浅草橋から市ヶ谷まで、靖国通り沿いに歩き、1万5千歩、11kmの散歩です。
①靖国通り・・・・・・・・浅草橋“駅”と町名の“浅草橋”は台東区、浅草橋の“橋”は台東区と中央区を結び、浅草橋“交差点”は中央区にある。 その浅草橋交差点は、江戸通り(日本橋方向)、江戸通り(浅草方向)、靖国通り、千葉街道、清洲橋通りの5叉路で、交差点も広く見通しが良い。・・・・・・・・・・関東大震災後、帝都を南北に走る昭和通りと、東西に走る靖国通りの整備は復興の目玉であった。靖国通りは、浅草橋交差点を始点に、新宿大ガード東交差点を終点とする、総延長11.2kmの都道である。 道路の元は大正時代に開通し、震災後に幅が広げられ、当時は「大正通り」と呼ばれていた。
・・・・・・・・・・・・・靖国通りのスタート地点「浅草橋交差点」

・・・・・・・・・・・・・新宿方向を望む

②鷹岡東京支店・・・・・・・・・・・・須田町交差点の一角に建つ鷹岡東京支店のビルは、昭和10年(1935)に建てられた、スクラッチタイル張りのモダンな建物だ!

③神田青果市場発祥の地・・・・・・・・・・淡路町交差点近く(須田町1-8)に、「神田青果市場発祥之地」の碑がある。 このあたり一帯には江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場があった。 約1万5千坪の広大な青物市場では、神田川による水運なども利用し、各地から優秀な青物が運び込まれ商われていた。 店は店員の住まいも兼ねており、多くの八百屋が集まった町のように見えたらしい。 関東大震災で市場は壊滅したが、ただちに復興したそうだ。 その後、昭和3年(1928)に秋葉原に移転し、平成2年(1990)には大田区へ移転した。

④駿河台下・・・・・・・・・・・・“駿河台”と言えば我が母校“明治大学”、“駿河台下”と言えば私の本屋“三省堂”。
・・・・・・・・・・・・・・交差点から明治大学リバティータワーが見える。

・・・・・・・・・・・・・交差点角には昭和56年(1981)に竣工した三省堂ビル。現ビルを建てる前は、3階建てくらいの建物だったと記憶している。正面玄関の右奥に木造の階段があり、歩くとギシギシ音がする、そして2階は教科書売場。英語が苦手の私は、教科書に付随した指導の手引書のようなものを買いに行った記憶が、頭の中にこびりついている。

・・・・・・・・・・・・“駿河台下”で忘れることができない場所は、人生劇場・神田日活(現:石井スポーツ)の間の路地を入り、一本目を右に曲がったところのあったスタンドバー「忍」です。 今は建物は残っているが廃業した。知ってる人いるかな? 40年前、京華高校学校時代の私的な思い出の場所です。

⑤神保町・・・・・・・・・・中・高等学校は文京区白山の私立に通っていたので、水道橋・神保町・駿河台は学校帰りの“お立ち寄り”処であった。 今でも残る懐かしい建物もある。
・・・・・・・・・・・・・廣文館書店・・・・・・・・・神保町交差点角に古くからある書店。昭和30年代は、まだ大型書店は無く。 この規模の書店が並んでいた!

…・・・・・・・・・岩波神保町ビル・・・・・・・・・・廣文館書店の向かい角に、昭和42年(1967)竣工した岩波神保町ビル。10階には「岩波ホール」という映画館がある。

・・・・・・・・・・・・・一誠堂書店・・・・・・・・・創業100年をこえる、神保町でも老舗中の老舗。初代が新潟・長岡で創業したのが明治36年(1903)。その3年後、明治39年(1906)に神田に移転した。専門分野は洋書を含めて文科系の古書籍全般。現在の建物は昭和6年(1931)に竣工した。・・・・・・・・私には敷居が高い書店である。

・・・・・・・・・・・・三鈴堂眼鏡店・神保町案内所・・・・・・・・・・靖国通り沿いに、大正14年(1925)に建てられた11軒の棟割り長屋で、現在は2軒のみ残っている。3階の丸窓は特徴的だ!・・・・・・・・写真左の三鈴堂眼鏡店は、明治12年(1879)創業の老舗だ。右は町の案内所として使用中。・・・・・・・・昭和40年代は、神保町の交差点を挟み靖国通り沿い東西に棟割り長屋が残っていたのを記憶している。11軒並んだ姿を想像すると、懐かしい昭和レトロの風が吹いてきた。

・・・・・・・・・・・・・・矢口書店・古賀書店 ・・・・・・・・・昭和3年(1928)の建築。木造3階建て、モルタル塗り。

⑥旧日本住宅公団本社・・・・・・・・・・・九段坂の中程、田安門前に旧日本住宅公団本社がある。 日本住宅公団(現:UR都市機構)は昭和30年(1955)に設立した。本社ビルは昭和37年(1962)に建てられ、建築当初はクリーム系の建物であったが、現在は東京理科大学が購入・改装し校舎として利用されている。・・・・・・・この敷地は旧陸軍将校の親睦団体・偕行社の跡地だ!


⑦旧松葉館(松岡九段ビル)・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)に松葉館という名前の旅館として九段坂上に建てられた。 戦前は九段下の軍人会館(九段会館)とともに多くの軍人に利用された高級旅館だったであろう。 斜向かいには陸軍の偕行社(旧住宅公団本社ビルの位置)もあり、まさに軍の町だった。・・・・・・・・・・・戦後は事務所ビルに改装し利用されている。現在は建物の外壁はパネルが貼られ、隠されてしまった。しかし裏手に回ると、丸みのある庇など当時の面影が残っている。・・・・・・・・・私の20~40代の勤務地はこの近くなので懐かしい思い、チョイト中を覗いたが、改装されていた。


⑧九段坂病院・・・・・・・・・・九段上に、大正15年(1926)に私立病院として創立し、戦時中は一時、国の所有となり、戦後は国家公務員共済組合の所有となり、現在に至ってる。・・・・・・・・・九段坂病院の本館建物は、岡田信一郎の設計で戦後建てられたが、老朽化が進み、建て替えも難しいことから、平成27年(2015)に九段会館隣の千代田区役所跡地に移転することとなった。・・・・・・・・・昭和48年頃、私の勤務先は九段坂病院の真前で、肝臓が悪化したときここで診てもらった。 医者から、酒はダメ、タバコはダメ、コーヒーはダメ、刺激物はダメと注意され会社へ戻り、“死んだらこれも天命”と開き直り、即タバコを吸い、コーヒーを飲み、昼食はカレーライスを食べた、思いでの病院だ! ついでに、引っ越し先の千代田区役所跡地は、大学の受験勉強で通い詰めた場所(当時は図書館があった)でもある。

⑨靖国神社・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・大鳥居・・・・・・・・大正10年(1921)、日本一の大鳥居として誕生したが、昭和18年に撤去された。現在の鳥居は昭和49年(1974)に再建された。高さは25m、笠木(横木)の長さ34m、重量は100トン。

・・・・・・・・・・・・・大村益次郎像・・・・・・・・・昭和44年(1969)、私が新入社員として、九段の会社に入社した時、 新人研修でこの像の台座に正座させられた、辛い思い出の像。

・・・・・・・・・・・・第二鳥居・・・・・・・・・・明治20年(1887)に建てられた、青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇る。

・・・・・・・・・・・・・・神門・・・・・・・・・・・昭和9年(1934)に建造された。中央の二つの扉には、直径1.5mの菊花の紋章が取り付けられています。


・・・・・・・・・・・・拝殿・・・・・・・・・明治34年(1901)の建造。

