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2013年9月

2013年9月30日 (月)

西浅草

散歩を兼ねて、浅草まで買物に行くことにした。店が開くのは10時半すぎなので、今日は、我が家(浅草橋)から国際通りの西側(西浅草)をブラブラしながら、観音様に手を合わせ、新仲見世で買い物をしてきた。1万2千歩、9km。

①タイガービル・・・・・・・・・・・都道462号に面し台東区蔵前4丁目にたつ、昭和9年(1934)に竣工した集合住宅。 東京大空襲をくぐりぬけ、昭和30年(1955)には改修されたが、その後は現在まで手を加えられず残っている。 スクラッチタイル貼りの丈夫そうな外観が、安心感を誘うビル。両サイドの丸窓も、いいね!・・・・・・・・現在は、1階に家具屋さん、2階以上にアート/写真/デザインなどのアトリエが入居している。・・・・・・・・・1階には、階段室脇に「電話交換室」と表示された部屋がある。現在は清掃の方が使用している部屋だ。

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②眞福寺納骨堂・・・・・・・・・東本願寺参道沿いにある小さなお寺。昭和初期に造られた、鉄筋コンクリート造の納骨堂(霊園)が木造の本堂の脇にある。・・・・・・・・・・・現代はロッカー式の墓苑も多いが、昭和初期に墓石をこのように建物の中に収めた狙いは謎だ?

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・・・・・・・・・・・・本日はまだ開店前か(?) 施錠されていたので、一昨年、内部を拝見した時の写真を参考に!

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③東本願寺・・・・・・・・・・・慶安4年(1651)に神田の地において、京都東本願寺の別院として開創した。明暦の大火により焼失し、現在の浅草に移転し、浅草本願寺となる。昭和56年(1981)真宗大谷派から独立し、「浄土真宗東本願寺派 本山東本願寺」となる。(お東さん騒動)・・・・・・・・木造の旧本堂は関東大震災で焼失し、昭和14年(1939)鉄筋コンクリート造で現本堂を再建した。 その後空襲で被災し内部を焼失したが、再建され、現在の荘厳な趣となっている。

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・・・・・・・・・・・・・東本願寺の後ろ側。女性でいえば、襟足から肩にかけて、バックシャンに見える部分だ。残念だが、汚れが目立つね! 

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④京成菊屋橋ビル・・・・・・・・・・・京成電鉄が事業拡大の一貫として、昭和34年(1959)に合羽橋通りに建てた1LDKのマンション。鉄筋コンクリート造4階建て、1階は店舗、2階以上が住居。・・・・・・・・・昭和34年は、水原弘の「黒い花びら」、スリーキャッツの「黄色いさくらんぼ」が流行し、天皇陛下の御成婚があった年。

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⑤台東旅館・・・・・・・・・東本願寺の裏側にある、主に外人が泊まる純和風旅館。・・・・・・・・昭和25年(1950)建築の旅館は、戦後の高度成長期に、地方からの出稼ぎ労働者の常宿として繁盛したいわいる簡易旅館である。 平成に入り、外国人の旅行者向けの旅館として再スタートした。 昭和レトロの日本らしさが人気で欧米系の外人に人気があるようだ!

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⑥どぜう飯田屋・・・・・・・・・西浅草の老舗「どぜう飯田屋」。創業は明治36年(1903)頃で、藤敷きの上に座り、口に運ぶ「どぜう鍋」は今も変わらぬ味らしい。(私は明治の鍋を食べていないので?)・・・・・・・・・そろそろ、鍋の季節が近づいて来たね!

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・・・・・・・・・・・・・チョイト、寄り道、“どじょう”の横を曲り、路地を行くと“タヌキ”がお出迎え!

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⑦浅草ビューホテル・・・・・・・・・・・あのラインダンスのSKDの本拠地「国際劇場」の跡地に、昭和60年(1985)竣工した高層ホテル。高さ108m、地上28階建て。

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⑧国際劇場・・・・・・・・・・昭和12年(1937)に開場し、昭和57年(1982)に松竹歌劇団(SKD)公演・第51回「東京踊り」をもって閉鎖された、有楽町の日劇と並ぶ、懐かしのレビュー劇場だった。・・・・・・・・・・私は、幼き頃、ラインダンスを見た記憶が残っている。当時はまだ興奮する歳ではなかったね!

・・・・・・・・・・・・・昭和30年(1955)頃の国際劇場・・・・・・・・昭和12年(1937)竣工、鉄骨鉄筋コンクリート造、4階建て、座席:3,860席・・・・・・・劇場前の通りが“国際通り”

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・・・・・・・・・・・・・国際劇場の裏に今も残る喫茶店「シルクロード」。屋根にはラインダンスの大きな看板が出ている。店内にはSKD(松竹歌劇団)の色紙・写真など、思い出の品がビッシリ飾られている。 たまには、お立ち寄りもいいかも?

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・・・・・・・・・・・・・近くのお店のシャッターに国際劇場があった。

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・・・・・・・・・・・・・・国際劇場の近くに鎮座する感應稲荷神社・・・・・・・・玉垣には、松竹(株)、国際劇場、松竹歌劇団、日本浪曲協会、キリンビヤホール、新門兼次(的屋の本家)、、、、と浅草に縁のある名が!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・この後、浅草寺で手を合わせ、外人さんをパチリ、そして、お買いもの。

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2013年9月29日 (日)

信濃町~麻布十番

信濃町駅から、都営地下鉄大江戸線麻布十番駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

①信濃町駅・・・・・・・・・・・・明治27年(1894)、甲武鉄道が新宿~牛込開通時に同時開業した。 明治39年(1906)、甲武鉄道の国有化により国鉄の駅となる。・・・・・・・・・・・現在は島式ホーム1面2線であるが、平成4年(1992)までは南側(下り線側)に神宮球場などが賑あう日の為の臨時ホームがあった。・・・・・・・・平成5年(1993)、岡田新一の設計により駅ビルが完成した。 駅ビルの工事は、私が在職していたゼネコンが施工し、中央線線路上の工事であるため、事故が起きないことを念じ、気にしていた。 これも、思い出の一つだ!

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・・・・・・・・・・・・・・駅ビル側から見る下を走る中央線

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②聖徳記念絵画館・・・・・・・・・幕末の明治天皇誕生から崩御まで、明治天皇の遺徳を80点の絵画により描き、展示している、専用美術館である。 天皇崩御後、旧青山練兵場の跡地に建設が計画され、大正15年(1926)に竣工した。・・・・・・・・・・・鉄筋コンクリート2階建て、高さ:約32m、幅:約112m、奥行き:約34mの大きな建物で、国の重要文化財に指定されている。 建物は2階建てで、1階は維持に必要な諸施設、2階は中央に巨大な広間があり、左右の展示室には40点ずつ絵画だけが展示されている。内部は国産の大理石を多用した壁と床、柱の無い大空間は荘厳な雰囲気を創出している。 建設当時の国力の反映か? 

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・・・・・・・・・・・・・・参考に、一昨年に撮影したドーム下の大理石の中央ホールの写真

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③御観兵榎・・・・・・・・・・神宮外苑は戦前、青山練兵場だった。明治天皇は、明治22年(1889)の憲法発布観兵式、明治39年(1906)の日露戦役凱旋観兵式などを、この地で観兵した。その際、明治天皇の御座所がこの榎の西側に設けられていたので、この木を“御観兵榎”と名づけた。現在は二代目の榎である。・・・・・・・・・・100年以上前のこと、当時を懐かしむ人は生存していないだろう!

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④外苑のイチョウ並木・・・・・・・・・・青山通りと絵画館を結ぶ、御存じ、4並列146本のイチョウ並木。植栽されたのは大正12年(1923)である。・・・・・・・・・・まだ、黄葉には早いが、銀杏拾いは始まっていた!

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⑤青山霊園・・・・・・・・・・・青山・赤坂・六本木・麻布の地に囲まれた、墓地の一等地である。 私も、死したらここに眠りたいが、周囲の喧騒に、夜な夜な興奮して熟睡できないかも?

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・・・・・・・・・・・・・・乃木将軍の墓所・・・・・・・・・・霊園の一角に、死後は神格化され、軍神として神社に祀られた将軍:乃木希典の墓所があった。 日露戦争では、第三軍司令官として出征したが苦戦し、友人の児玉源太郎の力でかろうじて勝利したが、6万人に近い死者を出した。 “英雄か、愚将か?”  日露戦の後は、学習院院長に就任し、皇族の子弟の教育にあたっていた。 明治天皇の葬儀の日に夫人と共に自決した。・・・・・・・・自然石で作られた夫人と一対の墓石は、将軍の生き方を象徴しているようだ。

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⑥Hardy Barracks・・・・・・・・・・・・・青山霊園の向かい六本木7丁目にある、フェンスで囲われた、米国陸軍の施設で、星条旗新聞社、ヘリポート、 Hardy Barracks(ホテル)がある。 “星条旗新聞社”の名前は知っているが実態は(?)、情報収集機関と言う人もいる。  “Hardy Barracks”は陸軍のホテルで、格安で宿泊できるそうだ。 家族連れもOKらしい。・・・・・・・・戦前、この地は隣接する新国立美術館の敷地を含め、日本軍歩兵第三連隊の敷地であった。戦後、接収され、返還されたが、一部は現在のように米軍が使用中。

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⑦カトリック麻布教会・・・・・・・・・明治22年(1889)に現在地にてカトリック麻布教会が創立した。 当初の聖堂は木造平屋建てであった、明治44年(1911)には新聖堂も建てられたが、戦災で焼失した。 昭和27年(1952)、鉄筋コンクリート造平屋建ての、現在の教会が再建された。 再建では、早大演劇博物館、桃華楽堂など手がけた、今井兼次が設計したとも言われている。

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⑧阿部美樹志邸・・・・・・・・・・・・・“阿部美樹志”とは? 大正から昭和にかけ活躍した、日本の鉄筋コンクリート工学の大御所。日比谷の有楽座、梅田の阪急百貨店、東京~万世橋間の高架橋、阪急三宮駅などを設計した。竹中土木の初代社長。・・・・・・・・・その阿部美樹志が、大正13年(1924)に自ら設計した元麻布の自邸です。 玄関脇の窓には綺麗なステンドグラスが残っている。 建物は、全体的にかなり劣化しているようだ。 

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⑨ハウスオブロータス・・・・・・・・・・・・女優・モデルの桐島かれんが手がける手工芸品・雑貨を展示していた「ハウス・オブ・ロータス」。 スパニッシュ風の建物は戦前に建てられ、桐島かれん自身が、以前住んでいたという。・・・・・・・・・・店は近々広尾にオープンするらしく、この元麻布の建物は空き家状態だ。・・・・・・・・・・味のある建物が、徐々に消えていくのはさびしい限り!

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⑩元麻布ヒルズ・・・・・・・・・森ビルが開発した高級レジデンス。中心のフォレストタワーは地上29階/地下3階の“つくしん棒”の建物。最上階は住民専用のルーフガーデン、その下の階にはスカイラウンジがあるそうだ。・・・・・・・・平成14年(2002)に竣工。総住戸数222戸。 元麻布の近く、アッチャ・コッチャから目に入る。 神社の境内からも!

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⑪日本基督教団安藤記念教会・・・・・・・・・・関東大震災前の姿をとどめる、大正6年(1917)竣工の教会です。  教会は大谷石による石積みの平屋建てですが、外壁全体にツタが絡まり落ち着いた景観を演出している。・・・・・・・・安藤記念教会の創立者:安藤太郎は、明治19年(1886)に初代ハワイ総領事に就任し、キリスト教と出会い、夫人とともに洗礼を受けた。帰国後、自宅を日本メソジスト銀座教会安藤記念講義所とし、大正7年(1918)に設立した。・・・・・・・・・今日は、ちょうど日曜礼拝で、内部も見せていただいた。 小さな聖堂だが、簡素で、明るく、落ち着いた雰囲気の教会であった。

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2013年9月27日 (金)

新大久保~信濃町

昨日、中断した新大久保駅から、歌舞伎町を抜け信濃町駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①第四大久保架道橋・・・・・・・・・・・新大久保駅の北側、百人町2丁目の北端に山手線のガード「第四大久保架道橋」がある。 明治18年(1885)の山手線開通時は踏切であったが、大正時代に複々線化に合わせガードとなったようだ。・・・・・・・・100年近く山手線を支えてきた桁

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②GUNKAN東新宿ビル・・・・・・・・・・・・・最上階を見上げていると、まるでSF映画に登場する軍艦の艦橋のようなビルが「GUNKAN東新宿ビル」(旧第3スカイビル)だ。 現在、ビルはオフィス、シェアハウスとして利用されている。・・・・・・・・・大久保2丁目に昭和45年(1970)に竣工した地上14階建てのビルは、建築家:渡邊洋治の代表作である。 渡邊洋治(わたなべようじ、1923~1983)は新潟県の出身で、陸軍船舶兵を経験し、作品にはその影響がうかがえる特徴的なデザインとなっている。・・・・・・・・・・正面玄関前の道路から眺めると“軍艦”は見えないが、チョイト遠く離れると、ナント“軍艦”だ!

・・・・・・・・・・・・・・正面道路の真下から眺めると

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・・・・・・・・・・・・離れて見上げると

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③稲荷鬼王神社・・・・・・・・・承応2年(1653)、大久保村の現在地に、福を招く稲荷神社が建てられた。その後、天保2年(1831)に紀州熊野より、日本で唯一の「鬼の王さま」という意味を持つ鬼王神社が合祀され、「稲荷鬼王神社」と呼ばれるようなった。・・・・・・・・神社はラブホテル街を中心とする歌舞伎町2丁目に鎮座し、2丁目は当神社の氏子である。 ちなみに、飲み屋街の歌舞伎町1丁目の大半は十二社熊野神社の氏子である。 ついでに、歌舞伎町の花園ゴールデン街の方は花園神社の氏子である。

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・・・・・・・・・・・・・・・神社のあるラブホテル街。 商売繁盛を願い、この店も氏子かな? 

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④新宿区立四谷第五小学校・・・・・・・・・・花園神社裏に残る旧四谷第五小学校は、現在、吉本興業のオフィスとして使われている。・・・・・・・・・この校舎は昭和9年(1934)に竣工した、昭和初期のモダニズム建築の傑作と評価されている建物だ。新宿区も文化財と評価されている建物を壊すこともできず、現在の利用状況となっているようだが、いずれ恒久的な保存方法を考えてもらえるであろう。

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⑤新宿御苑旧大木戸門・・・・・・・・・・・・門と門に付属する守衛所で、チョイト、山小屋風の建物。 昭和2年(1927)に宮内省の設計で建設された。・・・・・・・・今は門としては機能しておらず、現在の門は奥に移動している。 守衛所の中は空で、保存の手が入るのを待っているようだ!

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⑥多武峰神社・・・・・・・・・・・・新宿御苑の外周に沿って信濃町方向に歩いて行くと、内藤町に「多武峰神社」がある。多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市にある峰で、中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターの相談をしたという場所! さらに、峰には、私が大学生の頃何度か訪れた神社で、談山神社という有名な神社もある。 “多武峰”の名が目に入り、“なぜ、ここに?”と思い境内に上がった。・・・・・・・・・・・新宿御苑は内藤家の屋敷跡に造られた。その内藤家は、先祖が藤原鎌足であることから、江戸時代に屋敷内神社として創建したそうだ。 明治5年(1872)、屋敷は大蔵省に買収されたため、神社を現在の地に遷座した。

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2013年9月26日 (木)

大久保~新大久保

中央線大久保駅から、百人町付近をブラブラ歩き回り、直線距離で400m程の山手線新大久保駅まで、5000歩、4kmの散歩です。 

大久保駅・・・・・・・・・・明治28年(1895)に開業。 高架下の北口を出ると、駅前の大久保通りは韓国系の店が並び、歩いてる人も韓国人が多いように思われる。

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②矯風会館・・・・・・・・・・・・・・・百人町にある、日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)の本部ビル。矯風会は、明治19年(1886)に設立された日本最古の婦人団体で、現在は、禁煙運動、禁酒運動、貧困母子家庭への支援活動、売春問題、従軍慰安婦問題、反戦活動などに取り組んでいる。・・・・・・・・会館の建物は、昭和34年(1959)にオープンした、特徴の無い普通のビルだ。・・・・・・・・・・はずかしながら、【矯風】の意味を調べてみた。“悪い風習・風俗を改め正す”こと。・・・・・・・・・・矯風会の設立者:矢島楫子(やじまかじこ)は明治・大正期の女子教育者で、キリスト教系の中・高一貫校「女子学院」の初代院長となった。 徳富蘇峰と蘆花は甥にあたる。

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③百人町・・・・・・・・地名は、江戸時代、内藤清成が率いた伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことに由来する。・・・・・・・・・現在は、南側(大久保駅、新大久保駅の周辺)はコリア・タウンとなり、観光地化している。 北側は国の研究機関、百人町アパートなど公営住宅が建ち並んでいる。・・・・・・私は、ゴチャゴチャした町の中に、小さな怪しげな店が点在する、南側が好きだ。

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④皆中稲荷神社・・・・・・・・・大久保駅と新大久保駅の中間に鎮座するギャンブルの神様。百人町の皆中稲荷(かいちゅういなり)神社だ!・・・・・・・・天文2年(1533)に稲荷大明神が鉄砲組与力に立ち射撃を伝授したことから、「当たる」ものに御利益があると人気をあつめている。“皆中”とは、「みなあたる」の意味。・・・・・・・・・・社務所では、ギャンブル用のお守りも売っている。 さらに、「百発百中」から、恋愛・良縁成就のお守りもある。・・・・・・・・・・ここで、賽銭をはずみ、手を合わせて帰らないと、“食あたり”の罰あたりにあたるね!

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⑤新大久保駅・・・・・・・・・・大正3年(1914)、山手線の駅として開業。 韓流ブームの効果で、駅も乗降客が増え、儲かっていると思いきや、山手線内の駅ではワースト3に入る、乗降客の少ない駅だそうだ。・・・・・・・・・・KARA、少女時代のグッズでも買おうと思っても、まだ開店前だ!

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・・・・・・・・・・・・・・“これから、どっち方向に歩こうか?”と思っていたら、台風の影響による雨が降りだし散歩を中止した。 散歩を始めて、まだ1時間、無情の雨だ!

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2013年9月24日 (火)

京成稲毛~京成千葉

京成電鉄千葉線沿いに、稲毛でのパソコン同好会終了後、京成稲毛から京成千葉まで、1万歩、7kmの散歩です。

①京成稲毛駅・・・・・・・・・京成千葉線の津田沼~千葉間が開通したのは大正10年(1921)である。京成稲毛駅(当時は、稲毛駅)は、その時、同時開業した駅である。 開業時は、海に近く、神谷伝兵衛の別荘や愛新覚羅溥傑の邸宅、稲毛浅間神社と稲毛公園の松林が昔の面影を残している。・・・・・・・・・・・かっては、駅に近い国道14号(千葉街道)が海岸線であった。駅から徒歩5分で海に出られたとは、現状からは信じられないね!

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・・・・・・・・・・・・・・京成稲毛駅を出た電車は、隣りのみどり台に向け、切通しを抜ける。

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②黒砂浅間神社・・・・・・・・・・京成稲毛駅近くの「稲毛浅間神社」は神主・巫女さんが常駐する、立派な神社だが、こちらの「黒砂浅間神社」は無人のようだ。 千葉市黒砂の小高い森の中にある小さな神社。・・・・・・・・・・・文化12年(1815=江戸時代)に浅間大菩薩を遷座した。歴史ある社だ! 境内には馬頭観音・道祖神・石碑など多く残され、黒砂村の鎮守さまのようだ。・・・・・・・・現社殿は昭和49年(1974)に再建した。

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③菅沼医院・・・・・・・・・・・・終戦後の医院建築の面影残し、何となく気になる建物。 白いボードに大きな字で書かれた、医院名、診療科、診療時間、まさに医院の必要アクセサリーだ。 玄関前の大谷石で組まれた背の低い門柱。 出の深い玄関の庇。 “町のお医者さん”だね。

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④みどり台駅・・・・・・・・・千葉線の開業2年後の、大正12年(1923)にみどり台駅は開業した。 この駅は駅名が5回も変更された、当初の開業時は“浜海岸”、昭和17年には“帝大工学部前”、昭和23年からは“工学部前”、昭和27年からは“黒砂”、昭和46年からは“みどり台”。・・・・・・・・よく変わるね!・・・・・・・・開業時の“浜海岸”、戦後の“黒砂”、どちらも海を連想させるが、その頃は、京成は確かに海岸べりを走っていた。沖合いが埋め立てられて、今は静かな住宅街を走っている。

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⑤西登戸駅・・・・・・・・・・・・大正11年(1922)開業の西登戸駅。 “登戸”は“のぶと”と読み、小田急線の“登戸”は“のぼりと”と読む。 西登戸駅は、開業から昭和42年(1967)まで駅名を“千葉海岸”と称していた。・・・・・・・・・今は海岸まで駅から2km程ある。海岸線が遠退けば、その分千葉県の面積が広がり、人口も増えているのか? でも、蛤は減っているようだ、最近、千葉街道沿いに焼き蛤を売る店が見えないね。 残念、寂しい!

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・・・・・・・・・・・・・・・線路際には曼珠沙華が見える季節となった

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⑥登渡神社・・・・・・・・・・・千葉市登戸の登渡神社は、千葉氏の末裔が祖先を供養するため、今は住宅地となっているこの地区の最高点である遠望台(標高約15m)に千葉神社の末寺を正保元年(1644)に勧請したことに始まる。・・・・・・・・・平成2年(1990)に平成の大造営により、本殿を境内の奥へ移築し、その前に拝殿と幣殿を設けた。

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・・・・・・・・・・・・・・神社の隣りの柿は、そろそろ柿ドロボウが狙いそうな色となってきた。

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⑦新千葉駅・・・・・・・・・・大正12年(1923)に開業した古い駅だが、駅名は“新千葉駅”?

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⑧千葉機関区の碑・・・・・・・・・・・・千葉駅横のJR千葉支社の構内に、昭和36年(1961)に廃止された、蒸気機関車の基地として千葉機関区跡に動輪の碑がある。・・・・・・・・・・・私が子供の頃(昭和28年頃)、外房方面へ行く時は、両国から汽車で行きました。その頃の千葉駅は今の東千葉駅の所にあり、スイッチバックするため機関車の付け替えが行われたのだ。思い出すな~~、蒸気機関車全盛の時代だ!

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⑨京成千葉駅・・・・・・・・・・JR千葉駅前の千葉そごうの建物と一体となった京成千葉駅。昭和42年(1967)の開業である。

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2013年9月20日 (金)

六郷土手~大森

秋晴れの下、多摩川を見たくなり、京急線六郷土手駅で下車し、JR大森駅までの散歩です。(歩数は万歩計の動作不良で計測できず)

①六郷土手駅・・・・・・・・・・・・明治39年(1906)、京浜電気鉄道の六郷堤駅として開業。 多摩川が蛇行し、乳首のように川崎側に出っ張った先端に位置する駅。ホームの端は多摩川に架かる橋梁の際で、駅が集客するエリアは狭いにもかかわらず、乗降客は思った以上にいるようだ!

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②六郷川橋梁・・・・・・・・・・多摩川に架かる橋梁だが、名称は“六郷川”橋梁。

・・・・・・・・・・・・・六郷川橋梁はJR、京急にそれぞれある。写真、右はJRの六郷川橋梁、左のトラス橋が京急の六郷川橋梁。対岸は川崎市。

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・・・・・・・・・・・・・京急六郷川橋梁・・・・・・・・・・明治38年(1905)に、最初に多摩川に架橋したのは木造の仮橋であった、6年後の明治44年(1911)に本格的なトラス橋が架橋された。 昭和47年(1972)、現在のトラス橋に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・・JR六郷川橋梁・・・・・・・・JRの六郷川橋梁は2本ある。上流側に京浜東北線六郷川橋梁があり、下流側に東海道線六郷川橋梁がある。  初代は明治4年(1871)に架けられた木造橋である。 二代目は鉄製のトラス橋に変わり、明治45年(1912)に三代目が架けられた。 現在は四代目で、昭和42年(1967)に京浜東北線六郷川橋梁が、昭和46年(1971)に東海道線六郷川橋梁が架けられた。 二橋とも、流水部のみ3連連続トラスとし、河川敷を渡る部分はコンクリート製連続桁である。

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③多摩川土手・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・旧多摩川河川敷ゴルフ場・・・・・・・・・・・現在は「多摩川緑地野球場/サッカー場」となっている河川敷に、昭和45年(1970)頃は9ホールの河川敷ゴルフ場が在った。・・・・・・・・・・・・ここは、私が最初にゴルフクラブを振り、ゴルフを止めたゴルフ場だ! 当時、近くで寝起きしていた私は、早朝ゴルフに挑戦した。 下請けの鉄骨会社から貰った、一斗缶イッパイのロストボールを持って、毎朝河川敷に出勤した、、、、、二週間後には空き缶となった。多摩川に、ポチャ!ポチャ!、、、、、、才能が無いことに目覚め、以後ゴルフクラブは廃棄し、ボーリングに転向した!・・・・・・・・・・今日は、河川敷ゴルフ場があったあたりを歩き、40年前を思い出して歩いた。

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・・・・・・・・・・・・・旧昭和電工中央研究所跡地・・・・・・・・・・・昭和45年(1970)頃の私は、ゼネコンに勤務し、化学品製造会社の研究所構内に寝泊まりして常駐していた。・・・・・・・・今は無き研究所の跡地には、大きなマンションが建っている。(写真中央) 

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④安養寺・・・・・・・・・・・真言宗の医王山安養寺(別名:古川薬師)は、永禄11年(1568)の創建である。 現在の本堂は、正徳5年(1715)に建てられたもので、昭和44年(1969)に改修された。・・・・・・・・・・寺の入り口には、延宝2年(1674)に雑色に建てられた古河薬師道の道標が残されている。 

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⑤カトリック蒲田教会・・・・・・・・・・・・昭和36年(1961)に建てられた、三角屋根の教会。白い外壁と柱のコントラストが映える、美しい教会である。

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⑥東急多摩川線踏切・・・・・・・・・・・60過ぎた親爺は踏切に要注意! 「転ぶと、骨折・脱臼するよ」と自分に言い聞かせて、渡りましょう!

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⑦木造の商家・・・・・・・・・・大田区中央の商店街にある、木造平屋の商家風建物。 懐かしいい構えの建物だ。 今では珍しい木造の出窓と、玄関の木製建具、いいね!

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⑧大森駅・・・・・・・・・・大森駅は、鉄道開業4年後の明治9年(1876)にできた古い駅。島式ホーム1面2線だが、ホームの上屋は完全に木造で、いい味を出している。

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2013年9月19日 (木)

市川真間

8月末から開かれている「京成電鉄展」を見るため、江戸川を挟み東京の隣り京成国府台駅から総武線市川駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

①国府台駅・・・・・・・・・・・・・江戸川の橋梁を渡ると、スグにホームに続く国府台(こうのだい)駅。 大正3年(1914)、市川鴻の台駅として開業し、その後、駅名を市川駅、市川国府台駅と変え、昭和23年(1948)に現在の国府台駅に改称した。

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②日本福音ルーテル市川教会・・・・・・・・・・・・・・国府台の台地下を流れる真間川に面して建つ小さな教会は、昭和29年(1954)に建てられた、日本福音ルーテル教会市川教会。 設計は、早稲田教会旧主婦の友社ビルなどを手掛けたウィリアム・メレル・ヴォーリズである。 市川教会は5年前に国の登録有形文化財に指定された。・・・・・・・・・・・東日本大震災で教会も破損し、最近まで修理が行われていた。

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・・・・・・・・・・・・・教会の前を流れる真間川

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・・・・・・・・・・・・・・教会の北側、国府台の台地に上る階段にはオシロイバナが咲いていた。

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③台地の上は・・・・・・・・・・木内ギャラリー、日蓮宗の求法寺、県営住宅千葉葉商科大学などがあり、静かな散歩道となっている。

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④芳澤ガーデンギャラリー・・・・・・・・・市川市真間の高台には、芳澤月恵(よしざわつきえ)氏から寄贈を受けた約1,000坪の敷地とその庭園を活かし、木立に囲まれた鉄筋コンクリート平屋建てのギャラリーがある。・・・・・・・・・・今日は企画展の「京成電鉄展」を見に来たのだ。 京成電鉄の歴史を紹介するパネル・写真・資料が展示され、興味は尽きない。・・・・・・・・・・・帰りに、上質紙200頁の京成電鉄の社史を購入してきた、まだ脱臼が完治していない私にはチョイト重たいお土産となったね。

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⑤郭沫若記念館・・・・・・・・・・芳澤ガーデンギャラリーの北に郭沫若(かくまつじゃく)(1892~1978)の記念館がある。中国の文人・政治家で、市川で10年程亡命生活を送り、その時の木造の旧家が記念館として移築・保存されている。・・・・・・・・私は、郭沫若については名を知る程度であったが、九州帝大医学部を卒業し、日本人妻をめとり、毛沢東・周恩来らと新しい中国建設に挺身したことを知り、親しみが出てきた。 いずれ、チョイト歴史を調べてみたくなってきた。

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市川真間駅・・・・・・・・・・・大正3年(1914)開業の駅。 普通列車しか停車しない、ゴク普通の駅だが、京成電鉄にとっては、歴史を語るうえで重要な駅だ。 かつての京成電気軌道の時代、駅の北側には京成直営の遊園地「東華園」、「京成電燈部事務所」、初代社長本多貞次郎邸などがあった。 京成電鉄診療所、本多貞次郎頌徳碑は現在も残っている。

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・・・・・・・・・・・・・・・市川真間駅前の旧京成電鉄社員倶楽部。昭和4年(1929)の建築。現在は個人住宅。

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⑦柿も色づきはじめた・・・・・・・・・・・・・

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2013年9月17日 (火)

中野坂上~大久保

台風一過の秋晴れ、丸ノ内線中野坂上駅から新宿副都心をまわり中央線大久保駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①丸ノ内線中野坂上駅・・・・・・・・・・昭和36年(1961)、帝都高速度交通営団の荻窪線中野坂上駅として開業。 荻窪線は昭和47年(1972)に丸ノ内線と改称した。 丸ノ内線は、当駅で本線と方南町支線が分岐している。・・・・・・・・・中野坂上の交差点に出ると、三方の超高層ビルが目に入ってくる。すべて、再開発ビルだ!

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・・・・・・・・・・・・アクロスシティ中野坂上ハイツ・・・・・・・・交差点の北東の角に建つ、平成11年(1999)竣工の24階建て(103m)のビル。1階~20階はオフィス・店舗が入り、21階~24階は都心型賃貸マンションとなっている。

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・・・・・・・・・・・・中野坂上サンブライトツインビル・・・・・・・・交差点の南西の角に建つ、平成8年(1996)竣工の30階建て(134m)のオフィスビル。 富士ゼロックス、整理回収機構本社などが入居している。

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・・・・・・・・・・・・ハーモニータワー・・・・・・・・交差点の南東の角に建つ、平成9年(1997)竣工の28階建て(125m)のオフィスビル。 敷地内にはハーモニーハイツと称する住居棟も建てられている。

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②西新宿5丁目・・・・・・・・・中野坂上から西新宿へ下ってくると、神田川にぶつかる。 この神田川が中野区本町と新宿区西新宿の区界である。

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・・・・・・・・・・・・・・神田川を越え、西新宿5丁目に入ると、西新宿再開発の最後に残された地帯と思われる光景となる。 乱立する超高層の下に、白い仮囲いで囲われた工事現場、空き家を取り壊す現場、無人の木造住宅が目に入る。 いよいよ、西新宿らしい西新宿はなくなり、新しい西新宿だけが残るようだ。

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③十二社熊野神社・・・・・・・・・・新宿中央公園の一角にある十二社熊野神社は、応永年間(1394~1428=室町時代)に、商人:鈴木九郎が故郷紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祀ったものと伝えられている。・・・・・・・・・江戸時代頃から神社の付近には茶屋や料亭などが立ち並び花街となっていった。最盛期には茶屋や料亭が約100軒も並んでいたらしい。 花街は戦前まで続いたが、戦後は淀橋浄水場の造成、新宿の再生などで、その面影は残っていない。 戦後生まれの私は淀橋浄水場を知っている程度で、花街は知ることができなかった。 残念!

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・・・・・・・・・・・・・・氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっている。 今週末の21日・22日に祭礼で、神輿の準備はOKだ!

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東京都庁舎 ・・・・・・・・・・・・・世界の建築家:丹下健三の設計により、地上48階建て(高さ243m)の第一本庁舎と、地上34階(高さ163m)の第二本庁舎、そして議会議事堂によって構成される都庁。 総工費1569億円を投じ昭和65年(1990)に完成。・・・・・・・・・・玄関ロビーには“お高そうな”大きな熊手も飾られている。

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・・・・・・・・・・・・・・・都庁45階(202m)に在る展望室。 高所恐怖所の私は、いずれ我が地元のスカイツリーに上らされる運命にあり、今日は怖さを鍛える練習で展望室まで上ってきた。 上がってしまえば怖さを忘れ、景色に夢中となる、単純な人間かも?・・・・・・・・・・次の3枚の写真の中に富士山とスカイツリーが写っています。さて、どれでしょうか?

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⑤超高層ビル群・・・・・・・・・・・

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⑥小学校の再利用・・・・・・・・・・・超高層ビルの足下に、旧淀橋第三小学校がある。 大正4年(1915)に開校した小学校だが、平成9年(1997)に御多分に漏れず少子化により閉校した。・・・・・・・・その小学校跡を、「芸能花伝舎」という団体が借用し、芸能文化の担い手の育成の場として再利用している。同じ敷地内の、旧幼稚園の建物に新国立劇場演劇研修所もあった。

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⑦大久保駅南口・・・・・・・・・・・・・・・明治28年(1895)に甲武鉄道の駅として開業。昭和6年(1931)に高架となる。・・・・・・・・・・・私にとっては、謎の駅である。 その謎とは、南口の高架下に古レールによって組まれた構造物だ、何のために在るのか?

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・・・・・・・・・・・・・・南口に入ると改札手前に無骨な古レールの組み立てが見られる。

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・・・・・・・・・・・・・・骨組みに沿い目を上に追ってみると、天井に入り込んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・と云うことは、天井の上のホームを見ると。 階段下の骨組みがホームの上に出ているようには見えない。

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・・・・・・・・・・・・・・と云うことは、ホームの下でホームを支えているのか? でも、ホームは奥行きが長いのに、骨組みの方は奥行きも短く、理解できない、判らん!

・・・・・・・・・・・・・・新宿寄りのホーム上屋は木造の小屋組みで造られている。これまた、田舎の駅並みの古さだ。 

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・・・・・・・・・・・・・・・ホーム八王子寄りに行くと、上屋は古レールの小屋組みに変わる。・・・・・・・・・いろいろ、興味の尽きない駅だ。

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2013年9月16日 (月)

浜町

台風18号は午後に埼玉を通過し東北へ向かった。 私ども夫婦と90歳の祖母の3人暮らしの我が家では、どら焼きをパクつき、京都桂川の氾濫をテレビニュースで見て、台風一過の話題にとなった。 ・・・・・・・ チョイト、ご近所・神田川・隅田川の被害状況を視察に外に出てみたら、普段の日となんら変わるところなし。 ブラブラ、近所廻りしているうちに、日本橋浜町まで足を踏み入れたが、どこもかしこも被害なし。 ・・・・・・・・ 若い娘が助けを求めていたら、即救助し、これが縁でロマンスが、、、、、期待外れでガッカリ! 

・・・・・・・・・・・・・・・被害状況の視察がミニ散歩になってしまった。

①台風一過の隅田川・・・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・ついでに、柳橋から神田川も・・・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・柳橋から両国橋を見る

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②両国広小路・・・・・・・・・・・両国橋西詰(中央区東日本橋2)に両国広小路の碑がある。・・・・・・・・明暦3年(1657)の大火(別名:振袖火事)は、江戸市中の大半を焼失し10万人以上の死者を出した。 大火後、対岸(現:墨田区)への避難路として両国橋が架けられ、橋の両詰に“広小路”として、火除け地が整備された。 特に西詰の広小路一帯は、見世物小屋、茶店などが並び、江戸一番の盛り場となった。 さらに、両国橋、柳橋、蔵前橋あたりまでは、隅田川沿いの料亭が競って桟敷を設け、夏の夕涼み、花火大会と客を呼び込んだ。 昭和初期には、現:中央区東日本橋2あたりを「日本橋両国」と地名変更している。 現在、中央区で“両国”の名が残るのは、両国広小路の碑と浅草橋際の両国郵便局ぐらいだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・京葉道路がはしる両国橋西詰のこのあたりが両国広小路。

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③薬研堀不動院・・・・・・・・・・・・・・両国橋際のお不動さん。 正式には、真言宗智山派薬研堀不動院(現在は川崎大師東京別院)。現在地に堂宇が建立されたのは天正13年(1585)である。

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・・・・・・・・・・・・・今日は、なにを血迷ったか、内心大吉で、“待ち人来る”、“恋愛成就”、“賭け事良し”などの文句を期待して、100円払って“おみくじ”を引いてみた。  ギャー、ウソ―、何だコリャ、ナ・ナント、第54番“凶”である。 「物事阻互錯交して纏らず家門の不和なる魚の水なきが如し一心に不動尊を念じ静かに加護をまつべし」 だって!・・・・・・・・100円返して!  

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・・・・・・・・・・・・・・不用なおみくじは、境内のフヨウの木に結んできた!

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・・・・・・・・・・・・・薬研堀不動院の境内に建つ二つの碑・・・・・・・・一つは、順天堂発祥之碑。順天堂の始祖・佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭医学塾を開講した場所である。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう一つは、講談発祥記念之碑である。・・・・・・・・・・・発祥地であることから、寺では“講談の会”が毎月開催されている。・・・・・・・・・昭和40年頃までは、NHKラヂオでよく講談を放送しており、近所では、ラヂオを聴きながら仕事をしている職人も多く、床屋に行っても流れていた。 一龍齋貞丈、宝井馬琴、小金井芦州などが、ラヂオから聞こえ、私も好きだった! 最近は講談もすたれ、聴く機会が少なくなった、時代だね!

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④日本橋浜町の建築・・・・・・・・・・・・

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2013年9月14日 (土)

東京タワー

今宵は、東京タワーの周辺を、大門から新橋まで、1万歩、7kmの散歩です。 昨年の東京タワーはこちら。

①芝大神宮例大祭・・・・・・・・・・・・・・寛弘2年(1005)10月21日に創建された、天照皇大御神と豊受大御神を祭神とする神社。 さらに、この神社は私と誕生日が一緒だ、私は昭和21年(1946)10月21日で、正味941歳違い。・・・・・・・・神社の氏子はあの「め組の喧嘩」で有名な町火消し「め組」である。 威勢はいいが人口減少のせいか、祭りの活気は、いまひとつだ。  提灯には「昭和電工」、「東京タワー」、「プリンスホテル」など大企業名が読み取れるが、料亭・待合・芸子組合の名がなく、昭和30年代の賑わいはなくなった。

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②大門・・・・・・・・・・・・・増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来となった門。 現在の門は、国道の通行整備のため、昭和12年(1937)に旧門より大きく、コンクリート製に作り直された。 ・・・・・・・・・・・大門をくぐると東京タワーも見えてくる。

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③東京タワー・・・・・・・・・・・・・・オリンピックバージョンでライトアップ。

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・・・・・・・・・・・・・展望台行きエレベーターは、相変わらずの行列待ち。

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・・・・・・・・・・・・・“TOKYO”みやげは何を買うのかな? 東京タワーはもちろんだが、大仏、五重塔、どこかのお城、変な竜、、、、いろいろあります。

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・・・・・・・・・・・・・タブレット端末で写真を撮るのは、中・韓・台の観光客?

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④日比谷通りから新橋へ・・・・・・・・・・・・

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2013年9月13日 (金)

高円寺~中野坂上

中央線高円寺駅から、青梅街道の南側の裏道を歩き、地下鉄丸ノ内線中野坂上駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

①高円寺駅・・・・・・・・・・・・大正11年(1922)の開業。昭和39年(1964)から高架線となる。 御存じ、阿波踊りの駅だ。・・・・・・・・「高円寺阿波おどり」は昭和32年(1957)から始まり、毎年8月の最終土曜・日曜に実施しているそうだ。 8月最終の土曜は「浅草のサンバカーニバル」とバッティングしてしまう。 私の足は、個人的趣味と地元のよしみでサンバを見に浅草に向かい、阿波おどりを見に高円寺に向かう機械は少ないだろう! 

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②オー、可愛いね!・・・・・・・・・駅前の通りの向かいからチョイト見上げると、ビルの玄関上に3匹の犬が! よく見ると、某動物専門学校の“客寄せドッグ”。 可愛いくできており、テーマパークの恐竜みたいに頭が動くと、もっと面白いのだが!

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③長仙寺・・・・・・・・・・・・高円寺駅南側の、真言宗豊山派長仙寺は、宝永元年(1704)に現在地に創建された。 戦災で堂宇を全焼し、昭和44年(1969)に鉄筋コンクリート造の現本堂庫裡を再建した。 昭和56年(1981)には八脚門が建てられた。・・・・・・・・・本尊不動明王像は高さ35cmほどの立像で室町時代の作らしい。・・・・・・・・・・・緑の多い静かな広い境内が、高円寺駅に近いことを忘れさせる。

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④フヂヤ薬局・・・・・・・・・・・高円寺商店街の中ほどにある薬局。 大正時代の建物だそうで、関東大震災にも耐えた蔵のような造りで、後ろ側には木造の住居部分もある。・・・・・・・・・老朽化が目立つので、ぜひお手入れを!

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⑤K邸・・・・・・・・・・・高円寺南に建つ、大正12年(1923)頃の木造住宅。サッシなどはアルミに交換され、外壁は塗られ、古さを感じない。

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⑥I邸・・・・・・・・・・・・梅里2丁目の住宅。玄関右の洋風の部分は応接室か?

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⑦華徳院・・・・・・・・・・・・・天台宗寺院の華徳院(けとくいん)は、貞観の頃(860頃)、下野国佐野にて創建された。天正年間には武蔵国霞ヶ関(現:千代田区)に移転し、慶長年間には我が家と同じ町(浅草橋2丁目)に再転した。 浅草橋の頃は、運慶の作といわれた丈六仏の閻魔王像を本尊として、「蔵前の閻魔堂」と呼ばれていた。 (寺があったとされる地には、現在「閻魔堂跡」の碑がある。) 関東大震災により、昭和4年(1929)現在の杉並区松ノ木へ移転した。・・・・・・・・・・“浅草橋”と聞き、親しみが湧いた寺だ。

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高円寺アパート・・・・・・・・・・昭和36年(1961)に建てられた、総戸数173戸(4棟)からなる都営住宅だが、2階以上の住人は立ち退いたみたいで、階段、入り口はベニヤで塞がれていた。 1階の店舗部分は営業中の店もあったが、遅かれ早かれ立ち退きかな?

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⑨新渡戸文化学園:新渡戸記念館・・・・・・・・・・・5000円札の新渡戸稲造が、晩年、校長を務めた学校。・・・・・・・・・新渡戸稲造は岩手県出身の農学者、教育者、論理哲学者で文久2年(1862)に生まれ、昭和8年(1933)に没した。この間、京都帝大・東京帝大の教授、第一高等学校校長、東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学長、津田塾顧問、東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長などを歴任した。 チョイト、やりすぎだね!・・・・・・・・・その新渡戸文化短期大学が中野に在る。 ここの「新渡戸記念館」と称する校舎を見てきた。 鉄筋コンクリート3階建の校舎は昭和12年(1937)の建築で、設計は東洋英和女学院早稲田スコットホールなどを手掛けたウィリアム・メレル・ヴォーリズである。 建物は記念館と称しているが、記念品を展示しているわけではなく、短大生活学科の教室である。

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⑩五柱五成神社・・・・・・・・・・・・・鍋屋横丁交差点の裏で、色とりどりの旗に囲まれた小さな社と赤い鳥居、そして大イチョウがゴチャゴチャと目に入ってくる、カラフルな神社。 文政6年(1923)に伏見稲荷大社より勧請し、オールマイティーの稲荷の大祖神として「天圀蔵五柱五成大神(あめこくぞうごしゃいなりおおかみ)」を祀っている。・・・・・・・・願い事が叶うと、五色の旗をあげるらしい。 旗の数を見ると、結構、御利益あるかもね!

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2013年9月12日 (木)

東大工学部

昨日に続き今日も医者通い、ピロリ菌壊滅作戦の権威、東大赤門前の医院に行ってきた。  

ちなみに、ピロリ菌壊滅作戦とは、成人の7割以上の人の胃の中に生息している細菌(ヘリコバクター・ピロリ菌)が、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胃ガン発症の主要因となるので、その細菌を除菌する治療のこと。 健康なうちに胃の中に“ピロリ”が生息しているか内視鏡検査し、1週間の投薬で壊滅させる。 投薬後1カ月以上経過した後に、“ピロリ”の除菌に成功したか判定の検査を受け終了となる。 除菌に成功すると、潰瘍になることはほとんどなくなるそうだ。 さらに、胃の調子は良くなり、食事は美味しくなり、食べ過ぎて太る心配がチョイト出てくるらしい。

私は、7月に内視鏡検査し投薬も終了したので、今日は壊滅したことを調べるため息の採取を行った。 結果は数日後に判るそうだ。 

・・・・・・・・・ということで、我が家(浅草橋)から本郷の東大へ行って、我が家まで戻る、1万5千歩、10Kmの散歩兼通院。 

①燕湯・・・・・・・・・上野松坂屋の南側(秋葉原寄り)にある、昭和25年(1950)に建てられた、国の登録有形文化財の銭湯。 朝湯と薬湯で有名で、営業時間は6:00~20:00。 今日も、サラリーマンは徹夜明けのひとっ風呂。 若い夫婦も徹夜明け(?)、朝風呂の暖簾をくぐり右、左。・・・・・・・・・・私の幼少期には、祖父母が秋葉原の青果市場(現:UDX)際に住んでおり、夜になると祖父母に連れられ利用した銭湯だ。 当時は“おでき”が発症すると、“白湯(薬湯)に入りな”、と言われたことも覚えてる。

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②日本最初の喫茶店・・・・・・・・・上野の中央通りに面して建つ、チョイト、落ち着いたデザインの14階建てのビルは、昭和55年(1980)竣工の三洋電機東京ビル

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・・・・・・・・・・・・この敷地に、日本最初の喫茶店があった。・・・・・・・・・・ビルの隅に「日本最初の喫茶店発祥の地」という碑が建っている。 碑文によると、、、、明治21年(1888)、日本人による初めての喫茶店が、200坪の敷地に2階建て木造洋館により営業された。 1階には『トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、2階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。 コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、 一品料理、パン、カステラなども出していた。・・・・・・・・現在の喫茶店より、サービスがいいかも!

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③W邸・・・・・・・・・・湯島天神下の木造2階建ての邸宅。昭和初期の建物のようだ。 現在は住居となっているが、元は医院かも?

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④湯島天神・・・・・・・・・・・・・昨日に続き、今日は湯島の「男坂」、「女坂」を歩いてきた。

・・・・・・・・・・・・・・まずは拝殿で手を合わせ健康祈願。 さらに、厄除祈願。 もひとつ、家内安全。 おまけで、開運祈願。 ついでに、ボケ防止。

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・・・・・・・・・・・・・男坂・・・・・・・・・御徒町方面から湯島天神に向かい一気に真直ぐ上る階段。 38段ほどで、そんなにキツイとは感じられないが、階段の最上部で転倒したら“湯島の白梅”が“のし梅”になってしまう!

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・・・・・・・・・・・・・女坂・・・・・・・・・こちらは、5ケ所の踊り場があり男坂の倍ほどの長さで上る階段だ。最上部で男坂に出会う配置となっている。

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東大・・・・・・・・・・・今日は正門から構内に入り、工学部の建物をキョロキョロ覗いて、弥生門から出てきた。

・・・・・・・・・・・・・正門・・・・・・・・明治45年(1912)に完成した東京帝国大学正門。 設計は震災記念堂築地本願寺などの作品を残す、文化勲章受章・東京帝国大学名誉教授であった伊東忠太(1867~1954)。 両横にある門衛所も含め国の登録有形文化財。

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・・・・・・・・・・・・・・工学部1号館・・・・・・・・・・・・・東京帝国大学総長も務めた内田祥三(1885~1972)の設計で、昭和10年(1935)に完成。 スクラッチタイル貼り、6角形の一部を切り出した窓周りの外部意匠、柱型の飾りなど内田祥三の特徴的なデザイン、“いい仕事、してるね~”・・・・・・・・・・現在は主に社会基盤学科、建築学科が利用している。

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・・・・・・・・・・・・工学部6号館・・・・・・・・・・・・昭和15年(1940)に完成。設計は内田祥三。・・・・・・・・現在は物理工学科、計数工学科が利用している。

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・・・・・・・・・・・・・工学部船舶試験水槽室・・・・・・・・・・・・昭和12年(1937)竣工。旧日本海軍の外郭団体の寄付で建設された。1階には長さ85m、幅3.5m、水深2.5mの細長い水槽がある。2階はシステム創成学専攻(旧 環境海洋工学専攻)の研究室となっている。

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・・・・・・・・・・・・・・工学部2号館・・・・・・・・この建物は、説明がチョイト難しく、ややっこしいものだ。 大正13年(1924)に完成した工学部2号館の南側半分を残し、北側半分は解体された。 その解体した、北側部分に高層の新2号館が最近建設され、新2号館は2号館の残された南側の一部をスッポリ跨ぐような構造となっている。 旧2号館は内田祥三が東大構内で初めて設計した建物である。・・・・・・・現在は主に機械系、電子・情報系の各学科・専攻が利用している。

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・・・・・・・・・・・・・3階建ての旧2号館を、跨ぐ新2号館

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・・・・・・・・・・・・・旧2号館の内部も拝見!

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・・・・・・・・・・・・法文1号館から法文2号館を眺める

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・・・・・・・・・・・・・東大のオフィシャル・グッズ・・・・・・・・・・チョイト、借用したトイレに大学公認のトイレットペーパが並んでいた。 キット、拭き具合が素晴らしいのか? 流れ具合がいいのか? 香を放ち癒し効果があるのか? 他メーカの紙は破れやすいのか? 大学入試の解答用紙で製造したリサイクルペーパーか?、、、、、、、どうでもいいけど、考えすぎて拭き忘れのないように!

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・・・・・・・・・・・・・工学部3号館・・・・・・・・・・昭和14年(1939)に、内田祥三の設計で完成したが、老朽のため外壁を残し全面改装。 工事の最終段階らしく、物品の運び込みが始まっていた。

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・・・・・・・・・・・・・・お帰りは、工学部3号館前の弥生門から、ど~ぞ、またのおこしを!

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2013年9月11日 (水)

浅草橋~市ヶ谷

今朝、浅草橋の我が家の頭上には薄い雨雲が漂い、ポツリポツリと落ちてきた。 普段なら散歩はせずに、自宅待機の空模様だが、今日は水道橋の循環器クリニックで、定期検診の日だ。 小雨の中、我が家から水道橋に立ち寄り、市ヶ谷まで歩いてきた。

①都心の駅?・・・・・・・・・・・・・・我が家の最寄駅:浅草橋の西口は、乗降客が少なく、都心の駅とは思えない。 若者で賑わう秋葉原の隣り駅、隣接する千代田区・中央区まで150m程、町は商業地区で明らかに昼間人口の多いのだが、、、、、東京駅のようにワクワクするスタイルのスッキリしたOLが、ゾロゾロかっこよく駅から出てこないね! 西口から出てくるのは、頭の薄い、腹の出た、中・高年のサラリーマンだ! ヤッパリ、山手線の円の中に入らないと、総武線では勝ち目がないか!

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②美倉橋・・・・・・・・・・・・神田川に架かり、最下流の柳橋から、浅草橋、左衛門橋に続く、4番目の橋。 橋上には清洲橋通りが走る。・・・・・・・・・昭和4年(1929)に架けられた震災復興橋の一つ、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋。 工事費は当時の金額で、78万8千円也。“醤油1升63銭の時代だ”こう書いても、読む人はピントこないね! もちろん書いている私も実感なし!

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文唱堂倉庫 ・・・・・・・・浅草橋駅と秋葉原駅の中程に、昭和2年(1927)創業の「文唱堂印刷」の煉瓦造り倉庫がある。 おそらく創業時前後に建てられたのであろう、煉瓦を積んだ土が滲みだし、赤い煉瓦が黄色く化粧したようだ。・・・・・・・・・そろそろ、洗顔して化粧を落とし、綺麗な素顔を見せて欲しいね!

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④昭和橋架道橋・・・・・・・・・昭和7年(1932)の総武線両国~お茶の水間開業に合わせ開通した、昭和通り上に架かる総武線の鉄道橋。 昭和35年(1960)頃までは、日本最大のスパン長のプレートガーダー橋であった。橋脚の下は秋葉原駅昭和通り口。・・・・・・・・・昭和通り上の首都高が邪魔をして、昭和橋架道橋の全容が撮れない、コンチクショウ首都高め!

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⑤昭和の並び・・・・・・・・・左端の海老原商店は昭和3年(1928)の建築、その右隣りT邸は大正12年(1923)の建築。 須田町の看板建築、4軒並んで撮影できるチャンスは少ないので、今日はついてるね!

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⑥万世橋・・・・・・・・・・・昭和5年(1930)に竣工した、石とコンクリートで造られたアーチ橋。関東大震災の復興橋の一つ。・・・・・・・・・下流側の左右の親柱横の階段を下りると、現在はどちらも入れないように閉鎖されている地下式の怪しい部屋がある。 私は、万世橋完成の頃は、帝都のシンボル的な橋なので、近代化の一つとして公衆便所を併設したものと考えていた。 どうやら私の間違いのようで、何やら機械室のようだ。 さて、真実は?

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神田須田町の老舗 ・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・いせ源・・・・・・・・・天保元年(1830)創業、都内で唯一のあんこう料理専門店。昭和7年(1932)建築。

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・・・・・・・・・・・・・・竹邑・・・・・・・・・・・・竹邑(たけむら)は昭和5年(1930)創業の甘味処。

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・・・・・・・・・・・・・・ぼたん・・・・・・・・・・明治30年頃に創業した鳥すきやきの老舗。昭和4年(1929)建築。

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・・・・・・・・・・・・・神田まつや・・・・・・・・・・明治17年(1884)に創業した蕎麦屋さん。大正14年(1925)建築。

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・・・・・・・・・・・・この他に、明治13年(1880)創業の神田藪そばは再建計画中。 昭和8年(1933)創業の喫茶店ショパンは、私の撮り忘れ。 明治40年(1907)創業、夏目漱石も通った洋食の松榮亭も、撮り忘れた! ゴメン、いずれまたね!

⑧山本歯科医院・・・・・・・・・・・・・明治30年頃、神田須田町付近で創業し、関東大震災後の、昭和3年(1928)に現在の診療所兼住宅が建てられた。 木造3階建ての看板建築で、外観の装飾が特徴的だ。 国の登録有形文化財。

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⑨男坂・女坂・・・・・・・・・・・駿河台2丁目の台地から猿楽町へ下る石段の坂に、「男坂」と「女坂」と対にして名づけられた二つの坂がある。どちらも、大正13年(1924)に復興計画の一環で造られた。

・・・・・・・・・・・・男坂・・・・・・・・・・明治大学猿楽町校舎の脇を降りる真直ぐな階段道。 勾配30度、段数73段の階段は、こけたら一大事、いっきに猿楽町に落ち込む。・・・・・・・・・6月に踏切で転倒した私は、いまだリハビリ中である。さらに骨折したら、完全な笑い者になりそうだ。今日は女坂を下ることとした。

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・・・・・・・・・・・・女坂・・・・・・・・・・男坂から100mほど東に行くと、2折れ、総段数82段の女坂がある。 2か所の踊り場は広く、こけても頭を打つ程度で骨折はしないだろう。

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⑩トヨタ自動車東京本社ビル・・・・・・・・・・・昭和57年(1982)に竣工した、地上19階建ての東京本社ビル。 このビルの脇に、小石川後楽園に向う、散歩道がある。 緑豊かで、昼休みは、近くのOLが弁当片手に集まり昼食会場と化す。・・・・・・・・・このビルの隣り(写真奥のビル)に、私の通うクリニックがあるのだ。

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⑪外濠・・・・・・・・・・・・・・・・定期検診では、もちろん『異状なし』。 その一言で、気分はハッピー。 気持ちも軽く、市ヶ谷まで外堀通りを歩いてきた。

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・・・・・・・・・・・・・・東京日仏学院 ・・・・・・・・・・・・フランス政府の公式機関で、フランス文化発信拠点。 建物は昭和26年(1951)に坂倉準三の設計で建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・市ヶ谷見附跨線水道橋 ・・・・・・・・・・・昭和4年(1929年)に完成した水道橋。 釣り堀の脇にある、ホームからまる見えの有名な水道橋だ!

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2013年9月 9日 (月)

浅草橋~飯田橋

2020年東京五輪の決定で、国民に新たな目標ができた。 おめでとう! 今後の7年間、東京の変化が楽しみだ。散歩の楽しみも増えるね!

前回1964年のときは、私は18歳の受験生であった。 “オリンピックより受験が大切だ”と言われ、会場に出向いての観戦はダメ、テレビ観戦で我慢した。東洋の魔女、ウエイトリフティングの三宅、体操の遠藤、マラソンの円谷、最後の閉会式など、興奮したものだ。 もう、受験勉強どころではなかった。 そして、その感動を映画にした市川昆監督の記録映画「東京オリンピック」により再度興奮した、思い出多き時代だった。 2020年の五輪には、より大きな感動を期待しよう。

今日の散歩は五輪とは関係なしに、浅草橋の我が家から、本郷1丁目・2丁目を抜けて飯田橋駅まで、1万3千歩、10kmです。

①櫻稲荷神社・・・・・・・・・台東区台東の蔵前橋通りから入る細い路地に朱の鳥居がある。これぞ、地元の人も知らないような「櫻稲荷神社」だ。 私は数年前まで、この前を歩いて通勤しており知っていたので、今日は久しぶりに参拝してみた。 参拝後は人一人がヤット通れる路が社殿の横にあり、知る人ぞ知る通勤の近道か?・・・・・・・・ちなみに、神社は大名藤堂家邸内に鎮座していた稲荷神社を関東大震災後、現在地に遷座して櫻稲荷神社とした。

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②三組坂・・・・・・・・・・湯島天神の近く、本郷台地に上る坂で、坂の両脇にはラブホテルが目立たずに数件並んでいる。・・・・・・・・・徳川幕府は、家康が駿府で亡くなり、お附きの中間、小人、駕籠方の“三組”の者に、この地一帯を与え江戸に帰した。その後、元禄9年(1696)に三組の御家人拝領の地である由来を大切にして町名を三組(みくみ)町と改めた。この町内の坂として“三組坂”と呼ぶ。 三組町は昭和40年4月以降、今の湯島三丁目となった。・・・・・・・・・この坂もかつては私の通勤経路の一部であった。

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③霊雲寺・・・・・・・・・・・・・・湯島の町中に、広い境内の霊雲寺(れいうんじ)がある。 霊雲寺は関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、現在の堂宇は昭和51年(1976)に鉄筋コンクリート造で再建したものである。・・・・・・・・・・江戸時代、浄厳律師覚彦は柳沢吉保の帰依を受け、時の将軍綱吉から現寺地を得て、元禄4年(1691)に霊雲寺を開創した。 昭和22年(1947)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。

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④本郷3丁目の国登録有形文化財・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・さかえビル・・・・・・・・もとは近藤薬局、今はコンビニだが、昭和9年(1934)竣工時の、開口部まわりの凝った飾りは変わっていないようだ。

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・・・・・・・・・・・・・本郷中央教会・・・・・・・・・・昭和4年(1929)竣工の建物です。この教会は元ヴォーリズ(メンソレータムの近江兄弟社を設立した実業家でもある)建築事務所のヴォーゲルが川崎忍(立教女学院の寄宿舎などを設計)と共同設計したそうです。・・・・・・・・・教会の建物の中に幼稚園があり、通園時間近くは若いお母さんが多く、不審人物は入りにくい。気の弱い私は、今日も前を素通りしてきた。

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⑤泰山ビル・・・・・・・・・・本郷3丁目に建つ一見古そうに見えたビル、昭和34年(1959)の竣工の旧本郷ビル。 外壁は色分けされ2棟のようだが1棟だ。 現在はシェアハウス。

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⑥ヱチソウビル・・・・・・・・・・・・関東大震災直後の大正13年(1924)に竣工した、鉄筋コンクリート造4階建てのアールデコ風の建物。 前面の本郷通りの向かいから眺めると、建物上部の幾何学模様が目に入るが、建物前の歩道を歩いていても歴史ある建物に気付く人は少ないようだ。

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⑦丸ノ内線本郷三丁目駅・・・・・・・・・・なぜ、こんな横路の奥に在るの、すぐそばには本郷通りがあるのに? と思う駅。 答えは、本郷3丁目の交差点を電車が直角に曲がれないから。・・・・・・・・・・昭和29年(1954)に開業。 現在の蝶の羽のようなアーチ型屋根で覆われた駅舎に改良されたのは平成14年(2002)である。

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⑧弓町の大クス・・・・・・・・・・・弓町本郷教会の近くに、樹高は20m、幹回りは8.4m、樹齢600年以上と言われる巨大なクスノキがある。ここは、江戸時代、楠木正成の末裔にあたる旗本甲斐庄氏の屋敷であった。大正時代には駒澤銀行頭取の邸宅となり、昭和になると所有者も変わり、戦後は「楠亭」というフランス料理のレストランとなり、さらに現在のマンションとなった。・・・・・・・・・今はマンションの前で、世の中の移り変わりを高所から見つめている。

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⑨旧古市邸・・・・・・・・・・・クスノキの前に建つ瀬川ビルの奥には、初代東大工学部長古市公威邸がある。 明治20年(1887)に建てられた数寄屋造りの邸宅で、静寂の空間を創っている。 国の登録有形文化財だが非公開、残念!

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⑩隆慶橋・・・・・・・・・・・・飯田橋の上流で、神田川に架かる隆慶橋(りゅうけいばし)は、昭和10年(1935)前後に架けられた現存する鋼橋である。・・・・・・・・・・・ここには、江戸時代に木橋が架けられていたそうだ。 浅草花川戸の町奴:幡随院長兵衛が旗本:水野十郎左衛門と対立し、湯殿でだまし討ちにあい、その死体が流された場所が、この隆慶橋であったそうだ。・・・・・・・・・現在は上流に新隆慶橋が架けられ、ほぼ歩行者専用橋となっている。ここでも、頭上の首都高が邪魔だね!

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2013年9月 7日 (土)

浅草橋~新橋

浅草橋の我が家から新橋まで裏通りを散歩。

①浅草橋・・・・・・・・・浅草寺の門前橋として、神田川に架けられた橋。 しかし、浅草寺から浅草橋まで2km程あり、よく駅前で“浅草寺はどこですか?”と聞いてくる人も多い! ・・・・・・・・・江戸時代には、奥州から江戸城への入口として、浅草見附が設けられた。今は、橋の架かる神田川が北側の台東区と南側の中央区の区界となっている。・・・・・・・・・現在の浅草橋は昭和5年(1930)に震災復興橋として、総工費27万7千円(上流の万世橋は35万円、下流の柳橋は12万1千円)で竣工した。・・・・・・・・・私が小学生の頃(昭和30年頃)は、護岸は低く船宿の桟橋から川べりに下りられ、魚獲りで遊んだ処だ!

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②懐かしい(其の1)・・・・・・・・車にチャイルドブックの名が!・・・・・・・・・私が幼児の頃、幼稚園に通う園児が手に持って帰ってくる本に、「チャイルドブック」と「キンダーブック」があった。共に薄手の絵本で、園児には毎月配布されていたようだ。 定員オーバーで幼稚園に入園できなかった私は、友達の園児が持って帰ってくるのを羨ましく思っていた。 友達の家に遊びに行くと読ましてもらった記憶が残っている。・・・・・・・・・・・・両絵本とも健在で、今でも子供の夢をつないでいるそうだ。

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③江戸屋・・・・・・・・・・・・・日本橋大伝馬町の、創業:享保3年(1718)、刷毛・ブラシの老舗。 現在の建物は、震災後の大正13年(1924)に再建された。・・・・・・・・・・・今日は土曜で休みかな?

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④懐かしい(其の2)・・・・・・・・・・チョイト、忘れかけていた牛乳石鹸の社名・・・・・・・・・牛乳石鹸と言えば、ザ・ピーナッツとクレージーキャッツの「シャボン玉ホリデー」だ! 昭和31年(1956)から11年間の長きにわたり放送されたミュージカル番組。 この番組を知らない中・高年は居ないだろうね! ♪♪ シャボン玉 ルル ルルルルル シャボン玉 ララ ラララララ ロマンティクな夢ね まるい素敵な夢ね リズムに乗せて 運んでくるのね ホリデー ホリデー シャボン玉 シャボン玉ホリデー ♪♪  モ~~ ・・・・・・・・・ついでに、ミツワ石鹸、ウタマロ石鹸、ペリカン石鹸、ミヨシ石鹸、、、、、ぞろぞろ、思い出すね!・・・・・・・・・写真の建物は小舟町の東京支社で、昭和40年(1965)の建築。

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⑤江戸橋・・・・・・・・・・・日本橋の下流、昭和通りが日本橋川を渡る橋で、この川筋の中では交通量の最も多い橋の一つである。関東大震災後、復興計画として昭和通りとともに造られた橋である。昭和4年(1929)竣工の鋼製アーチ橋で、親柱や欄干なども重厚な趣きがあり、日本橋に引けを取らない。 でも、日本橋と同様で、頭上を走る首都高が邪魔だ!

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⑥楓川・・・・・・・・・・・・楓川の読みは“かえでがわ”ではなく“もみじがわ”が正しいが、川は現存しない。楓川は、かつて東京証券取引所の裏で日本橋川から分岐し、首都高京橋JCTのところで京橋川に合流していた。 川の埋立は昭和35年(1960)に始まり、昭和40年(1965)には消滅した。その後、首都高が川筋に造られ、楓川に架かる橋は、それぞれ数奇な運命をたどることとなった。

・・・・・・・・・・・・海運橋・・・・・・・・・・みずほ銀行兜町支店近くに架かっていた、現在は親柱が保存されている。昭和37年(1962)に隣りの兜橋と共に撤去された。

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・・・・・・・・・・・・・みずほ銀行兜町支店 ・・・・・・・・・・・歴史の教科書に必ず載っている、明治6年(1873)(建物は前年竣工)に誕生した、我が国初の国立第一銀行の発祥地である。 プレートが銀行の角に貼られている。  

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・・・・・・・・・・・・・千代田橋・・・・・・・・・海運橋の隣り(下流側)に、大正15年(1926)竣工の千代田橋があった。こちらは首都高の下に、高欄は改修されているが、石造の親柱、袖柱が竣工当時のまま残っている。 

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・・・・・・・・・・・・・久安橋・・・・・・・・・東京駅八重洲口の真正面にぶつかる八重洲通りが橋上を通る久安橋。“久安”の名は、橋の付近に御坊主久安の拝領地があったことに因んでいるらしい。・・・・・・・・・・・・現在の橋は、震災の復興事業により、八重洲通りの造成と共に架け替えられた。その後、川の埋め立て、橋下に首都高の開通などがあったが、平成3年(1991)、デザインを一新し改装された。

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・・・・・・・・・・・・・弾正橋・・・・・・・こちらの橋名は、江戸時代の町奉行:島田弾正の屋敷が橋の近くにあったことに由来する。 この橋も、平成5年(1993)に再整備され、橋と公園が一体化となった空間が作られた。・・・・・・・・・・久安橋では橋下を走っていた首都高が、ここでは頭上を走り、本当に邪魔だ!

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⑦懐かしい(其の3)・・・・・・・・・・コンクリート製すべり台・・・・・・・・・・京橋公園に設置されていた昭和5年(1930)製のすべり台。現在の安全基準に適合しないため取り壊されたので、その写真がすべり台のあった場所に残されていた。

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・・・・・・・・・・・・・・・ここはしっかりホローできるように、取り壊し前の写真を撮って残していた。(平成11年撮影)  私の遊んだ浅草橋の公園にも同じようなすべり台があり、懐かしさのあまりパチリと残しておいた。 夏に滑ると、コンクリートが熱く、尻がポカポカする、心地よいすべり台だった。・・・・・・・・・・そうそう、思い出した本郷の元町公園にもコンクリート製のすべり台が残っている。

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⑧東京劇場・・・・・・・・・・正式名は東京劇場。昭和5年(1930)に演劇場として開業し、歌舞伎などが上演された。 戦後、歌舞伎座が再建されたことにより、東劇は映画館となり、昭和49年(1974)まで、旧建物が残っていた。 昭和50年(1975)に現在の高層ビルに建て替えられた。・・・・・・・・・・私の知る東劇は旧建物で、今振り返って思い出すとオペラハウスのような、映画館とは思えない造りであった。 

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・・・・・・・・・・・・・・戦後も残っていた、私の知る東劇。(Wikipediaより)

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⑨懐かしい(其の4)・・・・・・・・・・ビクターの犬・・・・・・・・・蓄音機に耳を傾けるフォックステリアは名をニッパーといい、イギリス生まれだ。 この犬を見ると思い出すのは、松尾和子+フランク永井+吉永小百合+三田明の豪華メンバーが歌う「思いでのレコード」 ♪♪ 君ときいてる なつかしのレコード パパとママのかたみのレコード 雨の日も風の日もいく年月 かなしいときは かなしく歌い たのしいときは たのしく歌って パパとママをなぐさめたんだね どんなに仲良くきいたやら パパとママ 今はかたみの古いレコード ♪♪ 昭和40年(1965)の歌だ。

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⑩旧新橋停車場(鉄道歴史展示室)・・・・・・・・・明治5年(1872)に開業した新橋駅舎を、汐留の当時の場所に復元した建物。内部は鉄道歴史展示室として公開されている。・・・・・・・・・本日は企画展「おみやげと鉄道」を見てきた。(残念だが撮影禁止)

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2013年9月 6日 (金)

阿佐ヶ谷~高円寺

阿佐ヶ谷駅からブラブラ南へ、いつの間にか北へ、そして最後は東の高円寺駅に、裏道を歩いて、1万2千歩、9kmの散歩です。

①阿佐ヶ谷駅・・・・・・・・・・・・・大正11年(1922)に開業し、昭和41年(1966)に高架化工事が完了し高架駅となった。・・・・・・・・・・・・下町育ちの私には、縁の薄い駅。 知り合いの御宅訪問、仕事で出先訪問、治療を受けた病院通い、若い二人の食事、、、、、いずれにしても、散歩以外で阿佐ヶ谷駅に下車した記憶は皆無、思い出の残っていない駅だ。

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②阿佐谷の裏道・・・・・・・・・・・駅名は「阿佐ヶ谷」、町名は「阿佐谷」で“ヶ”(毛)がない。ハゲの街だが、所々に残る昭和裏道の匂い。

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阿佐ヶ谷住宅 ・・・・・・・・・・・善福寺川緑地公園に隣接する立地(杉並区成田東)に、昭和33年(1958)に造られた全戸数350世帯からなる日本住宅公団の分譲型集合住宅地。 地上3~4階建て鉄筋コンクリート造の118戸と、地上2階建てテラスハウスタイプ232戸で構成される。・・・・・・・・・・阿佐ヶ谷住宅は、日本住宅公団が発足して3年後の昭和33年に竣工したが、建物の設計は発足したばかりの公団の設計課が行なったものと、前川國男建築設計事務所が行った傾斜屋根型テラスハウス(“へ”の字型の屋根)の174戸分がある。 テラスハウスとは、terrace+houseの和製英語で、各戸が専用の庭をもった長屋のことである。・・・・・・・・・・建物の老朽化し治安も悪化したため解体・再開となり、取り壊しが始まった。 前川國男が高度経済成長期を前にした昭和30年代に手掛けたテラスハウスは、鷺の宮住宅だけとなった。・・・・・・・・・曇天の下、取り壊しの現場を今日は寂しく目に焼き付けてきた!

・・・・・・・・・・・・・・道路部分を残し、立入禁止となった住宅地。

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・・・・・・・・・・・・・・・テラスハウスも取り壊し! せめて、1~2棟は保存できなかったのか?

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・・・・・・・・・・・・・・低層の集合住宅も取り壊し!

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・・・・・・・・・・・・・通る人もなくなった住宅地内の道路に、お婆さんが一人何かを思い出しながら散歩中。

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・・・・・・・・・・・・・役目を終えた、給水塔も寂しそう!

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・・・・・・・・・・・・・阿佐ヶ谷住宅の航空写真(Googleマップから)

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・・・・・・・・・・・・・阿佐ヶ谷住宅の工事範囲

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④高円寺・・・・・・・・・・・・正真正銘の高円寺。弘治元年(1555)に開山した、曹洞宗の寺院である。 将軍徳川家光が鷹狩りの際、度々立ち寄り、お茶の接待をした徳川家ゆかりの寺。・・・・・・・・・・寺は江戸時代、明治時代、昭和20年と罹災し、寛保2年(1742)、弘化4年(1847年)、明治33年(1900年)、昭和20年(1945年)と4度罹災し、現在の本堂は昭和28年(1953)に宮大工・中村青雲により再建された。・・・・・・・・・駅名、地名になるほどの寺であるが、そのわりには簡素で、静かな寺である。

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・・・・・・・・・・・・・・境内の開運子育地蔵堂。堂内を覗くと、“子作り”地蔵堂かと思った。

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2013年9月 3日 (火)

新橋~乃木坂

爽やかな夕涼みを期待して家を出たが、湿気でベトベト、汗がダラダラ、水分補給が多すぎて胃はゴボゴボ、チョイト辛い散歩となった。 新橋から東京メトロ乃木坂駅まで、1万2千歩、9km。

①新橋・・・・・・・・・・・まずは、駅前でどっちに行こうかな? 例により、美人の行く方向に!

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②烏森神社・・・・・・・・・・・・天慶3年(940=平安時代)に東国で平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷が武州のある稲荷に戦勝を祈願した際、白狐が現れ白羽の矢を与えた。その矢により乱を鎮めることができたので、秀郷がお礼に現在地に神社を創建した。・・・・・・・・・・・白狐は、呑み屋の女狐だったかも? とりあえず、二礼二拍手一礼をしておくことにした。・・・・・・・・・・・社殿は昭和46年(1971)に、現代的デザインで建てられた。

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・・・・・・・・・・・・神社が鎮座するは、飲み屋街の中央だ! 神様は、毎日、二日酔いかも?

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③堀商店・・・・・・・・・・・堀商店は明治23年(1890)の創業、100年以上続く建具金物の老舗。特に錠前では日本一だ。・・・・・・・・・昭和7年(1932)に竣工した、鉄筋コンクリート造4階建ての社屋は国の登録有形文化財に指定されている。

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④外堀通り・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・新橋駅の方から、正面霞が関ビルを望む。

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・・・・・・・・・・・・振り返えれば新橋駅方面。

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⑤虎ノ門・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・地下鉄でまっすぐ帰宅は少ないようだ、多くはJR新橋駅方向へ足が向かう。 今日も、暑気払いかな?

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・・・・・・・・・・・・・文科省は全館で残業中! ロケット、オリンピックと話題が多く、忙しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・財務省・国税庁も忙しそうだった!

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⑥国会議事堂・・・・・・・・・昭和11年(1936)に帝国議会議事堂として建設された。鉄骨鉄筋コンクリート造り地上3階(中央部分4階)建て。・・・・・・・・・こちらは、人影が見えず、静かにおやすみ状態だ。

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⑦赤坂・・・・・・・・・・・・・・西田佐知子が歌う、赤坂の夜は更けて ♪♪ いま頃どうして いるのかしら せつない想いに ゆれる灯影 むなしい未練とは 知りながら 恋しい人の名を ささやけば 逢いたい気持は つのるばかり 赤坂の夜は 更けゆく ♪♪・・・・・・・・・昭和40年(1965)の歌だが、バブルがはじけた以降は、赤坂も変化し庶民の街となった。 歌の心は残り、消えた情景もある、残念!

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⑧乃木神社・・・・・・・・・・・昨日は東郷神社、今日は乃木神社。 誰か、英霊が呼んでいるのか? 神社は既に閉門していたので、鳥居に一礼。

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⑨乃木坂陸橋・・・・・・・・・・・・昭和49年(1974)に竣工した乃木坂陸橋。 橋の上は外苑東通り、下は乃木坂トンネルの一部で、地下鉄千代田線も道路下を走っている。千代田線の乃木坂駅は陸橋の地下にある。

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⑩桂由美ブライダルハウス・・・・・・・・・・乃木坂陸橋の際に、優雅なロココ調の白く浮かび上がる城は、桂由美のブライダルハウス。 若い二人に夢を与える城だ!

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2013年9月 2日 (月)

千駄ヶ谷~外苑前

JR千駄ヶ谷駅から東京メトロ外苑前駅まで、裏道をアッチに行ったり、コッチに来たり、グニャグニャ、グルグル、ヨレヨレ歩き、1万2千歩、9kmの散歩です。

千駄ケ谷駅 ・・・・・・・・・・・オリンピックで玄関口となるであろう千駄ケ谷駅。明治27年(1894)に新宿~牛込間が開通した甲武鉄道の追加駅として、明治37年(1904)に開業した。 ホームは新宿御苑に接する築堤上にあり、島式1面2線の構造である。1番線の向かい側に、東京オリンピックの時に使用した臨時ホームが残っている。・・・・・・・・・・2020年のオリンピックに再び千駄ケ谷駅が玄関口となるか? 9月7日のIOC総会で決定だ!

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・・・・・・・・・・・・・・現在は使用されていない臨時ホームとホームに出る階段。

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②東京体育館・・・・・・・・・・・東京体育館の敷地は、もとは徳川家の所有地で、戦時中、東京府が国民の士気高揚のための錬成道場とするため、土地・建物を買収した。 戦後は、一時、駐留軍将校宿舎・将校クラブとして使用されたが、昭和28年(1953)に東京体育館の建設が始まり、昭和31年(1956)に当時の金額で格総工費3億5000万円をかけ完成した。 東京オリンピックの体操競技の会場だ、覚えているかな!・・・・・・・・・・・その後老朽化により取り壊し、平成2年(1990)に槇文彦の設計により、現在の東京体育館がオープンした。・・・・・・・・・・2020年のオリンピックが決まったらどうするのかな?

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・・・・・・・・・・・・・・・旧東京体育館。(東京体育館のHPより)

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③鳩森八幡神社・・・・・・・・・・・貞観2年(860=平安時代初期)の創建、1200年前、古~~い神社だ。しかし社殿は平成5年(1993)の落成、新し~~い。・・・・・・・・・境内の富士塚は寛政元年(1789)築造、古~~い。 将棋堂は近くの日本将棋連盟から奉納された大駒を納めた六角堂で、新し~~い。

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④宮廷ホーム・・・・・・・・・・・・原宿駅北側に150m程行くと、皇室専用の宮廷ホーム(原宿駅側部乗降場)がある。 このホームは天皇陛下専用の「お召し列車」が発着する乗降場である。・・・・・・・・・大正14年(1925)、病弱な大正天皇のため、人目につかず乗降できるよう設置された。・・・・・・・・・昭和天皇は御用邸への移動、地方訪問などで頻繁に利用されたが、今上天皇は新幹線の利用が多く使用頻度は低い。・・・・・・・・・・・一生に一度でいいから、ここからお召し列車に乗って草津温泉でも行ってみたいね!

・・・・・・・・・・・・・・・原宿駅ホームから見える宮廷ホーム。(1月撮影)

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・・・・・・・・・・・・・・ホームは立ち入り禁止、当然だ! 宮廷ホームはJR東日本と財務省の共同管理らしい。

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・・・・・・・・・・・・・門の正面に吹き曝しのホームがあり、その奥に小さな建物の貴賓室がある。

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・・・・・・・・・・・・・ホーム上屋は古レールを再利用した造りだ。

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⑤東郷神社・・・・・・・・・・・・・・日露戦争で連合艦隊を率いてバルチック艦隊を破った、東郷平八郎を祀り、昭和15年(1940)に御鎮座祭がおこなわれた神社。チョイト古いがアノ「竹の子族」で有名な「竹下通り」の横にある、大きく、静かな神社。社殿は昭和39年(1964)に再建された、鉄筋コンクリート造。

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・・・・・・・・・・・・・鯉が好きな児。 私は恋が好き。

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⑥表参道・・・・・・・・・・・明治神宮への参道として大正8年(1919)に整備されたが、今は、ケヤキ並木に沿ってブランド店の並ぶ若い人の街。 親爺の私も好きな街。

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・・・・・・・・・・・・・・・表参道には有名な同潤会青山アパート(昭和2年建設)があったが、現在はほとんど取り壊され表参道ヒルズに変わった。 その片隅に、ホンノチョイト、同潤会アパートの一部がカフェに変身して残されている。

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⑦都営青山北町アパート・・・・・・・・・・・・青山通りの真裏に、昭和32年(1957)~昭和43年(1968)に竣工した、25棟からなる大きな団地がある。 都内の1等地青山に広々と残る貴重な土地だ。 都は再開発を計画し、入居募集を中止している。・・・・・・・・・・・・住人は3LDKで3万円強の家賃、都心の1等地、高齢化と年金暮らしで他に移る希望もなく住み続けているようだ。 しかし、建物は老朽化し、団地の前庭は手入れができず荒れ放題、3分の1は空き屋、まったくもったいない空間だ、何とかならないか?

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・・・・・・・・・・・・・・・チョイト、切ない貼紙が、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・団地の建つこの地は、明治33年(1900)に東京府師範学校(後の東京学芸大)などが移転し・開校した場所である。 学校は、東京大空襲で焼失し、それぞれ他所へ移転した。 その一つ東京府師範学校の同窓生により、昭和47年(1972)に建てられた記念碑が存在する。

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⑧青山通り・・・・・・・・・・・・・地下鉄銀座線でお帰り、、、、、

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2013年9月 1日 (日)

大川の夕涼み

夕方から雷警報が出て豪雨を覚悟したが、一向にゴロゴロ、ピカピカしない。 濡れるのは覚悟で、隅田川(大川)テラスに夕涼みに出てみた。 

降らないか降らないかと心配しながら、中央区日本橋浜町に出て、新大橋を渡り江東区におじゃまして、降られるといやなので墨田区両国に回り、ここまで来たら震災記念堂に立ち寄って、我が家の台東区浅草橋まで歩いた。 結局、4区を巡る夕涼みとなった。

総武線隅田川橋梁 ・・・・・・・・・・・・・柳橋からの隅田川テラスに出てみた。ここは、浅草橋駅から出た総武線が隅田川を渡り両国駅へ向かう橋梁がある。 遠くスカイツリーを見て、頭上に電車が走り、川面に屋形船、風は涼しく、夕涼みには丁度良いね。・・・・・・・・・橋梁は、東京大学教授の田中豊(昭和39年逝去)の設計で、昭和7年(1932)に竣工した、スッキリとしたデザインのランガー桁橋である。・・・・・・・・・・・今日は橋を見るより、大川端の夕涼みだ!

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・・・・・・・・・・・・・・ナント、“屋形船”と呼びたくない、カラフルな屋形船が来た! 大勢で乗るなら、祭り提灯をぶら下げた屋形船がいいね。 でも本当は、障子ごしに薄明りが漏れ、私と高島礼子似の女性が静かに語らい川面を見つめている、屋形船の情景がいいね! 

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柳橋・・・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)に完成した復興橋のひとつ。

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③水天宮仮社殿・・・・・・・・・・安産の神様「水天宮」は、現在建替え工事中。しばらくは、浜町明治座前の仮宮に移り、鎮座することになった。・・・・・・・・仮宮と云うものの新築で、もちろん我が家より立派だ!

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新大橋 ・・・・・・・・・・・・・新大橋は両国橋(大橋)に続き、元禄6年(1694)に架けられた。現在の橋は4代目で、昭和52年(1977)に架け替えられた2径間連続斜張橋。・・・・・・・・・ライトアップすると綺麗だね! 橋の際に保存されている旧橋親柱も灯りがともり、いいね!

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・・・・・・・・・・・新大橋から上流側を望む。 写真左側は浜町公園わきの首都高。

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萬年橋 ・・・・・・・・・・・新大橋を渡り江東区に入り、小名木川に架かる震災復興橋。昭和5年(1930)、約33万円の工事費をかけ、完成した。・・・・・・・・・・・暗闇の中、静かに白く浮かび出る橋姿は紳士的で、いいね!

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⑥旧震災記念堂(東京都慰霊堂)・・・・・・・・・・・今日は震災記念日でもあり、手を合わせて帰ろう! 堂の扉は閉まっていたが、合掌。 公園内は夕涼みの、家族連れ、カップルが多い。 一人でブラブラするのは、変な親爺だけだ!

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・・・・・・・・・・・・・・記念堂から両国駅にかけ、屋台がズラリ! 昼の賑わいが残っていた。 私が幼き頃の屋台は、べっこう飴、カルメ焼き、竹鉄砲、樟脳舟、綿菓子、ポン煎餅、飴細工、、、、、、屋台の数と雰囲気は変わっていないが、商品が変わってる! そして、屋台の並びの隅には、車を引いてキセルのヤニを掃除していた羅宇屋(らおや)の姿があったものだ。 

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