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2014年3月

2014年3月31日 (月)

中野

4ヶ月毎の眼科の定期検診日。 朝一で中野駅から、病院に立ち寄り、その足で高円寺方面へ、途中からグルリ回って再び中野駅へ、1万2千歩、9kmの散歩です。

中野駅北口再開発・・・・・・・・・・・かつての中野警察大学校の跡地を中心とした再開発は、早稲田大学の施設がオープンすることで、現:野方署のある一画を残すのみとなった。 後は北口駅前の中野区役所・サンプラザがある一画とその北側の一画である。

・・・・・・・・・・・・・区役所(左)とサンプラザ(中央)・・・・・・・取り壊しは平成30年(2018)以降となるらしい。 

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・・・・・・・・・・・・・昭和43年(1968)に竣工した中野区役所は、手狭、劣化、維持費の増加と問題が多く、建て替えの方針が出ている。

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・・・・・・・・・・・・早稲田大学中野国際コミュニティプラザ・・・・・・・・キャンパスとしてオープンすると思っていたが、早稲田大学直営の国際学生寮であった。 定員数872名(男子492名/女子380名)、寮費は毎額53,000円。 1階がコンビニとエントランス、2階が共用施設、3階~7階が男子寮、8階~11階が女子寮。 平成26年(2014)3月オープン。・・・・・・・・・ちなみに、主な寮則は、①禁酒禁煙、②異性フロアへの立入り禁止、③外来者(家族を含む)の宿泊一切禁止、④門限なし、、、、、なるほど、納得!

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・・・・・・・・・・・・・・中野セントラルパークと公園

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・・・・・・・・・・・・・私を診てくれる東京察病院

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②M邸・・・・・・・・・・・・早稲田大学の西側は杉並区高円寺北。 ここに戦前建てられた木造2階建ての洋館風の建物がある。 切妻からせり出した玄関部分は特徴的で、“可愛らしさ”を強調している。 窓廻りのデザインもいいね!

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カトリック高円寺教会・・・・・・・・・・・・高円寺南2丁目のカトリック教会。 旧聖堂は昭和6年(1931)に地下聖堂として建てられたが戦災で焼失し、昭和24年(1949)に地下聖堂の上に現在の聖堂が建てられた。・・・・・・・・・・・今日は、葬儀が行われていたので、内部は遠慮し、外部から拝見! 昨年、改修工事が行われ、外壁の白が鮮やかである。

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④ニコニコロード・・・・・・・・・丸ノ内線の東高円寺駅から「ニコニコロード」と称する商店街が中野駅方向に伸びている。 この道は、その昔、中野から妙法寺に抜ける参道として、地元の商人が、2km程の道を開通させたそうだ。 道幅はさほど広くなく、アーケードもなく、賑やかでもなく、寂れた感じもなく、キョロキョロする必要もなく、ブラブラ歩くには調度良い商店街である。

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⑤中野駅前住宅・・・・・・・・・・・・昭和26年(1951)~27年(1952)に建てられた、鉄筋コンクリート造4階建て、7棟248戸からなる東京都住宅供給公社の団地。 中野駅ホームの前で、最高の場所だ。 “中野2丁目再開発地区”として、いずれ取り壊しの運命か?

・・・・・・・・・・・・・・中野駅ホームから

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・・・・・・・・・・・・・・団地の中でパチリ

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2014年3月29日 (土)

新宿~代々木八幡

新宿駅から、小田急線沿いに歩き代々木八幡駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①小田急新宿駅・・・・・・・・・・昭和2年(1927)の小田原線全線開業時に駅も開業した。 開業当時はもちろん地上駅であった。 戦後、昭和39年(1964)に新宿駅改良工事が完成し、小田急は地上/地下の2層式の駅となった。・・・・・・・・・現在、小田急百貨店が使用している建物は、見た目は1棟であるが、南北2棟のビルで構成されている。 北側のビルが、昭和41年(1966)に完成した地上8階建ての新宿地下鉄ビルディング。 南側のビルが昭和42年(1967)完成の地上14階建ての小田急新宿駅ビル。 両ビルの設計は坂倉準三建築研究所。

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・・・・・・・・・・・・・・写真左側の信号機の後ろ、8階建ての部分が新宿地下鉄ビルディング。右側の14階建て部分は小田急新宿駅ビル。 見た目には両ビルで1棟に見える! (写真は2012年8月撮影)

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・・・・・・・・・・・・・昭和39年の新宿西口。左端にチョイト顔を出してるビルは現:小田急ハルク。 この時点では、現在の小田急百貨店のビルは無いので、駅の奥に東口の駅ビル(現:ルミネエスト)が見える。 右端が小田急のホームで、看板には「新宿西口駅本屋ビル建設工事 小田急電鉄」と書かれている。 (写真は新宿歴史博物館発行「新宿風景」から)

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・・・・・・・・・・・・・・地上ホームはロマンスカー、急行、準急などが発着。 地下ホームは各駅停車、区間準急などが発着している。

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②新宿1号踏切・・・・・・・・・・・・小田急線が新宿駅を出て、スグに通過する踏切。 新宿駅西口と代々木を結ぶ大通りの踏切で、交通量は多いが、道路下には地下鉄大江戸線がはしり、立体交差化は難しそうだ! 東京の中枢:都庁に最も近い、都心の1等地に在る踏切。

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③新宿2号踏切・・・・・・・・・・1号踏切から小田原方に100m程の行った踏切。

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④小田急旧本社ビル・・・・・・・・・・・新宿2号踏切の脇に小田急電鉄旧本社ビルがある。 銀座和光ビルを手掛けた、昭和を代表する建築家:渡辺仁(1897~1973)の設計。 施工は清水組(現:清水建設)で、昭和2年(1927)の竣工、鉄筋コンクリート造3階建て。 建物のデザインには、半円の窓、曲面の多用など、当時流行していたドイツ表現派の影響が見られる。

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⑤南新宿駅・・・・・・・・・・小田急線新宿駅の拡張工事が昭和42年(1967)に完了するまでは、昭和2年(1927)の開業時から新宿1号踏切と2号踏切の中間に駅はあった。 現在の駅は盛土上に在り、ホーム中央付近で土地が窪んでいるため改札はホーム下となっている。

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⑥参宮橋駅・・・・・・・・・・・・この駅も小田急線開通時の昭和2年(1927)開業である。・・・・・・・・大正9年(1920)、代々木練兵場に隣接して明治神宮が造営され、鎮座祭が行われた。 その後、小田急が代々木練兵場の脇を通ることになり、大正15年(1926)に参道の跨線橋として参宮橋が架けられた。 そして昭和2年(1927)に、跨線橋の近くに參宮橋駅が開業した。 

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・・・・・・・・・・・・・駅名の由来となった現在の参宮橋。

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⑦参宮橋付近を走る・・・・・・・・・・・・

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⑧鉄柱を抱き込むクスノキ・・・・・・・・・・・何でこうなるの? 何となく色気を感じるのは、私だけかな?

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⑨代々木八幡宮・・・・・・・・・・・代々木八幡駅の近く、山手通りに面した小高い処に鎮座している。 建暦2年(1212=鎌倉時代)創建の村社。 階段を上り森の中に入るアプローチは、心清められ、いいね!

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⑩代々木八幡駅・・・・・・・・昭和2年(1927)に開業した駅。 相対式ホーム2面2線の地上駅で、改札からは10段ほどの階段を上がればホームだ。ホームは大きなカーブ上に造られている。

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・・・・・・・・・・・・・駅前の踏切を7000形が通過、これが私の好きなロマンスカーの色だ!

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2014年3月28日 (金)

荻窪

荻窪駅の南東方向に位置する太田黒公園、角川公園の周辺をぶらついて来た。1万歩、7km。

①NTT東日本荻窪ビル・・・・・・・・・・・荻窪駅南側の商店街に建つ、昭和7年(1932)竣工の旧荻窪郵便局電話事務室。 現在はスーパーとなっているコーナー部の丸みある出入口、右外壁面の縦長の窓など、設計した逓信省技師:山田守の特徴が表れている。 旧千住郵便局電話事務室と同じようなデザイン形状である。・・・・・・・・・・昭和39年(1964)竣工の京都タワーの設計では、山田守は古都の景観を乱すということで、世間の批判も受けた。 タワーも今では京都のシンボルだ!

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②明治天皇荻窪御小休所・・・・・・・・・・NTT東日本荻窪ビルから50m程東寄りに、長屋門が残っている。 門の前には「明治天皇荻窪御小休所」と石に刻まれている。 明治16年(1883)の天皇行幸の際、2回休憩された場所らしい。 今は、休憩した建物はなくなり門だけが残されている。・・・・・・・・・・天皇行幸時の休憩所は、日本中アチラコチラに残されている。 今風に考えると、高速道のサービスエリアみたいなもので、トイレ休憩の場所で、ついでに地元の名産をチョイトつまんだ処だ。

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③西郊ロッヂング・・・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)築の和風の本館と、昭和13年(1938)築のドーム屋根を持つ洋室の新館が、つながった造りの西郊(せいこう)ロッヂング。 本館、新館とも国の登録有形文化財に指定されている。

・・・・・・・・・・・・・本館は、当初、下宿として建てられたが、新館ができると旅館「西郊」として営業している。木造2階建、スレート一部鉄板及び桟瓦葺き。

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・・・・・・・・・・・・・新館は、L字形の木造2階建、13部屋の賃貸アパートとして利用されている。 銅板葺きのドーム屋根が特徴的である。

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④かん芸館・・・・・・・・・・・荻窪3丁目の住宅地に建つ、ギャラリーとミニホールで構成される民間の施設。 1階は駐車場で、2階にギャラリーとミニホールを、それぞれ別棟で建て、ガラスに囲まれた廊下で連結されている。 軽快な感じの建物である。 設計は河野進、竣工は平成12年(2000)。

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⑤大田黒元雄邸(大田黒記念館)・・・・・・・・・・・NHKラジオのクイズ番組「話の泉」の解答者で、文化功労者でもある、音楽評論家の大田黒元雄(1893~1979)の屋敷跡(太田黒公園)に残る邸宅。 昭和8年(1933)に建てられた、洋館風の建物は太田黒元雄の仕事場であった。 内部は公開され、愛用のピアノや蓄音機などが展示されている。 ピアノはスタインウェイ(Steinway & son)社のもので、明治33年(1900)に西ドイツハンブルグ工場で製造されったものらしい。・・・・・・・・・サトウ・ハチロー、渡辺紳一郎、徳川夢声なども回答者であった「話の泉」、現代の○×形式のクイズとは違い、トーク番組形式で回答者が経験・うんちくを語る懐かしい番組だった。 思いでのラジオ番組の一つだ!

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⑥角川庭園・・・・・・・・・・大田黒公園の南方200m程の裏道の奥に、俳人で、角川書店創設者:角川源義の邸宅を、杉並区が遺族から寄贈され、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」として公開している。 建物は加倉井昭夫の設計により、昭和30年(1955)~昭和48年(1973)にかけ建てられた、木造2階建ての近代数奇屋造りである。 建物は国の登録有形文化財。・・・・・・・・・住宅地の奥だが、小高い処にあり、気持ち良い空間が広がる住宅だ。

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⑦東京フリーメソヂスト杉並中部教会・・・・・・・・・・・荻窪4丁目にある教会です。昭和23年(1948)に木造で建てられた。 教会の敷地には附属の幼稚園もあったが、昭和64年(1989)に40年の歴史に幕を降ろし閉園したそうだ。 遊戯が寂しそうに錆びてきた!

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⑧古い洋館風・新しい洋館風・・・・・・・・・・

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⑨春の木・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・ネコヤナギ・・・・・・・・・キャンディーズ「春一番」、、、、、♪♪ 雪をはねて 猫柳が 顔を出します もうすぐ春ですね ♪♪

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・・・・・・・・・・・・・コブシ・・・・・・・・・・千昌夫の「北国の春」、、、、、♪♪ こぶし咲く あの丘 北国の ああ 北国の春 ♪♪

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2014年3月25日 (火)

検見川

稲毛の帰りに、旧千葉街道をチョイト歩いて、検見川神社経由で新検見川駅までのミニ散歩。・・・・・・・過去に何度となく歩いた、私には馴染みのコース。

①稲毛駅~千葉街道・・・・・・・・・・・JR稲毛駅から、京成千葉線をくぐり、裏道をチョコチョコ抜けて、千葉街道に出る。

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②旧千葉街道の分岐点・・・・・・・・・・・・稲毛区と花見川区の区界で、千葉街道から旧千葉街道が、検見川・幕張の方向に分岐している。 東関東道の下に分岐点があり、脇の小さな祠の中で、地蔵様が交通当番で見張っている。

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③旧千葉街道・・・・・・・・・・ここから、検見川神社までは「検見川商工振興会」の街路灯が点在している。 道幅も広い旧街道沿いに、閉じた店舗、民家が並んでいるが、活気ある元気な店は見当たらず、正直言って、商店街らしくない商店街だ!

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④三峯神社・・・・・・・・・・・青くサイケ調に塗られた、狐(栄養失調の犬?)らしき像が出迎えてくれる神社だ。 総本社は秩父の三峯神社。 ご祭神は伊邪那岐命(いざなぎ)、伊邪那美命(いざなみ)。

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⑤検見川神社・・・・・・・・・・・貞観11年(869=平安時代)に素盞嗚尊が疫病退散のために当地に祀られ、その後元和2年(1616)に宇迦之御魂神を、寛永年間(1624年~1644年)には伊弉冉尊を祀った。

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・・・・・・・・・・・・・この神社に来ると、結構式宣伝用の写真撮影なのか、それとも本物か? 今日で、3回目だ!(1回目2回目)  検見川神社は、私に何か見せつけたいようだ!  花嫁は私の好みのタイプ、今度モデルをやってあげようか、、、、、、無償で、よろこんで!

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2014年3月24日 (月)

北国分~本八幡

北総線北国分駅からJR総武線本八幡駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

①北国分駅・・・・・・・・・・ホーム部分は掘割による半地下構造で、前後はトンネルとなっている。 ホームは地下2階で相対式ホーム2面2線である。 改札は地下1階、地上には出入口が在るのみだ。 地下鉄の駅と似た感じだ。・・・・・・・・・・平成3年(1991)の開業から20年以上経過したが、駅前の賑わいは期待するほどでもなく、中途半端な感じがする。   

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・・・・・・・・・・・・・・駅前のメイン道路も静か! マンションが多いので、寝るだけの町かも!

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・・・・・・・・・・・・・誰もいない駅前の公園では、小さな桜が開花した!

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②新興住宅街?・・・・・・・・・・・マンションが並び、まだ所々に畑が残り、道の脇には土地区画整理事業・土地改良の記念碑が建ち、農家の古い建物は消え豪邸となり、、、、、春の陽を浴び、中途半端な町を散歩!

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③曽谷の桜並木・・・・・・・・・・・市立曽谷小学校の東側にある旧曽谷用水に沿って南北に約600m程のソメイヨシノの並木。 曽谷用水は蓋されて歩道も広く、絶好の花見ができそうだ。・・・・・・・・・・・・・地元では既に準備も終わり、咲くのを待つだけなのか? 開花を当てるゲームもある。 私が今日見た蕾のふくらみ具合だと、開花は今月30日だね!

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④気になる像!・・・・・・・・・・・桜も気になったが、曽谷小学校の像はもっときなった。像は校舎に向かって立っており、私は後ろから見たのだが、、、、、、(男の子と女の子?)何をしているのだ!

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⑤道端の春・・・・・・・・・・・・・・

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●・・・・・・・・・・・ポカポカ陽気の下、遠足気分で歩いてきた!

2014年3月23日 (日)

東大弥生キャンパス

浅草橋の我が家から歩きはじめ、まずは上野公園で桜の様子を確認、まだ蕾だ! 不忍池では、骨董市を拝見。 東大構内に入り工学部を抜け農学部へ。 東大から根津へ下り、根津から鶯谷駅へ。 1万5千歩、11Kmの散歩です。

●・・・・・・本郷地区の東大キャンパスは、一般道により本郷・浅野・弥生の3キャンパスに分けられている。 本郷キャンパスは最も広く、大学の本部機能、法文、理工、医学系の学部と附属病院などが配されている。 浅野キャンパスは工学部の研究施設。 弥生キャンパスには農学部と地震研究所がある。・・・・・・・・・・今日は、弥生キャンパスの建物をジックリ見てきた。

①農学部正門・正門衛所・・・・・・・・・・・・・昭和12年(1937)、内田祥三の設計により完成。 門扉には木曽のヒノキを使用し、10年程前に修復された。 

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・・・・・・・・・・・・内田 祥三(うちだよしかず、1885~1972)は、建築学者で、東京帝国大学総長も務めた。関東大震災後の東大構内の復旧を主導し、構内には数多くの建物が建設された。 現存する建物も多い。 祥三の次男に、建築家の内田祥哉がいる。・・・・・・・・・内田祥哉は、私が工学部建築学科学生の頃、設計を教えてくれた先生でもある。 丸い眼鏡が特徴で、一見、東海林太郎のような風貌の先生だった。(50年前の話だ!)

・・・・・・・・・・・・「内田ゴシック」とよばれる、内田祥三による特徴的デザインの建物が3棟、正門正面の三号館、右の一号館、左の二号館が、眺望を重視し配されている。

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②農学部一号館・・・・・・・・・・正門を入り右手に建つ、内田祥三の設計により、昭和5年(1930)完成。

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②農学部二号館・・・・・・・・・・農学部正門を入り左手に1号館と対をなして建つ、内田祥三の設計、昭和11年(1936)完成。

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③農学部三号館・・・・・・・・・・・昭和16年(1941)完成、設計は内田祥三。 正門正面に建ち、キャンパスのシンボル的建物でもある。

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④農学部5号館・・・・・・・・・・・・・昭和46年(1971)に竣工した、農学部5号館。 林産学科が使用した。

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⑤農学部6号館・・・・・・・・・・・・昭和52年(1977)、生物環境制御システムセンターの設置と農学部の研究用計算機を導入のため新しい 研究施設が造られた。 この建物が現在の農学部6号館である。 ・・・・・・・5号館に隣接して建つ、共に小さな建物だ。

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⑥農学部7号館・・・・・・・・・・平成5年(1993)、7号館A棟が竣工。(写真中央の建物)・・・・・・・・この建物ができた後の平成6年(1994)、農学部4号館が取り壊された。     

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・・・・・・・・・・・・・・平成10年(1998)、7号館B棟竣工。

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⑦農学部図書館・・・・・・・・・・・ 昭和38年(1963)、国の予算に、ロックフェラー財団の援助資金、卒業生等の寄付金と合わせて建設に着手し、昭和39年(1964)に竣工した。・・・・・・・平成21年(2009)、リニュアールオープンした。(下の写真は昭和40年当時の図書館)

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⑧動物医療センター・・・・・・・・・・・・・・・平成3年(1991)に竣工した、附属の家畜病院(ベテリナリーメディカルセンター)。 従来の家畜病院の内科と外科の施設が統合され、充実した医療設備を備えた新しい家畜病院の建物ができた。・・・・・・・・・・・・ちなみに診療科は、内科、外科、眼科など人間と同じような科目が並んでいる。 犬の献血も募集しているそうだ。 犬にドッグフードと感謝状をくれるらしい!  なお、保険診療は適用できません!

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⑨生命科学総合研究棟・・・・・・・・・・・・平成15年(2003)、生命科学総合研究棟棟竣工。

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・・・・・・・・・・・・・平成24年(2012)、隣りに生命科学総合研究棟B竣工。

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⑩フードサイエンス棟・・・・・・・・・・・平成22年(2010)竣工のフードサイエンス棟。 鉄骨鉄筋コンクリート造 地上8階建て 2階には約120名収容の「中島薫一郎記念ホール」や歴史展する施設もあり、食の問題にかかわる研究者の集うところとなっている。・・・・・・・・・・中島董一郎(なかしまとういちろう、1883~1973)は、明治40年に水産講習所(現:東京海洋大学)卒業後入隊し、除隊後はマヨネーズと出会い、キユーピーを創業した実業家。・・・・・・・・・・建物は中島董一郎の寄付。

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⑪生物生産工学研究センター・・・・・・・・・・・微生物・動植物細胞の大量培養、組替えDNA技術による育種実験、酵素の大量抽出精製等の設備を組み合わせ、新しい生物生産技術の体系的開発研究を行うセンター。昭和59年(1984)竣工。

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⑫分子細胞生物学研究所・・・・・・・・・・生命科学全般の研究・教育活動を行っている、難しそうな研究所。

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⑬IML・・・・・・・・・・・“東京大学インテリジェント・モデリング・ラボラトリー(IML)は、東京大学のベンチャービジネスラボラトリー(VBL)として設立された全学的な教育研究施設”、ということで、訳の判らん施設。

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⑭弥生講堂・・・・・・・・・・・農学部正門わきに、平成12年(2000)に竣工。 農学部設立125周年記念事業の一環として建てられた。 一条工務店の寄付で建設された、農学部の特性を生かした木質構造による建物。・・・・・・・・・我が家も、だれか寄付してほしいね。

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・・・・・・・・・・・・・・附属の農学資料館に展示されている「忠犬ハチ公の臓器」

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⑮向ヶ岡ファカルティハウス・・・・・・・・・・・・・・正門から入り、キャンパスの一番奥に建つ建物。 大学構内に建つ宿泊施設で、平成21年(2009)に東京大学創立130周年事業の一環として、教職員の福利厚生及び教育研究支援の目的で建設された。 木質系のシャレた建物だ。 スタイリッシュな14部屋には短期・長期滞在のどちらでも可能である。・・・・・・・・・・旧制一高時代の寮歌が聞こえてきたような向ヶ岡学寮の跡地に建てられた施設。

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⑯陸橋・・・・・・・・・・本郷キャンパスと弥生キャンパスを隔てる言問通りに架かる、東大専用の陸橋。昭和39年(1964) 竣工。

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⑰東京大学地震研究所・・・・・・・・・・・農学部からはグランドの先に建物が見える。 農学部の隣りに在るということは、ナマズで研究しているのかな?

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●余談・・・・・・・・・・・昭和21年(1946)、大学全体で108名の女子志願者があり、うち合格者は19名で、その中で農学部には1名の入学者があった。農学部では初の女子学生の誕生である。 男子学生のあこがれの的となったかな・・・・・・・私の学んだ明大工学部建築学科でも、当時200名の入学者の内、女性が3名ぐらいだった。 競争率が高く、私は最初から諦めていた。 正解だった!  今の大学は“理系女”も多く、羨ましいね!

2014年3月21日 (金)

散歩はお休み

「春分の日」というよりも、「彼岸の中日」である。

我が家の墓は、東京郊外に建つ、大正4年(1915)創建の柴又帝釋天別院にある。 我が家(浅草橋)から片道2時間、往復6時間(墓参・食事込み)の墓参り。 90歳越えた母は、足は達者、口も達者、腹も達者、、、、悪いのは心臓病だけ! この母を連れて行く私は、足はまあまあ、口はチョイト悪いか?、腹はメタボ予備軍、、、、母より早く墓に入りそうだ!  まあ、とにかく、今日は散歩どころではない、早いとこ墓参を済ませ、疲れをた心身を癒したい。・・・・・・・・・ということで、散歩はお休み!

・・・・・・・・・・・・・・お寺へ向かう道の脇で、お地蔵さんがお出迎え。 ありがたや!

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2014年3月19日 (水)

本八幡~妙典

JR総武線本八幡駅から、行徳橋を渡り東京メトロ東西線妙典駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

本八幡駅・・・・・・・・・・・・・大正初期には千葉街道の北側に京成八幡駅が開業していた。 昭和10年(1935)に千葉街道の南側に総武本線の本八幡駅が開業した。 さらに、都営地下鉄新宿線の本八幡駅は平成3年(1991)の開業である。・・・・・・・・・総武線各駅停車が停まる千葉~お茶の水間の駅では、私の住む浅草橋駅と同じように目立たない地味な駅だ! ちなみに、平成24年(2012)の1日平均乗降客数は浅草橋の52259人(JR東日本の全駅中88位)、本八幡は57348人(80位)。 意味のない勝負だが、負けた!

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②東京外環環状道路 田尻工事・・・・・・・・・・・東京外郭環状道路は都心から約15kmの圏域を環状に連絡する延長約85kmの道路。 現在は関越道と連絡する大泉JCTから三郷南ICまでの約34kmが供用されている。 三郷から先の松戸市、市川市の部分は平成29年(2017)度の開通を予定し工事が進められている。 行徳橋の手前で京葉道路と外環道が交差する京葉ジャンクションで、交差部分を含めた外環道本線部分(990m)とランプ部分の工事を大成・戸田・大豊建設の共同企業体が担当している。 535億円で受注した大型工事。・・・・・・・・・・・これだけの大型工事となると、見ても、アッチャコッチャ重機で掘り返し、仮設の道路・桟橋がアッチャコッチャに敷設され、関係者でないと工事の進捗が理解しにくいね! ここの現場監督は、地図に残る男の仕事だ、憧れるね!

・・・・・・・・・・・・・・・京葉道路上に架けられている仮設のブリッジ

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト見ただけでも、多くの重機が活躍中

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・・・・・・・・・・・・・・工事の進捗に伴い車道・歩道の切り替えが何度か実施される

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・・・・・・・・・・・・・・仮設のブリッジがこちらにも用意されている

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行徳橋・・・・・・・・・・行徳橋は、市川市の行徳地区と八幡地区を結び、江戸川に架かる橋。 国が管理する行徳可動堰(ぜき)と一体構造物で、昭和31年(1956)の完成。 昭和51年(1976)に歩道拡張工事を行い、それ以降の改修は行っておらず老朽化が進んでいる。・・・・・・・行徳可動堰は江戸川の最下流部に位置し、江戸川水閘門と連携して、平常時はゲートを閉めて首都圏の生活用水に海水が逆流混入しないようにし、塩分遡上を防止する。 洪水時にはゲートにより堰下流に上流からの洪水を放流させる目的で設置された。 可動堰は、既に完成から50年以上経過し、設備の老朽化が進み、平成22年(2010)度から5カ年計画でゲート設備の更新および堰柱の補修・補強を実施している。 

・・・・・・・・・・・・・・全長は約422mで長~~い、幅はたったの7m。

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・・・・・・・・・・・・・・車道は片側は一車線、歩道は片側だけでメタボの一人分。

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・・・・・・・・・・・・・歩道でのすれ違い。

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・・・・・・・・・・・・・写真中央に堰柱があり、右下に向かってゲートが見える。 完成近いゲートの写真。

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・・・・・・・・・・・・こちらは、堰柱を改修中。左下の茶色の部分はゲート底。

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・・・・・・・・・・・・・川に浮かぶ工事用クレーン

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④行徳街道の寺社・・・・・・・・・・・・行徳橋から妙典駅までの道筋に在る寺社。多すぎるので、私の好みでセレクトし、コメントも簡単に!

・・・・・・・・・・・・河原春日神社・河原胡録神社・・・・・・・隣りどうしで2社。鳥居の左:春日神社、鳥居の正面:胡録神社

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・・・・・・・・・・・・・正源寺・・・・・・・・・・・・・文安元年(1444)創建

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・・・・・・・・・・・・・稲荷神社・・・・・・・・・・寛永12年(1635)創建

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・・・・・・・・・・・・・神明(豊受)神社・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・自性院・・・・・・・・・・・真言宗豊山派の寺

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・・・・・・・・・・・・妙頂寺・・・・・・・・・・日蓮宗の寺

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・・・・・・・・・・・・・長松禅寺・・・・・・・・・・臨済宗大徳寺派

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・・・・・・・・・・・・・徳願寺・・・・・・・・・・浄土宗の海巌山徳願寺。 慶長15年(1610)德川家康の帰依により創建。 大きな寺だ!

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・・・・・・・・・・・・・・徳願寺で久しぶりに、“花まつり”のお釈迦様と甘茶のセットを見た! 正式には灌仏会(かんぶつえ)と称し、釈迦の誕生仏に甘茶の産湯をかけて誕生を祝う行事。 私の幼き頃は、象の山車に誕生仏を乗せ町内を牽きまわり、最後に、甘茶とお菓子を貰った記憶がある、懐かしい行事だ!

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・・・・・・・・・・・・・豊受神社・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・・境内の隅では、トランプで“ご開帳(?)” 神社の境内は、昔も今も子供の遊び場。 なんとなく、自分の悪ガキの頃を思い出す光景だ!

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●・・・・・・・・・・・・・まだまだ神社と寺をまわったが、もう省略、、、、、

2014年3月18日 (火)

岩淵町

赤羽駅で下車し、駅の北方に位置する岩淵町の路地裏を散歩してきた。1万2千歩、9km。

①赤羽小学校正門・・・・・・・・・・・・・明治16年(1883)に日本鉄道の上野~熊谷間が開通し、2年後には赤羽駅が開業した。 鉄道開通の7年前の明治9年(1874)に、赤羽小学校は近くの無住無檀の寺であった福寿院を仮校舎として、校長+先生1名、児童数55名で開校した。 明治35年(1902)に、現在地(赤羽1)に校舎を建て、児童数516名で移転した。・・・・・・・・現在、校舎の正門は当時の姿、木製(実際は鉄骨製、ペンキ塗り)の門柱・塀で再現されている。 明治時代の校舎も、現在と同じように正門の正面に木造平屋で建てられていた。・・・・・・・創立130年を超える歴史ある小学校だ!

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②喫茶ハトヤ・・・・・・・・・居酒屋がゴチャゴチャ並ぶ、駅北側の一番街・OK横町・明店街の一隅に、戦後の雰囲気を残しモーニング・セットが出てきそうなモダンな「喫茶 ハトヤ」がある。・・・・・・・只今は閉店中。開店はいつになるのか?

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③谷内六郎の壁画・・・・・・・・・・・地下鉄赤羽岩淵駅近くのビルに谷内六郎の壁画がある。ここは元「金竜堂」という本屋さんのビルで、昭和40年(1965)頃、書店の主人が青山を歩いていたとき「山陽堂」書店の壁画を見て、自分のところにも欲しいと思い新潮社に依頼したそうだ! 原画は「週刊新潮」昭和31年(1956)5月29日号の「砂山」というタイトルの表紙絵。

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・・・・・・・・・・・・・こちらは「山陽堂」の壁画。(2011年撮影) 原画のタイトルは昭和36年(1961)5月22日号の「傘の穴は一番星」。

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・・・・・・・・・・・・・どちらの壁画も、谷内六郎の絵と赤とんぼのBGMに乗せて、“週刊新潮は明日発売で~~す”のTVコマーシャルを思い出すね。

④吉安自転車店・・・・・・・・・・・・北本通りに面して建つ、昭和初期の銅板葺きの看板建築。・・・・・・・・店の看板が出ていないね!

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⑤チョイト変わったビル・・・・・・・・・こちらも北本通りに面して建つ啓愛社ビル。 見てのとおり!

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⑥取り越し苦労です!・・・・・・・・・・赤羽3丁目の公園で「北区トイレ」を見て? この名前、トイレ固有の名ではないだろう。北区が設置したトイレは多いはず! さりとて、北区のトイレ全てに「北区トイレ」と、大きく掲げる必要もないはず!・・・・・・・・ちゃんと、地名を入れて“赤羽3丁目トイレ”とか、“○○前トイレ”としたほうが、近くで事件が起きた時『×××トイレの近くで交通事故です。』と通報しやすいと思うね。  または、簡単に“トイレ”とすればOKだ。・・・・・・・・チョイト、苦労性、心配性、御節介の性質でね!

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⑦愛酒報国・・・・・・・・・・東京23区内唯一の酒蔵が、北区岩淵町の「小山酒造」である。創業は明治11年(1978)で、130年以上の歴史を有している。 建物は平成に入り建て替えられたが、「愛酒報国」のフレーズが掲げられている。 「愛酒報国」とは、“酒を愛することは国に報いること”、という意味だそうで、創業当時からの大口の客が近くの「軍隊」だったそうで、酒を以って国に報いる気持ちを表したらしい。・・・・・・・・・酒を愛し、酒税を納め、国に報い、健康を害し、酒を断つ。 飲み過ぎには注意しましょう!・・・・・・・・・ここの、「丸眞正宗」は地下130mから汲み上げた良質な伏流水を使用し、全国どこの銘酒と比べても遜色のないうまい酒と評判らしい。 私は飲めないので、味は?

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昭和が残る岩淵町・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・昔ながらの店構えの豆腐屋さん  

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・・・・・・・・・・・・・・下町の製作所 

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・・・・・・・・・・・・・・路地の奥には「子の権現」と言う朽ちた祠。

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・・・・・・・・・・・・・・裏道、路地裏に建つ、多くの木造アパート。

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・・・・・・・・・・・・・・・今も多く残る戦後の住宅

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・・・・・・・・・・・・・・・所々に蔵が残る町。

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⑨八雲神社・・・・・・・・・・岩淵町に鎮座する八雲神社は、江戸時代の日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守さま。 祭神には須佐之男尊が祀られ、創建年代不詳の古い神社だ。

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・・・・・・・・・・・・・・境内には「岩渕町 町名存続之碑」がある。昭和37年(1962)に「住居表示に関する法律」が公布され、北区も住居表示の変更が進められた。 岩渕町の住民は由緒ある町名を守るため、存続運動を展開し勝利した。 この碑は、その時の記憶を留めるものだ。・・・・・・・・・・当時は、町名変更が当然のように行われたが、骨のある住民も居たようで、羨ましいね!

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カトリック赤羽教会・・・・・・・・・赤羽駅近くのカトリック教会、帰りに素通りは失礼と思い、チョイトお立ち寄り。 昭和26年(1951)の建築。・・・・・・・・・今日は、ソマリヤ難民救済基金にも協力し、マリアさまも喜んでくれたかな!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日は気温20℃、春一番が吹き、気持ち良い散歩だった。

  思い出した都都逸・・・・・・・咲いた花びら 激しく揺らし 心も揺らす 春一番

2014年3月16日 (日)

本郷4丁目

御茶ノ水駅から、本郷4丁目付近をグルグル、ブラブラ、グニグニ歩き回り、東大キャンパスを横切って浅草橋の我が家まで、1万5千歩、11Kmの散歩です。

①本郷薬師・・・・・・・・・・本郷3丁目交差点の交番脇に参道(?)が見える! 現在堂のある地は、かつて真光寺の境内であった。 その地に寛永10年(1670)に薬師堂が建立され、薬師は深く信仰を集め、縁日も賑やかであったが、昭和20年(1945)戦災で焼失、真光寺は世田谷区へ移転した。 昭和22年(1947)に薬師堂は改築され、昭和53年(1978)には新築された。・・・・・・・・・賑やかだった頃の面影も薄れ、今は堂が在るだけだ!

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・・・・・・・・・・・・薬師堂の横を30m程入ると、十一面観世音菩薩が路地の脇で、風雨に晒され座している。 享保5年(1720)に造られた観音像も、薬師堂と同様に真光寺の境内に祀られていたが、戦後、寺は移転し仏は残されたそうだ。 チョット、仏が可哀そうだね。 仏の脇には、置き去りにされた墓地も残されている。

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②桜木神社・・・・・・・・・・・・文明年間 (1469~87)、太田道灌が江戸築城の際、菅公真公の神霊を京都北野より勧請した。 当初は湯島にあったが、昌平坂学問所を設立するにあたり、元禄4年(1691)、現在地である元真光寺の境内に遷座した。 それにしても、真光寺は、仏も神も置いて移転し、夜逃げでもしたような寺だね!・・・・・・・・・旧社殿は戦災で焼失し、現社殿は昭和34年(1959)に新築された。

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③白木造りの塀・・・・・・・・・・・感動! 本郷の路地を入った住宅では、ナント、白木造りの塀があった。 今どき、このような塀を造る粋な人が、まだ健在だ!

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④本妙寺坂・・・・・・・・・・・本郷台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂を挟んで真向かいの台地(現:本郷5)に、かつて本妙寺という法華宗の寺があり、そこへ向かう坂であることから「本妙寺坂」と呼ばれている。 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年(1657))の火元であり、明治43年(1910)に豊島区巣鴨に移転した。

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⑤炭団坂・・・・・・・・・・・・こちらは、本妙寺坂の西側で、同じように本郷台地より菊坂方面へ下る急な坂。 約50段の階段で下る坂。 坂の名「炭団坂(たどんざか)」は、この界隈に炭団を商う者が多かったことに由来するらしい。 “炭団”を知っているのは、昭和20年代生れの人までかな? 炭屋のおばさんが、真っ黒になって、炭の粉にふのりを混ぜて、手で丸め作っていた光景を思い出す。 “炭団”、“豆炭”、“練炭”懐かしいね! 

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・・・・・・・・・・・・炭団坂の上には、まさに『坂の上の雲』に出てくる、正岡子規・河東碧梧桐・高浜虚子などが青春時代を過ごした旧松山藩の寄宿舎「常盤会」跡がある。 ここは坪内逍遥の旧居跡でもある。 写真、右上の崖の上が跡地。

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・・・・・・・・・・・・炭団坂を下り、菊坂の手前の裏道を曲がり、チョイト、大きめの不揃いな石畳の路地を入ると、手押しポンプ(一葉の井戸)がある。 この前が樋口一葉の旧居跡だが、見学者が多いためか、以前は出ていた案内表示も撤去されている。 路地の奥には石段と両側に木造3階建ての住宅があり、さらに奥に進むと鐙坂の途中に出る。・・・・・・・・この路地の雰囲気は、今に残る、まさに一葉の世界だ!

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⑥鐙坂・・・・・・・・・炭団坂の西側には、これまた、本郷台地から菊坂へ下る「鐙坂(あぶみざか)」がある。 西側の急な崖上には財務省関東財務局真砂住宅が建ち、東側は坂上に金田一京助・春彦旧居跡があり、坂の中程には一葉の旧居へ続く路地があり、坂下には一葉も利用したのか100年以上の歴史ある銭湯もある。 小雨降る中、下駄履きに羽織・袴の東大生が本を風呂敷に包み、上っていく姿を連想させる坂道だ!

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・・・・・・・・・・・・・坂の上には、金田一京助・春彦の旧居跡

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・・・・・・・・・・・坂の下には、菊水湯がある。 銭湯の前には散髪屋も、、、

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⑦菊坂・・・・・・・・・・本郷三丁目交差点から北西の西片地区へ下る有名な坂。 本郷4丁目と5丁目の境である。

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・・・・・・・・・・・・・菊坂の通りから、並行する裏道に下る階段が数ケ所ある。

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・・・・・・・・・・・・・坂の下に在る、明治23年(1890)に建てられた旧伊勢屋質店。 樋口一葉も生活が苦しくなるたびに通った質屋。 現在は廃業し、建物は映画の撮影などに利用されている。

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⑧旧東京市営真砂住宅・・・・・・・・・・・・大正12年(1923)に、本郷台地の左京山に46棟75戸の住宅が建てられた。 既に100年経過し、現存する住宅は3棟となった。 建設は東京市の住宅不足を解消するためであったが、当時は本郷の地にも広いスペースがあったようだ。

・・・・・・・・・・・・・・M邸

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・・・・・・・・・・・・・・Y邸・・・・・・・・・・マンサード屋根(切妻の腰折れ屋根)が特徴的な住宅。

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・・・・・・・・・・・・・S邸・・・・・・・・・・・・・こちらもマンサード屋根の住宅。

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2014年3月15日 (土)

立石

今日も散歩の行き先を決めず地下鉄に乗り、車内で“どこで下車しようか?”。 押上から乗ってきて、斜め前の座席の座った美人と、同じ駅で降りよう! なんだ、今日も立石か!・・・・・・・・・京成立石駅から京成押上線の北側をブラついて青砥駅まで、一駅間、9千歩、7kmの散歩です。

①葛飾区伝統産業館・・・・・・・・・・・・立石駅の北側の商店街:立石西町商栄会にある。 葛飾区内で、伝統工芸品などに腕を揮う職人の集まりに施設を貸し、その作品を展示・販売している。 硝子彫刻、江戸木彫刻、鼈甲細工、銀細工、印伝、江戸小紋、、、、、いろいろ。 見ていると、欲しくなり買いたくなるね!・・・・・・・・・この施設、元は区役所の出張所であった。 遊休施設の有効活用!

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②小さなの洋館・・・・・・・・・・・商店街の並びに、小さな洋館風の建物がある。 コンクリート造の門柱、玄関のドア上の飾り窓、玄関灯、屋根の飾り、、、、洋館としてのこの建物は、なんと昭和2年(1927)に建てられた。 洗濯機・エアコンが置かれ玄関としては機能していない玄関から入ると、奥にL型に部屋がつづいている。 それにしても小さな洋館だ! 建物も傷みが激しく、痛々しい。

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③証願寺・・・・・・・・・・・・真宗大谷派の証願寺は慶長15年(1610)に湯島に創建し、明暦の大火で罹災し浅草に移転した。 関東大震災でも被災し、昭和6年(1931)に現在地の立石7丁目に移った。・・・・・・・・・・・この寺の特徴は、私はお会いしたことないが、住職のユニークさにあるようだ。 ちなみに、現在の第17代住職:春日了は、声楽家・アマチュア天文家・奇術師としても有名らしい。(知らずに、ご免なさい!)

・・・・・・・・・・・・・本堂の脇には、恐竜とライオン

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・・・・・・・・・・・・・境内には、私設の天文台を建て、望遠鏡だけでなく、定員22名のプラネタリュームも備えた。

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④タカラトミー本社ビル・・・・・・・・・・・立石に本社を置く優良企業。 昭和35年(1960)には「ダッコちゃん」、昭和42年(1967)には「リカちゃん」、昭和55年(1980)には「チョロQ」など、ヒット商品を世に出す会社だ。・・・・・・・・・誰もが、ここのおもちゃで遊んだ経験があると思うね!

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⑤葛飾区文化会館・・・・・・・・・・葛飾区の施設として平成4年(1992)にオープンした。1300席のモーツァルトホールと300席のアイリスホールを中心に、ギャラリー、カフェテリアなどの機能を持つ本館と、会議室・レクリエーションルーム・レストランなどを備えた別館がある。 ナント、結婚式場もあるらしい。 愛称は「かつしかシンフォニーヒルズ」。・・・・・・・・・・・葛飾区と「モーツァルト」の関係が謎だ! 寅さんなら知っているかも?

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青砥駅・・・・・・・・・・昭和3年(1928)に日暮里~青砥間の現:京成本線の開設に伴い、分岐駅として青砥駅が開設された。・・・・・・・・・・・青砥駅前に「ワルツの塔」というのがある。ワルツ王:J.シュトラウスがバイオリンを弾く姿の像で、なぜ、ここにこのような像が立っているのか、これまた解らないね?

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●・・・・・・・・・・・・『モーツアルト像がある理由は、葛飾シンフォニーヒルズができたときに、ウイーンのなんとかいう市と青戸が姉妹都市になったからです』と、やまびこさんに教えてもらいました。 (14/3/16記)   “なんとかいう市”は「フロリズドルフ区」という処でした。

2014年3月12日 (水)

神田川(千代田橋~向田橋)

神田川を下流から遡り、今日で9日目となる。 地下鉄丸ノ内線の中野新橋駅から方南町駅まで、8千歩、6kmの散歩です。

①千代田橋・・・・・・・・・・前回は最下流の柳橋から数えて74番目の千代田橋で終了した。 今日はこの橋から上流へ歩くことにした。・・・・・・・・・昭和56年(1981)完成。

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②本郷氷川神社・・・・・・・・・千代田橋の下流に現在架け替え中の氷川橋、その名の由来となった本郷氷川神社が北側の高台(中野区本町4)に在る。・・・・・・・・・神社は、文明元年(1469)太田道潅が江戸城築城にあたり、その鎮護のため大宮氷川神社より勧請した。江戸時代には当地:旧本郷村の鎮守であった。祭神は須佐之男命。・・・・・・・・・昭和20年(1945)には戦災により社殿が焼失、現在の社殿は昭和30年(1955)の再建である。

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③柳橋・・・・・・・・・・・・一つの川に、同名の橋が複数あった。 我が家に近い、神田川の最下流に架かる柳橋芸者の艶っぽい「柳橋」。 ここの柳橋は柳の木もなく、芸者にも縁のない、チョイト汚れた「柳橋」。 さらに上流に、まだ私が訪れていない、ひらがな表記の「やなぎ橋」がある。・・・・・・・・・昭和53年(1978)完成。

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④本郷橋・・・・・・・・・・・橋名の“本郷”とは、一帯の旧町名。 100m程の間隔で橋が架けられると、命名に苦労し、♪♪昔の地名で出ています~~♪♪。・・・・・・・・昭和54年(1979)完成。 ジュディ・オングの「魅せられて」がヒットした年だ! この付近の橋は昭和50年代に架けられたものが多い。 

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⑤壽橋・・・・・・・・・・・・橋上はJR中野駅に向にかう中野通りが走っている。近くの交差点は「寿橋」交差点だが、橋名は「壽橋」。 橋名の由来は?、、、『何でもいいけど、めでたい名前にしておけ!』と区長が言ったのかも?・・・・・・・・主要道路の橋なので完成は古く、昭和12年(1937)竣工のプレートガーダ橋。

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・・・・・・・・・・・・・・橋上から本郷橋方向をパチリ! 川底が見えるような神田川。

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⑥高砂橋・・・・・・・・・78番目の橋は、コレマタ!めでたい「高砂橋」。 プレートガーダの桁に、低いコンクリート製の欄干、さらに鉄骨でかさ上げした欄干、いかにも古そうなこの橋は昭和7年(1932)の完成。 

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⑦富士見橋・・・・・・・・・・・・・橋名も、“壽”、“高砂”、“富士見”と続けば、結婚式披露宴のテーブル名だ。 めでたい、めでたい! 橋は地下鉄の中野富士見町駅近くに架かっている。・・・・・・・・現在の富士見橋は昭和50年(1975)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・・・富士見橋から上流側をパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・中野富士見町駅

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⑧立正佼成会の建物・・・・・・・・・・中野富士見町駅の周辺には、昭和13年(1938)に設立された宗教法人立正佼成会の発祥地で、関連する建物が多い中で一部を拝見。

・・・・・・・・・・・・・・・杉並区和田の発祥の地には、立正佼成会の設立者:庭野開祖と長沼脇祖の銅像と共に発祥の地記念碑が建てられています。

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・・・・・・・・・・・・・・発祥の地に建つ妙佼殿・・・・・・・・・昭和15年(1940)から昭和26年(1951)まで、長沼脇祖が暮らしていた建物で、主に幹部育成の場として使われた。

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・・・・・・・・・・・・・昭和24年(1949)に建てられた修養道場

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・・・・・・・・・・・・・・仏教の精神を基盤とした教育施設「行学園」。戦後の建物と思われるが、昭和の味が出ている。

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・・・・・・・・・・・・佼成病院・・・・・・・・・・昭和27年(1952)、立正佼成会により設立した病院。 昭和34年(1959)に現在の建物が建ち、総合病院としての機能も充実している。・・・・・・・・・私は、チョイト、小用で厠を拝借!

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⑨和田見橋・・・・・・・・・・・・この橋が架かる位置は、杉並区和田と中野区富士見(旧町名)の区界で、両方の顔を立てて、「和田見橋」。 竣工時期不詳?・・・・・・・・・橋の上流250m程の地点で神田川と善福寺川は合流している。

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⑩東京地下鉄中野車両基地・・・・・・・・・・・・丸ノ内線と銀座線の車両基地で、昭和36年(1961)、180両の留置能力を有する基地として発足した。 

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⑪栄橋・・・・・・・・・・81番目の橋は、「方南(ほうなん)通り」を渡す橋。昭和30年(1955)の完成。・・・・・・・・・「栄橋」は下流の新宿「淀橋」の隣りに架かる橋が同名の栄橋だ。 神田川には同名の橋が多いね。

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⑫睦橋・・・・・・・・・・この橋は上流側の「角田橋」と下流側の「栄橋」の間に架かり、「都立中野養護学校」の門に突き当たる。 つまり養護学校の専用橋である。・・・・・・・・・専用橋なので、橋の数にカウントしないことにした。

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⑬角田橋・・・・・・・・・82番目の「角田橋(つのだばし)」は、昭和31年(1956)の竣工。・・・・・・・・栄橋から上流の向田橋までは、ほぼ100m間隔で橋が架かり、多すぎる!

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⑭神田橋・・・・・・・・・・・神田川に架かる「神田橋」、わかりやすね、即ナットク! 昭和35年(1960)竣工。

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⑮向田橋・・・・・・・・・・83番目の「向田橋」が、中野区を流れる神田川に架かる最後の橋だ。 この橋の上流は杉並区となる。 昭和34年(1959)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・・・川幅はだいぶ狭くなり、杉並区側へ遡る。

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⑯方南町駅・・・・・・・・・・・・昭和37年(1962)、荻窪線(現:丸ノ内線)の支線の終点駅として開業した。 頭端式ホーム1面2線の地下駅。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩の終点。

2014年3月10日 (月)

浅草橋~門前仲町

浅草橋の我が家から、清洲橋を渡り深川へ、深川不動、富岡八幡に手を合わせ、門前仲町駅からお帰りの、1万3千歩、10kmの散歩です。

清洲橋・・・・・・・・・・・隅田川両岸の江東区清澄と中央区日本橋中洲を結ぶ橋で「清洲橋」と命名した。 大正14年(1925)に着工し、昭和3年(1928)に竣工した震災復興橋。 構造形式は“自碇式チェーン吊り橋”、橋長:186.3m、幅員:22.0m。  設計は鈴木精一(意匠面では建築家の山田守や山口文象も関与した)、施工は東京市復興局、橋桁製作は神戸川崎造船所。 総工費321万円也。・・・・・・・・平成19年(2007)に、勝鬨橋永代橋、清洲橋の3橋が国の重要文化財となった。 優美な姿はいいね!

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・・・・・・・・橋のモデルは当時美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋である。 私、ドイツ語は大学でチョイト勉強したが他人には通じないので、ナイショで、ケルン市のホームページより写真を拝借!

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②清澄橋・・・・・・・・・・・こちらは、清澄庭園の南側、仙台堀川に架かる「清澄橋」。 橋長:22mのどこにでもあるような橋。 平成6年(1994)に架け替えられた鋼製ガーター橋。

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③亀久橋・・・・・・・・・こちらも仙台堀川に架かる、全長34mの「亀久橋」。昭和59年(1984)に竣工した1径間鋼製トラス橋。

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④元ノ杢網の墓・・・・・・・・・・・・・ことわざに「元の木阿弥」がある。由来は、、、、、戦国時代、大和郡山の城主・筒井順昭が病死した時、その子順慶が幼かったので、順昭に声の似た木阿弥という男を替え玉として寝所に寝かせ、死を隠した。順慶が成人した後、順昭の死を公表し、木阿弥は再びもとの生活にもどったという故事から。・・・・・・・・・清澄橋と亀久橋の中程に浄土宗の正覚寺がある。 こちらの寺には「狂歌師 元ノ杢網夫妻の墓」が祀られていた。 オヤ?戦国武将が、江戸時代の狂歌師に化けたか! 調べてみたら、ナント、、、、、狂歌師:元ノ杢網は、江戸京橋の湯屋の主人で、姓は渡辺、名は正雄(どこぞで、聞いたことのある名だな!)、号は杢網。画を高嵩谷に学ぶ。天明年間の狂歌の大家だ。文化8年(1811)に88歳で没した。 妻の名は智恵内子(ちえのないし)であるとのこと。 読みを間違え“知恵の無い子”と読んだら、これまた失礼!・・・・・・・・湯屋に憧れる、現代の助平狂歌師の出来損ないが、誰有ろう私“わたなべまさお”ということか。、、、、、ここでひとつ『杢網の 本名知って ドッキリと 素性も知り コリャだめだ』 

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旧新田橋・旧弾正橋・・・・・・・・・・富岡八幡宮の東側に「八幡掘遊歩道」があり、そこには歴史ある2橋の上部が残されている。

・・・・・・・・・・・・・旧新田橋・・・・・・・・・・江東区木場の大横川(旧大島川)に架かり、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな人道橋。 大正時代、岐阜県から上京し、木場で開業医をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める供養の意味を込めて架けた橋である。 当初、「新船橋」と名付けられたが、新田医師の亡きあと、「新田橋」と呼ばれるようになった。 下は案内板にあった当時の写真。

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・・・・・・・・・・・・・・旧弾正橋・・・・・・・・・・橋は、明治11年(1878)工部省赤羽製作所にて作られた国産第1号の鉄橋。 長さ15.2m、幅3mの単径間アーチ型式。 近代橋梁技術史上において価値の高い橋で、国の重要文化財に指定されている。

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⑥富岡八幡宮・・・・・・・・・・・寛永4年(1627)創建の神社は、徳川家の保護の下で「江戸最大の八幡様」となった。 社殿は、火災、震災、戦災と被害を受け、現在は昭和31年(1956)に造営された鉄筋コンクリート造、重層型準八幡造りの建物である。

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・・・・・・・・・・・・・・社殿の右奥に昭和レトロな婚儀殿がある。

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⑦和倉橋跡・・・・・・・・・・・富岡八幡宮と深川不動尊の間の通りを北へ行くと、首都高9号深川線の下に親柱が残されている。 首都高は“油堀川”という川を昭和50年(1975)に埋め立てた上に造られたものである。 この油堀川には、昭和4年(1929)に架けられた「和倉橋」があった。 親柱はその遺構である。・・・・・・・橋が架けられる以前は、ここに「和倉の渡し」が通っていた。 こんなところに“渡し”とは、私も驚きだ!

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⑧大喜旅館・・・・・・・・・・・・深川不動尊の参道から、ホンのチョイト入ったところにある、江戸下町情緒満点の旅館。 今はビジネスユースが主体だが、チョイト前の時代には、お忍びで、、、、、、?

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・・・・・・・・・・・・・“ヤドヤ”とは、洒落た電話番号だね! だがチョイトまて、市外局番3桁、電話番号88の2桁、いつの時代の看板だ!  現在は“3641―0088”だ。

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⑨深川不動尊・・・・・・・・・・・成田山新勝寺の東京別院。 不動明王は平成24年(2012)に完成した新本堂に祀られている。 写真の旧本堂には、現在は木像の“おねがい不動尊”が祀られている。 近代的な建物より、木造のこちらの方が本堂らしいね。

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⑩深川不動燈明塔・・・・・・・・・・・お不動様に向かって左側に、古ぼけた石造りの塔が立っている。 この塔は、明治時代に、日清戦争の勝利を記念して立てられた「燈明台」である。 塔の4面には、市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次などの歌舞伎役者、築地の魚河岸、洲崎の遊郭など、不動様を信仰する、多くの人々の名前が刻まれている。・・・・・・・・・私の名前“元の杢網”は無いようだ。

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2014年3月 9日 (日)

堀切~浅草

東武スカイツリーラインの堀切駅から浅草駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①綾瀬橋・・・・・・・・・・・・堀切駅前で荒川と隅田川を結ぶ、全長450mの超短い“旧綾瀬川”に架かる橋。 墨田区と足立区を結び、橋上を通る道路は「墨堤通り」。 昭和33年(1958)に坂田建設の施工で架けられた。・・・・・・・・・現在の綾瀬川は、埼玉県桶川市を水源とし足立区を流れ、小菅の東京拘置所横をから荒川に並行し、新小岩近くで中川と合流し、最終的には葛西付近で荒川と合流する。 荒川ができる以前の綾瀬川は拘置所横を流れ、現在の荒川を横断するように流れ、旧綾瀬川を経由して隅田川に流れ込んでいた。 つまり、荒川は綾瀬川を分断して、下流の短い部分を旧綾瀬川として堀切駅前に残したのだ。 「綾瀬橋」が綾瀬川には無く、綾瀬駅の付近にも無く、現在の綾瀬川からは離れた旧綾瀬川に架かっている由来である。 雑学オタクの好きそうになる話である。

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②バス停「鐘紡」・・・・・・・・・・墨堤通りに面する旧鐘淵中学校の前に、御存じ鐘淵紡績の「鐘紡」を揚げたバス停が立っている。 旧鐘淵中学校の前は鐘淵紡績の発祥の地であり、現在、跡地はカネボウ関連の倉庫、カネボウ公園、野球グランドなどとして活用されている。・・・・・・・・・・それにしても、「鐘紡」は昭和46年(1971)に「カネボウ」に変わり、漢字表記で名が残っているのには驚いた! さらに、「○○前」ではなく企業名の単独表示だ。 日本の産業を引っぱってきた鐘淵紡績を追想し、全盛時代を懐かしみ、記憶に留めておくためにも、バス停として残しているのかも!

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・・・・・・・・・・・・・・・グランドの隅にチョコット残るレンガ塀。 鐘淵紡績時代の名残か?

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③白鬚東アパ―ト・・・・・・・・・・・・・隅田川の左岸(墨田区堤通2)に、全長1km超える白鬚東アパートがある。 1号棟~18号棟(約1600戸)まで川に沿い、連続して城塞のようにほぼ一列に並んでいる。 昭和47年(1972)から昭和57年(1982)ごろまで、「白鬚東地区防災拠点」と称し東京都により整備された。 大震災時に、火災から市民を守る防火壁として団地の建物が機能するように造られている。 見るたびに、スゴイ! コンクリートの塊だ!

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・・・・・・・・・・・・・・すべての建物は、棟と棟の間に防火戸が設置され、隙間ができ火の手がまわらないように造られている。 一般道路も閉鎖できる、万全だね!

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・・・・・・・・・・・・・・煙筒が3本? 緊急用のボイラーが地下に設置されており、発電できるそうだ。 数年に一度点検するらしく、煙突から煙が出ると火事と間違えて通報する人がいるらしい。・・・・・・・・・この団地の全ての棟は地下で繫がっており、見学会もあるそうだ!

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・・・・・・・・・・・・各棟の要所々々には放水銃が首を出している。 これは、飛び火を入れないように撃ち落とす設備だが、ここ数年定期検査をしていないようで、機能するか?(施設の管理者の話)   たまには、カラスでも狙って放水の練習したらいいね!

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・・・・・・・・・・・・・・墨堤通りに面した側のベランダには、火災時には全階に防火シャッターが下り、火の粉が入るのを防ぐそうだ。 こちらも、たまには動作テストをしないと、イザという時、故障するかも?

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・・・・・・・・・・・・・・火災時に熱くなった防火シャッターを冷やす水が、屋上の黄色い水槽に蓄えられている。 (写真は対岸の南千住から撮影)

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・・・・・・・・・・・・・・団地内の公園には、この地で晩年を過ごした榎本武揚の像がある。

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④石浜神社・・・・・・・・・・・・・白鬚東アパートの対岸(荒川区南千住)に鎮座し、天照大神・豊受姫神を祭神とする神社。 神亀元年(724)聖武天皇の命により創建した古い神社だ。・・・・・・・・・木造銅板葺神明造の拝殿は昭和63年(1988)に落成した。

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⑤お化け地蔵・・・・・・・・・・・台東区橋場の松吟寺には、「お化け地蔵」が祀られている。 お化け地蔵の名は、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ3m余の並はずれた大きさからなど、いくつか説がるらしい。 地蔵は享保6年(1721)の建立で古いことは間違いない。

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2014年3月 8日 (土)

銀座

ここ数日の寒さは、散歩の気分にさせてくれず、家で丸まって寝ていたい! しかし、そうは問屋が卸してくれず、夫婦で銀座へ買い物に。 1万歩、7km。

①静岡新聞・静岡放送東京支社・・・・・・・銀座8丁目の新橋駅寄りに建つ「静岡新聞・静岡放送」のビル。 丹下健三による昭和42年(1967の作品で、築後50年近くになる。 人口や社会の変化に対応して建物も変化する“メタボリズム”の考え方で設計された。 成長する木を表現したようなデザインである。鉄骨鉄筋軽量コンクリート造で、地下1階/地上12階のビルは大成建設の施工。・・・・・・・・銀座の景観として定着した感があるね。

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②電通銀座ビル・・・・・・・・・・外堀通りに面して建つ、旧日本電報通信社(現:電通)の本社ビル。昭和9年(1934)竣工、横河工務所の設計、鉄筋コンクリート造8階建て。 外壁はヨモギ色の小口タイル貼、1階のガラスブロックなど、昭和初期の建物としてはモダンだ!・・・・・・・・玄関上部には、創業者の“光永星郎”より形どった社章の星型と、右に広告の神様“広目天”、左に商売繁盛の神様“吉祥天”のレリーフがある。 建物にワンポイントのレリーフを飾る“余裕”、いいね!

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③海洋ビルヂング・・・・・・・・・・電通の斜め前に建つ「海洋ビルヂング」。 建設時期・設計者・施工業者など、全て不詳という謎のビルである。 ただ、建設時期は昭和初期といわれている。 外壁のスクラッチタイルが落ちるので、ネットで覆われ、チョイト可哀そうだ。

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④泰明ビル・・・・・・・・・・泰明小学校前の路地にある、こちらも歴史あるビル?・・・・・・昭和38年(1963年)に竣工した、雑居ビルだ!・・・・・・・・ダイニングバー、音楽酒場、JAZZバーなど多彩な顔ぶれのお店が入居! オペラハウスもあった!!・・・・・・・・・・・昭和40年頃、大学生だった私は近くの店に、何度か通った記憶がある? 場所の記憶も薄れ周囲も変化したが、間違いでなければ当時はサントリーの角瓶で、量り飲みできた店があったはずだ。 

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⑤旧丸嘉商店(丸嘉ビル)・・・・・・・・・・・銀座7丁目、交詢ビルディングの向かいに建つ、老舗貴金属店の瀟洒なビル。 昭和4年(1929)の竣工。 コーナーの丸み、屋根のスペイン瓦、3階のレリーフ、1階のエントランスと円柱など手のこんだオシャレなビル。 昭和初期の超モダン建築だ! 

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⑥細長~~いビル・・・・・・・・・・銀座8丁目に近々オープンするビル、地上12階建て(?)のようだ! どんな店舗になるのか楽しみだね。

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2014年3月 6日 (木)

東立石

北風吹きぬく寒い朝・・・・・・・・・目覚めてみれば、循環器の定期検診日。 朝一でクリニックへ行き、帰り散歩する予定でいたが、寒さに負け散歩は取りやめ、家で昼寝。 3時過ぎに、散歩の虫が起きだして、チョイト、京成立石まで行き、葛飾区南部に位置する「東立石4丁目」の付近をブラブラしてきた。 9千歩、7km。

①古そうなアパート・・・・・・・・・・・・立石駅の南側、「立石仲見世」商店街を抜け奥戸街道を横切ると立石4丁目に入る。 街道から入ったところに、古そうなアパートを発見! アパートの名も表示されていないが、内部を覗くと間違いなくアパートの造りである。 幅広の木造の階段、部屋番号の貼られた下足入れ、黒光りする木の廊下、アパートの匂いが漂うね。 建物は老朽化し修理する様子もなく、朽ちるのを待っているようだ!

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②原稲荷神社・・・・・・・・・・東立石4丁目の曲がりくねった裏道を進むと、旧原村の鎮守さまであった原稲荷神社がある。旧原村は旧立石村から元禄8年(1695)に分村し、この時に神社を勧請した。 現在の社殿は昭和6年(1931)の造営である。

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③本田川端町住宅・・・・・・・・・・・葛飾区を流れる中川は蛇行し、乳房のように出っぱった位置に東立石4丁目がある。 その先っぽに東京都住宅供給公社本田川端町住宅がある。 この団地ある一帯は昔からの雰囲気を残した下町らしい住宅地で、買物などは京成立石駅前まで出向かなければならない、チョイト不便な地である。・・・・・・・・団地は昭和32年(1957)から昭和33年(1958)にかけて建てられた。 鉄筋コンクリート2階~4階建ての4棟、戸数94戸、間取り2K(25㎡)と小規模だ。・・・・・・・・団地名の「本田川端町」とは、昭和40年(1965)に消滅した地名。 ♪♪昔の名前で出ています、、♪♪

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・・・・・・・・・・・・・・団地前の中川。対岸は葛飾区奥戸地区。

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④川端の小さな社・・・・・・・・・・・いずれの社も、祠・鳥居は近年の造営。

・・・・・・・・・・・・・川端稲荷神社・・・・・・・・・本田中学校前にある、200年の歴史を有する社。

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・・・・・・・・・・・・・水神社・・・・・・・・・・・川端南児童遊園の端に鎮座する、260年の歴史を有する社。

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⑤奥戸街道・・・・・・・・・・立石駅近くの奥戸街道でパチリ!

・・・・・・・・・・・・・本奥戸橋・・・・・・・・・・・葛飾区四つ木と江戸川区西小岩を結ぶ奥戸街道に架けられた中川の橋。 昭和62年(1987)に架け替えられたトラス橋、長さ122m。

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・・・・・・・・・・・・・本奥戸橋の袂には、地蔵尊、馬頭観音、道標の街道三点セットが残されている。

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・・・・・・・・・・・・・本田屋本店・・・・・・・・・・出桁造りの酒屋。

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・・・・・・・・・・・・・三色最中のような建物・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・みのや脇坂商店・・・・・・・・・・こちらも酒屋さん。

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2014年3月 4日 (火)

池袋~要町

池袋駅から北西の「豊島区池袋」、「豊島区高松」辺りを、ブラブラ、グルグル歩き、最後は地下鉄有楽町線の要町駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①西口駅前のフクロウ・・・・・・・・・・巨大ターミナル池袋駅の待ち合わせスポットの一つとして、西口駅前広場に大きなフクロウが愛嬌をふりまいている。 このフクロウは、平成23年(2011)、駅前広場の整備により、新しく生まれたモザイクカルチャー(金属のフレームに草花を植えこんだもの)のフクロウ親子だ。・・・・・・・・・可愛らしく、大きく、目立つので待ち合わせにはいい場所だ! 

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②池袋2丁目の裏道・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・繁華街からチョイトはずれると、、、、再開発を待っているような家並みだ!

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・・・・・・・・・・・・・昭和59年(1984)に建てられた、何処にでもありそうな木造アパート。 こちらは、学生の町「池袋」の地の利を活かし“男子学生専用”。 綺麗に掃除され住みやすそうだ!

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③御嶽神社・・・・・・・・・・・・・池袋3丁目に鎮座する、池袋駅西口一帯の氏神様。 創建年代は不詳。 倭建命、神武天皇、武甕槌命を祀る。 現社殿は、嘉永6年(1854)に造営し、昭和34年(1959)に改築、昭和39年(1964)には本殿を増設した。

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④池袋三業通り・・・・・・・・・御嶽神社の北側を歩くと、料亭らしき建物があり、はてな??、、、、、“池袋に花街が在ったとは聞いていたが、駅からもだいぶ離れいるし?”と思い、ご近所をブラブラすると、料亭・料理屋が点在していた。・・・・・・・・・・私の勉強不足で調べてみたら、やはり花街であった。 通りの名も「池袋三業通り」として残っているらしい。 勉強してから、後日再度歩いてみよう!

・・・・・・・・・・・・・・三社神社・・・・・・・・・御嶽神社の東側の路地を入っていくと朱塗りの鳥居が正面に見える。 おそらく、花街の芸妓・遊女が手を合わせたことであろう。

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・・・・・・・・・・・・三業地らしき建物、お店が残っている。

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⑤PETTI  ETANG・・・・・・・・・・・・御嶽神社の横を入ると、“日本のガウディ”と称される梵寿綱(ぼんじゅこう)が設計した小さな賃貸マンションが在った。昭和61年(1986)の建築。 梵寿綱の作品は和世陀(ドラート早稲田)、カーサ中目黒などがある。・・・・・・・・・・・・・・・通りが狭く、全体の写真が撮れない! 玄関を見下ろす女性、怪しげな雰囲気だ!

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⑥高松柳稲荷神社・・・・・・・・・・・・池袋から山手通りを渡り、豊島区高松に入った。 高松2丁目の「高松柳稲荷神社」は、元々は、地元農家の屋敷稲荷であったが、高松の鎮守社として大正9年(1920)に地域住民により祀られることとなった。・・・・・・・・・・裏道を歩いていると、この手の小さな稲荷神社にぶつかることが多い。 たまには女狐に遭い、騙されてみたいもんだ!・・・・・・・・・・・・鳥居脇の地蔵尊は延享4年(1747)に板橋の近くに建立されたもの。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・この後、「えびす通り高松商店会」を抜け、有楽町線要町駅から帰宅。

2014年3月 3日 (月)

亀戸5丁目

亀戸駅の北東側の町:亀戸5丁目の裏道を縦横に歩き制覇してきた。1万歩、7kmの散歩です。

亀戸五丁目中央通り商店街・・・・・・・・・・・江東区亀戸5丁目のほぼ中央を、明治通りから東武亀戸線の踏切先まで、東西を貫く660mの商店街。 戦前は商店街の中程に映画館(亀戸館)があり、亀戸館通りと呼ばれていたそうだ。 東京大空襲で亀戸5丁目は一面焼け野原となったが、いち早く復旧したそうだ。・・・・・・・・・・大きな店舗はなく、地域密着型の小さなお店が並んでいる。

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②亀戸駅東口?・・・・・・・・・・東武線の亀戸駅を出て、最初の踏切の脇(黄色の楕円)に碑が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・『亀戸駅東口出札所完成記念 開設式昭和三十三年四・・ 亀戸駅東口出札・・』の文字が読める。 JRには東口が現在あるが、東武には北口しかない。 しかし碑が建っているのは、東武の構内である。 これは東武亀戸駅に東口が在ったのだろうと思われる。・・・・・・・・・いずれ、この謎は解きあかす!

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・・・・・・・・・・・・・・ついでに、この踏切を渡ると、JRの下を抜ける高さ1.5mのガードがある。 このガードを抜けるとJRの東口にでる。

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③旧水神駅跡・・・・・・・・・・東武亀戸線は、「亀戸」を出ると「亀戸水神」、「東あずま」、「小村井」、そして終点「曳舟」に着く。 途中駅3駅、全3.4kmの短い路線である。 その短い路線に、昭和初期には中間駅が6駅あった。 その一つで、旧亀戸水神駅の遺構が亀戸駅と現在の亀戸水神駅の中間に在る。・・・・・・・・・亀戸駅を出て、線路が大きくカーブする地点に旧亀戸水神駅ホーム跡のコンクリート構造物が線路脇に並んでいる。 コンクリートの中に、古レールと思われる鋼材が顔を出している。 旧亀戸水神駅は昭和21年(1946)に廃止され、現在の亀戸水神駅が曳舟より200m移動し開設された。・・・・・・・・・旧亀戸水神駅は亀戸駅から700m程の地点で、近すぎるね! 廃止されたのも納得できる。

・・・・・・・・・・・・・・旧亀戸水神駅は写真のカーブの先に在った。 右の高架はJR。

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・・・・・・・・・・・・・・・コンクリート構造物が並んでいる。

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④亀戸水神駅・・・・・・・・・・現在の亀戸水神駅。 昭和21年(1946)、旧亀戸水神駅と北十間駅を統合して、中間に開設した駅である。 

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⑤亀戸水神宮・・・・・・・・・・・亀戸水神宮の創建は、室町幕府十二代将軍足利義晴の頃(1521~1546)と推定されている。 創建は古いが、社殿は東京大空襲で被災し昭和35年(1960)に再建された。・・・・・・・・・現在は、駅名に成るほど立派な神社には見えないね!(失礼しました!)

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・・・・・・・・・・・・・・・神社の鳥居脇に、ナント!木造の交番(現:水神森地域安全センター)がある。 昭和の匂いが漂ってきたね! 黒い制服の巡査が警棒を持って立っていたら言うことなし。

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⑥亀戸の路地・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・真直ぐ伸びる路地を奥へ、奥へと進むと、ドン詰りにビューティーサロンがあった。 お客は来るのか? 客が一人いたようだ!

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・・・・・・・・・・・・・こちらの路地は中程に駄菓子屋さんがあった。 店先には、ちびっ子の客用に丸椅子も置かれている。

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・・・・・・・・・・・・・車は入れなくても、自転車が入れば、立派に生活道路です!

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2014年3月 1日 (土)

柴又~亀有

朝からどんよりとした空模様、今日は降りそうだ、でも歩いてこよう! とりあえず佐倉行の地下鉄に乗ったが、何処で降りようか? 車内で「柴又帝釈天」の広告が目に映り、柴又へ行くことにした。 とりあえず帝釈天に手を合わせ、後は気儘に小雨の中を亀有まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①柴又駅・・・・・・・・・・・・・・4両編成の電車がとまる相対式ホーム2面2線の地上駅。・・・・・・・・・明治32年(1899)に帝釈人車鉄道(金町~柴又間)の駅として開業し、大正元年(1912)に京成電気軌道の駅として高砂~柴又間が開業。 大正2年(1913)には、金町まで延伸され、京成金町線の唯一の中間駅となる。・・・・・・・・昭和の匂いがムンムンの駅と、続く参道。

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・・・・・・・・・・・・・・・構内踏切(駅の内部にある踏切で、正式には渡線路と称する)が残っている嬉しい駅だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・踏切の脇には、臨時の改札もある。 使うのは初詣の時期? スイカの客は利用できるのか?

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・・・・・・・・・・・・・・駅舎は昭和62年(1987)に、瓦葺き風の駅舎に改良された。

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・・・・・・・・・・・・・・・その駅前に立つ寅さん。 タスキは余分だ、イメージを壊すので掛けてほしくないね!

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・・・・・・・・・・・・・おりつ地蔵尊・・・・・・・・駅の券売機前にあるコーヒースタンドの裏に、しっそりと祀られている「おりつ地蔵尊」。・・・・・・・・・昭和7年(1932)、ここ柴又で、肉親のために尊き生命を絶たれる悲惨事があった。 或る貧困の家庭に五人の子供があり、その三女律子を他家へ養女として出したものの、五才の時故あって実家に戻されたが何故か両親は何の罪科もない律子を虐待し果ては実父がなぐり殺して、その死体を床下に埋めたが約一ヶ年余の後に父親の胸に、頑是ない少女の浄き魂がよみがへり、良心の呵責に堪えかねて、亀有警察署に自首した。・・・・・・・・・幼き律子の死を憐み、隣り近所の人々によって地蔵尊が建立された。

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②帝釈天参道・・・・・・・・・・時刻は8時半、まだ参拝客・観光客もほとんどなく、参道は静かだ。 草だんご屋さんは、仕込みの最中。 店を開けた処も数軒、今日の天気と客足の予想はいかに?

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柴又帝釈天 ・・・・・・・・・・・・・江戸時代初期の寛永6年(1629)に開創された、日蓮宗の経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)。

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、参拝人も少なく、地元の人が数人程。 参拝人が少ないときに、手を合わせると、仏も閑だから御利益が期待できるかも、、、、、100円奮発して合掌!

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④柴又踏切・・・・・・・・・・都心から水戸方面に向かい、水戸街道(国道6号)が中川大橋を渡ると亀有警察署がある。 柴又街道は亀有警察署の西北200m程の地点で旧水戸街道から分岐して、警察署の横を抜け帝釈天方向に向かう道である。 その柴又街道が新金貨物線を横切る踏切が「柴又踏切」である。・・・・・・・・名前から想像すると、交通量が多く、道路幅の広い立派な踏切をイメージしそうだが、実態は、極々普通の踏切である。

・・・・・・・・・・・・・・・真直ぐ伸びる水戸街道、左端の亀有警察署横から斜めに交差し、柴又方向に伸びる道が「柴又街道」。

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・・・・・・・・・・・・・・亀有警察署の横路を行くと「柴又踏切」がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・・さらに進むと、旧水戸街道からの分岐点に、「帝釈道」(明治30年(1897)建立)と標した石碑。 13体の石仏が置かれている。

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⑤中川橋・・・・・・・・・・・亀有と金町の間を、北から南に流れる中川に架かる、旧水戸街道の橋。 初代は明治17年(1884)に架けられ、2代目は昭和8年(1933)に架けられた。 平成20年(2008)に3代目の現橋が完成した。・・・・・・・・橋の東詰には2代目の橋の親柱が残されている。

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●・・・・・・・・・・・・・・・雨足も強くなり、橋を渡り、大型商業施設の中を通り抜け、亀有駅へ急ぐことにした。 

●・・・・・・・・・・・・・・・雨に濡れ、しっとり色づいた桜。 私は、雨に濡れ、しっとり艶っぽくなった親爺、、、、、、キモイ!

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