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2013年12月 2日 (月)

清澄

浅草橋の我が家から、両国橋を渡り江東区清澄へ、清澄庭園とその周りを歩き回り、帰りは清洲橋を渡り我が家まで、1万5千歩、11Kmの散歩です。

①江島杉山神社・・・・・・・・・・・両国橋を渡り川筋を400m程南下すると江島杉山(えじますぎやま)神社がある。 神社には神奈川県江ノ島の弁財天と、鍼術の杉山和一(1610~1694)が祀られている。・・・・・・・・『和一は弁財天の岩屋にこもり鍼術を授かった。その後、検校(盲官の最高位)となり、神社のある本所の地にて鍼術を指導した。』と、説明書きがあっる。・・・・・・神社の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟があり、正面奥には杉山検校の石像が祀られている。

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萬年橋 ・・・・・・・・・小名木川が隅田川に合流する直前に架かる橋で、両国方向から来ると、この橋を渡ると江東区清澄の町に入ることになる。・・・・・・・・・橋長56.25mのタイドアーチ橋、昭和5年(1930)の架橋。 工事費33万3千円、鹿島組の施工。・・・・・・・・・チョイト、小太りの紳士のような印象を受ける橋だ!

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③清澄庭園・・・・・・・・・・庭園のあるこの地は、「♪ 沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船 ♪」の紀伊国屋文左衛門の屋敷跡であった。 享保年間(1716~1736)には、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、この時期に庭園の原型が形づくられたようだ。 明治11年(1878)、“三菱”の岩崎弥太郎がこの地一帯3万坪を取得し、社員の慰安、貴賓の接待用に造園整備し、明治13年(1880)の「深川親睦園」として開園した。 関東大震災後、岩崎家から東京市に寄附され、昭和7年(1932)「清澄庭園」として開園した。・・・・・・・・・・・月曜日の午前中ということで、入場者も4・5人、のんびりと園内を散策!

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・・・・・・・・・・・・・・・池に突き出す涼亭は、明治42年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたものだ。 これぞ、「お・も・て・な・し」の心かも!

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・・・・・・・・・・・・・・こちらでは、越冬に向け庭木の手入れ

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④清澄公園・・・・・・・・・清澄庭園の西側に、昭和52年(1977)開園した解放公園。 ここも岩崎家の所有地であったところ。“庭園”と同程度の面積を有している。

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⑤深川図書館・・・・・・・・・・公園と庭園の隣りに、区立深川図書館がある。 ここには、明治42年(1909)に東京市立図書館が開館した場所である。 現図書館は鉄筋コンクリート造の4階建てで、昭和49年(1975)に飛島建設の施工で完成した。・・・・・・・・・綺麗で、落ち着いた建物だ!

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⑥旧東京市営店舗向住宅・・・・・・・・・・・清澄通りに面し、清澄庭園に背を向けて建ち並ぶ、昭和3年(1928)に震災復興事業として建てられた、長屋風コンクリート店鋪。 建物は1階が店舗で2階が住居という形式で、6軒程で1棟が構成され、全50軒程の店舗が並んでいる。 東京市営の賃貸店舗兼住宅であったが、戦後、都から払い下げられた。・・・・・・・・・・1階は各店舗で改装され、どれが原型なのか? 2階は手を加えた店舗も多いが、縦長の窓が3つずつ並ぶ窓は残されている。 各棟のコーナー部の装飾も残されている。 3階は各戸で増築したようだ! 築後90年近くになり、櫛の歯が欠けるように更地となった部分もある。 全部の歯が無くなる前に保存できるといいね!

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三野村株式会社 ・・・・・・・・・昭和2年(1927)に建てられた、「三野村株式会社」(現:不動産業)の社屋。

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⑧セメント工業発祥の地・・・・・・・・・・清澄1丁目のアサノコンクリート深川工場の一角に浅野総一郎の像がある。・・・・・・・・この地は、明治8年(1875)、工部省が日本初のセメントを製造した工場があった場所だ。明治16年(1883)、浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場「浅野セメント」として発展した。 戦後、浅野セメントは「日本セメント」となり、平成10年(1998)「秩父小野田セメント」と合併して「太平洋セメント」となった。

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⑨平賀源内電気実験の地の碑・・・・・・・・・・・平賀源内(1728~1780)は安永5年(1777)にエレキテルを完成させ、当清澄1丁目の自宅にて電気実験を行ない安永8年(1780)に51歳にて没した。・・・・・・・・・死因は感電死? 本当は酒に酔い喧嘩して投獄され、破傷風で死んだそうだ。(コレ、ホントらしい。) 今でも、この手の人はいるね!

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⑩清澄排水機場・・・・・・・・・・・・・・かつて、仙台堀川が隅田川と合流していた場所に建ち、大雨により江東区に多い運河が氾濫するのを防止するための排水機構。 運河(川)が氾濫する危険がある場合、その水をポンプにより隅田川に排水する。 昭和61年(1986)に排水機場は完成した。

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・・・・・・・・・・・・・・排水機場に掲示されていた航空写真。写真上が隅田川、写真右の木が茂るところに浅野総一郎の像が365日立っている。

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・・・・・・・・・・・・・・仙台堀川はかつて排水機場の位置に流れ隅田川と合流していた。その合流部に上之橋が架かっていたが、今は親柱のみ残されている。(上の排水機場の写真、茶色のポンプが納められている建物の裏側に上之橋が架けられていた。)

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お帰りは、清洲橋を渡り、浜町を抜けて我が家へ。        

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