浅草橋~鶯谷
夕飯前の散歩で、我が家(浅草橋)から東上野を抜け鶯谷まで歩いた。 万歩計がダウンし、歩数計測不可。
①I邸・・・・・・・・・・・・台東区鳥越の出桁造りの建物。昭和3年(1928)の建築。・・・・・・・・浅草橋、鳥越、台東地区には、類似の建物が多く残っているが、築年代がはっきりしている建物は少なくなった。
②水戸屋紙工・・・・・・・・・・・こちらも鳥越にある、モルタル塗りの建物。おそらく昭和初期と思われる。2階の窓、屋根の四隅の飾りなどに時代を感じる。
③木村豆腐店・・・・・・・・東上野の豆腐の老舗(?)。どうやら、知る人ぞ知るお店らしい。主人が造る豆腐を求め、近所からお客が来ていた!・・・・・・・・・豆腐店の右隣りには、タカクボストアー(現:閉店)があり、棟続きの長屋であった。・・・・・・・・大きな看板、玄関前の桶とまな板が、“昭和”を演じているね!
④川井純治商店・・・・・・・・・・・・東上野の貴金属商。 明治・大正期に創業した組合員で構成する業界組合に加入しており、歴史ある店のようだ。・・・・・・・・建物は、昭和初期に建てられたものと推測した。 建物は、戦禍をくぐり、鉄製の窓も朽ち、老いてきたようだ。
⑤源空寺墓地・・・・・・・・源空寺は浄土宗増上寺の末寺。寺は天正18年(1590)に現在の文京区湯島で創建され、明暦3年(1657)の大火で焼失し、現在地(台東区東上野)に移転した。・・・・・・・・・道路を挟んだ源空寺の向かいに墓地はある。 墓地には、伊能忠敬、幡随院長兵衛、谷文晁、高橋至時の墓が並んでいる。
・・・・・・・・・・・・・伊能忠敬の墓・・・・・・・・・・・・「東河伊能先生之墓」と隷書で刻まれている。忠敬は延享2年(1745)に上総国で生まれ、50歳を過ぎ、御存じの日本地図を作る。74歳で没する。・・・・・・・・なぜ、ここに墓があるのか? 源空寺には、忠敬の師:高橋至時の墓と、高橋至時の子で忠敬と一緒に地図を作った高橋景保の墓ある。 きっと三人の墓を並べたかったのかな!
・・・・・・・・・・・・高橋至時の墓・・・・・・・・・・・・こちらは、「東岡高橋君之墓」と隷書で刻まれている。至時は江戸時代中期の暦学者で、明和元年(1764)に大阪で生まれた。幕府御用達の学者で、「寛政暦」などを作成した。伊能忠敬が幕命により、地図を作製する際には、測量を指導し、完成させた。
・・・・・・・・・・・・・谷文晁の墓・・・・・・・・・・・・・・・TV「なんでも鑑定団」で鑑定対象として、度々登場する江戸後期文人画家。78歳で亡くなった、当時としては長生きだった。
・・・・・・・・・・・・幡随院長兵衛の墓・・・・・・・・・・・・・江戸時代初期の町奴で、浅草花川戸に住み、奉公人の斡旋業に従事していた。歌舞伎の演目「極付幡隋院長兵衛」では、『怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代』の啖呵を切って、旗本奴:水野十郎左衛門に殺されに行く任侠の世界を描いている。36歳で没した。・・・・・・・・墓は、妻の「きん」とペアで並んでいる。
⑥根岸のサボテン・・・・・・・・・・30年程の歳月で立派に成長し、今は家を支えている、トゲのある息子だ!・・・・・・・・・・TV「ナニコレ珍百景」にも出演した。
⑦根岸の建物・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・手児奈せんべい・・・・・・・・・手児奈(てこな)というのは一般には伝説の美少女の名前で、山部赤人が手児奈の伝承を聞いて歌った和歌が万葉集にある。手児奈の墓の跡が市川市真間の手児奈霊堂だ。・・・・・・・・手児奈霊堂の近くで創業し、根岸は3代目の店。 商売も、建物も、100年は経過したそうだ。
・・・・・・・・・・・・くまがや不動産、高見峰秀鑑定所・・・・・・・・・震災前から建っていたらしいモルタル塗り看板建築の4軒長屋
⑧鶯谷駅北口・・・・・・・・・・・駅正面にラブホテルがズラリ並び、私のような、気の弱い、恥ずかしがりやの人は、駅に行くには勇気がいるね! 駅前には怖そうなお兄さんはいないが、チョイトはずれると、その手のお姉さんと思われる人がアチラにも、コチラにも。・・・・・・・・・・明治45年(1912)、東北本線の駅として開業した。北口は地上駅舎のようになっている。駅舎からホームまでは、常磐線・東北線の線路下を地下道で抜け、ホーム北側の階段を上って出る。駅舎と地下道のつなぎ部分は木造で、古さを感じる。ホームの架線柱も古レールの造りだ。