柳橋
私の住む浅草橋の隣り町「柳橋」を歩き、両国橋を渡り、新大橋を渡り、浜町を抜けて我が家まで、1万2千歩、9kmの散歩です。
●花柳界「柳橋」・・・・・・・・・・・神田川が大川(隅田川)に合流する部分に架かる橋が「柳橋」その橋の北側(現地名:台東区柳橋)一帯に花柳界「柳橋」があった。最後の料亭「いな垣」も平成10年頃まで存在したが、現在は料亭跡のビル化が進み、面影も薄れた。・・・・・・・・・・・私の知る「柳橋」は戦後、昭和30年代、の華やかな街の時代からである。
・・・・・・・・・・・・柳橋・・・・・・・・・明治20年に木橋から鋼鉄橋になり関東大震災後にて消失、その後、昭和4年(1929)に復興事業として現在の橋が架けられた。永代橋のデザインを採り入れた、アーチ部分の線形が美しい橋です。・・・・・・・・・・・・橋の欄干には、かんざしのレリーフがあり、芸妓の姿を思い出させる。・・・・・・・・・・・春の夜や 女見返る 柳橋 (子規)
・・・・・・・・・・・・・昭和36年の柳橋・・・・・・・・・私が15歳の頃。 川岸には木造の料亭が並ぶ。大川と神田川の合流する角に料亭:旧:亀清楼がみえる。・・・・・・・・下の写真は、旧亀清楼跡に建つ現在のマンション
・・・・・・・・・・・・・面影残す建物・・・・・・・・・・・置屋の娘であった同級生の家も無くなった。
・・・・・・・・・・・・芸妓を乗せて大川で夕涼みした、船宿は今も健在。・・・・・・・・・当時は、船に便所が無く、男性は竹筒で、女性は板でかくして尻まくり、後は川に流して知りません!
・・・・・・・・・・・・石塚稲荷神社・・・・・・JRの高架橋脇には、稽古事の上達を願い若い芸者も手を合わせた神社がある。玉垣には、全ては過去の名前となった、芸妓組合、料亭組合、芸妓の名、料亭の名がズラリ。・・・・・・・・・かつて、神社の近くに銭湯があり、私も若い時まで利用していたのを思い出す。 見番も近くにあったね!
・・・・・・・・・・・・・篠塚稲荷神社・・・・・・・・・もう一つの神社、こちらはチョイト立派だが、同じようなものだ。こちらの、玉垣にも料亭・芸子などの名前がズラリ。 「横綱 朝汐太郎」、「花柳章太郎」の名も読める。・・・・・・・・・「両国花火組合」の名もみえる。今は“隅田川花火大会”だが、昭和36年までは“両国川開き花火大会”であった、場所も両国橋上流で打ち上げられた。
・・・・・・・・・・・・・隅田川の堤防・・・・・・・・・・昭和30年代には、大川(隅田川)沿いの料亭は川に向かい縁を出し、夕涼みを兼ね芸者遊びができ、両国川開き花火大会は目に前で鑑賞できた。しかし、料亭と川を隔てる無粋な堤防ができ、花柳界:柳橋の衰退に拍車をかけた。
・・・・・・・・・・・・・総武線高架下・・・・・・・・・・・昭和30年代の柳橋は人力車の時代であった。総武線の高架下には溜り場のように、昼はカラの人力車が数台並び、夜は車夫が休憩をとる姿も見られた。・・・・・・・・私の家の近くにも置屋があり、夕方、狭い我が家の前にも人力車が入りこみ、芸妓を迎えに来ていたね。 思い出すよ!
・・・・・・・・・・・・・柳橋の甘味処「にんきや」・・・・・・・・・花街には、必ずと言っていいほど、見番と銭湯と甘味処がある。 見番は料亭・置屋・待合をコントロールする最重要機能だ。 銭湯は芸妓の身も心も洗い営業のための保全機能。 甘味処は芸妓のチョイトひと休み機能。・・・・・・・・・柳橋にも一昨年まで開いていた甘味処があった。 残念だが閉店した。