浅草橋~曳舟
今日は東日本大震災から2年目、昨日は東京大空襲から68年目、散歩はまず東京都慰霊堂に行って手を合わせることからスタートした。浅草橋の我が家から京成曳舟駅まで、1万4千歩、10kmの歩きです。
①蔵前橋 ・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に竣工したアーチ橋。設計は井浦亥三(当時:復興局橋梁課)、施工は石川島造船所。関東大震災後、復興橋として架けられた、当時としては斬新なデザインのシンボル的な橋。・・・・・・・・・総工費は175万1千円だった。参考に、昭和4年の物価は、うな重60銭、とんかつ20銭、、、、、参考にならんか!
②東京都慰霊堂 ・・・・・・・・・・・・今日は、扉が開いた直後に来たので、一番に手を合わせることとなった。静かに、誰もいない処で合掌。 昨日の東京大空襲慰霊祭の献花も、そのまま飾られ、今日訪れる人を待っているようだ。・・・・・・・・・・・東大名誉教授:伊東忠太の設計により、昭和5年(1930)に竣工した。伊東忠太は遊就館、築地本願寺、湯島聖堂なども設計し、昭和18年(1943)には建築界ではじめて文化勲章を受賞した。
・・・・・・・・・・・・・慰霊堂に展示されていた、東京大空襲後、東武浅草駅辺りから見た隅田川の写真。 手前の橋から、駒形橋、厩橋、蔵前橋、JR総武線隅田川橋梁。・・・・・・・・・一面の焼け野原、この翌年、浅草橋で生まれた赤子が今の私だ。 よく育ったもんだね!
③蔵を残す現場・・・・・・・・・・“本所”近くの工事現場では、3階建ての蔵を残して仕事が進んでいた。現場の作業員の話では、オーナーの意向で残しているとか。 うれしいね、古い建物を大切に保存してくれて! ・・・・・・・・さっそく調べてみたら、オーナーは「伊勢半」という会社の社長だった。 ここに、「伊勢半」が明治38年(1905)頃から終戦まで、本社を置いていたらしい。 ところで「伊勢半」という会社は、化粧品会社で男性の私にはなじみがなかったが、あの“キスミー化粧品”といえば知る人は多いはずだ。 懐かしくなってきたついでに、化粧品会社を連想すると、、、、、ハイウッド化商品、八重椿本舗、君が代、柳屋、資生堂、守田宝丹、などなど。
④本所・横川を抜けて行く・・・・・・・・・・カトリック本所教会、妙見山、紅葉橋、日本たばこ、の前を通り、柳島橋へ
・・・・・・・・・・・・柳島橋は亀戸天神の北側(裏側)で、スカイツリーの足下を流れる北十間川と、ここ柳島から分岐して東陽町の方へ流れる横十間川がT型に交わるところだ。
⑤都営文化一丁目アパート・・・・・・・・・昭和40年(1965)から昭和58年(1983)頃までに建てられた、37棟、約1800戸を有する団地。・・・・・・・・・デカイね!
⑥京島・・・・・・・・・・東武亀戸線の踏切を超えると、そこは京島地区です。・・・・・・・訪れるたびに、古い住宅が壊されていく。 スカイツリーと京成押上線の高架化による、地価の高騰か? 凄く早いペースで再開発が進んでいる。 おそらく、このスピードだとあと2年もしたらガラッと変わることだろう。
・・・・・・・・・・・・・京島で見つけた懐かしい台秤
⑦京成曳舟駅・・・・・・・・・・大正元年(1912)に開業した、相対式2面2線の地上駅。改札口は、上り下り別で、しかもホームの両端にあるので、全部で4か所だ。・・・・・・・・・現在は京成押上線(押上~八広間)の連続立体交差事業により、高架化の真っ最中。既設の地上線上下を若干北に移動し、南側に高架の上り線と駅舎を建設中だ。 まもなく、上り線が高架となり、下り線の高架橋工事も始まるだろう。・・・・・・・・全てが完成すると、改札は高架下に1か所となり、駅前は整備され広くなる。これで“下町”の駅から、“山ノ手風”の駅に変身する。