日本橋七福神めぐり
年の初めの散歩は、夫婦で「日本橋七福神めぐり」からとする。 “日本橋”と言っても、あの有名な橋がある処だけでなく、私の住む浅草橋の隣り町(境は神田川)は、日本橋馬喰町、東日本橋、日本橋横山町と“日本橋”の冠を頂く町名がズラリ。 「日本橋七福神」は、日本橋人形町の交差点を中心に、0.7km程の円内に点在する七福神である。 我が家から、ぐる~~と、ひとめぐりして我が家まで、1万2千歩、9kmの散歩です。
①銀杏岡八幡神社・・・・・・・・・・まずは余所の神社に行く前に、浅草橋駅裏に鎮座する我が家の氏神さまに新年のご挨拶、“今年もよろしくお願いします”。・・・・・・・・・・源義家が奥州征伐のため下向の折、当地で休憩中、川上より銀杏の枝が流れてきた。義家はその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願した。奥州平定後、再びこの地によると銀杏が大きく繁茂していた。義家は、康平5年(1062=平安時代中期)、神に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのがで神社の始まり。
・・・・・・・・・・・・・マクドナルドも売り上げ不振で撤退し、何かと、都会にあって、チョイト話題の乏しい浅草橋。 そこに、鯛焼き屋が年末にオープンした。 オ、オ、元旦から店が開いている! 店の店員さんも可愛いので、2個買って橋の袂で夫婦で立ち食い。
②大安楽寺・・・・・・・・・ここは、伝馬町の牢屋敷跡で、受刑者を弔うために大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、明治15年(1882)に創建された新高野山大安楽寺。・・・・・・・・今年最初の寺は牢屋跡、なんだかこの先一年、心配になってきた!
③宝田恵比寿神社(日本橋七福神:恵比寿神)・・・・・・・・・・・・七福神めぐりの最初はここから。・・・・・・・・宝田村は現在の皇居前で、そこの鎮守さまであった神社が、家康による江戸城の拡張で現在地(中央区日本橋本町)に移転させられた。・・・・・・・・・・小さな神社で、普段は、通り過ぎても神社と気づかない神社。 気づくのは、正月の七福神めぐりと“べったら市”の時だけだ。・・・・・・・・・・この神社には神主は常駐しておらず、何か儲け話(口が悪いので失礼!)があるときは、神田明神から神主が出向いてくるそうだ。
・・・・・・・・・・・・・徳川家康から下賜された御神体の恵比寿神は運慶作と伝えられている。
④椙森神社(日本橋七福神:恵比寿神)・・・・・・・・・日本橋堀留町に鎮座する椙森(すぎのもり)神社。 ここは富くじの神社で、江戸の町が大火で焼けたときの再建費用を富の興行で稼いだそうだ。 「年末ジャンボ」を買ってから手を合わせていないので、1等のチャンスを逃したのかも?・・・・・・・・・・「七福神めぐり」に来て、御神体の恵比寿大神の姿は見えず。 御隠れになっているようだ! “正月ぐらいは、姿を見せろ!”と誰かが言っていた。
⑤出世稲荷神社・・・・・・・・・・・堀留町にある当神社は、境内周辺が拓けてきた元和3年(1617=江戸時代初期)に、北条家浪人庄司甚右衛他数名の仮屋敷内に創建した。 初代市川団十郎が日参し名をあげ、出世稲荷神社と称されるようになった。 現在の本殿は、関東大震災後に椙森神社の拝殿を再利用して建立されたらしい。・・・・・・・・・マンションの奥の非常階段下に、窮屈に祀られている神社だ。・・・・・・・・・・私は、かなり以前から手を合わせているが、いまだに出世しないのは賽銭が少ないからか?
⑥三光稲荷神社・・・・・・・・・・・江戸の町では商売繁盛を祈る稲荷信仰が盛んであった。 その名残で、中央区・台東区などには小さな稲荷神社がアッチャコッチャに祀られている。 ここもそのひとつ、日本橋堀留町にある稲荷神社。・・・・・・・三光稲荷神社は、当地に住んでいた絹布問屋、木綿問屋の二軒の商家が江戸時代初期に勧請した。・・・・・・・・・・神社の世話役らしき方に、今日聞いた話では、近くに鼠小僧が住んでいたとか。・・・・・・・・・妻は干支の根付をお土産に購入。 これが縁で、我が家に鼠小僧が小判をもって来てくれたら嬉しいのだが!
⑦橘稲荷神社・・・・・・・・・・・現:日本橋人形町3丁目の一角には、将軍家御典医・岡本玄冶の屋敷があったことから、一帯を玄冶店(げんやだな)と称した。 岡本玄冶の屋敷には将軍家から下賜された稲荷神社があり、玄冶の元姓の“橘”に因んで、橘稲荷と称されていた。・・・・・・・・・スグに出てくる春日八郎が歌う「お富さん」 ♪♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄治店 ♪♪(昭和29年)
⑧小網神社(日本橋七福神:福禄寿、弁財天)・・・・・・・・・・日本橋小網町にある神社です。創建年代は不詳。 現:社殿・神楽殿は昭和4年(1929)築。・・・・・・・・・・福禄寿は狭い・短い参道の脇に、弁財天は社務所の前に、どちらもピカピカ、“人寄せパンダ”のように最近祀られたように見える。(私は目が悪いのかも?)・・・・・・・・・・・銭洗い弁天が人を引き寄せるのか、30分待ちの行列。
⑨茶の木神社(日本橋七福神:布袋尊)・・・・・・・・・日本橋人形町の高層マンションの敷地内に茶の木神社はある。下総佐倉の城主:掘田家の中屋敷にあった守護神が祀られている。 布袋尊は昭和60年(1985)に遷座した新参者である。・・・・・・・・・・・社殿正面から手を合わせると、布袋尊が見えない。またもやお隠れになったかと思い、脇から覗くと小さな布袋尊が、大根のヘタの後ろに、いた!
⑩松島神社(日本橋七福神:大国神)・・・・・・・・・・・・・日本橋人形町2丁目のビルの1階正面に鎮座する神社で、創建年代は不詳。 言い伝えでは、鎌倉時代、この辺りが入り海であった頃小島があり、下総の柴田家の祖先が島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、毎夜灯す燈火を目標に舟人が航海の安全を得た。その後、安土桃山時代に邸宅内の神社を公開し、松島稲荷大明神と称した。・・・・・・・・・ここでも、小さなピカピカの大国さまは、社殿の奥に鎮座し、よく見えない。
⑪末廣神社(日本橋七福神:毘沙門天)・・・・・・・・・・・・・江戸時代初期、葭原(元吉原)がこの地にあったが、明暦の大火で葭原は浅草の現:吉原に移転した。 神社は延宝3年(1675)に本殿が修復され、この時、末廣扇が出てきたので、氏子はよろこび祝って末廣神社とした。・・・・・・・・・・・・ここも、普段は通り過ぎてしまうような印象の薄い神社だ。 祭神の毘沙門さまは、これまでの神社と同様で、同じようなサイズ、同じような材質、同じような輝きを放つ、同じような像である。
⑫笠間稲荷神社(日本橋七福神:寿老神)・・・・・・・・・・・・安政6年(1859)に、茨城の笠間稲荷神社より分霊を受け、日本橋、浜町公園の一角に祀られた。 昭和20年(1945)の空襲で被災し、昭和28年(1953)に現在の地(日本橋浜町2)で再建された。・・・・・・・・寿老神は社殿の中にいるようだ。参拝者には見えず、“本当にいるのか?”と叫びたくなるね。
⑬水天宮(日本橋七福神:弁財天)・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・日本橋蠣殻町の水天宮は、只今改築中。 交差点角の交番(写真中央)だけ残し、敷地は仮囲いで囲まれ、社殿は全て消えてしまった!
・・・・・・・・・・・・・・“本店工事中につき、浜町明治座前の仮店舗で営業中です”ということで、こちらは仮社殿。
・・・・・・・・・・・・・・なんだ、ここでも弁財天は“お隠れ”していた。 せめて、お顔だけでも、、、、、、
・・・・・・・・・・・・・・・以上、水天宮までで「日本橋七福神めぐり」は終わり。 何となく、昔の見世物小屋を覗いたような感じがする。
⑭薬研堀不動院 ・・・・・・・・・「七福神めぐり」の口直しに、我が家へ帰る途中にある、東日本橋の薬研掘不動院にお立ち寄り。
・・・・・・・・・・・・矢ノ庫稲荷神社(やのくらいなりじんじゃ)・・・・・・・薬研堀不動院の隣りにある小さな神社。 正保2年(1645)、幕府の米蔵の鎮神として祀られた。 平成23年(2011)には、薬研堀不動院開創420年にあわせ、新社殿が奉納された。
⑮川上稲荷神社・・・・・・・・・・・両国橋に近い東日本橋のビルの谷間に祀られている川上稲荷神社。 寛永5年(1628)創建、江戸幕府の乗船場に在ったが、明治2年に新開の街になるにつけ、現在地に遷座された。・・・・・・・・・散歩のおまけにお立ち寄り。
・・・・・・・・・・・・神社を過ぎれば柳橋。
⑯篠塚稲荷神社・・・・・・・・・・本日の散歩の締めは、柳橋の篠塚稲荷神社。・・・・・・・・・正平年間(1325頃)、新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、篠塚稲荷と称されるようになった。
・・・・・・・・・・・・・神社前の料理屋。 花柳界の時代が懐かしい!
●・・・・・・・・・・・・・神社15社、寺院2寺の17寺社をめぐる散歩となった。 やりすぎた! 賽銭は使いすぎた!
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