中延~新馬場
都営地下鉄中延駅から、京急新馬場駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。
①中延駅・・・・・・・・・昭和43年(1968)に、第二京浜国道の下を走る都営1号線(現:浅草線)の中延(なかのぶ)駅が開業した。・・・・・・・・・国道わきの小さな出入口をでて、50m程歩くと東急大井町線の中延駅だ。昭和2年(1927)、目黒蒲田電鉄(現:東京急行電鉄)の高架駅として開業した。・・・・・・・・・・大井町線中延駅から西隣りの駅は荏原町(えばらまち)駅で、中延駅の500m程北側に東急池上線の荏原中延(えばらなかのぶ)駅がある。 ややこしい駅名と配置だ。
・・・・・・・・・・・・朝は東急から都営地下鉄に乗り換える人が多く、人の流れは一方通行の状態だ。
②子育て地蔵尊・・・・・・・・・・戸越6丁目に小さなお堂が建っている。このお堂の中に、首がチョイト小さいアンバランスなお地蔵様が祀られている。「子育て地蔵」で、「首なし地蔵」とも呼ばれたそうだ。・・・・・・・・・江戸時代末期、近くの人々が願い事のため、お地蔵様の首や胴を畑の畦道に転がし、願い事が叶うと首や胴を元の場所に戻すという慣わしがあった。そのうち首が無くなり、大正時代末期に目黒の植木屋さんが別の首を取り付けたと言われている。・・・・・・・・・江戸時代から苦難に遭った可哀そうな地蔵さんだ!
③戸越公園駅・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に開業した、目黒蒲田電鉄大井町線(現:東急大井町線)の駅。開業時の駅名は蛇窪(へびくぼ)だった。・・・・・・・・私はヘビが嫌いなので、改称して良かったね。 でも、改称しなければ、今年の干支にちなみ正月は切符が売れたかも? 残念でした!
④戸越公園・・・・・・・・公園の在る一帯は、江戸時代初期に熊本藩主・細川家の下屋敷があったところで、後に細川家の戸越屋敷として屋敷や回遊式庭園などが整備された。その後、松平家や久松家の所有となり、明治23年(1890)に三井家に移った。昭和7年(1932)に三井家から荏原町(現:品川区)に庭園部分が寄付され戸越公園として開園した。・・・・・・・・・正面には薬医門(平成4年(1992)築)がたてられている。・・・・・・・・・・・池では水鳥が朝礼の最中。
⑤旧三井文庫第二倉庫・・・・・・・・・・・・戸越公園の斜め前の国文学研究資料館跡地に「文庫の森」公園が昨年12月に開園した。・・・・・・・・・この敷地には、大正7年(1918)に三井家編纂室(=三井文庫:三井財閥の修史事業を行う)が日本橋から移転してきて、ここに膨大・貴重な資料が集められ戦前まで整理された。 戦中は、資料の多くを疎開させ戦禍を免れた。 戦後、GHQにより三井本社は解散し、三井文庫も活動の停止し、敷地と建物は文部省に売却した。三井文庫の所蔵史料は文部省史料館に寄託された。・・・・・・・・その三井文庫の倉庫が2棟あったが、現在は1棟が残され、外観をそのままに防災備蓄倉庫として活用されることになった。・・・・・・・・・・倉庫は鉄筋コンクリート3階建てで、大正7年(1918)竣工の第一倉庫(取り壊し)と、大正11年(1922)竣工の第二倉庫(現存)があった。 設計は東大の理学部化学東館を設計した、東京帝国大学営繕課長の山口孝吉(1873~1937)。
⑥品川区豊町の裏道・・・・・・・・・・・洒落た路地裏。行き止まりのような裏道。夜道が怖そうな裏道、、、、、、いろいろ!
・・・・・・・・・・・・行き止まりのようだが、街路灯もあるので奥へ行く。
・・・・・・・・・・・・・街路灯の下に階段が、そして一人がやっと通れる細い路
・・・・・・・・・・・・・通り抜けて振り返ると、階段が見える
・・・・・・・・・・・・・出たところは、道幅が3倍に広がった!歩きやすいね!
⑦百反歩道橋・・・・・・・・・・・・西品川3丁目と大崎1丁目を結び、りんかい線、湘南新宿ラインを跨ぐのは、百反(ひゃくたん)歩道橋だ。 歩道橋に並走して、東海道新幹線、横須賀線が走り、さらに近くを山手線がカーブしていく。まさに“足下と、ぐるり一周”鉄道を見ることができる。鉄道好きにはたまらないね!
⑧第一三共製薬・・・・・・・・・・東海道新幹線が品川を出て左手(海側)み見える製薬会社の研究所。その一角に昭和初期以降に建てられたと、個人的に推定した3階建ての建物がある。・・・・・・・・・・・今後、建築年代を調べてみるつもりだ!
⑨本光寺・・・・・・・・・・目黒川沿いを歩いていると、第一京浜国道に面して、境内の広い寺があり三重塔がチラリと見える。・・・・・・・・・経王山本光寺は、真言宗寺院として創建されましたが、永徳2年(1382)に法華宗に改宗したそうだ。本堂は昭和43年(1968)に再建された鉄筋コンクリート造。