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2013年5月

2013年5月31日 (金)

隅田川の橋

梅雨の合間の晴れ、今日は散歩日和だが、あいにく、病院の診察日と重なった。 昨年9月に発病した小豆大の後頭部表皮の悪性腫瘍、秋には2回の外科手術で除去した。 その後、3か月毎に診察をうけ、今日がその日だ。もちろん、結果は異状なし。

散歩は、浅草橋の我が家から蔵前橋を渡り、病院へ。 診察後は、厩橋、駒形橋をまわり我が家まで、1万歩、7km。

①総武線隅田川橋梁・・・・・・・・・・・・・元土木学会会長:東大教授:田中豊(たなかゆたか:1888~1964)の設計による、昭和7年(1932)竣工の総武線(浅草橋~両国)の鉄道橋。・・・・・・・・・・全長172mの橋は、38m+96m+38mの3径間に分けられ、中央径間は桁+アーチの構造で強度を増している。全体的には細い直線の桁が一本水平に走る、シンプルで、軽やかなデザインとなっている。・・・・・・・・・設計した、田中豊は日本の橋梁設計の大御所でその業績を記念し、優れた特色を有する橋梁が毎年選考され、与えられえる土木学会田中賞の名称となっている。「かつしかハープ橋」「レインボーブリッジ」などが受賞している。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和30年代の総武線隅田川橋梁(ウィキペディアから)・・・・・・・・・丸いドーム屋根は旧両国国技館(→旧日大講堂→取り壊し、現存しない)

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②蔵前専用橋・・・・・・・・・・総武線隅田川橋梁の上流に、蔵前橋と並行に架かる橋。 NTTの専用橋で、桁の内部には通信線がひかれている。・・・・・・・・全長155.4mの3径間連続鋼箱桁橋で、昭和42年(1967)竣工。・・・・・・・・・・・無骨なこの橋に邪魔され、蔵前橋の全景を下流側から撮るのは難しい! “邪魔だ、退け!”と叫びたいね。・・・・・・・・・・この橋の対岸正面に、私が通う病院が在る。

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③蔵前橋・・・・・・・・・・震災復興橋として、総工費175万円(昭和元年の物価 白米(10キロ)3円20銭)をかけ、昭和2年(1927)に竣工した。3径間連続上路式スチールアーチ橋。・・・・・・・・・・・“黄色の橋”というと“ケバ”そうに思うが、私は見慣れているせいか、“これぞ蔵前橋の色”に見える。・・・・・・・・欄干やバルコニーの力士・芸者の透かし彫りもいいね!

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・・・・・・・・・・・・・蔵前橋の際には“首尾の松”が残され、歴史を語っている

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・・・・・・・・・・・・・・蔵前橋のまたぐらから覗く厩橋

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④厩橋・・・・・・・・・・蔵前橋の上流は厩橋(うまやばし)。こちらは、総工費113万円で、昭和4年(1929)に竣工した。橋長151.4m、3径間下路式タイドアーチ橋で、重量感あるデザインだ。 親柱・外灯などに馬をデザインしたレリーフなどが施されている。・・・・・・・・・・橋名は、江戸時代、幕府の厩舎があったことから、この辺りは御厩の渡しと称されていたことに由来する。 中央競馬会とは無関係だ!

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・・・・・・・・・・・・・・ガラガラの水上バスが橋の下を通過

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・・・・・・・・・・・・・厩橋からのスカイツリー

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⑤駒形橋・・・・・・・・・・・「駒形どぜう」、駒形はうなぎの「前川」、とろろ飯の「むぎとろ」と、食べることしか連想できないのが、かわいそうな私だ!・・・・・・・・その駒形橋は、昭和2年(1927)に、総工費171万円で竣工した。橋長149.1m、3径間スチール・アーチ橋で、アーチ部の曲線が優美な流れで女性的でもある。

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・・・・・・・・・・・・・橋の墨田区側の際には、昭和初期の駒形橋交番が残っている。

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・・・・・・・・・・・・・台東区側の際には、浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされる場所に駒形堂がある。堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成15年(2003)に建て替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・駒形堂の隣りは、「むぎとろ」で食事の順番を待つ人

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2013年5月27日 (月)

金町~流山

東京の常磐線金町駅から、埼玉県三郷市を抜け、千葉県の流鉄流山駅まで、2万歩、15㎞の歩きです。

①金町駅前団地・・・・・・・・・・・JR金町駅北口から徒歩2分ぐらいの位置に建つ公団の15階建ての高層住宅。昭和43年(1968)に竣工、4棟1417戸からなり、かなり広い敷地をユッタリと利用している。 駅前でこんなにゆとりある土地利用ができるのは、竣工当時の金町駅北口はぺんぺん草のはえる田舎駅だったのか?・・・・・・・・・築50年、そろそろ建て替えの話もあるようだ。

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②南蔵院・・・・・・・・・・・東水元2の天台宗寺院:南蔵院は、業平山東泉寺と号し、在原業平が住んでいいた本所業平橋近くで創建された。・・・・・・・・・ここには、大岡越前裁きで有名になった「しばられ地蔵」がある。この地蔵様に荒縄を巻いて願をかけると願いが叶うと伝えられている。グルグル巻きの状態で縛られていた。 可哀そうに、ほどいてあげようと思ったが、願をかけてる人を思い、より一層きつく縛り上げてきた。

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③水元公園・・・・・・・・・・・23区内最大の公園

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・・・・・・・・・・・・・・菖蒲の咲き具合を、チョイト拝見! 花は1分咲き。・・・・・・・・・・6月1日からの“菖蒲まつり”に向け、間に合うかしら? 菖蒲田では、お手入れ中。

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・・・・・・・・・・・・・・咲き具合が心配なのか、アオサギも様子を見に来ていた。

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・・・・・・・・・・・・・睡蓮の咲く池では写生、釣りも、いいね!

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④旧水元尋常小学校・・・・・・・・・・都内に現存する唯一の木造校舎、大正14年(1925)に建てられた旧元尋常小学校。・・・・・・・・・平屋建て、寄棟造り、桟瓦葺、外壁は下見板張りである。 昭和57年(1982)まで、校舎として利用していたが、現在は葛飾区教育資料館として公開されている。・・・・・・・・・“公開は月曜休館” と言うことは、そう、今日は休みだった。 だから外部だけパチリ!

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⑤閘門橋(こうもんばし)・・・・・・・・・明治43年(1910)、建設当初のアーチ形式は、上流側:3連、下流側:5連だったが、大場川の改修によって橋付近の川幅を広げ、右岸側に1連(コンクリート製)が増築されてた。 上流と下流でアーチの連数が異なる珍しい形式である。・・・・・・・・・アーチの橋脚部に立つブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を差し込んでいる姿を表している。後年作られた。・・・・・・・・・煉瓦造りのアーチ橋としては、都内に現存する唯一のものらしい。貴重な遺構で、大切に保存して!

・・・・・・・・・・・・上流側

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・・・・・・・・・・・・・下流側

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⑥戸ヶ崎香取神社・・・・・・・・三郷市戸ヶ崎の香取神社。嘉慶元年(1387:室町時代)、下総国の香取神宮より分神して祀ったのが始まり。・・・・・・・・本殿は明暦2年(1656:江戸時代)造営し、平成10年(1998)に大修理を行った。幣殿は昭和62年(1987)に建設、拝殿は昭和18年(1943)に改築した。・・・・・・・・御利益ありそうな神社で、神主は温和な御年輩であった。

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⑦三郷中央駅・三郷駅・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・三郷中央駅・・・・・・・・・つくばエクスプレスの駅で、平成17年(2005)に開業した。 只今、駅周辺はマンション・住宅・工場を建設中。

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・・・・・・・・・・・・・三郷駅・・・・・・・・昭和48年(1973)に開業したJR武蔵野線の駅。三郷中央駅とは3km程離れている。駅周辺には特に目立つ建物も無く、雑然とした駅だ。・・・・・・・・“三郷市”の玄関口はいずれの駅か?

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⑧流山橋・・・・・・・・・この橋を渡ると千葉県流山市に入る。昭和40年(1965)に竣工。・・・・・・・写真左が流山橋、右は武蔵野線江戸川橋梁。

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⑨赤城神社・・・・・・・・・江戸川の岸の、小高い山の上に鎮座する、群馬県の赤城神社の末社。鎌倉時代の創建らしい。・・・・・・・・鳥居前に大しめ縄がある。太さ1.5m、重量500㎏で、毎年、懸け渡す行事を氏子が行うそうだ。

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⑩流山駅・・・・・・・・年輩者は「流山電鉄」と呼ぶ方がピンとくるが、社名を平成20年(2008)「流鉄」(りゅうてつ)に変更した。その流鉄の流山駅だ。・・・・・・・駅舎は大正5年(1916)の建築で、修理・改造は行われているが、ローカル色は残っている。・・・・・・・・・・“昭和”が残っているね!

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●おまけ・・・・・・・・馬橋駅・・・・・・・・・・一方の終着駅

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2013年5月24日 (金)

立会川~新馬場

京急線立会川駅から、「立会川」をさかのぼり、京急線新馬場駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①立会川駅・・・・・・・・・・・立会川(たちあいがわ)駅は、明治37年(1904)、八幡駅(現:大森海岸)~品川駅間の開業に伴い同時に開業した駅である。平成2年(1990)に高架駅となる。・・・・・・・・・駅名は駅前を流れる「立会川」から命名した。

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②立会川・・・・・・・・・・・駅名となるほどの大河と思いきや、どこにでもある家の裏の“ドブ川”程度。・・・・・・・・・・水源は目黒区の碑文谷池らしいが、川筋の大部分は暗渠となっている。品川区を西から東に横断し、東海道本線をくぐり、大井の東芝病院近くで暗渠から顔を出し、第一京浜、京浜急行線の下を流れ、東京湾の勝島運河に流れ込んでいる。・・・・・・・・・今日は、勝島運河から上流の東芝病院側に向かって約1km川筋を歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・・立会川が流れ込む勝島運河

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・・・・・・・・・・・・・浜川橋・・・・・・・・・最下流の橋で、昭和9年(1934)の竣工。橋上は旧東海道だ。・・・・・・・・「立会川」は、府内から近くの“鈴ヶ森刑場”へ送られる罪人を、家族や友人が最後に見送る(立ち会う)場所であるところから、名付けられたという説があり。 ここ浜川橋は、家族・友人がここで涙を流し見送ったので、別名、泪橋(なみだばし)と云うそうだ。

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・・・・・・・・・・・・天祖神社・・・・・・・江戸時代初期の創建といわれる、浜川橋際の鎮守様。・・・・・・・・・・・・社殿は昭和40年(1965)に改築された。綺麗なシルエットを描いている社殿だ。

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・・・・・・・・・・・・・弁天橋・・・・・・・・下流側から二番目の橋は、昭和6年(1931)の竣工。川底の水はかなり汚れている、臭いはないようだが、黒い物体がプカプカ浮いている。

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・・・・・・・・・・・・・・京急高架下の橋・・・・・・・・・・名前が判らない! 京急線が地上を走っている頃、ここには京急線の橋梁が在ったはずで、橋桁は京急線で使用していたもののようだ?

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・・・・・・・・・・・・・立会川橋・・・・・・・・・・第一京浜に架かる、立会川橋は大正13年(1924)に竣工した。・・・・・・・・・・・橋の長さより、幅の方が大きいね!・・・・・・・・川底には亀が数匹いたが、住環境が悪すぎる。万年生き延びるのは難しいかも?

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・・・・・・・・・・・・・昭和橋・・・・・・・・下流から5番目の橋。昭和60年(1985)に架けられた。・・・・・・・・ここから、川底を覗くと、水が澄み、藻が見える。何故か、化かされているようだ! 理由は2つ、(その1)平成14年(2002)より、JR総武線の馬喰町駅に漏出している地下水を、立会川上流の月見橋まで導水し放流している。その結果、上流から昭和橋までは水質が浄化された。 (その2)東京湾の海水が、ここ昭和橋のところまで逆流する。その結果、下流から昭和橋までは汚れた海水が漂う状態だ。・・・・・・・現在、昭和橋から下流の水質浄化工事に取組中らしい。

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・・・・・・・・・・・・・桜橋・・・・・・・・・川のある町、絵になるかも? 綺麗になった立会川! チョイト、大げさかも。 でも、本当に川底にゴミも無く、水は澄んで、気持ち良い流れだ!

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・・・・・・・・・・・・月見橋・・・・・・・・・月見橋の姿は見えず。ここから上流は暗渠となっている。橋にはゴムのカーテンが下げられ、暗渠の中を覗けない。・・・・・・・・JR総武線の湧水はココまで導水し、放流されているのだ。・・・・・・・・・・ついでに、中央正面には東芝病院が見える。

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・・・・・・・・・・・・・暗渠の上は遊歩道・・・・・・・・立会川の追跡はここまで!

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③大福生寺・・・・・・・・・東大井3の天台宗寺院の大福生寺は、東叡山寶観大僧正の法裔、宇賀神寶海和尚が開基し、明治14年(1881)に日本橋に一寺を建立し、三宝山神護院大福生寺と称した。昭和24年(1949)に現在の地へ移転。・・・・・・・・小高い、静かな地に在り、小規模な寺だが、癒しの空間を創っている。

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④八木合名会社仙台味噌醸造所・・・・・・・・・・・江戸時代の伊達藩の江戸下屋敷であった場所(東大井4:仙台坂上)に、伊達藩の味噌蔵を引き継いだ味噌屋が在る。・・・・・・・・・建物は、まさに味噌蔵だ! 

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⑤南品川の銅板建築・・・・・・・・・ゼームス坂に建つ、銅板建築の店舗兼住宅。・・・・・・・戸袋を兼ねたと思われる看板、いいね!

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2013年5月23日 (木)

蒲田~立会川

JR蒲田駅から、東海道線の西側を歩き大森駅手前で東側に移り、京浜急行線立会川駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

①蓮沼4号踏切・・・・・・・・・・・・・東急池上線と東急多摩川線が蒲田駅に到着する、直前に通過する踏切。 

・・・・・・・・・・・・・右は池上線、左は多摩川線

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・・・・・・・・・・・・・・池上線が蒲田駅へ向かう。

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②御園神社・・・・・・・・・・・・・蒲田駅西口正面から伸びる大通りに面して鎮座する、創建年代不詳の神社。 境内は広く、利便性を活かした高層マンションでも建てたら、社殿・社務所を全て新築できると思うよ!

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③熊野神社・・・・・・・・・・・・蓮沼駅に近い熊野神社は、創建年代不詳だが、平安時代の創建と推定されている。・・・・・・・・・・・・・社殿は鉄筋コンクリートによる権現造りで、昭和42年(1967)に竣工した。

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④小便禁止・・・・・・・・・西蒲田の住宅の塀に貼られていた。おそらく、塀に向かって消火訓練する輩が多いのであろう。・・・・・・・・でも、この文章味があるので、立小便しながら読み、考える輩もいるだろうね!

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⑤作尻架道橋・・・・・・・・・・・東海道本線の大森駅~蒲田駅間にある架道橋だが、1.7mの高さ制限があるガードだ。 高輪橋架道橋の1.5mの高さ制限には負けるが、しっかりと存在を示している。・・・・・・・・・このガードは、明治5年の鉄道開通には橋梁だった。下には小川が流れていた。大正時代にその小川の両岸に歩道ができ、橋梁の下を人が通れるようになった。 さらに戦後に、小川は暗渠化されその上に車道ができた。 橋梁から架道橋に変身したのだ。・・・・・・・・・・自転車に乗って通り抜けるにはチョイト怖いね!

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⑥大森の門・・・・・・・・・・・立派な“モン”だ?! 地元の地主さんのようだ。

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⑦大森ベルポート・・・・・・・・・・・いすゞ自動車の事業所跡地にできた複合施設。平成8年(1996)に全体が竣工した。もちろん、いすゞ自動車の本社はココ!

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⑧イエスランプ・・・・・・・・・南大井の第一京浜沿いに建つ電球メーカ。 モルタル塗りの正面、どこかで見たようなマーク、三角形のノコギリ屋根の工場、建築年代不詳の建物だ。・・・・・・・・・こちらは、すべて手作りで白熱電球などを製作している町工場だが、特殊電球のメーカーとしては超有名らしい。

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⑨そろそろ梅雨か・・・・・・・・・・

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2013年5月22日 (水)

梅屋敷~蒲田

京浜急行線梅屋敷駅から、東蒲田・新蒲田地区をグルグル・フラフラ・ゴチャゴチャ歩いて、JR蒲田駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①大田区総合体育館・・・・・・・・・・最初に京急線の窓から見たときは、北京オリンピックのメイン会場“鳥の巣”に似た印象を受け、“コリャ、何だ?”。 ・・・・・・・・・昨年(2012)竣工した、「大田区総合体育館」だ。総工費51億円、鉄筋コンクリート造、地上2階/地下2階建て、4000人収容できるメインアリーナとサブアリーナで構成されている。・・・・・・・・・屋上も公開されているが、屋根が大きすぎて、樹木は外周部分だけに植えられている。“庭園”とは言えないな!・・・・・・・・・・内部は、まだピカピカ状態だ。

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・・・・・・・・・・・・・・ホール・・・・・・・壁面は陶板のレリーフに飾られている

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②天神橋・・・・・・・・・・呑川(どんかわ)に架かる、昭和36年(1961)に竣工した鋼鉄橋。特別、面白い話題のある橋ではない。

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・・・・・・・・・・・・・・下を流れる呑川は、大田区を南北に縦断して、東工大あたりから羽田に流れる2級河川である。 戦後は排水路になり、最悪の水質であったが、現在は魚もいるようだ。

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・・・・・・・・・・・・・橋の際には、橋名の由来となった北野神社(天神様)がある。

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③カトリック蒲田教会・・・・・・・・・・JR蒲田電車区の近くに、昭和36年(1961)に三角屋根の教会が建てられた。・・・・・・・・・白い外壁と木造の柱のコントラストが映える、美しい教会である。・・・・・・・・・・・・教会の人が留守で、扉も施錠されており、聖堂の中は拝見できなかった。残念!

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2013年5月21日 (火)

大森~梅屋敷

JR大森駅から、大森北地区・大森西地区の裏道・路地を歩き回り、京急線梅屋敷駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①大森駅東口・・・・・・・・・大森駅の東口に現駅舎(アトレ大森が入居)が完成したのは、昭和59年(1984)である。・・・・・・・・・駅前の公園には、大森駅の階段に使用されていた鐵道院鉄柱が保存されている。

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・・・・・・・・・・・・・仕事帰りの飲食は、安く、リーズナブルの店も多かった、駅前の飲み屋街。 当時はキャバレーなどもあり、楽しい街だった。 今は、カラオケ、パチンコが中心。

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・・・・・・・・・・・・昭和50年~60年代は、私はゼネコンに勤務し、コンピュータのシステム開発を仕事としていた。 現在のパソコンより性能の劣るコンピュータであったが、当時は最先端である日立製作所製の“Mシリーズ”(当時:1台○億円)と呼ばれたコンピュータを使用していた。 このコンピュータを導入する準備、導入後の研修、導入企業との研究会などが、駅前に建つ「日立大森別館」・「日立大森第二別館」などで行われ、月数回の頻度で10年近く、通ったものだ。・・・・・・・・・写真は、日立大森第二別館、昭和57年(1982)竣工、14階建て。

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②大森北3丁目の路地・・・・・・・・・・・・足下に雑草が茂る細い砂利路、突き当りには古びた街路灯と選挙ポスターが貼られ、よそ見して歩くと猫のウンチを踏んでしまうのだ!

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③M邸・・・・・・・・・・・・玄関わきに洋風の応接間を備えた、昭和4年(1929)建築の木造2階建て住宅。 軒先の銅板の細工などに匠の技が見られる。国の登録有形文化財。

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④鈴木質店・・・・・・・・・・・・M邸の隣りには、歴史の在りそうな大森北の質屋さん。

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⑤大森諏訪神社・・・・・・・・・・・大森西にある、創建年代不詳の諏訪神社です。・・・・・・・・・神社の由来を読むと、江戸時代には大森村山谷の鎮守社であったといい、昭和11年(1936)に村社に列格したと書かれている。境内には、文政7年(1824:江戸時代)刻の鳥居が建立されている。 現社殿は、平成16年(2004)に修復された。・・・・・・・・来週は例大祭で、只今準備中。 当日は、屋台も並び、賑わうようだ!

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⑥東邦大学医学部本館・・・・・・・・・・・・東邦大学は、額田豊・額田晉の兄弟により、大正14年(1925)に大森に開校した帝国女子医学専門学校が前身となっている。 兄弟は女子高等教育の重要性を感じ、医学・薬学・理学の専門学校を設立した。 戦後は、東邦大学として、自然科学系の総合大学に発展した。・・・・・・・・・大森に在る医学部本館は、大学の建物では最も古く、昭和4年(1929)に、安藤組の施工で竣工した建物である。鉄筋コンクリート造3階建て。・・・・・・・・内部は、教室・事務室と、額田兄弟を記念した資料館がある。NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」のポスターもあった。・・・・・・・・・・昭和初期の空気が残る建物内部。いいね!

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●チョイト、余談・・・・・・・・・・・千葉市稲毛区に建つ「額田医学生物学研究所」は、額田兄弟の一人額田晉が設立した、末梢神経障害研究機関である。

⑦梅屋敷駅・・・・・・・・・・・京急線高架工事も終盤となり、高架線への切り替えも終わり、只今高架下では駅舎の整備中。

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・・・・・・・・・・・・・・高架下の利用は、道路? 公園? 駐輪場? 濡れずに歩ける遊歩道がいいね。

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2013年5月19日 (日)

柳橋

私の住む浅草橋の隣り町「柳橋」を歩き、両国橋を渡り、新大橋を渡り、浜町を抜けて我が家まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

●花柳界「柳橋」・・・・・・・・・・・神田川が大川(隅田川)に合流する部分に架かる橋が「柳橋」その橋の北側(現地名:台東区柳橋)一帯に花柳界「柳橋」があった。最後の料亭「いな垣」も平成10年頃まで存在したが、現在は料亭跡のビル化が進み、面影も薄れた。・・・・・・・・・・・私の知る「柳橋」は戦後、昭和30年代、の華やかな街の時代からである。

・・・・・・・・・・・・柳橋・・・・・・・・・明治20年に木橋から鋼鉄橋になり関東大震災後にて消失、その後、昭和4年(1929)に復興事業として現在の橋が架けられた。永代橋のデザインを採り入れた、アーチ部分の線形が美しい橋です。・・・・・・・・・・・・橋の欄干には、かんざしのレリーフがあり、芸妓の姿を思い出させる。・・・・・・・・・・・春の夜や 女見返る 柳橋 (子規)    

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・・・・・・・・・・・・・昭和36年の柳橋・・・・・・・・・私が15歳の頃。 川岸には木造の料亭が並ぶ。大川と神田川の合流する角に料亭:旧:亀清楼がみえる。・・・・・・・・下の写真は、旧亀清楼跡に建つ現在のマンション

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・・・・・・・・・・・・・面影残す建物・・・・・・・・・・・置屋の娘であった同級生の家も無くなった。

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・・・・・・・・・・・・芸妓を乗せて大川で夕涼みした、船宿は今も健在。・・・・・・・・・当時は、船に便所が無く、男性は竹筒で、女性は板でかくして尻まくり、後は川に流して知りません!

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・・・・・・・・・・・・石塚稲荷神社・・・・・・JRの高架橋脇には、稽古事の上達を願い若い芸者も手を合わせた神社がある。玉垣には、全ては過去の名前となった、芸妓組合、料亭組合、芸妓の名、料亭の名がズラリ。・・・・・・・・・かつて、神社の近くに銭湯があり、私も若い時まで利用していたのを思い出す。 見番も近くにあったね!

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・・・・・・・・・・・・・篠塚稲荷神社・・・・・・・・・もう一つの神社、こちらはチョイト立派だが、同じようなものだ。こちらの、玉垣にも料亭・芸子などの名前がズラリ。 「横綱 朝汐太郎」、「花柳章太郎」の名も読める。・・・・・・・・・「両国花火組合」の名もみえる。今は“隅田川花火大会”だが、昭和36年までは“両国川開き花火大会”であった、場所も両国橋上流で打ち上げられた。

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・・・・・・・・・・・・・隅田川の堤防・・・・・・・・・・昭和30年代には、大川(隅田川)沿いの料亭は川に向かい縁を出し、夕涼みを兼ね芸者遊びができ、両国川開き花火大会は目に前で鑑賞できた。しかし、料亭と川を隔てる無粋な堤防ができ、花柳界:柳橋の衰退に拍車をかけた。

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・・・・・・・・・・・・・総武線高架下・・・・・・・・・・・昭和30年代の柳橋は人力車の時代であった。総武線の高架下には溜り場のように、昼はカラの人力車が数台並び、夜は車夫が休憩をとる姿も見られた。・・・・・・・・私の家の近くにも置屋があり、夕方、狭い我が家の前にも人力車が入りこみ、芸妓を迎えに来ていたね。 思い出すよ!

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・・・・・・・・・・・・・柳橋の甘味処「にんきや」・・・・・・・・・花街には、必ずと言っていいほど、見番と銭湯と甘味処がある。 見番は料亭・置屋・待合をコントロールする最重要機能だ。 銭湯は芸妓の身も心も洗い営業のための保全機能。 甘味処は芸妓のチョイトひと休み機能。・・・・・・・・・柳橋にも一昨年まで開いていた甘味処があった。 残念だが閉店した。

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2013年5月17日 (金)

中延~大森

都営地下鉄中延駅から南馬込を抜けJR大森駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①源氏前小学校・・・・・・・・・・中延駅から第二京浜国道(国道1号線)の裏道を歩くと、「源氏前小学校」がある。・・・・・・・・・“源氏”とは、粋な校名だ。由来を想像しながら歩くと、こんどは「源氏前公園」に出くわす。・・・・・・・・・・調べてみた。この地は平安時代の源頼義、義家親子が勅命を受け、陸奥を治めるために出陣したところである。ここを根城として、兵・馬・食糧を確保して戦備に努めた。すなわち、隣町の「旗の台」に陣屋を構え、根城を築いて源氏の“のぼり旗”をはためかせた。そして、「中延」の地は、源氏の陣屋前ということで、「源氏前」と称したそうだ。・・・・・・・・・古い地名の方が、現在の地名よりいいね! ちなみに、源氏前小学校は昭和3年(1928)の創立。

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②宗福寺・・・・・・・・・・・北馬込2丁目の曹洞宗の宗福寺。開山は安土桃山時代。・・・・・・・・・大きな寺でもなく、特に古い建物でもない。では、“売り”は?・・・・・・・・「登志子地蔵」だ。 昭和10年5月、近くの八幡様の祭礼に母さんとお参りに行く約束を楽しみにしていた登志子ちゃん(当時10歳)が、母さんの支度の出来るのを待ちわびていた。 その時、登志子ちゃんの前を一人の男が通り、言葉巧みに登志子ちゃんを八幡様へ誘った。 帰りに男は登志子ちゃんのを人気のない植木畑連れて行き、容赦なく乱暴したのち殺害した。 2日後に変わり果てた姿で登志子ちゃんが発見され。 24日目に犯人の男は逮捕された。 その後、両親が類似の犯罪再発防止の願いを込め、宗福寺境内に登志子地蔵を建立した。・・・・・・・・・・毎年5月に「登志子地蔵大祭」が開催され、賑わっているようだ。

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③新馬込橋~河原家住宅・・・・・・・・・・・この間は昨年も歩いているので、写真はチョットだけ!

・・・・・・・・・・・・・・昭和14年(1939)に竣工した新馬込橋

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・・・・・・・・・・・・・第二京浜国道を新幹線が跨ぐ新幹線馬込陸橋

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・・・・・・・・・・・・・馬込八幡神社にある、馬込の戦没者の霊を祀った御霊社

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・・・・・・・・・・・・・旧馬込小学校の玄関と教場部分を移築して和風住宅に改造、その後時計台も移築した河原家住宅。国の登録有形文化財。

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④郷土博物館・・・・・・・・・南馬込の大田区立の博物館。「大森貝塚」に代表される古代遺跡が多く存在する区なので、展示品も関連する土器・石器などの遺物が多い。また、馬込文士村に関連する遺品・書・原稿・本などもある。・・・・・・3階建ての立派な区の施設だが、見学者は私一人、しかも無料。安い!

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・・・・・・・・・・・・・・・展示品の中に発見! 明治5年(1872)の鉄道開通時に使用した、日本最古のレール。

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⑤臼田坂と子育地蔵尊・・・・・・・・・・臼田坂(うすださか)の周辺には、大正から昭和にかけ多くの文人が住んでいた「馬込の文士村」だった。その坂上に「子育地蔵尊」がある。この地蔵様は、戦前「金剛剣難よけ地蔵尊」と呼ばれ、戦地に向かう人達の参詣祈願を集めたそうだ。・・・・・・・・・・出征した人も、家族も、恋人も、皆、手を合わせたであろう。私も、手を合わせて来た。

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⑥新井道架道橋・・・・・・・・・・大森駅の南側、山王2丁目と大森北1丁目を結ぶ道路上に架かる、JR東海道線の架道橋。・・・・・・・・・・古いガードであることは間違いないが、竣工年代は不明。 前を通るたびに、竣工年代が気になっているガードだ!

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2013年5月16日 (木)

目黒~中延

JR目黒駅から都営地下鉄中延駅まで、9千歩、6kmの散歩です。

①カトリック目黒教会(聖アンセルモ聖堂)・・・・・・・・・・・・・目黒駅近く“ドレメ通り”のカトリックの教会。・・・・・・・・・教会を設計したアントニン・レーモンド(1888~1976)はチェコ出身で、アメリカの建築家:フランク・ロイド・ライトが戦前「旧帝国ホテル」を設計するときに助手として来日した。帝国ホテル建設後も日本に滞在し、戦時中は一旦帰国するが、戦後再び来日し多くの作品を残す。 聖路加国際病院、聖アルバン教会、東京女子大礼拝堂など、現存する作品も多い。・・・・・・・・・・昭和31年(1956)に竣工したカトリック目黒教会は、戦後はじめてレーモンドが手がけた作品だ。ブラインド状に縦に並んだ打放しコンクリートにより、囲まれた聖堂には、柔らかい光が射し、静かで落ち着いた厳粛な空間を創り出している。・・・・・・・・・説教壇、金ぴかの十字架、壁の彫刻など、すべてをレーモンドが手がけたそうだ。スゴイ、凄い才能、凄い感性、凄いパワー、驚きだ!

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②杉野記念館・・・・・・・・・杉野学園(ドレスメーカー学院、杉野服飾大学など)の校舎が建ち並ぶ“ドレメ通り”の中程に、杉野学園の創立者:杉野繁一・芳子夫妻の旧宅がある。昭和13年(1938)に完成し、戦災での焼失を免れた木造2階建ての住宅。

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③衣裳博物館・・・・・・・・・・昭和32年(1957)に日本で初めてのコスチューム・ミュージアムとして竣工・オープンした。・・・・・・・・・・世界各地で収集した、歴史的な衣裳、民族衣裳、手芸品などがテーマごとに展示されているらしい。(入館したことがなく内部は不明)

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④夕陽会・・・・・・・・・・“ドレメ通り”が中央をぶち抜く上大崎4丁目全域の町会名。杉野学園の会館名は「夕陽ヶ丘」。・・・・・・・・目黒駅西側(上大崎4丁目)の高台は、かつては雄大な富士山を望める景勝の地で「夕日の岡」(ゆうひのおか)と呼ばれたらしい。・・・・・・・ドレメ通りを歩きながら、“夕陽”の文字が目に入り、石原裕次郎と浅丘ルリ子が演じる日活映画『夕陽の丘』を思い出した。(昭和39年封切り、シネマスコープ、舞台は函館)   主題歌は2人が唄う「夕陽の丘」   ♪♪ 夕陽の丘の ふもと行く バスの車掌の 襟ぼくろ  わかれた人に 生き写し なごりが辛い たびごころ ♪♪・・・・・・・好きな映画だ!

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・・・・・・・・・・・・・かつての「夕日の岡」から、富士山の方を見ても山の姿は見えない!

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⑤西五反田の裏道をブラブラ・・・・・・・・・・・山手通り横断すると、東急目蒲線の不動前駅をスタスタ。・・・・・・・・・犬の後をブラブラ。(ストーカーと間違えないで!)・・・・・・・・裏道をヨロヨロ。

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⑥星薬科大学本館・・・・・・・・・・・・もう一つ、レーモンドの作品に御対面、今日はついてる!・・・・・・・・・・・SF作家:星新一の父:星一が創設した学校。星一は明治44年(1911)に星製薬を創立し、大正11年(1922)に星製薬商業学校を開校し、同時期に現本館の建設を開始した。工事中に震災に襲われたが、構造体は無傷で、大正13年(1924)に無事竣工した。・・・・・・・・・・・設計はカトリック目黒教会と同じアントニン・レーモンドによる。本館のデザインは先生であるライトの旧帝国ホテルに似ている。 白と黒のコントラストの鋭い幾何学的デザインとなっている。 特に正面玄関を入ると、3階まで吹き抜ける斜路(スロープ)は強烈な印象を受ける。本館中央に在る大講堂の内部もディテールはライトに通じるデザインだ。・・・・・・・・大正時代の設計とは思えない建物! 星新一の小説のセンスに似た印象を受けた。 

・・・・・・・・・・・・外観・・・・・・・・・ドーム屋根は大講堂の屋根。

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・・・・・・・・・・・・スロープ・・・・・・・・・・階段がなくスロープで3階まで上れるようになっているのが特徴。スロープの両側には大壁画がある。3階のトップライトからは、柔らかい光が射し込んでくる。

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・・・・・・・・・・・・大講堂・・・・・・・・・1000人以上収容できる、明るい講堂。

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・・・・・・・・・・・・・本館前では創立者:星 一(ほしはじめ)が学生を見守っている。

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2013年5月15日 (水)

愛宕山

目黒駅から散歩するつもりで出かけたが、通勤時間帯に山手線がストップ。私の乗った電車も新橋駅で足止め状態。 今日の運勢を見て出かければよかったかな?・・・・・・とりあえず、新橋駅から散歩をすることにした。・・・・・・・・・・・結局、愛宕山のNHK放送博物館に行き、新橋へ戻る。 1万歩、7kmの散歩となった。

①C11 292・・・・・・・・新橋駅SL広場に静態保存されている「C11 292」。ニュース、インタビュー番組などでテレビ出演の回数が日本一の機関車かも?・・・・・・・・・C11は昭和7年(1932)から昭和22年(1947)にかけ、全国で約400両が製造された、小型・軽量のタンク式蒸気機関車。・・・・・・・・SL広場のC11機関車は、昭和20年(1945)、日本車輛で誕生した戦時中生まれの機関車で、山陽本線など中国地方を走りまわり、引退するまでの走行距離は108万kmにいたる。・・・・・・・・・・現在は煙も出さず駅前に静かに鎮座している。機関車の周りでは、サラリーマンがタバコの煙をモクモク。

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②旧愛宕高等小学校・・・・・・・・・・・・・最新の地図を見ても、慈恵医科大学付属病院の隣の大きな施設には名前が無い。現在は空き家状態の復興小学校跡である。・・・・・・・・・・昭和3年(1928)に鉄筋コンクリート造3階建ての、愛宕高等小学校として建てられた。戦後は都立港工業高校として、建物も増築し、使用された。・・・・・・・・・小学校部分の校舎は、昭和初期に流行したアールデコ風の装飾も見られる。 戦後の増築部分は、工業高校の性格を反映し、工場風の建物となっている。・・・・・・・・・工業高校も平成16年(2004)に閉校し、その後、公的機関が仮住まい的に利用しているが、本格的に身の処し方をそろそろ決める時期だ!

・・・・・・・・・・・・・旧愛宕高等小学校部分

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・・・・・・・・・・・・港工業高校として、戦後の増築部分

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③東京慈恵医科大学本館・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)に竣工した大学本館。スクラッチタイル貼りのインターナショナル・スタイルの建物。1階内部にはタイル貼りの円柱が柔らかい雰囲気を創っている。・・・・・・・・・・大学では、建て替えを進め近代化を図っているが、この本館はどうなるのか?

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④東京慈恵医科大学付属病院・・・・・・・・・・間組の施工で、昭和5年(1930)に竣工した大学付属病院。 白亜の美しいフォルムの建物。・・・・・・・・・・正面の玄関を入ると半円の大きな窓枠に3か所の受付が見える。廊下は左右に分かれそれぞれ奥に階段室がある。玄関わきの守衛室も半円の受付窓口がある。・・・・・・・・・現在は倉庫替わりに使用しているようだ。大学の施設整備の工事が一段落したら、この建物を記念館・博物館として保存して欲しいものだ!

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⑤NHK放送博物館・・・・・・・・・・ここまで来たら、愛宕神社に参拝してから、隣りの放送博物館に向かった。・・・・・・・・・放送博物館は、大正14年(1925)に「JOAK」(ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ)として、本放送を開始した東京中央放送局の跡に建っている。・・・・・・・・昭和31年(1956)に、世界最初の放送専門のミュージアムとして開館した。・・・・・・・・・展示されてる古いラジオ、テレビに懐かしを感じ、放送機材に技術の進歩を感じ、藤島一郎、ドン・ガバチョ、トラヒゲ、ブー・フー・ウーにテレビの思い出をはせ、、、、楽しんで来た。

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・・・・・・・・・・・・・昭和12年(1937)の愛宕山:東京中央放送局

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●・・・・・・・・・・・・・今日、放送博物館で、私が長い間探していたラジオ番組「尋ね人の時間」の録音が入手できないと判明した。 「尋ね人の時間」は、私が幼児の頃(昭和20年代)、多くの尋ね人の名前・出身地をアナウンサーが速い口調で読み上げる放送で、ラジオから聞こえてくる、私の昼寝の子守歌であった。(もちろん、幼児の私には意味は不明だった) 今でも忘れられない、リズムであり、音である。 この放送を再び聴きたく、数年前から、九段の昭和館、新宿の平和祈念展示資料館、舞鶴の引揚記念館、川口のNHKアーカイブスなどに行っては探していた。 今日、NHKの史料ライブラリーの案内嬢に問い合わせてみたら、「尋ね人の時間」の録音は個人名が入っているため、『仮に、録音が存在していても公開できない』との返事だった。 これで、長い間探し求めたものが、入手できないと判り、納得!!! しかし、残念、無念。

⑥愛宕隧道・・・・・・・・・・・このトンネル東京23区内で最も高い自然の山である「愛宕山」(標高約26m)をぶち抜いた長さ76.6mのトンネル。昭和5年(1930)、飛島組(現:飛島建設)の施工で完成した23区内唯一の「山岳トンネル」だ。・・・・・・・・・平成16年(2004)に耐震補強工事が行われ、今日は道路部分の舗装工事が行われていた。

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・・・・・・・・・・・・・・NHK放送博物館に貼られていた、昭和5年の新聞記事・・・・・・・愛宕隧道を掘削する飛島組と、山の上の「JOAK」の建物。

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2013年5月14日 (火)

東船橋~船橋

総武線東船橋駅から船橋駅まで、裏道を散歩してきた。8千歩、5km。

①東船橋駅・・・・・・・・・・昭和56年(1981)開業の、総武線では最も新しい駅。・・・・・・・1面2線の地上島式ホームと橋上駅舎を有する。南北の出入口前には広いロータリーがある。・・・・・・・・・両隣りに大規模駅“船橋・津田沼”があるためか、開業して30年以上経った現在も、駅前に商店街のようなものはなく静かな駅だ。

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②了源寺・・・・・・・・・・宮本7丁目の了源寺(りょうげんじ)は、浄土真宗本願寺派の寺で、天正8年(1580:織田信長が石山本願寺を焼いた頃)の創建。・・・・・・・・徳川幕府は船橋に大砲試射場を設けた。享保年間(1716~1720=江戸時代)に、了源寺の脇に射撃の小屋が建てられ、谷津の方向に大砲射撃を行った。射撃場が廃止された跡は、砲台の台座の場所に鐘楼堂が建てられ、鐘は「時の鐘」として、明治4年(1871)まで打ち続けられた。・・・・・・・・・今では、住宅街の中にあり、こんなところで、ドカーンとやったら近所迷惑だね!

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③洋館風住宅・・・・・・・・・了源寺の脇の裏道を入っていくと、同一の間取りと思われる3棟の住宅がある。木造平屋の住宅だが、角部屋が下見板張りの小さな洋館風の構えで、気にかかる建物だ。・・・・・・・・3棟とも劣化が酷く、空き家となったようだ? 壁には『ありがとう』の言葉が書かれていた。 ひょっとすると取り壊しかも?

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④旧兼坂医院・・・・・・・・・宮本5丁目に建つ、大正5年(1916)建築の旧兼坂医院。朱の三角屋根、間口の広い玄関、下見板張りの外壁、西洋風の病院建築。

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⑤川久保診療所・・・・・・・・・・・・旧兼坂医院の横道を入ると、大神宮裏に古そうな建物の歯科医院がある。・・・・・・・・・・以前は「川久保病院」と称していたようで、玄関に看板が残っている。・・・・・・・・・この建物、1階は下見板張りの木造だが、2階は増築したようで、下見板を抑え込むような形で、2階部分の補強材(柱?)が表に出ている。・・・・・・・・・・おそらく戦前からの建物で、由緒ある病院だったのであろう。

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⑥意富比神社・・・・・・・・・・ここまで来たら、チョイト、大神宮に手を合わせて・・・・・・・・

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⑦御蔵稲荷神社・・・・・・・・・・船橋のメインストリート“本町通り”の北側裏に鎮座するは御蔵稲荷神社(おくらいなりじんじゃ)。・・・・・・・・・・昭和10年(1935)から11年まで、この近くに住んでいた太宰治は、この御蔵稲荷を好んだそうだ。 大きな大神宮より、小さなこの神社の方が好かったのか?(この頃、太宰は薬物中毒で苦しんでいたらしい。)

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⑧つるや伊藤・・・・・・・・・御蔵稲荷の裏側には、安政元年(1854:ペリーが浦賀に来た頃)創業の染物屋「つるや伊藤」がある。営業品目は主に祭り衣装、祭り旗など祭りの関連商品が中心だ。・・・・・・・・・・老舗の店構えとして、歴史と粋が感じられる。

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⑨日本一小さい東照宮・・・・・・・・・・本町4丁目の路地の奥に、船橋東照宮がある。現在は小さのな祠が残るのみであり、「東照宮」のイメージからは遠い。・・・・・・・・・・この東照宮は、慶長17年(1612)に家康の命を受け、狩猟の時の宿泊所として、伊奈忠政が建てたとされる船橋御殿の跡地に船橋大神宮の宮司が貞享年間(1684~1687)に建立したものだ。・・・・・・・・・・どうみても、「東照宮」があったと想像できない。

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⑩道祖神社・・・・・・・・・・これまた、東照宮近くの神社。船橋のこの付近には小さな神社が多いこと! しかも由緒が??・・・・・・・・もう、どうでもいいよ!

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⑪花生食堂・・・・・・・・・・船橋駅前のメイン通りの裏に、旧街道がある。その街道沿いに鎮座するは、昭和レトロ丸出しの「花生食堂」(はなしょうしょくどう)。・・・・・・・私は、通りがかりで、一目、“廃業した店かな?”と思ったが、店に白の調理服を着たお婆さんがいた! “廃業”だなんて、失礼しました。・・・・・・・・・このブログに書くため、チョイト、“ぐるナビ”もどきを参照したら、『御年73才と云う「美代子おばちゃん」の湯豆腐は、心に染み込む旨さ』と書かれていた。・・・・・・・・店にはメニューが無いそうだ。 これまた、珍しい!

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2013年5月13日 (月)

中央区湊

中央区湊地区を散歩してきた。1万歩、7km。

・・・・・・・・・・・・・“湊(みなと)”地区とは、隅田川べりの町で、北側は八丁堀、西側は新富・銀座、南側は築地、東側の隅田川の対岸は佃島である。 地名は、『江戸時代、商船が隅田川から上ってきて、ここに荷を揚げたり、はしけの入ったり出たりする港町であった』、に由来し湊町となったそうだ。

①稲荷橋・・・・・・・・・・・・・・湊地区と八丁堀地区の境には、桜川が流れていたが、昭和40年代には埋め立てられ消えた。 この消えた川は江戸時代の堀川で、長さが約八丁(870m程)あったところから、「八丁掘」と呼ばれた。 時代劇でおなじみの堀だ!・・・・・・・・・ここに、架かっていた橋の一つが「稲荷橋」である。 今は歩道に橋名標が顔を出し、かって存在したことをアピールしている。

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②籠平・・・・・・・・・・・・・南高橋の近くにある籠屋さん。 籠を作っている姿は見えないが? ・・・・・・・・・・下見板張りの木造建築で、2階部分は西部劇に出てくる建物だ! 

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③鐵砲洲稲荷神社・・・・・・・・・・・・・・・承和8年(841=平安時代初期)の創建。この地の住民がうち続く冷害凶作に教えられ、宇迦之御魂の大神を祀って豊年に感謝したことが始まり。大永年間(1521~1528=室町幕府の頃)に遷座して八町堀稲荷と称し、さらに寛永元年(1624=江戸時代初期)鉄砲州の現在地へ遷った。・・・・・・・・・・・・関東大震災で被災し、昭和10年(1935)以降本殿や神楽殿が再興された。 昭和20年(1945)の東京大空襲では被害を免れた。・・・・・・・・・境内に昭和3年(1928)製の富士塚がある。・・・・・・・・・先月開場した歌舞伎座の地下鉄出入口脇に祀られている歌舞伎稲荷神社は、鐵砲洲稲荷神社の分霊だそうだ。歌舞伎座がある東銀座周辺は当社の氏子なのだ! 

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④福隆商事・・・・・・・・・・・・・鐵砲洲稲荷神社の斜め角に、日本家屋と3階建ての洋館から成る建物。洋館は昭和2年(1927)の建築、外装はタイル貼り。

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⑤日本不動産・・・・・・・・・・・・銅板建築の最高峰。 昭和初期頃の建築か?

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⑥湊2丁目・3丁目戦前の建物・・・・・・・・・・・・・全て、年代不詳。

・・・・・・・・・・・・池田靴店・・・・・・・・外装は薄いタイル(?)貼り

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・・・・・・・・・・・・・早川紙工・・・・・・・・・・看板建築

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・・・・・・・・・・・・矢島ステンレス興業・・・・・・・2階右側の壁面を後退させてベランダを設けている。 ベランダ両脇の柱は柱頭飾りを施している。正面から見ると石造のようだが、横から見ると木造だ。・・・・・・・・今では少なくなった凝った建物。

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・・・・・・・・・・・・ムサシ湊倉庫

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・・・・・・・・・・・・中井鋳物工場

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⑦再開発を待つ湊2丁目・・・・・・・・・・・対岸の佃島の高層マンションから、まる見え状態だ!

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⑧佃島渡船場跡・・・・・・・・・・・・佃大橋の袂に、昭和39年(1964)、佃大橋の完成により廃止となった「佃島渡船」の渡船場跡がある。・・・・・・・・・・私が中学生の頃、この渡し船に乗りたくて、浅草橋の我が家から自転車で何度か乗りに来たのを記憶している。案内板の写真を懐かしくジーと見てたら、また乗りたくなった。

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⑨湊地区から眺めた佃島 ・・・・・・・・・

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2013年5月12日 (日)

銀座

夫婦で買い物ついでの銀ブラ。8千歩、6km。

①東京スクエアガーデン・・・・・・・・・・・・中央区京橋3(片倉工業本社ビル、蛇の目ミシンビル等の跡地)に、この3月竣工した地上24階建ての主として事務所ビル。・・・・・・・・・・特別、変わったビルでもなく、ゴク普通の高層ビル。チョイト、覗き見しただけ!

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②教文館・聖書館ビル・・・・・・・・・・・銀座3丁目交差点に、昭和8年(1933)に竣工した、鉄筋鉄骨コンクリート造9階建てのビル。 設計は聖路加国際病院旧館、オルバン教会などを手掛けたアントニン・レーモンドであるが、内外装の改装を度々行い、竣工時の姿とは変わっているようだ。・・・・・・・・・・銀座通りに面し、一等地に建つビルだ、改装してもしょうがないね!

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③和光ビル・・・・・・・・・・“尾張町交差点にそびえ建つは、服部時計店ビル”、、、今風に言えば“銀座4丁目交差点に建つは和光ビル”。 日本でもっとも有名な昭和を代表するビル。・・・・・・・・・・・昭和7年(1932)に渡辺仁(1887~1973:東京国立博物館本館を設計) の設計により竣工した。・・・・・・・・・なんといっても、時計塔と曲面が“This is Ginza”。

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④松坂屋銀座店・・・・・・・・・・・関東大震災の翌年、大正13年(1924)にオープンした鉄筋コンクリート造8階建ての銀座松坂屋。・・・・・・・・・銀座のデパートとして、オープン時より土足入場を敢行、女性社員の洋装化など、新風を吹き込み話題を提供してきた。・・・・・・・・・銀座松坂屋はいよいよ取り壊しとなるようだ。跡地は銀座6丁目2街区を一体とした大規模再開発により、地上12階/地下6階の商業とオフィスの複合施設となるそうだ。完成は平成28年(2016)を予定している。・・・・・・・・・・閉店は6月30日、さようなら。

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⑤交詢ビルディング・・・・・・・・・・・交詢社は、福沢諭吉が提唱して興した、慶応大学OBを中心とした社交倶楽部。初代の建物は関東大震災で焼失したため、昭和4年(1929)に二代目が建てられた。二代目はゴシック様式の特徴的な建物だったが、老朽化により平成14年(2002)に取り壊された。現:交詢ビルディングは、平成16年(2004)に竣工した。・・・・・・・・・二代目ビルの正面部分がファサード保存されている。・・・・・・・・・壊されたときは、“あの薄汚れたビルがなくなり寂しい”と感じたが、10年経つと、これが銀座の活力だと思うようになった。

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⑥旧丸嘉商店(丸嘉ビル)・・・・・・・・・・・交詢ビルディングの向かいに建つ、老舗貴金属店の小柄なビル。 昭和4年(1929)に森山松之助の設計により、竣工した。森山(1869~1949)に活躍した建築家で、台湾の官庁を多く手掛けた。日本では銀座のヨネイビルディング両国公会堂などが現存する。・・・・・・・・角の丸み、屋根に葺かれたスペイン瓦、3階のレリーフ、チョイトひっこんだエントランスと円柱など、いいセンスだね。 洗練された、お洒落なビルで、銀座の裏通りを飾っている。 

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⑦旧菅原電気商会(第一菅原ビル)・・・・・・・・・・・・・銀座7丁目に建つ菅原ビルは、昭和9年(1934)に竣工した。1・2階の外壁は改装したようだが、3階~5階までは建設時のスクラッチタイルだ。6階は増設部分。 階段室部分は縦連窓と丸窓によるモダンなデザインとなっている。・・・・・・・・・・・・2階・3階の『椿屋珈琲店』は、大正ロマンが漂う喫茶店。私の立ち寄るカフェの一軒。東郷青児の画もあるよ! 

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⑧豊岩稲荷神社・・・・・・・・・・・・・銀座7丁目のビルの谷間の路地にある稲荷神社。創建年代は不明だが、明智光秀の家臣が創建したようだ。歌舞伎役者市村羽左衛門からの崇敬が篤かった稲荷で、縁結びにも御利益が期待できるそうだ。・・・・・・・・夫婦で手を合わせて来た。

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2013年5月 9日 (木)

向島

向島の「すみだ郷土文化資料館」(都営地下鉄本所吾妻橋駅下車)へ行った帰り、京成曳舟駅まで歩いてきた。8千歩、6km。

①すみだ郷土文化資料館・・・・・・・・・・向島にある墨田区の郷土史を伝える施設、平成10年(1998)に開館した。・・・・・・・・今日は12日まで開催している、企画展「描かれた戦争孤児-孤児たちの心と表現」を見てきた。・・・・・・・・・昭和20年(1945)の東京大空襲では、両親を亡くした戦争孤児が多数つくられた。孤児達は、戦後の混乱した時期に、長く苦難の生活を強いられてきた。その記録として、狩野光男・星野光世の二人の戦争孤児が、体験を絵に残す活動を続けている。 展示は、その絵と関連する資料により、当時を紹介している。・・・・・・・・・私は昭和21年(1946)に隣りの台東区浅草橋で生れたので、絵に描かれた戦後の東京をおぼろげに記憶している。 疎開、進駐軍、靴磨き、モク拾い、狩り込み(強制収容)、パンスケ、、、、、、、孤児が置かれた苦難の状況を改めて受けとめてきた。 

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②三囲(みめぐり)神社・・・・・・・・・・三囲神社は、墨田区向島にある。創建年代は不詳だが、文和年間(1353-1355:室町幕府の頃)近江三井寺の僧源慶が当地に遍歴の際に社を改築した。・・・・・・・・・三井家が江戸に進出して以来、三井家の守護神として崇敬を集め、三井家にまつわる鳥居、像などが境内の各所に在る。三井財閥系企業のサラリーマンは参拝しないと出世できないかも。

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・・・・・・・・・・・・狛犬をガードする元池袋三越のライオン、平成21年(2009)に池袋から移設。

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・・・・・・・・・・・・三越のマークが入った礎石

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・・・・・・・・・・・・本殿裏には、三井家から移築した、鳥居を三基組み合わせた三柱鳥居(みはしらとりい)がある。

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・・・・・・・・・・・・境内には、向島の花柳界にふさわしく、江戸時代から現代に至るまでの文人、役者の句碑・歌碑も数多くある。料亭の料理人が建てたか、包丁塚もある。

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・・・・・・・・・・・・また、境内には隅田川七福神の大国神、恵比寿神も祀られている。

③向嶋墨堤組合・・・・・・・・・・・・俗に「見番」という。花街は置屋、料理屋、待合の三業種で構成され、“三業地”と呼ばれていた。向島ではその各業種の組合が昭和61年(1986)に合併し、見番(向嶋墨堤組合)として現在に至る。・・・・・・・・・見番の主な業務は料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋など。 また、芸妓の育成、伝統文化継承も見番の重要な活動だ。・・・・・・・・・昭和40年代頃までは、我が家に近い、柳橋にも見番があった。芝浦には見番の建物が現在保存されている。 大塚では見番が現在も存続している。

・・・・・・・・・・・・・・今日は2階から鼓の音が聞こえてきた、はて、何の稽古かな?

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④美家古・・・・・・・・・・・料亭「美家古」は、向島界隈でも昔からの伝統に則っている老舗の料亭。 建物は大正末期のもので、戦時中も焼けずに残り、現在は国の登録有形文化財に指定されている。

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⑤銅版の戸袋・・・・・・・・・かっては料亭か料理屋と思われる家の戸袋に鯉がはねていました。向島が最盛期の頃のパワーの証。

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⑥秋葉神社・・・・・・・・・国道6号線(水戸街道)から、飲み屋の看板が迫る細い参道をチョイト入った処に鎮座する火伏の神様。 正応2年(1289:鎌倉幕府の頃)の創建。・・・・・・・・・大正12年(1923)の震災、昭和20年(1945)の東京大空襲の被害を受け、現在の社殿は昭和41年(1966)に再建された。・・・・・・・・・向島の芸妓も手を合わせたであろう路地裏の神様、小説の舞台になるね!

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⑦と~ふぃ~・・・・・・・・・・オー、聞こえる!懐かしの豆腐屋のラッパ。聞こえた方に向かうと、ヤッパリ、リヤカーに積んだ豆腐屋だ!・・・・・・・・・・お買いものは、豆腐1丁と油揚1枚。晩の味噌汁かな?

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⑧共立運送店・・・・・・・・・東武曳舟駅前の運送店(現在は営業していないかも?)。「共立運送店」の板看板と店構え、何とも言えない昭和の雰囲気だ!・・・・・・・・・・店の前にダイハツ・ミゼットを置いてみたいね!

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⑨スカイツリー・・・・・・・・・・・源森橋と牛嶋神社からパチリ!

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2013年5月 8日 (水)

恵比須~目黒

山手線の恵比須から目黒まで、目黒川の西側をまわって、1万1千歩、8kmの散歩です。

①観音坂~別所坂・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・観音坂・・・・・・・恵比寿駅前の「恵比須銀座」通りを直進すると、中目黒台地を上る観音坂に至る。・・・・・・・・坂下には安永8年(1779:江戸時代)に建てられた「道しるべ」が残っている。坂の途中には、享保4年(1719:江戸時代)に流行した悪病が退散したお礼に建てられた馬頭観世音の堂(写真は一昨年撮影)がある。

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・・・・・・・・・・・・別所坂・・・・・・・・観音坂を上がりきると、区境となり渋谷区から目黒区に入る。ここが、別所坂の頂部、これより急な坂を下り目黒川に向かう。・・・・・・・・坂上は階段となっており、ここには江戸時代の「庚申塔」が残されている。・・・・・・・・・傾斜角13°、勾配23%の坂はきつく、ヒールの高い靴を履いた娘は転ばないよう要注意!

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②なべころ坂・・・・・・・・・・・・別所坂を下り、目黒川を渡り、山手通りを横断し、中目黒4丁目に入ると、アーバンハイツ中目黒という大きなマンションがある。 その北側を東に向かって下る坂が、鍋が転がるほどの急な「なべころ坂」。(ほんとか?)

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・・・・・・・・・・・・・藤の庚申・・・・・・・・・・なべころ坂を上がりきると、「藤の庚申」 とよばれている2基の庚申塔がある。 昔、ここに藤の大木があったことからつけられた愛称らしい。 今は藤棚の下に庚申塔が移されている。・・・・・・・・・大きな庚申塔は貞亨元年(1684)の銘と、 「両親二世安楽の為に」 という願文が刻まれている。 小さな庚申塔は元禄元年(1688)と刻まれている。・・・・・・・・・・道端に庚申塔がある町は、いいね!

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③現代彫刻美術館・・・・・・・・・・・・浄土宗長泉院の住職であった故・渡辺泰裕が、現代彫刻家の作品を寺院の敷地内に展示・開館した美術館。展示は美術館の建物の中だけでなく、屋外にも多くが展示されている。・・・・・・・・・箱根の彫刻の森美術館の都心バージョンだ!・・・・・・・・・・無料で誰でも自由に見ることができる。ただし、犬、猫はダメだ。

・・・・・・・・・・・・長泉院・・・・・・・・・・宝暦11年(1761)創建の浄土宗の寺院。

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・・・・・・・・・・・・長泉院付属現代彫刻美術館・・・・・・・・・・・昭和57年(1982)に完成した本館建物。平面は六角形を基本に構成されている。外壁はマホガニーレッドという花崗岩。

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・・・・・・・・・・・・・屋外展示

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④こんなところにも!・・・・・・・・・・・現代彫刻美術館を出て少し行くと、ナント石垣の上に庚申塔が! 「馬喰(ばくろう)坂上の庚申塔群」だ。 江戸時代の塔が4基並んでいる。・・・・・・・・・目黒のあたりは、庚申信仰が盛んだったようだ。 村々で建てたようだね。

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⑤H邸・・・・・・・・・・目黒3丁目の邸宅・・・・・・・・・・古そうですが、年代不詳。元医院だったのか? 玄関らしきところが2か所ある。棕櫚の木の右側、つい数年前まで開業していたような玄関だ。 もう一つは、カーブミラーの右側、木造の玄関だが、よく見ると屋敷風の造りになっていた。(しょっとしたら御殿医かも?)

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⑥目黒寄生虫館・・・・・・・・・・・歩いていると、世の中、変なものに出くわすこともある。今日は、ナント! “寄生虫館”だ。 そうです、あのサナダ虫、回虫の寄生虫だ。・・・・・・・・“世界でただひとつの寄生虫の博物館” 昭和28年(1953)、医学博士:故・亀谷了が私財を投入して設立した。 チョイト、気持ち悪いが“入館無料”につられ拝見した。・・・・・・・・・・・1・2階の展示室を一通り拝見し、どうやら凄い研究の成果のようだ。感動した。 その研究は学界でも継承され、維持されてきている。・・・・・・・・・帰りには、今後の研究の一助に、少額の寄付をしてきた。

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⑦目黒新橋・・・・・・・・・・・・・江戸時代から目黒川の現在地(上を通るのは目黒通り)にかけられていた橋。 もちろん当時は木橋だ。 昭和8年(1933)にア-チ橋としてかけられ、以後修復が何度か行われているが、当時の姿を残している。・・・・・・・・・聖橋に似ているね!

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2013年5月 7日 (火)

池尻大橋~恵比寿

田園都市線池尻大橋駅から、祐天寺、中目黒をまわって、山手線恵比寿駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①池尻大橋駅・・・・・・・・・・・田園都市線は遡ると、玉川電気鉄道(=玉電)が明治40年(1907)に路面電車として道玄坂上~三軒茶屋間で開業したことに始まる。 玉電は、その後、多摩川を渡り「溝ノ口」まで延伸した。昭和17年(1942)には、東京急行電鉄となり、玉川線となる。 昭和44年(1969)、新玉川線(地下線)の建設に伴い玉川線は廃線となる。 昭和52年(1977)、新玉川線の開通により、地下駅として「池尻大橋」が開業した。平成12年(2000)には、新玉川線が田園都市線に組み込まれ同線の駅となる。・・・・・・・・・・・地下駅は“絵”にならず、面白くないね!

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・・・・・・・・・・・・・駅近くの案内板にあった、路面電車、玉電(昭和30年代、デハ200型)の写真。・・・・・・・・・・これに乗って遊園地「二子玉川園」に行った記憶ある、懐かしい電車(愛称:ペコちゃん)だ。

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②目黒天空庭園・・・・・・・・・・首都高速3号渋谷線と山手トンネルを連結する大橋JCTの屋上につくられた庭園。 大橋JCTといえば、ローマの「コロッセオ」に似た円筒状の巨大なコンクリート構造物で、楕円形の平面は国立競技場のグラウンドとほぼ同サイズだ。・・・・・・・・・・観光名所になったのか? 観光バスの団体さんが見学に来ていた! 地方からワザワザ上京して見るほどの施設でもないと思うがね!

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・・・・・・・・・・・・パースは屋上の目黒区の資料から失敬。

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③大橋氷川神社・・・・・・・・・・・玉川通りに面し、大橋JCT前の小高いところにある、旧上目黒村の鎮守さま。天正年間(1573~1592)の創建で、祭神として、素佐之男命、天照大神、菅原道真が合祀されている。・・・・・・・・・階段がキツイ神社だ!

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④T邸・・・・・・・・・・・目黒区東山の、昭和2年(1927)建築の住宅。玄関ドア・半円の明り取りなど、建築当時の姿を留めているようだ。 区の文化財に指定してもいいね!

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⑤煉瓦蔵・・・・・・・・・・・・上目黒の邸宅(?)の煉瓦造りの蔵がある。歴史がありそうだ! 木造の母屋の玄関回りも歴史がありそうだ!

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⑥上目黒天祖神社・・・・・・・・・・・上目黒の天祖神社の創建年代は不詳。社殿は昭和8年(1933)の建築。・・・・・・・・・・境内に2基の庚申塔がある。一基には宝永5年(1707)の年号、もう一方は享保元年(1716)の年号が刻まれており、共に区の文化財となっている。

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⑦旧千代田生命本社・・・・・・・・・・平成12年(2000)、千代田生命が破綻し本社ビルは目黒区役所に生まれ変わった。・・・・・・・・昭和41年(1966)、村野藤吾(1891~1984:旧森五ビル、日生劇場などを手掛けた)の設計により、中目黒のアメリカンスクール跡地に地上9階建てのオフィスビルが建てられた。外観はアルミ合金の鋳物ルーバーで覆い、白く、清楚な、優しい幾何学模様で囲まれた建物だ。また、建物の周りには池が造られ、より静かな空間を演出している。・・・・・・・・・目黒区は内部を一部改装して使用しているが、玄関ホール、らせん階段などは当時のままだ。 区役所としての雑多なイメージには不釣り合いな感じだが、いいね!・・・・・・・・・・屋上は「目黒十五庭」として、屋上庭園を市民に開放している。

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●・・・・・・・・・・・・ゴールデンウィーク後半に、夫婦の携帯をスマホに買い替え、ついでにタブレット「IPAD」を購入したら、歳のせいか(?)操作法の習得に、3日間、寝る時間までとられ、眠~~い!・・・・・・・・・・・でも、機能を知れば知るほど、便利で、夫婦で満足している。 早く慣れるように、日夜、練習!・・・・・・・・今日、ショップの店員いわく、“既に3日目で、通信料金の上限に達した”そうだ。

2013年5月 5日 (日)

地下鉄銀座線(浅草~上野)

我が家(浅草橋)から、浅草をまわり上野まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①タイガービル・・・・・・・・・・・東京大空襲をくぐりぬけた、昭和9年(1934)竣工の蔵前のタイガービル。 スクラッチタイル貼りの丈夫そうな外観が、安心感を誘うビル。両サイドの丸窓も、いいね!

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②黒船神社・・・・・・・・・・・台東区寿4丁目というより、“駒形どぜう”の横と言った方が解りやすいところにある黒船神社。・・・・・・・名前の“黒船”は、幕末のペリーには一切関係なく、所在地の旧地名“黒船町”に由来している。・・・・・・・・・小さな神社だが、平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が天慶3年(940)に創建した。 さらに、鳥居は寛文11年(1671)、灯籠は安永2年(1773)、手水鉢は寛政7年(1795)、狛犬は嘉永7年(1854)石工:飯嶋吉六の作、玉垣はチョイト新しく昭和29年(1954)と、圧倒的な歴史が刻まれた神社だ。・・・・・・・・・・・小さすぎて、参拝するのは地元の氏子だけかな?

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・・・・・・・・・・・・・さらに、賽銭箱には今は営業していない“厩橋旅館”と書かれている。

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③東京メトロ銀座線・・・・・・・・・・・・・東京メトロでは、平成24年(2012)、銀座線浅草~上野間が開業してから85周年となり、各駅のリニューアルを計画している。平成34年(2022)までに、下町エリアとして浅草駅~神田駅間の各駅を完成させる予定。・・・・・・・・今日は昭和2年(1927)に開業した、浅草~上野までの各駅を改めて見てきた。

・・・・・・・・・・・浅草駅4番出口・・・・・・・・・円形の中に「地下鉄出入口」の文字がデザインされた、観音さまにちなみ朱塗りの建物。

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・・・・・・・・・・・・浅草駅1番出口・・・・・・・・・雷門に最も近い出口には提灯が下げられている。

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・・・・・・・・・・・・・浅草地下街・・・・・・・・・・東武浅草駅の前と松屋の地下と新仲見世から入る浅草地下街。 地下街は浅草駅の入口にもなっている。・・・・・・・・まさに、下町の地下街だ!

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・・・・・・・・・・・・・浅草駅ホーム・・・・・・・・・・通常はホームにて折り返し運転をしているが、ホーム奥には留置線がある。

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・・・・・・・・・・・・田原町駅・・・・・・・・浅草六区への玄関口として、歌舞伎役者の家紋レリーフが36枚、ホーム壁と天井の境目に、昭和2年(1927)の開業時から飾られている。

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・・・・・・・・・・・・・稲荷町駅・・・・・・・・・駅の近くには、まもなく祭りが行われる下谷神社、まもなく取り壊される上野下アパートなどがある。

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・・・・・・・・・・・・・上野駅・・・・・・・・・・出入り口は、JR上野駅、京成上野駅に接続している。

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・・・・・・・・・・・・銀座線踏切・・・・・・・・・・上野と稲荷町の間で線路は本線から分岐し、銀座線の車両基地である「上野検車区」に向かう。その検車区の直前に踏切がある。

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2013年5月 3日 (金)

平井~押上

総武線平井駅から、荒川土手を歩き八広を抜け、京成押上線に沿い押上駅まで、1万5千歩、10kmの散歩です。

①ガラガラ!・・・・・・・・・・今日から4連休、通勤時間帯の平井駅・駅前道路はガラガラだ。・・・・・・・・・皆さん、何処へ行ったやら?

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②平井天祖神社・・・・・・・・・・・平井7丁目に鎮座するは「天祖神社」。創建年代は不詳だが、貞和4年(1349)に再興し、平井村の鎮守さま。・・・・・・・・・・2本の鳥居は昭和3年(1928)に改修され、銅製の鍛造による注連縄は精巧で珍しいものだ。・・・・・・・・・・・本殿は江戸時代末期の神社建築で、屋根の萱葺きを銅版で覆っている。外壁面には鳥などをモチーフにした精緻な彫刻がほどこされている。

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③荒川土手へ・・・・・・・・・大正から昭和にかけて開削された旧荒川放水路(現:荒川)によって、旧中川が分断された位置に、木下川排水機場がある。このあたりは0メートル地帯で、荒川の水が平井の住宅地に流れ込まないように、旧中川の分岐部を埋め立て、水門が造られた。

・・・・・・・・・・・・・埋め立てた旧中川の上には、昭和59年(1984)築、7棟、210戸の財務省平井住宅が建っている。旧中川の川筋に合わせ、棟がカーブして並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・土手に出ると、荒川と木下川排水機場をつなぐ、木下川排水樋管(昭和48年(1973)完成)がある。

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・・・・・・・・・・・・・土手からは、対岸に首都高の「かつしかハープ橋」がみえる。

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・・・・・・・・・・・・・土手には、アザミとレンゲ。

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④皮革工場・・・・・・・・・・墨田区東墨田の皮のなめし工場・・・・・・・・今年3月にこの辺をウロチョロしたが、その時の臭いを、再度嗅ぐこととなった。 私には、なじめない臭いだ! 籠に入れられた豚の皮が、、、、、、チョイト、気持ち悪いね!

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⑤都立日本橋高等学校・・・・・・・・・ここは、墨田区八広だ。なぜ、“日本橋”高等学校が?・・・・・・・・昭和15年(1940)に葛飾区亀有にて設立した府立十七中学校が前身。昭和17年(1942)に墨田区向島に移転(この時、校名は府立葛飾中学)。昭和19年(1944)に中央区日本橋箱崎に移転。昭和22年(1947)、箱崎の葛飾中学は都立日本橋中学と改称。昭和23年(1948)、都立日本橋新制高等学校に改称。昭和25年(1950)、都立日本橋高等学校に改称。平成11年(2009)、現在地墨田区八広に移転。・・・・・・・・沿革はわかった! だけど、場所も名前もチグハグで、どうなってるの? “都立八広高等学校”にしたら地名と一致するのだが、“日本橋”の方がカッコいいのかな。

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京島3丁目・・・・・・・・・・・震災、戦災の被害が少なく、大正・昭和の古い家屋と町工場が混在している下町。 狭い路地が入り組み、消防・救急車両が入ることも困難な地域だ。 課題を徐々に改善する方向で行政も取り組んでいるが、まだまだ時間がかかりそう!

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⑦チョイト、危ないようだ!・・・・・・・・・・いまにも、歩道に向かって倒れてきそうだ。

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⑧スカイツリー・・・・・・・・・・・・・・

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2013年5月 2日 (木)

聖橋

今日の散歩は、浅草橋の我が家から御茶ノ水まで、歩いて往復した。1万歩、7km。

①聖橋・・・・・・・・・・湯島聖堂とニコライ堂、2つの聖堂を結ぶ聖橋(ひじりばし)は、建築家:山田守(1894-1966)の設計で、昭和2年(1927)に竣工した震災復興橋である。・・・・・・・・・鉄筋コンクリート造アーチ橋、長さ72.9m、幅22.0mで、工事費は80万円程であった。(同じ昭和2年に竣工し、同じ神田川に架かる柳橋は12万円程)・・・・・・・・建築家:山田守は旧千住郵便局電話分室東海大学代々木校舎2号館永代橋(デザインに関与)などを手掛けた、曲面・曲線を用いた特徴ある作品を残している。 橋の長さは隅田川に架かる橋には及ばないが、神田川に架かるスケールの大きさ、インパクトの強さはスゴイ! まさに復興の記念碑的な橋である。

・・・・・・・・・・・・・総武線神田川橋梁の股下から眺める聖橋。

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・・・・・・・・・・・・印象的な姿を描く曲線

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・・・・・・・・・・・・・聖橋から眺める両聖堂

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②湯島聖堂・・・・・・・・・・・元禄3年(1690)、将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟。明治時代には、昌平坂学問所として私塾が開かれ、以後、聖堂構内には、現在の国立博物館、筑波大(東京教育大学)、お茶の水女子大などが同居した。大正12年(1923)の関東大震災で建物は悉く焼失し、昭和10年(1935)に伊東忠太(築地本願寺などを手がける)の設計により、鉄筋コンクリート造で再建された。・・・・・・・・・・東日本大震災では建物は無傷だったようだが、外周の塀がかなり損傷して昨年まで補修工事が行われていた。

・・・・・・・・・・・・・鮮やかな黒塗りの門をくぐり、孔子を祀った「大成殿」に向かう。

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・・・・・・・・・・・・・聖堂からニコライ堂を見る

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・・・・・・・・・・・・・聖堂に飾られていた、建設中のニコライ堂から撮影した明治の聖堂、左側の建物は東京師範学校。

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・・・・・・・・・・・・構内に建つ、湯島聖堂を管理する公益法人の“斯文会”の「斯文会館」。こちらは、昭和9年(1924)に鉄筋コンクリート造により建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・補修された塀。

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③ニコライ堂・・・・・・・・・・・ニコライ堂(=東京復活大聖堂)は、岩崎邸を手掛けたジョサイア・コンドルの設計で大主教聖ニコライにより明治24年(1891)に竣工した。その後、震災によりドームが崩壊し、昭和4年(1929)に修復された。国内最大級のビザンチン様式の建築で、国の重要文化財。・・・・・・・・・・内部は撮影禁止なので、残念だが写真はなし。 300円でローソクを買い献灯すると、ロシア正教の荘厳な雰囲気を肌で感じることができる。 今日は夕方にでも祈祷があるのか、若者・ロシア美人も見えた!

・・・・・・・・・・・・大聖堂

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・・・・・・・・・・・・敷地内に建つ、府主教庁、ニコライ学院の建物。

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2013年5月 1日 (水)

東北沢~池尻大橋

小田急線東北沢駅から、田園都市線池尻大橋駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①東京電力東北沢変電所・・・・・・・・・・・東北沢駅の旧踏切脇にある建物。外部は最近塗り直されたようだ、サッシも比較的新しいが、何となく古さを感じさせる建物だ。・・・・・・・・・いろいろ調べてみたが、建築年代は不詳。 気になる建物だ!

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②岸辺幼稚園・・・・・・・・・・・渋谷区上原の幼稚園。 創設者:岸辺福雄(1873~1958)は教育者として、明治36年(1903)に牛込に東洋幼稚園を、明治43年(1910)には神田神保町に東洋家政女学校を開設し、幼児教育と女子教育に専念した。幼児教育では、口演童話を実践しその体験は指導書としてまとめられている。 第二次大戦では、幼稚園・女学校とも強制疎開によって消失したが、岸辺幼稚園として事業が引き継がれている。・・・・・・・・・・園舎は古そうだが、年代を特定できない。・・・・・・・・・園児がメーデーに参加したのか? 正面玄関は閉じられ、今日は誰もいなかった。 園庭ごしに、歴史のありそうな木造の建物が眺められた。

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③住宅街の一角に!・・・・・・・・・・・渋谷区上原の住宅街に残る、昭和の建物。

・・・・・・・・・・・・焼け跡のバラックを思い出した。

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・・・・・・・・・・・・高度成長期以前に活躍したゴミ箱が、空き地に向いて置かれている、いいね!

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・・・・・・・・・・・・上原の洋館。明治30年(1897)に建てられた木造3階建て I 邸

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④山川荘?・・・・・・・・・・・・東海大学代々木校舎の近くに残る看板建築。鋭角状の角地に建っている。かつては1階に店舗があったと思われるが、現在、店はないようだ。・・・・・・・・・私のデータベースでは、「山川荘」という名の建物であったが現在は不明?

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⑤東邦大学大橋病院・・・・・・・・・・・東邦大学は、額田豊・晉兄弟により、大正14年(1925)に大森に開校した帝国女子医学専門学校が前身で、昭和に入り薬学専門学校・理学専門学校を併設し、以後、自然科学系の総合大学となる。・・・・・・・・・・大橋病院は医学部付属病院として、昭和39年(1964)に開設だれた。 病院の敷地に余裕がなく、大学の附属病院としては手狭なようだ! 病院の満員状態は好ましくないが、今日は、まさにその状態だ!・・・・・・・・・・・額田兄弟が創った研究所が千葉市稲毛区にある。

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⑥大橋スカイパレス・・・・・・・・・世田谷区池尻の高台に建つ、チョイト錆が出てきたマンション。昭和42年(1967)築、鉄筋コンクリート造、7階建。眺望は良し。・・・・・・・・竣工した頃は高度成長期で、モダンなデザイン、眺望の良さ、住宅としての立地の良さなどで、人気があったと思うよ!

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⑦池尻稲荷神社・・・・・・・・・・・・・神社は明暦年間(1655~1657=江戸時代)に創建された。旧池尻、池沢両村の鎮守社だった、明治になり村社となる。・・・・・・・・・・村の鎮守さまとして、今でも氏子に崇められている神社だと思うよ!

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