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2013年6月

2013年6月30日 (日)

高砂~市川

京成線高砂駅から総武線市川駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①茅の輪・・・・・・・・・・・6月30日は、正月から6月までの半年間の罪穢を祓う夏越しの大祓の日だ。河原で刈った茅草で大きな輪を作り、その輪を8の字型に3回くぐりぬけると、半年間の罪・穢れを祓うことができるといわれている。・・・・・・・・・朝、神社に立ち寄って、草のいい匂いがプンプンする茅の輪をくぐり、心身ともに清らかになり散歩に出た。

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②高砂第1号踏切・・・・・・・・・高砂駅ホームの東側に接する踏切(踏切の上は京成金町線のホーム)。 高砂駅は京成本線と金町線(本線から分離し高架となっている)および北総線、そして高砂検車区への入出庫線もある、一大ジャンクションで多くの線路が交錯し、発着量も多い。ここに在る第1号踏切は当然“開かずの踏切”となっているようだ。・・・・・・・・鐘ヶ淵の踏切で脱臼した不自由な右手の状態で、今日も踏切をパチリ。 私は、馬鹿か、阿呆か、懲りない男だ!

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②高砂第2号踏切・・・・・・・・・・・1号踏切に続き。高砂検車区前の2号踏切。・・・・・・・・パラパラと雨粒が落ちてきた。

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④都営高砂団地・・・・・・・・・・昭和38年(1963)から昭和44年(1969)にかけて建設された、総戸数1300戸に近い古い大規模団地が、京成本線の南側に広がっている。・・・・・・・・・この団地と線路を挟み北側の京成高砂検車区を含めた、高砂駅周辺は再開発の話があるそうだ。・・・・・・・・・団地も、平成21年(2009)から、建て替え工事に着手している。 そのため、何棟かは閉鎖され取り壊しを待っている。 残りの棟も半分くらいは空き部屋となりガランとしている。 気のせいか給水塔も寂しそうに見えるね!・・・・・・・・・・・・広い敷地なので、最終的にはどのような街に生まれ変わるのか楽しみだ!

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⑤高砂第4号踏切・・・・・・・・・・・線路わきで立派なお地蔵様と道祖神が見守っている。・・・・・・・・・電車のかわりに駕籠が通れば時代劇の世界だ!

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⑥煉瓦造の祠・・・・・・・・・葛飾区鎌倉の真言宗豊山派輪福寺の門前には、煉瓦造の祠の中に地蔵尊が祀られている。・・・・・・・・・そんなに古い祠ではないが、犬小屋みたいで面白い!

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⑦文化住宅(?)・・・・・・・・・・・・・木造平屋の住宅が2棟並んでいる。 それぞれの棟は左右対称で2世帯づつ入居している。 終戦直後に建てられた文化住宅の名残か?

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⑧江戸川駅・・・・・・・・・・・・京成本線の駅だが知名度の低い、マイナーな駅。江戸川を挟み、東京側には江戸川駅、千葉側には国府台駅が対峙している。両駅とも江戸川土手に至近で、互いの駅を眺めることも可能だ。・・・・・・・・・駅の歴史は立派で、大正元年(1912)に京成本線は、押上~高砂~江戸川間で初めて開業した。当時の駅名は「伊予田」で終着駅であった。・・・・・・・・・・江戸川には、しばらくは橋梁ができず、渡し船で市川に渡ったそうだ。のどかな時代だったかも?

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⑨京成電鉄江戸川橋梁・・・・・・・・・・・・・・昭和54年(1979)に完成した現在の橋梁。 橋長は433.2mの下路ワーレントラス橋。

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⑩江戸川・・・・・・・・・・・・・・小岩菖蒲園はそろそろ店仕舞だ! 菖蒲田ではカエル、小魚、カニ獲りの時期となった。

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⑪市川橋・・・・・・・・・・・・市川橋の下り線(上流側)は昭和38年(1963)に、上り線(下流側)は昭和42年(1967)に開通したワーレントラス橋。全長399mの橋上を走るのは国道14号線(千葉街道)。 

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●・・・・・・・・・・・・・高砂を出たころは小雨だったが、市川駅では真夏の日差し。和服はアツ~~イでしょうね!

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2013年6月28日 (金)

新小岩~高砂

総武線新小岩駅から京成本線高砂駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①通勤・通学・・・・・・・・・・・・・・・・サラリーマン・学生が駅へ急ぐ新小岩駅前。 駅に向かう人95%、駅から去る人5%、人の流れに逆らって歩くのはチョイト気が咎めるね!

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②奥戸の農家・・・・・・・・・昭和30年代頃までは、田・畑の広がる一帯であった奥戸地区も今は住宅・工場がビッシリ。 その中に、かろうじて残る農家。

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③宝蔵院・・・・・・・・・・・葛飾区奥戸の真言宗豊山派の宝蔵院。青旧山和光寺と号し、応永2年(1395=室町時代)に創建された。・・・・・・・・・境内は人影もなく静かな佇まいで、手入れも良く、癒されるお寺だ。(境内はやぶ蚊も多く、手に刺され、痒くなるお寺だ。) 彼岸花の名所として知られているが、あいにくアジサイの季節で、彼岸花はチョイト早い。・・・・・・・・・・本堂は昭和59年(1984)に新築された。

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④八剱神社・・・・・・・・・・・宝蔵院の北に八剱(やつるぎ)神社がある。天文5年(1536)、杉村小左衛門が当地を開拓するに当たり、守護神として勧請しと伝えられている。旧奥戸の鎮守様だ。・・・・・・・・・・社殿は、寛永6年を始めに、正保4年、安永7年、文久3年、明治41年に再建または修覆が行われてきたが、昭和47年(1972)に現在の鉄筋コンクリート造の社殿に建て替えられた。・・・・・・・・ここの例大祭では、全国でも珍しい華麗な衣装とお面をつけて「舞楽」が奉納されているそうだ、一度は観てみたいものだ!

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⑤八剣橋・人道橋・・・・・・・・・・奥戸8丁目と9丁目を結び、昭和34年(1959)、新中川に架けられた八剣橋。 架橋後、下流側に人道橋を増設し、車道と分離した。

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⑥奥戸フラワーパーク・・・・・・・・・・只今、バラ・ダリアが美しく咲き乱れるてます。 葛飾区が管理する美しい花の公園。

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⑦立石大通踏切・・・・・・・・・総武線新小岩駅と常磐線金町駅を結ぶ新金貨物線の踏切、本数が少なく貨物列車には遭遇しなかった。 残念!

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2013年6月27日 (木)

哲学堂公園

御贔屓にしているいくつかの病院の一つに、中野の東京警察病院がある。 こちらでは、私からのオーダーは、もっぱら眼科であり、今日も4カ月毎の定期検診を受けた。 もちろん“異常なし”だ。・・・・・・・・・・担当の美人先生が、私の右手を拘束した姿を見て、会うなり「どうされましたか?」と切り出され、4日前の脱臼の話をした。 脱臼の激痛に耐える私の姿を想像したのか、楽しげに聞いている先生の顔を見て、チョイト和む時間ができた

・・・・・・・・・診察後は、江古田の哲学堂公園・給水塔を散歩してきた。1万1千歩、8km。

①新井の空き家?・・・・・・・・・・旧豊多摩監獄表門が保存されている、法務省矯正研修所の南側に残る空き家?・・・・・・・・・庭に雑草はなく、つい最近まで使用されていたようだが、空き家となっているようだ。下見板張りの木造平屋住宅(?)は、おそらく昭和初期の建築であろう。 壊すのはもったいないね!

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②北野神社・・・・・・・・・・・裏道を抜け北野神社に出てきた。天神様に手を合わせて行く。

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③西武新宿線踏切・・・・・・・・・・・・中野通りを進むと西武新宿線の踏切が在る。また、転んで怪我をしないように、細心の注意で撮影。

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④哲学堂公園・・・・・・・・・・・・・神田川の上流:妙正寺川沿いに小高い位置(かつて和田山と呼ばれていた)に哲学堂公園はある。・・・・・・・・・・明治39年(1906)、哲学館(東洋大学の前身)の創始者・井上円了(1858~1919)が全財産を投じて造った公園。 当初、井上は、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設した。これが公園の始まりとなり、明治39年~大正元年(1912)の間に哲理門、六賢台、三学亭などの建築物が逐次建てられた。昭和19年(1944)井上の没後、東京都に寄付され現在は中野区の管理となっている。

・・・・・・・・・・・・・四聖堂(しせいどう)・・・・・・・・・公園の名となった「哲学堂」とも称し、釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四聖人が祀られている。

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・・・・・・・・・・・・・六賢台(ろくけんだい)・・・・・・・聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅の六人の哲人が祀られている。

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・・・・・・・・・・・・・哲理門・・・・・・・・哲学堂の正門で、門の左右は二王に変わり天狗と幽霊がいる。

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・・・・・・・・・・・・・・宇宙館・・・・・・・・・・・宇宙の真理を追究する哲学にあやかり命名された講義室。

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・・・・・・・・・・・・・無盡蔵(むじんぞう)・・・・・・・・・井上円了が収集した国内外の記念物を陳列していた建物。

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⑤野方給水塔・・・・・・・・・・・・・東京23区北西部への配水を目的として、昭和3年(1928)に建設された。高さ34mの鉄筋コンクリート造構造物で、東側に階段室、頂部に換気塔を付け、水槽周壁上部にはアーチ形窓を配する。壁体内の漏水防止用鋼板に初期の溶接技術を用い、ドーム付円筒形水道塔としても最初期の事例である。 ・・・・・・・・・・・昭和47年(1972)に給水所は廃止され、現在は中野区の災害用配水槽となっている。国の登録有形文化財。・・・・・・・・・モノクロ写真は、中野区が保有する、昭和初期の写真。

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2013年6月24日 (月)

白鬚橋

昨日の大惨事は、、、、笠置シヅ子の“買物ブギ”に乗せて、、、♪♪ たまの日曜 サンデーというのに 何が因果と 言うものか こんなに沢山 不便を強いられ 人の迷惑 考えず 道でころんで 右手が使えず 人の気持ちも 知らないで わてほんまに よういわんわ わてほんまに よういわんわ ♪♪

そして今朝は病院へ行くのに、身体は拭けず、パンツは穿けず、歯は磨けず、箸は持てず、、、、、♪♪ 今日は朝から 私のお家は てんやわんやの 大騒ぎ 盆と正月 一緒に来たよな てんてこまいの 忙しさ 脱臼がなんだか さっぱりわからず どうして着替えるやら さっぱりわからず 何も知らずに トイレはしたけど 後始末がごっちゃに なりまして わてほんまに よういわんわ わてほんまに よういわんわ ♪♪

どうにか、8時過ぎに家を出た。浅草橋からバスに乗り、南千住の手前「泪橋(なんみだばし)」で下車し、白鬚橋を渡り病院へ向かった。

白鬚橋 ・・・・・・・・・・隅田川に架かる震災復興橋の一つ。俗称「ワニ橋」と呼ばれるように、骨太な鋼橋で永代橋と似通っていて重量感がある橋。 形式はバランスド・タイト・アーチ橋で、橋長は168.8m、大林組の施工で昭和6年(1931)に竣工した。・・・・・・・・老朽化した白鬚橋は、只今、6億8500万円かけ長寿命化工事を実施している。

・・・・・・・・・・・・名前に合わせ白っぽく塗られている。

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・・・・・・・・・・・・・・スカイツリーの上層は雲の中

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②白鬚東アパート・・・・・・・・・・隅田川沿いに長さ1.2キロに渡り万里の長城のように建ち並ぶ都営団地が在る。・・・・・・・団地は防災拠点として、昭和40年代に構想が練られ、昭和47年(1972)から昭和61年(1986)にかけて建てられ、全18棟の高層アパートが連結している。・・・・・・・・病院が待っているので、今日は前を素通り。ゴメン!

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③白鬚橋病院・・・・・・・・・・・昭和11年(1936)に開業した、向島地区の地域病院で、救急患者を365日24時間受け入れてきた。しかし、平成23年(2011)経営が悪化し、現在の経営者に変わり診療が続けられているそうだ。・・・・・・・・・私が診察を待つ間にも、3~4人急患が搬送されて来た。 ありがたい病院だね!

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●・・・・・・・・・・外来は超満員、2時間待ち、5分診断の状態。「2週間肩を動かさないように。あとは、時間が経過するのを待つだけ。以上」 会計で精算し、2週間後にまた来てね!・・・・・・・・・長く待つ患者には、お茶を出してくれると嬉しいね!

2013年6月23日 (日)

厄日

午前中に選挙を済ませ、午後は散歩に京成線八広駅で下車。まずは、荒川沿いに鐘ヶ淵駅方向に散歩を開始した。

①下町墨田・・・・・・・・・・・・いつもの様に、気分よく下町散歩を始めた。これから、身に降りかかる災いを知らず!

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②人助け・・・・・・・・・・墨田4丁目の裏道の銭湯の前まで来ると、80歳ほどのお婆さんが血まみれ状態だ! 私より先に通られた中年の御夫婦が、ハンカチで頭を押さえ止血していた。 私も参加し、救急車到着までお手伝い。

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③魔の踏切・・・・・・・・・・・人助けに気分を良くして、鐘ヶ淵駅前の踏切で、電車をパチリ。私の好きな踏切で、駅も好きだ、踏切を前後して、撮影は続く。・・・・・・・・・事件が起きたのは、駅横の踏切正面の交番前である。 自分で足を滑らし、交番前でバッタリ。 道行く人が声をかけてくれた、「大丈夫ですか?」。 恥ずかしいので、「ありがとう、平気ですよ!」と言ったが、右腕が痛く起き上がれない。はって、交番に行き、お巡りさんに助けを求めた。 手は痛くて、痺れもある、汗はダラダラ、右肩は肩こりの痛さを100倍に濃縮した痛さだ。 お巡りさんが救急車を手配してくれ、今度は自分が乗ることになった。

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●・・・・・・・・・・・・・救急車の中でも激痛で、“殺してくれ!”と叫びたかった。事件現場から500m程の白鬚橋病院に搬送され、X線検査で右肩の脱臼と診断された。

●・・・・・・・・・・・・・治療はまず痛み止めに、尻に座薬を注入。若い看護婦さんに、ズボンを下ろされ尻を出し、恥ずかしい~~。腕は痛い~~。汗はドシャ―。 人に見せたくない姿だ。・・・・・・・・・・10分くらいで麻酔も効き、今度は男性医師が右手を両腕でつかみ、片足を私の脇の下に入れた。 すると、力任せに“人の痛さも知らず”引っ張った。 『ギャー』私の叫び声が病院に響いた。 「はい治りました」医者の言葉。  看護婦さんの「深呼吸してください」の言葉が、天使の言葉にきこえたね!

●・・・・・・・・・・・・・お土産に痛み止めを貰い、右手は肩から固定し、『明日のおこしをお待ちします』といわれた気分で病院を後にした。・・・・・・・なお、散歩中に倒れていたお婆さんと同じ病院だった。 病院の中で互いにご挨拶。 これも縁かな?

●・・・・・・・・・・・・・という事の次第で、今日のブログは番外編とする。 右手が使えず、左手でブログをアップしてます。 “手”は大切に! お大事に!

●・・・・・・・・・・・・・神宮館の暦では、私は「九紫火星」で、今日は「注意日」であった。 当たるね!

2013年6月22日 (土)

東大島~新小岩

東大島駅から船堀橋を渡り、中川沿いに新小岩駅まで、1万6千歩、11Kmの散歩です。

①船堀橋・・・・・・・・・・・荒川・中川を跨ぎ、昭和46年(1971)に完成した、長さ524.1mの船堀橋(ふなぼりばし)。

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・・・・・・・・・・・・・船堀橋の西端には、小松川のUR賃貸住宅建ち並んでいる。戦後の公団住宅とは見た目は変わったが、その分家賃も高く、1LDK(50㎡)で10万円以上するそうだ。・・・・・・・・・・昭和の時代であれば、“住宅公団 小松川一丁目団地”などと称されるところだが、今は洒落た名前で「セーラ小松川」と呼ばれている。

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・・・・・・・・・・・・・船堀橋の東端一帯(北葛西、東小松川、松島地区)は、完全な0メートル地帯で、大潮の干潮位より低いのだ。船堀橋から中川の水面と東小松川地区を見ると、あきらかに水面以下に建物が在る。・・・・・・・・・・中川の護岸には、干潮位のマークが付けられている。日頃から、いざという時の心構えが必要だ。

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②水神宮・・・・・・・・・東小松川の一帯は、昔、低湿地帯であったので、洪水に悩まされ、水難除けの神として水神様が祀られている。 通りがかりにパチリ。

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③大魔神・・・・・・・・・・・巨大な魔人は、江戸川競艇場の守り神?・・・・・・・・・昭和41年(1966)、大映が製作した時代劇の主人公(?)で、特撮で作られた。 今は昔の、懐かしき良き時代のヒーロー。・・・・・・・・・・・「大魔神」の映画で主演した高田美和(高田浩吉の娘)が良かったね! 高田美和は当時の大映を代表する青春スターで、吉永小百合、松原千恵子、そして私と、ほぼ同年代だ! ほぼ、50年前の話!!

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③善照寺・・・・・・・・・・・東小松川の善照寺は、真言宗豊山派の古刹で、開創の年代は不明。広い、堂々とした寺だ。・・・・・・・・・・元禄12年(1699)に横綱明石志賀之助が引退相撲を境内で行い、以来「相撲寺」と称されているらしい。 また、明治9年(1877)に江戸川区内最初の公立小学校“葛西小学校”が境内に開校した寺でもある。

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④西小松川町の建築・・・・・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・今井医院・・・・・・・・・・・黄色に塗られた下見板の洋風建築の「今井内科醫院」。 表の看板もいいね!

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・・・・・・・・・・・・・宮万商店・・・・・・・・・右から左へ書かれた「宮万」の大きな文字、塗り直されているが建築当初からの看板のようだ。

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⑤光福寺・・・・・・・・・・松島1丁目、天文元年(1532)に開山した真言宗の寺。小規模ながら、清々しいお寺だ!・・・・・・・・・昭和36年(1961)檀家の人たちによって本堂左に不動堂が建てられ、“五分一(ごぶいち)不動”と呼ばれている。・・・・・・・・境内は綺麗に手入れされ、小ぢんまりとした癒しの空間を創っている。

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新小岩駅近く・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・青葉旅館・・・・・・・・現在はビジネスホテル、チョイト昔の連れ込み旅館風。

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・・・・・・・・・・・・・中島自転車商会・・・・・・・・『セキネの自転車』、『山口ベニー号』 懐かしいい名だ! 昭和30年代か? 40年代か?

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・・・・・・・・・・・・・小川クリーニング・・・・・・・・・・白地に大きな文字の看板、平屋の屋根上には広い物干し場、玄関前の配達用バイク、、、、、昭和のクリーニング屋さんだ!

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・・・・・・・・・・・・・・ブティックの唐獅子・・・・・・・・・唐獅子のレリーフがある建物、以前はどんな商売を?

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・・・・・・・・・・・・・・松島3丁目、商店街裏の飲み屋。細く曲がった路地に、スナック、すし屋、バーなどなど、、、、、この近くには、かつて私娼街があった。

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・・・・・・・・・・・・・飲み屋街を抜けると駅前の商店街。

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2013年6月21日 (金)

銀杏岡八幡神社

台風と前線のコラボで、一昨日からじめじめと降り続き、今日も散歩は休み。 雨の止み間を狙い、浅草橋駅裏の氏神様「銀杏岡八幡神社」へ大祓の形代を納めに行ってきた。

大祓は、日々、清らかな気持ちで生活できるよう、自らの心身の穢れ、災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としている。この行事は、六月の“夏越の大祓(なごしのおおはらえ)”と、十二月の“年越の大祓”で、年に二度おこなわれる。・・・・・・・夏越の大祓では、形代(かたしろ・人の形に切った白紙)に自分名前と年齢を書き、息を吹きかけ、紙を撫でて、自分の身に付いた半年間の穢れ・罪を形代に移し神社に納める。神社では、6月30日に大祓式および茅の輪くぐりの神事が行われる。 7月6日には、浅草橋から屋形船で隅田川を下り東京湾上で、私の身代わりを務める形代を大海原に流し穢れや罪をチャラにしてくれる、ありがたい行事だ。

・・・・・・・・・・・・・・一枚の形代に自分の名と年齢を書き、家族の分を封に入れ、金一封を添え納める。身代わりとして、流刑に処される形代なので、丁重に扱わなければ!

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・・・・・・・・・・・・・・神社では、宮司さんが対応してくれた。巫女さんなら、賽銭もはずんだのに!

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・・・・・・・・・・・・・・・手土産に“除災厄除”の御守りを頂戴してきた。チョイトした飾りにもなる、茅の輪を模した御守りだ、パソコンの前に吊るしておこう!

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2013年6月19日 (水)

小名木川

昨日の続きで、清澄白河駅から歩こう。 駅前で東へ行くか、西へ行くか、南へ行くか、北へ行くか悩んでいたら、目の前を美人が東へスーと通過、“即、決まり!”私も東の方へ歩きはじめた。 計画性の無い散歩であり、途中から小名木川の川沿いに歩き、結果は都営新宿線の東大島駅までの散歩となった。 1万5千歩、10km。

清洲寮 ・・・・・・・・・・・清澄白河駅の東、清洲橋通りに面して建つ、昭和レトロのアパート。今日は前を素通り。

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②小名木川・・・・・・・・・・・旧中川と隅田川を結ぶ全長約5kmの運河で、小名木川(おなぎがわ)は江東区を東西に流れている。・・・・・・・・・・徳川家康がデズニーワールドに近い千葉県行徳から塩を府内に運搬するため、川の名となった小名木四郎兵衛に命じて、開削させた運河。・・・・・・・・・今日は、小名木川に架かる全16橋の内、隅田川寄りの2橋を除く、残り14橋を制覇した。計画性ある散歩であれば、美人に惑わされることなく、隅田川寄りの橋から順に歩いていたのだが、残念!

・・・・・・・・・・・・萬年橋 (まんねんばし)・・・・・・・・小名木川が隅田川に流れ込む直前に架けられた橋。 昭和5年(1930)に竣工した、タイドアーチ橋。 震災復興橋で、工事費は約33万円也。 (写真は今年1月撮影)

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・・・・・・・・・・・・・高橋(たかはし)・・・・・・・・隅田川寄りから2番目に架かる橋。 旧橋は昭和5年にアーチ橋として架けられていたが、昭和49年(1974)地下鉄大江戸線建設に伴い現橋に架けかえられた。橋上は清澄通りで幅員は25mある。・・・・・・・写真は西深川橋から遠望した高橋。

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・・・・・・・・・・・・西深川橋(にしふかがわばし)・・・・・・・・隅田川寄りから3番目に架かる橋。 橋長56mの1径間曲弦鋼製ワーレントラス橋、昭和5年に開通した震災復興橋の一つ。工事費は約16万円。・・・・・・・・・今日は、この橋から小名木川沿いに歩いてきた。

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・・・・・・・・・・・・東深川橋(ひがしふかがわばし)・・・・・・・・旧橋は昭和5年(1930)に完成したゲルバー橋であったが、昭和53年(1978)に現橋に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・川に沿い遊歩道が整備されている。遊歩道は誰が掃除しているのか、最後の中川にぶつかるまで、総延長5km程の沿道は綺麗に清掃され、犬猫のウンチもなく、カップめんの容器もなく、気持ちよく歩けた。感動した!

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・・・・・・・・・・・・また、遊歩道を歩いていると、尿意をもようし、どこぞの館に駆けつけたくなることが多い。 江東区は心得たもので、遊歩道の途中に案内図が設置されている。 この案内図に助けられた人は多いと思うよ!

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・・・・・・・・・・・・大富橋(おおとみばし)・・・・・・・・・・こちらも、昭和5年に旧橋が架けられたが、平成8年(1996)に単純鋼床版箱桁の現橋に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・新高橋(しんたかばし)・・・・・・・・・・現存する震災復興橋の一つで、西深川橋とと同一タイプ、同一サイズであった。単純曲弦ワーレントラス橋、昭和5年(1930)完成、工事費は15万円也(内地米10㎏が1円50銭の時代)。

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・・・・・・・・・・・・新高橋と次の新扇橋の中間で、小名木川は大横川と十文字に交差する。新高橋から正面に新扇橋を望む。左:スカイツリー方向から、右:東京湾方向に横切る大横川。

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・・・・・・・・・・・・川の交差点には、常夜灯が! 夜の交差点は衝突事故が多いのか?・・・・・・・・・交差点には江戸時代船番所が在り、年貢・役銀などを徴収していたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・新扇橋(しんおおぎばし)・・・・・・・・・・こちらも、旧橋は震災復興橋であったが、昭和48年(1973)に現在の橋に架けられた。現橋は、トラスランガー桁、橋長57.3mの、チョイト華奢に見える橋だ。

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・・・・・・・・・・・・・新扇橋と次の小松橋の間に扇橋閘門がある。・・・・・・・・・小名木川の両端の隅田川と旧中川の水位が2m程異なるため、パナマ運河のように閘門に船を入れゲートで仕切って水位を調整する施設。昭和52年(1977)に事業費約30億円を投じ完成した。

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・・・・・・・・・・・・小松橋(こまつばし)・・・・・・・・・・コレまた、震災復興橋だ。昭和5年(1930)完成の曲弦ワーレントラス橋。 工事費は16万円也。

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・・・・・・・・・・・・小名木川橋(おなぎがわばし)・・・・・・・・・・昭和63年(1988)に架け替えられた、3径間連続鋼床版鈑桁橋。橋の上には四ッ目通りが通っている。・・・・・・・・・・取り壊された旧橋は、こちらも震災復興橋で、昭和4年(1929)に工事費36万円で架けられた。

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・・・・・・・・・・・・小名木川クローバー橋・・・・・・・・・・・・隅田川から10番目の橋は、小名木川と横十間川が十文字に交差するど真ん中に、X型に架かる歩行者自転車専用橋だ。平成6年(1994)竣工。・・・・・・・・車が通らないので、皆さん安心して、結構、楽しそうに渡っているようだ。

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・・・・・・・・・・・・・橋の中央から、西(小名木川:隅田川方向)、北(横十間川:スカイツリー方向)、東(小名木川:旧中川方向)、南(横十間川:東京湾方向)の順に遠望。

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・・・・・・・・・・・・小名木川橋梁・・・・・・・・・・小名木川橋梁は、JR東日本の越中島支線の鉄道橋である。・・・・・・・・・昭和4年(1929)竣工した、下路式ワーレントラス+下路式プレートガーダー形式の、白いトラス桁が特徴的な橋梁だ。橋梁は複線対応で造られているが、レールは単線のみの敷設である。

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・・・・・・・・・・・・進開橋(しんかいばし)・・・・・・・・・・昭和42年(1967)に架けられた、ゲルバー橋。 橋上は明治通り。

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・・・・・・・・・・・・この辺りは遊歩道が水面の高さに近く、川底を歩いているようだ。

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・・・・・・・・・・・・砂島橋(すなしまばし)・・・・・・・・・・名前の通り、大島と北砂を結ぶ、歩行者・自転車専用橋。昭和54年(1979)完成。

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・・・・・・・・・・・・・・砂島橋の近くに、遊歩道に面し「小名木川旧護岸」が保存されている。旧護岸の左端に江戸時代の在来護岸の天端が標され、その上には昭和になって嵩上げした位置が順次標されている。・・・・・・・・・嵩上げ分だけ、0メート地帯として地盤沈下した証だ! 江戸時代の護岸はほとんどが水位より低い位置に沈んでいる! スゴイ、沈下量!

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・・・・・・・・・・・・丸八橋(まるはちばし)・・・・・・・・・・昭和47年(1972)に架けられた単純合成鈑桁の橋。上には丸八通りが通っている。

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・・・・・・・・・・・・塩の道橋(しおのみちはし)・・・・・・・・・・小名木川が塩を運ぶルートであったことに由来し命名された自転車・歩行者専用橋。平成20年(2008)の架設。

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・・・・・・・・・・・・番所橋(しおのみちはし)・・・・・・・・・・小名木川16番目の橋は、番所橋(ばんしょばし)。昭和35年(1960)に架けられた単純鋼桁橋。 橋の近くに、中川船番所資料館がある。・・・・・・・・橋は、只今塗装工事中。

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・・・・・・・・・・・・・長い距離、御苦労様、旧中川との合流点。

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東大島駅・・・・・・・・・・ホームが旧中川の真上にあり、駅の出入り口は川の両岸に在る。チョイト、変わった駅だ! 都営地下鉄新宿線の駅で、昭和53年(1978)開業。

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・・・・・・・・・・・・・ホームの窓から眺めると。

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●・・・・・・・・・・・今日の散歩は、帰宅後、このブログをまとめるのに疲れた!

2013年6月18日 (火)

豊洲~清澄白河

東京メトロ有楽町線豊洲駅から、木場を抜けて清澄白河駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①豊洲駅・・・・・・・・・・・・道路の下は東京メトロ(地下鉄有楽町線)の豊洲駅。 道路の上にはゆりかもめの豊洲駅。

・・・・・・・・・・・・地下鉄豊洲駅・・・・・・・・・・駅周辺には超高層ビルが建ち並び、地下鉄利用者が激増したため、只今駅の改良工事中。 朝の混雑時、駅でカメラを構えると、良からぬ撮影と間違われ駅員にマークされるため、写真はパスした。・・・・・・・昭和63年(1988)の開業時、一日の乗降客は4万人以下だったが、平成23年(2011)度の乗降客は15万人以上となり、東京メトロの駅としては乗降客数ランキングで西日暮里の次で14番目となった。・・・・・・・・・地上に出てみると、高層マンションから通う人、高層オフィスビルに勤める人で、行き交っている。 大手町まで20分の便利な地域だ!

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・・・・・・・・・・・・・ゆりかもめ豊洲駅・・・・・・・・平成18年(2006)開業の駅で、只今はゆりかもめの終着駅となっている。 将来、勝どき方面に延伸する予定があり、軌道の先端が交差点で曲がって首を出している。

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②東京都港湾局晴海線・・・・・・・・・・・・6月7日の散歩では、晴海線の跡を晴海から豊洲まで追いかけたが、今日はその続きで、越中島貨物駅までチョイト追いかけてみた。

・・・・・・・・・・・・・古地図を発見・・・・・・・・・・晴海線が存在したことを示す、貴重な公文書だ!・・・・・・・・・・発見場所は江東区枝川1丁目のバス停の隣り。ナント!「江東区」のお墨付きの地図だが、作成年代は不詳。・・・・・・・・・・地図の左上から右端の中央にかけ、鉄道の表示がある。中央部分は白テープで隠されているが、まぎれもなく晴海線の表示だ。

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・・・・・・・・・・・・・・都有地・・・・・・・・・・・枝川2丁目から塩浜2丁目に向かい、鷗橋(かもめばし)を渡ると、右側の大きなマンション裏に細長い都有地が残されている。 晴海線の線路敷きの跡だ。

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・・・・・・・・・・・・・都有地の先に行くと、「三つ目通り」を横断する。そこには、線路がしっかりと残されている。

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・・・・・・・・・・・・都有地の端部。晴海線はここまで! 私の後ろには、越中島貨物線のコンクリートの車止めが静かに鎮座している。

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③消えた洲崎(すさき)遊郭・・・・・・・・・・・・洲崎は、江東区東陽1丁目の旧町名で、ここは明治時代から昭和33年(1958)の売春防止法成立までは、浅草吉原と並ぶ代表的な遊廓であった。 当時は海を望み、長崎の出島と似た造りで四方を護岸で囲われた世界であった。 関東大震災の直前の大正10年(1921)には、業者は277軒、従業婦は2112人いたそうだ。戦後は「洲崎パラダイス」となり、昭和29年(1954)にはカフェー220軒、従業婦800人の規模となった。・・・・・・・・・・・いずれも、私の知らない未経験の世界の話しだ。知らずに良かったのか? 知っていれば、もっと良かったのか? 知らなかったのは、幸せか?不幸か? 判断するには、一度、経験して見たかった!

・・・・・・・・・・・・洲崎の入り口として架かっていた洲崎橋の名標

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・・・・・・・・・・・・四方を囲った護岸跡。現在は周りを埋め立てられ、道路を接続するため、斜路・階段が造られた。 かつて洲崎は、運河で囲まれ遊女は逃げることができなかった。

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・・・・・・・・・・・・・東日本大震災後に取り壊された当時の建物。(平成23年撮影)

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・・・・・・・・・・・・・昭和の匂いが残るアパート。洲崎には○○荘と名乗るアパートも多い。その中には昭和が残っている。

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④洲崎神社・・・・・・・・・・・・・元禄13年(1700)の創建。洲崎遊郭の西に位置し、文人墨客だけでなく、遊女の参拝もあったであろうと思うよ・・・・・・・・現社殿は昭和43年(1968)に造営した。

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⑤新田橋・・・・・・・・・・・・・木場駅と洲崎神社を結ぶ、赤く塗られた鮮やかな新田橋(にったばし)。両端には階段があり、人だけが通れるつくりとなっている。・・・・・・・明治から昭和初期にかけ、木場5丁目で医院を開業していた医師:新田清三郎さんが、不慮の事故で亡くした夫人の霊を慰めるため、供養で架けた橋。・・・・・・・・現在の橋は平成12年(2000)に架け替えられたものである。旧新田橋は深川富岡八幡近くに保存されている。

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⑥うれしい木陰・・・・・・・・・木場5丁目の交差点、信号待ちの人は木陰で、チョイトひと休み。雨が降れば雨宿りもできそうな大木だ。・・・・・・・・・「アメリカディゴ」という名の木で、真夏に映える真紅の花を咲かせる落葉樹。 江戸時代に渡来したマメ科の木だが、今日まで私は知らなかった。・・・・・・・・真夏のクリスマスツリーという感じだ。気に入った!

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⑦木場公園・・・・・・・・・平成4年(1992)に開園した都立公園。24hrの広さがある公園は防災拠点としての機能を有している。

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・・・・・・・・・・・・・木場公園の地下には、幅107m、長さ607m、深さ21m、2層で8両編成39本の留置能力がある、都営地下鉄大江戸線の車庫が在るのだ。・・・・・・・この車庫は平成11年(1999)の完成で、当時、私が勤務していたゼネコンが施工した。・・・・・・・・完成直後、我が家の娘が小学校の社会科見学で、この車庫を見学し戻ってくると、『パパの会社、ものスゴイもの造っているんだね。』と感心していたね。 直接、私が工事したわけではないが、鼻が高くなった、今は昔の思い出話だ。

2013年6月17日 (月)

浅草橋~千駄木

いよいよ熱中症の季節がやってきた。 この時期、散歩に出る前には、『帽子かぶって!』、『日影を歩いて!』、『ペットボトル持って!』、『歩きすぎて、ムリしないように!』、『美人に触れて捕まらないで!』と、一通りの注意を妻から受けることになる。

今日は、真昼間の外出を避け、15時過ぎからのスタート。我が家(浅草橋)から不忍池を抜け東京メトロ千駄木駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

①アメ横・・・・・・・・・・・・・戦後、バラック建ての店舗が並ぶ闇市としてスタートし、菓子屋、飴屋が多く、現在の名前の由来ともなった『アメヤ横丁』であった。・・・・・・・・私が小学生の頃(昭和20年代後半~)は、菓子問屋として“動物ビスケット”、“ラムネ菓子”などが売られていた。駄菓子屋で売る、おみくじ状の超小型サイズのくじ“ムキ”、薄い小型の煎餅状の菓子から型をぬく“ヌキ”、“ソースせんべい”、“紅梅キャラメル”なども売ってたね! 進駐軍からの横流し品かもしれないチョコレート、ガム、缶詰なども山積みで売ってた。・・・・・・・・時代の流れに合わせ、化粧品、時計・ライター、ミリタリールック、年末には鮭なども店頭に並んだ。店の周りには、バナナのたたき売り、メシ屋の屋台も並んでた。 ガード下の店には、“アメヤ横丁”特有の甘い菓子の匂いが漂っていた。 懐かしい匂いの思い出だ!・・・・・・・・現在は、安売りの商店街といった感じで、売ってる商品にめずらしさはない。

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②徳大寺・・・・・・・・・・・・アメ横の商店街の中央にある日蓮宗の寺。開運摩利支天を祀ることから摩利支天山とも称されている。 戦災で本堂は焼失し、昭和39年(1964)に1階は店舗、2階が境内となる現在の建物で再建された。・・・・・・・・・1階の店舗には、初代林家三平のCM『ニキ、ニキ、ニキ、ニキ、二木の菓子!』でおなじみの菓子屋さんも入っている。

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③オークラ劇場・・・・・・・・・映画ファンであれば、御存じ「大蔵映画」の直営「上野オークラ劇場」。ピンク映画館の老舗。昭和37年(1952)に上野公園前(現:アブアブの前)にオープンし、平成22年(2010)に閉館した。 最盛期には周辺には4~5軒の映画館・ストリップ劇場もあった。・・・・・・・今は、全て閉館したと思いたいが、嬉しいことに「オークラ劇場」は建物を新築し、上野に生き続けるピンク映画館として引き続き営業している。しかも、シネコンとして3スクリーンで営業中。

・・・・・・・・・・・・・いずれ取り壊しとなる旧「上野オークラ劇場」

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・・・・・・・・・・・・・営業中の新「上野オークラ劇場」

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④不忍池・・・・・・・・・・・・ゴミも無くなり、池の水は浄化され綺麗になった公園。

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⑤池之端七軒町の都電・・・・・・・・・・・「池之端七軒町」は都電が走っている頃の住居表示で、現在は池之端二丁目となる。ここには、20系統(須田町~上野公園~千石~江戸川橋)の都電が走っていた。都電は上野公園(現:アブアブ(当時は赤札堂))の前から、専用軌道で上野の山と不忍池の間を通り、イソップ橋の先で動物園に沿って西へ向かい池之端七軒町の交差点に出た。交差点の手前には池之端七軒町停留所があった。昭和46年(1971)都電は廃止された。・・・・・・・・・私は、中・高校生の頃、不忍池の横の、この専用軌道を走る都電を見るのが好きだった。 上野に遊びに行くたびに、軌道を見に行った。・・・・・・・・・・・旧池之端七軒町電停の跡には、檻に入れられた都電が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・昭和45年(1970)、同じアングルの池之端七軒町(当時は池之端二丁目に改称)電停。

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⑥爬虫類友の会・・・・・・・・・・窓には金網が取り付けられ、チョイト薄汚いビルだ? どこの会社、それとも住宅かな? 朽ちた木の門に、“ギャー”、なんと「爬虫類友の会」の表示が見に入る。・・・・・・・・・「へび博士」として知られた、高田榮一(1925~2009)の自宅で、「高田爬虫類研究所」である。・・・・・・・・・私は、爬虫類が大嫌いで、見るのが怖い。 窓の金網の奥にヘビがいると想像しただけで、気持ち悪く、早く立ち去ることにした。

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⑦日本基督教団根津教会・・・・・・・・・・・根津権現の鳥居近くに、可愛らしい尖塔のある木造の教会が建っている。下見板張りの教会は大正8年(1919)の建築で、国の重要文化財として登録されている。・・・・・・・・・・教会は、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲にも、被災せず周辺の建物と共に生き残ったそうだ。・・・・・・・・・アメリカの開拓時代の教会に似た雰囲気を残す貴重な建物。

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2013年6月15日 (土)

押上~八広

消えた台風3号の跡には熱帯低気圧が居座り連日の雨。昨夜の予報では、今日の天気は、午前中曇り、午後3時以降は雨、夜は本格的に雨。・・・・・・・朝、薄曇りの空模様、ヨシ、降られても困らないように、押上から線路沿いの散歩とした。 京成押上線の押上~八広間の上り線が、この8月23日から高架線に切り替えられるので、現場の視察に歩いてみた。

①押上駅(京成)・・・・・・・・・・・・・都営地下鉄浅草線が乗り入れている京成電鉄の押上駅。京成電鉄の旧押上駅は現:京成電鉄本社ビルが建っている位置に大正元年(1912)に開業した。・・・・・・・・昭和35年(1960)には都営地下鉄との相互直通運転開始により地下駅が完成した、その後しばらくは地上駅も使用していたが、後に地上駅は廃止された。現在はスカイツリータウンの地下に位置する地下駅だけだ。

・・・・・・・・・・・・・旧押上地上駅に近い出入り口。隣りは京成の変電所。

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・・・・・・・・・・・・・・旧押上地上駅の跡に建つ、京成本社ビル。この本社ビルもまもなく京成八幡駅前に移転する。 ビル正面には京成橋が架かる。

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・・・・・・・・・・・・・・京成電鉄本社前の京成橋は、昭和4年(1929)に架けられ、昭和37年(1962)に現橋に架けかえられた。 全長18.75m。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

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・・・・・・・・・・・・・・昭和35年(1960)の押上駅周辺。(写真は昨年の広報誌「京成らいん」から)・・・・・・・・・・・左に北十間川が流れ、左下に京成橋、中央下に押上駅、中央上の広い部分は東武業平橋駅とその構内(現在のスカイツリータウンの位置)。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和35年は、私が14歳、中学生だ! この年に都営地下鉄浅草線(当時は1号線)押上~浅草橋間が開通した。 そして、地下鉄浅草橋駅を施工している時の工法、施工会社名などを、なぜかよく覚えていた。 大学生で就職試験を受けるとき、この記憶が、私の頭にチラチラ、ピカピカ点灯し、浅草橋駅を施工したゼネコンに、私は入社したのだ。 運命の赤い糸で会社と結ばれていたのかも。(?)

②地上に出てくる京成線・・・・・・・・・・・・京成線は押上駅を出ると、東武の本社前踏切を過ぎた位置で、地上に顔を出す。

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・・・・・・・・・・・・・高架の東武線に並走し、盛土区間に入る。

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③押上の線路沿いの路地・・・・・・・・・・

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④押上の長屋・・・・・・・・・・・・マンションの陰に隠れたように残る、戦後のバラック?

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⑤高架工事接続部・・・・・・・・・京成曳舟駅手前の高層マンション脇で、ここから押上線は高架となる。現在は上り線の工事が進み、8月に切り替えられる。

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・・・・・・・・・・・・・・工事中の手前:高架線と盛土の奥:在来線。・・・・・・・・・・・・・在来線の小さなガード、煉瓦造りだ! 大正元年、押上線開通時に造られたものか? 高架化工事の最後には壊されるガードだ! 

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⑥半分できてきた京成曳舟駅 ・・・・・・・・・・高架3層の新駅は、3階がホーム、2階が改札らしい。駅前広場もでるようだ。 駅舎も在来線と反対側は、外装工事が行われ、明るい駅となっている。

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・・・・・・・・・・・・・・明治通りの踏切・・・・・・・・・・・高架化工事が終了する平成28年(2016)まで、あと3年したら、この踏切も無くなるのだ!

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⑦まもなく八広駅・・・・・・・・・・・・・高架の八広駅に擦り付ける位置。

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・・・・・・・・・・・・・八広の都営アパートから、チョイト眺めてみた。

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・・・・・・・・・・・・・地上から見ると、つまらないね!・・・・・・・・写真、右側は都営八広5丁目アパートで、昭和51年(1976)に竣工した。全250戸。

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・・・・・・・・・・・・・・既存の高架部分となり八広駅に到着。

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2013年6月11日 (火)

稲毛

台風3号が日本列島に接近中の空模様。 パソコン同好会で稲毛からの帰り、左手に傘、右手に自分で作成したの“マイうちわ”を持ち、肩にカメラを入れたバッグを掛け、散歩気分にはなれない。・・・・・・・・・・こういう時は、近くの「千葉市民ギャラリー・いなげ」に立ち寄ると、勉強と、癒しと、気分転換と、時間潰しと、友達作りと、話題作りと、、、さらに運がいいと、作品を展示している方と話が合い、お茶とお菓子を頂戴することもある。 いいね処だ!

①稲毛公園(松林)・・・・・・・・・・・・・京成稲毛駅から徒歩3分程で、稲毛公園に到着。ここには「日本の名松100選」でもある、黒松林が残されている。この黒松林は、終戦直後には、ここが海岸で暴風保安林として機能していた、しかし昭和30年代から沖合が埋め立てられ、今は海岸線から3km程陸に入った位置となった。 かつて、ここが海岸であったから、公園の一角に、旧神谷伝兵衛の稲毛別荘があり、愛新覚羅溥傑(1907~1994)の新婚時の住居が残っているのだ。関東森林管理局の千葉森林管理事務所も公園の一角に在る。・・・・・・・・・・・ぜひとも、大切に保存して欲しい、文化財級の黒松林だ! 

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②千葉市民ギャラリー・いなげ・・・・・・・・・稲毛公園の黒松林を抜けると、市の所有となった旧神谷伝兵衛稲毛別荘の隣りに建てられたギャラリーがある。 建築物としては、特別に思い入れはないが、市民のギャラリーとして、絵画・写真・書・手芸などの作品を週替わりで展示している。

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・・・・・・・・・・・・本日は「花と街のデジカメ写真展」をチョイト拝見! 美しい!綺麗!面白い! お近くの人は、ぜひ、お立ち寄りを!

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2013年6月10日 (月)

浅草橋~鶯谷

夕飯前の散歩で、我が家(浅草橋)から東上野を抜け鶯谷まで歩いた。 万歩計がダウンし、歩数計測不可。

①I邸・・・・・・・・・・・・台東区鳥越の出桁造りの建物。昭和3年(1928)の建築。・・・・・・・・浅草橋、鳥越、台東地区には、類似の建物が多く残っているが、築年代がはっきりしている建物は少なくなった。

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②水戸屋紙工・・・・・・・・・・・こちらも鳥越にある、モルタル塗りの建物。おそらく昭和初期と思われる。2階の窓、屋根の四隅の飾りなどに時代を感じる。

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③木村豆腐店・・・・・・・・東上野の豆腐の老舗(?)。どうやら、知る人ぞ知るお店らしい。主人が造る豆腐を求め、近所からお客が来ていた!・・・・・・・・・豆腐店の右隣りには、タカクボストアー(現:閉店)があり、棟続きの長屋であった。・・・・・・・・大きな看板、玄関前の桶とまな板が、“昭和”を演じているね!

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④川井純治商店・・・・・・・・・・・・東上野の貴金属商。 明治・大正期に創業した組合員で構成する業界組合に加入しており、歴史ある店のようだ。・・・・・・・・建物は、昭和初期に建てられたものと推測した。 建物は、戦禍をくぐり、鉄製の窓も朽ち、老いてきたようだ。

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⑤源空寺墓地・・・・・・・・源空寺は浄土宗増上寺の末寺。寺は天正18年(1590)に現在の文京区湯島で創建され、明暦3年(1657)の大火で焼失し、現在地(台東区東上野)に移転した。・・・・・・・・・道路を挟んだ源空寺の向かいに墓地はある。 墓地には、伊能忠敬、幡随院長兵衛、谷文晁、高橋至時の墓が並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・伊能忠敬の墓・・・・・・・・・・・・「東河伊能先生之墓」と隷書で刻まれている。忠敬は延享2年(1745)に上総国で生まれ、50歳を過ぎ、御存じの日本地図を作る。74歳で没する。・・・・・・・・なぜ、ここに墓があるのか? 源空寺には、忠敬の師:高橋至時の墓と、高橋至時の子で忠敬と一緒に地図を作った高橋景保の墓ある。 きっと三人の墓を並べたかったのかな!

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・・・・・・・・・・・・高橋至時の墓・・・・・・・・・・・・こちらは、「東岡高橋君之墓」と隷書で刻まれている。至時は江戸時代中期の暦学者で、明和元年(1764)に大阪で生まれた。幕府御用達の学者で、「寛政暦」などを作成した。伊能忠敬が幕命により、地図を作製する際には、測量を指導し、完成させた。

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・・・・・・・・・・・・・谷文晁の墓・・・・・・・・・・・・・・・TV「なんでも鑑定団」で鑑定対象として、度々登場する江戸後期文人画家。78歳で亡くなった、当時としては長生きだった。

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・・・・・・・・・・・・幡随院長兵衛の墓・・・・・・・・・・・・・江戸時代初期の町奴で、浅草花川戸に住み、奉公人の斡旋業に従事していた。歌舞伎の演目「極付幡隋院長兵衛」では、『怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代』の啖呵を切って、旗本奴:水野十郎左衛門に殺されに行く任侠の世界を描いている。36歳で没した。・・・・・・・・墓は、妻の「きん」とペアで並んでいる。

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⑥根岸のサボテン・・・・・・・・・・30年程の歳月で立派に成長し、今は家を支えている、トゲのある息子だ!・・・・・・・・・・TV「ナニコレ珍百景」にも出演した。

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⑦根岸の建物・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・手児奈せんべい・・・・・・・・・手児奈(てこな)というのは一般には伝説の美少女の名前で、山部赤人が手児奈の伝承を聞いて歌った和歌が万葉集にある。手児奈の墓の跡が市川市真間の手児奈霊堂だ。・・・・・・・・手児奈霊堂の近くで創業し、根岸は3代目の店。 商売も、建物も、100年は経過したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・くまがや不動産、高見峰秀鑑定所・・・・・・・・・震災前から建っていたらしいモルタル塗り看板建築の4軒長屋

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⑧鶯谷駅北口・・・・・・・・・・・駅正面にラブホテルがズラリ並び、私のような、気の弱い、恥ずかしがりやの人は、駅に行くには勇気がいるね! 駅前には怖そうなお兄さんはいないが、チョイトはずれると、その手のお姉さんと思われる人がアチラにも、コチラにも。・・・・・・・・・・明治45年(1912)、東北本線の駅として開業した。北口は地上駅舎のようになっている。駅舎からホームまでは、常磐線・東北線の線路下を地下道で抜け、ホーム北側の階段を上って出る。駅舎と地下道のつなぎ部分は木造で、古さを感じる。ホームの架線柱も古レールの造りだ。

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2013年6月 9日 (日)

銀座

夫婦で買い物に銀座へ、カロリー消費量が少なく、カロリー摂取量の多い散歩となった。

①銀座テアトルビル・・・・・・・・・・・・銀座1丁目は首都高の脇に建つ「銀座テアトルビル」。このビルには、「ホテル西洋銀座」、「銀座テアトルシネマ」などがあったが、5月末で営業は終了し、全ての入り口は封鎖された。ビルを所有している東京テアトル(株)は、約179億円で譲渡したらしい。 譲渡先、ビルの今後は不明。・・・・・・・・・・このビルは昭和62年(1987)に、映画館「テアトル東京」の跡地に菊竹清訓の設計で、12階建ての複合ビルとして建てられた。・・・・・・・・・際だって特徴的なビルではないが、銀座1丁目のシンボル的なビルでもあった、今後どうなるのか?

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・・・・・・・・・・・・・この地は、昭和21年(1946)に「テアトル銀座」として洋画専門の映画館が開館した。(この年は、浅草橋で私が産声をあげた年だ!) 昭和30年(1955)には、現ビルの前の建物で、私の知る「テアトル東京」が開館した。 「テアトル東京」では、それ以前に「帝国劇場」で上映してた“シネラマ”を引き継ぎ、シネラマの最初の劇映画「西部開拓史」を上映した。 私は高校生の頃で、もちろん観賞! その後も、「十戒」、「ベン・ハ―」、「スター・ウォーズ」など、思い出の残る作品が上映された。 当時の「テアトル東京」。

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②京橋交番・・・・・・・・・・・・東京テアトルビルの向い側に建つ交番。交番の位置は、明治、大正の京橋跡で、交番の隣りと東京テアトルビルの前に親柱が残されている。交番のデザインは大正時代の親柱と同じだ!

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・・・・・・・・・・・・銀座テアトルビル前にある、大正11年(1922)竣工の京橋親柱。アールデコ風のデザインで、交番のデザインのモデルでもある。 隣りには「煉瓦銀座の碑」とガス灯が置かれ、古き佳き時代の銀座を偲ぶことができる。・・・・・・・・・・オヤ! 若いカップルも銀座を偲んでいるのか?

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・・・・・・・・・・・・・明治8年(1875)に架けられた石造りの京橋の親柱。銀座テアトルビルの隣り、警察博物館前に残されている。同じものは交番の隣りにもある。

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③銀座ブラブラ・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・晴れた日曜日は人出も多いね!

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・・・・・・・・・・・・・昔風に言えば街頭録音? 

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・・・・・・・・・・・・・子供も、大人も、みんな好き

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④6月30日閉店・・・・・・・・・・・松坂屋銀座店は、今月で閉店で~~~す。・・・・・・・・・・チョイト、1階を覗いたら、満員状態。

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⑤銀座の敷石・・・・・・・・・・銀座通りの歩道の敷石には、御影石が敷かれている。この石は、かつて銀座通りを走っていた都電の線路敷きの石だ。 昭和42年(1967)に都電が廃止となり、その後、歩道下に共同溝が整備された時、同時に歩道に不用となった線路敷きの御影石が敷かれたのである。・・・・・・・・・・・綺麗な、渋い色を出している御影石が、銀座の洗練された街の美しさを引き立たせている。

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⑥銀座鹿の子・・・・・・・・・・5丁目は「三愛」裏で営業する和菓子の「鹿の子」。ここも、私の生まれた年:昭和21年(1946)に、個人経営で甘味店「鹿乃子」を創業したそうだ。昭和35年(1960)には和菓子の“鹿の子”が発売され、一層大きくなってきた。・・・・・・・・ここの創業者は和紙屋の「鹿島」の四男で、屋号を“鹿島の子の店”から“鹿乃子”としたそうだ。・・・・・・・・・創業時の写真を見ると、銀座とは思えないね!

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・・・・・・・・・・・・“氷”の暖簾に弱い男で、足は店の中へ。 今年初の“氷あずき”。うれしくなるね!

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⑦御存じ、天賞堂のキューピット・・・・・・・・・・・明治12年(1879)創業の宝飾・時計の販売店である。 さらに、戦後、社長の趣味で始めた鉄道模型であるが、今や鉄道模型の老舗としてあまりにも有名だ。・・・・・・・・・店の角にいるキューピットは天賞堂のシンボルとして、多くの人が足を止めている。また、天賞堂のオリジナルウォッチには、裏面にキューピットの陰影がある。

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●・・・・・・・・・・・鉄道模型にも、天賞堂オリジナルの作品があるので、楽しい店だ!

2013年6月 8日 (土)

堀切菖蒲園

夫婦で、昇り竜のお銀が待つ賭場(堀切菖蒲園)に行ってきた。

・・・・・・・・・・・・京成電鉄堀切菖蒲園駅から賭場まで、家々のアジサイは艶を競い、菖蒲会場へ向かう客人を導いている。

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・・・・・・・・・・・・・“菖蒲の匂いに乳房がうずく!  あたしが欲しけりゃ 勝負に勝ちな!”  今日の賭場は、お竜が体も賭けた、命も張った、菖蒲を一目見るため満員だ!

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・・・・・・・・・・・・・“巻いたさらしに乳房がうずく!男を賭けた女の勝負!”  『どちらさんも ヨウござんすね 菖蒲!』

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・・・・・・・・・・・・・・“技か メカか 男の情熱か 殺気みなぎる 菖蒲!”

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・・・・・・・・・・・・・・“女だからと許しはしない! ピンボケなら 小指をつめな! 男もたじろぐ女の菖蒲!”

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・・・・・・・・・・・・・・菖蒲にあきたら。 “どの娘が アヤメか カキツバタ? 園内を キョロキョロ探せど 花見終わった 姥桜ばかりなり!” 失礼!

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●・・・・・・・・・・・・・・・菖蒲園界隈はこちら!

2013年6月 7日 (金)

勝どき~豊洲

雨が降るのか、降らんのか? 午後は晴れに賭け、大江戸線勝どき駅から歩きはじめた。 晴海埠頭では50年前の記憶を頼りに、ウロウロ、キョロキョロしながら豊洲駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①勝どき駅・・・・・・・・・・・・・晴海通りと清澄通りの交差点が、大江戸線の勝どき駅である。昭和43年(1968)までは、都電11系統(新宿~半蔵門~築地~勝鬨橋~月島)が走っており、この交差点が終点の『月島電停』であった。・・・・・・・・・・当時のこの付近は、まだ漁業で生活していた人も多く、電停前では小魚・シジミなどが笊で売られていたように記憶している。50年前の話だ!

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・・・・・・・・・・・・・・平成12年(2000)に開業した大江戸線勝どき駅は、只今工事中。 大規模な高層建築が建ち並び、乗降客が増えたため、ホームの増設が必要となった。 読みが甘かったのか?

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・・・・・・・・・・・・・裏通りには当時の雰囲気が残る店もある。

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・・・・・・・・・・・・・・現在、勝どき駅が在る中央区勝どき1丁目~4丁目は、明治期の埋立地で、護岸は石積みとなっている。 古い土地の上にも、新しいマンションが!

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②晴海客船ターミナル・・・・・・・・・・・・まずは、晴海埠頭の突端に建つ、晴海客船ターミナルに立ち寄ってみた。・・・・・・・・・・国内外の豪華客船が接岸する東京の海の玄関として、東京港開港50周年を迎えた、平成3年(1991)に建てられた。近年のクルーズ人口の増加と客船の大型化に対応した施設で、斬新なデザインの建物である。最高の高さ44mのガラス張りの展望台を拝見!・・・・・・・・・・正直に言うと、“役所仕事”の見本のようだ。今日は、旅客船の泊まっていないせいか、人もいない、ガラガラ状態。施設内は、自販機は営業中だが、売店はなし、レストランは休業中。アクセスの海上バスも昨年から休業中。展望台にいたのは私だけ。 30人ほどの人が一度に使用できる大きなトイレも、施設管理の人が食後の歯磨きに使用する程度。

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・・・・・・・・・・・・・展望台から

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③東京国際見本市会場跡・・・・・・・・・・・・・“晴海”と言えば、昭和34年(1959)から始まった「東京モーターショー」を思い出す人は、中高年だ! 幕張メッセ、東京ビックサイトができるまでは、東京のコンベンションセンターであった。・・・・・・・・・丸いドーム型の建物を中心に7施設で構成され、モーターショウ、ビジネスショウ、データショウ、国際見本市、、、、いろいろ開かれた。・・・・・・・・・・・私が高校生の時、ここ国際見本市会場でアイスクリーム売りのバイトをした。それが、会場との御付き合いの始まりだ。 社会人になると、ビジネスショウ、データショウの見学に!・・・・・・・・・会場の施設は全て取り壊され、現在はオリンピック選手村などが予定され更地だが、一部は近代的な「中央清掃工場」として使用されている。どちらにしても、東京国際見本市会場の面影はない。残念!

・・・・・・・・・・・・・晴海客船ターミナルから見た会場跡地。写真中央の道路奥の更地が会場施設の跡地。道路左の更地はオリンピック選手村予定地。中央の煙突は中央清掃工場。後方の高層建築が在るところは月島。

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・・・・・・・・・・・・・平成13年(2001)に建設費294億円で竣工した中央清掃工場。建物前では、既にオリンピックに向け道路整備中。ちなみに、清掃工場も道路整備も前田建設工業の施工。

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・・・・・・・・・・・・清掃工場前の更地。ここに東京国際見本市会場のドームがあった。

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④東京都港湾局晴海線・・・・・・・・・・・・晴海埠頭には、国鉄越中島貨物駅から単線で敷かれた東京都港湾局の専用貨物線が、平成元年(1989)まであった。・・・・・・・・・終戦後、芝浦側の埠頭は進駐軍に接収され、東京への物資の輸送のため埠頭の確保が必要となった。 晴海・豊洲地区に埠頭を確保し、小名木川駅と埠頭間は専用貨物線を東京都が敷いた。・・・・・・・・・・物資輸送は昭和40年代がピークで、ちょうど私が晴海でバイトしていた頃だ。

・・・・・・・・・・・・・・晴海の倉庫。この建物の裏側に沿って線路は敷かれていた。

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・・・・・・・・・・・・・倉庫と倉庫の間にレールを発見。 アスファルトからチョイト顔をだし、私を待っていたようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・倉庫脇の駐車場に残る風雨にさらされ読みにくくなった晴海埠頭案内図。 ここに、線路がしっかりと表示されている。 感動!感激!感無量!

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・・・・・・・・・・・・晴海から豊洲に向かう春海橋に並行して残る、東京都港湾局晴海線晴海橋梁。 線路・枕木も残り、かつてここに貨物列車が走っていたことを強烈にうったえている橋だ。・・・・・・・・・国鉄東京工事局の設計で、昭和32年(1957)に竣工した。路線は廃線となったが、この橋梁部分だけは撤去されず当時の姿のままの遺構として残されている。 老朽化した姿は痛々しいが、国宝級だ!

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・・・・・・・・・・・・・・豊洲北小学校裏の豊洲運河に残る橋脚跡。 写真中央の歩道部分が線路跡で、右の高層ビルと左の小学校に間に真直ぐ伸びて、運河に突き当る。

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●・・・・・・・・・・・この先は、越中島貨物駅に続く。

2013年6月 6日 (木)

隅田川の橋

買い物ついでに、我が家(浅草橋)から浅草近辺の橋を回ってきた。 1万歩、7kmの散歩です。

①吾妻橋・・・・・・・・・・・浅草からスカイツリー見物に行くとき渡る、スッカリ、おなじみとなった橋が吾妻橋。・・・・・・・・・橋長150m、橋幅22m、橋台・橋脚鉄筋コンクリート造の3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋。・・・・・・・・・吾妻橋は安永3年(1774:江戸時代)に木造で架橋されたのが始まり。 明治20年(1887)には、隅田川最初の鉄橋として架け替えられたが、関東大震災で被災した。現橋は昭和6年(1931)に銭高組の施工により開通した。・・・・・・・・・・・・雷門に近いことから、朱色に塗られ、欄干には雷紋(四角の渦巻き)が飾りつけられている。

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②隅田公園入口の碑・・・・・・・・・・浅草から吾妻橋を渡り、橋の左際に「隅田公園入口」の碑がある。大正12年(1923)の関東大震災は隅田川沿いの人々に壊滅的な打撃を与え、生活を破壊した。そのような中で、人々は帝都の復興に立ち上がり、被災後8年目の昭和6年(1931)には隅田公園が開園した。 碑は、当時の吾妻橋親和会(石柱の裏に大日本麦酒㈱吾妻橋工場を筆頭として、40名程の個人名が記されている)の人々44人が、墨堤の桜を復活させるため、400本の桜を植栽した。その記念に翌昭和7年(1932)に建立した石柱。・・・・・・・・先の東日本大震災の復興と比べると、その速さと意気込み驚かされる!

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③東武伊勢崎線隅田川鉄橋・・・・・・・・・・・・隅田川に架かる鉄道橋で、東武鉄道伊勢崎線(愛称:東武スカイツリーライン)を通している。中路カンチレバーワーレントラス橋で、橋長166m、昭和2年(1927)竣工、設計は永代橋清洲橋総武線隅田川橋梁、新潟の万代橋を手掛けた田中豊(1888~1964)である。・・・・・・・・景観と車窓から見る景色に配慮し、トラス部分を低くしたデザインが特徴的である。浅草を代表する景観の一つでもある。独特の曲線の架線柱もいいね!

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④言問橋・・・・・・・・・・東武線の上流に架かる復興橋。3径間ゲルバー鈑桁橋、橋長238.7m、大正14年(1925)に着工し昭和3年(1928)に竣工した。・・・・・・・・・・すぐに「言問団子」を連想する食いしん坊の橋だ。 “言問”の由来は、在原業平が隅田川で詠んだ、『名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』 歌に因んでいる。 しかし“言問”と称する地名は、その後も実在していない。 明治4年(1971)に創業した団子屋の主人が、団子の販売に際し、隅田川にちなむ在原業平の歌から「言問団子」と命名し、人気の店となった。この近くに架けた橋なので「言問橋」となった。つまり、団子の名から命名した橋である。

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⑤浅草・・・・・・・・・・・・・空は曇り、ひょっとすると雨かも? 早く、買い物を済ませ帰宅しよう!

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・・・・・・・・・・・・・いそいでいても、手を合わせてからだ! 今日は賽銭、小銭がなく、100円にした! 失敗した!

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・・・・・・・・・・・・・前を行くのは割烹着姿の仲居さん。買いもの済んだようだ! 私も買い物が済み、帰るだけ、急げ!

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2013年6月 5日 (水)

築地~勝どき

築地駅から散歩をはじめた、まずは、築地本願寺で手を合わせ、ついでに1階の納骨堂を拝見した。 そこで、初対面だが、大好きな歌舞伎を見るため東京に来られたという、北九州のうどん屋さんの店主とお墓の話を交わして別れた。 その後、しばらく築地界隈をブラブラし、勝鬨橋を渡ったところで、前から来る老体を見て、“アレ! さっき本願寺でお話しした方だ!”。 先方も気付いたようだ。 ホテルに泊まっており、“懐かしい東京を散策しているので、時間があればお話でも” ということで、散歩は大江戸線勝どき駅までとなった。  7000歩、5km。

・・・・・・・・・・・老舗の漬物屋の長男で、商売柄、歌舞伎役者との付き合いもあり、若い時より『田舎芝居を見るな!見るなら本格的に歌舞伎を!』と教えられてきたそうで、旧歌舞伎座の千秋楽の日も、見に来たそうだ。 うどん屋を営んできたが、近々店を閉め歌舞伎三昧の隠居生活に移るそうだ。御苦労様でした。・・・・・・・・・東京に居ても歌舞伎を見ることの少ない私はチョイト恥ずかしいね!

築地本願寺・・・・・・・・・・・関東大震災で焼失した本堂を、昭和9年(1934)、東京帝大教授:伊東忠太の設計で、古代インド様式(天竺様式)で再建した。外観とは別に、内部は日本の寺院建築の造りとなっている。

・・・・・・・・・・・・散歩前に、今日一日の平穏無事を願い、手を合わせて行こうと思い、お立ち寄り!

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・・・・・・・・・・・・・竣工時は、赤銅色に輝いていた屋根も、今は緑青で落ち着いている。

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・・・・・・・・・・・・・窓は大きく、明るい内部。

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・・・・・・・・・・・・・・懐かし開閉ノブ

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・・・・・・・・・・・・・・格天井の本堂は、大きく荘厳な空間。

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・・・・・・・・・・・・・ここ本堂の真下に、ロッカー式の納骨堂がある。・・・・・・・何かの縁か? ここでお会いした方と、後に勝鬨橋でバッタリ再会! 仏の導きか?

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②備前橋・・・・・・・・・・・現在の築地本願寺の裏側(南東側)には、昭和60年(1985)頃までは築地川が流れていた。また、本願寺の右隣り(北東側)は岡山(備前)藩の中屋敷があった。藩邸の前にも築地川は流れ、ここに「備前橋」が架けられていた。・・・・・・・・・川は埋め立てられ公園となり、備前橋は北側の親柱と欄干が、地上に残されている。 水の流れが無い橋は、チョイト、可哀そうだね!

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③築地7丁目の建築・・・・・・・・・・出桁造りの民家、モルタル系の看板建築、手のこんだ銅板建築、、、いろいろ残っている、昭和の町だ!

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勝鬨橋 ・・・・・・・・・・・・昭和15年(1940)竣工の跳開橋。・・・・・・・・昭和45年(1970)以降、一度も開いていない跳開橋だが、私が学生の頃は橋の上を都電が走っていた。橋が開くとき都電は、赤信号の点灯で開閉する部分の直前で止まり、船の通過を見送っていた。 のんびりした時代でもあった。・・・・・・・・・・開かずの跳開橋となり、40年以上経過した、懐かしい頃よもう一度!

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●・・・・・・・・・・・この写真を撮った直後、築地本願寺でお会いした御老体と再会です。・・・・・・・・・何かのご縁かな? (できたら、若い娘とのご縁なら、もっと嬉しいのに!)

2013年6月 4日 (火)

芝浦ふ頭~築地

ゆりかもめ芝浦ふ頭駅から、海岸沿いに歩いて地下鉄築地駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①芝浦ふ頭駅・・・・・・・・・・芝浦埠頭、竹芝埠頭への臨港貨物線として、国鉄時代に、汐留駅から現在のゆりかもめ:芝浦ふ頭駅まで、東海道本線貨物支線として「芝浦埠頭貨物線」が引かれていた。 昭和60年(1985)、芝浦駅も貨物線も全て廃止され、平成7年(1995)には跡地に“ゆりかもめ”が開通した。 駅の存在を示す遺構らしきものは何もなく、寂しいものだ。・・・・・・・・・・・現在は、レインボーブリッジの最寄駅である。

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・・・・・・・・・・・・芝浦埠頭・・・・・・・・・・

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②新日の出橋・・・・・・・・・芝浦埠頭と日の出埠頭を結ぶ道路橋。 アーチ部が橋の中央に一か所あるのみの単弦ローゼ橋で、橋長は85mだ。・・・・・・・・橋の西側は水門、東側は東京湾で、全景写真を撮るのが、チョイト難しい橋だ。

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③貨物線橋台跡・・・・・・・・・・・・・新日の出橋の東京湾側の脇に、かつて竹芝・日の出・芝浦の3埠頭を貫いていた、貨物線の鉄道橋跡が残っている。・・・・・・・・ここに貨物線があった証拠だ! 案内板でも作り鉄道史跡として残さないかな?

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④日の出駅・・・・・・・・・・・・こちらも“ゆりかもめ”の駅。大正14年(1926)に完成した日の出埠頭の最寄駅。

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・・・・・・・・・・・・・日の出埠頭・・・・・・・・・・現在は、臨海副都心や浅草へ向かう水上バスの発着場と、船上結婚式のできるレストラン船の発着場がある。

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⑤竹芝駅・・・・・・・・・・・・こちらも“ゆりかもめ”の駅。駅前の「ニューピア竹芝」は、東海汽船伊豆七島航路の発着場と、ホテル・結婚式場などがある複合施設だ。・・・・・・・・・・・今日は、まだ船が入港していないので、切符売り場はガラ~~ン、埠頭はシ~~ン。

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⑥浜離宮大手門橋・・・・・・・・・・・築地川に架かる「大手門橋」を渡って、庭園内に向かう。浜離宮のアプローチを演出する橋だ。この橋は関東大震災後に復興の一つとして、大正15年(1926)に架け直された。・・・・・・・・・・・重厚な橋だが、橋下の流れが淀み、ゴミは浮き、色は濁り、何とかしてほしいね!

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⑦築地市場・・・・・・・・・・・・市場の中の店は外人も並ぶ行列状態! 今や東京の観光地だから、しようがないかも!

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2013年6月 3日 (月)

新馬場~芝浦ふ頭

京浜急行線新馬場駅から海岸通り付近を歩き、ゆりかもめ芝浦ふ頭駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①北品川の町・・・・・・・・・・・新馬場駅から裏道を通り、旧東海道の商店街を横切り、天王洲方向に向かう。 何の変哲もない、何処にでもある裏通りだが、説明しにくい“漁村の匂い”、“昭和の匂い”、が漂っている。・・・・・・・・・ぜひ、自分で歩いて匂いを感じて欲しい。

・・・・・・・・・・・・・・以前は店を出していたような構えの建物

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・・・・・・・・・・・・・・ブロック+煉瓦+大谷石+コンクリートのミックスサンドのような塀

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・・・・・・・・・・・・・・神社の境内を囲う塀には寄附金と芳名が刻まれている。“金参円也”、“金二円五拾銭也”・・・・・・・懐かしい金額だ!

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・・・・・・・・・・・・・・玄関前は道路にはみ出す植木もチラホラ。 アジサイも!

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②天王洲運河・・・・・・・・・・・・天王洲運河(てんのうずうんが)は、北品川の北品川橋付近から始まり、東京海洋大学品川キャンパスの南西で高浜運河と交差し、東京モノレール天王洲アイル駅の東側で京浜運河に合流する。

・・・・・・・・・・・・天王洲橋・・・・・・・・天王洲運河と高浜運河が交差する、十字路の西側に架かる橋。橋上の道路は「旧海岸通り」。

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・・・・・・・・・・・新東海橋・・・・・・・十字路の南側は高浜運河に架かる橋

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・・・・・・・・・・・・・楽水橋・・・・・・・・・・・・十字路の北側には、品川駅から東京海洋大学品川キャンパスの裏門に向かう、鶯色の楽水橋(らくすいばし)が架かる。昭和44年(1969)に「東京水産大学」が建造した橋。

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・・・・・・・・・・・・・・楽水橋から運河の十字路を眺める。正面が新東海橋。右側が北品川橋の方向。左側が天王洲ふれあい橋の方向。

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・・・・・・・・・・・・・天王洲ふれあい橋・・・・・・・・・・・・天王洲地区の再開発に合わせ、平成8年(1996)人道橋として竣工した。運河沿いの天王洲アイルにふさわしいデザインとして、大正時代の橋梁技術を再現した、ピン結合のプラットトラス橋である。・・・・・・・・運河に大正レトロの橋梁だが、ここに煉瓦倉庫を加えたら、さらにイメージアップするかも。

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・・・・・・・・・・・・・・・中央に東京海洋大学品川キャンパスを挟み、右側に天王洲ふれあい橋、左側に楽水橋が架かる。

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・・・・・・・・・・・・・・天王洲のビルと水門

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③海岸べりの高層マンション・・・・・・・・・・・・開通した昭和39年(1964)頃は海上を走っていたが、いつのまにか陸上を走るモノレール。

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④第一芝浦丸・・・・・・・・『この船は、東京港の埋め立てが盛んに行われていた大正15年(1926)に建造された蒸気船です。この船の目的は埋め立てに使う土砂を運ぶ船(土運船・パージ)を引くための船(引き船・タグボート)です。』と案内に書かれていた。昭和49年(1974)まで、現役で活躍したそうだ。港区港南4の東京港建設事務所前に保存されている。・・・・・・・・・小さい頃縁日で買ってもらった、ローソクで走るブリキのポンポン船を思い出したね!

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⑤ヨコソーレインボータワー・・・・・・・・・・港区海岸3の、地上23階建て、直角三角形の高層ビル。現在は「ヨコソーレインボータワー」と呼ばれているが、竣工した平成7年(1995)は、旧カネボウの本社ビルであった。・・・・・・・・私の頭の中では、カネボウ化粧品の日本人離れした美人ポスターと、このビルの鋭い三角形が一体となり、湾岸のイメージを変えるカッコいいビルだった。・・・・・・・・現在は横浜倉庫の所有となっている。

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⑥レインボーブリッジ・・・・・・・・・・レインボーブリッジ(Rainbow Bridge)は、芝浦とお台場を結ぶ、全長798mの吊り橋。昭和62年(1987)に着工し、6年後の平成5年(1993)に竣工した。・・・・・・・・・・・・今日は、薄く靄がかかり、チョイト視界不良かな!

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2013年6月 1日 (土)

チョイト、寂しいお祭り

今日と明日は、わが町“浅草橋・柳橋・蔵前”のお祭り。 我が家では、子供は嫁ぎ、夫婦二人と90歳の婆さんの3人暮らし。 妻は町会の婦人部として御神酒所で大忙し、私は婆さんと留守番。 散歩はお休みだ!

でも、チョイト、神社巡りに行ってきた・・・・・・・・メジャーな神田明神、下谷神社、三社様(浅草寺)のように、広い範囲に氏子がいる神社ではなく。 浅草橋駅周辺の浅草橋・柳橋・蔵前地区では、氏子の範囲が狭い小さな神社が複数あり、お祭りは同日に実施している。・・・・・・・・・・少子化の影響? 都市化の影響? 高齢化の影響? 理由はともあれ、なんだか子供も少なく、商店は“祭り”より“商売”にはげみ、祭り提灯も無く、チョイト寂しいね!

まずは、我が家の氏神様、浅草橋駅裏の「銀杏岡八幡神社」・・・・・・・・・・康平5年(1062)の創建で古い神社だ。江戸時代には、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となった。・・・・・・・・・・浅草橋1丁目と2丁目の一部

・・・・・・・・・・・・・半纏を着た子供も少なく、チョイト寂しいね!

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・・・・・・・・・・・屋台は10店程、もうチョイト賑わいが欲しいね!

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・・・・・・・・・・・・本社神輿もチョイト小ぶりだ!

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・・・・・・・・・・・・お神酒所前でひと休み。

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・・・・・・・・・・・・“顔がいのち”の前でも、ひと休み。

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おとなり柳橋1丁目の「篠塚稲荷神社」・・・・・・・・・花柳界が無くなり、祭りの雰囲気も無くなった。

・・・・・・・・・・・・・神社に誰もいないぞ! 屋台も無いぞ! 旗だけがユラユラと!

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・・・・・・・・・・・・・柳橋町会の建物前に置かれた山車、子供がいない!

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蔵前1丁目の「第六天榊神社」・・・・・・・・・・もともとは柳橋に鎮座していたが、関東大震災後、現在の蔵前に移った。 震災前はここには東京高等工業学校(現:東京工業大学)が在ったが、震災で壊滅し大岡山に移転した。神社はその跡地に越してきたのだ。

・・・・・・・・・・・・・ここには屋台が10店程、祭りの賑わいが欲しいね!

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・・・・・・・・・・・・・子供が引く山車が町内を回って帰ってきた。オー、山車の後ろに子供神輿が! 子供がいたぞ。安心した。

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浅草橋2丁目の「須賀神社」・・・・・・・・・・推古天皇の頃(600)に創建されたらしい。超、古い神社だ。・・・・・・・・江戸通りに面した浅草橋の中心に鎮座する神社だが、お祭りは隔年に行い、今年はパスした。

・・・・・・・・・・・・祭りのない神社は、チョイト寂しいね!

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・・・・・・・・・・・・境内のアジサイも寂しそうな色だ。 来年は盛り上げよう!

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