東船橋~船橋
総武線東船橋駅から船橋駅まで、裏道を散歩してきた。8千歩、5km。
①東船橋駅・・・・・・・・・・昭和56年(1981)開業の、総武線では最も新しい駅。・・・・・・・1面2線の地上島式ホームと橋上駅舎を有する。南北の出入口前には広いロータリーがある。・・・・・・・・・両隣りに大規模駅“船橋・津田沼”があるためか、開業して30年以上経った現在も、駅前に商店街のようなものはなく静かな駅だ。
②了源寺・・・・・・・・・・宮本7丁目の了源寺(りょうげんじ)は、浄土真宗本願寺派の寺で、天正8年(1580:織田信長が石山本願寺を焼いた頃)の創建。・・・・・・・・徳川幕府は船橋に大砲試射場を設けた。享保年間(1716~1720=江戸時代)に、了源寺の脇に射撃の小屋が建てられ、谷津の方向に大砲射撃を行った。射撃場が廃止された跡は、砲台の台座の場所に鐘楼堂が建てられ、鐘は「時の鐘」として、明治4年(1871)まで打ち続けられた。・・・・・・・・・今では、住宅街の中にあり、こんなところで、ドカーンとやったら近所迷惑だね!
③洋館風住宅・・・・・・・・・了源寺の脇の裏道を入っていくと、同一の間取りと思われる3棟の住宅がある。木造平屋の住宅だが、角部屋が下見板張りの小さな洋館風の構えで、気にかかる建物だ。・・・・・・・・3棟とも劣化が酷く、空き家となったようだ? 壁には『ありがとう』の言葉が書かれていた。 ひょっとすると取り壊しかも?
④旧兼坂医院・・・・・・・・・宮本5丁目に建つ、大正5年(1916)建築の旧兼坂医院。朱の三角屋根、間口の広い玄関、下見板張りの外壁、西洋風の病院建築。
⑤川久保診療所・・・・・・・・・・・・旧兼坂医院の横道を入ると、大神宮裏に古そうな建物の歯科医院がある。・・・・・・・・・・以前は「川久保病院」と称していたようで、玄関に看板が残っている。・・・・・・・・・この建物、1階は下見板張りの木造だが、2階は増築したようで、下見板を抑え込むような形で、2階部分の補強材(柱?)が表に出ている。・・・・・・・・・・おそらく戦前からの建物で、由緒ある病院だったのであろう。
⑥意富比神社・・・・・・・・・・ここまで来たら、チョイト、大神宮に手を合わせて・・・・・・・・
⑦御蔵稲荷神社・・・・・・・・・・船橋のメインストリート“本町通り”の北側裏に鎮座するは御蔵稲荷神社(おくらいなりじんじゃ)。・・・・・・・・・・昭和10年(1935)から11年まで、この近くに住んでいた太宰治は、この御蔵稲荷を好んだそうだ。 大きな大神宮より、小さなこの神社の方が好かったのか?(この頃、太宰は薬物中毒で苦しんでいたらしい。)
⑧つるや伊藤・・・・・・・・・御蔵稲荷の裏側には、安政元年(1854:ペリーが浦賀に来た頃)創業の染物屋「つるや伊藤」がある。営業品目は主に祭り衣装、祭り旗など祭りの関連商品が中心だ。・・・・・・・・・・老舗の店構えとして、歴史と粋が感じられる。
⑨日本一小さい東照宮・・・・・・・・・・本町4丁目の路地の奥に、船橋東照宮がある。現在は小さのな祠が残るのみであり、「東照宮」のイメージからは遠い。・・・・・・・・・・この東照宮は、慶長17年(1612)に家康の命を受け、狩猟の時の宿泊所として、伊奈忠政が建てたとされる船橋御殿の跡地に船橋大神宮の宮司が貞享年間(1684~1687)に建立したものだ。・・・・・・・・・・どうみても、「東照宮」があったと想像できない。
⑩道祖神社・・・・・・・・・・これまた、東照宮近くの神社。船橋のこの付近には小さな神社が多いこと! しかも由緒が??・・・・・・・・もう、どうでもいいよ!
⑪花生食堂・・・・・・・・・・船橋駅前のメイン通りの裏に、旧街道がある。その街道沿いに鎮座するは、昭和レトロ丸出しの「花生食堂」(はなしょうしょくどう)。・・・・・・・私は、通りがかりで、一目、“廃業した店かな?”と思ったが、店に白の調理服を着たお婆さんがいた! “廃業”だなんて、失礼しました。・・・・・・・・・このブログに書くため、チョイト、“ぐるナビ”もどきを参照したら、『御年73才と云う「美代子おばちゃん」の湯豆腐は、心に染み込む旨さ』と書かれていた。・・・・・・・・店にはメニューが無いそうだ。 これまた、珍しい!