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2013年1月

2013年1月30日 (水)

茗荷谷~浅草橋

地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から、浅草橋の我が家まで、1万5千歩、11Kmの散歩です。

①拓殖大学本館・・・・・・・・・・・茗荷谷駅に近い「文京キャンパス」に、昭和7年(1932)に竣工した、設計:加護谷祐太郎、施工:大倉土木(現:大成建設)、鉄筋コンクリート造3階建ての大学本館(現:A棟)がある。・・・・・・・・拓殖大学の前身は、明治33年(1900)に、桂太郎(元総理大臣)により台湾開発のための人材育成を目標に設立された台湾協会学校だ。大正7年(1918)に拓殖大学と改称した。・・・・・・・・平成17年(2005)の改修工事において、竣工時の概要が書かれた板が発見された。それによると、当時の建設費は133,259円で、工事には延べ25,000人を要したそうだ。・・・・・・・・・・現在実施中の「拓殖大学ルネサンス事業」の中心的建物として、綺麗に改修された。

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②旧東方文化学院・・・・・・・・・東方文化学院は、明治33年(1900)に清国で起きた義和団事件の賠償金で建てられた、国立の東洋学・アジア学の研究機関です。建物は東大の内田祥三の設計により、昭和初期に流行した鉄筋コンクリート造の建物に和風の瓦屋根を載せた和洋折衷の帝冠様式で、昭和8年(1933)に建てられた。屋根には鴟尾(しび)が飾られ、内部は大理石を貼った重厚な建物だ。・・・・・・・・・・戦後は、外務省の研修所として使用し、平成14年からは拓殖大学が取得し、「拓殖大学国際教育会館」として利用されている。・・・・・・・・・先日の降雪のため、玄関の屋根瓦が落ち補修中であった。

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・・・・・・・・・・・以下の3枚は、数年前に内部を見学した時の写真です。

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③鼠坂・・・・・・・・・・拓殖大学の在る“小日向”の高台から、鳩山会館前の“音羽”に下る細い坂。都心の裏道の坂としては、やたら長い!・・・・・・・・・・『鼠坂の名の由来について、「御府内備考」には「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などといふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。森鴎外は「小日向から音羽に降りる鼠坂と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説「鼠坂」でこの坂を描写している。』と案内板に書かれている。

・・・・・・・・・・・・上から見下ろすと

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・・・・・・・・・・・・下から見上げると

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・・・・・・・・・・・・坂の途中から入る御宅は、、、、、、大きな御影石が、いいアプローチを演出しているね。

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④今宮神社・・・・・・・・・目白坂下交差点の裏に、今宮神社がある。元禄10年(1697)に五代将軍徳川綱吉の生母:桂昌院の発願により、護国寺建立に際して京都紫野の今宮神社から分霊を勧請したことを創祀とする。・・・・・・・・音羽の町内鎮守で、扁額は内閣総理大臣:鳩山一郎の筆。 ひょっとすると、宇宙人の鳩山由紀夫と、トキの剥製の鳩山邦夫、両兄弟もこの神社で遊んだかも?

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⑤八幡坂・・・・・・・・・今宮神社の横から上がり、鳩山会館の裏手の小日向2丁目に出る坂。

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国際仏教学大学院大学・・・・・・・・文京区春日の徳川慶喜屋敷跡建つのは、平成8年(1996)開校した国際仏教学大学院大学だ。この大学は、霊友会の国際仏教学研究所を基礎として設立された。定員は20名で、5年制の博士課程だけで、日本で一番小さい大学らしい。・・・・・・・・・・大正2年(1913)に、慶喜はこの地で没した。・・・・・・・・建物は。槇総合計画事務所の設計、竹中工務店の施工で、平成22年(2010)に竣工した。・・・・・・・・・まだ、新品なので綺麗な建物だ! 学生20名ではもったいないね!

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⑦第2後楽園アパート・・・・・・・・・・・地下鉄後楽園駅の南側に寄り添うように建つ、昭和33年(1958)竣工の都営住宅。総戸数24戸。・・・・・・・・・・今でこそ、ありふれた建物に見えるが、戦後10年の当時ではモダンであったに違いない。近代建築のはしりであろう!

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・・・・・・・・・・駅の北側には近代的なデザインで、総戸数32戸の第1後楽園アパートが在る。(写真は昨年4月撮影)

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2013年1月29日 (火)

大塚~茗荷谷

JR大塚駅から文京区千石をまわり地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。

①大塚架道橋・・・・・・・・・・都電大塚駅前停留所の東隣りにある山手線の架道橋。大正12年(1923)頃に竣工した。橋脚の煉瓦は、よく見ると3つに分割されている、おそらく、この区間の線路を複々線化するために増設したものであろう。・・・・・・・・・・駅前の交番も近くにあり、壁に落書きをする人も少ないせいか、煉瓦が綺麗な状態で積まれている。

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②大塚三業地・・・・・・・・・大塚駅から東に徒歩5分行くと“大塚三業地”(三業=芸妓置屋+待合+料亭=花柳界)がある。 大正8年(1919)に誕生し、昭和初期には600名の芸者がいた。 今や都内の花柳界の多くは消えていったが、ここ大塚は芸妓を仕切る見番も残っており、数件の料亭と数人の芸者となったが健在だ。 メインの通りは「大塚三業通り」として花街であることを誇示している。 

・・・・・・・・・・・大塚三業組合・・・・・・・・見番

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・・・・・・・・・・・料亭・・・・・・・・検番を中心に点在する。一部は廃業した店も。

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・・・・・・・・・・ホテル街(?)・・・・・・・“待合”はなくなり、数軒のホテルが“待合”替わり

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・・・・・・・・・・三業地に、なぜか多い性病科の医院もある。近くには銭湯もあるよ。

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・・・・・・・・・・・やはり花柳界、日本舞踊の御師匠さんの看板もあった

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③外灯・・・・・・・・・角材にブリキの傘をかぶった電球・・・・・・・・懐かしさに引かれパチリ

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④天理教本羽分教会教職舎・・・・・・・・・・・・文京区千石に建つ、大正3年(1914)建築の洋館。この建物の由緒は不明。・・・・・・・・・玄関回りの太い柱が印象的な建物だ。

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⑤I邸・・・・・・・・・・・こちらは千石の住宅。 昭和5年(1930)建築。・・・・・・・チョット見では、昭和初期の建物と思えないほど手入れも良く、古さを感じない。

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⑥伊勢五・・・・・・・・・・・江戸時代から続く米屋さん。建物は、明治初頭の建築で、往時の町家の姿をよく留めていることで、国の登録文化財に指定されている。

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⑦進開屋・・・・・・・・・・・千石2丁目に、昭和初期に建てられた、蕎麦屋さん。こちらも国の登録文化財。・・・・・・・・・・美味しそうな、ダシの匂いが、食べたくなったが開店前。 残念!

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⑧都バス大塚車庫・・・・・・・・・地下鉄茗荷谷駅の隣りにある、昭和3年(1928)頃に建てられら東京市電の車庫。・・・・・・・・・・都電16系統(大塚駅前~錦糸町駅前)を運行していたが、昭和46年(1971)に廃止となり、以後都バスの車庫となっている。・・・・・・・・・昭和35年(1960)前後、私は通学のため16系統の都電で春日町~厩橋間を利用していた。そんなわけで、なんとなく、親しみのある車庫だ!

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●・・・・・・・・・・・・無意識のうちに、玉の井、荒木町、神楽坂、大塚と、散歩のたびに、何やら似たような処を歩き回っていた。 明日はどちらへ行くか、反省! 

2013年1月27日 (日)

四ツ谷~飯田橋

夫婦で四谷の新宿歴史博物館へ行き、曙橋、牛込をまわり飯田橋駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①新宿歴史博物館・・・・・・・・・・・四ツ谷駅から荒木町へ向かう途中に、新宿区立「新宿歴史博物館」が在る。今日の散歩は、ここで現在開催中の特別展「写真展 記憶の中の新宿」を観るのが目的だ。・・・・・・・・・昭和20年代末~昭和40年代初頭を中心に、“大きく変貌”した新宿の様子を、当時の人びとの様子・くらし・風俗を通し、約100点の写真で紹介していた。無料はうれしい!・・・・・・・・・・懐かしい写真が多く、写真集を買ってきた。

・・・・・・・・・・・・博物館の建物は、最高裁、藝大奏楽堂などを手掛けた岡田新一の設計により、平成元年(1989)開館。

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・・・・・・・・・・・・特別展の内部は撮影禁止、人も多く“内緒でパチリ”も難しいので、写真集をパチリ。

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・・・・・・・・・・・・新宿の歴史を、旧石器時代から紹介する常設展も、もちろん拝見!こちらは有料。・・・・・・・・・・江戸時代の内藤新宿の模型、江戸時代の商家、都電5000形レプリカ

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②金丸稲荷神社・津の守弁財天・・・・・・・・・・・博物館を出て、荒木町方向に進むと、某ゼネコン(淺沼組)の東京本社前に出る。その本社ビルの横路を下ると、花街“荒木町”の中心(?)金丸稲荷神社があり、その横の路地をさらに下ると、すり鉢状の窪地に佇む「策の池」が在る。ここには津の守弁財天が祀られ、周辺はかつての料亭街だ。・・・・・・・・・・今日は、夫婦で手を合わせた、何か御利益を期待したいね!

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・・・・・・・・・・・・坂道の欄干・・・・・・・・・弁財天から曙橋へ抜ける途中の坂道。坂の上の敷地を囲う欄干、いいね! コンクリートで造られ、まさに昭和レトロだ。・・・・・・・・小雪が舞うこの坂を、傘をさし芸者が一人歩いてくる、、、、、想像するね! 帰りは、私と二人で相合傘、、、、、?

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③野本耳鼻咽喉科・・・・・・・・・・市谷甲良町に在る、大正8年(1919)の建物。現在は閉院したようで、看板などは表示されていない。・・・・・・・・・数年前まで開業しており、建物は綺麗だ!

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④裏千家東京道場・・・・・・・・・・市谷加賀町に平成7年(1995)に完成した、裏千家の東京道場。・・・・・・・・この地は“加賀町”と呼ぶように、旧前田藩上屋敷跡で、道場ができる以前はミキモト真珠の社長邸であった。

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⑤A邸・・・・・・・・・・・・北山伏町の裏通りにある、戦前(?)の洋館。1階はスクラッチタイルが貼られ、2階は白い塗装で、1階から2階に通る白い線と窓が幾何学的模様を創りだしている。・・・・・・・・・チョイト、汚れが目立つので、できれば修復して保存してほしい建物だ。

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⑥袖摺坂・・・・・・・・・・新宿区横寺町と箪笥町の境界に位置する坂。案内の説明では、“狭い坂道でお互いに袖を摺り合わせるほどだったという”。・・・・・・・美人とすれ違う時は、、、、、どうしよう!

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⑦善國寺(神楽坂 毘沙門天)・・・・・・・・・善國寺は桃山時代末の文禄4年四(1595)に創建された。江戸時代には、毘沙門天信仰が盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期には庶民の尊崇の的ともなったそうだ。・・・・・・・・明治初期には、神楽坂の花街も形成され、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客が付近を闊歩した。しかし、戦災で堂宇は灰燼に帰し、昭和46年(1971)に現在の本堂・毘沙門堂が完成した。・・・・・・・・今や、神楽坂のシンボル的な寺で、街歩きガイドブックには必ず載っている。

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●・・・・・・・・・・・妻が、神楽坂でボケの植木を買ったので、この春、一咲きした後は大きな鉢に植え替えだ! 仕事が増えたね!

2013年1月25日 (金)

玉の井

京成押上線の八広駅から浅草橋まで歩くつもりで、八広駅からスタートしたが、路地裏を歩いていたら、旧玉ノ井の私娼街跡に出てしまった。 ナント、その頃の建物が壊され更地になっている! 他にも消えた建物はないか? 心配になり調査を開始したため、タイムアウトで東向島駅までの散歩となった。1万歩、7km。・・・・・・・・・空から白いものも落ちてきた、寒いはずだ!

①尖塔のある建物・・・・・・・・八広小学校前の陸橋から東向島方向を眺めると、3階部分に擬宝珠(ぎぼし)のある銅版葺きの尖塔が載っている、“アリャ何だ?”以前から気になっている家がある。・・・・・・・・・・向かいの家の人に聞いてみたが、“だいぶ前からあるよ、デモ何だろね?”の答え。

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②墨田聖書教会・・・・・・・・・・・・昭和29年(1954)に創設された、プロテスタント(日本オープンバイブル教団)に属する教会。・・・・・・・・・第二次大戦後、間もなく、アメリカのオープンバイブルスタンダード教団より、派遣された宣教師によって昭和25年(1950)に家庭集会がスタートした。翌昭和26年(1951)に米軍のカマボコ兵舎を利用した会堂が、地元のクリスチャンの協力のもと建てられ、現在も、そのまま会堂として使用している。・・・・・・・・・兵舎をリノベーションした珍しい、可愛らしい、小さな教会だ!

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③玉の井・・・・・・・・・・「玉の井」が大私娼街となったのは、大正12年(1923)の関東大震災がきっかけだ。当時、浅草に千軒あったと言われている銘酒屋街が壊滅し、亀戸、玉の井などに分散移転した。 震災当時の玉の井は低湿地で、移転した家は空き地に勝手に家を建てるありさまで、結果、迷路のような入り組んだ路地が形成され、現在もそのままだ。戦中は500軒程の店が、いろは通りの南北に在ったようだが、戦災で南側は焼け、戦後は北側を中心に営業していた。昭和33年(1958)の売春防止法施行により、消えた街だ!・・・・・・・・・街が消え、50年以上経ち、当時の建物も自然消滅しているようだ!

・・・・・・・・・・・明かりの灯るいろは通り

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・・・・・・・・・・・“玉の井”の目抜き通りに残る店

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・・・・・・・・・・・・円柱と丸みある軒先でデザインされた特徴的な私娼街の家

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・・・・・・・・・・・・小さなタイルで外壁を飾るのも私娼街の家の特徴だ

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・・・・・・・・・・・・角を欠き、玄関にするのも特徴の一つ。ここにも丸みある軒が!

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・・・・・・・・・・・・向かいの家も軒に丸みが

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・・・・・・・・・・・・嵌め殺しの窓枠にも飾りがつけられ、円柱とコラボする

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・・・・・・・・・・・・迷路のような路地裏にもモダンな住宅が建ち私娼街の面影は消えた。不揃いの道幅も徐々に広げられるようだ!

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・・・・・・・・・・・・路地裏の駄菓子屋さんもモダンな建物に変身

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・・・・・・・・・・・・路地を突っ切った先には、スペイン瓦がアクセントをつけ、遊郭を連想させる銭湯「隅田湯」が・・・・・・・・・なぜか、街の中心部分に銭湯がある私娼街は多い

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・・・・・・・・・・・いろは通りの中程から北側に折れると、娼婦達の駆け込み寺であった東清寺がある。玉の井稲荷でもある。・・・・・・・今は近代的な寺になり、チョイト寂しいね!

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・・・・・・・・・・・玉ノ井駅(現:東向島駅)といろは通りの中間で開業していた犬猫病院の「城東獣医科」。看板は全て取り去り、空き家のようだ。

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●・・・・・・・・・お客として通った街ではないが、当時の面影を残す家の多くは消えた、残る建物も朽ちていく、寂しいね!・・・・・・・・・私娼街であっても、そこには人間の営みがあったはず、文化遺産として、ぜひ残したいね! もう遅いかも?

④隅田川・・・・・・・・・・・・・・・東武電車から

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2013年1月24日 (木)

水道橋~有楽町

水道橋(後楽園)の循環器クリニックで定期診察をうけ、帰りに有楽町まで散歩。歩数と距離は万歩計を忘れ、計測不可。

①矢口書店・古賀書店・・・・・・・・・神保町の古本屋の多くはビルに変わったが、こちらの建物は昭和3年(1928)建築の木造3階建て、外壁はモルタル塗りの看板建築。・・・・・・・・・・今日も、ぜひ手に入れたい古本を探してみたがなかった、残念。

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②篠崎運送店・・・・・・・・・矢口書店の左隣(上の写真では左端の建物)に、外壁のデザインが似たような看板建築の運送屋さんがある。

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③旧第一相互無尽ビル・・・・・・・・・・神保町の裏通りに、昭和初期に建てられた旧第一相互無尽ビル。昭和5年(1930)竣工、安藤組の施工。現在は日本タイ協会、フジタが入居している。・・・・・・・・・・第一相互無尽は、金融機関の一種で、戦後は第一相互銀行、太平洋銀行、わかしお銀行と変遷し、結局は三井住友銀行に吸収された。・・・・・・・・“無尽”の建物は、かつて、荒れて“無人”状態だったが、一部修復し利用されている。・・・・・・・・・・私が小学生ぐらいの頃(約50年前)まで、この近くに「東洋キネマ」という映画館があり、祖母と来たことを思い出すね!

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④A邸・・・・・・・・・旧第一相互無尽ビルの近くにある住宅。

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⑤今荘・・・・・・・・・昭和8年(1933)に建てられた神保町のうなぎ屋さん。木造3階建ての建物で、角地の隅を切欠いた玄関には唐破風、その上に丸窓、3階の最上部は神社のような破風があり、なにやら“遊郭”風だ!

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⑥学士会館・・・・・・・・・・・一ツ橋交差点に建つ、旧帝国大学の卒業生の交流の場として建設された会館。設計は耐震設計の権威:佐野利器と日本橋高島屋旧前田公爵邸洋館などを手掛けた高橋貞太郎の二人。昭和3年(1928)に竣工、鉄骨鉄筋コンクリート造4階建て/地下1階、施工は戸田組(現:戸田建設)。 建物の外観は、凹凸の少ないスッキリした感じで、角の丸み、玄関のアーチ形状、4階バルコニーの丸みなどが、女性的な優しさを感じさせる。私の好みのタイプだ!・・・・・・・・・建物が建つ場所は、東京大学の発祥地でもあり石碑が建てられている。

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⑦共立講堂・・・・・・・・・・昭和13年(1938)に竣工、当時は日比谷公会堂と並ぶ大講堂であった。戦後は音楽公演のメッカとなり、クラシック、フォーク、ロックなどの公演がたびたび行われた。私も肌に合わないクラシックを聴きに行った思い出がある。

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⑧一ツ橋・・・・・・・・・・・徳川御三卿の一つ「一ツ橋家」は、八代将軍徳川吉宗の子が、将軍より「一ツ橋御門」の傍(現:丸紅)に屋敷を与えられたことから始まる。・・・・・・・・・日本橋川に架かる現在の橋は、全長30.8mの鋼製桁橋。大正14年(1925)の竣工、両側は石造りのアーチで、中央のスパンに鋼製桁が架かる。ユニークな橋だ!

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⑨皇居前・・・・・・・・・・・・・

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⑩祝田町見張所・・・・・・・・・・・皇居正門の石橋が見える位置に在る見張所。正式には警視庁丸の内警察署祝田町見張所。・・・・・・・・・設計者は不明だが、明治の竣工らしい。・・・・・・・・・懐かしい交番の姿が残っている!

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⑪有楽町駅構内の大黒さま・・・・・・・・・・・正式には「有楽大黒」・・・・・・・昭和初め、駅前の亀八寿司主人が秘蔵していたが、戦争末期に空襲を避けるため駅長に贈られた。以来、乗降客の安全をじっと見守りながら、駅前のお店に商売繁盛を授けているかも?・・・・・・・・・・・お参りは、入場券を購入しないとダメだ! 御賽銭はJRの収入?

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2013年1月23日 (水)

田端~大塚

田端駅でホームの古レールを見ていたら、「道灌山トンネル」の遺構を見たくなった、散歩は大塚駅までほぼ山手線沿いに歩いた、1万3千歩、9km。

①田端駅・・・・・・・・・・明治29年(1896)、日本鉄道(現在の東北本線)の駅として開業。同年の12月には、田端~土浦間の現:常磐線も開通。明治36年(1903)、田端~池袋間の豊島線(現:山手線)が開業した。・・・・・・・・北口は平成20年(2008)にリニューアルした橋上駅舎だ。 南口は道灌山側に出る小さな駅舎。 ホームには古レールが再利用されている。 歴史ある駅だ!・・・・・・・・・・北口エスカレータ上部の大空間は、同じようでスケールのデカイ、大阪駅の大空間を連想させるね。

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・・・・・・・・・・・・北口(2013/1/19撮影)と南口(2010/9/21撮影)・・・・・・・・・・・・・

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②田端トンネル・・・・・・・・・・・京浜東北線北行きは、田端駅を出るとすぐに、短い(50m以下?)田端トンネルに入る。短いトンネルを出ると、すぐに田端跨線線路橋(山手線)の下をくぐる。・・・・・・・・・・写真は、トンネルの出口で、緑の山手線が田端跨線線路橋を渡り、奥に京浜東北線南行きが見える。

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・・・・・・・・・・上の写真は、山手線の内側の道灌山台地から、決死の覚悟(?)で撮影。細い道が行き止まりとなり、正面の金網の下にトンネルが見える。

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・・・・・・・・・・・金網の正面は新幹線の高架橋とその下に田端の車両基地が見える。いいね!

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③道灌山トンネル・・・・・・・・・・・・・・田端を出た山手線は、田端トンネルの横を通り、田端跨線線路橋を渡り、富士見橋が架かる道灌山の切通しに入る、道灌山トンネルは橋の脇に(○印)、トンネル坑門の一部が見え、残されている。・・・・・・・・・・トンネルは、明治36年(1903)、豊島線が開通した時に竣工したと思われる。 大正14年(1925)の複々線化でトンネルは廃止され、切通しとなった。・・・・・・・・・・世間から埋もれたトンネルとなって、まもなく90年となる。掘り起こしてみたいね!

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④中里トンネル・・・・・・・・・・富士見橋をくぐってきた山手線は、湘南新宿ラインの上を道灌山跨線線路橋で跨ぐ。下を走る湘南新宿ラインは中里トンネルに入り、上中里方向へ向かう。・・・・・・・・・・中里トンネルと道灌山跨線線路橋は大正14年(1925)に完成した。 

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・・・・・・・・・・・・道灌山跨線線路橋の下を抜ける湘南新宿ライン

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⑤JR社宅・・・・・・・・・中里トンネルの上部は線路の線形に沿い、JRの所有地で社宅が建っている。この事実が意味するところは、“中里トンネルは開削工事で造られたものだ”。・・・・・・・・・写真:社宅はリニューアル工事の最中で、一部は完成していた(右側の白い建物)。道路はトンネルの線形に合わせ、緩やかに左に向かいカーブしている。

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⑥中里第二踏切と中里橋・・・・・・・・・オタクはご存じ、山手線唯一の踏切だ。 山手線の開通の大正14年(1925)から北区中里に在る。・・・・・・・・・・並行して走る湘南新宿ラインは山手線より低い位置を走るため、こちらは中里橋により跨ぐことになる。現在の中里橋は、昭和29年(1954)に竣工した。

・・・・・・・・・・・・手前が中里橋、奥が中里第二踏切

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⑦大塚駅前の都電・・・・・・・・・・・・・

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2013年1月20日 (日)

浅草橋・上野

我が家(浅草橋)から、看板建築/長屋建築を眺めながら上野公園を回り我が家まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①出桁造の建物・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・望月米店・・・・・・・・・・鳥越「おかず横丁」の米屋さん。

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・・・・・・・・・・・・植木鉢の商家・・・・・・・・・台東2丁目の商家。 手入れが行き届き、建物もドッシリ腰を据えているようだ。2階軒下の植木鉢もいいね!

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・・・・・・・・・・・・旧住居表示の商家・・・・・・・・・・台東4丁目のこちらの家には、『下谷区竹町一〇八番地』なる、旧住居表示のプレートが残されていた。・・・・・・・・・下谷区と浅草区が合併し台東区となったのは、昭和22年(1947)で今から66年前のこと! と、云うことは、私は浅草区生まれなのだ!

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②モルタル系看板建築・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・みちしるべ・・・・・・・・・浅草橋3丁目の蔵前橋通りに面して建つ看板建築。2軒長屋で右側は数年前に塗装した(白い部分)。・・・・・・・・・「蔵前橋通 東京日日新聞」と記された道路名標が、外壁に残っている。“東京日日新聞”は昭和17年(1942)まで存在し、翌年からは“毎日新聞”となった。・・・・・・この家は戦前から建っていた証だ!

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・・・・・・・・・・・S邸・・・・・・・・・・・浅草消防署浅草橋出張所の隣りの旧商家。綺麗にモルタルの装飾が残っている。

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・・・・・・・・・・・一鳥・・・・・・・・・・・こちらは、鳥越「おかず横丁」のそば屋さん。見事な装飾だ!

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・・・・・・・・・・・平野屋・・・・・・・・・鳥越1丁目の元履物屋さん。もちろん、こちらも昭和初期の建物だ。

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・・・・・・・・・・・・4軒長屋・・・・・・・・・東上野の永寿病院前に建つ、モルタル系看板建築の長屋。・・・・・・・・・左から2軒目の2階右側の窓枠は建築当初のものか?

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③銅板系看板建築・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・植木がある看板建築・・・・・・・・・浅草橋2丁目(私と同じ町会)の銅板系看板建築。・・・・・・・・・建物より、綺麗に並んだ植木が気になるね、どこから出入りするのか?

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・・・・・・・・・・・・変わった銅板建築・・・・・・・・・・こちらも、鳥越「おかず横丁」の建物。蔵造りの建物を挟み2軒の銅板建築。しかも左側の建物には、朱塗りの門型構造物が付き、柱(?)の頂部にはドーム型の飾りまで載っている。

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・・・・・・・・・・・・6軒長屋・・・・・・・・・台東3丁目に銅板建築の名残の残る6軒長屋が在る。銅板の名残が残るのは、右から2軒目。

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④9軒長屋・・・・・・・・・・・・上記の6軒長屋の裏手に驚異の9軒長屋が在る。もちろん、木造2階建てだ。路地裏の建物で、重機、トラックが入る余地もない、しかも狭い長屋であり、自分の家だけ建て替えることができない状態だ。 “幸か不幸か”、現在まで壊さず残っていたのだろう。・・・・・・・・できれば、生活の暖かみを感じるこのままの状態で、重要文化財に指定したいね!

・・・・・・・・・・・・・長屋への入り口(中央の路地)

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・・・・・・・・・・・・・左右に並んだ長屋だ!

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・・・・・・・・・・・・・9軒、数えられるかな?

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・・・・・・・・・・・・・マンホールは何個?

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⑤国立西洋美術館・・・・・・・・コルビジェの設計により、昭和34年(1959)に建てられ、現在は国の重要文化財です。また、世界遺産登録に申請中です。・・・・・・・・前庭では、ロダンの「考える人」が申請内容を検討中?

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⑥国立科学博物館・・・・・・・・・・関東大震災の復興事業の一環として昭和6年(1931)竣工、鉄筋コンクリート造3階建て、大林組の施工。・・・・・・・・車寄せを持つ正面玄関を中心に左右対称に両翼が広がり、外壁にはスクラッチタイルを使用している、ネオ・ルネサンス様式の建物で、国の重要文化財だ。・・・・・・・・・・子供が小さい頃は、よく連れてきたことを思い出すね!

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蛇足・・・・・・看板建築(かんばんけんちく)とは?・・・・・・江戸の昔から、商店(店舗兼住宅)は、軒を大きく前面に張り出した「出桁造」と呼ばれる建物が一般的であった。しかし、大正12年(1923)の関東大震災以降は、復興により土地区画整理事業を実施し道路幅を拡張したため、それぞれの敷地は減歩により面積が小さくなり、軒を出す余裕も無く、敷地イッパイに建てざる得なくなった。さらに、耐火性を向上させるため、建物の外壁を不燃材(モルタル・銅板など)で覆うこととなった。 このような状況の中から「看板建築」と言われる、建物の道路面を平坦な壁のようにし、モルタル・銅板などで仕上げた建物が、土地の狭い下町を中心に昭和初期に広まった。・・・・・・・・「看板建築」は、けして看板・広告を標示している建物でなく、“看板”のように平坦な外壁面の建物を言う。一般に木造2階建てが多く、内部は昔ながらの間取り・造作の家が多い。・・・・・・・・・・モルタル系の看板建築では、モルタルで装飾の唐草模様・曲面・円柱などをデザインした建物が多くみられる。・・・・・・・・・銅板系の看板建築は、銅板の組み合わせで幾何学模様を創り、外壁を飾ることが多い。

2013年1月19日 (土)

王子~田端

王子駅から駒込経由、田端駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①飛鳥山下跨線人道橋・・・・・・・・・・王子駅南口を線路側に出ると、そこは人道橋の下だ。東北本線と京浜東北線を跨ぐ人道橋で、線路を挟み駅と反対側の飛鳥山公園を結んでいる。・・・・・・・・・古レールを構造材として使用し、橋長41m、幅員2.74mの固定アーチ橋。大正14年(1925)に竣工した。・・・・・・・・・古レールを使用した跨線人道橋としては、目黒駅近くの白金桟道橋や、東十条駅北口の東十条北口跨線橋などもある。飛鳥山下跨線人道橋と白金桟道橋は、“美しい跨線人道橋”のトップクラスにランクされる!

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②都電6080/D51・・・・・・・・・飛鳥山公園に保存されてる都電とD51。

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③渋沢史料館・青淵文庫・・・・・・・・・・・・御存じ渋沢栄一は、第一国立銀行、東京証券取引所、王子製紙など500以上の銀行・企業の設立に関わり、日本の資本主義を構築した第一人者だ。・・・・・・・・・その渋沢栄一の80歳と、子爵への昇爵を祝い、門下生から贈られた建物が、飛鳥山公園に建つ「青淵文庫(せいえんぶんこ)」である。・・・・・・・・・大正14年(1925)竣工、鉄筋コンクリート造2階建て、清水組(現:清水建設)施工。国の重要文化財。・・・・・・・・・今日は内部が公開されていたので、見事な装飾に心ときめかせ拝見してきた。 現在では創れないような職人技の内装は“素晴らしい”の一言!

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④渋沢史料館・晩香廬(ばんこうろ)・・・・・・・・・・・・渋沢栄一の喜寿を祝い、大正6年(1917)に旧清水組(現:清水建設)からプレゼントされた、木造平屋建ての建物。こちらも国の重要文化財。・・・・・・・・・・ 旧渋沢邸(現:飛鳥山公園)の来客接待用の建物として使用された。・・・・・・・・・・ ちなみに、我が家の来客接待用の部屋は、台所と続く食堂だ。スケール、人物の違いだ!

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⑤西ヶ原一里塚・・・・・・・・・・・一里塚は、渋沢資料館の斜め前(本郷通り)にある。江戸日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置された位置に、そのまま残されている。大正時代に道路改修工事により撤去する計画であったが、一里塚の前に住む渋沢栄一などが中心となり、地元住民の保存運動によって塚は残されることとなった。・・・・・・・・・・・現在は道路中央に残っているので、中央分離帯の役も果たしているかも?

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⑥I邸・・・・・・・・・・・一里塚の前の裏道をチョイト入ると、イギリス人の設計による大正6年(1917)建築の木造2階建ての洋館が在る。 まもなく、築後100年をむかえるが、建物が傷んでる様子もなく、丁寧に使用されているようだ。・・・・・・・・ぜひ、残して欲しい住宅だ!

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⑦七社神社・・・・・・・・・北区西ヶ原2丁目に鎮座する、西ヶ原・栄町の総鎮守。・・・・・・・・七祭神を祀ってることに由来し“七社神社”と称す。・・・・・・・・社殿には渋沢栄一の揮毫による扁額が掲げられている。

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⑧旧内閣印刷局滝野川分室工場・・・・・・・・・・西ヶ原に在る現在の国立印刷局滝野川工場。・・・・・・・・・・・・昭和5年(1930)竣工、鉄筋コンクリート造4階建て、大蔵省営繕管理局設計、安藤組(現:安藤建設)施工。・・・・・・・・・内部に入れないので、外から見る限り、装飾を廃した平坦なデザインで小学校のようにも見える。・・・・・・・・・内部で、何を印刷しているのかチラッと覗いてみたいね!

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・・・・・・・・・・・さすが、“国立”の印刷局だ、工場の隣りには、「独立行政法人国立印刷局 東京病院」が建っている。平成10年(1998)に竣工した新しい建物だが、創設は昭和11年(1936)だ。 

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●・・・・・・・・・・・まだ、雪は残っており、雪靴を履いてない私には、路地裏を歩くのは怖いね!・・・・・・・・・・最後に、今日飛鳥山であった友達を紹介すると、“タコと僕とパパ”

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2013年1月17日 (木)

赤羽~王子

JR赤羽駅から王子駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①赤羽西口本通り・・・・・・・・・・赤羽駅西口から東北本線と並行して南下する「赤羽西口本通り」という道がある、この道は将軍の日光参拝に使用した「日光御成街道」の一部である。また、岩槻藩の参勤交代にも使用した「岩槻街道」とも呼ばれている。 由緒・歴史ある街道で、数年前までは道沿いに興味をいだかせる建物が残っていた。・・・・・・・・・赤羽駅西側には王子方面に抜ける主要な道路が、ここしか無い為、交通量も多く、狭い道は危険な状態であった。そのため、数年前から幅員20mの道路に拡張工事が実施されていた。・・・・・・・・今日は散歩がてら、沿道の建物を見に来たが、無残にも全滅状態であった。広くなった道路沿いは、新しいい建物ばかりだ!

・・・・・・・・・・・・・赤羽駅西口前のロータリーは広いのだが、、、、、

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・・・・・・・・・・・・駅前から南方(王子方向)に向かう赤羽西口本通り・・・・・・・・・左側の車道2車線分が旧道路、右側が拡張部分で建物は壊され、広くなっている。・・・・・・・・・出桁造りの商家、看板建築の住宅、、、、、みんな無くなっている!

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②静勝寺(稲付城跡)・・・・・・・・・・・赤羽西口本通りから見上げる急な石段は、太田道灌が砦として使用した稲付(いなつけ)城跡だ!・・・・・・・・・階段を上り高台には、道灌の死後、永正元年(1504)稲付城を寺にして創建した静勝寺(じょうしょうじ)がある。・・・・・・・・・融け残った雪の残るお寺で、今日も手を合わせて来た!

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③普門院・・・・・・・・・普門院は妙覚山蓮華寺と号し、真言宗智山派の寺。徳治2年(1307=鎌倉時代)に創建されたそうだ。・・・・・・・・赤羽西口本通りからは、奥まった位置に正面入口の中国・台湾風の鐘楼門が見える。昭和17~18年(1942~43)頃に完成したらしい。また、境内にはインドブッダガヤの仏塔をモデルにした共同墓地が、異国情緒を漂わせている。こちらは昭和41年(1966)完成。

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④ナツミカン・・・・・・・・・・赤羽西口本通りに面するクリニックに、見事なナツミカンの木が。

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⑤Y邸の蔵・・・・・・・・・・・・民家に建つ大谷石の蔵。そんなに古いものではないようだ! 

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⑥清水坂公園・・・・・・・・・・北区を南北に走る武蔵野台地の崖地を利用し、アップ・ダウンのある立体的で変化に富んだ区立公園。・・・・・・・・・雪が残り、遊んでいる子はいなかった。

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・・・・・・・・・・・・公園の近くで、埼京線、東北線、新幹線の下を抜け“東十条”へ

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⑦東十条商店街・・・・・・・・・・・・活気あふれる、元気な商店街

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・・・・・・・・・・・・商店街の「ミュージックショップ・ダン」では、毎日のように、演歌歌手のサイン会がある。 今日は青戸健、明日は水田竜子、2月末までにあと17回のサイン会が予定されてる。・・・・・・・・・・・入口脇には小さなステージも用意されてる。

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⑧北王子駅・・・・・・・・・・・「日本製紙」の工場敷地への引込線で、大正15年(1926)からある貨物専用のJR駅。工場まで引かれてる路線には通称「北王子線」と呼ばれている。・・・・・・・・・・一日に数本の列車を運行しているが、運転時に遭遇するのは難しいね。今度来るときは時刻表を見て来ることにしよう!

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2013年1月16日 (水)

鶴見線

JR鶴見線の浜川崎駅から鶴見駅まで歩いてみた。1万8千歩、12km。

鶴見線・・・・・・・大正15年(1926)、鶴見臨港鉄道により、浜川崎駅~弁天橋駅間が開業し、以後戦前までに順次、京浜工業地帯に路線を延伸した。 昭和18年(1943)には、戦時買収により国有化され「鶴見線」となる。 現在は、鶴見駅から浜川崎駅・扇町駅までの本線、浅野駅から分岐して海芝浦駅までの支線、安善駅から分岐して大川駅までの支線、がある。・・・・・・・・・今日は、一昨日の雪も解けず足下が危ないので、浜川崎駅から鶴見駅までを歩き、浜川崎駅~扇町駅間と2本の支線は“おあずけ”とした。

①浜川崎駅・・・・・・・・・東海道本線(貨物支線)・南武線(浜川崎支線)・鶴見線の3路線が乗り入れている駅(無人駅)。旅客営業を行っているのは南武線と鶴見線のみで、両路線のホームは道路を挟み別々であるため、乗換に不便だ。・・・・・・・・南武線と鶴見線の旅客営業は共に昭和5年(1930)から。・・・・・・・・跨線橋の出口の一方はJFEスチール(旧日本鋼管)専用出口で企業駅のようだ!

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・・・・・・・・・・・・浜川崎駅の先(扇町方)はJFEの工場に入るように進む、、、、、

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②武蔵白石駅・・・・・・・・・・大川支線の始点・分岐駅だが、大川駅へ向かう電車は手前の安善駅に停車し、武蔵白石駅は通過する。昭和6年(1931)開業の無人駅。・・・・・・・・・駅舎は小さく可愛らしい造りだ!

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・・・・・・・・・・・・安善方から来る大川支線へ行く電車は、、、、、

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・・・・・・・・・・・・武蔵白石駅ホームの後ろ(写真右側)を通過して行く、、、、

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・・・・・・・・・・・・・武蔵白石駅と安善駅の間に在日米軍鶴見貯油施設の留置線がある

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・・・・・・・・・・・・安善湯・・・・・・・安善駅手前には、旧浅野セメント、旧東亜港湾建設の社宅があり、その近くの銭湯。 おそらく社宅の人が利用したのだろう、昭和初期の建築と思われるアールデコ風鉄筋コンクリート造の銭湯だ!

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③安善駅・・・・・・・安田財閥創業者:次郎が鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道を支援したことにちなみ駅名に付けられた。昭和5年(1930)開業の無人駅。・・・・・・・・なお、鶴見臨港鉄道は浅野総一郎、大川平三郎、白石元治郎らが発起人となり創立したので、駅名に個人名が残されている。

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・・・・・・・・・・・・安善駅前に、鉄筋コンクリート造2階建ての住宅が並んでいる。 きっと、社宅の跡だ! 今は櫛の歯が抜けた状態だが、建築当時は駅前にズラリ並んでいたであろう。 駅前角のタバコ屋も鉄筋コンクリート造だ!

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・・・・・・・・・・・浅野駅手前の運河

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④浅野駅・・・・・・・・・・扇町駅方面と海芝浦駅方面の線路が駅の手前で分岐し、ホームが三角の形状となっている。大正15年(1926)開業の無人駅。

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・・・・・・・・・・・・右は海芝浦方面、左は扇町方面

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⑤弁天橋駅・・・・・・・・・・・大正15年(1926)、鶴見臨港鉄道線が浜川崎駅から開業し、その終着駅として開業した。開業当時は貨物駅で、昭和5年(1930)に旅客営業が始まった。 ・・・・・・・・・・・ここも、駅前にはJFE(旧日本鋼管)がある。

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・・・・・・・・・・・・弁天橋駅と隣りの鶴見小野駅の間に鶴見線の車庫がある。

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・・・・・・・・・・・・産業道路の下を走る鶴見線

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⑥鶴見小野駅・・・・・・・・昭和11年(1936)開業の無人駅。

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・・・・・・・・・・・・・鶴見川を渡ってきた鶴見線

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・・・・・・・・・・・・・護岸で犬の散歩中、かわいいのでパチリ! 鶴見線とは無関係だ!

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⑦国道駅・・・・・・・・・・昭和の匂いを残す、相対式ホーム2面2線の高架駅。昭和5年(1930)開業の無人駅だが、今日はタマタマ駅員がいた。・・・・・・・・・・ホームと線路をまたぐアーチ型の鋼材、高架下の高いカーブした天井空間、木製の改札、、、、見るもの、在るもの、全て“昭和レトロ”だ。・・・・・・・・開業当時には「臨港デパート」と称するアーケードの店舗が並んでいた。・・・・・・・・・この高架下に立つと、石原裕次郎、宍戸錠、浅丘ルリ子など、往年の日活スターに出会うようだ。

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・・・・・・・・・・・国道(第一京浜)を渡り鶴見駅に近づくと、「蛇族 まむしや 戸山生命堂」が目に入った。 “なんだ、コリャ! 男(お床)の薬屋か?”。 廃業したようだ、興味半分、怖さ半分、気味が悪いが、できれば営業中に来てみたかった。 隣りは「ごはん」屋さん。

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・・・・・・・・・・・JR東海道線を跨線橋で越えると、総持寺の入り口前に出る。鶴見線の高架橋の下に、鶴見臨港バスの営業車があり、ここには現在は廃止となった“本山(ほんざん)駅”があった。・・・・・・・・・バスの車庫には、ホームに上がる階段跡が残っている。

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⑧鶴見駅・・・・・・・・・・・・鶴見臨港鉄道線の鶴見駅が現在地に開業したのは昭和9年(1934)。・・・・・・・・・鶴見線部分の駅舎(西口駅ビル)は、鶴見線の前身・鶴見臨港鉄道が建設したもので、開業と同時期に竣工したと思われる。 建物は現在も同社が所有している、そのためか、鶴見線の部分は古さを感じ、昨今のJRの建物とは異質である。・・・・・・・1階は「京急ストア」が入居。

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2013年1月14日 (月)

雪景色

爆弾低気圧のため、昼頃から都心は雪が積もりはじめた。 こんな日に外を歩いて骨折でもしたら物笑いとなるので、散歩は休みとした。でも、都心に雪が積もることも少なく、めったに見ることのできない景色もあると思い、チョイトだけ外に出た。 我が家(浅草橋)から両国駅まで、雪に滑らないように歩いてみた。 5千歩、4km。

・・・・・・・・・・・・正午、ビルの谷間の我が家から・・・・・・・・・オー、もう積もってる。“夫は喜び庭駆け回る、妻はこたつで丸くなる” 気分だ!

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・・・・・・・・・・・妻の制止を振り切り、浅草橋駅へ様子見に!・・・・・・・裏通りは、祝日でもあり、人も・車も少ないね! 

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・・・・・・・・・・・表通り(江戸通り)も静かだ!

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・・・・・・・・・・・JR浅草橋駅前も静かだ! 普段は雛人形を求め、駅前は夫婦連れが多いはずだが、今日は少ないね! 人形屋さんも開店休業状態だ!

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・・・・・・・・・・・雪の浅草橋

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・・・・・・・・・・・ついでに、柳橋 もパチリ!

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・・・・・・・・・・・ついでの、ついでに、両国橋 もパチリ!

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・・・・・・・・・・・ナント、この雪の中を“水上バス”が! 雪中川下りか?

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・・・・・・・・・・・ナント、ナント、この雪の中で、隅田川の写生ですか。・・・・・・・・川岸の首都高高架下で、雪に濡れる心配はないね!

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・・・・・・・・・・・お巡りさんも、今日は交通事故対応で多忙とのこと、私の話し相手になってくれない。

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・・・・・・・・・・・・ここまで来たら、ついでに国技館 にも寄ってみよう!・・・・・・・・相撲人気も復活したのか、この雪の中見物客もゾロゾロ!

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・・・・・・・・・・・・関取の出勤だ。車で通勤、電車で通勤、徒歩で通勤、仕事だから休めないね!

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・・・・・・・・・・・近くの“ちゃんこ”屋も、灯りをともし開店準備中。

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・・・・・・・・・・・ここまで来たら、靴の中はグジュグジュ、ジャケットはビショビショ、手袋はシメシメ、歩いて帰る勇気なし。 一駅の距離だが、両国駅 からJRで川を渡ることにした。

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・・・・・・・・・・・隣りの駅なのに電車が動かず、ホームで30分足止め。こんなことになるのなら、歩いて帰った方が早かった! 後の祭りだ、ワッショイワッショイ!・・・・・・・・電車の発車を待つ振袖姿の御嬢さんも可哀そうだ!

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・・・・・・・・・・・散歩は休みにするつもりだったが、結局、悲惨なミニ散歩となった。 “後悔先に立たず”

2013年1月13日 (日)

明治神宮

今日の午前中に、安倍首相が夫人と共に明治神宮を参拝した。 私も午後から夫人と共に明治神宮に参拝した。・・・・・・・・ 単なる偶然だがね!

・・・・・・・・・・・・オー、結構、参拝する人がいるもんだ! もう松の内も終わり、人が少ないと予想してきたが、見事はずれた!

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・・・・・・・・・・・・なるほど! 松飾、門松を持ってくる人もいるね。

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・・・・・・・・・・・オー、若い娘も多いね! みんな安倍首相のファンかな?

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・・・・・・・・・・・参道の途中で、つい、見上げてしまう大鳥居。 

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・・・・・・・・・・・社殿の近くの参道は、土埃で視界が少々悪い!

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・・・・・・・・・・そうです、明日は成人式! 記念撮影ですね。

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・・・・・・・・・・・社殿の前は人の波、コリャ、まだ正月気分だ!・・・・・・・・・・明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神宮だ。大正9年(1920)に鎮座祭が行われ造営されたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失し、現在の社殿は昭和33年(1985)の建造だ。

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・・・・・・・・・・・“参拝の方は並んでください”と云う雰囲気だ! 賽銭の小銭を用意しながら並ぶか。

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・・・・・・・・・・・賽銭箱前で、二拝二拍手一拝。 拝礼しながら賽銭箱の中を、つい、覗いてしまう悪い癖だ!

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・・・・・・・・・・参拝を終えて、社殿の裏側へ行く。人も少なく、歩きやすいね。

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・・・・・・・・・・・社殿裏側には、国の重要文化財に指定されている宝物殿がある。・・・・・・・・500円の施設維持協力金(入館料)を払い、正門をくぐる。

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・・・・・・・・・・・宝物殿は、大江新太郎の設計により、大正10年(1921)の竣工。校倉風大床造建物を中心に、鉄筋コンクリート造の13棟の建物で構成されてる。・・・・・・・・・・残念だが、展示室内は撮影禁止。 明治天皇(神様)が睨んでいるので、おとなしく鑑賞。

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・・・・・・・・・・・・・チョイトだけ、展示室の外から中を撮影。 ナイショで!

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・・・・・・・・・・・明治神宮を参拝したら、小田急線に沿い新宿へ。・・・・・・・これから先は、家内の買い物の付き合いだ! 

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・・・・・・・・・・・今日の万歩計は、1万歩、7km。

2013年1月12日 (土)

浅草橋~飯田橋

我が家(浅草橋)から、九段下の昭和館に立ち寄り飯田橋駅まで、1万3千歩、9kmの散歩です。

①第一KSビル・・・・・・・・・・千代田区神田淡路町に、大正14年(1925)、建設されたオフィスビル。(旧名を丸菱ビル) 鉄筋コンクリート造、地上5階/地下1階建ての小ぶりのビル。・・・・・・・・・・東京駅の赤煉瓦駅舎のように、屋上のパラペット部分、建物の胴回り、窓枠回りなどに白い帯状の装飾を施し、印象的なファサードとしている。国登録の有形文化財。・・・・・・・・・・余談だが、このビルの向かいに「近江屋洋菓子店」があり、何度か“お使い”をさせられた。

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②太田姫稲荷神社・・・・・・・・・・・室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願し、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いた。 その後、江戸時代、明治時代に、城外の神田地区を転々と移り、昭和6年(1931)現在地(駿河台)に遷座した。・・・・・・・・・・・場所は駿河台の一等地だが、懐具合が寂しいのか? 社殿、境内はだいぶ荒れている、チョイト手を加えないと、地震、台風で倒壊するかも?

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③旧主婦の友社ビル・・・・・・・・・明治大学リバティタワー(旧記念館)前に、旧主婦の友社ビル(現:お茶の水スクエア:日本大学・カザルスホール)は建っている。・・・・・・・・「主婦の友社」は神田駿河台に大正5年(1916)に設立。雑誌「主婦之友」を創刊し、「主婦と生活」、「婦人之友」などと共に、主婦向けの雑誌として発行部数を伸ばしていた。 特に毎年新年号の付録“家計簿”は、各雑誌とも好評だったようだ! わが母も“家計簿”欲しさに新年号だけは自腹で買っていた。・・・・・・・・旧・主婦の友本社ビルは、ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(東洋英和女学院早稲田教会などを手掛けた)の設計で、大正14年(1925)に建てられた。昭和62年(1987)には、主婦の友社の創業者の生誕100年を記念して、旧本社跡地に現在のお茶の水スクエア(設計:磯崎新)が建設された。 このとき、低層部分はヴォーリズが設計した旧本社ビルの外壁を残す予定であったが、工事中崩落し、材料・デザインを利用・踏襲している。 私が明大生で記念館に通っていた頃は、まだ主婦の友ビルは残っていたので懐かしいいね!・・・・・・・・平成15年(2003)、御茶ノ水スクエアは日本大学が取得し、お茶の水キャンパスとなっている。

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④明治大学リバティタワー・・・・・・・・駿河台の明治大学のシンボル的建築。かつてのシンボル“記念館(本館)”の跡地に建つ、地上23階/地下3階の高層建築。ここまで来たついでに、チョイト2階を覗いてみた! 学校とは思えないね!

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⑤東方学会・・・・・・・・・西神田の「東方学会本館」ビル。大正15年(1926)建築の鉄筋コンクリート造、3階建て(4階部分は後の増築)の小さなビル。元は「上野塾」という名の学校として建てられたようだ。・・・・・・・・昭和22年(1947)、外務省所管で、日本の東方文化の学術的研究の発展、東方諸国の文化の進展および国際文化の交流を目的として「東方学会」が設立された。現在は、その拠点となっている。・・・・・・・・・・アーチ状の玄関部分、その上に書かれた“東方学会”、玄関前の蘇鉄、、、、異国的な感じがするね!

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⑥軍人会館(九段会館)・・・・・・・・鉄筋コンクリート造のビルの上に和風の瓦屋根を載せた、昭和初期に流行した帝冠様式の代表的ビルが九段会館(旧称:軍人会館)だ。 設計は同潤会の川元良一、施工は清水組(現:清水建設)、地下1階/地上4階建ての鉄筋コンクリート造、昭和9年(1934)の竣工、工事費は約250万円。・・・・・・・・・3.11の地震により天井が崩落し死者が出たため、会館は営業を止め、建物は国に返還された。現在は建物全て閉鎖されている。・・・・・・・・私も、かつて、宿泊施設、レストランなどを利用したが、壊すにはもったいない建物だ。 保存を願う!

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・・・・・・・・・・・九段会館横の半地下式の公衆便所も封鎖された。九段会館と同時期に建てられたようで、こちらも天井が崩落したのかな? 便所も国に返還するようだ!

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⑦昭和館・・・・・・・・・・九段下に建つ、昭和館は厚生労働省所管の国立の博物館である。いわゆる戦中、戦後の国民生活を中心とした資料を展示している。懐かしく、興味も尽きず、何度も来る、安い(300円)博物館だ!・・・・・・・・平成11年(1999)に開館した建物は、菊竹清訓の設計、竹中・間・鉄建JVの施工、地上7階/地下2階建て、鉄骨造。・・・・・・・・・今日、展示コーナーはリニューアル工事中で閉鎖されていたが、映像資料室(無料)に行ってみた。戦前、戦中、戦後のニュース映画がパソコンで検索・閲覧できるので、時間を忘れる面白い処だ! 私は、“引揚船”・“舞鶴”のキーワードで検索し、“岸壁の母”に思いを馳せてきた。

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⑧九段坂・・・・・・・・・・御存じ、靖国神社に参拝するすとき上る坂。・・・・・・・・昭和館を出ると前に九段坂があり、チョイト、思い出すのは、昭和36年の唄「雨の九段坂」  ♪♪ あえぐ洋傘(こうもり)かしげて仰ぐ 雨に煙った大鳥居 母は来ましたやっと来ました 可愛いお前が住むお社へ 一目なりとも逢いたさに ♪♪

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●・・・・・・・・・ニュース映画の観賞に夢中になりすぎた! 飯田橋駅まで、急ぎ足で帰る!

2013年1月11日 (金)

平井~押上

気温6℃、風速5m/sで、散歩にはチョイト寒そうだ! 総武線平井駅からスカイツリーの下の地下鉄押上駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。

①燈明寺・・・・・・・・・・平井駅の西、旧中川の岸に、新義真言宗の明雅山明王院と号する燈明寺がある。開山は平安時代と伝えられているが、古い話なので年代は不詳である。 江戸時代中期には荒廃し、享保年間(1716~1735)に再興された。本堂は関東大震災で倒壊し、昭和4年(1929)に起工し、昭和19年(1944)に三屋根造りの優雅な金堂が完成した。・・・・・・・・・燈明寺の別堂:聖天堂は妻沼聖天、浅草待乳山聖天と共に関東三聖天となっている。・・・・・・・・・・荒川の氾濫による水害から堂を守るためか、本堂も聖天堂も高床となっている。この辺は海抜0m地帯だ!

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②平井諏訪神社・・・・・・・・享保年間(1716~36)、徳川吉宗の時代に燈明寺の僧が出身地の信州の諏訪大明神をここに祀ったのが始まりらしい。・・・・・・・・・・現社殿は昭和44年に鉄筋コンクリート造で建替えた。・・・・・・・・天保14年(1843)に建てられた旧本殿は、稲荷社として再利用されてる。江戸後期の神社建築として、外壁には多くの彩色された彫刻が飾られ特色を残している。 チョイト、色が落ちてきたので豪華さは感じられないね!

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③チョイト、懐かしい木造住宅・・・・・・・・・・・諏訪神社の近くに、私が子供の頃あちらこちらで見られた木造住宅があった。・・・・・・・・・・木製のガラス引き戸、竹製の面格子、桁の張出した二層の屋根、軒下には土壁が、、、、、、、いいね!

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④平井橋・・・・・・・・・・江戸川区平井と墨田区立花を結び、昭和55年(1980)に架けられた。下を流れるのは荒川によって分断された旧中川。

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⑤旧小山家住宅・・・・・・・・・・平井橋を渡り墨田区に入ると、橋の右側の土手に面して「立花大正民家園」がある。ここが旧小山家で、大正6年(1917)に建てられた農家の間取りと町屋の意匠とを併せもつ古民家が保存されている。・・・・・・・・・・旧中川の土手から数段下がると屋敷の門がある。門をくぐると細長く奥行きのある庭が伸び、正面に小山家の住宅が建っている。・・・・・・・・・破魔矢が飾られた座敷、赤煉瓦の勝手口、、、、、、いいね!

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⑥小村井駅・・・・・・・・・・・小村井駅(おむらいえき)は、東武鉄道亀戸線の中間駅で、昭和3年(1928)に開業した。・・・・・・・・・・15年程前、仕事で、顧客訪問にたびたび下車した駅だ。顧客の会社も大きくなり、思い出の多い駅だ!

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⑦香取神社・・・・・・・・・小村井駅の西側にある、旧・小村井村の鎮守様。神社は平安時代末期に下総国香取郡から移住してきた人々が香取神宮の分霊を勧請したといわれている。・・・・・・・・・・江戸時代、神社の隣りに3000坪を超える広大な梅園が在ったが、明治時代に洪水で梅園は壊滅した。現在は梅園を偲び、宮司の手により梅が植えられている。

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⑧スカイツリー・・・・・・・・・・・・・・・

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2013年1月 9日 (水)

隅田川テラス

夕飯前の散歩となり、我が家から両国橋に出て隅田川の右岸(中央区側)のテラスを永代橋へ、永代橋から曲がり日本橋まで、1万歩、7km。

①柳橋・・・・・・・・・・・神田川が隅田川に合流する直前に架かる震災復興橋。昭和4年(1929)に完成した、全長38mの鋼製タイドアーチ橋。橋のデザインは永代橋をモデルにしたそうだ。欄干には“かんざし”の装飾が施されている。・・・・・・・・中央区の“浜町”、台東区の“柳橋”の両花柳界を結ぶ橋。私が中学生の頃(昭和30年代)ぐらいまでは、隅田川の川岸に料亭が並び、夜になると料亭前には黒塗りの乗用車がズラリ並び近寄りづらい雰囲気だった。・・・・・・・・昼間は、船宿の桟橋から、四手網で魚を獲って遊んでいた。

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②御臨幸記念碑・・・・・・・・・・両国橋の近くに中央区立日本橋中学校が在る。校舎の横には、「御臨幸記念碑」が残されている。・・・・・・・・この記念碑は、大正12年(1923)の関東大震災で被災した東京が見事に復興したした様子を、昭和5年(1930)に昭和天皇が日本橋中学校(当時は千代田小学校)の校庭に立ち寄り視察した記念に、昭和8年(1933)に建立した。・・・・・・・・・碑の横に、当時(昭和初期)の千代田小学校の写真が残されていた。 一昨日、散歩した同じ中央区の十思小学校と様式が似ているね! 

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③浜町隧道・・・・・・・・明治座に近い中央区の浜町公園は、隅田川の岸に位置する。隅田川沿いの公園下に、中央区では唯一の隧道(トンネル)がある。トンネルは昭和55年(1980)に竣工し、平成11年(1999)に改築された。 長さ234m、一方通行の1車線の区道となっている。・・・・・・・・・・トンネル出口側は、なぜかホームレスの溜り場となっているようで、リヤカーなどが置かれ車と衝突するかも?

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④隅田川テラス・・・・・・・・・・・隅田川両岸に沿って、親しみやすい川辺の散策路として整備された親水テラス。昭和60年(1985)からスーパー堤防等整備事業の一環として、上流の白鬚地区から下流の勝鬨橋まで、隅田川両岸のほぼ全域で、順次整備されている。・・・・・・・・・・今日は、このテラスを両国橋近くから入り、永代橋まで、右岸(中央区側)を歩いた。

・・・・・・・・・・・両国橋新大橋

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・・・・・・・・・・・新大橋~清洲橋

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・・・・・・・・・・・・清洲橋~墨田川大橋・・・・・・・・首都高と2階建ての橋が隅田川大橋

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・・・・・・・・・・・隅田川大橋~永代橋

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⑤豊海橋・・・・・・・・・・・・永代橋の手前で、隅田川に合流する日本橋川の最下流に架かる橋。 大きな窓が連続するような構造は、フィーレンディール橋と呼ばれ、永代橋との景観上のバランスを考慮して設計された。昭和2年(1927)に竣工した震災復興橋。

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⑥茅場町・日本橋の夕暮れ・・・・・・・・・・・・

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2013年1月 8日 (火)

稲毛~千葉

総武線稲毛駅から千葉大の東側を歩き、総武本線東千葉駅前を通り千葉駅まで、6km程度の散歩です。 万歩計を忘れ、歩数は?

①稲毛駅・・・・・・・・・・・明治27年(1894)に総武鉄道(市川~佐倉)が開通し、5年後の明治32年(1899)に幕張と千葉の間に稲毛駅が開業した。 駅の老舗だ!・・・・・・・・・東京のベッドタウンとして、駅の周辺にはマンション、団地がやたら多い。 昭和40年代の高度成長期に建設された住宅も多く、住民の高齢化が進み昼過ぎの駅前には中高年が目立つね!

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②公務員住宅・・・・・・・・・千葉大の東側(稲毛区轟町)に建ち並ぶ、「関東財務局」が管理する公務員住宅。場所も良く、綺麗に手入れが出来ている住宅団地だ!・・・・・・・・・・公務員住宅が建つこのあたりは、かつて陸軍の施設が建ち並んでいたそうだ。 と、云うことは、元々国有地だったところ。・・・・・・・・・・・家賃は民間住宅の4~5分の1程らしい、羨ましいと思う人も多いだろうね。

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③旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築・・・・・・・・・・轟町の住宅地の一角に、千葉経済大学があり、キャンパスの中に、かつての陸軍鉄道第一連隊の材料廠の赤煉瓦の建物がある。・・・・・・・・・明治41年(1908)に建設されたもので、煉瓦造アーチ構造、南北に幅3m程の下屋を付設し、煉瓦構造の主要部分は約54m×7.3mと細長い建物だ。鉄道連隊材料廠が所有する機関車の修理工場として建設された。内部のアーチ部分に直行するように下屋の外部、出入口部分にはレールが残っている。・・・・・・・・・(去年の6月に来た時の写真はこちら)

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④陸軍気球連隊格納庫跡・・・・・・・・・・千葉経済大学近く、作草部の台地の上に「川光倉庫」という会社が在る。ここの米穀倉庫は、風船爆弾の気球を作った格納庫跡を再利用しているものだ。この格納庫跡は昭和4年(1929)に建てられ、厚いコンクリートとスレート屋根でできている。・・・・・・・・・風船爆弾は、気球にガスを充填し品質確認するため、天井の高い施設が必要であった。 そのため、戦時中は女学生を動員して、日劇、国際劇場などの建物の中で気球を作ったそうだ。

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⑤千葉医療センター・・・・・・・・・・・東千葉駅の北側(千葉市中央区椿森)の国立医療センター。現在の建物は平成22年(2010)に建てられたそうだ。・・・・・・・・・・この病院は、明治41年(1908)に千葉衛戍病院として創設され、昭和11年(1936)から千葉陸軍病院となり、昭和20年(1945)からは国立千葉病院となった。医療センターとなったのは平成16年(2004)からだ。・・・・・・・・・・・まだ、千葉病院であった平成5年頃、私の父が病院の近くで背骨を圧迫骨折し、ここに入院していた。当時、見舞いに毎週、浅草橋の我が家から通ったものだ。その頃の病院は陸軍病院の面影を残す、木造の病棟も残っていたと記憶している。 当時の面影が少しも残っていないのには、ガッカリ。

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⑥豊田米穀店・・・・・・・・・・・東千葉駅近くの、懐かしさを感じる佇まいの米屋さん。廃業したのか?

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⑦東千葉駅・・・・・・・・・・昭和40年(1965)、日本国有鉄道の駅として開業。・・・・・・・・・かつて、千葉駅は現:東千葉駅の150m程西側にあり、東京方からの列車は千葉駅でスイッチバックして房総方面に向かっていた。 そのスイッチバック解消のため昭和38年(1963)、千葉駅は現在の位置へ移転した。・・・・・・・・東千葉駅は移転後の千葉駅を補うため新設された。・・・・・・・・・・・売店も、立ち食いソバ屋もない、魅力ない駅だ。 私も、ここから乗車するのはパスして、少し歩いて千葉駅から乗ることにした。

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⑧千葉モノレール・・・・・・・・・・駅前の巨大オブジェ?

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2013年1月 7日 (月)

浅草橋~駿河台

我が家(浅草橋)から、小伝馬町、神田駅周辺、駿河台をブラブラして、御茶の水まで、1万歩、7kmの散歩です。

①十思小学校・・・・・・・・・・・中央区日本橋小伝馬町に建つ、昭和3年(1928)竣工、鉄筋コンクリート造3階建ての関東大震災復興小学校。 正面玄関の曲面構造、半円の柱型、アーチ状の窓などで構成されるデザインは、20世紀初頭の表現主義建築(検見川無線送信所なども同じ様式)の特徴を表している小学校だ。・・・・・・・・・・貴重な学校建築だが、現在は少子化の影響で廃校となり、複合施設「十思スクエア」として広く区民に解放されている。・・・・・・・・・十思小学校は明治11年(1878)に十思学校として開校した。校名の“十思”(じっし)とは? 地名でも人名でもない。中国宋の時代の歴史書『資治通鑑』(しじつがん)より、天子のわきまえなければならない戒め「十思之疏」(じっしのそ)から名づけられた。・・・・・・・・・・明治の人は、校名にも気を配り命名したようだ。 現在では、役所が命名する校名は第○○小学校と連番だから、味気なく、愛着もないね!

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②JR神田駅・・・・・・・・・・現在、神田駅に接して平行に走る新幹線高架橋の上に、さらに高架橋を増築し“二層の高架橋”とし、新幹線の上に“東北縦貫線”を走らせる改良工事の真っ最中。 平成26年(2014)の完成予定。

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・・・・・・・・・・高架下は、中央通りに面した神田駅玄関部分・・・・・・・・よく見ると、太い柱にチョイトした飾り部分があり、アーチ状の梁が載っている。歴史を感じる部分だ!

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・・・・・・・・・・神田駅前には「健やかに」(作:田中昭)の像があり、忙しそうなサラリーマンを見つめているようだ!

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③文房堂(文房ビル)・・・・・・・・・・駿河台下の有名な画材屋さん。大正11年(1922)の旧本社ビルの外観を保存した建物。・・・・・・・・・・・建物全体が彫刻のような感じで、重厚な建物だ。内部は画材屋さんで、版画・絵葉書などもあり、楽しいお店だ!

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④学生時代の喫茶店・・・・・・・・・三省堂の裏口前の路地に残る、学生時代の喫茶店・バー

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⑤古本屋・・・・・・・・神保町といえば古本屋が、かつてはズラリ並んでいた。 私の知る、昭和30年代は、駿河台下から九段下にかけてだ。 今は、ズラリでなく、ポツリポツリだ!・・・・・・・・・・近頃は、古本屋を覗いてる中高年が多く、学生は少ない感だね! 私も、今日古本屋を覗いてみたが、私の探す本は見つからなかった。残念!

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⑥山の上ホテル・・・・・・・・・・・私の好きなウィリアム・メレル・ヴォーリズ(早稲田教会東洋英和女学院などを設計)の設計により、昭和11年(1936)に、アール・デコ調のクラシカルな内外装を施し、「佐藤新興生活館」として完成した。・・・・・・・・・ホテルは太平洋戦争中に帝国海軍によって使われ、戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されて陸軍婦人部隊の宿舎として使われた。・・・・・・・・昭和29年(1954)の接収解除後は、「山の上ホテル」として創業した。

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●・・・・・・・・・・・今日は神保町の本屋で、JR貨物の時刻表を購入してきた。 “貨物列車の時刻表など買ってどうするの?” “何故か、見てると楽しい本だ!”  

2013年1月 6日 (日)

浅草橋~松戸

そろそろ正月のおせち太りを解消するため、長距離の散歩とした。12時に我が家(浅草橋)を出て、浅草橋駅前から6号線(水戸街道)沿いに、言問橋、四ツ木橋、新葛飾橋を渡り、常磐線松戸駅まで、2万8千歩、20kmの歩きです。

①浅草橋駅(12:00)・・・・・・・・・ まだ松の内で日曜だ、明日から営業する店も多く、駅前を行く人もチョイト少ないようだ!

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②須賀神社(12:03)・・・・・・・・・浅草橋駅から200m程の行くと、推古天皇の時代(600)に創建された須賀神社がある。祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)で、目的完遂、病気平癒などの御利益がある神社だ。・・・・・・・・浅草橋2丁目・柳橋の氏神様。地元の神社なので、私も、チョイト立ち寄り参拝していく。・・・・・・・・・・社殿は昭和36年(1961)造営の鉄筋コンクリート造り。

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③駒形どぜう(12:20)・・・・・・・・・徳川11代将軍家斉の時代(1801)に創業した“どぜう”料理の超老舗。浅草寺に参拝した帰りか、スカイツリーを見学した帰りか、満員のようだ!・・・・・・・・・・歩道にまでどぜう鍋の匂いがただよい、鼻の穴がピクピク!

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④東武浅草駅(12:30)・・・・・・・・・・毎週、駅の前を歩いているので、もう厭きた! 通過!

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⑤言問橋(12:45)・・・・・・・・・・スカイツリーを見て、浅草へ向かう人とすれ違い。・・・・・・・・・6号線は橋を渡ると、スカイツリーの正面を左折する。

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⑥向島3丁目(12:50)・・・・・・・・・・柱の飾り、窓の半円状のデザインなど、特徴あるモルタル系の看板建築も残っている・・・・・・・・・ビルの間にはスカイツリーが立つ

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⑦B1形6号蒸気機関車(13:10)・・・・・・・・東武博物館(東向島駅)脇のガード下には、東武鉄道開業時のB1形6号蒸気機関車が、廃車時の姿で保存されている。・・・・・・・・・歩きながら、只で見られる蒸気機関車はうれしいね!

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⑧四ツ木橋(13:30)・・・・・・・・・・荒川に架かる四ツ木橋は、大正11年(1922)に木製で架橋されたが、戦後昭和27年(1952)に現在の長さ:507.4mの鋼製の橋に架け替えられた。・・・・・・・・・今日は風がなく、橋を渡る顔も痛さを感じない!

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⑨京成線国道第6号線架道橋(14:00)・・・・・・・・・・・・京成本線お花茶屋駅と青砥駅の中間地点だ!・・・・・・・・・私の散歩は、我が家から2時間、9km程歩いたところだ。 まだ、疲れを感じない、若い証拠かも?

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⑩中川大橋(14:30)・・・・・・・・・昭和60年(1985)に、長さ134m、幅員31mの現在の橋に架け替えられた。旧橋は昭和10年(1935)に架橋された。・・・・・・・・橋の両岸、東京寄りの葛飾区青戸には「延命寺」が、水戸寄りの葛飾区新宿には「日枝神社」がある。

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⑪新金貨物線新宿新道踏切(14:40)・・・・・・・・・・総武線新小岩駅と常磐線金町駅を結ぶ貨物線。

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⑫京成金町線踏切(15:00)・・・・・・・・・・・帝釈天詣で、“柴又七福神”、“江戸川ライン七福神”巡りなど、結構、神社仏閣巡りに利用されている京成金町線だ! 今日も沿線には中高年の団体さんの初詣が見られた。

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⑬新葛飾橋(15:10)・・・・・・・・・・東京都葛飾区と千葉県松戸市を結ぶ、江戸川に架かる橋。昭和39年(1964)に完成した、長さ442mの橋だ。・・・・・・・・・橋を渡っても、松戸駅まではマダマダ遠い!・・・・・・・・・・橋と並行に常磐線が走る。・・・・・・・・橋上から、東京側を振り向くとスカイツリーが見える。こんなに良く見えるとは、これまた驚いた!

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⑭浅間神社(15:40)・・・・・・・・・・・松戸市に入り、国道6号線と流山街道の分岐点に浅間神社がある。神社は標高20mの山となっており、頂上に御社が在る。長い階段の脇には“○合目”と表示され、富士山に登る雰囲気だ!

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⑮松戸駅(16:15)・・・・・・・・・・・・散歩の終点。 少しは正月太りを解消できたかな?

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2013年1月 3日 (木)

谷中七福神

今日も天気良し、夫婦で「谷中七福神」に行ってきた。田端駅から御徒町駅まで、1万4千歩、10kmの歩き。、

「谷中七福神」は、北の田端駅近くの東覚寺から、南の上野不忍池の弁天堂まで、“上野台地”に沿って点在する7寺院の七福神を巡る。 “江戸最古の七福神”の謳い文句を見て、我が家でも行ってみようか!

①東覚寺(福禄寿)・・・・・・・・・延徳3年(1491)に創建された真言宗豊山派の寺院で、慶長年間に現在地(北区田端)へ移転した。・・・・・・・本堂前に行列ができ、私も並んで手を合わせてきたが、“福禄寿”が見えない! “きっと、仏壇の奥に安置され見えないのだ”と思い寺をあとにした。 帰って、調べてみたら寺務所に祀られていたそうだ! 残念、見逃してきた!

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②青雲寺(恵比須)・・・・・・・・・JR西日暮里駅の西側に位置する、臨済宗妙心寺派のの寺院。・・・・・・・・・・重層造の本堂は昭和35年(1960)に建てられた。・・・・・・・・恵比須さんは本堂正面に祀られていた。 大きな鯛を小脇にかかえ、見慣れたスタイルの像だ。

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③修性院(布袋)・・・・・・・・・・青雲寺の近くに、天正元年(1573)に創建された日蓮宗の修性院がある。・・・・・・・・鉄筋コンクリート造の本堂に、御本尊と並び布袋尊は祀られていた。 参詣客の中には、御本尊に手を合わせず、脇の布袋尊だけに手を合わせる人もいたが、できれば御本尊には手を合わせてほしいね!

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・・・・・・・・・・・修性院の塀には布袋さんが描かれている。塀の横を曲がると、富士見坂があり、坂の上には諏方神社がある。

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④経王寺・・・・・・・・・谷中は“夕やけだんだん”を上がった角に経王寺がある。明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られている。この大黒さまは、“旧谷中七福神”のひとつだが、現在は“谷中七福神”から外されているため訪れる人も少なく、大黒堂の扉は小さく開けられているだけだ。・・・・・・・・・大黒さまが悪さをしたとは思えないし、なぜ、外されたのか? 

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⑤日暮里駅南口・・・・・・・・・・とんがり帽子の駅舎は日暮里駅南口。日暮里駅のメインの改札は北口で、南口は喫煙コーナーのある愛煙家向けの出入り口だ!・・・・・・・・・とんがり帽子を見ると唄いたくなるのは、美空ひばりが唄う昭和22年(1947)ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌 ♪♪ 緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン メイメイ子山羊も ないてます 、、、 ♪♪

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⑥天王寺(毘沙門天)・・・・・・・・・鎌倉時代に創建した、護国山天王寺。創建時は日蓮宗の寺院であったが、後に、天台宗に改宗した。江戸時代には富くじ興行が許可され賑わっていたが、幕末上野戦争では、寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失した。さらに昭和32年(1957)の放火心中事件で五重塔を焼失した。・・・・・・・・・・毘沙門堂の奥にシルエット姿で祀られている毘沙門天。

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⑦長安寺(寿老人)・・・・・・・・・・・臨済宗妙心寺派寺院の長安寺は、江戸時代中期の正徳2年(1712)に長安寺の寺号が認められ、谷中の現在地に創建された。・・・・・・・・・・さほど大きくない寺院だが、屋敷風の建物の梁上に安置されてる寿老人は、下から拝みあげるので貫録十分! 御利益ありそう?

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⑧護国院(大黒天)・・・・・・・・・・東京藝大と上野高校に挟まれた寺院が護国院だ。護国院は寛永寺の子院で、寛永元年(1624)に現:国立博物館の近くに開創した。宝永6年(1709)に現在地へ移転した。・・・・・・・・三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像が谷中七福神の一つとなっているが、本堂で手を合わせるのは仏像だ。 アレ、絵じゃないの? どうでもエーか。

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⑨不忍池弁天堂(弁才天)・・・・・・・・・弁天堂は東叡山寛永寺の一つで、琵琶湖に見立てた不忍池の中に、竹生島を模した不忍池弁天堂がある。・・・・・・・・ものすごい行列にビックリ。 蛇は弁才天の使いなので、巳年の弁才天詣では、財産を呼び込んでくれるそうだ。・・・・・・・・弁天堂に祀られている弁才天は、賽銭箱から遠く、参詣客も多く、弁才天の顔を見る余裕もなく、お別れ!

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●・・・・・・・・・・・・元日の「深川七福神」と今日の「谷中七福神」で、合計十四福神を巡る。今年は御利益を、大いに期待しよう!

2013年1月 1日 (火)

深川七福神巡り

今年の初詣は、夫婦で、我が家(浅草橋)の氏神さま「銀杏岡八幡神社」に始まり、「深川七福神巡り」となった。 1万4千歩、10kmの歩きです。

①銀杏岡八幡神社・・・・・・・・まずは、浅草橋駅の裏に鎮座する氏神さまに新年のご挨拶、“今年もよろしくお願いします”。

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②浅草橋・両国橋から・・・・・・・・・・風もなく、穏やかな元日となった、“初詣日和”だ!

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③深川神明宮・・・・・・・・・七福神巡りの一番手は、地下鉄森下駅近くにある深川神明宮の寿老神。・・・・・・・・慶長年間(1596~1615)以前に創建されたといわれる、深川において最も古い神社。 摂津出身の深川八郎右衛門が一族を引き連れて深川を開拓するにあたり、屋敷内に伊勢神宮の分霊を奉斎したことに始まる。その後、深川の地も発展し、祠から始まった、神明宮も鎮守となり崇敬を集めた。・・・・・・・・寿老神は、人に延命長寿の福徳を授ける福神なので、私も、80歳ぐらいまで健康に生き、コロリと死ねるといいね?

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④正木稲荷神社・・・・・・・・・・・小名木川に架かる萬年橋の近くに、芭蕉稲荷神社と正木稲荷神社が鎮座している。・・・・・・・・・・腫れ物の治癒に霊験あらたかな正木稲荷神社は、“おできの神様”と称されているらしい。その祈願方法は、全快までそばを断ち全快すればそばを献じるそうだが、私、昨日そばを食べてしまったので、後頭部悪性腫瘍は全快しないかも、ガッカリ!

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⑤深川稲荷神社・・・・・・・・・七福神の二番手は、布袋尊のまつられている深川稲荷神社。寛永7年(1630)に創立した古い神社で、清澄2丁目の町角にある小さな神社だ。・・・・・・・・・布袋尊は、清廉潔白、大気度量を人々に授ける福神として、信仰されている。私を神様にしたようなものだ!

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⑥龍光院・・・・・・・・・・・・江東区三好の龍光院は、近くの浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長16年(1611)に馬喰町(中央区)で創立し、以後、大火で焼失し移転を繰り返し、天和2年(1682)深川の地に移った。・・・・・・・・龍光院が現在地に移ったとき、鬼門除けとして三尺ほどの石造の毘沙門天が安置されたが、昭和20年(1945)には戦災のため堂宇を焼失した。その後復興し、昭和50年(1975)、木彫の立派な毘沙門天が安置された。比較的新しい像だ!・・・・・・・・・・毘沙門天は護法と施福を兼ねる仏神として、人々に勇気や決断力を与え、財福を授ける福神として信仰されている。

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⑦円珠院・・・・・・・・・・・江東区平野1の円珠院には七福神の四番手として、木造の大黒天が安置されている。・・・・・・・・・円珠院は日蓮宗の寺で、創建の年は不明だが、開山は寛保元年(1741)に没した義勝院日演という僧らしい。・・・・・・・・大黒天が、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座す姿は、豊かな財宝糧食を有している福神だ! あやかりたいね!

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⑧心行寺・・・・・・・・・五番手は心行寺の福禄寿。・・・・・・・・・元和2年(1616)、八丁堀に創立された浄土宗の寺で、寛永10年(1633)現在地:深川2丁目に移った由緒ある古刹。震災・戦災により、建物は二度も焼失した。現在の本堂は昭和42年(1967)に再建された。また、昭和50年には福禄寿を安置している六角堂が完成した。・・・・・・・・・・福禄寿は、福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の三つの福徳を授ける神と言われている。六角堂の福禄寿の前には盗難防止用(?)の網が設置され、姿ははっきり見えず、ただアリガタヤの念仏だけだ!

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⑨閻魔堂・・・・・・・・・・真言宗豊山派の賢台山賢法寺法乗院は、“深川閻魔堂”として有名だ。法乗院は寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年(1641)には現在地(深川2丁目)に移転したといわれている。 江戸三閻魔の一つらしいが、昔の閻魔堂は戦災で焼けた。 現在は平成元年(1989)に再建された“ハイテク閻魔様”で、賽銭を入れるとコンピューター制御で堂内に照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じた説教が流れてくる見世物小屋並みの、高さ3.5mの大きな閻魔がある。・・・・・・・・・笑っちゃいけないが、笑いたくなる、残念ながら、歴史を感じることができない寺だ! 

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⑩冬木弁天堂・・・・・・・・・・・七福神の六番手は、冬木弁天堂の弁財天。木場の材木豪商:冬木弥平次が宝永2年(1705)、邸内の池のほとりに竹生島から移した弁財天を安置した。 大正12年(1923)の関東大震災で焼失したため、現在の弁天堂は昭和28年(1953)に再建されたが、境内はお堂だけの広さしかなく、狭くなっている。・・・・・・・・弁財天は、財宝を施す福の神として信仰されている。 弁財天の井戸水でお金を洗うと増えるそうで、私の妻が好きな神様だ!

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⑪富岡八幡宮・・・・・・・・・・・富岡八幡宮は、寛永4年(1627)に、永代島と呼ばれていた小島に創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と居住地を開き、現在の八幡宮境内、深川公園を含む広大な社有地を有していた。 隅田川両岸一帯(現中央区と江東区)に氏子がおり、広く崇敬を集めている。・・・・・・・・・・初詣の人出ベストテンに入る、参拝客の多さ。

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⑫富岡八幡宮恵比須宮・・・・・・・・・・・・富岡八幡宮の境内社として恵比須宮がある。・・・・・・・・・深川七福神の七番手として、恵比須神が祀られている。・・・・・・・・今日は八幡宮の拝殿に詣でた参拝客の一部が、こちらにも詣で社の前に長蛇の列。

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あさり蒸籠めし・・・・・・・・・・・・・深川に来たら“あさり飯”を食べないと。 今日は神社前で、「あさり蒸籠めし」を食することに!

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●・・・・・・・・・・・・・・以上、深川七福神を踏破した。・・・・・・・来年は、どこにしようか?

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