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2014年1月

2014年1月31日 (金)

神田川(せせらぎ橋~大東橋)

高田馬場駅からせせらぎ橋にでて、大東橋から東中野駅まで、神田川を遡る散歩です。1万2千歩、9km。

①チョイト、昭和レトロの香・・・・・・・・・・・・高田馬場で撮影

・・・・・・・・・・・・・・・タッパの低いコンクリート製の門柱、一時代前の玄関のガラス扉。 中から、サザエさんのカツオ君がバットを持って飛び出してきそうな雰囲気だ!

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・・・・・・・・・・・・・・銅板建築の3軒長屋。 

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②茶道会館・・・・・・・・・・高田馬場3丁目に、昭和25年(1950)に完成した、数寄屋作りの茶道会館がある。ここは、裏千家の稽古場のようだ。敷地内にはゆったりとした緑の庭園があり、静かに、一服所望できそうだ!

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③せせらぎ橋・・・・・・・・・・前回はここまで、今日はここから、神田川下流から47番目の橋。

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④落合水再生センター・・・・・・・・・・・処理場屋上を拝見! 公園風に造られているが、ところどころには、開閉装置のハンドルのようなものが出ている。 この下で、汚水が綺麗な水に再生されているのだ!・・・・・・・・・・・落合水再生センターは、昭和39年(1964)の処理場建設当初から、周辺住宅地のことを考慮して臭気が発生しないように、処理施設をコンクリートでふたをして、その上に公園を造り緑の空間にした。 さすが、首都東京の下水道局だね!

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⑤久保前橋・・・・・・・・・・・再生センターの前に架かる、48番目の橋。 現橋は昭和61年(1986)に架けられた。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の近くに、「大正拾五年六月竣工 久保前橋 新設 記念碑」なる碑が残されている。 碑の裏には寄付者芳名と、「落合町金千六百四拾円」、「戸塚町金千六百四拾円」と刻まれている。 川の両側の町で同額の寄付金を出し合って架橋したのであろう。

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⑥小滝橋・・・・・・・・・・小滝橋は江戸時代には既に架けられていたらしい。 名の由来は、下流に堰があって小さな滝のようだったという。 解りやすい命名だ!・・・・・・・・現橋は昭和61年(1986)に架けられて。橋上は早稲田通りである。・・・・・・・・・小さな橋だが、近くに戦前から都営バス小滝橋営業所があり、「小滝橋車庫」行きの表示をしばしば目にしたので、変に有名な橋だ!

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⑦亀齢橋・・・・・・・・・・・綺麗な川に綺麗な橋(?)、その名は亀齢橋(きれいばし)。 

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⑧旧中野区立東中野小学校・・・・・・・・・・・・・・・亀齢橋の西側に高台の上に、昭和31年(1956)に開校し、平成21年(2009)に閉校した旧中野区立東中野小学校がある。 50年前の近代的なデザインで建てられた学校である。

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・・・・・・・・・・・・・学校の横に在る坂。(無名の坂のようだ) 真直ぐ伸びるキツイ勾配の坂。 坂の上には何か期待できる喜びがあるような雰囲気の坂だ! いいね。

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⑨南小滝橋・・・・・・・・・・・・新宿区北新宿と中野区東中野を結ぶ橋の一つ。

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・・・・・・・・・・・・・・南小滝橋から眺める神田川

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⑩竹中工務店家族寮・・・・・・・・・・・南小滝橋の横に、垢抜けた共同住宅があった。 竹中工務店の家族寮だ。 商売柄、いい建物だね!

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⑪大東橋・・・・・・・・・・・今日、最後の橋は52番目の大東橋(だいとうばし)。 昭和63年(1988)の竣工。 JR中央線が神田川を越えるスグ北に位置し、橋の西側はかつての結婚式場「日本閣」である。

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⑫ユニゾンスクエア・・・・・・・・・・・・年輩の人で知る人の多い、東中野駅前のかつての「日本閣」は平成16年(2004)に休業し、跡地を再開発した。 跡地はユニゾンスクエア(Unison Square)と称し、2棟の高層マンションとスーパーマーケットなどの商業施設さらに、「West 53rd 日本閣」としてリニューアルされた日本閣で構成されている。・・・・・・・・大正9年(1920)に当地で創業した日本庭園のある日本閣の姿は消え、超高層マンション下の5階建ての式場に変わった。

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2014年1月28日 (火)

千葉大医学部

稲毛の帰り、千葉市中央区亥鼻(いのはな)の千葉大医学部に寄ってきた。8千歩、6kmのプチ散歩。

千葉城 ・・・・・・・・・・・千葉城は別名:亥鼻城と称し、千葉県庁の近くの高台に在る。 この高台には、戦国時代以前に千葉氏の館があったとされているが、発掘調査では何も出てこなかったようだ。 また、千葉城においては、もとから江戸時代の城郭様式の城は無く、昭和42年(1967)に「千葉市郷土博物館」を建てるときに城好きの人が、小田原城に似たデザインにしただけだ。 鉄筋コンクリート造、高さ30m、4層5階建ての城は大成建設の築城なり。 白亜の城の内部は、郷土資料館とプラネタリウムになっている。・・・・・・・・・・精密に良く出来た小田原城の模造品だと思えばいいかな! TDLのシンデレラ城も千葉県にある、千葉県の人は城が好きなようだ!

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②千葉大学医学部本館・・・・・・・・・・・・・・昭和11年(1936)に、柴垣鼎太郎(文部省)の設計、大林組の施工で建てられた、鉄筋コンクリート造4階建ての巨大な病院建築。 外壁はスクラッチタイル貼りで、落ち着いた雰囲気を出している建物だ。 当初は大学の附属病院として建てられ、現在は医学部本館として使用されている。 

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・・・・・・・・・・・・・・正面玄関を入ると、4階まで吹き抜けの階段室がある。

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・・・・・・・・・・・・階段踊り場には、ヒポクラテス胸像が置かれている。 ヒポクラテスは古代ギリシャの医者で、「医学の父」である。 医学の母は誰かな?

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・・・・・・・・・・・・・・中廊下の左右にズラリ並ぶ研究室。 高そうな機器も廊下に並んでいた。

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③千葉大学亥鼻地区サークル会館・・・・・・・・・・・現在は部室として使用されている旧精神科病棟は、昭和2年(1927)に完成した、鉄筋コンクリート造2階建てのアールデコ様式の建物である。 円弧状のアーチと2階の半円の窓が特徴的な玄関、外部には2階まで伸びる柱型と頂部のオーダなどで飾られている貴重な建物である。・・・・・・・・・残念なことには、部室として学生に使用され、内部は廃屋のようだ。 それでも学生は使用している。 チョイト、掃除でもしろ!

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・・・・・・・・・・・・・・1階・2階は明かりがともり、部活で使用中。 ドアは精神科病棟時代のもので、丈夫に作られているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・地下は凄まじい荒れかただ!・・・・・・・・・・・廃墟マニアの気分で、暗い中を歩く、チョイト怖いね!・・・・・・・・・医療器具を洗った場所か? “殺菌水装置”なる壊れた機器もある! 風呂場かな?

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④千葉大学医学部附属病院・・・・・・・・・・現在の医学部附属病院は、大きく、綺麗で、立派な建物である。・・・・・・・・・・・内部を見たい人は入院してね!

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2014年1月27日 (月)

待乳山聖天

寒い! 我が家(浅草橋)から待乳山聖天までの往復、1万1千歩、8kmの散歩です。

待乳山聖天 ・・・・・・・・・・・浅草寺の北東500m程のところに、待乳山聖天(まつちやましょうでん)がある。山号は待乳山、寺号は本龍院、聖観音宗の寺院で浅草寺の子院である。 創建は古く推古天皇の時代(601)に、旱魃により人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が歓喜天(聖天)に化身して姿を現し、人々を救ったことで「聖天さま」を祀ることになった。

・・・・・・・・・・・・・・山号の「待乳山」は、隅田川西岸を望む、海抜9.5mの小高い山である。この山から古代の出土品が出たことはないが、“前方後円墳”との説もある。 境内山頂からはスカイツリーが良く見える。

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・・・・・・・・・・・・・・堂は震災・戦災に遭い、現在の本堂は昭和24年(1949)に再建し着手し、昭和36年(1961)に現在の鉄筋コンクリート造、権現造りの本堂が完成した。 内部は木部漆塗りの豪壮な仕上げで、天井には日光山輪王寺の「鳴龍」を描いた日本画家:堅山南風(1887~1980)の墨画の龍が描かれてる。

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・・・・・・・・・・・・・境内のあちらこちらに“巾着”と“大根”を見ることができる。“大根”は身体を丈夫にし、良縁成就し、夫婦仲良く一家の和合を御加護頂け、“巾着”は商売繁盛の御利益を示している。 体がピンピンで、お金がザクザク、さらに男女の仲もラブラブの御利益は期待するところが大きいね! お賽銭、はずんで来たよ!

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・・・・・・・・・・・・・・・江戸時代の名残として、45.5m程の築地塀が残っている。

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②今戸橋・・・・・・・・・・・・今戸橋の架かっていた「山谷掘」は、江戸時代に荒川の氾濫を防ぐ目的で、三ノ輪(当時は箕輪)から吉原大門、待乳山聖天北側を抜け隅田川まで造られた堀である。 「山谷掘」には、昭和50年(1975)から昭和53年(1978)にかけて堀は埋め立てられた。 今戸橋も埋め立てられ、現在は堀跡の山谷掘公園に親柱・欄干が残っている。

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2014年1月25日 (土)

桐ヶ丘団地

数日前、チョイト立ち寄った桐ヶ丘中央商店街の寂れた姿を見て、巨大団地の全容を見たく、今日の散歩先は桐ヶ丘団地とした。 1万2千歩、9km。

・・・・・・・・・・・・・桐ヶ丘団地は、赤羽駅から都市再生機構(旧住宅公団)の赤羽台団地を抜けた先にある都営のマンモス団地である。 団地は北側の「桐ヶ丘アパート」と南側の「桐ヶ丘一丁目アパート」で構成される。 周辺には「都営桐ヶ丘赤羽台アパート」、「都営赤羽西五丁目アパート」、「都営赤羽北三丁目アパート」などもある。 (空撮はGoogleマップを借用

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①赤羽駅・・・・・・・・・・・・・明治16年(1883)に日本鉄道が上野~熊谷間に開通。 2年後(明治18年)には、現:埼京線の経路で品川駅に至る分岐線を開通するのに合わせ、分岐駅として赤羽駅が開業した。・・・・・・・・明治の面影は何処にも残っておらず、現在は最上層に新幹線が通り抜ける立派な高架駅である。・・・・・・・・・近くの岩淵水門に在った土木研究所でバイトをしていた頃(50年前)、当時は盛土下に駅舎があり、ホームからは駅前のバス乗り場を見下ろすこともできた。 懐かしい駅だ!

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②大坂・・・・・・・・大坂(おおさか)は、赤羽駅西口から赤羽台団地の東端へ登る、古くから往来の多い坂らしい。 説明できないが、私の右脳を刺激するパワーが宿っている坂だ、気に入った!

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③赤羽台東小学校・・・・・・・・・・・・昭和39年(1964)に、赤羽台西小学校の生徒増により分校として、団地の東端に誕生した赤羽台東小学校は、設立40周年になる平成17年(2005)に生徒数の減少で廃校となった。 ピーク時には700人いた児童も、廃校時には54人となった。 団地の世帯構成が大きく変わったのだ、跡地は老人ホームにでもなるのかな?

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④桐ヶ丘体育館・・・・・・・・・桐ヶ丘アパートと桐ヶ丘一丁目アパートの境に、オリンピック東京大会を記念して、昭和39年(1964)に竣工した八角形の体育館が建っている。  築50年経ち老朽化が進み雨漏りもするようだ、改築の話もあるようだが、具体化までにはまだ数年かかるらしい。 2020年のオリンピックまでに間に合わせ、再び東京オリンピック記念の体育館となることを期待したいね!

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⑤桐ヶ丘団地・・・・・・・・・・昭和34年(1959)から建設され、現在も建替え・取り壊しなどが行われている。 「桐ヶ丘アパート」は、約150棟:2200戸の規模となっている。 住棟は北地区、西地区、東地区に分かれている。 「桐ヶ丘一丁目アパート」は、約20棟:1500戸の規模である。 建物は築50年以上経過し老朽化したものも多く、また住人も高齢化率50%以上となり、“二人に一人は高齢者”となった。・・・・・・・・・日中は、公園で遊ぶ子供もなく、若い夫婦の姿も見えず、一人で歩く老人の姿をたまに見かける、静かな団地だった!

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・・・・・・・・・・・・・・人影を見つけるのが難しい、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・住棟の北側は築50年の香がするね!

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・・・・・・・・・・・・・・・南側は増築して一部屋分広くし、築50年の汚れを隠したね!

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・・・・・・・・・・・・「桐ヶ丘一丁目アパート」では、取り壊し、更地化、高層化が進んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・・中央公園では、三人のお年寄りの姿を見ることができた。 でも、三人は言葉を交わすこともなく、バラバラ、、、、

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・・・・・・・・・・・・・中央商店街に再訪。 今日も店は開いてない!

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・・・・・・・・・・・・・中央商店街で一軒の味噌屋(乾物屋?)が開店準備中。 80歳ぐらいのおじいさんが店主だ。 味噌樽の上には、おじいさんが描いた絵がギッシリと飾られていた。 額縁も竹・段ボールなどで器用に作られている。 『遠くから絵を見に来てくれるお客がいて、ついでに何か買って行くよ!』と、話していたね。 私も缶コーヒーを買って、散歩を続けた、、、、、、

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桐ヶ丘団地をあとにして北赤羽駅へ向かう、、、、、、、

2014年1月24日 (金)

夜の浅草寺

浅草で中学校の同窓会があり、帰りに浅草寺を一回りしてきた。

・・・・・・・・・・・・・・・雷門から本堂まで

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・・・・・・・・・・・・・・・境内の諸堂にも手を合わせ

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・・・・・・・・・・・・・・・三社さま(浅草神社)、被官稲荷社も立ち寄り

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・・・・・・・・・・・・・・六区をまわって帰宅です。

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2014年1月23日 (木)

神田川(神田川橋梁~せせらぎ橋)

神田川の最下流に架かる柳橋から上流に向け歩き。 今日は、西武線・JR線の神田川橋梁から、落合水処理センターのせせらぎ橋まで、途中寄り道して歩いてきた。1万1千歩、8km。

①神田上水橋梁(西武新宿線)・神田川上水橋梁(JR山手線)・・・・・・・・・・高田馬場駅北側で、並行して神田川を越える西武新宿線・JR山手線の橋梁。 山手線の橋梁は名前に“川”が入っている。 

・・・・・・・・・・・・・・下流の神高橋(かみたかばし)から眺めると、新宿線の橋梁は目の前に見えるが、山手線の橋梁は新宿線の桁に隠れてしまう。

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・・・・・・・・・・・・・神田上水橋梁(西武新宿線)・・・・・・・・・平成20年(2008)に現在の橋梁に架け替えられた。 施工は、当然、西武建設と鉄建建設のJⅤ。

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・・・・・・・・・・・・・神田川上水橋梁(JR山手線)・・・・・・・・・橋台および盛土部分を煉瓦積みで造った、かなり古い橋梁である。 この部分の路線は、明治18年(1885)に日本鉄道の品川~赤羽間の開業時に造られたものと思われる。 橋梁もその時のものか?・・・・・・・神田川の川面と盛土部の天端とはかなりの高低があり、難工事であったかも?

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②清水川橋・・・・・・・・・・・下流(隅田川)から数え、一般人が渡れる橋として41番目は清水川(しみずがわ)橋である。・・・・・・・・・・橋の北側200m程の位置に、神田川と並行して新目白通りが通っている。この通りの北は目白の高台(下落合2)となる。高台からの流れ出た湧水が近くにあり、橋名の由来となっているそうだ。 現在の橋は昭和50年(1975)の完成。・・・・・・・・・・この橋と上流に架かる田島橋、通勤時間帯に渡る人の半数以上(数えたわけではないが私の目測)は若い女性だった。 嬉しいことだが、気になるね!、、、、、調べてみたら、新目白通りの両側に、「日本外国語専門学校」、「東京教育専門学校」、「中央理美容専門学校」、「東京美容専門学校」、「東京アニメ―ジョンカレッジ」など、専門学校がズラリ、、、、、納得! 

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③田島橋・・・・・・・・・・・・・・江戸時代に橋の北方(現:豊島区)に安藤但馬守の屋敷があり、よくこの橋を通ったので、「但馬」を「田島」に変えて橋名としたらしい。 江戸時代からここには橋が架けられていた。

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・・・・・・・・・・・・・この玉葱型の親柱、なんだ!? センスが悪いね! ゴメン!

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④おとめ山公園・・・・・・・・・・若い女性の行く方向に誘われて、新目白通りを越え下落合の「おとめ山公園」に着いた。 名前がいいね、気に入った! しかし公園は整備中、ガックリ! “おとめ”がいないので写真は撮りません。

⑤日立目白クラブ・・・・・・・・・・おとめ山公園まで来たので、近くの日立目白クラブにお立ち寄り。・・・・・・・・・・・・スパニッシュ・スタイルの白亜の建物は、かつては学習院の寄宿舎として建てられ、現在は日立製作所の所有で「日立目白クラブ」となっている。 大正末期まで近衛公爵邸であった敷地に、昭和3年(1928)、宮内省の設計で、鉄筋コンクリート造により建てられた。

・・・・・・・・・・・・・・本館・・・・・・・・・白い壁と赤いスペイン瓦、縦長のアーチ窓や段々状に変化をもたせたスカイライン、その先に高く伸びた煙突である。

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・・・・・・・・・・・・・・別館・・・・・・・・・現在は結婚式の教会として使用。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本館・別館の奥に第一~第四までの寮がある。デザインは本館に合わせ、白を基調として、アーチ型の窓がある端正なものである。

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⑥東京富士大学連絡橋・・・・・・・・・・・・・大学の施設は神田川を挟み、下落合と高田馬場の両岸に分散している。両岸の校舎を繋ぐ連絡橋が神田川に架かっている。

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⑦宮田橋・・・・・・・・・・・・・・・43番目は宮田橋。 コンクリート製の親柱は年代物だ!

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⑧落合橋・・・・・・・・・・・宮田橋の上流に似たデザインの落合橋がある。 「落合」の名の由来である現:神田川と妙正寺川がかつて“落ち合う”場所の下流にかかる橋。

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⑨滝澤橋・・・・・・・・・・下落合1と高田馬場3を結ぶ滝澤橋は、下落合側では橋の正面にマンションが建ち、車は直進できず、橋を渡ると大きく迂回しなければならない配置となっている。人間さまはマンションの軒下をすり抜け直進可。・・・・・・・・現在の橋は平成元年(1989)の完成である。・・・・・・・・この橋から上流は川岸に桜が咲き並ぶ名所である。

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⑩新堀橋・・・・・・・・・・・・橋のすぐ下には高田馬場分水路に続くトンネルがある。神田川が大雨などで増水したときに、水を分水路へ流し、本流の氾濫を防ぐことを狙っている。 分水路の水は、暗渠の中を流れて下流の高田橋で再び合流する。

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・・・・・・・・・・・・・・・写真左側が分水路の口

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⑪せせらぎ橋・・・・・・・・・・・47番目の橋は、下水道局の落合水再生センターにつながる「せせらぎ橋」。 東京都下水道局の施工で、昭和62年(1987)竣工した。

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・・・・・・・・・・・・・・落合水再生センターで処理された水は、神田川はもとより、都内の渋谷川、目黒川、呑川などにも流され河川の浄化に貢献しているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・平成12年、桜の季節に歩いた写真

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2014年1月22日 (水)

京成高砂~小岩

京成高砂駅から小岩駅まで、9千歩、6kmの散歩。

①京成高砂駅・・・・・・・・・・・大正元年(1912)、京成が押上~江戸川・柴又間を開業したとき、同時に“曲金(まがりかね)”駅として開業した。 現在は地上ホームが2面4線で京成本線と北総線が走る。このほかに高架ホーム1面1線に金町線が発着する。

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・・・・・・・・・・・・・鉄道の要所として重要な駅だが、駅舎は地味だ。 特に南口は表通りから、チョイトひっこんだ奥にあり初めての人には見つけずらい。(北口は踏切脇の商店街に面している。)

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・・・・・・・・・・・・・・高砂駅脇の高砂第1号踏切。 “開かずの踏切”として有名だが、地元では危険この上なく、交通の障害ともなり、駅と共に高架化が待望されている。 まだ、具体化した計画は作られていないが、踏切の東側に検車区、西側に駅があり電車の発着は頻繁、頭上は金町線のホームが覆い、道路の交通量も多く、高架化は難しい工事になりそうだ! 実現はいつになるか?

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②都営高砂アパート・・・・・・・・・・・高砂駅の南東、京成本線沿いに、昭和38年(1963)から44年(1969)にかけて建設され、建替えが進んでいる都営高砂アパート(団地)がある。 55棟に総戸数1263戸という大規模団地であった。各戸の面積は30~70㎡(2DK~4DK)。 老朽化が進み平成21年(2009)から、3期に分けた建て替え工事が始まり、既に新しい建物も完成し入居している。 今年までに920戸の建替工事が完了し、最終的には1100戸の新しい都営住宅が完成する計画だ。

・・・・・・・・・・・・・・55号棟まで表示されている、古くなった案内板。 現在建替え工事が進んでいるのは、案内板の左側部分、右端の大きな公園とその周辺の建物はいずれ壊されるが、建替えの計画が無くその後の用途が不明らしい。・・・・・・・・ここで、内緒のうわさ話を、、、、、“公園の横に京成本線が通っており、京成の検車区をここに移し、高砂駅と踏切の高架化工事を容易にする計画があるとか?”(他言無用!)

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・・・・・・・・・・・・・・初期に建てられた棟は、痛々しいほど劣化した。 扉は壊れ物置化したダストシュートもある。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和40年代に流行ったボックス型(四角い建物)の住棟。 北側の階段で5階まで上るのは年寄りにはキツイね!

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・・・・・・・・・・・・取り壊しを待つ、空になった住棟。 合板で封鎖された階段室は虚しいね!

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・・・・・・・・・・・・・50年間、住民を見つめてきた給水塔も役目を果たした!

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・・・・・・・・・・・・・まだ、古い住棟に住んでいる人もいる。 お豆腐やさんも来ていたが、お客は出てこなかった。 自転車から降りて、建設中の新しい建物を眺める人もいる。

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・・・・・・・・・・・・・・・まもなく完成の新しい住棟。

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・・・・・・・・・・・・・・次の工事を待つ更地。

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③夕日の先にスカイツリー・・・・・・・・・・“スカイツリーではなく鉄塔だろう!” “よく見てね。道路の先の車の前にスカイツリーが写っているよ!” (葛飾区鎌倉で撮影)

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2014年1月21日 (火)

赤羽~志村坂上

赤羽駅から都営三田線志村坂上駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

①赤羽台団地・・・・・・・・・・・・現在の住居表示では赤羽台1丁目と2丁目の大部分を占める、赤羽駅西側の大規模団地である。 団地のある台地は、軍服・軍靴・背嚢に至るまで被服軍装を担っていた陸軍被服本廠の跡地である。明治時代には被服倉庫があったが、大正8年()1919に全施設を本所(現:震災慰霊堂のある墨田区横綱2丁目)から移転した。 戦後は、朝鮮戦争終了まで、米軍に接収されていた。・・・・・・・・昭和37年(1962)、日本住宅公団赤羽団地が建設されたが、当時23区内では1000戸を超える大規模団地であった。 団地は、戦後の新しいい生活様式・設計思想を組み入れ、4・5階建ての中層棟、7階建ての高層棟、スターハウスなどが単調な景観とならないように組み合わされた。 また、敷地内の学校・商店街・郵便局・診療所・集会所・公園なども団地内のコミュニティを維持する配置となっている。 当時は人気も高かく憧れの団地だった。

・・・・・・・・・・・・・築50年経ち、取り壊しの順番待ちとなった建物。 全55棟、3373戸の建て替えが始まっている、完了するまであと10年以上かかるかも?

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・・・・・・・・・・・・・団地内の一部では、呼称も「ヌーヴェル赤羽台」と変わり、既に建て替えが完了している。 “四季を感じられる中庭を囲むように新しい棟が建ち並び、やすらぎの場を提供している”と、都市再生機構は謳っている。 新しい街には商店街は無くなり、スパーがオープンしている。・・・・・・・・・・明るい景観となったが、私には冷たい人間関係になると感じられた。

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・・・・・・・・・・・・・別の一画では、取り壊しが進み、一部は更地と化した。 50年前に建てた建築の職人、50年前から住んでいた住人、50年前に生まれ育って出て行った人、皆、見るのがつらい光景だ。 『あ、3階の右から4つ目の窓が私の家だった!』と思って、取り壊しを見ていたら、目が潤んできたので立ち去ることにした。

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②赤羽台トンネル・・・・・・・・・・・平成4年(1992)に、赤羽台団地の下を、くぐり抜ける赤羽台トンネルが開通し、赤羽駅と北赤羽駅が直線的に結ばれた。 鹿島建設の施工。

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③都営桐ヶ丘団地・・・・・・・・・・都営桐ヶ丘団地とは、赤羽台団地の西側に展開する「桐ヶ丘アパート」と「桐ヶ丘一丁目アパート」の総称である。「都営桐ヶ丘アパート」は、昭和34年(1959)~昭和50年(1975)に渡り建設された、約150棟、総戸数約2150戸からなるアパート。 「桐ヶ丘一丁目アパート」は、平成10年(1998)建設されている、約40棟、総戸数約1950戸である。 足し算すると、都営桐ヶ丘団地とは、昭和34年から建てられている約200棟、総戸数:4100戸の超巨大アパートである。・・・・・・・・今日は、団地の奥まで入らずに、「桐ヶ丘アパート」の中央商店街をチラリとみてきた。

・・・・・・・・・・・・・・表通りに面し堂々と商店街の看板が!

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・・・・・・・・・・・・・・・営業中は、調味料などを売る店と、ガチャポンを並べてるおもちゃ屋、入口近くで餃子を売る店の3店舗ぐらいだ! 隣近所の店はシャッターが下りている。

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・・・・・・・・・・・・・・・万国旗が空しくはためく、中央広場。 周囲の店はシャッターが上がる気配なし!

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の裏は、、、、、、、客が来ないのもわかるね!

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④戸田橋の親柱・・・・・・・・・戸田橋(とだばし)は、板橋区と荒川の対岸の埼玉県戸田市を結ぶ橋。 最初の橋は明治8年(1875)に架けられた。2代目は大正元年(1912)に架けられたが震災にあい、3代目の橋が昭和7年(1932)に開通した。 その後、昭和53年(1978)に現在の橋に架け替えられた。・・・・・・・板橋区小豆沢公園には、3代目の橋の親柱が残されている。

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⑤志村一里塚・・・・・・・・・・・・日本橋から、本郷、板橋に続く、中山道(国道17号)の三番目の一里塚が志村の一里塚。 ここの一里塚は正統派で、古墳のように、しっかりと土が盛られ、“塚”となっている。正統派でない一里塚は石碑でごまかしているようだ! ・・・・・・・・・一里塚に並んで写真右側の木造建築は、竹細工・竹ぼうき・ヨシズなどを扱う都内唯一の竹屋さん「斉藤商店」である。創業は明治22年(1889)です。建物は、昭和8年(1933)の中山道拡張工事にあわせ、建て替えられたそうだ!

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2014年1月20日 (月)

浅草橋~錦糸町

蔵前橋通りに出て亀戸方面に向かうつもりで我が家を出た。 蔵前橋の手前:旧蔵前国技館跡に来たら、『相撲』のキーワードが浮かび、散歩は『相撲めぐり』にすることにした。 1万5千歩、11Km。

①蔵前国技館跡・・・・・・・・・・蔵前警察署前の東京都下水道局の敷地が、昭和25年(1950)から昭和59年(1984)まで蔵前国技館のあった場所である。 現在は隅田川寄りに蔵前ポンプ場の建物(写真:レンガ色の建物)が建ち、隣は仮囲いに囲まれ水再処理センター(?)としての工事が行われているようだ。 蔵前国技館の土俵は、チョウド、仮囲いの中に位置していた。・・・・・・・・戦後の相撲の中心であり、小学生の私の遊び場の一つでもあった、いろいろ思い出ある処だ。 国技館は残りの取り組みが少なくなった頃に行くと、子供は無料で入れてくれた。学校を終えてからの遊び場だ。 蔵前橋通りを挟み、工事用仮囲い前に建つ旧東京貯金事務センターのあたりは、終戦直後は焼け野原で瓦礫置き場となり、磁石を持って鉄屑を拾って遊んだ記憶があるね。

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柳橋 ・・・・・・・・・・蔵前の南、浅草橋の東が柳橋地区である。・・・・・・・・蔵前国技館の時代には、柳橋地区には高砂部屋などの相撲部屋がいくつかあり、朝潮(元大関)、高見山、小錦などと、駅周辺で出会うことも多かった。 現在は、相撲部屋も移転し力士の姿は浅草橋から消えた。

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・・・・・・・・・・・・・料亭「いな垣」・・・・・・・・・柳橋地区の中央、隅田川縁にあった料亭「いな垣」。平成11年(1999)に閉店し、現在は料亭時代の木造建物の一部をギャラリーとして残し、敷地の大半はビル・駐車場となっている。・・・・・・・・蔵前国技館の時代は横綱審議委員会の会場は「いな垣」であった。 当時の委員長は舟橋聖一、高橋義孝など、風格のある人が多く、料亭前に黒塗りの車がズラリと並び壮観であった。

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③弁天湯・・・・・・・・・我が家から徒歩1分の銭湯で、我が家に内風呂ができるまで、家族全員が利用させてもらった銭湯。(90歳の母は現在も利用中!) 台東区内では、現在最も南にあり、歴史のある浴場です。・・・・・・・・・柳橋に相撲部屋があったころは、若い力士が度々銭湯に来ていた。 カランの前で、私の隣りに二人分のスペースを確保して身体を洗う姿は、やはり大きかったね! 私が横目でチラリ覗くと、大きな身体の下に、小さなポコチン。 “俺の方が大きな!” 一安心した私。

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④両国橋・・・・・・・・・・旧橋は関東大震災後解体され、南高橋に再利用された。震災後、隅田川に架かる他の橋と共に再建され、現在に至っている。 昭和7年(1932)に開通したゲルバー橋(連続桁の支点間にヒンジ(継ぎ目)を配し、安定した構造の橋)で、下部工は間組の施工。総工費は98万7500円也。

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・・・・・・・・・・・・・・・親柱は“両国の花火”にちなみ六尺玉を模したデザイン。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の柵には相撲の軍配・両国国技館の透かし・ポールの先っぽには小さな両国国技館がデザインされている。

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・・・・・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)頃の両国橋。(Wikipediaより)・・・・・・対岸の丸いドーム屋根が旧両国国技館。

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⑤回向院・・・・・・・・・・・浅草橋から両国橋を渡ると右に回向院がある。 明和5年(1768)から、回向院境内で勧進相撲が興行された。これが「大相撲」の起源となったようだ。 境内の「力塚」は、昭和11年(1936)に、相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したもの。 碑の玉垣には当時横綱:玉錦、武蔵山をはじめとして、力士の名が刻まれている。

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・・・・・・・・・・・・・回向院山門旧両国国技館跡に建つ複合施設「両国シティーコアビル」

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・・・・・・・・・・・・・旧両国国技館は、東京駅を設計した辰野金吾と弟子の葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。 枡席約1000席を含む13000人収容の規模で、建物の内径は62m、中央の高さは25mであった。・・・・・・・・・・現在、跡地に建つ両国シティーコアビルの中庭に土俵跡を示す円形が標されている。

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⑥力士像・・・・・・・・・・回向院から現両国国技館へ向かう国技館通りには、6か所に力士像がある。 台座には歴代横綱に手形が嵌め込まれている。

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現:両国国技館 ・・・・・・・・・旧両国貨物駅跡に昭和59年(1984)に建てられた新国技館。 

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・・・・・・・・・・・・・・只今、本場所中。力士は出勤して、お仕事、お仕事!

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⑧両国の店・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・開店前の甘味処で「あんこあられ」をお土産にどうぞ! 煎餅にあんこを挟んだ、、、、、????

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・・・・・・・・・・・・・・ちゃんこ屋さんは、まだ開店準備中。 店先は静かだ!

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・・・・・・・・・・・・“相撲番茶”とは? 順序を変えて“茶番相撲”としたら、怒られるね!

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・・・・・・・・・・・・・力士の御用達、キングサイズの店。

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⑨相撲部屋・・・・・・・・・・両国界隈に多いね。 当たり前だ!  チョイト、数部屋にお立ち寄り。

・・・・・・・・・・・・・春日野部屋・・・・・・・・・“春日野”といえば、元横綱:栃錦だ、思い出すね! 玄関先に並ぶ自転車は力士の足です。 パンクしない丈夫な自転車かな?

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・・・・・・・・・・・・・出羽海部屋・・・・・・・・・・・名門の相撲部屋。

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・・・・・・・・・・・・錦戸部屋・・・・・・・・・・・・元関脇:水戸泉が独立して起こした部屋。玄関先で私のカメラに立ってもらいました。

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・・・・・・・・・・・・・式守?・・・・・・・・春日野部屋の近くにある住宅、名字が「式守」。 ひょっとすると行司の“式守”か?

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⑩野見宿禰神社・・・・・・・・・・両国駅と錦糸町を結ぶ北斎通りに鎮座する、日本相撲協会の管理する相撲神社。 相撲の始祖とされる野見宿禰(のみのすくね)を祀る神社で、新横綱はこの社殿の軒先で土俵入りを披露するのが慣例となっている。・・・・・・・・神主・巫女さんもいない、社務所もない小さな神社だ。 境内は関係者以外、立ち入り禁止!

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・・・・・・・・・・・・・・北斎通りを挟み、神社前で誕生した人が、あの「葛飾北斎」である。

2014年1月17日 (金)

新富

連日の寒さで、午前中は出遅れ、3時過ぎに中央区新富の一帯をブラブラ、キョロキョロ、ジックリ、歩いてきました。 9千歩、6km。

・・・・・・・・・・・・「新富」は、東に「入船」、西に「銀座」、北に「八丁堀」、南に「築地」と、四方を歴史ある町に囲まれた、これまた歴史ある地区です。 昭和46年(1971)の住居表示変更以前は「新富町」と称してた。 私は新富町と“町”をつけて話す方が多いね。・・・・・・・・・江戸時代の新富町は武家屋敷の街で、明治初期には歌舞伎の新富座がオープンした。 関東大震災では一面焼け野原と化し、その後は商店と住宅が混在する町となり、今も面影を残している。 一丁目、二丁目で住人1700名の町。

①桜橋ポンプ場・・・・・・・・・・・京橋交差点方向から来ると、弾正橋を過ぎて右側に東京都下水道局の桜橋ポンプ場がある。ここは、桜川(楓川の別名)が流れ、桜橋が架かっていた。川の暗渠化は昭和30年代から始められ、昭和37年(1692)には桜橋ポンプ場が竣工した。 桜橋は現存せず、昭和42年(1967)に撤去された。・・・・・・・八丁堀の水路が消えていく時代であった。そして水路上には首都高が出現してくる時代でもあった。

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②取り壊される建物・・・・・・・・・・・・・何となく散歩に来たこの地で、ナント、大正・昭和の取り壊しが目白押しである。 今日、私をこの新富に呼んだのは神仏のお導きかも?

・・・・・・・・・・・・・RUFFY TUFFY・・・・・・・・アート作品を展示する、大正時代の長屋風建物だが、どうやら取り壊しの運命となるらしい。 全ての住人は引っ越ししたようだ。・・・・・・・・・2枚目の写真は平成22年(2010)撮影。夏はツタの緑が綺麗な建物だった、残念!

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・・・・・・・・・・・・川島産業・・・・・・・・戦前の建物と思われるが、数年前から空き家だった、外壁面にはネットがかけられ、電線には保護カバーが取り付けられ、壊される運命か? 2枚目の写真は平成22年(2010)撮影。

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・・・・・・・・・・・・・正金アパート・・・・・・・・昭和6年(1931)に竣工したアパート。こちらも住人は引っ越し、出入り口は封鎖されていた。 まもなく、取り壊しのようだ! これまた、残念!

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・・・・・・・・・・・・・3階建ての鉄筋コンクリートの蔵がある住宅・・・・・・・・・・今月から取り壊し、昭和の蔵が消える。 ツタがお化けのように絡まっている姿は、何かを訴えているようだ!

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・・・・・・・・・・・・・旧松竹キネマ本社 ・・・・・・・・・昭和2年(1927)に竣工した松竹キネマ本社ビル(現・築地菊栄ビル)も仮囲いの中で消えた。・・・・・・・松竹映画の歴史を知る建物だ、ますます残念! 2枚目の写真は平成22年(2010)撮影。

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③新富の料亭? 料理屋?・・・・・・・・・築地の隣り町として、ここも料亭・料理屋が多かったようだ。 面影残す建物が残っている。・・・・・・・・もちろん、営業中の料理屋もある。

・・・・・・・・・・・・黒板塀の家・・・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・料亭 松し満・・・・・・・・・・“只今支度中”

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・・・・・・・・・・・・・躍金楼・・・・・・・営業中の割烹料亭

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・・・・・・・・・・・・元料亭風・・・・・・・・・・

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④昭和の匂いが残る店・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・たばこ田中+宮川商店・・・・・・・・・・・看板建築の2軒長屋

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・・・・・・・・・・・・・・タイル貼りの建物

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・・・・・・・・・・・・・・出桁造りの小さな元商店?・・・・・・・・入口左右の陳列棚が何かを語る!

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・・・・・・・・・・・・・・写真製版所・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・中華料理三久・・・・・・・・・・・2階の花のレリーフが可愛らしさを出している!

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・・・・・・・・・・・・・大野屋・・・・・・・・創業は安永年間(1772~1781)の老舗。嘉永2年(1849)現在地に移転した。 明治5年(1872)、店の近くに新富座が開設され、明治22年(1889)には歌舞伎座がオープンし、役者の足袋を代々扱ってきた。

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2014年1月16日 (木)

錦糸町~東陽町

総武線錦糸町駅から地下鉄東西線東陽町駅まで、1万2千歩、9km。

①錦糸町駅南口周辺・・・・・・・・・・錦糸町駅は、明治27年(1894)に私鉄:総武鉄道の本所(ほんじょ)駅として開業し、明治37年(1904)には総武鉄道が両国橋(現:両国)まで延伸した。 明治40年(1907)には総武鉄道は国有化され、総武本線となる。・・・・・・・ちなみに、私の住む、両国駅とは隅田川を挟んだ対岸の浅草橋駅に総武線が開通したのは、昭和7年(1932)である。・・・・・・・・・今日の散歩の出発点は錦糸町南口で、場外馬券売り場、ラブホテル街のある出入口側である。

・・・・・・・・・・・・・・テルミナ・・・・・・・・・昭和36年(1961)に駅ビル「錦糸町ステーションビル」として誕生した。歴史ある駅ビルだ!

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・・・・・・・・・・・・・東京楽天地・・・・・・・・・昭和12年(1937)、「江東楽天地」として映画館「江東劇場」・「本所映画劇場」の2館を開業した、錦糸町駅前のレジャー施設。 その後、「リッツ劇場」・「キンゲキ」の2映画館も開業した。さらに、吉本興業の「江東花月劇場」などもでき、私の知る戦後では、ミニ“浅草六区”と言えるような感じであった。昭和31年(1956)には、船橋ヘルスセンターなどに刺激されたのか、「楽天地天然温泉会館」がオープンした。昭和61年(1986)に現在の「楽天地ビル」に再開発された。・・・・・・・・私には「東京楽天地」より、「江東楽天地」の方がしっくりするね! その頃は、西部劇、チャンバラ、ピンク映画、ストリップ、何でもあった。 しかも、映画は2本立て、3本立てである。

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・・・・・・・・・・・・・ニュー錦糸町ビル・・・・・・・・・駅前の丸井の裏に横長に建つアパート。昭和43年(1968)築、鉄筋コンクリート造、5階建て。 駅まで徒歩3分で、家賃は8万円ぐらいらしい、最大の特徴は夜の歓楽街のど真中。・・・・・・・・私が写真を撮っていると朝から、『キャバクラどうですか?』とお兄さんの誘いが来る場所! 

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②猿江神社・・・・・・・・・・地下鉄住吉駅の南方に、天照大御神・宇迦之御魂命・猿藤太を主祭神として祀る神社。 平安時代後期、源頼義・義家父子による奥州遠征で、数々の奉勝を立てた家臣に「猿藤太」(さるのとうた)という武将がいた。 猿藤太は此の地の入江で力尽き、地元の漁師達が手厚く葬り、神社の境内に塚を建て葬った。 これにちなみ、猿藤太の「猿」と入江の「江」で、「猿江稲荷」として創建した。・・・・・・・・・神社の旧社殿は関東大震災で焼失し、現社殿は昭和6年(1931)に、宮内庁設計技官の設計により、鉄筋コンクリートの頑丈優美な造りの神社として再建された。 国内最古の鉄筋コンクリート造の社殿である。 東京大空襲では被害はなかったそうだ。

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小名木川・・・・・・・・・・・猿江1丁目の南側を流れる小名木川に架かる小松橋と新扇橋、そして両橋の間に位置する扇橋閘門を見てきた。

・・・・・・・・・・・・・小松橋・・・・・・・・・昭和4年(1929)3月に着工し、昭和5年(1930)1月に完成、工期10カ月とは超突貫工事? 工事費16万137円也。

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・・・・・・・・・・・・新扇橋・・・・・・・・旧橋は昭和4年(1929)に架けられたトラス橋であった。 昭和48年(1973)に、ランガー桁の現橋に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・扇橋閘門・・・・・・・・・・小名木川は旧中川と隅田川を結ぶ運河である。運河のできた江戸時代には旧中川と隅田川では高低差がほとんどなかった。 しかし、戦後中川側の地盤が大きく沈下し、小名木川の中間部にパナマ運河のように閘門(ロックゲート)を設け、水位差を調整し船舶の航行を可能にしている。 昭和51年(1976)度に竣工した、通航料無料の閘門。

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④江東区役所・・・・・・・・・・庁舎は昭和48年(1973)に建設されたが、耐震性能が不足し、昨年補強工事が完了した。 中間階免震工法を採用して、庁舎1階部分の95本の柱に免震装置を取り付けたそうだ。 経費約19億円也、これで10年間延命できるらしいが、その後に建て替えが必要となるらしい。 高いか? 安いか?

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・・・・・・・・・・・・・区役所前に建つ、この表示、、、、、よく見ると怖いぞ!

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・・・・・・・・・・・・上の方にある印は、台風の時の水位である。、、、、と、言うことは、堤防、水門が壊れると、地面から2m以上の高さまで水没するのだ!・・・・・・・・区役所で立派な「江東区防災マップ」をもらったが、利用する機会が無いことを祈るだけ!

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2014年1月14日 (火)

千葉市美術館

今年最初のパソコン同好会の日で、千葉市稲毛まで行った帰り、「千葉市美術館」に寄ってきた。 ここの美術館は、前々から見たかった建物であった。 昨年の暮れ、私の敬愛する友(粋な姉さん)から、粋な姉さんも画がかれている「川瀬巴水展」が開かれていると、巴水の絵葉書で知らせてくれました。・・・・・・・・粋な姉さんから、粋な姉さんを、見に行きなと言われりゃ、行かなきゃ男がすたる! と言うわけで、今日の訪問です。

①千葉市美術館・中央区役所・・・・・・・・・・・平成6年(1994)、国立京都国際会館を手がけた建築家:大谷幸夫(1924~2013)の設計、清水建設の施工で建てられた。・・・・・・・・昭和2年(1927)竣工の旧川崎銀行千葉支店を曳き家により移動させ、鞘堂(さやどう)方式にて旧川崎銀行の建物をそっくり覆うように市民ホールとして再生した建物である。 地上12階/地下3階建てで、下層階は中央区役所で、上層階が美術館となっている。・・・・・・・・・近代的な大きな鉄骨造の建物の中に、昭和初期の銀行が保存されている、珍しいい建築だ!

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②旧川崎銀行千葉支店・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に、建築家:矢部又吉(1888~1941)の設計で川崎銀行千葉支店として建てられた。 昭和18年(1943)には吸収合併により三菱銀行千葉支店となり、昭和46年(1971)に銀行としての使命を終え、以後千葉市役所中央地区市民センターとして利用されていた。・・・・・・・・・矢部又吉はドイツ留学の経験を持ち、古典主義的手法を得意とした建築家である。 この建物は、銀行としてはそれほど大きな規模ではないが、本格的ネオ・ルネッサンス様式の堂々とした建築である。

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・・・・・・・・・・・・・内部は8本の円柱が並ぶネオ・ルネサンス様式の空間を創っている。2階部分には廻廊が設けられている。・・・・・・・現在はコンサートなどで利用されている。

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③「川瀬巴水展」・・・・・・・・・・・川瀬巴水(かわせはすい:1883~1957)は大正・昭和に活躍した浮世絵師・版画家で、名は知らなくても、おそらく多くの人は作品を見ていると思う。 日本各地を歩き、旅情溢れる風景画を数多く残している。 その巴水の作品230点程が展示されている。 あまりの多さに圧倒するね!・・・・・・・展示作品の多くは「渡邊木版美術画舗」所蔵である。 この所蔵先は浮世絵専門の画商で、ここで刷られた版画は「渡邊版」と呼ばれている。 その「渡邊版」の版画70点程も同時に展示されて、中に美人画の伊東深水の作品30点程も含まれていた。・・・・・・・・美人画もいいね! じっくり鑑賞!

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・・・・・・・・・・・・内部は撮影禁止!・・・・・・・・・・巴水の作品は大田区立郷土博物館でも展示中です。

2014年1月13日 (月)

鐘ヶ淵~北千住

東武スカイツリー・ラインの鐘ヶ淵駅から線路沿いに北千住駅まで歩いてきた。 9千歩、7km。

①鐘ヶ淵駅・・・・・・・・・鐘ヶ淵駅は、明治35年(1902)に、東武伊勢崎線の吾妻橋(現・業平橋)~北千住間開業時にできた駅。 駅は大きなカーブに沿い上下線に分かれ、左右両端の2線が緩行線でホームがある。中央2線は、特急、急行が通過する線。・・・・・・・・・・下町の匂いが残るローカル駅私娼街“玉の井”へ続く商店街のある駅転んで脱臼する踏み切りのある駅鐘淵紡績発祥の駅、、、、、いろいろなことを感じる駅。 好きな駅だ!

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・・・・・・・・・・・・・・私の事故現場・・・・・・・・昨年6月、駅前で転び、脱臼で救急搬送され、私には忘れられなくなった駅。・・・・・・・写真右手の交番前に踏切に向かって白線が引かれている、その白線の先の尖った位置が、転倒した場所。 ここに、交通事故防止の願いを込めて地蔵尊でも祀るか? 私の好みでは艶っぽい弁天様がいいね!

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②荒川土手・・・・・・・・・・鐘ヶ淵駅から堀切駅までの間は、荒川土手にすり寄って線路が引かれている。 もともとの線路は荒川の方に膨らんでいたが、荒川の開削工事により、川筋に沿った現在の位置に変更となった。

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堀切駅 ・・・・・・・・・・・・こちらも私の好きな駅、ブログ「雅万歩」にも度々登場!

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④京成本線荒川橋梁・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)に大林組(下部工)/東京石川島造船所(上部トラス)の施工で完成した。全長446.99っも橋梁である。・・・・・・・・・高度成長期の地下水くみ上げで、両岸では広域的な地盤沈下が起き、荒川の治水上の観点から橋梁の架け替えが急務となっている。 しかし、川岸から京成関屋駅にかけ建物が密集して整備できない状態が続いている。 荒川が浸水するとしたら、この場所から始まるかも? 怖いね!・・・・・・・・写真右の国道の橋梁より、京成の橋梁が低いと、一目でわかるね!

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東武牛田駅・京成関屋駅 ・・・・・・・・・・・・鉄道会社は違う、駅名は違う、お客は間違う! 30mの距離で互いに向き合い、何とかしてほしい両駅だ!・・・・・・・ちなみに、両駅とも足立区千住曙町に在る。

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⑥岡田商事引込線跡・・・・・・・・・・かつて、京成関屋駅の西側、隅田川べりに「千住貨物駅」があった。千住貨物駅は、東武伊勢崎線 北千住~牛田間から分岐し、京成本線の高架下をくぐり、隅田川に出ていた。昭和40年(1965)頃まで存続していたらしく、現在は千住貨物駅に引き込まれた線路は撤去され、貨物駅の隣の「岡田商事」という鉄骨解体業者の敷地に引き込まれている部分が残されている。・・・・・・・・私の若い頃まで使用されていた引込線だが、残念記憶なし!

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2014年1月12日 (日)

浅草

今日の台東区の気温は正午で7.6℃、連日の寒さで、今日は散歩を休むつもりでいたら・・・・・・・・・妻の一言『昼から、浅草へ買い物に行ってくるからね!』  反射的に『まて! 俺も一緒に行くよ!』で、決まった。 浅草へ二人で買い物に・・・・・・・

①なんだ?この混みようは!・・・・・・・・・・今日は特別な行事はないはずなのに、やたら混んでる。 仲見世は三ヶ日の初詣状態!・・・・・・・・『チョイト、兄さんどいてくれ!』と言っても、中・韓・台の人には、判らんだろうな!

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・・・・・・・・・・・・・・快晴の下、正月の余韻が残っているようだ! 今日は浅草寺の大屋根も輝いて見えるね!

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・・・・・・・・・・・・・・1月3日に初詣は済ましているので、今日は賽銭を100円に下げて手を合わせて来た。・・・・・・・・・・寺社を参拝しすぎて、賽銭で破産しそうだ!

②空手の演舞・・・・・・・・・・浅草寺のお隣、浅草神社(三社さま)の境内で、空手の演舞が行われていた。 「拳和会」という空手の道場の鏡開きの行事の一貫らしい。 ちびっこもまじり、砂利の上に裸足で、大声を出して、元気よく演じていた。・・・・・・・・拍手!

・・・・・・・・・・・・・・は~い、整列して!

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・・・・・・・・・・・・・・ちゃんと、並んでね、皆さんが見てるよ!、

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・・・・・・・・・・・・・・足が冷たく、痛くても、男の子は我慢! 女の子は諦めと愛嬌!

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・・・・・・・・・・・・・・お! 頭も綺麗に刈り、形も決まってるね! 

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・・・・・・・・・・・・・一人、段取りを忘れたかな!

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・・・・・・・・・・・・・・大人も披露。

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③もうすぐ春?・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・大勢の人が境内の日当たりで、ひと休み!

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・・・・・・・・・・・・・・・早咲きの桜は開花!

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・・・・・・・・・・・・・お! 結婚式のカップルだ! ビューホテルで挙式をあげ、人力車でお披露目道中!  新郎が羨ましいね!

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2014年1月11日 (土)

神田川(豊橋~神高橋)

今日は早稲田から高田馬場まで、神田川を上る散歩です。 1万3千歩、10km。・・・・・・・前回までに豊橋(ゆたかばし)まで歩いたので、今日はつづきです。

①豊橋・・・・・・・・・都電早稲田停留所から豊橋を渡り、豊島区高田の街に入ると、看板建築の家具屋、飲み屋、パテでガラスを押さえたスチールサッシの工場など、古くなった建物が目に入る。 昭和の残る町だ。

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②仲之橋・三島橋・・・・・・・・・・・・・・最下流の柳橋から数えると、人が渡れる橋としては31番目になる仲之橋。 そして、32番目の三島橋。 下流の豊橋と欄干のデザイン・色がにており、個性を感じられない橋が続き、まことに残念だ。

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・・・・・・・・・・・・・・三島橋から川を覗くと、左右の桜の枝が川を覆うように伸びている。花見のシーズンはいいね!

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③甘泉園公園・・・・・・・・・・仲之橋・三島橋の南、西早稲田にある新宿区立の回遊式庭園。 甘泉園公園の、「甘泉園」とは、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたと言われている。・・・・・・・・・・・ここは、江戸時代宝永年間(1704~1711)に尾張徳川家の拝領地となり、明治になると相馬子爵邸の庭園となり、昭和13年(1938)には早稲田大学の付属施設となった。 昭和36年(1961)、早稲田大学が都に売却し、その後新宿区に移管され公園となった。・・・・・・・・・・湧水でお茶を飲んだら下痢になりそうだが、公園としては整備され、四季の変化を楽しめそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・水稲荷神社・・・・・・・・・・甘泉園の隣りに鎮座する神社である。 旧称冨塚稲荷と命名されたが元禄15年(1702)、神木の根元から霊水が湧き出し、水稲荷神社と改名した。眼病のほか水商売および消防の神様として評判である。・・・・・・・・昭和38年(1963)に、早稲田大学と土地交換を行い、甘泉園の隣りの現社地に遷座した。

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④面影橋・・・・・・・・・33番目の橋は都電面影橋(おもかげばし)停留所前の橋。 この橋もデザイン・色が下流の橋と同じで、ガッカリするね! 綺麗な名前から想像できる橋のデザインにならないものか。・・・・・・・・・・「於戸姫(おとひめ)」伝説と言うものがあるそうだ。 戦国時代に、この地に来たという和田靱負という武士の娘於戸姫の伝説である。結婚を断った武士にさらわれ、気を失ったところを杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、やがて近所の小川左衛門に嫁いだ於戸姫は、夫の友人に夫を殺され、仇はとったものの、自分の身に相次いで起こる不幸から、家を出て神田川の川辺でわが身を水に写し、亡き夫を想いながら川に身を投げて夫の許に急いだ。里人は於戸姫の心情を思いやり、面影橋・姿見橋と名付けたという。・・・・・・・・・この手の伝説で身を投げるのは女性ばかりだ、たまには親爺が身を投げる伝説を訊きたいね!

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⑤曙橋・・・・・・・・・「曙橋」といえば、都営新宿線の曙橋駅近くの陸橋が有名だが、こちらは小柄な橋である。 江戸川の桜は下流の江戸川橋からこの曙橋までが見どころである。

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⑥白十字販売・・・・・・・・・・曙橋の北側に疲れたビルがみられる。明治29年(1896)に創業し、脱脂綿・包帯などを生産している「白十字」の旧本社ビル。 建物は昭和34年(1959)の建築で、開口部が大きく、当時としてはモダンなビルだったと思われる。 玄関には創業者のレリーフもある。・・・・・・・現在は高戸橋の際に新本社ビルが建ち、こちらは子会社のビルとなっている。・・・・・・・・最近家庭では見ることが少なくなったが、私の若い頃は、赤い丸の中に白抜きの十字のマークのマスク、包帯、眼帯、絆創膏が薬箱に必ず入っていた。 チョイト、昔を思い出す会社だ!

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⑦都電荒川線神田川専用橋梁・・・・・・・・・・都電荒川線は、ここで神田川を越えて、池袋方面へ向かう。現在の橋桁は昭和51年(1976)に架け替えられた。

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⑧高戸橋・・・・・・・・・・・・・高戸橋(たかとばし)は、都電専用橋を横に見て、神田川に架かる35番目の橋。 橋名は橋の両側の旧町名である、豊島区「高田」と新宿区「戸塚」から一字ずつを頂戴したようだ。 橋の上は明治通り。

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⑨高田橋・・・・・・・・・・明治通りと新目白通りの高戸橋交差点では、北側に高戸橋があり西側に高田橋がある。神田川は交差点を巻くように両橋の下を流れる。・・・・・・・・・・高田橋の下で、神田川に妙正寺川が合流する。 妙正寺川は下落合付近で新目白通りの地下にもぐり、ここ高田橋で顔を出す。(写真右の分水路の吐水口が妙正寺川。左は神田川。)・・・・・・・・この辺りの水も綺麗になって、高度成長時代の川は想像できないね! あと10年もしたら泳げる川になるか?

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⑩源水橋・・・・・・・・・・・橋は最近の護岸工事で、新しく作り変えられた。 この橋の名は、この辺りの地名「源兵衛村」と、村にあった「水車」から、一字ずつパクリ「源水橋(げんすいばし)」となった、ウソのような話だ。・・・・・・・・南こうせつの「神田川」にでてくる“三畳一間の小さな下宿”はここ辺りにあったそうだ。 こちらは、本当のような話。

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⑪戸田平橋・・・・・・・・・・・・・・大正8年(1919)に架橋され、現在の橋は平成11年(1999)に架け替えられた。 橋の名は地名の戸塚から“戸”を、高田から“田”を、架橋に貢献した淀橋区議会議員の平野与三吉から“平”を頂戴し、「戸田平橋(とだひらばし)」となったそうだ。・・・・・・・これまた、ホントの話。橋の近くに石碑が残されている。

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⑫高塚橋・・・・・・・・・・・・39番目は高塚橋。高塚橋は地名の「高田」と「戸塚」から一字ずつパクリ命名したようだ!

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⑬神高橋・・・・・・・・・今日の最後は40番目の神高橋。 高田馬場駅から西武線沿いに北へ向い、神田川に架かる橋。 現在の橋は平成15年(2003)に架けられた。

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2014年1月10日 (金)

西新井~高野

午前中の気温は2℃、北風も少々、寒いけど散歩するか・・・・・・・・東武スカイツリー・ラインの西新井駅から足立区関原・本木・扇地区を歩き回り日暮里・舎人ライナーの高野駅まで、1万1千歩、9kmです。

西新井駅 ・・・・・・・・・明治32年(1899)、伊勢崎線の北千住~久喜間開業時に、途中駅として同時開業した歴史ある駅。・・・・・・・・・・通勤時間帯の大師線 からの乗り換え客も多く、ベッドタウンの駅である。

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②関原通り・・・・・・・・・・・西新井駅西口近くから西新井橋の手前で尾竹橋通りに出る、「関原銀座会」と「関原不動商店街」の2つの商店街で構成されている。全長は1.4km程である。 “商店街”と言っても、チョイト活気がないね!

・・・・・・・・・・・・・・・午前9時、そろそろ開店準備で人影を見たいのだが、、、、ゴーストタウンかな?

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の中程、「ひらさわ呉服店」のトタン看板は、ライオンのタテガミの面構えに似ていることから“ライオン看板”と呼ばれ、終戦直後に多く見られた看板である。

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・・・・・・・・・・・・・本屋に雑誌の自販機を発見!・・・・・・・・・・・珍しいね。 地方の道路沿いや銭湯の近くで、Hな本を販売する壊れた自販機を何度か見たが、商店街の本屋にあるとは、ビックリ! しかも、中の雑誌は最新号である。 これは、間違いなく自販機は正常に動作し、間違いなく買う人がいるということだ!

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・・・・・・・・・・・・・・関原1丁目の愛恵まちづくり記念館・・・・・・・・商店街の裏に建つ昭和の幼稚園

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③渋い!木造住宅・・・・・・・・・・本木南町で発見! 戦前の住宅と思われる、現在は空き家?廃屋?・・・・・・・・・・戦前の住宅では玄関横に、小さな洋風の応接間を配する家がみられた。 ここもその名残か、親しみと懐かしさを感じる一軒だ!

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④ここは、都心でない?・・・・・・・・・・・・間違いなく、“都心でない”根拠を紹介!

・・・・・・・・・・・・・・路線バスが「東武バス」。 都心は「都営バス」。

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・・・・・・・・・・・・・・LPガスの宅配。 都心は都市ガス。

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・・・・・・・・・・・・・・送電線がはう鉄塔。 都心は共同溝。

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・・・・・・・・・・・・・家の周囲は畑。 都心は駐車場。

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・・・・・・・・・・・・・・でも、ここも、23区の内だ!

⑤高野駅・・・・・・・・・・平成20年(2008)に日暮里・舎人ライナーと同時開業。 駅名の「高野」(こうや)は、江戸時代から昭和51年(1976)まであった「足立区高野町」に由来している。

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2014年1月 8日 (水)

浅草橋~東大

朝の天気予報では午後からは雨、『今日は散歩を止めた』と言った瞬間。 妻から『正月のお飾り神社へ納めてきて』と言われ、『じゃあ、ついでに散歩して来るか』と家を出た。 家を出たけど、『何処へ行くか?』  とりあえず御茶ノ水方面へ足を向けたが行くへ定まらず、秋葉原を通過し神田明神前で、『チョイト、兄さん寄っていきなよ!』と天の声。・・・・・・・その後は、芋づる式に、「妻恋神社」、「湯島天神」と神社詣でとなった。 ここまで来たら東大を抜けて、我が家に戻ることにした。  1万2千歩、9km。・・・・・・・・・3つの神社はこちらにも!

①神田明神・・・・・・・・・・・・お江戸の神社の中では知名度抜群の神田明神。 今日も朝から商売繁盛の御利益を期待して、企業の関係者による初詣の行列ができていた。・・・・・・・・中には「恋みくじ」を引いている企業関係者もいた、“なにしに来たのだ!”・・・・・・・・・江戸時代の社殿は関東大震災で焼失し、昭和9年(1934)に現社殿が鉄骨鉄筋コンクリート造で竣工した。 設計は大江新太郎(1875~1935)と佐藤功一(1878~1941)の二人による、施工は木田組。 佐藤功一は早稲田の大隈講堂、日比谷公会堂なども手掛けている。 社殿は、銭形平次も喜びそうな、江戸風の豪華絢爛たる造りである。・・・・・・・・戦後、社殿以外の建物も順次建築され、昭和51年(1976)には、檜木造の隨神門も再建され、境内の整備が進められた。・・・・・・・私の祖父母が明神下の松富町(現:外神田)に住んでいた関係で、小学校入学前までは、現在住む浅草橋と現:外神田が私の飼育地である。 この頃から、飼育地が2か所ある、二重人格の人間となったようだ!

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②妻恋神社・・・・・・・・神田明神と湯島天神の間に位置する神社。創建年代等については不詳。日本武尊が東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、妃の弟橘媛が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したので、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられる。・・・・・・・・チョイト、参拝人が少なくさびしいね! 神社の周囲にはラブホテルが多いので、夜こっそり参拝するカップルもいるかも?

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湯島天神・・・・・・・・・・・社伝によると、雄略天皇2年(458)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建された。正平10年(1355=室町時代)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。現在の正式名称は「湯島天満宮」と称するらしい。 私には、婦系図のお蔦・主税を連想させる「湯島天神」がいいね!・・・・・・・・・・天神さまは、初詣でが終わり、、引き続き受験シーズンに向け合格祈願の受け入れ、その後は「梅まつり」と続き、稼ぎ時だね!

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東大医学部附属病院南研究棟 ・・・・・・・・・・・・内田祥三、岸田日出刀の設計で、大正14年(1925)に完成した旧東京帝国大学医学部附属医院精神科病棟。 表現主義の影響を受けた特徴的建築で、本郷キャンパス内の建物の中でも古い建物である。 外部はボロボロ状態で劣化しており、内部は狭く使いにくいようだ。・・・・・・・・・この建物はいずれ壊され、平成30年度完成予定で「クリニカル・リサーチセンターB棟」に建て替える計画が進められている。 残念だが、また歴史ある建物が消える運命だ。

・・・・・・・・・・・・・・・ボロボロの外部

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・・・・・・・・・・・・・内部は1階が精神神経科、2階は整形外科、耳鼻咽喉科、精神医学の各教室、3階は老年病、産科婦人科の各教室が入っている。 もちろん、病院の外来棟ではないので一般の患者が来る建物ではないが、チョイト、研究室としては可哀そうだね!

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⑤東大医学部附属病院外来棟・病棟・・・・・・・・・・・・・東大病院は平成になると、外来棟、中央診療棟、入院棟など、一連の建物を建て替え、近代的な総合病院としてさらに整備・機能強化した。・・・・・・・・・私も、2年程前に夜間の救急診療でお世話になったお客の一人である。 強度のめまいと吐き気で救急車で運ばれ、点滴され、検査され、結果は異状なし、『帰りはタクシーでお帰りください』の“お騒がせ患者”となってしまった。 この時作った診察カードは大事に保管し、次回に役立てるつもりだ! 

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⑥「東大医学部・附属病院の155年」展・・・・・・・・・・病院前の医学部総合中央館にある「健康と医学の博物館」で実施されていた特別展示を拝見してきた。・・・・・・・安政5年(1858)の「神田お玉ヶ池種痘所」を起源とする東大医学部・附属病院の、今日までの歴史を史料で回顧する興味深い展示内容であった。

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2014年1月 7日 (火)

神田川(江戸川橋~豊橋)

江戸川橋から早稲田まで、直線で1km程のところを、目白台の坂を上ったり下ったりして、1万1千歩、8kmの散歩です。

江戸川橋 ・・・・・・・・・・・“神田川”に“江戸川”橋とは??  井之頭池を起点とする神田上水は、途中で妙正寺川、善福寺川と合流し飯田橋に流れてくる、現在の都電早稲田停留所近くの文京区関口から飯田橋までをかつて「江戸川」と称した。また、飯田橋から下流隅田川までを「神田川」と称した。 昭和40年(1965)の河川法改正により、「江戸川」は廃され「神田川」に統一された。、、、、、、と、他人の文献に書かれている。 その「江戸川」に架かる橋なので「江戸川橋」、、、、、、あたり前田のクラッカー!(チョイト古かった!)

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・・・・・・・・・・・・・・江戸川公園・・・・・・・・・江戸川橋西側の左岸沿いの公園で桜の名所。・・・・・・・・・公園には、大正2年(1913)から江戸川の護岸工事を着工し同8年に完成させた、近くに居を構えていた薬学者:大井玄洞の胸像(昭和3年)が建てられている。 堂々たる髭とテカテカ頭が特徴的で、偉そうな明治の学者先生だ!

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②一休橋・・・・・・・・・・・江戸川公園とその対岸を結ぶ人道橋。・・・・・・・・頓知の得意な「一休さん」とは無関係の橋名で、橋の左岸に徳川御三家の一つ一橋家の屋敷があったことから、一橋を音読みして「いっきょうばし」、それが転じて「いっきゅうばし」となったらしい。

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・・・・・・・・・・・・・江戸川公園に移設・保存されている、関口の大洗堰(神田上水)取水口の石柱。 

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③大滝橋・・・・・・・・・江戸川公園西詰、神田上水取水口「大洗堰」のあった場所に架かる橋。 ここの堰で神田上水は目白台側に取水されて小石川の水戸屋敷へ流れて行った。 堰で残った水は、江戸川(神田川)として隅田川に流れ向かうことになる。 橋名は堰から水が流れ落ちるイメージで命名されたそうだ。(江戸時代のこと) 現橋は昭和57年(1982)に完成。

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・・・・・・・・・・・・・江戸川公園は大滝橋のあたりから目白台に上る急な階段が整備され、関口台町小学校、椿山荘前を抜けて目白通りに出られる。・・・・・・・・上るのが辛い! 

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カテドラル関口教会 ・・・・・・・・・・・カトリック教会は地域的区分として“教区”があり、日本国内は16教区に分割されている。 教区のトップは司教(大司教)で、儀式で司教が着座する椅子を“カテドラ”と呼ぶ。 カテドラのある教会を“カテドラル”(司教座聖堂)と呼ぶ。 関口教会はそのカテドラのある中心的な教会である。・・・・・・・明治32年(1899)に木造ゴシック様式・畳敷きの教会が建てられ、大正9年(1920)に東京大司教座聖堂となる。 その後、東京大空襲で被災し、昭和39年(1964)に丹下健三の設計、大成建設の施工で、約40mの高さの現聖堂が建てられた。

・・・・・・・・・・・・・・「魅せられて」を歌うジュディ・オングを思い出すアングルでパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・正面にまわりパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・高さ61.68mの鐘塔とツーショットでパチリ!

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・・・・・・・・・・・世の雑音を吸収し静寂を創り出している、コンクリート打ち放しの大空間は、圧巻だ!

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⑤和敬塾・・・・・・・・・・カテドラル関口教会の前を神田川の方向に入ると、男子大学生専用の学生寮「和敬塾」がある。 寮は、冷凍機メーカー「前川製作所」の創立者:前川喜作が、昭和30年(1955)、旧細川邸の一部7000坪の敷地に建てた。 6棟の寮棟と学生ホールと本館の主要建物で構成され、約580名の学生が共同生活を送っている。・・・・・・・・・入塾金約20万円、塾費月額約10万円で、家賃・光熱費・食費が含まれた好環境で学生生活を過ごせるそうだ。 羨ましいね!

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・・・・・・・・・・・・・・和敬塾本館・・・・・・・・・昭和11年(1936)に細川護立(元首相細川護煕の祖父)が細川侯爵家の本邸として建てた西洋館。 広い芝生の庭園を持つ、英国チューダー様式の邸宅は、結婚式・パーティなどにも利用されている。・・・・・・・・本館の南側に、敷地は分割されているが、旧細川邸の一部として新江戸川公園、永青文庫 がある。

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⑥駒塚橋・・・・・・・・・・・橋名は、諸説あるらしいが、馬(駒)を繋ぐ場所であったらしい。・・・・・・・・和敬塾から永青文庫の前を通り、目白台から胸突坂を下ってくると正面に架かる橋だ。

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・・・・・・・・・・・・・駒塚橋上から見ると、電柱の右に胸突坂、左に水神社がある。

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・・・・・・・・・・・・・・胸突坂・・・・・・・・目白通りから駒塚橋に下る急な坂、距離58m、高低差13.26mである。 坂の西側には小さな社の水神社(神田上水の守護神)があり、東側は関口芭蕉庵である。

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⑦豊坂・・・・・・・・・・・日本女子大附属小学校と付属幼稚園の間に豊坂がある。この坂も目白台を下り神田川に出る坂の一つである。

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・・・・・・・・・・・・・・坂の下り口で路地を発見! 古い外灯が2本並び、御影石を敷いた路地が誘う。突き当りには日本女子大豊坂別館が煉瓦調のデザインで引き付ける。 いい雰囲気だ!

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・・・・・・・・・・・・豊坂を下った脇道の奥には、目白ハウスが佇んでいる。 タイル貼りの歴史のありそうな建物。 戦前の建物であることは間違いないが、年代不明、用途不明。 いまは個人住宅のようだ!

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⑧豊橋・・・・・・・・・・豊坂を下り神田川に出ると豊橋(ゆたかばし)がある。 坂からの途中に豊川稲荷の祠があり、橋名の由来となったようだ。

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・・・・・・・・・・・・・橋を渡ると都電早稲田停留所 終点です。・・・・・・・今日の散歩も終点です!

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2014年1月 5日 (日)

新小岩~四ツ木

松の内は年始客の合間の散歩となり、今日は3時過ぎのお出かけとなった。 総武線新小岩駅から荒川の左岸を上り京成押上線四ツ木駅まで、1万歩、7kmの歩きです。

(一昨年、ほぼ同じコースを四ツ木から新小岩に向かって歩いている。 →こちら

①巽橋・・・・・・・・・新小岩駅北口駅前の道を行くと蔵前橋通りと平和橋通りの交差点にぶつかる。 ここが巽橋(たつみばし)交差点である。 この交差点の下に、運河「西井堀」が流れていた。 運河は暗渠化され巽橋の遺構として、昭和初期(?)の竣工と思われるコンクリート造りの親柱・欄干が残されている。 暗渠上の道路は車止めもあり車は入れない、中途半端な整備だな! 

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②上平井水門・・・・・・・・・・・中川と綾瀬川の合流点に昭和45年(1970)に完成した上平井水門。 有効幅員30m×4連の大きなスケールの鋼製ローラーゲート形式(扉の両側にローラーを取り付け引きあげて開閉する)水門で、高潮や津波による中川の洪水を阻止し、中川・綾瀬川流域の街を水害から守るのが役目である。・・・・・・・・・この水門、建設当時の金額で約23億円也。 都民を水害から守るのであれば安いかな!

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・・・・・・・・・・・・・・上流側から眺めると・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・水門の脇に見える斜張橋は「かつしかハープ橋」

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③上平井橋・・・・・・・・・・上平井橋は上平井水門の上流で、綾瀬川と中川が合流する直前の中川に架かる橋。 昭和三十年代に架け替えられた、下路曲弦ワーレントラス橋。 話題の無い、影の薄い橋。

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④浄光寺(木下川薬師)・・・・・・・・・・・・・嘉祥2年(849=平安初期)に創建された天台宗の古刹。通称、木下川(きねがわ)薬師と呼ばれている。 江戸時代には徳川家の祈祷所・御膳所として庇護され、江戸名所として賑わっていた。・・・・・・・・・現在地は東四つ木1丁目だが、以前は荒川の“川のど真ん中”にあった。大正8年(1919)に荒川放水路(現:荒川)の開削工事により、立ち退き、現在地に移転した。

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⑤木根川商店街・・・・・・・・・葛飾区東四つ木で2軒だけが営業中の商店街。

・・・・・・・・・・・・・正月早々、理容店"タジマ"の灯りがともる商店街入り口

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・・・・・・・・・・・・・左右の店を結ぶ、渡り廊下の下を入ると、商店が続いていた。

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・・・・・・・・・・・・・かつては寿司屋や鳥料理店、電器店、美容室なが左右に並び、奥に銭湯「宝湯」があったそうだ。 その頃は商店街名も「宝商店街」と称し、銭湯を中心とした昭和の街があったそうだ。 屋根がないアーケードに白熱電球が寂しそうに灯った!

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・・・・・・・・・・・・・・理容店とともに頑張って営業を続ける中華食堂"宮城"。

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⑥荒川左岸の土手を行く・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・綾瀬川 に架かる東四つ木避難橋。 昭和62年(1987)に架けられた、東四つ木地区から荒川左岸堤防への避難用人道橋。 橋の正面にはスカイツリーがお出迎えしてくれる。

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・・・・・・・・・・・・・荒川土手から見ると、左側に綾瀬川、右側に荒川、正面にハープ橋が見える。

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・・・・・・・・・・・・土手の上では、まだ見物人はいないタップダンス練習中の男性、寒い中で語らう熱いカップル、衰えを感じジョギングに活路を開く中年カップル。

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・・・・・・・・・・・・・日が落ちてきた、河川敷での練習を終え帰るぞ! 後を追う、PTA!

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・・・・・・・・・・・・・木根川橋・・・・・・・・・昭和44年(1969)完成した、墨田区八広と葛飾区東四つ木とを結ぶ鋼トラス桁の橋。

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2014年1月 4日 (土)

東京タワー

正月の寺社巡りは飽きたので、スカイツリーに上る前の予行練習(私は高い所が苦手なので)を兼ね、妻と東京タワーに行くことにした。 8千歩、6km。

 

①芝大神宮 ・・・・・・・・・・・寛弘2年(1005=平安中期)の創建で、天照皇大御神・豊受大御神を主祭神とする歴史ある神社。 江戸時代には将軍家の庇護を受け、明治になると准勅祭社・府社に列格した権力ある神社。 現在の:新橋・芝公園・浜松町・芝大門・海岸・東麻布などの広い地域を氏子とする動員力ある神社。 境内の石段を上がる手前には「貯金塚」なる碑が建ち銀行がバックについている財力ある神社。 巫女さんは若手美人が多く参拝が楽しくなる集客力ある神社。 文化2年(1805)には境内で、江戸町火消し「め組」と相撲の力士による乱闘事件「め組の喧嘩」が発生し話題性に富んだ神社。

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・・・・・・・・・・・・ついでに、神社の北側には、昭和50年頃まで「芝神明花街」として三業地が存在していました艶っぽい神社。 大正時代には料亭40軒以上、芸妓120名以上で花街の全盛だった。

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②増上寺・・・・・・・・・・・東京タワーに行くには通り道の寺なので、とりあえず参拝して行こう!

・・・・・・・・・・・・・朱漆塗のデカイ門は三解脱門・・・・・・・・・現在の門は、徳川幕府により元和8年(1622)に再建された。 門の2階は非公開らしいが、チョイト拝見したいね!

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・・・・・・・・・・・・・三解脱門の左隣の旧方丈門・・・・・・・・三解脱門が参拝客が出入りする表門(本当の表門は大門)とすると、こちらは駐車場につながる裏ゲートである。・・・・・・・・・その昔は、黒漆塗りの増上寺方丈の表門であった。 三代将軍家光の寄進で、慶安年間(1648~1652)の建立とされている。 国の重要文化財には指定されておらず、都の文化財となっている。 だいぶ風蝕しているので、チョイト修理してほしいね!

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・・・・・・・・・・・・旧方丈門の脇に「土木建築殉職者慰霊塔」がある・・・・・・・・・全国建設業協会が昭和12年(1937)に建立した、建設業での殉職者約6万2千柱を合祀した慰霊塔。 平成8年(1996)に改修工事が行われ、塔の中からは当時の竹中藤右衛門(竹中工務店初代社長)、鹿島精一(鹿島組(鹿島建設)社長)らが未来に託した漆塗りの箱が発見されたそうだ。 タイムカプセルで、100年後の平成52年までは封印されているため内容は???・・・・・・・・・ゼネコンで禄を頂いた私にとっては、諸先輩の霊を弔う場所の一つである。 妻と二人で合掌!

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・・・・・・・・・・・・・経蔵・・・・・・・・・・・徳川幕府の助成により、慶長10年(1605)に建立された経蔵は内部中央に八角形の輪蔵を配する、八間四面、土蔵造りの典型的な経蔵である。 つまりは、大きな蔵だ!

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・・・・・・・・・・・・・大殿・・・・・・・・・旧本堂は戦災で焼失し、昭和49年(1974)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で大殿(本堂)が再建された。 正面に本尊阿弥陀如来(室町期製作)が祀られている。

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③東京タワー・・・・・・・・・・・・・・昭和33年(1958)に竣工した高さ333mの電波塔。 施工は竹中工務店。・・・・・・・・今日は、久しぶりに夫婦で見学。 私達も、『スカイツリーが見える!』、『富士山はどこ?』、『あの橋はレインボーブリッジ?』、、、、、まるで遠足気分! 塔の下のビルでは、『蝋人形館がないね!』、『科学館が無くなった?』、『タワーの形した鋳物の置物売っていないね?』、、、、これまた、思い出話だ!

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●・・・・・・・・・・・・展望台では恐怖を感じず。 ヨシ、今度はスカイツリーだ!

2014年1月 3日 (金)

浅草寺

正月は観音さま(浅草寺)に詣でないと、私の一年は始まらない! 昼過ぎに“ご挨拶”に行ってみた。

・・・・・・・・・・・連日の晴天に恵まれ、浅草は超満員のようだ。 スカイツリーも超満員かも? 準地元の住人としては、今年は展望台に上がるかな。(高所恐怖症なので躊躇している)

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・・・・・・・・・・・・雷門前はスゴイ人出、交通規制が行われ、浅草寺の参拝はここから並び、本堂まで2時間待ちの状態。 

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・・・・・・・・・・・・・勝手知ったる私は、ヨシ、並ぶのはやめて、脇道から浅草寺の隣り「三社さま(浅草神社)」に向かうことにした。 途中、綺麗所に目を向けながら、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・オヤ、外人の露店商だ、最近よく見かけるね!

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・・・・・・・・・・・・・スカイツリーを正面に見る裏通り、正月の雰囲気出てるね!

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・・・・・・・・・・・・・参道の仲見世を横切る人々。 ここから、ズルして参道に紛れ込むのは難しい、チャントお巡りさんが見張っていた。

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・・・・・・・・・・・・・・夕日に照らされた仁王門の横に到着。 本堂まで続く、交通規制された参拝客。 2時間近く整然と並び、参拝する人・人・人 良き年となるよ!

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・・・・・・・・・・・・・・三社さま(浅草神社)も行列。 でも、15分程度の待ちだ、並んで手を合わせて来た。

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・・・・・・・・・・・・・三社さまの裏手に鎮座する被官稲荷神社 。 新門辰五郎奉納の鳥居も残っている。 知る人ぞ知る、“通”の神社だ! 

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・・・・・・・・・・・・・観音さまの裏手をまわり影向堂で大黒さまに手を合わせるつもりが、堂の前でカップルと娘さんに惑わされ、忘れてしまった。 いずれ、女難の罰が当たるかも?

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・・・・・・・・・・・・・・演芸場に灯りがともり、人が行き交い、華やかなりし浅草が戻ってきたようだ! ワクワクするね!・・・・・・・・・女剣劇、デンスケ、ロッパの時代を思い出すね!

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・・・・・・・・・・・・・ホッピーで牛すじ煮込、超満員。 酒が飲めない私には チョイト辛い! 

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・・・・・・・・・・・・・バイリンガルの車夫?(車婦?)も道案内する、忙しさ!

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・・・・・・・・・・・・・裏道も灯りがともり、賑やかだ。 オ、可愛いね!

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・・・・・・・・・・・・仲見世に戻ると、並んでいた参拝客も減っていた。 ヨシ、観音さまへ手を合わせて帰ろう。 でも、チョイト混んでるね!

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・・・・・・・・・・・・・やっと本堂についた.大きな賽銭箱の周りは手を合わせる人・人・人

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・・・・・・・・・・・・・これで今年も、私は観音さまに手を合わせたので、いい年が始まるぞ! 乞う、ご期待!

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2014年1月 1日 (水)

日本橋七福神めぐり

年の初めの散歩は、夫婦で「日本橋七福神めぐり」からとする。 “日本橋”と言っても、あの有名な橋がある処だけでなく、私の住む浅草橋の隣り町(境は神田川)は、日本橋馬喰町、東日本橋、日本橋横山町と“日本橋”の冠を頂く町名がズラリ。 「日本橋七福神」は、日本橋人形町の交差点を中心に、0.7km程の円内に点在する七福神である。 我が家から、ぐる~~と、ひとめぐりして我が家まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①銀杏岡八幡神社・・・・・・・・・・まずは余所の神社に行く前に、浅草橋駅裏に鎮座する我が家の氏神さまに新年のご挨拶、“今年もよろしくお願いします”。・・・・・・・・・・源義家が奥州征伐のため下向の折、当地で休憩中、川上より銀杏の枝が流れてきた。義家はその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願した。奥州平定後、再びこの地によると銀杏が大きく繁茂していた。義家は、康平5年(1062=平安時代中期)、神に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのがで神社の始まり。

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・・・・・・・・・・・・・マクドナルドも売り上げ不振で撤退し、何かと、都会にあって、チョイト話題の乏しい浅草橋。 そこに、鯛焼き屋が年末にオープンした。 オ、オ、元旦から店が開いている! 店の店員さんも可愛いので、2個買って橋の袂で夫婦で立ち食い。

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大安楽寺・・・・・・・・・ここは、伝馬町の牢屋敷跡で、受刑者を弔うために大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、明治15年(1882)に創建された新高野山大安楽寺。・・・・・・・・今年最初の寺は牢屋跡、なんだかこの先一年、心配になってきた!

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③宝田恵比寿神社(日本橋七福神:恵比寿神)・・・・・・・・・・・・七福神めぐりの最初はここから。・・・・・・・・宝田村は現在の皇居前で、そこの鎮守さまであった神社が、家康による江戸城の拡張で現在地(中央区日本橋本町)に移転させられた。・・・・・・・・・・小さな神社で、普段は、通り過ぎても神社と気づかない神社。 気づくのは、正月の七福神めぐりと“べったら市”の時だけだ。・・・・・・・・・・この神社には神主は常駐しておらず、何か儲け話(口が悪いので失礼!)があるときは、神田明神から神主が出向いてくるそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・徳川家康から下賜された御神体の恵比寿神は運慶作と伝えられている。

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椙森神社(日本橋七福神:恵比寿神)・・・・・・・・・日本橋堀留町に鎮座する椙森(すぎのもり)神社。 ここは富くじの神社で、江戸の町が大火で焼けたときの再建費用を富の興行で稼いだそうだ。 「年末ジャンボ」を買ってから手を合わせていないので、1等のチャンスを逃したのかも?・・・・・・・・・・「七福神めぐり」に来て、御神体の恵比寿大神の姿は見えず。 御隠れになっているようだ! “正月ぐらいは、姿を見せろ!”と誰かが言っていた。

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⑤出世稲荷神社・・・・・・・・・・・堀留町にある当神社は、境内周辺が拓けてきた元和3年(1617=江戸時代初期)に、北条家浪人庄司甚右衛他数名の仮屋敷内に創建した。 初代市川団十郎が日参し名をあげ、出世稲荷神社と称されるようになった。 現在の本殿は、関東大震災後に椙森神社の拝殿を再利用して建立されたらしい。・・・・・・・・・マンションの奥の非常階段下に、窮屈に祀られている神社だ。・・・・・・・・・・私は、かなり以前から手を合わせているが、いまだに出世しないのは賽銭が少ないからか?

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⑥三光稲荷神社・・・・・・・・・・・江戸の町では商売繁盛を祈る稲荷信仰が盛んであった。 その名残で、中央区・台東区などには小さな稲荷神社がアッチャコッチャに祀られている。 ここもそのひとつ、日本橋堀留町にある稲荷神社。・・・・・・・三光稲荷神社は、当地に住んでいた絹布問屋、木綿問屋の二軒の商家が江戸時代初期に勧請した。・・・・・・・・・・神社の世話役らしき方に、今日聞いた話では、近くに鼠小僧が住んでいたとか。・・・・・・・・・妻は干支の根付をお土産に購入。 これが縁で、我が家に鼠小僧が小判をもって来てくれたら嬉しいのだが!

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⑦橘稲荷神社・・・・・・・・・・・現:日本橋人形町3丁目の一角には、将軍家御典医・岡本玄冶の屋敷があったことから、一帯を玄冶店(げんやだな)と称した。 岡本玄冶の屋敷には将軍家から下賜された稲荷神社があり、玄冶の元姓の“橘”に因んで、橘稲荷と称されていた。・・・・・・・・・スグに出てくる春日八郎が歌う「お富さん」 ♪♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄治店 ♪♪(昭和29年)

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小網神社(日本橋七福神:福禄寿、弁財天)・・・・・・・・・・日本橋小網町にある神社です。創建年代は不詳。 現:社殿・神楽殿は昭和4年(1929)築。・・・・・・・・・・福禄寿は狭い・短い参道の脇に、弁財天は社務所の前に、どちらもピカピカ、“人寄せパンダ”のように最近祀られたように見える。(私は目が悪いのかも?)・・・・・・・・・・・銭洗い弁天が人を引き寄せるのか、30分待ちの行列。

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⑨茶の木神社(日本橋七福神:布袋尊)・・・・・・・・・日本橋人形町の高層マンションの敷地内に茶の木神社はある。下総佐倉の城主:掘田家の中屋敷にあった守護神が祀られている。 布袋尊は昭和60年(1985)に遷座した新参者である。・・・・・・・・・・・社殿正面から手を合わせると、布袋尊が見えない。またもやお隠れになったかと思い、脇から覗くと小さな布袋尊が、大根のヘタの後ろに、いた!

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⑩松島神社(日本橋七福神:大国神)・・・・・・・・・・・・・日本橋人形町2丁目のビルの1階正面に鎮座する神社で、創建年代は不詳。 言い伝えでは、鎌倉時代、この辺りが入り海であった頃小島があり、下総の柴田家の祖先が島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、毎夜灯す燈火を目標に舟人が航海の安全を得た。その後、安土桃山時代に邸宅内の神社を公開し、松島稲荷大明神と称した。・・・・・・・・・ここでも、小さなピカピカの大国さまは、社殿の奥に鎮座し、よく見えない。

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⑪末廣神社(日本橋七福神:毘沙門天)・・・・・・・・・・・・・江戸時代初期、葭原(元吉原)がこの地にあったが、明暦の大火で葭原は浅草の現:吉原に移転した。 神社は延宝3年(1675)に本殿が修復され、この時、末廣扇が出てきたので、氏子はよろこび祝って末廣神社とした。・・・・・・・・・・・・ここも、普段は通り過ぎてしまうような印象の薄い神社だ。 祭神の毘沙門さまは、これまでの神社と同様で、同じようなサイズ、同じような材質、同じような輝きを放つ、同じような像である。

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笠間稲荷神社(日本橋七福神:寿老神)・・・・・・・・・・・・安政6年(1859)に、茨城の笠間稲荷神社より分霊を受け、日本橋、浜町公園の一角に祀られた。 昭和20年(1945)の空襲で被災し、昭和28年(1953)に現在の地(日本橋浜町2)で再建された。・・・・・・・・寿老神は社殿の中にいるようだ。参拝者には見えず、“本当にいるのか?”と叫びたくなるね。

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⑬水天宮(日本橋七福神:弁財天)・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・日本橋蠣殻町の水天宮は、只今改築中。  交差点角の交番(写真中央)だけ残し、敷地は仮囲いで囲まれ、社殿は全て消えてしまった!

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・・・・・・・・・・・・・・“本店工事中につき、浜町明治座前の仮店舗で営業中です”ということで、こちらは仮社殿

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・・・・・・・・・・・・・・なんだ、ここでも弁財天は“お隠れ”していた。 せめて、お顔だけでも、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・以上、水天宮までで「日本橋七福神めぐり」は終わり。 何となく、昔の見世物小屋を覗いたような感じがする。 

薬研堀不動院 ・・・・・・・・・「七福神めぐり」の口直しに、我が家へ帰る途中にある、東日本橋の薬研掘不動院にお立ち寄り。

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・・・・・・・・・・・・矢ノ庫稲荷神社(やのくらいなりじんじゃ)・・・・・・・薬研堀不動院の隣りにある小さな神社。 正保2年(1645)、幕府の米蔵の鎮神として祀られた。 平成23年(2011)には、薬研堀不動院開創420年にあわせ、新社殿が奉納された。

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⑮川上稲荷神社・・・・・・・・・・・両国橋に近い東日本橋のビルの谷間に祀られている川上稲荷神社。 寛永5年(1628)創建、江戸幕府の乗船場に在ったが、明治2年に新開の街になるにつけ、現在地に遷座された。・・・・・・・・・散歩のおまけにお立ち寄り。

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・・・・・・・・・・・・神社を過ぎれば柳橋。

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⑯篠塚稲荷神社・・・・・・・・・・本日の散歩の締めは、柳橋の篠塚稲荷神社。・・・・・・・・・正平年間(1325頃)、新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、篠塚稲荷と称されるようになった。

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・・・・・・・・・・・・・神社前の料理屋。 花柳界の時代が懐かしい!

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●・・・・・・・・・・・・・神社15社、寺院2寺の17寺社をめぐる散歩となった。 やりすぎた! 賽銭は使いすぎた! 

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