新富
連日の寒さで、午前中は出遅れ、3時過ぎに中央区新富の一帯をブラブラ、キョロキョロ、ジックリ、歩いてきました。 9千歩、6km。
・・・・・・・・・・・・「新富」は、東に「入船」、西に「銀座」、北に「八丁堀」、南に「築地」と、四方を歴史ある町に囲まれた、これまた歴史ある地区です。 昭和46年(1971)の住居表示変更以前は「新富町」と称してた。 私は新富町と“町”をつけて話す方が多いね。・・・・・・・・・江戸時代の新富町は武家屋敷の街で、明治初期には歌舞伎の新富座がオープンした。 関東大震災では一面焼け野原と化し、その後は商店と住宅が混在する町となり、今も面影を残している。 一丁目、二丁目で住人1700名の町。
①桜橋ポンプ場・・・・・・・・・・・京橋交差点方向から来ると、弾正橋を過ぎて右側に東京都下水道局の桜橋ポンプ場がある。ここは、桜川(楓川の別名)が流れ、桜橋が架かっていた。川の暗渠化は昭和30年代から始められ、昭和37年(1692)には桜橋ポンプ場が竣工した。 桜橋は現存せず、昭和42年(1967)に撤去された。・・・・・・・八丁堀の水路が消えていく時代であった。そして水路上には首都高が出現してくる時代でもあった。
②取り壊される建物・・・・・・・・・・・・・何となく散歩に来たこの地で、ナント、大正・昭和の取り壊しが目白押しである。 今日、私をこの新富に呼んだのは神仏のお導きかも?
・・・・・・・・・・・・・RUFFY TUFFY・・・・・・・・アート作品を展示する、大正時代の長屋風建物だが、どうやら取り壊しの運命となるらしい。 全ての住人は引っ越ししたようだ。・・・・・・・・・2枚目の写真は平成22年(2010)撮影。夏はツタの緑が綺麗な建物だった、残念!
・・・・・・・・・・・・川島産業・・・・・・・・戦前の建物と思われるが、数年前から空き家だった、外壁面にはネットがかけられ、電線には保護カバーが取り付けられ、壊される運命か? 2枚目の写真は平成22年(2010)撮影。
・・・・・・・・・・・・・正金アパート・・・・・・・・・昭和6年(1931)に竣工したアパート。こちらも住人は引っ越し、出入り口は封鎖されていた。 まもなく、取り壊しのようだ! これまた、残念!
・・・・・・・・・・・・・3階建ての鉄筋コンクリートの蔵がある住宅・・・・・・・・・・今月から取り壊し、昭和の蔵が消える。 ツタがお化けのように絡まっている姿は、何かを訴えているようだ!
・・・・・・・・・・・・・旧松竹キネマ本社 ・・・・・・・・・昭和2年(1927)に竣工した松竹キネマ本社ビル(現・築地菊栄ビル)も仮囲いの中で消えた。・・・・・・・松竹映画の歴史を知る建物だ、ますます残念! 2枚目の写真は平成22年(2010)撮影。
③新富の料亭? 料理屋?・・・・・・・・・築地の隣り町として、ここも料亭・料理屋が多かったようだ。 面影残す建物が残っている。・・・・・・・・もちろん、営業中の料理屋もある。
・・・・・・・・・・・・黒板塀の家・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・料亭 松し満・・・・・・・・・・“只今支度中”
・・・・・・・・・・・・・躍金楼・・・・・・・営業中の割烹料亭
・・・・・・・・・・・・元料亭風・・・・・・・・・・
④昭和の匂いが残る店・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・たばこ田中+宮川商店・・・・・・・・・・・看板建築の2軒長屋
・・・・・・・・・・・・・・タイル貼りの建物
・・・・・・・・・・・・・・出桁造りの小さな元商店?・・・・・・・・入口左右の陳列棚が何かを語る!
・・・・・・・・・・・・・・写真製版所・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・中華料理三久・・・・・・・・・・・2階の花のレリーフが可愛らしさを出している!
・・・・・・・・・・・・・大野屋・・・・・・・・創業は安永年間(1772~1781)の老舗。嘉永2年(1849)現在地に移転した。 明治5年(1872)、店の近くに新富座が開設され、明治22年(1889)には歌舞伎座がオープンし、役者の足袋を代々扱ってきた。
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