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2013年10月

2013年10月31日 (木)

浅草橋~日暮里

我が家(浅草橋)から、東上野を抜け両大師橋を渡り谷中を通り、日暮里駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

①台東区南部の建物・・・・・・・・・・・・台東区は東京大空襲で被災した家もあるが、被災を免れた家も多く、木造の長屋造り、出桁造り、看板建築など、多様な建物がまだまだ健在である。

・・・・・・・・・・・・・木造4軒長屋+木造住宅 ・・・・・・・・・・浅草橋5丁目の建物。右側から4軒長屋がり、左端に一軒家の木造住宅がある。

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・・・・・・・・・・・・・・・4軒長屋・・・・・・・・・小島1丁目の木造トタン貼りの長屋で、右奥には3軒長屋も見える。

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・・・・・・・・・・・・・大津屋・・・・・・・・・つくばエキスプレス新御徒町駅近くに残る、明治時代(推定)の蔵。写真右隣りのモルタル塗りの家も大津屋。・・・・・・・・大津屋は明治時代には薪炭商だった、蔵は当時に建てられたようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・約10年前の大津屋。

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・・・・・・・・・・・・・旧鈴の木内装・・・・・・・・・小島2丁目の木造建築。 『店はいろいろ変わったが、建物は変わっていない』と言いたいのだが、外壁は塗られて綺麗になってしまった。 以前は銅板の黒光りする建物であった。・・・・・・・・・・昭和3年(1928)頃の建物である。

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・・・・・・・・・・・・・・T邸・・・・・・・・・・・小島2丁目にある、木造の商店建築。

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・・・・・・・・・・・・・・3軒長屋・・・・・・・・・・・東上野3丁目の木造3軒長屋。2階庇部分の飾り、その上には花のレリーフもある、チョイト、オシャレな建物だ。

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・・・・・・・・・・・・・糠沢医院・・・・・・・・・東上野3丁目の医院。正面はモルタル仕上げで、横壁・屋根はトタン葺きの看板建築。おそらく、昭和初期の建物であろう。

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・・・・・・・・・・・・・出桁造りの商家・・・・・・・・・東上野3丁目の建物。外壁は銅板で仕上げている。

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・・・・・・・・・・・・・T邸・・・・・・・・・下谷神社の正面参道に面し、昭和5年(1930)に建てられたかまぼこ型の建物。・・・・・・・・・3階外壁、2階の飾りが特徴的!

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②旧小島小学校・・・・・・・・・・・昭和3年(1928)に竣工した震災復興小学校の一つ。円柱状の特徴的なデザインの校舎で、今は台東デザイナーズビレッジとして、デザイナーを支援する施設として利用中。

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両大師橋 ・・・・・・・・・・・上野駅北側で、20本近くの線路を跨ぐ跨線橋。 旧両大師橋は昭和8年(1933)に完成したが、昭和45年(1970)頃に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・・・両大師橋は国立博物館がある上野公園と上野の山を下った昭和通り側とを結んでいる。 両端では高低差が10m以上あり、昭和通り側は人・自転車専用のスロープと自動車専用の斜路が取り付けられている。

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・・・・・・・・・・・・・自動車専用の斜路の真下に、旧両大師橋の斜路の一部が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・両大師橋の子鉄!

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④徳川家綱霊廟勅額門・・・・・・・・・・・・四代将軍家綱は、慶安4年(1651)に父:家光の死に伴い、わずか10歳で将軍となり、延宝8年(1680)に39歳で没した。 その家綱の霊廟の四脚門が、国立博物館の裏側の寛永寺の霊廟に残っている。

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⑤観音寺築地塀・・・・・・・・・・谷中5丁目の寺院が建ち並ぶ寺町の一角に、観音寺がある。 観音寺は明和9年(1772)の火災で灰燼に帰した後、文政年間(1818~1831)頃に再興された。築地塀は境内南面を画する延長37.6mの練り塀で、瓦と粘土を交互に積み重ねて造り、江戸寺町の面影を残している。

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⑥岡倉天心邸跡・・・・・・・・・・・・我が国近代美術の先駆け岡倉天心邸の跡地は「岡倉天心記念公園」となり、園内の岡倉天心史蹟記念六角堂(昭和41年竣工)には平櫛田中作の金ぴかの天心座像が安置されている。・・・・・・・・・純金の像みたいだが、本物なら公園の一角に監視なしで置いとかないだろう!

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2013年10月30日 (水)

大森~馬込

大森駅から都営地下鉄馬込駅まで、山王1丁目あたりの裏道を歩いて、1万歩、7kmの散歩です。

①大森山王日枝神社・・・・・・・・・・・大森貝墟のあるNTTビルの正面に鎮座する山王社。古のころより、地元の豪族が比叡山麓にある日吉神社の祭神:山王権現を勧進し祀った。延宝5年(1677)には、隣接する円能寺が別当になり、「山王権現」と称していた。明治初年まで同寺の管理下にあったが、明治元年(1868)、神仏混淆の禁令と共に円能寺から独立し、日枝神社と称した。 “大田区山王”の地名の起こりとなった神社。・・・・・・・・・現在の社殿は昭和28年(1953)の建設である。・・・・・・・・参拝人が少なそうで、寂しいい神社だ!

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②山王1丁目の住宅・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・IS邸・・・・・・・・・塀の奥にチラリと見える木製の窓枠。戦前の建物と思われる。

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・・・・・・・・・・・・・O邸・・・・・・・・・青い瓦にグレーの外壁、飾りは一切ない箱形の建物。軒裏の板張りに古さがみられる、昭和初期の建物か?

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・・・・・・・・・・・・・Y邸・・・・・・・・・昭和8年(1933)建築の木造2階建て住宅。 住む人は居なくなったようで、玄関回りは草木が茂り、残念だが建物が見えない。 今度訪れたときは壊されているかも。

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・・・・・・・・・・・・・K邸・・・・・・・・・玄関の丸窓、柱の飾りに時間の経過を感じる。

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③山王草堂記念館(蘇峰公園)・・・・・・・・・大正13年(1924)から昭和18年(1943)まで徳冨蘇峰が住み、「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として残されている。 公園となった広い起伏ある敷地の片隅に、鉄筋コンクリート造んぽ記念館があり、「山王草堂」の2階部分と玄関部分が復元保存されている。 山王草堂の設計は黒田記念館などの作品が残る岡田信一郎らしい。・・・・・・・・・今日は弟:徳冨蘆花との喧嘩別れし、再会した資料、勝海舟との親交の資料などを見てきた。 小さいながらも見ごたえある記念館だ。 入場無料もいいね!

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・・・・・・・・・・・・・・大正14年(1925)の山王草堂

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④尾崎士郎記念館・・・・・・・・・・・・・蘇峰公園を抜けると20m程で、昭和29年(1954)に建てられた尾崎士郎の居宅がある。 建物は「尾崎士郎記念館」として復原保存され公開している。・・・・・・・・ところで、「尾崎士郎」とは、、、、私は、名前は知ってる、相撲好きで横綱審議委員を務めたことも知っている、『人生劇場』の著者であることも知っている、でも作品を読んだ記憶がない。 チョイト不勉強でした!

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⑤大仏架道橋・・・・・・・・・・・品川区西大井4丁目と5丁目の境に、東海道新幹線と横須賀線が頭上を通る「大仏架道橋」がある。・・・・・・・名前を見て、鎌倉・奈良からは遠いので“大仏”とは何ぞや? 

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⑥養玉院如来寺・・・・・・・・・・架道橋の近く(西大井5丁目)に、天台宗の養玉院如来寺がある。山門前には「大佛 如来寺」と標されていた。 これだ!「大仏架道橋」の疑問は解消した。・・・・・・・・・・・如来寺は寛永年間(1624~44)に芝高輪に創立した寺で、五智如来が安置されているところから、俗に高輪の大佛と呼ばれ、明治41年(1908)に現在地に移転した。 一方、養玉院は寛永12年(1635)に上野寛永寺の山内で開山し、その後下谷に移転したが、大正11年(1922)には寺の場所が鉄道用地となり、如来寺の近くに再移転した。 大正12(1923)年如来寺と養玉院は合併し、現在地で「養玉院如来寺」と称する。

・・・・・・・・・・・・・・山門・・・・・・・・・新しい山門だが立派。

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・・・・・・・・・・・・・・・本堂

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・・・・・・・・・・・・・・瑞應殿(ずいおうでん)・・・・・・・・五智如来像(大日如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来)が安置されている。 これが高さ3mの大佛さまだ!

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2013年10月28日 (月)

中野

中野の「東京警察病院」にて、眼科の定期検診を受ける。 私の眼病は、10年程前に発症し、「ポスナーシュロスマン症候群」と称する、片方の目の眼圧が著しく上昇し、傷みはなく、視界が“霞む”病気である。 半年から数年のサイクルで発症し、10年程続く面倒な病気である。 発症すると、ステロイドで眼圧を低下させ、3~4時間程で症状はなくなる、比較的、扱いやすい病である。 原因は、目の疲労とストレスで、中年男性に多い病らしい。 病院では、眼圧/視野測定と問診を受け、お土産に発症した時に使用する点眼薬と錠剤を貰い、最後に美人先生から「4か月後にまた来てください」と嬉しいお言葉を頂戴して来る。 今年は発症していないので、完治したのかな?

病院の帰り、明治大学をチョイト覗いて、東中野駅まで歩いてきた。1万2千歩、9km。

①東京警察病院・・・・・・・・・・昭和4年(1929)に警視庁職員の拠出金で、飯田橋駅近くの千代田区富士見に開設された病院。 平成20年(2008)に現在の中野に移転した。・・・・・・・・・戦前は警視庁職員とその家族など限られた人の診療を行っていたが。戦後は私のような一般人にも開放された。 また病院の性格上、日本政府や警視庁の特命による医療チームの派遣などもあるそうだ。平成7年(1995)の地下鉄サリン事件後による山梨県上九一色村強制捜査、平成8年(1996)のペルー日本大使館占拠事件などにチームが派遣された。 また、災害拠点病院としてヘリポートも用意されている。・・・・・・・ありがたい病院だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・・飯田橋にあった、旧東京警察病院。(平成20年撮影)

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②明治大学中野キャンパス・・・・・・・・・・東京警察病院の近くに(旧中野警察大学校の跡地)、今春オープンした明治大学中野キャンパスに、OBとしてチョイト見学してきた。・・・・・・・・・設計は三菱地所設計、施工は清水建設により、地上14階/地下1階の建物である。 隣りは、帝京平成大学と早稲田大学が同じようにキャンパスをオープンさせる。

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・・・・・・・・・・・・・下から見上げる校舎。 駿河台のリバティタワーに似た雰囲気の建物だ。

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・・・・・・・・・・・・・・1階はギャラリー、食堂などがあり、中庭は明治と帝京の両大学に挟まれている。・・・・・・・・私が学生の頃は、エスカレーターのある大学なんて考えられなかったね!

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・・・・・・・・・・・・・・エスカレーターに乗って3階へ

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・・・・・・・・・・・・・3階は教室がズラリ並んでいる。 スゲー!・・・・・・・・・授業風景が廊下から見えるシースルーの教室。 ラウンジもあり、合コンの打ち合わせも可能。

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③M邸・・・・・・・・・・・・・・明治大学の西側は杉並区高円寺北。 ここに戦前建てられた木造2階建ての洋館風の建物がある。 玄関部分のデザイン、造りは“可愛らしさ”もある特徴的なものだ。

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④囲桃園跨線橋・・・・・・・・・・・・中野駅の西側、駅から徒歩10分程のところに囲桃園跨線橋(かこいももぞのこせんきょう)がある。 ゴク普通の跨線橋で、橋自体には話題はないが、ここからは中央線がまる見えで、鉄道好きには楽しい場所だ! 

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⑤C11・・・・・・・・中野紅葉山公園に保存されている「C11-368」・・・・・・・・・生れは、私と同じ昭和21年(1946)、日本車輌製。 昭和47年(1972)に石巻線で引退となる。 私より早い引退だ!・・・・・・・・・・・公園の隅に置かれ、柵で子供たちどは切り離され、朽ちるのを待っているか? なにか侘びしいね!

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⑥東中野の住宅2件・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・S邸・・・・・・・・・・・・・東中野2の住宅。こちらは戦前の建物と推定した。 木が邪魔をしてよく見えないが、味わいのある建物のようだ!

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・・・・・・・・・・・・・A邸・・・・・・・・・・・・東中野1の住宅。こちらも古そうだが年代は不明? 

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⑦氷川神社・・・・・・・・・・・東中野1丁目に鎮座する歴史ある神社。長元3年(1030=平安時代)、源頼信が平忠常討伐の際に武蔵国一宮・大宮氷川神社より勧請し祠を建立したことに始まる。旧中野村の総鎮守社である。・・・・・・・・・・・・鉄筋コンクリート造の社殿は昭和44年(1969)に、金5000万円にて再建された。

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2013年10月27日 (日)

飯田橋~茗荷谷

台風一過の秋晴れ、早速散歩にお出まし。 飯田橋駅から小石川植物園をブラブラして茗荷谷駅まで、1万3千歩、10kmの歩きです。

①飯田橋通り架道橋・・・・・・・・・・・飯田橋駅前の目白通り上の架道橋で、橋上にはホームが造られている。・・・・・・・・昭和元年(1926)に開通した、3径間のプレートガーダー橋で、橋脚と一体構造となっている。 緩行線は単線桁の上下各1連で、その間にプラットホームを支える桁があり、急行線は3複線桁となっている。 架道橋下から眺めると、桁、橋脚を構成する重量感のある鋼材とアクセントとしてのリベットの頭が、一つのオブジェを形作っている。

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②文京区立第三中学校校門・・・・・・・・・後楽園方面から伝通院へ向かう安藤坂の途中で、木立の奥に文京区立第三中学校がある。 素晴らしいいアプローチの学校だと感心し校門を見ると、これまた素晴らしいいわくありそうなデザインの門柱にビックリ!・・・・・・・・・学校のホームページを調べてみたら、『三中の校地は、三井本家の邸宅跡。当時のPTAの熱意と三井氏の教育に対する深いご理解とご厚意により、この地に「第三中学校」の礎が築かれました。学校名はその三井家にちなんで第「三」中学校と名づけられました。』と書いてある。 門柱は三井家の時代のものかも?

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・・・・・・・・・・・・・・学校前は安藤坂。伝通院から神田川へ下る坂で、西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、安藤坂と呼ばれている。

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③伝通院・・・・・・・・・・小石川伝通院(傳通院、でんづういん)は、応永22年(1415)の創建された、徳川将軍家の菩提寺。正式には無量山傳通院寿経寺と呼ぶ。 慶長7年(1602)に徳川家康の生母於大の方が京都伏見城で亡くなると、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び埋葬した。・・・・・・・・・伝通院には、於大の方のほかに、秀忠の長女:千姫、家光の次男:亀松君、家光の正室:孝子、家康側室:於奈津などの墓もある。・・・・・・・・・・・昭和20年(1945)の空襲で、江戸時代からの本堂・山門などべて焼失した。 昭和24年(1949)に本堂を再建したが、現本堂は昭和63年(1988)に再度、再建されたものである。 山門は平成24年の再建である。・・・・・・・・・・・真新しい山門をくぐると、大きな本堂が控えている立派な寺だ!

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④明倫学館・・・・・・・・・・明倫学館は、明治12年(1979)に旧加賀藩士6名の匿名有志の拠金をもとに創設された、日本初の民間の育英事業団体「加越能育英社」が経営する学生寮で、明治41年(1908)に現在地(伝通院裏)に設立された。学生寮は、石川県、富山県出身の志操堅実で向学心に燃える優秀な男子学生を収容している。・・・・・・・・・・戦前の木造の建物は空襲で失い。 現在は昭和31年(1956)に建てられた、鉄筋コンクリート3階建ての旧館と、昭和42年(1967)に建てられた鉄筋コンクリート地上5階ての新館からなる。・・・・・・・・戦後の寮建築の見本みたいな建物だ!

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⑤小石川植物園・・・・・・・・・・・・正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」。東京大学の附属施設の一つで、植物に関する研究機関である。・・・・・・・・元は、江戸幕府が開園した、薬草を育てる小石川御薬園(こいしかわおやくえん)であった。8代将軍吉宗のときには、江戸町奉行:大岡越前に命じ、御薬園内に診療所を設けた。これが、小石川養生所の始まりである。・・・・・・・・・明治時代には、東京帝国大学の附属施設となり、多くの植物を対象とした研究施設に生まれ変わった。

・・・・・・・・・・・・・・正門・・・・・・・・・観覧料330円也、券は正門前のタバコ屋さんで購入。

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・・・・・・・・・・・・・・・正門から本館建物の前までは、立派な舗装道路がある。

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・・・・・・・・・・・・・・本館・・・・・・・・・・昭和14年(1939)竣工、鉄筋コンクリート造2階建ての、研究施設らしい女性的でモダンな建物。 一般は立入禁止の研究所で、東京大学植物標本庫、図書室などがあるそうだ。 設計は内田祥三。

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・・・・・・・・・・・・・・本館前を過ぎると、広い雑木林のような“植物園”になる。

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・・・・・・・・・・・・・園の中央あたりには、小石川養生所の井戸が残されている。現在でも、地震の時など緊急時に使用できるように残されている。

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・・・・・・・・・・・・・・園の奥には、将軍綱吉が幼少の頃住んでいた白山御殿の庭園に由来する日本庭園ある。

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・・・・・・・・・・・・・日本庭園の奥に、重要文化財:旧東京医学校本館 の赤い建物が静かに庭園を見つめている。 明治9年(1876)、工部省の設計で建てられた木造2階建て、桟瓦葺の擬洋風建築物。・・・・・・・・・東京大学に関係する建造物では現存する最古のもので、昭和44年(1969)に本郷キャンパスより移築された。現在は、東京大学総合研究博物館の小石川分館(只今、休館中)として使用されている。

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・・・・・・・・・・・・・・本館横に、大正8年(1919)に竣工した、木造平屋建ての旧東京帝国大学理学部植物生理化学実験室がある。 この建物は、東京大学植物学教室の柴田桂太教授(1877~1949)が、植物生理化学の研究業績に対して授与された学士院恩賜賞の賞金を寄付し、それをもとに建てられた。・・・・・・・平成17年(2005)に改装し、現在は柴田記念館として展示・講演する施設として使用している。

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・・・・・・・・・・・・・・・上の写真とほぼ同じ位置に座る、展示されていた写真の柴田教授

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昨日は、雨の日の暇つぶしに、「雅万歩」オリジナルのカレンダーを作成してみたので、チョイト紹介する。 本品は限定1部のみの作成で非売品です。

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2013年10月25日 (金)

散歩は休み、今日は製本

W台風で散歩はできず、我が家でブラブラ、ダラダラ、グウグウ・・・・・・・生産性の悪い状態に飽きたので、昨日から「雅万歩」の9月分を製本してみた。

ハードカバー、両面印刷の光沢紙を使用、9月分は全160頁になり2分冊構成とした。

我ながら良く出来た!(自画自賛)  発行部数1部の限定出版で、お宝物である!

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明日は、カレンダーでも作ってみようか?・・・・・調子に乗っていると思わぬ失敗があるかもね!

2013年10月23日 (水)

小岩~立石

台風27号・28号とWで接近中、東京は明日から週末にかけ雨の予報もあるので、しばらく散歩に出られないかも? 曇り空の下、総武線小岩駅から京成線立石駅まで、1万1千歩、9kmの散歩です。

①奥戸街道・・・・・・・・・・西小岩2丁目の蔵前橋通り交点より立石1丁目の平和橋通り交点までを、“奥戸(おくど)街道”と称している。 特に江戸時代の参勤交代の街道とか、○○神社への参道だとか、歴史があるわけではない。 単なる愛称らしい。 正式には東京都道60号線の一部。・・・・・・・・・・・写真の左側は“蔵前橋通り”、右に分岐していく道が“奥戸街道”。 

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・・・・・・・・・・・・・奥戸街道を跨ぐ、JR親金貨物線の55号線架道橋。 新金線は新小岩~金町間を結ぶ貨物専用線で、一日数本の貨物列車が通っている。

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・・・・・・・・・・・・・奥戸新橋は、昭和36年(1961)、新中川掘削工事に伴い架橋された。 橋長144.6mのプレートガーダー桁橋。・・・・・・・・架橋の頃は“新中川”とは呼ばず、“中川放水路”と称していた。 私が中学生の時、この掘削工事を見た記憶が残っている。当時は田圃の中の工事で、まだ水ははっておらず、川底が見える状態で掘削していた。 子供であったが、凄い工事だと感じ、今でも鮮明に思い出す。

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・・・・・・・・・・・・・・奥戸新橋から眺める新中川

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宝蔵院 ・・・・・・・・・・奥戸新橋を渡った奥戸8丁目にある、室町時代に創建された真言宗豊山派のお寺。本堂は昭和59年(1984)に新築された。・・・・・・・・境内は静かな佇まい、あちらこちらには、石仏、地蔵尊、祠が点在し、まるで山郷のお寺のようだ。秋の彼岸花が見事に咲くお寺としても有名らしい。 彼岸花は咲いておらず、遅かったようだ!

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③奥戸橋・・・・・・・・・・・・利根川支流の中川は、葛飾区に入り、新中川(旧:中川放水路)と分岐して、葛飾区の中央をを東西に蛇行して流れ江戸川区で荒川と合流する。 蛇行する曲がりの部分に奥戸橋は架けられている。 主要道路からはずれており交通量の少ない橋だ!

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④立石様・・・・・・・・・・・・地名・駅名の「立石(たていし)」は、立石8丁目の公園内にある「立石様」と呼ばれる石に由来する。 立石様は、公園中央の小さな祠「立石祠」の中で、土からチョイトばかし顔を出して埋められている。 かつては、この石を欠いて持っていると病に効くと信じられ、多くの人に欠かれたようだ。・・・・・・・・・・・人々に身を削られ小さくなった哀れな石である。

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⑤立石8丁目の建物・・・・・・・・・・8丁目は青砥駅と立石駅の中間で、中川に向かい舌状に出っ張った一帯である。 舌の先に奥戸橋がある。

・・・・・・・・・・・・・・元農家と思われる建物

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・・・・・・・・・・・・・路地の奥には戦後の文化住宅風建物があった。 玄関はガラスの格子戸、玄関の横はさらに道が細くなり木製の柵が、そして日当たりのよい部屋がある。 いまにも、おばあちゃんが顔をだし『お茶でも飲んでいきな』と誘われそうだ!

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・・・・・・・・・・・・・こちらは料亭か? 建物は疲れたようだが、玄関先の松は健在。

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⑥立石駅周辺・・・・・・・・・・・京成押上線四ツ木駅~青砥駅間の連続立体交差事業もそろそろ具体的となってきたようだ、周辺の立ち退き、葛飾区役所の駅前移転計画の発表などもあり、駅の高架化はオリンピックに間に合うか? 今後の変化がたのしみである。

・・・・・・・・・・・・・駅前の踏切2か所

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・・・・・・・・・・・・・駅北側の呑んべ横丁は静かに立ち退きか?

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・・・・・・・・・・・・駅南側の「立石仲見世」商店街。こちらは南側の再開発計画に盛り込まれている。 そろそろ立ち退きか? 駅前角の魚屋さんは元気なようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・同じく南側の「立石駅通り商店街」。こちらは元気な店が多く、商店街の雰囲気も出てるが、いずれ再開発となる予定。

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・・・・・・・・・・・・・・・そして、立石駅。

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2013年10月21日 (月)

大井町~大森

JR大井町駅から隣の大森駅まで、駅間距離2.2kmのルートを散歩。 東は東海道本線、西は池上通に挟まれた、大井4丁目、6丁目を、グニャグニャ、ジグザグ、行ったり来たりして、万歩計では1万2千歩、9kmの散歩となった。

①大井町駅・・・・・・・・・・・大正3年(1914)、京浜線(後に京浜東北線)の運行開始と同時に旅客駅として開業した。・・・・・・・・昭和2年(1927)には目黒蒲田電鉄(現:東急)大井町線が開業。平成14年(2002)東京臨海高速鉄道りんかい線の大井町駅が開業。・・・・・・・・1面2線の島式ホーム、脇には東海道線の上下2本の線路がある。ホームの上は駅ビル「アトレ」。

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②八幡屋・・・・・・・・・・大井4丁目「大井中央病院」近くの裏道に、創業60年を超える老舗の中華そば屋さんがある。白地に大きく「中華そば 八幡屋」の看板、いいね!・・・・・・・・・・店は80歳を超えたおばあちゃんが一人で切り盛りし、2年程前に火傷し休業中であった。 今日は9時前に来たので、開店前なのか?休業中なのか?どちらにしても、赤地に白抜きで「中華そば」の暖簾は出ていないね!

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③大井4丁目の裏道・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・チョイト、洒落たマンションだ!

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・・・・・・・・・・・・・・作守稲荷は、もともと薩摩藩抱屋敷内にあった屋敷神。

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・・・・・・・・・・・・・車はもちろん通れません! 外灯はつくようだ、でも痴漢に注意!

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・・・・・・・・・・・・・こちらの三社宮は屋敷神か? 

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・・・・・・・・・・・・・大正末期から昭和初期の建築と、私が推定した住宅。 1階の応接間と推定される部屋の窓上にはステンドグラスもチラッと見える。 住宅の裏手には鉄筋コンクリート造の古そうな蔵もある。

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・・・・・・・・・・・・・・東海道線の下を抜け、大井4丁目と南大井5丁目を結ぶ、歩行者専用の「関道地下道」。昭和42年(1967)の竣工。・・・・・・・・地上を走る東海道線は、踏切をなくすために地下道にしたのであろう? まさに地下にもぐるようなアプローチ!

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④西光寺・・・・・・・・・・浄土真宗本願寺派の西光寺は、弘安9年(1268=鎌倉時代)に開創した。 もとは、麻布善福寺末であった。・・・・・・・・・雨上がりの影響か、苔が綺麗であった。

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⑤光福寺・・・・・・・・・・・・・大井6丁目の光福寺は、延暦元年(782=奈良時代)、天台宗神宮寺として開創した、と伝えられている。・・・・・・・・・・境内の大イチョウは、高さ40m、幹周り6.4m、樹齢約800年で、明治時代までは東京湾に出漁する漁民の目印になっていた。 木もデッカイが、イチョウのおっぱいもデカイ!

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⑥S邸・・・・・・・・・・光福寺脇に建つ、昭和初期の木造住宅。 玄関のアーチが特徴的、庭木が茂り、全体が見えずチョイト残念だ。

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⑦飯野装芸・・・・・・・・・池上通に面して建つ大井5丁目の内装屋さん。木造3階建て+木造2階建て、モルタル塗り。一見、鉄筋コンクリート風の造り。 おそらく戦前の建物だろう?

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⑧来迎院・・・・・・・・・・大井6丁目の天台宗寺院の来迎院は、安和2年(969=平安時代)、南品川の常行三昧寺(現:常行寺)の僧が、現在地に鹿島神社と共に創建した。もとは、鹿島神社の別当である。

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・・・・・・・・・寺の前の道路工事により、境内が分断され、江戸時代の石仏が道路を挟み、門前に祀られている。

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⑨鹿島神社・・・・・・・・・来迎院と隣り合わせで、大井村の鎮守さまである鹿島神社がある。創建は来迎院と同じ安和2年(969)。・・・・・・・・・・昨日まで雨の中で、例大祭が行われていた、今日はその後片付けで、露店の屋台、神酒所、飾り物などの撤去が行われてた。 境内は洪水の後のように、泥でグシャグシャ、見るも無残な姿で、神社の神聖な雰囲気は消えていた!

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⑩大森貝塚・・・・・・・・・“日本考古学発祥の地”として、明治10年(1877)、アメリカの動物学者E・S・モースによって発見・発掘された縄文時代後期(約3000年前)の遺跡。・・・・・・・・その記念碑が、大田、品川の両区に300mの距離を隔て、それぞれ建てられている。 ここで問題、「なぜ、2つの区に記念碑が在るのでしょうか?」・・・・・・・・答え、「大森貝塚は両区の境に位置し、遺跡の在ったところが曖昧で、判らなくなったから」 モースは発掘報告書に貝塚の住所や地図を載せなかったため、いつの間にか大森貝塚の位置が不明となってしまった。 そして、昭和4年(1929)に今の大森貝塚遺跡庭園(品川区)に「大森貝塚碑」が、翌昭和5年(1930)には大田区に「大森貝墟碑」が建てられた。さらに、国は両方の碑を“国の史跡”に指定した。まさに、混乱状態となる。・・・・・・・・昭和52年(1977)、大森貝塚発掘時の「発掘補償金」に関する文書が見つかり、そこに記された発掘地の住所が、現在の大森貝塚遺跡庭園(品川区)の位置に該当し、これで“大森貝塚”の位置が明らかとなった。

・・・・・・・・・・・品川区大井の大森貝塚遺跡庭園の「大森貝塚碑」・・・・・・・・・碑は車窓から見えるように配されている。

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・・・・・・・・・・・・・・貝塚碑の近くには、モースの像もある。

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・・・・・・・・・・・大田区山王の「大森貝墟碑」・・・・・・・・こちらは、喧嘩に負けた駄々っ子のように、NTTデータのビルの裏でひっそりと東海道線の電車を見つめている。

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2013年10月18日 (金)

瑞江~小岩

都営地下鉄新宿線瑞江(みずえ)駅から北上し、総武線小岩駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①瑞江駅・・・・・・・・・・都営新宿線の船堀~篠崎間の開業に合わせ、途中駅として昭和61年(1986)同時開業した。 新宿線は都心から江東区大島までは幹線道路の下を走っていたが、荒川を渡り江戸川区に入ると終着の本八幡駅に向かい、マンション・住宅・畑の下を斜めに横切って走っている。・・・・・・・・・江戸川区内に設けられた、船堀、一之江、瑞江、篠崎の各駅の駅間距離は1.7kmと同じでである。 と言うことは、江戸川区内の線路の全距離(6.6km)を駅数(4)で、単純に分割して(6.6÷4=1.65)、駅の位置を決めたように推測できる。 私の鋭い推察だ!・・・・・・・・開通後30年近く経ったが、駅周辺には大型の集客施設はなく、活気のない駅である。

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・・・・・・・・・・・・駅の近くの瑞江2丁目の町。 今日は平日、時刻は9時、人も車も少なく、なんだかゴーストタウンみたいだ!

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②2本の京葉道路・・・・・・・・・・「京葉道路」は、墨田区両国から江戸川区篠崎までの国道14号(一般道路)と、江戸川区一之江から千葉市までの高速道路の2本がある。 その2本が交わるのは、江戸川区瑞江1丁目の交差点。

・・・・・・・・・・・・・・下の一般道路、上の高速道路、どちらも京葉道路だ!

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・・・・・・・・・・・・・・高速の下では、夫婦で畑仕事。 なんとなく、複雑な気持ちで眺める、私。

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③谷河内村の寺社・・・・・・・・・・京葉道路(一般道路)の北側は谷河内(やごうち)1丁目、2丁目村は京葉道路の南側にある。 江戸時代初期から谷河内村としてあったそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・妙泉寺・・・・・・・・日蓮宗の妙泉寺は、寛永11年(1634)、谷河内村に創建された。 弘化3年の火災、安政の大地震、大正6年の水害と、御難が続き、多くの記録・建物がなくなったそうだ。 現本堂は明治15年(1882)の再建。

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・・・・・・・・・・・・・谷河内日枝神社・・・・・・・・・神社の創建年代は不詳、江戸時代には谷河内村の鎮守さまであった。

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④鹿骨の町・・・・・・・・・・・・・・瑞江駅と小岩駅の中間の位置にある鹿骨(ししぼね)。 戦後、しばらくの間は、一面、畑が広がる農業中心の町であった。 現在はマンション・住宅が建ち並び、ところどころに、ビニールハウスが見え、さらに、マンション用地と思われる空き地・駐車場が点在する町となった。

・・・・・・・・・・・・・・耕運機で畑にお出かけ。

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・・・・・・・・・・・・・・ここにも、いずれマンションが!

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・・・・・・・・・・・・・・・ハウスの中は、都会産の野菜を栽培中。

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・・・・・・・・・・・・・江戸川区は高齢者が多く、老人介護施設も立派だ!

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⑤都営南小岩二丁目アパート・・・・・・・・・・・・・・・・昭和45年(1970)から10年以上に渡り、順次建てられた都営アパート。13棟、318戸の団地である。

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⑥中曽根天祖神社・・・・・・・・・・・・南小岩にある天祖神社で、天保年間(1830-1844)に改修した記録がある、江戸時代に祀られた神社。 広い境内は無人!

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⑦小岩駅南口・・・・・・・・・・・・南口はバスも停まる駅前ロータリーがあり、大きな商店街が3本放射状に伸びている。 小岩駅の表玄関である。 北口は裏木戸?

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2013年10月17日 (木)

戸越~大井町

台風も過ぎ去り、散歩には丁度良い気候となった。 都営地下鉄浅草線の戸越駅から大井町駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

①戸越八幡神社・・・・・・・・・・・・戸越駅から裏通りを東へ10分くらい歩くと戸越八幡神社がある。 大永6年(1526=戦国時代:千利休が生れた年)、諸国を行脚していた行永法師が村内の籔清水水源地で八幡様の御神体を見つけ草庵に祀り、その後、京都の石清水八幡宮の分霊を勧請して、共に祀ったのが創立の起源である。・・・・・・・・・鳥居から社殿まで、石畳の参道は長く、両側には緑が茂り、綺麗に清掃され、銀杏の臭いもなく、気持ちよく歩ける。 拝殿前では気分も良く、ついつい賽銭をはずんでしまった。 “シマッタ、お釣りを返して!”

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・・・・・・・・・・・・・現在の欅造りの社殿は、安政2年(1855=江戸時代)に入母屋造りで再建された。

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・・・・・・・・・・・・・境内の神輿奉安庫は、平成2年(1990)に建てられた、鉄筋コンクリート造、外壁は打ちっ放し仕上げのシンプルなもので、神社の雰囲気にピッタリだ!

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・・・・・・・・・・・・・神社の隣りには、別当寺であった行慶寺がある。

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旧三井文庫第二史料庫・・・・・・・・・・今年2月開園した「文庫の森」公園の一角に残る、大正11年(1922)竣工の三井文庫第二史料庫。 第二史料庫の前面に建てられ、渡り廊下でつながっていた、大正7年(1918)竣工の第一史料庫は取り壊された。・・・・・・・・現在は、品川区の防災備蓄倉庫となっている。 チョイト“倉庫”では勿体ないね!

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・・・・・・・・・・・・・・「文庫の森」公園の南東に「戸越公園 」がある。こちらも、“三井”にゆかりある公園。

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③日本音楽高等学校・・・・・・・・・東急大井町線下神明駅の近くに、明治36年(1903)に日本で最初の私立音楽学校として創立した全日制の女子高校がある。 新しい立派な校舎と道路を挟んだ向かいに、歴史のありそうな校舎があった。昭和初期の建物か(?)・・・・・・・・以前立ち寄ったときは、味の素の初代社長が住んでいたとか訊いていた。 その後、校舎について調べてみたら、味の素のうまみ成分であるグルタミン酸を発見した池田菊苗(1864~1936:戦前の化学者)の私邸だった。

・・・・・・・・建物は白亜の洋風建築で、中庭には小さなテラスもあったようだ。・・・・・・・・今は、庭にベートヴェンの像がある。

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・・・・・・・・・・・・・・現在は、1階・2階でレッスン教室が10室程ある。・・・・・・・学校の卒業生である、工藤静香、小向美奈子、泉ピン子、島倉千代子、松本めぐみ、牧村三枝子、弘田三枝子、榎本加奈子などが、この建物でレッスンを受けたのかな?

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④4層の立体交差・・・・・・・・・・東急大井町線下神明駅の近くで、見た目4層の立体交差が在る。構造的にはバラバラで、4層の構造物があるわけではない。最下層と第2層は「第2戸越架道橋」として道路上を横須賀線(品鶴線)が走り、第3層に東急大井町線、そして最上層に横須賀線の真上を新幹線が高架で走行する。・・・・・・・・新幹線、横須賀線、大井町線が一点で同時に交差する頻度を知りたくなるね!・・・・・・・・・ここも、私の好きな撮影ポイント。

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⑤豊町3丁目の路地・・・・・・・・・・・・・・・

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⑥下村踏切・・・・・・・・・・・どこにでもある踏切です。

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⑦下神明天祖神社・・・・・・・・江戸時代から蛇窪村(江戸時代の当地の地名)に鎮座していた天照大神を祀する天祖神社が、正保年間(1644~1647)に、立会川の上流地域と下流地域とに分かれるに伴い神社も分立し、下神明天祖神社(二葉1丁目)と近隣の上神明天祖神社(二葉4丁目)とに分かれたとされている。・・・・・・・・・・今日は50円のおみくじ(普通100円なのが半額、安い!)を引いてみた、“末吉”だ。 安いおみくじは“大吉”が少ないのかも? 『・・・・・ その内悪い運気去って 幸福の時が来ます』だってさ!

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⑧大井1丁目のアパート・・・・・・・・・・・・駅前ロータリーの裏側になる、この辺りは便利が良いのか、木造のアパートが多いようだ。 入り口に、チョイト古そうな『大井パート防犯協力会会員』の表示をしている建物もあった。

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2013年10月14日 (月)

目黒~戸越

目黒駅から、都営浅草線戸越駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

①目黒駅・・・・・・・・・明治18年(1885)3月1日、官設鉄道(新橋~横浜間)と日本鉄道(上野~熊谷)を結ぶ、日本鉄道品川線(品川~赤羽)が開通した。このとき、途中駅は渋谷、新宿、板橋の3駅のみ。 半月後の3月16日、途中駅として目黒、目白が追加開業した。 目黒駅は、池袋より早く開業した、古参の駅だ。・・・・・・・・・・大正12年(1923)には、目黒蒲田電鉄(東急目黒線)が開業し、平成12年(2000)には地下鉄南北線と三田線が乗り入れた。・・・・・・・・・大きな図体の駅となったが、掴みどころのない、魅力に欠ける駅だ。

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②行人坂・・・・・・・・・・・目黒駅からホリプロと大円寺の前を通り、目黒雅叙園に下る坂が行人坂(ぎょうにんざか)である。 由来は、『出羽湯殿山の行人がこのあたりに堂を建立したため この名で呼ばれるようになった』と標識に書かれている。 高低差30m程、長さ210mは、上りの人にはキツイ! 下りの人には足下注意!

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・・・・・・・・・・・・・・坂の上からは、はるかに目黒城(目黒エンペラー)が望める。目黒エンペラーは昭和48年(1973)にオープンし、世の話題となり一躍有名になった“元祖ラブホテル”。

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③大円寺・・・・・・・・・・・行人坂の途中に、寛永年間(1624~1644)に創建された、天台宗の大円寺がある。 明和9年(1772)の冬に出火した、明和の大火「行人坂火事」の火元となった寺である。・・・・・・・・・・・本尊は釈迦如来で、今日は本堂に隠れていた。 また七福神の一人、大黒天も祀られている。 境内には行人坂火事の犠牲者を供養する石造五百羅漢像が、それぞれ個性ある顔でずらりと並び圧巻だ。 像は全て江戸時代の作。・・・・・・・・・・さらに、江戸時代、放火事件をおこした八百屋お七の恋人・吉三の墓もある。お七の墓は文京区白山に在る。墓ぐらいは一緒にしてあげたいね!

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④東京電力下目黒変電所・・・・・・・・・・・行人坂を下ると、チョイト古そうな変電所がある。外装は塗り直されて、サッシは取り替えられているが、もしかしたら戦前の建物かも?

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⑤大鳥神社・・・・・・・・・・山手通りと目黒通りの交差点角に、かつての目黒村の鎮守さまであった大鳥神社がある。 創建は景行天皇(紀元前13年~130年)の時代と伝えられている。(由緒はあやしいね!)・・・・・・・・・現在の社殿は昭和37年(1962)にできた。・・・・・・・・・・私がこの神社を意識したのは、昭和40年頃、ラジオの交通情報で、たびたび、毎日のように、大鳥神社交差点の渋滞が伝えられたことだ。当時としては、PR効果は抜群だった!・・・・・・・・・“大鳥神社”と言えば、“お酉さま”だ。今年の酉の市は、11月3日と15日、27日の3日。 今年は“三の酉”まであるので、火事が多いかも? 商売繁盛と火の用心、ついでに恋愛成就を祷り、参拝を忘れず!

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・・・・・・・・・・・・・若い人の参拝も増えてきた。いい傾向だね!

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⑥蟠龍寺・・・・・・・・・・・山手通りに面し門があるが、本堂は100m程奥まった位置に在り、草木に囲まれ都会の中の静寂がある。浄土宗の蟠龍寺は、慶安元年(1648)に開創した称明院を、増上寺の高僧が宝永6年(1709)に霊雲山称明院蟠龍寺として改名再建した。・・・・・・・・境内の巌谷には石仏の弁財天が祀られている。

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⑦青木昆陽の墓・・・・・・・・・・・・山手通りから、私好みの裏道が見えた。 石畳風の裏道、奥には階段が、階段を上ると、そこは目黒不動尊の墓地! その一角に「青木昆陽の墓」がある。・・・・・・・・・青木昆陽、別名:甘藷先生。

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⑧目黒不動尊・・・・・・・・・・正式名称は天台宗の泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺(りゅうせんじ)である。大本堂は、急な石段を登った先に、さらに一段高い場所に建つ、入母屋造りの大規模な堂で、昭和56年(1981)鉄筋コンクリート造りで再建された。境内には、本堂以外にも多くの堂宇があるが、比較的新しい建物が多いようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・本堂の後ろには大日如来が祀られている。こちらにも参拝する人が、、、、、、アレ? 赤い服の娘は、さっき大鳥神社で合った娘だ! 神仏に頼み事とは、就活か? 婚活か? マァ、何でもいいか、詮索は止めておこう!

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●蛇足・・・・・・・・・・・瀧泉寺は不動明王を本尊とし、一般には目黒不動尊と呼ばれている。江戸五色不動の一つ。 五色不動とは、五行思想の五色(白、黒、赤、青、黄)にまつわる不動尊のことで、目白不動(金乗院)、目黒不動(瀧泉寺)、目赤不動(南谷寺)目青不動(教学院)、目黄不動(永久寺)、目黄不動(最勝寺)が該当する。

⑨氷川神社・・・・・・・・・東急目黒線不動前駅から、南東に100m程の地に鎮座する氷川神社。桐ヶ谷村(現在の西五反田)の鎮守さまとして、江戸期に創建された。現在の社殿は昭和13年(1938)に造営された。

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⑩西五反田の蔵・・・・・・・・・・・西五反田に建つ、極普通の大谷石の蔵で、昭和の造りのようだ。・・・・・・・・・・・今日の散歩は、選んで歩いたわけではないが、何故か寺社巡りとなり、寺社以外の建物が目に入り安堵した。

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⑪池上線・・・・・・・・・・・新桐谷橋で池上線を越えると、戸越駅はすぐだ!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・今日は、賽銭を配って歩いた日となり、懐も軽くなった。

2013年10月12日 (土)

青砥~亀有

京成本線青砥駅から、中川の右岸を上流の常磐線亀有駅まで歩いてみた。1万2千歩、9km。

①青砥駅・・・・・・・・・・京成線の押上~市川(仮駅)間が開業したのは大正元年(1912)で、このときは立石~高砂間には駅はなかった。昭和3年(1928)に日暮里~青砥間のルートの開設に伴い、分岐駅として立石~高砂間に青砥駅が開設された。 昭和48年(1973)からは、青砥~高砂間の複々線化・連続立体化工事に着手し、昭和61年(1986)に工事は竣工した。・・・・・・・・・駅は地上3階建てで、3階は下り線、2階が上り線で、それぞれ島式ホーム1面2線である。・・・・・・・・・現在、押上線の四ツ木~青砥間の連続立体交差化工事が予定されており、そろそろ着工するらしい。オリンピックまでに完成するか?

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②本田屋・・・・・・・・・・・“あおと”とは、大きな戸(渡し場・水門)で“おおと”と呼ばれていた、現在の亀有から青戸の地一帯を指す広い地名らしい。 そして、駅名は「青砥」で、地名は「青戸」と称している。  さらに“あおと”の地で、現在の青砥駅周辺は、本田中原(ほんでんなかはら)と呼ばれていた。・・・・・・・・・・・本田屋(ほんでんや)は青砥駅前の酒屋で、赤錆びが薄っすら浮き出た看板と、丸いランプがいい味を出している。 この建物は旧店舗で、コンビニ風の新店舗が右側に作られ営業している。

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③中原八幡神社・・・・・・・・・・本田中原の地名を引き継ぐ「中原八幡神社」。 神社は大永7年(1527=戦国時代:千利休が5歳の頃)に、青砥駅前の現在地に創建され、旧中原村の鎮守さま。・・・・・・・・・旧社殿の老朽化により、昭和56年(1981)、総工費5000万円で鉄筋コンクリートの現社殿に建て替えた。 チョイト、工事費がお高いようだね!

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③京成中川橋梁・・・・・・・・・・青砥~高砂間の中川に架かる橋梁。昭和48年頃に現在の橋梁に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・京成電鉄の社史「京成電鉄85年の歩み」に、載っていた大正元年(1912)、「中川橋梁上の1形1号車」

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・・・・・・・・・・・・・・中川橋梁の反対側(上流側)を望む

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東京慈恵会医科大学葛飾医療センター・・・・・・・・・昭和13年(1938)、結核の治療を目的として、大島貫一が開設した大島病院中川診療所が前身である。戦時中に、東京慈恵会医科大学の附属病院となり、戦後は総合病院となった。・・・・・・・・・・平成24年(2012)に現在の名称に変わり、建物も大病院にふさわしい姿となった。

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・・・・・・・・・・・・・・病院前から、秋風を通し、中川の対岸を望む

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・・・・・・・・・・・・・・ついでに、秋風が美味しそうな色をつけた

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⑤中川沿いの4寺・・・・・・・・中川と環七通りに挟まれ、青砥から亀有までの細長いエリアに寺が4か所ある。 それぞれ、特につながりがあるとは思えないが、南から順に訪問してきた。・・・・・・・・・・・・どこも、境内は広いが、建物には特徴がなく、私的には面白くないね!

・・・・・・・・・・・・・・法問寺・・・・・・・・慈恵医大医療センター前の浄土宗の寺。永禄2年(1559)創建。

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・・・・・・・・・・・・・観音寺・・・・・・・・・真言宗豊山派の寺で、天正4年(1578)に創建された。 現在の本堂などは昭和41年(1966)の新築である。

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・・・・・・・・・・・・・・延命寺・・・・・・・・・新義真言宗の延命寺の開創は嘉応元年(1169)である。 現本堂は昭和17年(1942)に建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・光明寺・・・・・・・・・・・慶長元年(1596)の創建。江戸時代の洪水で記録を失い、その由緒は不明。現本堂は昭和44年(1969)に新築した。

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⑥中川沿いの2社・・・・・・・・寺と同じエリアに神社が2か所。 こちらにもお立ち寄り。

・・・・・・・・・・・・・青砥神社・・・・・・・・・旧別当寺であった観音寺の近くに鎮座する青砥神社。天正4年(1576)の創建で、青戸村の鎮守さま。・・・・・・・・臭い! いよいよ銀杏の季節到来で、落ちた銀杏の掃除、『たいへんですね!』。 

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・・・・・・・・・・・・・亀有香取神社・・・・・・・・・・亀有駅に近い香取神社は、建治2年(1276)に創建され、江戸時代には亀有村の鎮守さまであった。・・・・・・・・神社の絵馬、境内の像、よく見るマンガの主人公だ。 そおです、ここは“亀有”だ!・・・・・・・・本日は境内に数軒の骨董屋さんが店を出していた。 何かめぼしいものはないか? ナント、電気機関車の模型が5000円であった、買うかと思って手に取ると、パンタグラフが無い! 即、止めた。

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⑦亀有食品市場・・・・・・・・・・・・・亀有駅南口の商店街の中程に、1軒の建物のような市場がある。三方から入れるY字型の通路に、八百屋、魚屋、惣菜屋など小さな店舗が数軒。狭い通路にはダンボールなども散乱し、一部店舗は閉ざされ、通路の上部は塩ビの屋根、2階にはトマソンのような意味のないドア、奇妙な空間の市場だ!・・・・・・・・・戦後間もない時期に建てられたのか?

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⑧駅前の両津さん・・・・・・・・・・・

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2013年10月11日 (金)

南千住~鶯谷

南千住駅から、荒川区の裏道を抜け、鶯谷駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。

①南千住駅・・・・・・・・・・・南千住駅は、明治29年(1896)に日本鉄道の駅として、田端~土浦間の開業時に設置された。 昭和36年(1961)、営団地下鉄日比谷線の南千住~仲御徒町間が開業。 平成17年(2005)、つくばエクスプレスの駅が開業。 現在は、3線が乗り入れる駅である。・・・・・・・・・駅の北側には日比谷線の千住検車区があり、東側にはJR貨物の隅田川駅がある。・・・・・・・・・昭和30年代の南千住には、盛土上を走る常磐線と、線路わきに小さな木造の駅舎がある、東京郊外の寂れた駅の光景があった。

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②南千住1丁目の裏道・・・・・・・・・車の入れぬ路地裏に、今も残る戦後の匂い

・・・・・・・・・・・・・・バイクで家々を巡り、広報誌の配達。 一人暮らしの老人の安否確認も同時に実施中!

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・・・・・・・・・・・・・道は綺麗に舗装された! 終戦直後は未舗装の裏道で、道の中央に洗面器を出し、床を貼り、ベーゴマを競った遊び場だったと思うよ!

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・・・・・・・・・・・・・路地の交差点に町内の掲示板があり、ここに訃報が貼られる前に、井戸端会議で町内中に、より速く伝わったであろう!

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・・・・・・・・・・・・・・木造の長屋も、ここでは健在なようだ!

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・・・・・・・・・・・・・路地の奥には、手押しポンプを備えた共同の井戸がある。 終戦直後は、井戸の周りには、割烹着姿のお母さんや、赤子をおぶったお母さんが、常時2~3人はいたであろう!

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・・・・・・・・・・・・・・下町の路地裏は道路際が花壇で、ポリバケツも立派な鉢となる!

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・・・・・・・・・・・・・豆腐屋さんは、豆腐づくりがすむと、油下を揚げる準備中!

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・・・・・・・・・・・・・・学校帰りの近道で、家の中からは広沢虎三の浪花節「清水次郎長」が聞こえてくる雰囲気の路地だ!

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③N邸・・・・・・・・・・・荒川1丁目に建つ、木造和風+洋風の住宅と蔵、さらに玄関まわりの煉瓦塀。大正~昭和初期の建築で、丁寧に使用されているようで、貴重な建物だ。

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④荒川区役所本庁舎・・・・・・・・・・・昭和43年(1968)に建てられた地上7階/地下1階建ての庁舎である。 他区の庁舎に比べても、けして大きくはないが、財政事情もあるのか、平成23年(2011)に耐震工事も終え、まだまだ利用するようだ。

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⑤三河島カトリック教会・・・・・・・・・・・・荒川区役所本庁舎前に、昭和46年(1971)に建てられた現教会。・・・・・・・・・・チョイト、内部を拝見してきた。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)、教会創立時の旧聖堂。

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⑥帝国湯・・・・・・・・・・東日暮里3丁目の三河島コリアタウンに、大正5年(1916)にこの地で創業した銭湯がある。現在の建物は昭和27年(1952)築の4代目で、破風様式の堂々とした造りだ。

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⑦御行の松不動尊・・・・・・・・・・・かつて根岸4丁目は「根岸の花街」として栄えた地である。 ここに、「御行の松不動尊」がある。 境内には「御行の松」と呼ばれた松がある。(現在は四代目の小さな松が植えられている) 「御行の松」とは、江戸時代に松の木の下で、寛永寺門主が行法を行ったことに由来するとも言われている。 あやしい由来らしい。・・・・・・・・玉垣には、花街時代の料亭・置屋・待合・芸子の名が見られる。

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⑧荒川区の秋・・・・・・・・・・・・・・・・

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2013年10月10日 (木)

恵比寿~目黒

山手線恵比寿駅から、隣の目黒駅まで、祐天寺経由で、1万3千歩、9kmの散歩です。

①恵比寿駅・・・・・・・・・・・明治34年(1901)、ビール出荷のための貨物駅として開業し、明治39年(1906)10月30日から日本鉄道にて旅客営業を開始した。 二日後の39年(1906)11月1日より国有化された。

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・・・・・・・・・・・・・駅近くのビル工事現場に貼られていた、昭和30年代の恵比寿駅の写真。 上の写真とほぼ同じアングルだと思うよ! かつては、盛土上のホームが駅舎の上に見えていた、今は駅ビルに覆われ見えなくなった。

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②村直工業・・・・・・・・・恵比寿南に、サッシなどは入れ替えられているが、戦前の住宅を事務所にしたような会社があった。・・・・・・・・・・玄関は個人住宅風の造りだ、2階には一部ステンドグラスもある。 建築年代が気になるね!

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③中目黒アトラスタワー・・・・・・・・・・・・中目黒の周辺を歩いていると、やたら目に入ってくる中目黒駅前の高級分譲高層マンション。 平成21年(2009)竣工、鉄筋コンクリート造、地上45階建て、総戸数う495戸、間取り:1R~3LDK、賃料:156,000円~800,000円。・・・・・・・・・もはや、町の景観の一部となっており、はたして周辺住民が好感を持って受け入れた建物なのか疑問だ!

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④船入場調整池・・・・・・・・・中目黒1丁目で川幅が広くなる目黒川の右岸に、船入場調整池がある。 目黒川の増水に備え、地下調整池が造られ、その上は公園となっている。・・・・・・・・ここ「船入場」には、昭和初期に水運のための川を切り開き、船をここまで入れたそうだ。

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⑤正覚寺・・・・・・・・・・船入場調整池、目黒区総合庁舎とは道路を挟み向かい側に、元和5年(1619)創建の日蓮宗の寺、実相山正覚寺がある。・・・・・・・・・境内は広く、近代的な檀信徒会館なども立派に整備され、儲かっていそうな寺だ。(失礼!)

・・・・・・・・・・・・・・山門

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・・・・・・・・・・・・・・本堂

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・・・・・・・・・・・・・・鬼子母神堂・・・・・・・・本堂より立派に見えるな!

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⑥中目黒八幡神社・・・・・・・・・・・創建年代は不詳の目黒村の鎮守さま。山手通りからは、南に入った小高い所に位置し、石段を少々上がったところにある。本殿・弊殿・拝殿の権現造りの現在の社殿は、昭和9年(1934)に建てられた。・・・・・・・・・神社は既に七五三の準備が整ったようだ! 

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⑦祐天寺・・・・・・・・・・・・東急東横線の駅名「祐天寺」の祐天寺です。・・・・・・・・徳川吉宗の時代、増上寺36代住持の祐天が亡くなり、弟子の祐海は目黒の朽ちていた善久院を百両で購入し住職となって、祐天の廟所と常念仏堂を建立する。 これが、祐天寺の始まり、時は享保8年(1723)のことである。・・・・・・・・・・賽銭箱には、各区各組の纏の図柄が描かれている。これは、祐天が増上寺住持のおり、寺内に火消しの制を設け、これがのちの江戸町火消の原型となったところから、火消し・消防と縁の深い寺とされているためだ。・・・・・・・・・駅名になる寺だけあって、大きい、広い、立派!

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・・・・・・・・・・・・・・本堂と賽銭箱

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・・・・・・・・・・・・・・・仁王門・・・・・・・・・創建時の建築

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・・・・・・・・・・・・・・阿弥陀堂・・・・・・・・・創建時のまま残る貴重なお堂

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・・・・・・・・・・・・・梵鐘・・・・・・・・・今でも、正午の時の鐘として撞かれている。

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⑧カーサ中目黒・・・・・・・・・・早稲田の和世陀(ドラード早稲田)を設計した梵寿綱の作品。総戸数13戸の小柄なマンションで、昭和49年(1974)に竣工した。・・・・・・・・あの独特のクセのあるデザインが一部に見られるが、全体的にはおとなしいようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・・駐車場の壁面

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・駐車場からの上がり口、チョイト怪しげなアプローチだ!

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⑨親爺殺しの坂・・・・・・・・・・目黒1丁目2番と3番の間にある坂。どうやら名前はついていないようだ。 勾配15%、長さ200m程の坂で、スキーのゲレンデを上っているような感じとなる。・・・・・・・・・今日は気温28℃で、上りきったら、汗グシャグシャ、心臓ドキドキ、息ゼイゼイ、若い娘に負けてオイ(老い)コラコラ。 私が坂の名を付ける「親爺殺しの坂」。

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2013年10月 9日 (水)

麻布十番~恵比寿

大江戸線麻布十番駅から、元麻布・南麻布の裏道をゴチャゴチャ、グルグル、ジグザグ歩き。 途中、10日ほど前に歩いた仙台坂上の安藤記念教会前に出てしまった。 その後、有栖川宮記念公園を抜けて恵比寿駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①十番稲荷神社・・・・・・・・・・・・十番稲荷神社は、末広神社(慶長年間創建:旧坂下町鎮座)と竹長稲荷神社(弘仁十三年創建:旧永坂町鎮座)が、昭和20年(1945)の戦災で焼失した為、戦後、現在地にて合併した。・・・・・・・・・現社殿は平成9年、鉄筋コンクリート造で建て替えられた。・・・・・・・・・・・・狭い境内で、神社の階段下には、港七福神の宝船や防火・火傷の守り神としてカエルの石像が安置されている。

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・・・・・・・・・・・・・・麻布十番の中央の多目的広場に、野口雨情:作詞の♪♪赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった♪♪の実在のモデル「きみちゃん」の像がある。   「きみちゃん」は、未婚の母の子として明治35年(1902)に生まれた。3歳の時、母と共に北海道に入植したが、子供には厳しい環境であったため、母はきみちゃんを米国人宣教師に託した。 宣教師が帰国するとき、きみちゃんは結核を患い、船旅ができず麻布十番の鳥居坂教会の孤児院に預けられた。そしてきみちゃんは、3年間の闘病生活の末、9歳という短い生涯を終えた。 しかし、北海道の母はきみちゃんが異国に行き、幸せな生活をしてると思い、知り合いの野口雨情に娘の話をした。 話に感動した雨情は、詩に綴り、童謡とした。 また、きみちゃんの死を知らず、母は昭和23年(1948)に他界した。 きみちゃんの真相が明らかになったのは、昭和48年(1973)、北海道テレビの記者であった菊池寛によるものだ。・・・・・・・・・・きみちゃんのいた孤児院は、現在の十番稲荷神社がある場所にあったそうだ。 また、きみちゃんの墓は青山霊園にある。・・・・・・・・・悲しいい、可哀そうな実話だ。

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・・・・・・・・・・・・神社前から鳥居坂の方角を望むと、今は六本木ヒルズが見える。

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②善福寺・・・・・・・・・・・・元麻布にある古刹は、天長元年(824)に空海によって開山した、浄土真宗本願寺派の麻布山善福寺。・・・・・・・・・安政5年(1859)には日米修好通商条約に基づき、境内にアメリカ合衆国公使館が設置され、タウンゼント・ハリスらが在留した寺である。・・・・・・・・・江戸時代の本堂は昭和20年の戦災で罹災し、昭和36年(1961)に東本願寺八尾別院大信寺の本堂を移築し、再建した。 移築した本堂は明和4年(1767)の建築である。・・・・・・・・・・・・・本堂の後ろに建つ元麻布ヒルズの敷地は、昭和58年(1983)までは善福寺の境内であった。 一部土地を売っても、今でも広い境内が残っている。羨ましいね!

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③まもなくハロウィン・・・・・・・・・・・・・・・・10月31日の晩はハロウィンだ、花屋の店先に、カボチャが並んでいる! 我が家では12月の冬至にカボチャを食べるが、ハロウィンとは関係ないね!

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④有栖川宮記念公園・・・・・・・・・・・・・・かつては、盛岡南部藩の下屋敷であったが、明治29年(1896)、有栖川宮(ありすがわのみや)の御用地となる。有栖川宮家が廃絶した後は、高松宮が後を継ぎ昭和9年(1934)に敷地を東京市に賜与し、記念公園となった。昭和50年(1975)からは港区に移管された。 起伏に富み、池もあり、緑豊かな広い公園。・・・・・・・・・周囲にはドイツ大使館をはじめ、多くの大使館が点在し、麻布の中心的な公園だ。

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⑤麻布南部坂教会・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)に竣工した、鉄筋コンクリート造3階の教会。 設計は滋賀県近江八幡で活躍し、メンソレータム(擦り傷、切り傷の薬)を日本に普及させた実業家でもあるウィリアム・メレル・ヴォーリズ。・・・・・・・・・私は10年程前に近江八幡に出向き、ヴォーリズの設計事務所、メンソレータムの会社「近江兄弟社」などを見てきた。近江八幡は、歴史があり、静かで、大変いい町だった! 町の名物、羊羹を竹の皮に包んだ“丁稚羊羹”を買い、ホテルで1本食べたら、胃がやたらにもたれたことを思い出す。(余談だ!)

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⑥瑞泉山祥雲寺・・・・・・・・・・地下鉄広尾駅から商店街を真直ぐ歩いて行くと祥雲寺の山門にぶつかる。 この寺も広い境内に複数の塔頭がある、大きな寺だ。

・・・・・・・・・・・・・・山門をくぐると、両側に塔頭が並ぶ参道

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・・・・・・・・・・・・・・緑の中に、静かに本堂が佇み、京都大徳寺の雰囲気だ!

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・・・・・・・・・・・・・歴史ある寺で墓地には、黒田長政の墓、九州諸大名の墓地群、曲直瀬流一門医師の墓、岡本玄冶の墓などがある。

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2013年10月 7日 (月)

小松川・大島

総武線平井駅で下車し、南下して都営新宿線東大島駅へ、さらに南下し東砂から西隣の北砂へ、今度は北上し大島を抜け総武線亀戸駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①平井駅・・・・・・・・・・明治32年(1899)、総武鉄道の駅として開業。・・・・・・・・・・平井駅周辺には、外から人を呼び込むような施設はなく、駅の乗降客も地元住民が大半を占めているようだ。 駅前には、恋人同士が待ち合わせするような大型商業施設もなく、特徴がないね!

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・・・・・・・・・・・・・・東京都建設局のHPに昭和24年(1949)のキティ台風で、駅が水没している写真があった。チョイト、拝借!(上の写真と同じアングルのようだ)

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②可否茶舗 儚夢亭・・・・・・・・・・・・平井駅南口の商店街を入ると、「可否茶舗 儚夢亭(ろまんてい)」なる喫茶店があった。・・・・・・・・・・朝、通勤通学の人だけが通る商店街で発見。まだ開店前で、シャッターは下りていたが、スイスの山小屋風でもあり珍しいのでパチリ!・・・・・・・・・調べてみたら、古い木造の建物を改造して昭和52年(1977)にオープンした、平井では一番有名な店で、店内はアンティークな家具・調度・置物で飾られているそうだ。 次回は営業中に来ることにしよう、乞うご期待!

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③機械油の匂いが残る平井・・・・・・・・・・江戸川区を東西に横切る京葉道路の北側に平井地区がある。 平井の町には、戦後の経済発展を支えてきた、町工場などがあり、まだ機械油の匂いが残されている。・・・・・・・・・私は機械油の匂いが好きで、、、、、、子どもの頃倉庫・作業場で遊んだこと、学生の頃大学で実験したこと、建設現場で仕事をしていたこと、懐かしくも楽しい思い出が浮かんでくる。

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④防災拠点の小松川・・・・・・・・・京葉道路の南側は小松川地区で、住宅や工場が密集していた町だ。 東京都は、昭和44年(1969)、広域の防災拠点として江東区の亀戸・大島地区と江戸川区の小松川地区を合わせ、98.6haにおよぶ「江東再開発基本構想」を策定した。小松川地区は計画に基づき、昭和59年(1984)から平成25年(2013)にかけ事業が進められた。・・・・・・・・今は、地区の中央に大きな公園を配し、周囲は高層住宅が建ち並んでいる! 公園は避難場所となるように、構造物はなく、一面芝で覆われている。・・・・・・・・・・・かつてのゴミゴミ・ゴチャゴチャ・ジメジメした工業地帯の面影はない!

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⑤東砂二丁目アパート・・・・・・・・・・・東大島駅の南側、東側に旧中川、北側に小名木川が流れる東砂2丁目に22棟(私の集計)のアパートが建ち並ぶ都営住宅がある。 都の資料では、昭和43年(1968)に竣工した「東砂二丁目アパート」1487戸と「東砂二丁目第2アパート」330戸、昭和44年~45年に竣工した「東砂二丁目第3アパート」164戸で、総数1981戸の団地。・・・・・・・・・・昼間は若い人もいない寂しい団地で、出会った人は、シルバーカーを押して歩くお年寄りだけ。

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⑥大島稲荷神社・・・・・・・・・・・大島5丁目、小名木川沿いに鎮座するのは、慶安年間(1948~1651)に創建された大島稲荷神社。小名木川近くの海辺が度々津波に見舞われて、耕地が荒廃し住民が苦しんだことから、お稲荷さんを祀り産土神とたことに始まるらしい。・・・・・・・・・・旧社殿は戦災で焼失し、現社殿は昭和42年(1967)に完成した。

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・・・・・・・・・・・・・神社前の小名木川

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⑦亀戸緑道公園・大島緑道公園・・・・・・・・・・・・京葉道路水神森交差点から、頭上を首都高7号線が走る堅川までが“亀戸緑道公園”。堅川から大島4丁目の明治通りまでが“大島緑道公園”。 2つの緑道は昭和47年(1972)に廃止となった都電29系統(須田町―浅草橋―錦糸町―水神森―境川―葛西橋)の専用軌道跡。 昭和54年(1979)に緑道として整備された。・・・・・・・・・・・・・・幼き頃、私は浅草橋から都電に乗り葛西橋まで、シジミ採りに父と行った記憶の残る路線だ。

・・・・・・・・・・・・・・専用軌道を走る都電

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・・・・・・・・・・・・・・・大島緑道公園

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・・・・・・・・・・・・・・・竪川には「堅川人道橋」が架かり、都電もそこを走っていた。

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・・・・・・・・・・・・・・現在は人道橋も撤去され、道路上にレールが埋め込まれている。

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・・・・・・・・・・・・・・緑道の端(亀戸側)に、かつて精工舎亀戸工場があり、現在は跡地にショッピングセンター「サンストリート亀戸」がある。

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2013年10月 6日 (日)

御殿山・高輪

午後から夫婦で秋の芸術鑑賞と思い、品川の「原美術館」へ出向いたが、『本日休館』の表示がありガッカリ。 近くをブラブラ歩き、グランドプリンスホテル高輪で、チョイト、体脂肪を増やしてきた。 1万歩、7kmの散歩。

①高山稲荷神社・・・・・・・・・・・・京急品川駅前、第一京浜に面したビルの間に紛れ込んだように小さな高山稲荷神社がある。 神社の創建年代は不詳だが、おおよそ500年前に現在の地に創建されたらしい。 当時、神社前(品川駅の場所)の一帯は一面が海で、高山稲荷神社は行き交う舟の目標になったそうだ。・・・・・・・・・・現社殿は昭和6年(1931)の建築、境内の狛犬は慶応元年の建立で、確かに古そうな神社だ!

 

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八ツ山橋交差点・・・・・・・・・・品川駅の海側に、ズラリと建ち並んだ高層ビル群。 京浜急行の電車が路面電車のようにも見える。

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③御殿山トラストコート・・・・・・・・・・・・平成2年(1990)竣工、地上25階建て、高さ:約100mの超高級庭園住宅。  敷地内には御殿山の趣を今に伝える日本庭園があり、最先端のオフィスビル、一流レストラン、高級シティホテルを備えている。・・・・・・・・・・私には、家賃が気になるので調べてみた。14階の2LDK(145㎡)で60万円/月らしい。 マルッキリ、話にならない、異国の話だ!

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④翡翠原石館・・・・・・・・・・御殿山の一角にある「原美術館」から100m程離れたところに、「翡翠原石館」がある。・・・・・・・・・建物は、イタリアのデザイナーが設計した、おしゃれなギャラリー風の建物。平成16年(2004)にオープンした、翡翠専門の私設ミュージアム。展示されている翡翠・勾玉・土器などは、会社社長の館長が30年ほどかけ自ら収集したそうだ。・・・・・・・・・・・・1階には、巨大な翡翠の原石が多数展示されている。奥には翡翠の原石をくり貫いた風呂もある。2階はいろいろな原石や加工品が展示され、その一角で紅茶のサービスをしてもらった。・・・・・・・・・・展示品を見ていると、新潟県糸魚川(姫川)に行くと、高価な翡翠の原石がゴロゴロしている錯覚に陥る。 一度、拾いに行ってみるか!

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⑤旧吉川英治邸・・・・・・・・・・原美術館から西側に2筋行くと、旧吉川英治邸がある。 明治25年(1892)横浜に生まれた吉川英治は、戦時中に青梅に疎開し、戦後、昭和28年(1953)に御殿山の地に移ってきた。 昭和32年(1957)まで、この家に住んでいた。 昭和37年(1962)、築地癌センターにて死去。・・・・・・・・御殿山の家は昭和8年(1933)に建てられた豪邸である。 現在は個人の住宅として、使用し残されている。.

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⑥旧竹田宮邸・・・・・・・・・・・・・・・明治44年(1911)、竹田宮恒久王(明治天皇の第6皇女と結婚)の邸宅として建てられた。設計は片山東熊+木子幸三郎+渡辺譲、施工は内省直営による、鉄骨煉瓦造2階建ての邸宅である。・・・・・・・・・戦後、プリンスホテルの所有となり、昭和47年(1972)に村野藤吾によって改修・復元された。 現在はグランドプリンスホテル高輪貴賓館となっている。・・・・・・・・・今から39年前、私ども夫婦はここで挙式を挙げた思い出の建物だ。 ホテルで『39年前と変わっていませんよ』と教えてくれたので、二人で一部屋ずつ見ながら思い出話にふけりながら、チョイト、中を覗いてきた。 

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2013年10月 4日 (金)

東武博物館

降るのか? 晴れるのか? はっきりしない天気の中、押上駅から歩きはじめた、東向島あたりで霧雨となり、雨宿りを兼ね東武博物館へお立ち寄り。 博物館を出てもかすかに霧雨が残り散歩は止め、京成曳舟駅から帰ることにした。 1万2千歩、9km。

①スカイツリー・・・・・・・・・・・・押上に来たら、まずはスカイツリーをパチリ。

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②圓通寺・・・・・・・・・押上の天台宗寺院、圓通寺は飛木山普門院と号してる。寺は応仁元年(1467=応仁の乱があった戦国時代)に創建された。 歴史は古いが、建物は鉄筋コンクリート造りだ!

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、明暦2年の銘がある地蔵菩薩も祀られている。・・・・・・・・・・かつて村落の村人により行われていた、庚申講・地蔵講などは消滅し、さらに都市化により、都心に残る地蔵さんは寺に行き場を求めているようだ! 

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③飛木稲荷神社・・・・・・・・・・・・鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れて押上のこの地に転住し、稲荷大明神を奉祀したことに始まると言い伝えられているそうだ。・・・・・・・・・・境内のイチョウの木は樹齢600年ぐらいと言われ、墨田区内では最古のイチョウの木と言われてる。

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④押上の裏道・・・・・・・・・・・・

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⑤東武博物館・・・・・・・・・・・東向島あたりで霧雨が私の顔に潤いを与えてくれた。 コリャ、ヤバイ、とりあえず東向島駅高架下の東武博物館に飛びこんだ。 さすがに平日の午前中、ガラガラの館内には、“待機児童”をつれたお母さんがポツリポツリ!

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・・・・・・・・・・・・・蒸気機関車 東武B1形 5号/6号・・・・・・・・東武鉄道が明治32年(1899)の開業のために、英国から購入した蒸気機関車。

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・・・・・・・・・・・・・ デハ1形5号電車・・・・・・・・・大正13年(1924)、浅草(現:業平橋)~西新井間の電化時に走った木造電車です。

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・・・・・・・・・・・・・ 電気機関車 ED101形101号・・・・・・・・・・昭和3年(1928)、英国のイングリッシュ・エレクトリック社製。東武鉄道では初の電機機関車。

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・・・・・・・・・・・・・東武1720系デラックスロマンスカー ・・・・・・・・・・昭和35年(1960)から平成3年(1991)まで、特急として活躍した。 私も、ワクワク、ドキドキして、何度か乗車した。

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・・・・・・・・・・・・・日光軌道線200形203号電車・・・・・・・・・・明治末に日光市内を走り、日光~馬返間に開業された路面電車。 昭和43年(1968)まで、日光市民の足として営業していた。200型は2車体3台車連接式の珍しい電車。 私が小学生の頃(1958年頃)、日光林間学校で田母沢に行ったが、その頃はまだ走っていたのを思い出す。

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・・・・・・・・・・・・・5700形5701号(ネコひげ)・・・・・・・・・・昭和26年(1951)、戦後最初に新造した日光・鬼怒川線特急車。  残念だが、私はこの電車に乗った記憶はない。

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・・・・・・・・・・・・・ED5015号 電気機関車・・・・・・・・・・昭和34年(1959)に製造され、東武東上線で貨物輸送に活躍した。

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・・・・・・・・・・・・・キャブオーバーバス・・・・・・・・・・昭和26年(1951)製、足利で活躍したバス。 この手のバスも懐かしいね。 小さい頃は一番前に乗りたくて前の座席に座るのだが(今でも同じだが)、エンジン部分の出っ張りが気になってたバスだ!・・・・・・・・・上野駅前を出発する草加行のバス。

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京成曳舟駅 ・・・・・・・・・・・・8月24日から上り線が高架に切り替わり、駅舎も上り線は新築の駅舎に変わったので、今日は新駅から乗車してみた。

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2013年10月 3日 (木)

竜泉

私の住む台東区は面積が23区で最小、区の中央部に浅草寺・上野公園があり、中央区・千代田区と接する南部と、荒川区と接する北部を、分けているようだ。 今日の散歩は、浅草寺の北側、日比谷線の三ノ輪駅に近い、台東区竜泉(りゅうせん)を歩いてきた。1万3千歩、10km。

“竜泉”と言えば、「樋口一葉」が住んでいた町で、吉原遊郭のあった千束(せんぞく)の隣り町でもある。

①エスペランサ靴学院・・・・・・・・・・・・・・東浅草の白い教会風建物は靴の専門技術学校。古そうだが、建築時期は不明?・・・・・・・・・エスペランサ靴学院は昭和48年(1973)、神戸レザークロス(株)によって設立された。 建物はどうも戦前からあるようだ。・・・・・・・・・・厚手のエプロンを身に着け、革を削り、革を縫い、靴を作る。 若い人の制作する姿は、カッコイイ、職人として修行の第一歩だ! でも、還暦過ぎた親爺にはできそうもないね!

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②東禅寺・・・・・・・・・・・東浅草にある曹洞宗の洞雲山東禅寺は、寛永元年(1624)に創建された。正面には江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が鎮座している。

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・・・・・・・・・“江戸六地蔵”とは、、、、、、、、、江戸深川の地蔵坊正元が、病気平癒に感謝して、多くの人々の浄財を集め、宝永3年(1706)に江戸の出入口となる街道の6箇所に地蔵菩薩像を造立した。第一番は東海道の品川寺、第二番は奥州街道の東禅寺、第三番は甲州街道ほ太宗寺第四番は中山道の眞性寺第五番は水戸街道の霊巌寺、第六番は千葉街道の永代寺である。(第六番は現存しない) 

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・・・・・・・・・・・・・ところで、なぜか六地蔵の左わきで、座して説教を聞いているように、“あんパン”の「銀座木村屋總本店」創業者夫婦(木村安兵衛、ブン)の像が建てられている。大正7年(1918)に建てられたようだ。(夫婦は東禅寺に埋葬されているらしい)

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吉原 ・・・・・・・・・・・戦前までは吉原遊郭として、“大人の遊園地”であった。(私は戦後生まれで、この遊園地で遊んだ経験はない!) 戦後は、遊園地が赤線となり、さらにオリンピック誘致とは関係ない“トルコ風呂街”となり、さらにさらに名は変わり“ソープランド街”となった。 日本全国のソープランド店舗数は1400軒程あり、ここ吉原にはその1割強の150軒が現在営業中らしい。(これも、私が数えたわけではないので、真偽は?)・・・・・・・・今朝も前を歩くと、怖そうなお兄さんが店の前から呼び止めるので、臆病な私はカメラを隠し、足早に立ち去ってきた。

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・・・・・・・・・・・・大門跡・・・・・・・・吉原の正面玄関で、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされた。江戸時代は木造のアーチ型楼門があり、明治時代には鉄門が築かれ。 写真は、大門があった場所で、吉原の中央を走る通りである。 両側はソープランドがギッシリ!

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④一葉記念館・・・・・・・・・・・吉原遊郭を舞台に、名作「たけくらべ」を書いた「樋口一葉」の文学業績を永く後世に遺すため、地元:龍泉寺町(現:竜泉)の人々の熱意で昭和36年(1961)に開館した。平成18年(2006)には、樋口一葉が新五千円札の肖像に採用されたことを機に、リニューアルオープンした。・・・・・・・・・・今日は、特別展 「樋口一葉の棲家」を見てきた!

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・・・・・・・・・・・・・一葉が住み「たけくらべ」を執筆した旧居跡の公園(記念館前)には、一葉を称える碑がたてられている。

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⑤飛不動・・・・・・・・・・龍光山三高寺正寶院が寺の名前。享禄3年(1530)に創建の天台宗の修験寺院。 本尊は木造不動明王坐像で、「飛不動(とびふどう)」の通称で知られている。由来は、昔、寺の住職が大和の大峰山に本像を背負って修行に行ったところ、江戸の寺では本尊が留守のため、お不動様の分身に祈った。すると、お不動様は一夜にして当地へ飛び帰り、人々の願いを叶えたと伝えられている。・・・・・・・お不動様が飛行機に乗って帰ってきたようなものだ!そこで、近年は航空安全の守護神として、「航空安全」、「飛行安泰」のお札、飛行機の入った絵馬などもある。

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・・・・・・・・・・・・・・・本堂は、只今、耐震工事中につき、一昨年の本堂の写真。

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⑥龍泉寺・・・・・・・・・・台東区竜泉(旧:龍泉寺町)の由来となった創建年代不詳の古刹。 龍泉寺は、真言宗智山派寺院で、東光山等印院龍泉寺と号す。・・・・・・・・・・本堂は鉄筋コンクリート造で古くはなく、境内はさほど広くなく、門は閉まり、手を合わせる気になれなかった。 親しみ難い寺だ!

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⑦千束稲荷神社・・・・・・・・・・・江戸時代四代将軍家綱の時代に創設された。当時の浅草は一帯を千束郷と称しており、その千束郷に祀られた稲荷社。・・・・・・・・・・千束稲荷神社は樋口一葉の「たけくらべ」では、子供達が遊んだ神社とし書かれている。・・・・・・・・・平成20年(2008)神社の境内に、「たけくらべ」に由来し、一葉の胸像が建てられた。 私的には、何となく気持ち悪い、チョイト好きになれない胸像だ!

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⑧日本堤の路地・・・・・・・・・・・台東区日本堤の路地には、両側に木造平屋の家がズラリ。 私の幼き頃、みんなで遊んだ路地裏が残っていた、懐かしい!

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2013年10月 2日 (水)

隅田川

台風22号の影響で昨日から雨であった。 今日も朝から雨、家内は朝から町内会の用事で外出した。 昼食後は石原裕次郎と三船敏郎の「黒部の太陽」を一人でビデオ鑑賞、戦後のトンネル工事現場がリアルに描かれ、現場の雰囲気を懐かしく思い出す、3時間半の観賞に多少疲れたが、最高傑作の一つだ。・・・・・・・・チョイト、涙で目が濡れるシーンもあり、恥ずかしいので、この手の映画は一人で見るものだ。 

夕方からは、台風一過の晴れも模様。 よし!スカイツリーを横目に、隅田川を見て来よう!

厩橋 ・・・・・・・・・・台東区蔵前と墨田区本所を結ぶ3径間下路式タイドアーチ橋。大正15年(1926)に着工し、昭和4年(1929)に竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・・厩橋から見るスカイツリー

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②駒形橋・・・・・・・・・・駒形橋は、厩橋の上流に架かる優美な姿のアーチ橋。大正13年(1924)に着工し、昭和2年(1927)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・・・・墨田区側の橋の袂に残る、昭和初期の交番

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・・・・・・・・・・・・・・交番前から見るスカイツリー

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吾妻橋 ・・・・・・・・・・・・・・次なる上流に架かる橋は吾妻橋(あづまばし)。 関東大震災の復興橋として、昭和4年(1929)に銭高組に発注され、昭和6年(1931)に竣工した3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋。

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・・・・・・・・・・・・・・・吾妻橋から見るスカイツリーとアサヒビール

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・・・・・・・・・・・・・・橋の袂から見る東武鉄道浅草駅

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④東武伊勢崎線隅田川鉄橋・・・・・・・・・・・・東武鉄道伊勢崎線(愛称:東武スカイツリーライン)を通す、中路カンチレバーワーレントラス橋。 昭和2年(1927)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の近く、墨田区役所前に建っている勝海舟の銅像・・・・・・海舟は墨田区両国に生まれ育った。 ついでに、私は台東区浅草橋に生まれ育った。

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⑤枕橋・・・・・・・・・・チョイト、隅田川から横に入り、スカイツリーの足下を流れる北十間川に架かる枕橋。枕橋は昭和3年(1928)に架けられた復興橋。

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⑥言問橋・・・・・・・・・・・隅田川に戻り、次は昭和3年(1928)竣工の言問橋。3径間ゲルバー鈑桁橋。・・・・・・・・・・特徴の少ない、印象も薄い、目立たない可哀そうな復興橋だ!

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⑦桜橋・・・・・・・・・・・隅田川の上でX字形に歩道が交差する歩行者専用橋。昭和60年(1985)、総工費28億円で、台東区と墨田区が折半で架橋した。・・・・・・・・この橋はライトアップしていたが、横から見ると細長く光の線に見えるだけだ。変化が欲しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・・スカイツリーを見上げると

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白鬚橋 ・・・・・・・・・・・本日の散歩の最後は白鬚橋(しらひげばし)。只今、耐震補強工事中につき、写真はチョイトだけ。 昭和6年(1931年)竣工の、鉄骨の重量感がひしひしと伝わる、やたら重たそうな橋だ。

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