とのデマゴーグを喧伝し、他ならぬ商売上手な菊五郎による、芝居の宣伝のためだった。 南北と菊五郎はこれで相当儲かったはずである。、、、、明治5年頃、於岩稲荷を田宮稲荷と改称し、火災で移転(中央区新川の於岩稲荷田宮神社)した。 しかし、昭和27年(1952)、陽運寺の『於岩稲荷はこちら!』の掛け声を聞いて、田宮家が激怒し、再びこの地に分社を建立した。、、、、こちら、四谷於岩稲荷田宮神社分社には、東京都教育委員会の名による案内板がある。 都のお墨付きもある、幽霊ではなく貞女の於岩さんの本家本元である。

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● 陽運寺、四谷於岩稲荷田宮神社分社から東に100m程の処(新宿区須賀町5)に「須賀神社」がある。、、、、須賀神社は江戸百稲荷の一で、四谷18ヶ町の総鎮守。 祭神は建速須佐之男命と宇迦能御魂命。 元は稲荷だった。その稲荷社は、往古今の赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷にあったのを、寛永11年(1634)江戸城外堀普請のため、現在地を替地として遷座した。 須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年(1637)島原の乱の時に、日本橋大伝馬町の大名主馬込勘解由が、幕府の命に依り、兵站伝馬の用を勤め、その功績に依り、現在の四谷一円の地を拝領したのを機会に、同20年(1643)神田明神社内に祀ってあった日本橋伝馬町の守護神牛頭天王社(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、「稲荷天王合社」となり、俗称「四谷天王社」と云い、明治維新まで親しまれて来た。 明治元年「須賀神社」に改称。、、、、須賀神社の名物は、拝殿内に掲げてる「三十六歌仙絵」である。 三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したもの。 当時画家として高名だった四谷大番町(現:大京町)の旗本大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功の書により天保7年(1836)に完成、奉納されたものだ。

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・・・・・・・・・・・・四谷の高台にある須賀神社には、男坂・女坂と呼ばれる階段の参道がある。 一般に男坂は傾斜が急で、一直線で上る。 それに対し、女坂は傾斜が緩やかで、途中で休みやすいように折れながら上る。 ここ須賀神社では、主参道となる男坂と、平行する女坂は、ともに長さ25m、高低差も同じで段数は60段程、傾斜は変わらない。 違いは、一直線に上るのが男坂、途中でクランク状に曲がるのが女坂。、、、、両階段を上ってみたが、見た目、途中で休めそうな女坂の方が、私にはラクダ! 

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・・・・・・・・・・・・女坂の上り口の脇に、日蓮宗寺院の稲荷山妙行寺がある。 妙行寺の創建年代は不詳。 寛永11年(1634)に当地へ移転してきた。、、、、於岩稲荷が移転した同名の妙行寺とは異なる。

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● 須賀神社の南東100m程に、道幅の狭い戒行寺坂(かいぎょうじざか、新宿区須賀町)がある。 この坂は東に向かって、真っ直ぐ下る、長さ120mの急な坂。 坂上の戒行寺門前に標識があり、『戒行寺の南脇を東に下る坂である。 坂名はこの戒行寺にちなんでいる。 別名、「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚をつくっていたからこう呼ばれたという』と、記されている。 現在は豆腐屋はない!、、、、この坂道沿いに、10か寺前後の寺院があるが、多くは麹町付近にあった寺院が、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)に当地へ移転してきたそうだ。 強制立ち退きによる、集団移転!


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・・・・・・・・・・・・坂の名となった「戒行寺」は、日蓮宗寺院で、妙典山と号します。 文禄4年(1595)麹町に戒行庵として創建、後に宮重作兵衛重次が開基となり戒行寺となりました。 江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していた。、、、、境内には、池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で日本国民に知られている「鬼平犯科帳」の主人公:火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵の供養塔がある。(墓は明治末期に寺の墓地が杉並区に移転した際に整理合葬された)

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・・・・・・・・・・・・戒行寺坂上の曹洞宗の寺院、蟠龍山永心寺。 慶長9年、麹町清水谷に起立したが、此の辺の寺々と同じく、元地が収用されたので寛永11年に現在地に移転した。 中興は松平越後守の奥女中で、法名は長寿院安窓永心大姉、延宝7年(1679)に歿した。 この辺りの寺院としては、享保11年(1726)に建てられた方丈型の本堂は、風格がある貴重な建築物である。 山門は、江戸時代に建てられた薬医門。

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● 戒行寺坂を下ると、北側に観音坂がある。 今度は上りだ!、、、、観音坂は約85mの直線の急坂。 坂名は、坂下の真成院の潮踏観音にちなむ。
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● 観音坂を上り右に折れると、文禄2年(1593)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山された専称山西念寺がある。、、、、チョイト長い話だが、、、、徳川家康の重臣で、槍の名人:服部半蔵は、忍びの達人としてチャンバラ好きは知ってるはず。 家康には正妻:築山御前との間に武勇に勝れる長子信康がいた。 信康は織田信長に目を付けられ、信長の愛娘を妻とした。 しかし、信長は嘘か真実か信康の乱心を理由に、義父でありながら信康の切腹を家康に要求した。 家康は断腸の思いで天下人信長の非情な命令に従い、最愛の子:信康に切腹を命じた。 その介錯を任ぜられたのが服部半蔵である。 ところが、いかに主君家康の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入った。 天正18年(1590)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになった。 半蔵も主君に随伴したが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送った。 文禄2年(1593)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されてる。 しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年(1595)11月14日、55歳で逝去した。 法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。 その後、一宇の建立がなり、山号と寺号はこの法名から、「専称山安養院西念寺」とした。 寛永11年(1634)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため他の寺院と共に、現在地に移転した。 本堂は、昭和20年(1945)戦火で焼失したが、昭和36年(1961)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・服部半蔵の墓と、半蔵が家康から拝領した槍(本堂の床の間に保存)

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・・・・・・・・・・・・岡崎三郎信康(徳川信康)供養塔

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● 四ツ谷駅に出て帰る!、、、、四ツ谷駅は明治27年(1894)10月9日、甲武鉄道の停車場として開業。 ホームは周囲の道路、駅舎よりも低い位置の外堀の中にあるので、ホームの上に新四谷見附橋(平成3年架け替え)が架かり「新宿通り」を通している。、、、、大正2年(1913)に架けられた以前の新四谷見附橋は、多摩ニュータウンに復元保存されている。

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2020年11月28日 (土)

名前に魅せられて

今日はチョイト早起きして、埼玉県草加市の北東、中川の岸にある女体神社(草加市柿木町)へ行ってきた。 社名から想像すると、何やら艶めかしい気がするが、実体はゴク普通の神社である。 いずれの女体神社も主祭神は、櫛名田比売(くしなだひめ)、伊弉冉尊/伊邪那美命(いざなみのみこと)など女神である。 女体神社は、草加・越谷・春日部・松戸付近に分布する。 また、神奈川県川崎にも数社ある。 10数年前、「武蔵国一宮」を称するさいたま市緑区の「氷川女体神社」へ参拝したのを始めとして、川崎の「女体神社」、越谷川柳町の「麦塚女体神社」など、これまでに数社に参って来た。、、、、いずれも、生身の女体に手を触れることもなく、静かに、真剣に、祈願する。 ご利益は、女の神様ということもあって、恋愛・結婚成就、良縁祈願、安産祈願、そして子孫繁栄、などが相場!

東武伊勢崎線の新田駅で下車し、ひたすら東に向かって歩き中川の岸まで、約6kmの散歩です。 1万3千歩。




● 北春日部行きの普通列車で新田駅に到着。 北千住から乗ってきた車両番号は「77707」、残念だがオール7とはいかなかったが、縁起の良さそうな番号だ、帰りに宝くじ買おう! 「77707」の車輛は、2018年1月、近畿車輛(徳庵工場)で製造された東武鉄道 70000系 ( モハ77700形 )、グッドデザイン賞を受賞車両、チョイト鉄道オタク的に紹介。、、、、江戸時代の開墾により関東平野には多くの新田が生まれ、草加市域だけでも「新田」と呼ばれた村は120ヵ村にのぼった。 新田駅付近では、明治時代に9ヵ村を合併して新しい村が誕生した、合併した村のうち6ヵ村が近世の新田開発で生まれた村であったところから、新たな村を「新田」と命名し駅名にもなったそうだ。 駅の開業は明治32年(1899)12月20日。、、、、現在は一日当たりの乗降人数約32,000人、普通列車しか停まらない高架駅。

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● 駅から、ひたすら東に向かって歩く。 東京都葛飾区の中央を北から南に流れ、江戸川区西葛西付近で荒川に合流し東京湾に注ぐ中川の岸(草加市柿木町1)まで、約5.5km程ある。
・・・・・・・・・・・・新田駅東口前は一応ロータリが造られ、良く言えば“昭和レトロな飲食店街”もあるが、悪く言えば“店は狭く寂れた感じの飲み屋が数軒”、これでは東京のベッドタウンの駅前とは言えない! どうやら再開発するようだ、駅前の区画整理事業が始まっている。

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・・・・・・・・・・・・駅前から、「そうか公園通り」と呼ばれる両側一車線のバス通りを歩く。 この道のどん詰まりが中川である。、、、、まずは、綾瀬川に架かる「槐戸橋」を渡る。 さて、「槐戸」と書いて何と読む? 難読、「さいかちど」と読むのです。 サイカチ(梍・皀莢)は、マメ科の落葉高木。 “槐”は、本来「エンジュ」と読み、鬼門除けなどに使われるりマメ科の高木。 “梍”と“槐”は、ともにマメ科の木で、漢字も似ており、どうでもいいから『一緒にしちゃえ』で、“槐戸”と書いて「サイカチド」になったようだ。 橋の東側の八幡町はかつて「槐戸村」と呼ばれたそうだ。、、、、橋の親柱にカブトムシがいる、なぜ? カブトムシは梍(さいかち)の樹液が好きな虫で、「サイカチ虫」と呼ばれることもあるそうだ。、、、、【ついでの話】 現在の東京都台東区千束3丁目、板橋区西台、神奈川県藤沢市高倉のいずれにも小字名として「槐戸」があったそうだ。(雑学に強くなるブログは雅万歩!)
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・・・・・・・・・・・・草加市八幡町、法務局、そうか公園通りの標識前、現役の赤いポスト前、古綾瀬川に架かる古川橋、葛西用水に架かる青上橋(せいじょうばし)、川柳小学校と、通り過ぎていく。

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・・・・・・・・・・・「八条用水橋」を渡ると、左手に「そうか公園」が広がる。、、、、その先で、東埼玉道路(=国道4号)を横断するのだが、道路には幅20m程もある中央分離帯があり、全体の幅は40m以上。 横断歩道の手前に『歩行者は青信号2回で渡って下さい』と書いてある。 実際、私が横断を始めると、中央分離帯で信号が赤になった!

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・・・・・・・・・・・・埼玉県柿木浄水場を過ぎると、「女体神社(南)」交差点。 ここはT字路で、歩いてきた「そうか公園通り」の終点。 交差点正面の民家の裏には、中川が流れている。 対岸は埼玉県吉川市。

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● 本日の目的地である、「柿木女体神社」に着いた!、、、、柿木女体神社は、伊弉冉尊を祀り、柿木の鎮守として人々に厚く敬われてきた。 柿木は、中川沿いに下妻街道があり、草加市内にあって最も古くから開発された土地といわれ、伝承では、この土地の開発の祖を豊田氏と伝えている。 豊田氏は、平将門の伯父国香を祖とし、下総国豊田荘の地頭を務め、のち石毛に本城を構えた。しかし、天正3年(1575)城主豊田治親が恒例の雷電神社参拝の時、下妻の多賀谷氏の侵略にあい、治親は討たれ本城も陥ちてしまった。 残された婦人と遺子は急変により石毛を捨て縁をたよってここ柿木まで落ちのび、この地を永世の地と定めたというのである。 豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。 それによって分霊をこの地に勧請し創建したのが当尿体神社である。 社殿は北方、筑波山に向けて建てられている。、、、、ここは無人の神社。 若い巫女さん(学生アルバイトでもOK)でも居て、女体を模った根付け、キーホルダー、お守りでも売っていれば、買ってあげるのだが、残念!

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・・・・・・・・・・・・これで、また一ヵ所の女体神社を制覇した! まだ、10ヶ所以上の女体神社が残っているので、私の「女体神社巡り」は、まだまだ続く。



● 来た道を、浄水場の先まで戻り、バスで新田駅へ向かう。

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2020年11月26日 (木)

知らない浅草寺

三度目の時短要請で、いよいよ勝負の『三週間』に突入する。 何もすることのない年寄りは、『不要不急の外出は避け』家でジ~~ット我慢の子。・・・・・と云うことで、年寄りの一人である私も、家で“朝寝、朝風呂、朝御飯”と思ったが・・・・・『そうは問屋が卸さない』、妻の一声『ゴミ出して!』、もう一声『10時に〇〇(嫁いだ娘)が来るよ!』、ついでに一声『散歩に出るんでしょ!』、いつものパターンである。

今日は『三密』を避ける気持ちで、早朝の浅草寺まで歩いてきた。




● 朝の7時50分、雷門の前に七五三(?)  いやいや違った、早朝から結婚記念写真か(?) プロらしきカメラマンがいる、メイクする人もいる。、、、、近くで拝見すると、美男・美女のカップルだ! 自分の若い時を思い出す(70歳過ぎた今は美爺・美婆のカップルとなった) 若い二人が羨ましい!

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・・・・・・・・・・・・若いカップルの撮影はおわり、人影少ない朝の仲見世をバッチリ!パチリ!

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・・・・・・・・・・・・普段は、建物を撮りたくても、美人に目がいき、ついついトリアージして美人優先。 今日は参拝客・観光客が少なく、今が撮影チャンスだ!

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・・・・・・・・・・・・修復中の本堂天井画、中央の川端龍子の「龍之図」は修復中の足場に隠れ見ることができず、左右に描かれた堂本印象の「天人之図」を見ることができた。 ヤッパリ、“龍”より“美人”か!

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● 今日は浅草寺境内にあるもので、見ても記憶に残らないもの、見ずに素通りしてしまうもの、幾つか紹介する。
・・・・・・・・・・・・まずは、仁王門の右横にある「久米平内堂」、、、、久米平内は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没した。 その生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺めたので、その罪を償うために「仁王坐禅」の法を修行し禅に打ち込んだ。 そして、自らの坐禅の姿を石に刻ませ、犯した罪を償うため、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。 それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。 現在でも、私を含め恋の仲立ちに期待し、願いをこめる人は多い。、、、、現在の堂は昭和53年(1978)に再建されたもの。

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・・・・・・・・・・・・現在、五重塔は仁王門の左手(西側)に建立されているが、かつてはその反対側(東側)に位置していた。 現在は、「旧五重塔跡」と記された石柱が跡地に建っている。 浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33m)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604~51)により建立された。、、、、塔のあったこの付近は、修学旅行、ツアー旅行の集合場所。 いつもは、団体さんがウロチョロしている。

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・・・・・・・・・・・・・・お札所の裏側に「鳩ポッポの歌碑」がある。、、、、「鳩ポッポ」の歌は作詞:東くめ 作曲:滝廉太郎である。 東くめが明治34年(1901)に観音さまの境内にて鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものだ。 歌碑の建立に際しては、彫刻家:朝倉文夫から鳩の像と題字が寄せられた。 作曲者滝廉太郎と同郷旧知の深いゆかりに依るものと云われている。 歌詞は御存じかな? ♪♪ 鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポととんでこい お寺のやねからおりてこい 豆をやるから みなたべよ たべてもすぐに かえらずに ポッポ ポッポと ないてあそべ ♪♪ この歌はたちまち全国に広がった。、、、、しかし、10年後の明治44年(1911)、音楽の教科書「尋常小学唱歌」にて歌詞をチョイト変えた「」が登場した。(作者:不明) ♪♪ ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ みんなで仲善く 食べに来い  ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆はうまいか 食べたなら 一度にそろって 飛んで行け ♪♪ 「鳩」が「鳩ポッポ」を制覇をしてしまった。、、、、この歌碑を見ていて気がついた、境内で糞を落としていた大勢の鳩が、いつの間にか境内で見なくなった! 何処へ行った? 

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・・・・・・・・・・・・鳩ポッポの歌碑の隣りに、「迷子しるべ石」がある。、、、、昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。 石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、右側面に「志らする方」、左側面に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。 情報未発達の時代には重宝され、江戸市内の繁華な地に建てられたものの一つ。 安政7年(1860)、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957)に再建された。、、、、“コロナ”の世では、右に求人情報、左に求職情報を貼って、マッチングさせたらどうだろう? 『Indeed』には負けるかも、前言却下!

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・・・・・・・・・・・・・・浅草寺の北側(裏側)、浅草寺病院に隣接する一画に浅草寺の支院が並んでいる、ここを「浅草寺一山支院」と称する。、、、、ここは、関東大震災後に区画整理でつくられた1100坪の敷地に、浅草寺の21の支院が集められ住宅地を形成している。 建物は不燃化のため、鉄筋コンクリート造、2階建て(現在の3階部分は後の増築)とし、基本は2院で1棟とする(入口は正反対になる)形態で設計し、昭和7年(1932)に竣工している。、、、、この建物群の設計は、大阪市中央公会堂、鳩山会館、黒田記念館など多くの名建築を残している岡田信一郎である。、、、、浅草寺参りの観光客も、散歩する近所の住民も、この建物に関心を持たず、ペチャクチャお喋りに夢中で、通り過ぎていく。 『文化財級の建物だよ!』と、教えてあげたいが、住んでいる方の迷惑になっても困るので内緒にしておく。

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・・・・・・・・・・・・本堂の裏は広い駐車場、去年までは中国人ツアーの観光バス、黄色のはとバスなどで、連日満車状態。 この駐車場の北側(浅草寺病院側)に老夫婦の胸像がある。 二人は、戦前は鉄鋼王、戦後はホテルニューオータニの創業者であった:大谷米太郎と妻の大谷さとである。 像は、宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くされた夫妻讃仰のため昭和42年(1967)に造立。「功徳大宝海」の文字は清水谷恭順貫首の筆。 優しそうな大谷米太郎と物悲しげな妻の像に、なにか物語がありそうだ。 、、、、戦後の一時期は、菊池寛実(高萩炭鉱創業)、南俊二(相模鉄道社長)とともに『日本の三大億万長者』と称されたそうだ。 私も、一度でいいから『令和の大富豪』と云われてみたい!

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・・・・・・・・・・・・本堂の西隣にある影向堂(ようごうどう)は、平成6年(1994)に現在地に落慶した、鉄筋コンクリート寄棟造の立派な建物。 その影向堂の西側に小さな「六角堂」がある。、、、、六角堂は、室町時代(16世紀頃)の建立で、木造単層六角型の造り。 都内最古の木造建築なり。、、、、本尊は日限地蔵尊で、日数を決めて祈るとその願いが叶うらしい。 本当に叶うなら、“三週間”の間、“コロナ撲滅”の願いを祈るのだが、信じられない! 

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・・・・・・・・・・・影向堂から南西方向に50m程の処(新奥山の碑群)に「瓜生岩子の像」がある。、、、、「瓜生岩子(うりゅういわこ)」とは? 文政12年(1829)岩代耶麻郡(現:福島県耶麻郡)熱塩村の渡辺家に生れたが、9才の時父を失い、母は岩子を連れて生家へ帰った。 そのため岩子は母方の姓瓜生を称えた。 14才の時会津若松の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。 17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。 明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、同22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努め東京でも深川と根岸で孤児たちの救護所の設置、助産婦養成や失業救済のため水飴の製法伝習所を開設し無料で講習した。 その製品の売上金は慈善事業に役立てるなどして「仏の岩子」と呼ばれた。 さらに明治26年には「済生病院」を開設するなど社会福祉事業に尽くした功績が認められ、同29年女性では最初の「藍綬褒賞」を受賞したが、翌30年福島で没した。 享年69歳。 生涯を慈善事業に捧げた岩子の善行を賞揚し、同34年(1901)篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。 フックラ顔で真剣に見つめている像は、『日本のナイチンゲール』です。

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・・・・・・・・・・・・最後は、火除け、盗難除けの狸! 浅草公会堂前(伝法院通り)の伝法院山門の左側に狸が居る鎮護堂がある。 チョイト控えめな山門は素通りしてしまうかも?、、、、明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首唯我韶舜大僧正が、夢告により境内に棲む狸を伝法院の守護としてまつったもので、鎮護堂は伝法院境内脇にある。 現在の堂舎は、大正2年(1913)建立。、、、、境内には、狸だけでなく、水子地蔵、加頭地蔵、幇間塚なども祀られている。

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