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2013年12月

2013年12月31日 (火)

年納めのお礼参り

家族揃って蕎麦屋に寄り、その後は観音さま(浅草寺)へ、これにて本年の行事は全て完了。

①年越し蕎麦だ・・・・・・・・・・・・まずは腹ごしらえ、もりそば2枚、たくさん食べて、“細く長く”生きよう!

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②観音さまへ・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・雷門前は人出も多い、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・仲見世を行くカップルは、除夜の鐘まで時間繫ぎか?

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・・・・・・・・・・・・・・仁王門もライトアップ

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・・・・・・・・・・・・・・本堂前

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・・・・・・・・・・・・・・まだ晦日だ、お参りする人も少ない。 正月は天気もよさそうだ、お寺は賽銭に、乞うご期待!

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・・・・・・・・・・・・・・・賽銭箱は馬鹿でかいサイズで準備完了! この正月は、ガッポリ稼げそうだね!

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・・・・・・・・・・・・・・・五重塔もライトアップ。

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③今年の食べ納めは・・・・・・・・・お参り済んで、チョイト甘味処へ、“クリームあんみつ”で締めることに!

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④帰るぞ!・・・・・・・・・・仲見世を覗きながら、、、、、

・・・・・・・・・・・・・・人形焼買って帰ろうか?

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・・・・・・・・・・・・・・・チョット待って、記念に撮って貰いましょう!

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・・・・・・・・・・・・旅の疲れか? 眠たそう!

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・・・・・・・・・・・・・見てる方向が違うぞ! チョイト二人の距離が離れたか?

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・・・・・・・・・・・・・・・きび団子屋のお姉さん、売り手も買い手も粒ぞろい!

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・・・・・・・・・・・・・・・東南アジアの方かな? イスラムのスカーフがマフラーの代わりにもなりそうだ!

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●・・・・・・・・・・今年の雅万歩は、去年の“頭部の腫瘍事件”が春まで続き、 6月の“脱臼事件”で、年末までリハビリ通いとなり“ついてない”年だった。

・・・・・・・・・・・・最後の期待をかけた、「年末ジャンボ」にも裏切られた!

・・・・・・・・・・・・観音さまにも手を合わせ、来年に掛けるぞ!

2013年12月30日 (月)

京島

今日の我が家は年末の中休み状態である。 掃除・飾り付け・買い物は、昨日までにほぼ終わった。 明日は妻が重箱の中身を用意し、夕方からは年越し蕎麦を食べ・観音さまに一年のお礼参り・妻は「紅白」私は「ゆく年くる年」、そして今年も一年が終わるのだ。 私が生まれてから毎年続いている年末行事である。

散歩はスカイツリーの押上駅からお隣の京成曳舟駅まで、途中にある“京島(きょうじま)”地区の裏道・路地を歩き回り、下町の年末に触れてきた。 1万歩、7km。

東武亀戸線 ・・・・・・・・・・・・・押上駅方から歩いて亀戸線を越えると、“押上”地区から“京島”地区に入ることになる。 下町の町中を2両編成の電車がはしる、情緒ある、私の好きな路線!

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③京島2丁目・・・・・・・・・・緊急車両が入れるように道路幅が徐々に整備されてきたが、まだまだ木造家屋が多く残る「木造密集地域」である。

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④久しぶりに見ました、蕎麦屋さんの自転車での配達・・・・・・・・・・なぜか、嬉しくなったね!

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⑤コレマタ、懐かしい!・・・・・・・・・・・・タイルの流し、手押しポンプ、駄菓子屋

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⑥モルタル系の長屋も健在・・・・・・・・・かつては商店であったと思われる看板建築。

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⑦キラキラ橘商店街・・・・・・・・・・・京島3丁目の中央を横切る地域密着型の商店街。 シャッターの下りた店もあるが、まだまだ元気な店も多いようだ!

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京島3丁目 ・・・・・・・・・・・商店街の裏を歩くと、こちらも「木造密集地域」である。 道路幅が広がると、マンションも建ち、新築住宅も並んできた!

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⑨再開発の京島1丁目・・・・・・・・・京成押上線の高架化に伴い、京成曳舟駅も上り線は高架となり、駅前には広場が予定され、高層マンションも建設中。

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2013年12月29日 (日)

松坂屋上野店

いよいよ、今年もあと2日、我が家でも正月を迎える準備が進行中。 午前中、私の担当は、玄関先の掃除と松飾のセット、みかんの調達、散髪屋で頭の手入れ、そして、コーヒーブレイク。 午後は、妻のお供で上野へ、、、、、おせち、お年賀、祝箸、干支の置物、等々を購入、そして、妻はついでにカシミヤのセーターも、、、、、、と言うことで、今日は散歩はなし。

自由・気儘な“散歩”はなかったが、カメラ持参で、我が家から上野まで徒歩でお供した。1万歩、7km。

①路地裏のお稲荷さんに、一年のお礼を・・・・・・・・・・櫻稲荷神社

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②最初はおせちの材料を・・・・・・・・・・・只今、店舗建て替え中につき仮店舗で営業中の魚専門店へ・・・・・・・・・・オー~~、けっこう混んでるね!・・・・・・・・・のんびり写真撮ってると、『邪魔だ、馬鹿野郎~、唐変木!』と怒鳴られそうだ。

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③我が家御用達の百貨店の一つ・・・・・・・・・・松坂屋上野店

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・・・・・・・・・・・・・松坂屋上野店は、総事業費は約200億円で南館を建替え、平成29年(2017)に地上23階/地下2階の高層複合ビルに生まれ変わる予定だ。(本館は23億円で改装される。)・・・・・・・本館は従来通りの百貨店、新南館の地下1階は松坂屋本館地下と一体で食品フロア、1階から6階には「パルコ」が、7階から10階には「TOHOシネマズ」が、高層部の12階から22階までは賃貸オフィスとするそうだ。 (写真:手前が本館、奥が南館)

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・・・・・・・・・・・・・昭和32年(1957)にオープンした南館・・・・・・・・・・・内部は古さを感じない。

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・・・・・・・・・・・・・・本館と南館の連絡通路

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・・・・・・・・・・・・・本館は昭和4年(1929)の建築。 戦後の改修時に外装にパネルを貼り、南館と見た目を同じデザインにしているが、パネルを剥がすと昭和レトロの姿が蘇えるかも? 内部は建設時のデザインを残している、嬉しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・地下では、年始客に出すお菓子も買って・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・そうそう! 本館地下では階段を12段下ると、目の前が地下鉄銀座線の改札・・・・・・・・・・・

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④買い物済んで、ひと休み・・・・・・・・湯島天神下の和菓子さんで“クリームあんみつ”を・・・・・・・・・・えんどう豆が美味しいね! 

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2013年12月28日 (土)

神田川(後楽橋~江戸川橋)

三日前に、神田川沿いを最下流の柳橋から水道橋まで歩いたので、今日は続きを歩くことにした。 水道橋駅から江戸川橋駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

・・・・・・・・・・事前に神田川には橋が何か所あるか調べてみたら、神田川は三鷹の「井の頭恩賜公園」内の池を水源として、杉並区・中野区・新宿区・豊島区・文京区・千代田区・中央区・台東区を流れ、両国橋の上流で隅田川に合流する。 全長24.6kmの一級河川で、架かる橋の数は150橋程はありそうだ。 一日の散歩で20橋程歩いても7日以上を要するので、完全制覇するにはチョイト時間がかかりそうだ!・・・・・・・のんびり、じっくり、慌てずに、攻めることにした!

①後楽園ブリッジ・・・・・・・・・・水道橋の上流に架かる歩道橋。後楽園の場外馬券売り場(黄色いビル)へ御用のある方は、ビルと直結するこちらが便利です。・・・・・・・・・・神田川と外堀通りをまとめて越える超える、昭和39年(1964)竣工した、橋長89.78mの3径間連続PC有ヒンジラーメン箱桁橋。

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②後楽橋・・・・・・・・・・後楽園ブリッジが隣に完成するまでは、後楽園球場へ向かう人はこの橋を渡った。 関東大震災の復興橋の一つで、昭和2年(1927)に完成した、長さ21.0mの鋼橋です。

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・・・・・・・・・・・・・・後楽橋の上流、神田川(左奥の橋が後楽橋)と日本橋川(右へ流れていく)の分岐点。 中央の建物は、神田川・隅田川を利用し、ゴミを搬出するする運搬船に清掃車から積みかえる集積施設。 神田川は昔から東京のゴミ搬出に貢献してきたのだ。・・・・・・・・・右の日本橋川に架かるのは三崎橋。 昭和29年(1954)に架け替えられた、長さ27.0mの鋼橋。・・・・・・・・さらに、三崎橋の右に明治時代のワーレントラス橋として小石川橋通りガードが現存している。

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③小石川橋・・・・・・・・・・・日本橋川の分岐点上流に、平成24年(2012)に架け替えられた小石川橋がある。

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・・・・・・・・・・・・・ここから、神田川の頭上に首都高5号池袋線が走る。

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④船河原橋・・・・・・・・・・・・・外堀通り、目白通り、大久保通りが交差する「飯田橋交差点」に架かる船河原橋(ふなかわらばし)。 神田川は外堀通りの南側を上がってきたが、ここの交差点で、目白通りに沿って上がることになる。神田川が直角に折れて北上する。・・・・・・・・・船河原橋は交差点の中央で外堀通りを通す橋と、外堀通りから目白通りへ左折する部分に架かる橋の2本があり、共に船河原橋である。 現在の橋は、昭和44年(1969)に架けられた鋼製桁橋である。・・・・・・交差点が広く橋が架けられている感じがしない、存在感の無い橋だ。 まして、“飯田橋”交差点にあって、“船河原橋”と言っても、誰もピンとこないね!

・・・・・・・・・・・・・・神田川を下流から上がってくると、船河原橋をくぐりスグに右折し、外堀通りに架かる船河原橋をくぐることになる。

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・・・・・・・・・・・・・上から眺めると、、、、、、左上から神田川を上がってくると、赤い縞模様の船河原橋をくぐり、写真右の飯田橋の手前で右折し、外堀通りの船河原橋をくぐる。

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・・・・・・・・・・・・・・写真手前、外堀通りの船河原橋の下に顔を出す神田川。顔を出した直後に首都高が顔を踏みつけている!

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・・・・・・・・・・・・・・「飯田橋」も、駅前にしっかり存在している。下を流れるのは外濠。 昭和4年(1929)完成の鋼製桁橋。

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隆慶橋 ・・・・・・・・・・・・船河原橋の上流に架かる隆慶橋(りゅうけいばし)は、昭和10年(1935)前後に架けられた現存する鋼橋である。・・・・・・・・・ここから、神田川は文京区と新宿区の区境を流れ上ることになる。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の袂、首都高の下は屋台の駐車場? 衛生管理が徹底されているのか、屋台の周りにはゴミが落ちていない、屋台もスグに稼ぎに出られるように整備されているようだ?

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⑥新隆慶橋・・・・・・・・・・・隆慶橋の上流側に平成18年(2006)に完成した新しい橋。

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⑦白鳥橋・・・・・・・・・・・白鳥橋付近は、神田川が直角に近い角度でカーブするため、通称「大曲(おおまがり)」と呼ばれている。 私のおぼろげな記憶では、都電の停留所「大曲」がかつてあったと思う。 ここには明治時代に架けられた「大曲橋」があったが、その後架け替えられ白鳥橋となった。・・・・・・・・・コンクリート製の親柱が、チョイト古そうだ!

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・・・・・・・・・・・・・・・・昭和10年頃の白鳥橋

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⑧新白鳥橋・・・・・・・・・・・・川筋に対し斜めに架かる新白鳥橋。昭和46年(1971)完成。

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⑨中之橋・・・・・・・・・・この橋から江戸川橋にかけ同じような橋が続く。 どうも護岸整備などで架け直されたようだ?

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・・・・・・・・・・・・・・中之橋の前には、平成12年(2000)建てられた、地上21階建ての「トッパン小石川ビル」がある。 岡田新一の設計。 柔らかな曲面で構成されたデザインは、安らぎを感じるね!

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⑩小桜橋・・・・・・・・・・・ピンクの欄干は小桜橋。・・・・・・・・橋とは関係ないが、昭和30年代に映画・テレビで活躍した喜劇女優に小桜京子がいたね! 柳屋金語楼の姪で、面白い役者だったけど、知る人は少なくなった来た。

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⑪西江戸川橋・・・・・・・・・・・小桜橋に似た橋。

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⑫石切橋・・・・・・・・・・・・こちらはmグレーの色に塗られた橋。

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⑬古川橋・・・・・・・・・・・・平成19年(2007)頃、護岸工事が行われ、橋も架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・・小日向神社・・・・・・・・・・文京区小日向の高台にある神社。小日向神社は、近くにあった氷川神社(天慶3年(940)建立)と八幡神社(貞観3年(860)建立)を合祀して明治2年に小日向神社とした。 小日向の鎮守さま。

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⑭掃部橋・・・・・・・・・・・・こちらも、平成19年(2007)頃、護岸工事が行われ、橋も架け替えられた。

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⑮華水橋・・・・・・・・・・・・・こちらの華水橋(はなみずばし)も、最近架け替えられた橋だ。

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・・・・・・・・・・・・・・・華水橋の北の高台に上る坂の途中に、天台宗寺院の妙足院がある。妙足院は、寛文年間(1661-1673)に創建された。本尊の大日如来は、慈覚大師が唐で賜った像で霊験あらたかだと言われている。・・・・・・・小さな寺院で、通りすがりの私は、チョイトお立ち寄りしてきた。 賽銭を入れたら、丁度、住職らしき方がおられ、線香をつけ、リンを鳴らしてくれた。 私はあわてて、合掌! 合掌を終えると、御供物の落雁をいただき、恐縮する次第であった。 次回、訪ねたときは賽銭を奮発して、今日の10円から、100円にしよう!

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⑯江戸川橋・・・・・・・・・・・・・・都内では、チョイと知れた桜の名所だが、橋自体は極普通の新しい橋で、話題性が無いね!

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・・・・・・・・・・・・・・・鷺坂(さぎざか)・・・・・・・・・・江戸川橋の北東にある、チョイト情緒ある坂。坂の上は、住宅地で堀口大学(詩人・仏文学者)などが住んでいた。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって「鷺坂」という坂名がつけられた。 勾配は急であるが、江戸の香がする坂だ。

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・・・・・・・・・・・・・・江戸川橋の脇では正月飾りを売っていた。・・・・・・・・・私も帰って、そろそろ正月の支度にとりかかるか!

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2013年12月25日 (水)

神田川(柳橋~水道橋)

神田川に架かる橋を、我が地元の柳橋・浅草橋から順に上流へ水道橋まで歩いてみた。1万2千歩、9km。

①柳橋・・・・・・・・・・・神田川が隅田川に合流する、最下流に架かる震災復興橋。最初に橋が架けられたのは元禄11年(1698)で赤穂浪士討ち入りの4年前。・・・・・・・・現橋は昭和4年(1929)に架けられた。 橋の周辺は、江戸時代から戦後、私が女性に興味を持つ前までは、花柳界として情緒あふれる粋な街であった。

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浅草橋 ・・・・・・・・・・・江戸通りがとおる浅草橋は、江戸三十六門の一つ浅草御門で見付門といわれ寛永13年(1636=伊達正宗が死去した年)にできた。 現在は、橋のたもとに碑が立てられてる。・・・・・・・・・・・現在の橋は昭和5年(1930)に架けられた震災復興橋。

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左衛門橋・・・・・・・・・・JR浅草橋駅西口に近くに架かる、こちらも震災復興橋。昭和5年(1930)完成。・・・・・・・・・「左衛門橋」の名は、この橋の北詰(台東区側)に、慶長3年(1598)から明治維新までずっと、出羽鶴岡藩(庄内藩)の大名:酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があったことに由来する。

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美倉橋 ・・・・・・・・・・左衛門橋の上流に架かる美倉橋。こちらも復興橋で、昭和4年(1929)の架橋である。・・・・・・・・・橋の名は、近くに3つの倉があったことから「三倉地」と呼ばれていた。明治2年(1869)に“三”を“美”に改めて橋名とした。

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和泉橋・・・・・・・・・・・昭和通りを通す和泉橋は大正5年(1916)に架設された。昭和5年に架けられた復興橋という話もあるが、親柱に「大正五年三月完成」と記された銘板が残っている。 私の考えるところでは、架設は大正5年で、震災後昭和通りの拡張などにより、昭和5年に改修工事が完了したのであろうと推察する。・・・・・・・・昭和通りの中央を抜ける首都高が邪魔して、橋の景観も台なしだ! もっとも、橋自体にもデザイン的な特徴がなく、“景観”をとやかく言う必要もないか!

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⑥神田ふれあい橋・・・・・・・・・・・神田川に架かる東北新幹線の橋梁に、すり寄って架かる鋼鈑桁の人道橋。 新幹線工事の折りに工事用に架けられた橋を、一般の人道橋として転用したそうだ。 長さ:48.60m、幅:2.5m、平成元年(1988)架設。・・・・・・・・・通勤時はけっこう利用者が多い、便利な橋だ。

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・・・・・・・・・・・・・・神田ふれあい橋から眺める、柳原土手の柳森神社

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神田川橋梁(JR東北本線)・・・・・・・・・・・・JR東北本線の秋葉原駅~神田駅間に位置する橋梁で、現在は下流側から、東北新幹線、東北縦貫線(2015年開業予定の上野東京ライン)、山手・京浜東北線の8路線分である。・・・・・・・・この内、上流側のコンクリート造のアーチ橋は大正14年(1925)の架設である。・・・・・・・・写真奥から、新幹線、縦貫線、山手・京浜東北線のガード

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・・・・・・・・・・・・・万世橋から眺めた神田川橋梁。

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・・・・・・・・・・・・・関東大震災後の復旧工事、和泉橋から神田川橋梁を眺める

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万世橋・・・・・・・・昭和5年(1930)に架けられた復興橋。

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・・・・・・・・・・・・・旧万世橋駅跡の案内板にあった、昭和5年(1930)万世橋完成時の写真。「JK散歩」のない良き時代の写真だ! 

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⑨昌平橋・・・・・・・・・・現在の昌平橋は、大正12年(1923)の震災直前に完成したもので、昭和5年(1930)に修復工事と歩道の増設工事が行われた。 これにより、現在は左右の歩道部と中央の車道部で3本の並行するのアーチ橋が架かっているようだ。・・・・・・・・「昌平橋」の名は、寛政9年(1797)、上流に開設された幕府直営の昌平橋学問所(昌平黌)にちなんで付けられた。

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・・・・・・・・・・・・・・昌平橋の脇に小公園がある。 私のおぼろげな記憶では、この公園のあたりに、旅籠町(はたごちょう)の交番があった。 秋葉原青果市場(現:UDX)の近くに居た小学生前の御幼少の時期に迷子になり、ここの交番に保護されたのだ。 チョイト、苦い思い出だな!

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⑩神田川橋梁(JR総武線)・・・・・・・・・・・秋葉原を出た総武線が御茶ノ水の手前(昌平橋の上流)で、斜めに隅田川を越える。 手前の松住町架道橋(タイドアーチ橋)から神田川橋梁(鋼製ラーメン橋)に続き、大股を広げて神田川を跨いでいる姿は、迫力ある景観を演出している。 昭和7年(1932)頃の架橋。

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⑪神田川橋梁(東京メトロ丸の内線)・・・・・・・・・・・総武・中央線の下から顔を出し、神田川を越え丸ノ内線御茶ノ水駅ヘ向かう。 丸ノ内線御茶ノ水~淡路町間の開業は昭和31年(1956)で、橋梁も開業に合わせ完成したものと思われる。

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聖橋 ・・・・・・・・・・・・印象的なアーチ橋で東京名所だ。 昭和2年(1927)の完成。・・・・・・・只今、御茶ノ水駅バリアフリー化工事で、聖橋の下には架設の桟橋ができ、景観を壊しているが、チョイト辛抱してね!

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お茶の水橋・・・・・・・・・・旧橋は関東大震災によって焼失し、現在のお茶の水橋は、昭和6年(1931)に架設された。 橋の全景は聖橋から見ることができる。

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・・・・・・・・・・・・東京メトロ御茶ノ水駅・・・・・・・・昭和29年(1954)、帝都高速度交通営団丸ノ内線の駅として開業。 神田川の向け、緑の中にインターナショナル・スタイルのシンプルで洗練されたデザインの駅舎がある。

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⑭水道橋・・・・・・・・・・・震災復興橋として架けられた旧橋は、橋を渡る白山通りの交通量が多く拡張工事により、昭和36年(1961)に現在の橋に架け替えられた。・・・・・・・・・中央・総武線が走る新水道橋架道橋は明治37年(1904)の年代物だ!

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2013年12月23日 (月)

立石~小菅

京成押上線の立石駅から東武スカイツリーラインの小菅駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①立石駅北口・・・・・・・・・・・・・京成四ツ木駅から立石駅を間に青砥駅までの区間(約2.6km)の高架化工事が予定されている。 既に90%以上の用地取得も進み、着工待ちの状態だ!・・・・・・・・・・立石駅の北口側・南口側では、それぞれ再開発が予定されている。 その一つ北口再開発は駅前2.1ヘクタールに、葛飾区役所の20階建ての総合庁舎と、中央広場を挟み、41階建ての高層住宅が予定されている。 高層住宅は現在「呑んべ横丁」があるあたり、総合庁舎は駅前西側の飲み屋が密集するあたりで、かつて“赤線”があったところだ。

・・・・・・・・・・・・西側の出入口から駅を出て、駅前の細い路地を入っていく。

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・・・・・・・・・・・・スナックの白く塗られた円柱の“スソ”から、カラータイルがチラリと見え、コーナ部は丸みがあり角に扉があったような跡も見える。 「鳩の街」、「玉の井」にあった建物と同じだ!

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・・・・・・・・・・・・飲み屋街の中央に出る、さらに奥に進むと、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・狭い路地に扉が3か所の住宅。左右の扉は使用していないようだ。 赤線時代の建物は、各扉の前に女性が立ち客を引き入れた名残かも?

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・・・・・・・・・・・・・・“昭和の街”立石は再開発をめぐり賛否が分かれ、もめているらしい。

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②秋の名残の柿・・・・・・・・・・・・青空に葉は落ちて侘びしく残る路地の柿

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③水戸街道・・・・・・・・・・国道6号線て、こんなにガラガラなのか? と思ったが、今日は祭日でした。 毎日が日曜日になった元サラリーマンは曜日の意識が薄れたようだ!

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④曳舟川親水公園・・・・・・曳舟川の名前の由来は、綱をかけた小舟を川岸から引いて川を上ったことらしい。江戸時代は、帝釈天詣でにも利用されたそうだ。 明暦の大火(1657)後は、上水として本所の方まで水を引いていたが、今ではその必要もなく、葛飾区四つ木4丁目から亀有4丁目までの約3kmが、道路中央に親水公園として整備されている。・・・・・・・・池には水が無く、歩く人もいない公園。

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堀切菖蒲園駅・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)開業、盛土上につくられた京成電鉄本線の駅。・・・・・・・・・菖蒲の見ごろになると賑わう駅だ。

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⑦小菅1丁目の建物・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・まずは、東京拘置所 ・・・・・・・・・・内部は見学不可。 日本銀行にでも強盗に行けば、こちらの施設に泊めてくれるかも。

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・・・・・・・・・・・・・・・拘置所南側の旧水戸街道沿いには古い家が残っている。 その最初は、木造平屋の戦後の長屋。 お婆さんが玄関先を掃除中。

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・・・・・・・・・・・・・・太洋不動産(材木屋さん?)の古そうな煉瓦倉庫と磯川商事(不動産屋さん?)の木造の建物

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・・・・・・・・・・・・・・K邸の蔵・・・・・・・・・・・屋根下の妻の部分、窓廻りに煉瓦が見える、古そうな蔵。

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・・・・・・・・・・・・・・・草津湯・・・・・・・・・・・戦前から営業している銭湯。 建物は昭和31年築。

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・・・・・・・・・・・・・・草津湯の近くに残る下見板貼りの木造家屋。

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2013年12月22日 (日)

銀座

冬至の肌寒い一日であった。 陽の短い夕暮れ、クリスマスの飾りに誘われ、銀座まで散歩してきた。

①数寄屋橋交差点・・・・・・・・・・・・数寄屋橋交差点は、南にソニービル、東に不二家、北は数寄屋橋交番と東京高速道路とその後ろに有楽町マリオン、西には旧数寄屋橋阪急の跡地で建て替え工事中。

・・・・・・・・・・・・ソニービル・・・・・・・・・芦原義信の設計、大成建設の施工で、昭和41年(1966)に竣工した、スキップフロア(階段状の床)の地上8階/地下5階のソニーのショールーム。・・・・・・・・・竣工の翌年にショールームがオープンし、当時は入るのに行列に並ぶ状態であった。 『ソニービルに入って来たよ』は自慢できる言葉だった。 最近は話題性に乏しいね!

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・・・・・・・・・・・・不二家・・・・・・・・・・数奇屋橋交差点の店がオープンした年代は不詳だが、私が知る限りでは古そうだ。 50年程前は、ここの店と銀座4丁目交差点の店で、クリスマスになると店の前に山積みにした、30cm角ぐらいの白い四角い箱にバタークリーム(まだ生クリームない時代だ)のデコレーションケーキが入りリボンで結ばれて売られていた。 その脇には、ミルキーの入った大中小の長靴が並べられていた、私の幼き頃の懐かしい情景の思い出! 

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・・・・・・・・・・・・・・有楽町マリオン・・・・・・・・・旧朝日新聞、旧日劇、旧丸の内ピカデリーの跡地に建つ、複合商業施設。昭和59年(1984)竣工、設計・施工は竹中工務店。・・・・・・・・私の幼き頃の日劇は、笠木シヅ子の時代だった。 中学生の頃は、落語家:柳家金語楼の息子:山下敬二郎(私の母校京華中学の先輩)が活躍したロカビリーの時代。 大学生の頃は高級ストリップの日劇ミュージックホールの時代だ! いつも、思いである日劇だが、マリオンになると思い出が少ないね!

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・・・・・・・・・・・・・旧数寄屋橋阪急(モザイク銀座阪急)の跡地は、只今、建て替え工事中。跡地は地上11階/地下5階の商業施設ができる予定。平成28年(2016)の完成が待ち遠しいね! 乞う、ご期待!

・・・・・・・・・・・・・阪急跡地の隣りに「数寄屋橋公園」があり、ここに、あの名作『君の名は』の作者:菊田一夫の筆で「数寄屋橋 此処に ありき」と記した石碑が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・氏家真知子と後宮春樹が、再会を約束した数寄屋橋の写真(wikipediaより)。 後ろのビルは朝日新聞本社、左隣に日劇が建つ前の昭和初期に撮られた写真だろう。・・・・・・・・・橋は昭和4年(1929)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられ、昭和33年(1958)に橋下の外堀が東京高速道路の建設により埋め立てられ、取り壊された。 私が小学生の頃だ!

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②泰明小学校・・・・・・・・数寄屋橋公園裏の銀座のド真ん中に位置し、昭和4年(1929)に竣工した震災復興小学校。 カーブを描く壁面・庇やアーチ窓など、全体的に表現派風のデザインが特徴的である。・・・・・・・・・・300名強の生徒がいる小学校。ほとんどの生徒が学区外から通学しているようである。そうだろう、銀座に、こんなに子供がいるとは思えない!

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③銀座ブラブラ・・・・・・・・・・今日は、ロス・プリモスが歌う「たそがれの銀座」(昭和49年)を口ずさみながら(歌は天然の音痴で人に聞かせられないので、自分だだけで)・・・・・・・・♪♪ ふたりだけのところを だれかにみられ うわさの花が 咲く銀座 一丁目の柳が ためいきついて 二丁目の柳が ささやいた あなたの愛が 目をさます 銀座 銀座 銀座 銀座 銀座 銀座 たそがれの銀座 ♪♪

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・♪♪  数寄屋橋はきえても 銀座はのこる 柳とともに いつまでも 七丁目の酒場で おぼえたお酒 八丁目のクラブで 知った恋 あなたが夢を くれたまち 銀座 銀座 銀座 銀座 銀座 銀座 たそがれの銀座 ♪♪

2013年12月21日 (土)

日比谷・霞が関

三日間連続の雨は上がったが、散歩にはチョイト寒いかな? 昼から、有楽町で下車し、日比谷・霞が関を一回りして新橋まで、1万歩、7kmの散歩です。

①JR有楽町駅・・・・・・・・・・・明治43年(1910)、東海道本線の有楽町~烏森(現:新橋)間開業時に設置された駅。 開業時から煉瓦造りの高架駅である。

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・・・・・・・・・・・・・・有楽町中央口架道橋・・・・・・・・・・・中央口の脇に、煉瓦造りの架道橋がある。 ドイツ人技師:逓信省技術顧問のバルツアーが市街高架線の設計・施工を指導してつくりあげた架道橋で、関東大震災でも壊れることはなかった。 完成は明治40年(1907)である。 なお、高架橋の基礎には、松が杭として使用されていた。 隣りの東京駅煉瓦駅舎も当時は松杭であった。

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・・・・・・・・・・・・・有楽町駅銀座口の改札を入ったところに、「有楽大黒様」が祀られている。昭和初め、駅前の寿司屋の主人が秘蔵していたが、戦争末期に空襲を避けるため駅長に贈られた。商売繁盛の神として御利益があるそうだ。

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②日比谷のビル・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・東宝ツインタワービル・・・・・・・・・・昭和44年(1969)に竣工した、地上9階/地下4階、鉄骨鉄筋コンクリート造の賃貸ビル。・・・・・・・・・竣工時、私は社会人1年生。ビルの中には、オープン時からダンスホールがあり、レストラン街があったので、可愛い娘をみつけるために通ったことを思い出す。 当時は石井好子が経営するオムレツの店もあった。 オムレツの味より、女の子の味を知りたかったが失敗した!

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・・・・・・・・・・・・・日本生命日比谷ビル・・・・・・・・・日生劇場があるビル。 建築家:村野藤吾の代表作のひとつで、大林組:施工で昭和38年(1963)年竣工。・・・・・・・・・・日生劇場では昭和39年(1964)から、メセナ活動として都内の小学生を学校単位で無料で招待する、「ニッセイ名作劇場」を毎年実施している。私は当時すでに高校生で対象外であったが、妻や娘は招待され演劇観賞している。 年齢が解るね!

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・・・・・・・・・・・・・帝国ホテル新本館・・・・・・・・・ライトの設計で有名であった旧本館を取り壊した跡に、高橋貞太郎の設計により、昭和45年(1970)に竣工した新本館。 地上17階/地下3階、鉄筋鉄骨コンクリート造、客室数は772。・・・・・・・昭和58年(1983)には、西側に地上31階のインペリアルタワーが建った。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・旧日比谷電電ビル・・・・・・・・・・・昭和36年(1961)に、電電施設局建築部の設計、大林組の施工で竣工した、地上9階/地下4階建て、SRC造の現:「NTT日比谷ビル」。・・・・・・・・・建設当時、前の日比谷通りには都電が走り、この都電で、三田の手前「芝園橋」に英語を習いに通っていた、英語の苦手な高校生だったね、思い出すよ!

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・・・・・・・・・・・・・市政会館・日比谷公会堂・・・・・・・・・・・市政会館は、安田善次郎の寄付により昭和4年(1929)に竣工。内幸町側が“市政会館”で、日比谷公園側が日比谷公会堂として一体となった建物。階数は地下1階/地上6階、高さは塔屋最上階まで42m、外壁は約39万枚のスクラッチタイル貼り、元早稲田大学教授の佐藤功一が設計し、現在の清水建設が施工した。・・・・・・・・今だ、現役の公会堂として活躍中。 今日もコンサートがあるようだ。 私はしばらく御無沙汰しているね!

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③霞が関の建物・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・中央合同庁舎5号館・・・・・・・・・・・・昭和58年(1983)に竣工した、厚労省、環境省、内閣府が入っている庁舎。 地上26階/地下3階のSRC造で官庁では最初の超高層ビル。・・・・・・・・・・・デカイが味気ない!

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・・・・・・・・・・・・法務省・・・・・・・・・・・・建築顧問官であった、お雇い外国人のドイツ人:ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により、明治28年(1985)に完成した、ネオ・バロック様式の建物。関東大震災には耐えたが、昭和20年(1945)には戦災で一部焼失した。戦後、修復されたが、平成6年(1994)に本格的な復元工事の完成を見た。・・・・・・・・・・東京駅と同じように、貴重な文化財だ、今度来たときは内部を拝見したいね!

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・・・・・・・・・・・・・・警視庁本庁舎・・・・・・・・・・・・・昭和55年(1980)竣工の建物。 別に悪いことしていないが、なんとなく近寄りがたい建物だ。・・・・・・・・・・『7人の刑事』(1961~1969:TBS)を思い出した、旧警視庁の建物をバックに、ハミングの流れるテーマ曲はよかったね! 

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・・・・・・・・・・・・・・外務省・・・・・・・・・昭和35年(1960)に完成した北庁舎(地上8階/地下1階)と、昭和45年(1970)に完成した中央・南庁舎(地上8階/地下1階)、平成7年(1995)完成の新庁舎(地上7階/地下3階)の4棟で“ロ”の字型に配置されている。・・・・・・・・・・外務省脇の道は、人通りが少ないようだ、落ち葉が冬景色を演出していた。

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・・・・・・・・・・・・国会議事堂・・・・・・・・・・・・・昭和11年(1936)に帝国議会議事堂として建設された、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階/地下1階の建物。

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④日本水準原点標庫・・・・・・・・・・国会議事堂前庭に、建築家:佐立七次郎の設計で明治24年(1891)竣工した、建築面積約15㎡、高さ4.3m、ローマ神殿風の小さな石造りの建物がある。この建物の中に、水準点標が保護された状態で据えつけられている。 建物の三角屋根の底辺部分に、よく見ると菊の紋章と「大日本帝国」と刻まれている。

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⑤憲政記念館・・・・・・・・・・・国会議事堂前の憲政記念館には、議会制民主主義について知ることのできる展示施設がある。 無料なのに、見学者はいない! ゆっくり拝見して、知識を得たつもりでいたが、家に帰ったらすっかり忘れていた。 民主主義って難しいですね!

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2013年12月17日 (火)

羽子板市

今日から三日間、浅草寺で羽子板市。 我が家では、早速、「行ってみよう!」。・・・・・・・・・私が幼少の頃は「羽子板市」と称していたが、近頃は「歳の市」と呼んでいる。 60年前は、歌舞伎役者の絵柄の高級なお飾り用の羽子板だけでなく、板に“ぬりえ”の女の子を描いた安価なお子様用の羽子板も売っていた。 もちろん、羽・凧・独楽などの、正月用の遊び道具も売っていた、店の数も50年前に比べ、減ったようだ!  

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・・・・・・・・・・・・仲見世は、きび団子屋のお姉さん、おこし屋のおじさん、人形焼屋のお姉さん、みんな忙しそうだ!

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・・・・・・・・・・・・・・羽子板を手に持つ“日本”好きの外人。 “お賽銭”のマナーに考える外人。 大きな羽子板の前でポーズする外人。 みんな、私の好みのタイプ!

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・・・・・・・・・・・・・・羽子板で~す。 羽根・凧もありま~す。

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・・・・・・・・・・・・・・・売り手も買い手も美人。

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト高齢の和服姿の御婦人たち、ここは後姿をパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・お若い二方は記念にパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・・浅草での、ひと休みには、、、、、、、コレ!

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●・・・・・・・・・・・・我が家から往復2時間の散歩でした。

●・・・・・・・・・・・・去年の羽子板市

2013年12月16日 (月)

根岸

我が家(浅草橋)から上野を抜け、根岸4丁目・5丁目をウロウロし、南千住の泪橋(なみだばし)交差点まで、1万4千歩、10kmの散歩です。

①坂本小学校・・・・・・・・・・・・関東大震災で焼失・倒壊した小学校で、震災後、復興事業で建築された一連の小学校を“復興小学校”と称している。 大正13年(1924)から昭和10年(1935)にかけ、117校が建設された。 中央区・台東区を中心に20校程が現存している。・・・・・・・・・・その内の一校が、入谷鬼子母神の隣の旧入谷尋常小学校(現:坂本小学校)。大正15年(1926)の建築。・・・・・・・・・・・私の母校、柳北小学校も復興小学校で現存している。

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②根岸の建物・・・・・・・・・・・・・“金杉通り”沿いに!

・・・・・・・・・・・・・・中華料理光陽楼・・・・・・・・・・・銅板建築の2軒長屋

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・・・・・・・・・・・・・左側:小ぶりの土蔵造りの建物和泉屋蒲鉾店と右側:昭和4年(1929)建築の五十嵐提灯店・・・・・・・・・五十嵐提灯店は明治9年(1876)創業の老舗。・・・・・・・・・下の写真は3年前に撮影:写真右端の3段屋根の家は明治27年(1894)の建築。

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・・・・・・・・・・・・裏通りの蔵・・・・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・・鈴木食品工業 ・・・・・・・・・・・・安政年間(1854~1859)に創業した食品販売会社。 建物は昭和初期の頃かも?

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・・・・・・・・・・・・・・写真左:本藤理髪店と写真右:住宅(もとは蕎麦屋かも?)・・・・・・・・3年前頃から足場が架かり、どうなることか心配な建物だ。 この床屋さん、大正14年(1925)の創業で、内部はほぼ当時のままで、数年前まで営業していた。・・・・・・・保存して欲しい建物だね!・・・・・・・・・・2枚目、3枚目の写真は2010年撮影。

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・・・・・・・・・・・・・もと料亭?・・・・・・・・・・訪れるたびに減っていく、良き時代の建物。

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・・・・・・・・・・・・矢島写真館・・・・・・・・・・スクラッチタイルと赤い屋根が絵本の中の建物のように可愛いらしい写真館。 大正末期か、昭和初期の建物。 ウィンドの中に店主の閉館メッセージが、、、、、御苦労様でした! 寂しいね! 

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・・・・・・・・・・・・・・・愛隣保育園・・・・・・・・・・・・大正9年(1920)創立、根岸5丁目にある保育園。 歴史ある建物が消え、工事中の仮囲いがあるのみだ!・・・・・・・・・・壊された建物(2枚目の写真)は昭和2年(1927)に建てられた。(2011年撮影)

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●・・・・・・・・・・・・・大正・昭和の“根岸”は消えていく! 残念なり!

③小野照崎(おのてるさき)神社・・・・・・・・・仁寿2年(852=平安時代)、住民が小野篁(公家、歌人)を奉斎したのが起源である。 現在の社殿は慶応2年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲を免れた。・・・・・・・・・・・神社は初詣の準備中、忙しそうだ!

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2013年12月15日 (日)

市川市八幡

JR総武線本八幡(もとやわた)駅から歩きはじめ、脚本家:水木洋子邸では内部の見学だけでなく、案内していただいた方と世間話に盛りあがり、結局タイムオーバーで、散歩途中で帰宅することになった。 7千歩、5km。

①本八幡駅・・・・・・・・・・・・・昭和10年(1935)に総武本線の駅として開業。 京成の京成八幡駅とは、300m程離れ、両駅の中間に千葉街道が走っている。 また、都営地下鉄新宿線の本八幡駅はJRと京成の両駅を地下で結ぶような配置となっている。

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②京成八幡駅前の再開発事業・・・・・・・・・京成八幡駅の隣り、千葉街道と京成線に挟まれた一帯が再開発されている。 既に完成した、地上40階建ての住宅「グランドターミナルタワー本八幡」と、地上7階建ての「京成八幡ビル」、只今建設中の商業棟の3棟で構成される。・・・・・・・・・「京成八幡ビル」には今年9月に京成電鉄本社が押上から移転した。 私鉄の本社が都心から郊外に移転したのは、昭和63年(1988)に京王電鉄が新宿から多摩市に移転して以来のことである。 私鉄の本社は都心に位置する必要性が低いのかも? 

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③葛飾八幡宮・・・・・・・・・・・京成八幡駅の東にある神社。寛平年間(889~898=平安時代)に宇多天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請して建立された。 平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など関東武士の信仰を集めたらしい。

・・・・・・・・・・・・・鳥居の前を電車が通る

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・・・・・・・・・・・・・・入母屋・平入りの拝殿・幣殿・本殿の3棟を、入母屋・妻入りの縦の棟で串刺しにした権現造りの神社である。・・・・・・・下総の国の総鎮守として崇敬されており、手を合わせる地元の人が多いね!

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市川市中央公民館・・・・・・・・・葛飾八幡宮の参道脇に建つ木造二階建ての公民館。この建物は、もともとは旧国鉄信越地区自動車局長であった、新潟県柏崎市の小熊容徳の邸宅を解体移築したもので、昭和27年(1952)に公民館として開館した。 明治10年(1877)には、明治天皇が北陸巡幸の折に泊まった邸宅で、玄関・ロビーは当時の姿を残しているそうだ!・・・・・・・・・・・本日は内部も拝見。 玄関・ロビー以外は最近の造りで木肌もピカピカで、チョイト、ガッカリ!

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⑤S邸・・・・・・・・・・・八幡5丁目、洋風瓦の木製窓、チラリと目える古い洋館風の建物。

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⑥水木洋子邸・・・・・・・・・平成15年(2003)に92歳の生涯を閉じた脚本家:水木洋子の邸宅がある。 映画「ひめゆりの塔」、「浮雲」、「裸の大将」、テレビ「竜馬がゆく」などの作品がある。 明治43年(1910)生まれで、昭和22年(1947)から市川市八幡の住んだ。 死ぬまで暮らした市川市に、自宅、原稿、蔵書、著作権など一切を寄付したそうで、市ではサポーターにより遺品の公開を行っている。・・・・・・・・・今日、散歩で前を通ると、玄関が開いていたのでチョイト覗かしてもらうと、サポーターの方が数名おり、内部を案内していただいた。

・・・・・・・・・・・・・八幡のグネグネした裏道を行くと水木邸の前に出る。

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・・・・・・・・・・・・・まずは、玄関前から庭に出て、書斎のある南側からパチリ。・・・・・・老いた水木は、晩年一人暮らし12月の寒い時期に、浴衣姿・裸足で庭の草むしりしている姿を、近所の人に見られ、即刻老人ホームに入れられたそうだ。 多くの名作を生み出した偉大な脚本家も老いの病(認知症)には勝てなかった。

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・・・・・・・・・・・・・書斎にはを拝見。奥には、スグに寝られる造りつけのベッドもある。 “明治の女性”で自宅にいるときは着物姿が多かったそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・和室には当時の家具・調度がそのまま残されている。

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●・・・・・・・・・・・ひと通り拝見した後、サポーターの方と、戦後の話、市川に住んでいた永井荷風の話、墨東奇譚から娼婦の話、玉の井・鳩の街・向島の話、私の住む浅草橋・柳橋の話、、、、、、、、、いろいろ話題が移り、気づいたときはタイムオーバー。 午後から来客があるため、急ぎ帰宅する。

2013年12月13日 (金)

浅草

我が家から歩いて片道45分の浅草へ、いつものように散歩を兼ね買物です。 

①高いとこから“Wonderful!”・・・・・・・・・・浅草文化観光センターの8階の展望スペースからパチリ!

・・・・・・・・・・・・・・まずはスカイツリーを! お月さんも撮ってみたが、デカくならないね!

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・・・・・・・・・・・・・・仲見世と浅草寺。 

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・・・・・・・・・・・・・・国際劇場跡にたつビューホテル。左には、昨年完成した37階建ての高層マンションが見える。

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②外国からのお客様“Beautiful!”・・・・・・・・・・・私の個人的な基準で、、、、、ごめんなさい!

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③男性の観光客も・・・・・・・・・・・・・

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④五重塔・・・・・・・・・・・・・浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)に建立された。だがその後は、度々、倒壊・炎上し、直近では昭和20年(1945)に戦火により焼失した。 現在は、昭和48年(1973)に完成した、鉄筋コンクリート造、高さ53mの五重塔が建っている。

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⑤買い物も終わり、帰ろう・・・・・・・・・・・・・・

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2013年12月12日 (木)

押上~東向島

スカイツリーの真下「押上」駅から、東向島1丁目をウロウロ・ブラブラして「東向島」駅まで、8千歩、6kmの散歩です。

①スカイツリー・・・・・・・・・・・雲一つない青空の下、押上でスカイツリーを撮影。

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②秋葉神社・・・・・・・・・・・向島の秋葉神社は正応2年(1289=鎌倉時代)の創建。 江戸時代からの火伏せの神様で、周辺の氏子の家々には火伏のお守りが貼られている。・・・・・・・・・・・・・関東大震災および東京大空襲では被災し、現在の社殿は昭和41年(1966)に再建された。・・・・・・・・・社殿前の石燈籠は古く、将軍綱吉の寵臣:柳沢吉保の子の室、前橋城主:酒井雅楽頭忠挙、沼田城主:伯耆守本多正永などが奉納したものである。

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③鳩の街・・・・・・・・・・・・・墨田区向島と東向島の町境に細い「鳩の街商店街」がある。・・・・・・・・・東京大空襲では、近くの私娼街「玉の井」が焼けたが、鳩の街の辺りは空襲で焼け残った家も多かった。 戦後、玉の井の業者は、いち早くこの地に目をつけ、私娼街がこの地に移り始めた。 しばらくすると、進駐軍も出入りした鳩の街は赤線となり、警察は業者に建物の造りをカフェー風にするよう指導した。 その名残で、出入り口は狭く、円柱やコーナーに丸み持たせた外観、色タイルを貼った外壁の家が、現在も多少残っている。 昭和27年(1952)の頃には、娼家が100軒程、接客する女性が300人程いたそうだ。・・・・・・・・・・・昭和33年(1958)の売春防止法施行以後は、当然業者は廃業し、50年以上経過した現在、当時の面影は消えつつある。 

・・・・・・・・・・・・・車1台が通れる幅の鳩の街商店街の入り口が水戸街道(国道6号線)にある。

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・・・・・・・・・・・・・細長く延びる商店街は墨堤通りまでつづく。 下町の活気ある商店街も、いまはシャッターを下ろした店が多い。 今日の散歩は朝のため、まだ人通りもなし!

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・・・・・・・・・・・・商店街の古い店。 出桁造りの磯貝米店。 看板を下ろした柳澤理容店。 商店街の裏道に佐野屋エンドウ質店

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・・・・・・・・・・・・商店街の裏通りに残る娼家風の建物。 円柱にはタイル貼り、窓の庇にも洋瓦やタイル貼り。

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・・・・・・・・・・・・タイル貼りの円柱を白く塗った建物。

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・・・・・・・・・・・・こちらは、コーナーに丸みをつけた建物。

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・・・・・・・・・・・・3年前には、進駐軍向けに外壁に『OFF LIMITS』(立入禁止)と書かれた家も残っていた。(2010年撮影)

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④向島百花園・・・・・・・・・・・裏道から百花園の前に出たので、お立ち寄り。

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・・・・・・・・・・・・正月の彩として、「千両」と「万両」、「一両」、「十両」、「百両」の木を実物で見比べたが、私には識別不能と理解できた。 似た葉で、似た赤い実で、比べてもわからない、難しい。・・・・・・・・お札なら、千円札と一万円札、五千円札、全部識別できるのに!

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⑤セイコーミュージアム・・・・・・・・・白鬚橋東詰交差点の近くにある、時計のSEIKOの博物館です。 日時計から和時計までの歴史と、セイコーの創業から今日までの社史/製品を展示し、見ごたえがある。・・・・・・・・・見学記念に“おみやげ”として時計をくれると、うれしい“お・も・て・な・し”なのだが?

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2013年12月11日 (水)

山手

私の用事を兼ね、夫婦で横浜山手の西洋館を見て、元町で買い物をして来た。 1万1千歩、8km。

①山手の西洋館・・・・・・・・・・中華街・元町からは南側の高台に、フェリス、横浜雙葉など女学生に人気ある学校や、外国人居留地としての名残の西洋館が並ぶ山手地区を歩いてきた。・・・・・・・・・・山手の西洋館9カ所では、『世界のクリスマス2013』と名付け、各西洋館別に9か国の大使館の後援、デザイナー、家具メーカなどの協賛により、寝室・食堂から浴室までクリスマスの装飾で飾り付けられムード満点であった。 平日であり、横浜散策と食事会を兼ねた中高年のおばさんグループが多く、私たち若い夫婦(?)にとっては、ムードを壊す“おしゃべり鳥”で、チョイト迷惑な存在であった。

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・・・・・・・・・・・・ブラフ18番館・・・・・・・JR根岸線石川町駅ホーム南端から見えるトンネルの上に建つ西洋館の一つである。・・・・・・・・・・・建物は関東大震災後に外国人住宅として山手町に建てられた。 戦後はカトリック山手教会の司祭館として、平成3年(1991)まで使用された。 その後、横浜市が建物を「イタリア山庭園」へ移築した。

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・・・・・・・・・・・・外交官の家・・・・・・・・・・・・ブラフ18番館と同じ公園内にある外交官の家は、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などをつとめた明治政府の外交官:内田定槌の邸宅であった。 建物は渋谷区南平台に明治43年(1910)に建てられた。 設計はアメリカ人建築家として来日し活躍したJ.M.ガーディナー。 建物は木造2階建て、屋根は天然スレート葺き、外壁は下見板張り。・・・・・・・・・平成9年(1997)、横浜市は建物の寄付を受け、現在の公園内に移築した。 国の重要文化財。

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・・・・・・・・・・・・ベーリック・ホール・・・・・・・・・・・べーリック・ホール(旧ベリック邸)は、イギリス人貿易商:B.R.ベリックの邸宅として、アメリカ人建築家:J.H.モーガンの設計で、昭和5年(1930)に建てられた。 戦後は宗教法人カトリック・マリア会に寄付され、平成12年(2000)まで、インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていた。・・・・・・・・・この建物は庭園と合わせ、横浜市で整備し平成14年(2002)から公開されている。

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・・・・・・・・・・・・エリスマン邸・・・・・・・・・エリスマン邸は、生糸貿易商社の支配人であった、スイス生まれのフリッツ・エリスマンの邸宅として、建築家:アントニン・レーモンドの設計により、大正15年(1926)に山手の現在地の近くに建てられた。木造2階建て、屋根はスレート葺、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの洋館。・・・・・・・・・昭和57年(1982)マンション建築のため、建物は解体され、平成2年(1990)現在の元町公園内に移築された。

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・・・・・・・・・・・・・横浜市イギリス館・・・・・・・・・・・イギリス館は、昭和12年(1937)に上海の大英工部総署の設計により、鉄筋コンクリート2階建てで、英国総領事公邸として現在地に建てられた。・・・・・・・・・昭和44年(1969)に横浜市が取得し一般公開している。

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②カトリック山手教会・・・・・・・・・・・文久2年(1862=江戸時代末期)に我が国初のキリスト教教会堂が居留地に木造で建てられた。これが、山手教会の始まりである。 明治39年(1906)に現在地に移転し、煉瓦造りの教会が建てられたが、関東大震災で倒壊した。 その後、昭和8年(1933)、チェコの建築家:J.J.スワガーの設計により、現在の聖堂が鉄筋コンクリート造で再建された。・・・・・・・・・・重厚な正面のデザイン、鐘塔の鋭いとんがり屋根など、中世のゴシック風建築である。 内部は明るく、清らかな印象を受ける造り。 

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③横浜山手聖公会 ・・・・・・・・・文久3年(1863)、横浜居留地(現:中区山下町)に初代クライストチャーチの聖堂が完成した。 明治34年(1901)には、山手の現在地に建築家:コンドルの設計による聖堂が建てられたが、こちらも関東大震災で崩壊した。 現在の3代目となる聖堂は、昭和6年(1931)に建築家:J.H.モーガンの設計により建てられた。昭和20年(1945)の大空襲では聖堂内部を焼失したが、修復工事を行い現在に至っている。

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④横浜地方気象台・・・・・・・・・・気象台として明治29年(1896)に設立されたが、関東大震災によって建物は全て焼失したため、昭和2年(1927)に現在の鉄筋コンクリート造、3階建ての建物となった。 シンプルなデザインの建物だが、アールデコ風の造形が、玄関まわり、階段の天井・手摺など、建物のところどころに散見される。

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・・・・・・・・・・・・現在の気象台としての業務の多くは、隣の新館で行われている。計測器・パソコンが並ぶ現業室も拝見。 

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●・・・・・・・・・・・・・・散歩は「山手本通り」と呼ばれる道に面した建物を歩いたのだが、、、、、、『世界のクリスマス2013』が開かれている西洋館は、“おしゃべり鳥”がアッチャコッチャで3~4羽かたまっては鳴いていた。 “静かに祈りを”の教会、“気象の勉強を”の気象台、“保存のため拝観料を”の資料館などは、“おしゃべり鳥”が一羽も居らず不思議な社会現象がみられたね!  解るかな!?

2013年12月10日 (火)

市川

昼間は大雨、3時近くには晴れ間も見え、千葉方面からの帰り京成国府台(こうのだい)駅で下車してみた。 国府台駅からJR市川駅まで夕暮れのミニ散歩をした。

京成電鉄江戸川橋梁・・・・・・・・・・・・夕日を背にした橋梁が見られるかと思い国府台で下車してみた。 私の期待を裏切り、分厚いどんよりした雲が夕日の前に立ちはだかり、チョイトがっかりだ!・・・・・・・・・・・・・現在の橋は昭和54年(1979)に完成し架け替えられた。 橋長は433.2m、下路ワーレントラス橋。

・・・・・・・・・・・・国府台駅ホームから江戸川橋梁を眺める。

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・・・・・・・・・・・・・・夕日が顔を出さず、寂しいな!

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②夕暮れの道を駅へ向かう・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・市川春日神社・・・・・・・・・・・・創建年代は不詳。承応3年(1654=江戸時代前期)に再建されたと言われている。・・・・・・・・・・・雨上がりの境内には誰もいない!

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・・・・・・・・・・・・・・安国院・・・・・・・・・・・・元和2年(1616=大坂夏の陣の翌年)の創建、日蓮宗の寺。・・・・・・・・・・・・・・・・境内の桜が3分咲きぐらいか? 冬桜か? 狂い咲きか? 冬の夜桜見物もいいもんだ、できればお茶と団子も欲しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・・石井酒店・・・・・・・・・市川3丁目の、大正末期創業の地酒屋。 蔵元の人柄や酒造りの姿勢を見極め、地酒・地焼酎の銘酒を揃えた地酒屋だそうです。 私は酒が飲めず、折角だが店を見るだけ、残念! 店の雰囲気、いいね~~

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2013年12月 9日 (月)

三田

都営浅草線三田駅から、慶大のキャンパスをブラブラし、三田の町をグルグル歩き回り、芝公園をスタスタとおり抜け大門駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①慶應義塾大学・・・・・・・・・・・通勤のサラリーマンが行き交う、JR田町駅前の「慶応仲通り商店街」に入り、裏道をジグザグに歩くと東館の前に出た。 可愛い娘が構内に向かう、ヨシ、私も!久しぶりに大学の中を拝見しよう!

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・・・・・・・・・・・・・東館・・・・・・・・・・・平成12年(2000)に竣工した、9階建ての「東館」と呼ばれる校舎。銭高組の施工。 図書館旧館に合わせたデザインだ!・・・・・・・・・・慶應義塾は明治4(1871)に、芝新銭座から現在の三田の肥前島原藩松平家の中屋敷に移転した。屋敷の家屋を塾舎として利用したが、現:東館の建つ場所には、木造の黒塗り門があり、この門も義塾の正門として利用していた。・・・・・・・・・・つまり、東館は明治時代からの正門跡に建っているのだ。現在の正門は構内南側に移っている。 建物中央のアーケードが構内への入口。

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・・・・・・・・・・・・幻の門・・・・・・・・・・・東館の後ろにたつ図書館旧館ができた明治45年(1912)ころは、義塾の正門は依然として木造の黒門であった。 正門の老朽化により、大正2年(1913)、改造費2000円也で花崗岩の門柱と鉄門扉の洋風の門に改造された。・・・・・・・・・・「幻の門」の謂れは諸説あるらしい、その一つ、、、、、、酔った学生がふざけて夜中門標を持ち去り、いくら新しいものを設置してもそのつど盗られるので、ついには門標なしの門となり「幻の門」と呼ばれるようになったとする説。・・・・・・・・平成12年の東館建設で、幻の門は東館アーケードを抜け、左手に続く石畳の坂道の上にモニュメントとして移設された。 

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・・・・・・・・・・・・図書館旧館・・・・・・・・・・・福沢諭吉が慶應義塾を創設した安政5年(1858)から、50年目の明治40年(1907)に慶應義塾創立50周年記念事業として建設された図書館である。 設計はジョサイア・コンドルに建築を学んだ曾禰達蔵とその後輩:中條精一郎による、曾禰中條建築事務所が手がけた。・・・・・・・・赤レンガと花崗岩で美しく仕上げられた建物は記念館として印象的なものとなっている。 玄関ホールは重厚に造られ、玄関横の福沢諭吉像も満足げだ!

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・・・・・・・・・・・・・・塾監局・・・・・・・・・・こちらも曾禰中條建築事務所の設計で、大正15年(1926)竣工、鉄筋コンクリート造4階建ての建物。 スクラッチタイル張りの、落ち着いたデザインである。 義塾の運営を担う塾長室、総務部、経理部などの部門が使用している。

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・・・・・・・・・・・・・第一校舎・・・・・・・・・・・・昭和12年(1937)竣工、鉄筋コンクリート造4階建て。 スクラッチタイル張りの、シンプルな建物で、研究室として使われている。こちらも曾禰中條建築事務所が担当。

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・・・・・・・・・・・・三田演説館・・・・・・・明治8年(1876)に開館した、木造2階建て、我が国初の演説会堂。重要文化財。・・・・・・・・・・ナマコ壁の建築で、まだ江戸時代の匂いが残っている。 内部は木製の椅子が並び、教会の聖堂のようだ。

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・・・・・・・・・・・・・新萬來舎・・・・・・・・・・・・「萬來舎」は明治時代から義塾構内にあった談話室の建物である。 昭和19年(1944)戦災で消失してしまった。 昭和26年(1951)建築家:谷口吉郎、イサム・ノグチの合作により「新萬來舎」として再建された。 しかし、平成17年(2005)建っていた場所に南館が建設され、現在は南館屋上に移築されている。

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②旧三井家綱町別邸・・・・・・・・・慶應大の北側、三井家の賓客接待用の施設として、大正2年(1913)に竣工した。三菱の岩崎邸や、ニコライ堂を設計したイギリス人のジョサイア・コンドルがこちらも設計した。バロック(=彫刻や絵画、家具などが建物と一体となった総合芸術)風の建物で格調高い。・・・・・・・・・現在は三井グループの会員制倶楽部「綱町三井倶楽部」として、結婚式などで使用している。 ここで、もう一度結婚式してみたいね!

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③旧逓信省簡易保険局・・・・・・・・・・・・旧三井家綱町別邸の前の現:東京簡易保険事務センター。 三田の高台に、デンと構える役所建築。 設計は逓信省、施工は大林組、 昭和4年(1929)の竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・同じ敷地内の左側に、チョイト気になる建物がある。 戦前の建物のようだが、建築年代・用途とも不明? 

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④三田1丁目の建物・・・・・・・・・大使館、超高層マンションなどが周囲を囲む、三田1丁目の昭和レトロの匂いが残る町並み。

・・・・・・・・・・・・・龍原寺・・・・・・・・旧逓信省簡易保険局の近くの浄土宗の寺。弘化3年(1846=江戸時代)の再建。 本堂は土蔵造りで、土壁の上に、腰は洗い出し、上は漆喰塗りの仕上げ。 向拝の天井には龍が描かれ、 綺麗に保存されている。

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・・・・・・・・・・・・・龍原寺の裏道を行くと、細い路地・急な階段が現われ、風呂屋の煙突が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・旧小山湯・・・・・・・・・・・・・大正10年(1921)創業の古い銭湯だったが、残念なことに、平成19年(2007)に廃業した。 大正時代の建物は今も壊されずに残っている。

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・・・・・・・・・・・・小山湯の周辺は、今も昭和だ! でも、再開発の波は間違いなく来るだろう!

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・・・・・・・・・・・・日完工芸・・・・・・・・・・一角に残る木造モルタル塗りの建築。

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・・・・・・・・・・・・東京さぬき倶楽部・・・・・・・・・・香川県の宿泊施設で、ここの門と昭和初期の2階建て鉄筋コンクリート造の蔵はレトロだ。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・この後、芝公園を抜け大門駅へ・・・・・・・

2013年12月 7日 (土)

浅草橋~お茶の水

我が家(浅草橋)から御徒町・東大を抜け、本郷の裏道をチョイト覗いて御茶ノ水駅まで、1万6千歩、12kmの散歩です。

①台東区台東の建築・・・・・・・・・・・御徒町駅に近く、昭和通りの東側で春日通りの南側の一帯が台東区台東の町である。 東京大空襲の被災を免れた家も多く、戦前の建物も多く残されている。・・・・・・・・・・・通りがかりにパチリ。

・・・・・・・・・・・・・・モルタル系の5軒長屋・・・・・・・・昭和15年(1940)頃の建物。 右端は森永牛乳の店であった。 2階には錆びたエンゼルマークと、森永マミーの球形の看板が残されている!

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・・・・・・・・・・・・・・台東製作所・・・・・・・・・2階建ての鉄筋コンクリート造で、3階部分は後の増築らしい。昭和初期の建築と思われる。

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・・・・・・・・・・・・木造の住宅もある。 チョイト古そうだが、玄関先の鉢植えは綺麗に手入れされているね!

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・・・・・・・・・・・・・3軒長屋・・・・・・・・・・この手の長屋は私の住む台東区には多い!

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②堺屋酒店・・・・・・・・上野仲町通りに、震災後大正末期に建てられた堺屋酒店のビルがある。 外装のスクラッチタイル、丸窓、窓廻りのテラコッタ、スペイン瓦、そして、特徴ある書体の店名、いずれもが建物のイメージを印象的なものとしていた。・・・・・・・・・・今日、前をとおりビックリ! 似て非なる建物に変身していた。・・・・・・・・・よく見れば、全ての材料・材質が違い、色も質感も変わり、重厚さは無くなり、ハリボテとなった。 タラバガニもどきのカマボコと本物のタラバガニの違いだ! 

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・・・・・・・・・・・・昨年2月撮影の本物のタラバガニ

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③黒沢ビル・・・・・・・・・・・・堺屋酒店と同じ仲町通りに建つ昭和モダンな黒沢ビル。 こちらは本物のタラバガニだ。安心した!・・・・・・・・・・・昭和5年(1930)竣工、鉄筋コンクリート3階建ての医院。国の登録有形文化財。 窓は3階の半円の庇を頂点に垂直に下がる細長い矩形でデザインされ、昭和モダンの雰囲気を表現している。 1階部分の鉄平石張り、玄関上のステンドグラス(大正時代の工芸家:小川三戸知作)は見事!・・・・・・・・・・・歯が痛くなったら、一度、ここの歯医者に来てみたいね。

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④不忍池・・・・・・・・・・秋から冬に衣替え!

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東大・・・・・・・・・今日は、建物を見ず、イチョウの黄葉を見て帰ることにした。 (6月の東大はこちら)

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⑥本郷の建物・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・徳田秋声旧宅・・・・・・・・・明治38年(1905)から亡くなる昭和18年(1943)まで住んだ旧宅。 今も子孫の方が住み、内部は非公開。

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・・・・・・・・・・・・木造住宅Y邸・・・・・・・・・・戦前から戦後に多く見られた木造住宅

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・・・・・・・・・・・・・太栄館・・・・・・・・・・修学旅行で泊まった人もいるだろう!

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・・・・・・・・・・・・・鳳鳴館本館・・・・・・・・・・こちらも旅館、最近は外人客も多いようだ。 明治30年代に建てられた建物は国の登録有形文化財。

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・・・・・・・・・・・・万定フルーツパーラー・・・・・・・・・・TV・雑誌でおなじみの喫茶店。創業は大正3年(1914)で、今の建物が昭和3年(1928)。 元々は果物屋さんだったそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・南陽堂・・・・・・・・・・・・・小柄であるが、くっきりとしたデザインのモルタル系の看板建築である。 「貸店舗」の張り紙が貼られている。

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・・・・・・・・・・・・・・求道会館・・・・・・・・・・明治35年(1902)に欧州留学から帰国した真宗大谷派の僧近角常観が、青年らと信仰体験を語り継ぐ場としてここに求道学舎を開き、大正4年(1915)に信仰を説く施設としてこの会館を建てた。 仏教の“教会建築”だね!

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・・・・・・・・・・・・・・求道学舎・・・・・・・・・・求道会館の裏手に大正15年(1926)に建てられた近代学生寮。 求道会館とともに建築家:武田五一(1872~1938)の設計である。・・・・・・・・最近、リフォームされリノベーション住宅として使用されている。 

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⑦清水橋・・・・・・・・・本郷と西片の高台を結ぶコンクリート橋。橋は明治13年(1880)に開通したが、大正時代に現在の橋に架け替えられたそうだ。

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2013年12月 6日 (金)

新金貨物線(高砂~新小岩)

一昨日の続きで、京成高砂駅から総武線新小岩駅まで、新金貨物線に沿って歩いてきた。1万4千歩、10km。

①京成本線と交差・・・・・・・・・・・・新金貨物線と京成本線が交差する、高砂の大光明寺の裏。

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・・・・・・・・・・・・・ついでに、上の写真の左側に架かる京成本線中川橋梁(昭和48年竣工)をパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・さらについでに、京成中川橋梁の下流に、青戸と高砂を結ぶ高砂橋もパチリ!・・・・・・・・・・昭和7年(1932)に架けられ、平成15年(2003)に現在の橋に架け替えられた。 橋の長さ186.5mの2径間連続斜張橋(塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造の橋)である。・・・・・・・・・・シンプルで美しいね!

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②耕道踏切・・・・・・・・・・・・高砂2丁目の小さな踏切。 名前から、耕運機が走るあぜ道だったのかも? 絵になりそうだ!

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③新中川・・・・・・・・・・中川は埼玉県羽生が源で、幸手、春日部、三郷と流れ葛飾区に入る。・・・・・・・・・・葛飾区では高砂橋から少々下ったところで、中川と新中川に分岐する。

・・・・・・・・・・・・・分岐点からみる高砂橋。

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・・・・・・・・・・・・・・中川は中央奥へと流れ下る。新中川(旧中川放水路)は手前を流れる。

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・・・・・・・・・・・・・・・昭和13年(1938)、東京東部で6万戸の被害を発生した浸水を教訓に中川の改修工事が計画されたが、戦時で中断された。 戦後、昭和22年(1947)なカスリーン台風で再度浸水し、昭和24年(1949)中川放水路(新中川)の開削が着工された。昭和38年(1963)放水路は完成し、めでたし、めでたし!・・・・・・・・・・私が中学生の時、この掘削工事を見た記憶が鮮明に残っている。当時は民家はまばらで、田畑の中の工事だった。まだ通水されておらず、川底が見える状態で掘削していた。 土木工事に驚嘆した最初の出来事だったかも?

・・・・・・・・・・・・・・・貨物線沿いの、新中川(中川放水路)の上流4橋。 いずれの橋も、後に人道橋が架けられ、人車分離となった。 これらの橋は、新中川掘削工事に伴い架橋されたものである。・・・・・・・・・最初は高砂諏訪橋・高砂諏訪橋人道橋・・・・・・・・昭和36年(1961)架橋。後に、下流側に人道橋が架けられた。

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・・・・・・・・・・・・・・次は、高砂諏訪橋の下流に架かる細田橋・細田橋人道橋・・・・・・・・・昭和35年(1960)の架橋。お隣の人道橋は、昭和54年(1979)の架橋。

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・・・・・・・・・・・・・・・次は三和橋・・・・・・・・・・・・・・旧三和橋は、昭和36年(1961)に架けられ、後に人道橋も架けられた。 しかし完成から約50年経過し劣化も進み、平成24年(2012)、現在の橋に架けかえられ、旧橋は人道橋も含め撤去された。

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・・・・・・・・・・・・・・次は八剣橋・八剣橋人道橋 ・・・・・・・・・・・昭和34年(1959)架橋、こちらも後に、人道橋が架けられた。

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④新金貨物線東京街道踏切・・・・・・・・・・・・高砂諏訪橋の近くに、「東京街道」だとさ! 何処に?・・・・・・・・・調べてみたら、、、“宇都宮以南の国道4号線の通称”、“東大和市と西東京市の区間”の2か所が「東京街道」と呼ばれているらしい。 ここはどちらにも該当せず、“東京”に憧れ見栄を張って、パクリかな?

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・・・・・・・・・・・・・・上の写真で、踏切の2m先にガーダー橋がある。 下には農業用水が流れていたらしいが、今は暗渠となった。 桁は草に覆われハッキリ見えず!

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⑤細田の貨物線・・・・・・・・・・葛飾区細田を抜ける貨物線。

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⑥55号線架道橋・・・・・・・・・・貨物線は葛飾区細田を過ぎるあたりから盛土となり、江戸川区に入る。 奥戸街道はガーダー橋で越える。

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⑦JR新金線中川放水路橋梁・・・・・・・・・・・・・・新中川掘削工事により架橋された、155mの鉄道橋。 橋梁の形式を専門的に言うと、“2径間単線上路プレートガーダー桁橋+1径間単線下路ワーレントラス橋+2径間単線上路プレートガーダー桁橋”となる。 昭和31年(1956)に着工し、昭和34年(1959)に竣工した。・・・・・・・・・・複線用に橋脚が造られている。複線用地も確保され、旅客化を待っているようだ!

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⑧放射14号架道橋・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りを越えるプレートガーダー橋。昭和33年(1958)竣工、施工は熊谷組。

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⑨新小岩信号場駅・・・・・・・・・・・・総武線新小岩駅の東側に位置する信号所。かつては貨物の扱いがあったが、現在は荷役設備はなく、新金線と越中島支線や総武快速線を利用する貨物列車の機関車つなぎ替え、方向転換の基地となっている。・・・・・・・・一日上下5本の列車では、チョイト寂しいね。今日も構内はガラガラ状態だ!

・・・・・・・・・・・・・・・金町方から進入する線路

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・・・・・・・・・・・・・ガラガラ、スキスキの信号所構内

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・・・・・・・・・・・・・・・オー、いたいた貨物列車がいた!

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・・・・・・・・・・・・・・・コンテナ車の手前にはJR東日本保有のバラスト輸送用のホッパ車も待機中。

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・・・・・・・・・・・・・・・最後は子持ちの鉄女が登場。“鉄女”というより“鉄ママ”だ! フェンス越しにスマホで機関車をパチパチ! 子供は私に目をパチパチ?

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●・・・・・・・・・・・・・・・・親金貨物線はここまでだが、“♪線路は続くよ どこまでも♪”。 これから先、貨物線は越中島貨物駅に向け越中島支線として亀戸をとおり伸びている!

2013年12月 4日 (水)

新金貨物線(金町~高砂)

金町駅から親金貨物線沿いに京成高砂駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

いつものように、“今日は何処から歩こうか?”考えながら、浅草橋で地下鉄に乗った。(スイカは便利なもので下車駅を決めなくても乗れるからね!) 乗った電車は京成高砂行きで、今度は“何処で降りようか?”考えているうち終点です。 高砂で京成金町線に乗り換え、2駅で終点金町。 もう、JRに乗り換える気にならず、“ヨシ、久しぶりに、親金貨物線を歩いてみよう!” これで、今日の散歩は決まった。

・・・・・・・・・・・・・新金貨物線(しんきんかもつせん)とは?・・・・・・・・・JR総武線新小岩駅と常磐線金町駅を結ぶ総武本線の貨物支線の通称。 大正15年(1926)、新小岩操車場~金町駅間 (7.1km) が開通し、以降今日まで、常磐線沿線の貨物を都心に運ぶため貨物線一筋に健闘している路線だ。 JR貨物発行の時刻表では一日5往復の貨物列車が走るのみ、しかも早朝・夜が7割で、昼間列車の姿を見るためには、時間に合わせ線路脇で待機する必要がありそうだ!・・・・・・・・・私は、鉄道が好きだが、機関車・車両を見て一喜一憂するタイプではなく、むしろ列車の走っていない線路・鉄橋・隧道・終着駅を見るのが好きだ。この貨物線は私の好みにピッタシだ!

①金町駅南口・・・・・・・・・・JRの金町駅は改札が高架下にあり、南口には抜け出てくる穴の出口(入口とも言う)があるのみだ! 駅前ロータリーは広くバス・タクシーのスペースは十分ある。 道路を挟み京成金町駅もある。

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②寒いね!・・・・・・・・・・・駅から常磐線に沿い西へ、「金町末広商店街」を歩く。 まだ、店は開いておらず、通る人は通勤のサラリーマン。 マフラー・マスク・コート・帽子、寒そうだ! 私は寒さに強く、まだ寒い時期にはチョイト早いね。でも、懐は寒いね!

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・・・・・・・・・・・・・・薬局の前では、チビ象サトちゃんとサトコちゃんが暖かそうな毛糸のマフラーを巻いていた。 でも、パンツ穿いていない、風邪ひくぞ!

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③金町ガード・・・・・・・・・・常磐線7本の線路をくぐりぬけ金町4丁目と6丁目を結ぶガード。 ガードは直前の道路幅の三分の一程しかなく、車はもちろんバイクの通行も不可。 人は手をつながずに縦一列で通行、チョイト狭すぎるね!・・・・・・・・・・若い娘の夜の一人歩きは怖そうだ。

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④親金貨物線の分岐・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・金町駅から西に700m程の位置に、昭和43年(1968)竣工、東急建設の施工の東葛西架道橋がある。 ここから貨物線は常磐線より分岐し南下する。

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・・・・・・・・・・・・・貨物線は常磐線上りの高架下をくぐりぬけて行く。

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・・・・・・・・・・・・・・高架下から出てきた線路が貨物線。

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⑤新宿の貨物線・・・・・・・・・・・“新宿”は“葛飾区新宿”の“新宿(にいじゅく)”だ! もちろん、歌舞伎町はない! 貨物線は新宿を貫いて走る。

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・・・・・・・・・・・・・・・ほぼ全線にわたり、複線分の用地が確保されており、所有者のJR東日本は金町と新小岩を結ぶ旅客列車の運転も考えているようだ! 

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・・・・・・・・・・・・・線路近く(新宿4)に集められた石仏

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・・・・・・・・・・・・・・・浜街道踏切(新宿4)とはいい名前だが、“浜”とは何処だろうか?

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・・・・・・・・・・・・・真直ぐ伸びる線路、なんとなく希望が湧き、勇気づけられる景色だ!

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⑥新宿新道踏切・・・・・・・・・・・貨物線は「新宿新道踏切」で日光街道を横切って行く。

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⑦高砂の貨物線・・・・・・・・・・・日光街道を過ぎ、500m程進むと葛飾区高砂に入る。

・・・・・・・・・・・・・・・線路敷きに、大きなナツミカンの木、所有者は誰だ? 近隣の人が線路敷きに入り込み育てているようだ、フェンスの内側には、ネギ、ホウレンソウなどの畑がある。 JRも住民の協力を得るため、“見て見ない振り”か! ナツミカンはJRと折半かな?

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・・・・・・・・・・・・・・高砂踏切(高砂6)の脇には、暗渠化された川に架かっていたガーダー橋が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・・・・橋と反対側の踏切の横には、ランプ小屋を連想させる小さな建物が、チョッピリ味を添えている。

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・・・・・・・・・・・・・小松川街道踏切

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・・・・・・・・・・・・・小松川街道踏切を渡ると正面に青龍神社が鎮座している。・・・・・・・・・・神社の創建年代不詳だが、榛名神社から雨乞いの神様を勧請したそうだ。・・・・・・・・・・“神社”というより“祠”だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・神社前の池では、看板無視の釣り人が数人、楽しんでいた!

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・・・・・・・・・・・・・・・貨物線と京成本線が交差する位置に大光明寺がある。 この寺は平成17年(2005)の創立である。 以前、ここには弘安年間(1278~1287)に創立された浄土宗の極楽寺という歴史ある寺があった。 極楽寺は経営に失敗し破産した、その境内・建物を引き継いだのが大光明寺である。 “坊主まるもうけ”だと思っていたが、経営環境は厳しそうだね。

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・・・・・・・・・・・・・・・大光明寺から貨物線と京成の交差部分を眺める。墓地の後ろで、京成の下を抜ける貨物線。線路は墓石のかげで見えないね!

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●・・・・・・・・・・・・・新金貨物線の散歩はココまで、続きは、乞うご期待!

2013年12月 3日 (火)

日暮里~駒込

日暮里駅からスタートし、千駄木あたりで行きつ戻りつ、ゴチャゴチャ、グルグルうろつき、駒込駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

①下御隠殿橋・・・・・・・・・・・JR日暮里駅北口を出ると、駅の東西を結ぶ跨線橋の上に出る、この跨線橋が下御隠殿橋(しもごいんでんばし)です。初代の跨線橋は昭和3年(1928)に架けられ、現在は2代目で平成7年(1995)に架けられた。 この橋から北を見ると、JR在来線10本、新幹線2本、京成上り線1本、計13本の線路を跨いで下を行き交う電車を見ることができる。 ちなみに、橋の南側は駅舎で何も見えない。・・・・・・・・・橋名の「御隠殿」とは東叡山寛永寺の住職輪王寺宮法新王の別邸のことである。その別邸に向かう坂「御隠殿坂」が駅南にあったが、現在は消滅した。 チョイト、読みにくい名で、覚えにくい名だ。

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・・・・・・・・・・・・・・・ついでに、下御隠殿橋の西側で谷中方面に緩やかに上る坂は「御殿坂」。 坂を上り、チョイト歩くと「夕やけ段々」があり谷中銀座に続く

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②西日暮里の路地・・・・・・・・・・御殿坂の途中から、本行寺と経王寺の間の路地裏を歩く。 竹で組まれた垣に、サザンカの赤と葉の緑、観光客の歩かない路地、いいね!

・・・・・・・・・・・・・・・こちらの路地を歩くことに、、、、

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・・・・・・・・・・・・・サザンカに囲まれた和風住宅。まさに、お江戸の住宅、感動した!

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・・・・・・・・・・・・・隣の柿の木も色を添えてくれた!

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・・・・・・・・・・・・・・路地は奥へと続く、さらに感動した、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・自転車が私を追い越して行く、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・路地の奥には、風情ある日本家屋がまだまだ並んでいた。なんとまたまた感動、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・そろそろ和服姿の小粋な姐さんが現われるころかと期待したら、路地も終わりだ、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・現実の世界に戻って、「諏訪台通り」の木造4軒長屋の前に出た。

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諏方神社と浄光寺 ・・・・・・・・・・・・諏訪台通りを北に行くと西日暮里駅手前で、諏方神社と別当であった浄光寺がある。・・・・・・・・・今日は、賽銭をチョビットだし、チョイト手を合わせてきた。

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④すずらん通り・・・・・・・・・・谷中と千駄木の境“よみせ通り”と不忍通りを結ぶ、昭和の雰囲気が残る、千駄木3丁目の呑み屋街。 狭い通りの両側には小さな呑み屋が並んでいる。 昼間は閑散としているが、夜は楽しそうな街。

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⑤文学から芸術へ、そして?の裏道・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・文京区千駄木5-20は作家:宮本百合子が住み、没したゆかりの地である。 その案内板が裏道の角に貼られていた。 よし、ここを入って行こう!

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・・・・・・・・・・・・・・・私の期待を裏切り、最近建てたゴク普通の家並みだ!

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・・・・・・・・・・・・・・オー、裏道の終点には、「諸車進入禁止」と書かれた角柱がT字路に立っていた。 なぜか、この種の柱、久しぶりに見るような気がして、可愛くなり、柱頭を撫ぜ撫ぜしてきた。

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・・・・・・・・・・・・・柱の左横(千駄木5-20)に案内板がある、、、、、、彫刻家:高村光雲とその三男:彫金家:高村富周の遺宅であった。

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・・・・・・・・・・・・・・引き続き裏道を歩くと、、、、、、ナント! 道のまんなかに電信柱が! 車の進入を身体をはって阻止している、けなげな電柱だ!

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・・・・・・・・・・・・・身体をはらずとも、車は進入できなくなった。 だけど、この電柱を立てた作業車はどのようにして進入したのかな? 

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目赤不動尊:南谷寺・・・・・・・・・・本駒込1丁目の目赤不動尊の導きか? 心の迷い、道の迷い、目の迷い、どんな“迷い”も鋭い眼光と力強よさで打ち砕いてくれそうだ!・・・・・・・・私は毎年ハズレる「年末ジャンボ」、今年も買うべきか、只今思案中? 手を合わせて買うことにした。7億円はこれで、私のものだ!

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⑦吉祥寺・・・・・・・・・JRの駅ではない! 本駒込にある、曹洞宗の吉祥寺。長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、和田倉門に創建した。 その後、家康の入府で、天正19年(1591)に水道橋へ移転、明暦3年(1657)の大火後、現在地へ移転した。・・・・・・・・境内は広いが、第二次大戦で建物の多くが焼失し、現在は山門と経蔵だけが往時をしのばせる。 

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・・・・・・・・・・・・・・・境内には二宮尊徳の墓碑もある。

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2013年12月 2日 (月)

清澄

浅草橋の我が家から、両国橋を渡り江東区清澄へ、清澄庭園とその周りを歩き回り、帰りは清洲橋を渡り我が家まで、1万5千歩、11Kmの散歩です。

①江島杉山神社・・・・・・・・・・・両国橋を渡り川筋を400m程南下すると江島杉山(えじますぎやま)神社がある。 神社には神奈川県江ノ島の弁財天と、鍼術の杉山和一(1610~1694)が祀られている。・・・・・・・・『和一は弁財天の岩屋にこもり鍼術を授かった。その後、検校(盲官の最高位)となり、神社のある本所の地にて鍼術を指導した。』と、説明書きがあっる。・・・・・・神社の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟があり、正面奥には杉山検校の石像が祀られている。

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萬年橋 ・・・・・・・・・小名木川が隅田川に合流する直前に架かる橋で、両国方向から来ると、この橋を渡ると江東区清澄の町に入ることになる。・・・・・・・・・橋長56.25mのタイドアーチ橋、昭和5年(1930)の架橋。 工事費33万3千円、鹿島組の施工。・・・・・・・・・チョイト、小太りの紳士のような印象を受ける橋だ!

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③清澄庭園・・・・・・・・・・庭園のあるこの地は、「♪ 沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船 ♪」の紀伊国屋文左衛門の屋敷跡であった。 享保年間(1716~1736)には、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、この時期に庭園の原型が形づくられたようだ。 明治11年(1878)、“三菱”の岩崎弥太郎がこの地一帯3万坪を取得し、社員の慰安、貴賓の接待用に造園整備し、明治13年(1880)の「深川親睦園」として開園した。 関東大震災後、岩崎家から東京市に寄附され、昭和7年(1932)「清澄庭園」として開園した。・・・・・・・・・・・月曜日の午前中ということで、入場者も4・5人、のんびりと園内を散策!

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・・・・・・・・・・・・・・・池に突き出す涼亭は、明治42年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたものだ。 これぞ、「お・も・て・な・し」の心かも!

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・・・・・・・・・・・・・・こちらでは、越冬に向け庭木の手入れ

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④清澄公園・・・・・・・・・清澄庭園の西側に、昭和52年(1977)開園した解放公園。 ここも岩崎家の所有地であったところ。“庭園”と同程度の面積を有している。

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⑤深川図書館・・・・・・・・・・公園と庭園の隣りに、区立深川図書館がある。 ここには、明治42年(1909)に東京市立図書館が開館した場所である。 現図書館は鉄筋コンクリート造の4階建てで、昭和49年(1975)に飛島建設の施工で完成した。・・・・・・・・・綺麗で、落ち着いた建物だ!

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⑥旧東京市営店舗向住宅・・・・・・・・・・・清澄通りに面し、清澄庭園に背を向けて建ち並ぶ、昭和3年(1928)に震災復興事業として建てられた、長屋風コンクリート店鋪。 建物は1階が店舗で2階が住居という形式で、6軒程で1棟が構成され、全50軒程の店舗が並んでいる。 東京市営の賃貸店舗兼住宅であったが、戦後、都から払い下げられた。・・・・・・・・・・1階は各店舗で改装され、どれが原型なのか? 2階は手を加えた店舗も多いが、縦長の窓が3つずつ並ぶ窓は残されている。 各棟のコーナー部の装飾も残されている。 3階は各戸で増築したようだ! 築後90年近くになり、櫛の歯が欠けるように更地となった部分もある。 全部の歯が無くなる前に保存できるといいね!

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三野村株式会社 ・・・・・・・・・昭和2年(1927)に建てられた、「三野村株式会社」(現:不動産業)の社屋。

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⑧セメント工業発祥の地・・・・・・・・・・清澄1丁目のアサノコンクリート深川工場の一角に浅野総一郎の像がある。・・・・・・・・この地は、明治8年(1875)、工部省が日本初のセメントを製造した工場があった場所だ。明治16年(1883)、浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場「浅野セメント」として発展した。 戦後、浅野セメントは「日本セメント」となり、平成10年(1998)「秩父小野田セメント」と合併して「太平洋セメント」となった。

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⑨平賀源内電気実験の地の碑・・・・・・・・・・・平賀源内(1728~1780)は安永5年(1777)にエレキテルを完成させ、当清澄1丁目の自宅にて電気実験を行ない安永8年(1780)に51歳にて没した。・・・・・・・・・死因は感電死? 本当は酒に酔い喧嘩して投獄され、破傷風で死んだそうだ。(コレ、ホントらしい。) 今でも、この手の人はいるね!

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⑩清澄排水機場・・・・・・・・・・・・・・かつて、仙台堀川が隅田川と合流していた場所に建ち、大雨により江東区に多い運河が氾濫するのを防止するための排水機構。 運河(川)が氾濫する危険がある場合、その水をポンプにより隅田川に排水する。 昭和61年(1986)に排水機場は完成した。

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・・・・・・・・・・・・・・排水機場に掲示されていた航空写真。写真上が隅田川、写真右の木が茂るところに浅野総一郎の像が365日立っている。

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・・・・・・・・・・・・・・仙台堀川はかつて排水機場の位置に流れ隅田川と合流していた。その合流部に上之橋が架かっていたが、今は親柱のみ残されている。(上の排水機場の写真、茶色のポンプが納められている建物の裏側に上之橋が架けられていた。)

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お帰りは、清洲橋を渡り、浜町を抜けて我が家へ。        

2013年12月 1日 (日)

青山~新宿

夫婦で買い物に出た帰り、青山から新宿まで歩いてきた。1万1千歩、8km。

①イチョウ並木・・・・・・・・・・明治神宮外苑の入り口である青山通りから、絵画館に向かい真直ぐに植えられたイチョウ並木。 この並木は、隅田公園、錦糸公園、浜町公園など震災復興公園の設計を数多く手掛けた建築家:折下吉延(1881~1966)により設計された。 イチョウは絵画館が竣工する3年前の大正12年(1923)に植栽された。・・・・・・・・私は数えたことがないが! 現在は直線部分だけでなく絵画館の周りの円周道路の分を含め146本あるそうだ。

・・・・・・・・・・・・・オイオイ、何だ、この人出は!! 黄葉を見に来たのだが、春の花見のような人出。 コリャ、静かな秋を期待して来た私に誤算があったようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・空を見上げりゃ、並木の美しさは変わらない!

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・・・・・・・・・・・・・・・去年は人出も少なく、ゆっくりと歩けたのだ!  今日は、人出の多さに戸惑い、神宮球場を抜け、霞ヶ丘アパート方向へ進路変更。

②近衛連隊の碑・・・・・・・・・・・神宮球場前にある明治公園の片隅に近衛連隊の碑がある。・・・・・・・・・・・神宮外苑一帯の広大な地に、江戸時代には、大名屋敷や幕府役人の役宅があった。 明治19年(1886)に日比谷練兵場が政府の庁舎になり、ここ青山(現:神宮外苑)に練兵場が移された。・・・・・・・・・・碑がある明治公園の地は、近衛歩兵第四連隊と近衛歩兵第六連隊の駐屯地であった。 戦後も70年にならんとする今、この地を訪れ、当時に思いをはせる人は少なくなったことであろう。・・・・・・・・・・新国立競技場の建設予定地にあり、この碑は残るのか? 残して欲しいね!

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③将棋会館・・・・・・・・・・・千駄ヶ谷:鳩森八幡神社の前にある、昭和51年(1976)に竣工した地上5階/地下1階の将棋界の大本山「将棋会館」。・・・・・・・・・江戸時代は 「家元制度」で世襲の名人が君臨していた。 しかし明治維新後、家元制度は崩壊し、実力による名人制度へ移行していった。 大正13年(1924)、「東京将棋連盟」が結成され、その後「日本将棋連盟」となり、昭和22年(1947)には財団法人となった。・・・・・・・・・・・そろそろ建物も古くなり、現会長:谷川浩司氏に改築でも考えてもらったらどうだろう! 駒の形をした建物は止めてね!

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④鶴の湯・・・・・・・・・・・・千駄ヶ谷:国立能楽堂の南にある銭湯「鶴の湯」。 大正12年(1923)創業の銭湯で、建物は昭和24年(1949)に建て替えられた。・・・・・・・・・“能楽鑑賞の後の一風呂に、お立ち寄り” たぶん、そんな人はいないだろうね!

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⑤国立能楽堂・・・・・・・・・・・・・千駄ヶ谷4丁目に、「能」の一般公開や、後進者の育成などを目的として建てられた国立の能楽堂です。 設計は、乃木神社などを手掛けた大江宏(1913~1989)、昭和58年(1983)竣工。 ちなみに、大江宏の父:大江新太郎は明治神宮宝物殿神田明神などを手掛けた建築家。・・・・・・・・・・一生に一度くらい、本格的に「能」を勉強して鑑賞してみたい気持ちはあるが、勉強するための腰が上がらないのが本音だ! 

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⑥都道四谷角筈線(414号線)・・・・・・・・・・・能楽堂の近くを走る都道:414号線。 ナント、見事な黄葉。 しかも、ガラガラ、ゆっくり落ち着いて秋を味わえる穴場です。

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