« 2014年3月 | トップページ | 2014年5月 »

2014年4月

2014年4月28日 (月)

浜松町~有楽町

何故か、昨日、浜松町駅の兜をかぶった小便小僧を思い出した。 今日の散歩は、しばら御無沙汰していた小便小僧を訪ねることからスタートした。 浜松町駅から有楽町駅まで、1万1千歩、8km。


①小便小僧
・・・・・・・・・山手線外回り・京浜東北線南行ホーム(3・4番線ホーム)の田町寄りに小便小僧の像がある。 この像は昭和27年(1952)10月14日の鉄道開通80周年を記念して、新橋駅の嘱託歯科医:小林光が、診療所に置かれていた白い陶器製の小便小僧を寄贈したのが最初である。 昭和30年(1955)には、小林医師より新たにブロンズ製の像が贈られ、衣装が着せられるようになった。 この頃から小便小僧は、新しい衣装に変わる度に、新聞に載り話題となった。 私が思い出した、折り紙の兜をかぶった小便小僧、サンタクロースの小便小僧、、、、、いろいろな衣装を着替えて60年が過ぎた。 もう60歳、そろそろ紙おむつの“小便爺さん”が登場するかも?

20140428_004_1024x682

20140428_017_683x1024



②渡邉ビル・
・・・・・・・・・・浜松町駅前の昭和レトロなビル。大林組の設計で、昭和6年(1931)に竣工した帝冠様式(昭和初期に流行した、鉄筋コンクリート造の建物に和風の瓦屋根を載せた和洋折衷様式)のビル。 浜松町駅ホームからパチリ!

20140428_024_1024x683

20140428_031_1024x683



③金井医院
・・・・・・・・・・浜松町にある、戦後の昭和レトロが残る渋い建物。 医院は閉院したようだが、今でも、老先生が出てきて、診察してくれそうな雰囲気だ!

20140428_061_1024x683



④JR東日本新橋変電所
・・・・・・・・・・・変電所はテロに狙われやすく、対策の為と思われるるが情報が少なく、何所にあるか、何時造られたか、不明な場合が多い。 ここも情報が少なく、建築年代は不詳。 ただ、大正15年(1926)には存在していた写真がある。 当時は「汐留変電所」と称していたようだ。

20140428_076_1024x683

20140428_084_682x1024



⑤ニュー新橋ビル・
・・・・・・・・・名前は知らなくても、新橋駅前SL広場横のビルとして有名だ。 昭和46年(1971)、戦後のヤミ市を再開発して建設された。 サラリーマン男性が昼はマッサージで癒し、夜はアルコールで癒す、若い営業マンは客先に行かずゲームセンターで時間をつぶす、OLは皮膚科、精神科、内科、歯科の診療所通いと、なんとも客の出入りが多い雑居状態のビル。・・・・・・・・私もサラリーマンの時代には利用した思い出のあるビル。

20140428_181_1024x683



⑥堀商店
・・・・・・・・・・創業明治23年(1890)の建具金物の卸売。 100年以上続く老舗の風格を漂わせる建物は、公保敏夫の設計、安藤組(現:安藤ハザマ)の施工で、昭和7年(1932)に竣工した。 塔屋が付いた鉄筋コンクリート造4階建ての建物は、チョイト疲れたのか、ネットで外壁タイルの剥落を防いでいる。 国の登録有形文化財。

20140428_219_1024x683

20140428_213_1024x683

20140428_229_1024x683



⑦堤第一ビル
・・・・・・・・・・・新橋駅西口の堤第一ビルは、大正9年(1920)竣工、酒井祐之助設計、東洋コンクリート工業施工、鉄筋コンクリート造5階建てのビルだ。 現存する震災前のビルの一つだが傷みが激しく、痛々しく見える。 内部も、階段手すり・窓枠など木製の部分も多く、いやでも年季を感じさせる。

20140428_249_681x1024

20140428_237_1024x683

2012_0224_082409_680x1024



⑧東京高架橋(新永間市街線高架橋)
・・・・・・・明治43年(1910)に完成した。現在の山手線部分の烏森(新橋)~有楽町間の高架橋。・・・・・・・・・新橋から有楽町にかけ、高架橋の西側では煉瓦造の外観を見ることができる。

20140428_260_1024x683

20140428_267_1024x683

20140428_259_1024x683



⑨高架下
・・・・・・・・・煉瓦造りの高架橋の東側は、鉄筋コンクリート造の東海道線の高架橋と東海道新幹線の高架橋が、ピッタリ並んでいる。 その高架下は、JR関連企業、鉄道関係の団体、新聞社の倉庫、そして飲食店が入居し異空間が創られている。

・・・・・・・・・・・・・右は新幹線の高架、左は東海道線の高架、さらに、その左に煉瓦造の高架がある。 写真中央の高架の間を入っていく、、、、、

20140428_279_1024x683

・・・・・・・・・・・・まずは駐車場と、鉄道関係団体の事務所が並んでいる、、、、、

20140428_280_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・所々に、煉瓦造の高架橋の耐震補強工事で、アーチ型の空間が見える、、、、、

20140428_284_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・丸の内新聞(?)社員食堂もある。隣りは韓国料理、、、、、

20140428_286_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・有楽町に近づくと、居酒屋の提灯が並ぶ、、、、、

20140428_295_1024x683

20140428_312_1024x683

20140428_310_1024x682

・・・・・・・・・・・・・今どき、故郷からの便りでもないだろうが、郵便配達が通り抜けて行く、、、、、

20140428_316_1024x684

・・・・・・・・・・・・・・晴海通りの近くに出て、後は有楽町駅、、、、、

20140428_334_1024x683

2014年4月27日 (日)

渋谷~六本木

鯉のぼりもウキウキしそうな気持ち良い晴天。 よし、夫婦で散歩に行こう! 渋谷からスタート、青学のキャンパスを拝見し、青山の骨董通りをブラブラし、長谷寺で手を合わせ、西麻布でひと休み、六本木に出たので帰ろうか、、、、、 1万1千歩、8kmの散歩です。


①無くなった東横線ホーム・
・・・・・・・・・・渋谷駅の大改造が進行中です。 まずは東横線の地下化により、昨年3月で使用終了した高架の東横線ホームと東急百貨店東館が取り壊されている。 跡には、渋谷駅改造の第一弾として、JR渋谷駅が改良され埼京線ホームが移転してくる予定だ!

20140427_011_1024x512

・・・・・・・・・・・・・・・ほぼ同じアングルで、平成24年(2012)3月撮影。

2012_1010_1042282_1024x679



②青山学院大学
・・・・・・・・・・青山学院は明治時代初期に設立した3つの学校を母体とするミッションスクール。 現在の青山の地には、明治16年(1883)に前身の東京英学校が移った。 明治27年(1894)、「青山学院」に改称。

20140427_100_1024x642

・・・・・・・・・・・・・大学1号館・・・・・・・・・・1号館・2号館は、大正15年(1926)に建てられたキャンパス内で最も古い建物。 青山通りの正門から入ると、向かい合わせに対をなして建ち、歴史と風格を感じる。

20140427_025_1024x683

20140427_096_1024x683

・・・・・・・・・・・・大学2号館・・・・・・・・・・ほぼ1号館と同じデザインである。 1号館と共に清水組(現:清水建設)の施工。

20140427_087_1024x683

・・・・・・・・・・・・間島記念館・・・・・・・・・昭和4年(1929)に図書館として建築された。 正面玄関前から見上げると、コリント式円柱が並びローマ神殿の下に立っているようだ。 現在は、内部を改装し資料館として使用している。 国の登録有形文化財。・・・・・・・会館の名称は、校友会会長であり理事であった間島弟彦がその資金の寄付を申し出て、建設されたことから、間島の名字を冠している。

20140427_053_1024x683

20140427_055_1024x683

・・・・・・・・・・・・ベリーホール・・・・・・・昭和6年(1931)に神学部校舎として建てられた。こちらも、国の登録有形文化財。 現在は大学本部として使用している。 北側には礼拝堂が設けられている。礼拝堂のパイプオルガンは日本最古のものらしい。

20140427_036_1024x683

20140427_037_1024x683

20140427_039_683x1024

20140427_043_1024x683

・・・・・・・・・・・ペギー葉山が歌う「学生時代」に登場するチャペルはここ! 建物の前に歌詞を刻んだ碑がある。 ♪♪つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日 夢多かりし あの頃の 思い出をたどれば 懐かしい友の顔が 一人一人うかぶ 重いカバンを抱えて 通ったあの道 秋の日の図書館の ノートとインクの匂い 枯葉の散る窓辺 学生時代♪♪

20140427_035_1024x683

・・・・・・・・・・・・ガウチャー・メモリアル・ホール・・・・・・・・1~2階は700席程の大きな礼拝堂で、3階~13階は教育施設となっている。平成13年(2001)に、日建設計の設計、清水建設の施工で竣工した、現代のゴシック建築だ!・・・・・・・・名前は初期の青山学院を支えた宣教師ジョン・F・ガウチャーに由来する。

20140427_083_683x1024



③蔦サロン・
・・・・・・・アイビーホール青学会館前に建つ、建築家:山田守(1894~1966)が自ら設計した自邸。 昭和34年(1959)に、戸田建設の施工で建てられた。 山田守は、戦前に永代橋、聖橋、旧千住郵便局電話事務室、萬代橋などを手掛け、戦後は東海大学代々木校舎、日本武道館、京都タワーなども設計している。・・・・・・・・現在は蔦サロンとして、喫茶店、ギャラリーとして活用している。

20140427_110_683x1024



④長谷寺
・・・・・・・・・慶長3年(1598)に創建された曹洞宗の長谷寺(ちょうこくじ)。現在は大本山永平寺の東京別院として、また、観音信仰の聖地となっている。

・・・・・・・・・・・・法堂・・・・・・・総檜造りの壮麗な法堂

20140427_120_1024x683

・・・・・・・・・・・・・観音堂・・・・・・・・・鉄筋コンクリート造、重層入母屋造りの堂。 昭和52年(1977)の再建。 内部には、左手に蓮華の宝瓶を、右手には数珠をかけ錫杖を持ち、左足は半歩前進する独特の姿で立つ、高さ三丈三尺(約10m)、木造として国内最大級の十一面観世音菩薩像が祀られている。

20140427_130_1024x684

20140427_128_683x1024

2014年4月26日 (土)

浅草橋~鶯谷

散歩ついでに買い物を頼まれ、イヤとは言えぬ気の弱さで、行先は店のある上野方面になった。 “よし!”ならばと、我が家(浅草橋)から上野方面に歩いたが、時間が早く店はまだ営業前。 時間潰しを兼ね鶯谷方面へ、書道博物館を拝見して再び上野へ。 1万2千歩、9km。


①台東区の長屋
・・・・・・・・・・・・・台東区も多くの家屋が空襲で被災したが、免れた家屋も多い。 現在も、木造の長屋が数多く残る町である。 散歩の途中で撮影した長屋。

20140426_009_1024x683

20140426_011_1024x683

20140426_019_1024x683

20140426_026_1024x683



②比留間歯科医院
・・・・・・・・・・上野駅の近くに建つ、昭和4年(1929)築の木造2階建て洋館風の歯科医院。 メルヘン町の建物は、虫歯の傷みを和らげてくれるかも!

20140426_035_683x1024_2



ラブホテル街
・・・・・・・・・・・鶯谷駅北口周辺は、駅に行くにも、ラブホテルの前を通らずに行くのは難しいほど、都内屈指のラブホテル街。 上野方面から日暮里方面へ最短で抜けようとすると、細い路地を曲がりくねって歩かなければならない。 通いなれた人でなければ難しい路だ!・・・・・・・・・・午前中だというのに、一人でホテルに入る男性、自家用車でホテルの前まで送られ入っていく若い女性、ホテルから出てきて入口の前で手を振り別れる男女、、、、、自分が馬鹿らしくなってきた、早くこの街から抜けよう!

20140426_108_1024x683

20140426_053_1024x685

20140426_106_1024x683 

20140426_148_1024x648

20140426_069_1024x683



④書道博物館
・・・・・・・・・・ラブホテル街の北端に、昭和11年(1936)竣工の洋画家・書家:中村不折(1866~1943)の旧宅を展示場にした書道博物館がある。 博物館は不折が半生40年あまりかけ蒐集した、中国・日本の青銅器、石経、墓誌、文房具など、重要文化財を含む貴重なコレクションが展示されている。 解りやすい解説もあり興味の尽きない博物館だ。・・・・・・・・・・中庭の不折の像を囲み、建物は明治時代に不折が造った大谷石の蔵、大正時代のコンクリート造の蔵、昭和に造った旧宅で今は博物館本館、平成に造った記念館がある。・・・・・・・・・内部は撮影禁止、監視カメラが多く、おとなしく拝見してきた。

20140426_120_1024x683

20140426_122_685x1024

20140426_134_1024x683



⑤子規庵
・・・・・・・・・書道博物館の正面に、昭和25年(1950)に再建された正岡子規が住んでいた子規庵がある。 内部は日を限り公開されている。・・・・・・・・現在は、左右数軒先にラブホテルが営業中の場所だが、子規の生存中は句会歌会の場として、多くの友人、門弟が訪れたまさに“根岸の里”であった。

20140426_118_1024x683



⑥鶯谷駅
・・・・・・・・・・明治45年(1912)、東北本線の駅として開業した歴史を感じる駅。

・・・・・・・・・・・・鶯谷駅北口・・・・・・・・・・北口正面付近は、まさにラブホテル街。 暗くなると、何となく改札を通るのに勇気がいるのは、私だけか、考えすぎかな?! 

20140426_100_1024x683

・・・・・・・・・・・・鶯谷駅南口・・・・・・・・・・小さな、かわいらしい橋上駅舎だ!

20140426_155_1024x684

20140426_166_1024x684



⑦跨線橋からパチリ!
・・・・・・・・・・・鶯谷駅南口前の跨線橋から

20140426_158_1024x683

20140426_179_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・日本旅行が企画した「24系ブルートレインで行く『ニコニコ超会議号』の旅」で、寝台列車が眼下を通過。 ヘッドマークも撮れた!

20140426_208_copy_1024x683

20140426_209_1024x683

2014年4月25日 (金)

亀戸~南砂

総武線亀戸駅から東西線南砂町駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。


①亀戸駅東口
・・・・・・・・・・亀戸駅の表玄関となる改札は北口である。 北口には東武亀戸線の改札、駅ビル「アトレ亀戸」もあり、なんといっても名物“くず餅”の売店もある!・・・・・・・東口はホームの東端から盛土の線路敷きを地下道で抜け、隣の貨物線の高架下にある改札口。 京葉道路からビル一つ隔てた裏道に面した改札口である。 駅の“勝手口”と言った感じだ!

20140425_006_1024x683



②昭和橋通り・
・・・・・・・・・亀戸駅東口から京葉道路に出ると「昭和橋通り」が目に入る。 “昭和”の文字に“昭和レトロ”を期待して歩きはじめたが、商店街らしき賑わい、店舗の並びは見られず、ガッカリした。 地図を見ると理由は明らかだ! 商店街の西には、旧精工舎亀戸工場の跡地にできた大型複合店舗の「サンストリート亀戸」がある。 

20140425_014_1024x683

・・・・・・・・・・・・・「昭和橋」は竪川に架かる橋だが、その竪川は埋め立てられ公園となり、頭上を首都高が走っている。 橋は欄干が残されていた。

20140425_027_1024x683

・・・・・・・・・・・・公園の一角に、竪川の護岸の一部がそのまま残されている。 “護岸の天端はこの高さまであった”と言わんばかりに、残されている。 戦後、地盤沈下が激しく護岸は幾度か嵩上げされてきたが、現在は河川が整備され川は埋め立てられ護岸も不要となった。 護岸に貼られていた竪川の写真には、首都高7号(1971年開通)の橋脚が川の中に立ち、水面以下の土地に建物が建っている。

20140425_040_1024x683

20140425_033_800x489



③サンロード中の橋
・・・・・・・・・・・・・竪川の公園の南側、大島6丁目と7丁目の境に「サンロード中の橋」と称する商店街がある。 散歩は、この商店街に続く、、、、、サンロード中の橋商店街は、大正8年(1919)に誕生した歴史ある商店街。 300mの商店街はには約100店舗が軒を連ねている。 “午前9時、そろそろ開店の準備が始まった。 

20140425_058_1024x682

20140425_064_1024x683

・・・・・・・・・・・・・サンロードの南端は新大橋通りだが、その先は「大島中の橋南商店街」として、さらに300m程続くが、店は少なく、賑わいもない。

20140425_090_1024x682



④東大島神社
・・・・・・・・・東大島地区には、戦前、永平神社・子安神社・小名木神社・北本所牛島神社・南本所牛島神社があった。 これらの神社は、昭和20年(1945)の空襲で焼失し、戦後、5社は統合・合併して昭和24年(1949)「東大島神社」(大島7丁目)となった。 当然、創建は昭和24年(1949)で、歴史の浅い神社だが、境内は広いね!

20140425_072_1024x683



⑤大島稲荷神社
・・・・・・・・・こちらは大島5丁目、小名木川沿いに鎮座する稲荷神社。 慶安年間(1648~1651)の創建。 ここも、空襲で社殿は焼失し、昭和42年(1967)、現社殿が再建された。・・・・・・・・・元禄5年(1692)、松尾芭蕉が深川から小名木川を下って門弟を訪ねる途中、当神社で「秋に添て行はや末は小松川」の句を詠んだ。境内にはその句碑がある。

20140425_100_1024x683



小名木川
・・・・・・・・・・・丸八橋から 

20140425_110_1024x683



⑦上妙寺
・・・・・・・・・・・・東砂の日蓮宗上妙寺は、寛永2年(1625)に創建された。 境内には砂町鬼子母神もある。 鯉のぼりが泳ぐ、静かな寺だ!

20140425_133_1024x683



⑧おや、綺麗な藤の花
・・・・・・・・・・・なんと「藤の湯」(東砂3丁目)の藤だ!

20140425_149_1024x682

20140425_148_1024x683



⑨旧大石家住宅
・・・・・・・・・・・・南砂5丁目の仙台堀川公園内に移築・保存されている、江東区で一番古い民家。 江戸時代末期の建築。

20140425_170_1024x682



⑩南砂三丁目アパート・
・・・・・・・・・・昭和41年(1966)~43年(1968)にかけ建てられた14棟600戸程の都営住宅。 私は高校生、あんぱん1個17円、ミニスカートが流行した東京オリンピック直後の、いざなぎ景気の時期に建てられた住宅だ! 東西線の南砂町駅は昭和44年(1969)の開業だから、入居希望者も多かったかもね?

20140425_209_1024x683

20140425_200_1024x683

20140425_201_1024x683

・・・・・・・・・・・・・7号棟までしか表示していない案内板。 と言うことは、8号棟以下はまだ建設中の時期の案内板か?、だとすると昭和40年代の歴史ある案内板だ!

20140425_202_1024x683

2014年4月24日 (木)

常磐貨物線

南千住駅から常磐貨物線沿いに田端駅まで、1万1千歩、9kmの散歩です。

常磐貨物線とは、田端貨物線(常磐線三河島駅と東北本線田端操車場を結ぶ約1.6kmの路線)と、隅田川貨物線(常磐線三河島駅~隅田川駅~常磐線南千住駅を結ぶ約6kmの路線)を総称した路線。 つまりは、田端操車場~三河島~隅田川駅~南千住間の貨物専用線である。


隅田川駅
・・・・・・・・・・・・今日は“空撮”と言いたいが、飛行機は怖いので、ビルの上から撮影。

・・・・・・・・・・・・中央の広大な敷地が隅田川駅、左側の高架ホームは日比谷線南千住駅、さらに左側のビルの陰に常磐線の南千住駅がある。手前の跨線橋(水色)の下が常磐貨物線に続く構内路線。跨線橋下の左端の線路は奥で左カーブし、先の南千住駅で常磐線に接続する。

20140424_029_2_1024x561

・・・・・・・・・・・・・・跨線橋からパチリ!

20140424_016_1024x683

・・・・・・・・・・・・・ビルの上から足下を見ると、手前に常磐貨物線の上を日比谷線が走り、奥に常磐線が走る。(右が南千住方向、左が三河島方向)

20140424_026_1024x683

・・・・・・・・・・・・・隅田川駅とは反対側(三河島側)も、ビルの上からパチリ!・・・・・・・・・・中央手前の高架は日比谷線、中央奥の盛土上は常磐線、日比谷線の下を左側にカーブして抜ける常磐貨物線。

20140424_033_1024x309

・・・・・・・・・・・・・盛土の上を走る常磐線と、手前は常磐貨物線

20140424_053_1024x683



②延命寺
・・・・・・・・・・小塚原刑場跡(延命寺)に「首切地蔵」がある。 首切地蔵は、刑死者の菩提を弔うため、寛保元年(1741)に刑場敷地内に祀られた地蔵で、いつしか、地蔵は「首切地蔵」と呼ばれるようになった。 3年前の東日本大震災で、左腕が落下、胴体はズレ、倒壊の危険にさらされた。 急遽、寺では修理に着手し、現在は五体揃った地蔵さんの戻った!・・・・・・・・・・・この地蔵さんは、元々は常磐貨物線の南側にあったものだが、明治28年(1895)の土浦線(現:常磐貨物線)敷設工事のために、線路の南側から現在地(線路の北側)に移転させられた。 常磐貨物線の犠牲者第一号かも?

20140424_009_1024x683

 

③煉瓦造の三の輪ガード・・・・・・・・・・都電三ノ輪橋停留所付近の常磐線には、煉瓦造りのガード(架道橋)が3か所残されている。 明治29年(1896)開通の日本鉄道土浦線(現:常磐線)のガード。 並行して走る常磐貨物線側は、昭和40年(1965)頃に、鉄筋コンクリートのガードが造られた。 

・・・・・・・・・・・・・・第3三の輪ガード・・・・・・・・・・3つのガードの中では、南千住寄りである。 盛土下をアーチ型のガードでくぐる。 ガードのポータル上部には、“雁木”(がんぎ)と呼ばれる煉瓦を斜にした積み方も見られる。 煉瓦が綺麗に積まれているね!

20140424_061_1024x682

20140424_069_1024x684

・・・・・・・・・・・・第2三の輪ガード・・・・・・・・・・第1三の輪ガードと同じ構造だが、隅石は強固なものとなっている。 ガード下の防犯対策、環境美化のため、平成22年(2010)に東京芸大のOBらが壁画を描き、煉瓦の薄暗いイメージ消えてしまった。・・・・・・・私の気持ちではチョイト寂しいね、明るくするなら外灯でも増設して、煉瓦の地肌は残して欲しかった!

20140424_104_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・・手前の鉄筋コンクリート製ガードは常磐貨物線、奥に煉瓦造の常磐線のガードが見える

20140424_099_1024x682

・・・・・・・・・・・・第1三の輪ガード・・・・・・・・・・・煉瓦造りの橋脚の上にレールのせた開渠。

20140424_114_683x1024



④昭和通りを越える貨物線
・・・・・・・・・・・・・左側2線が常磐線、右側3線は貨物線

20140424_086_1024x683

20140424_094_1024x683



⑤第3三河島ガード・
・・・・・・・・・・ガード下は明治通り。緑のペンキで塗られたJR東日本の常磐線のガードと、グレーの塗装に錆が浮き出ているJR貨物の常磐貨物線のガードが対照的だ!

20140424_136_1024x683

20140424_129_1024x681



⑥三河島事故現場
・・・・・・・・・・・東日暮里3丁目の常磐線第3号ガードと第4号ガードの中間に、田端方面からの下り貨物線が常磐線下り線に移るポイントがある。 このポイントが事故のきっかけとなった。・・・・・・・・・・事故は、昭和37年(1962)5月3日21時過ぎに起きた。 田端発水戸行の貨物列車がポイントの手前の停止信号で停止せずに、安全側線に乗り入れ脱線した。 この時、先頭の機関車が常磐線に飛びだしたため、数分後に三河島駅を出てきた取手行の電車が機関車と衝突し、脱線して常磐線上り線側に飛びだした。 さらに、7分後に今度は上り線を走ってきた上野行きの電車が、線路上を移動中の乗客を轢き、さらに脱線していた下り電車と衝突し脱線した。 結果、死者160名、負傷者296名の大惨事となった。・・・・・・・・・現場には慰霊碑もなく、今はマンションが線路際まで建っている。 残念だが、忘れられた事故となったようだ。 事故の慰霊碑は、近くの浄正寺に建立されている。

・・・・・・・・・・・・・常磐線3号ガード

20140424_178_1024x684

・・・・・・・・・・・・・常磐線4号ガード

20140424_173_1024x681



三河島駅
・・・・・・・・・・・写真中央は駅出入口で、線路は右側から下り貨物線(田端から常磐線につながる)、下り常磐線、上り常磐線、常磐貨物線と並んでいる。

20140424_193_1024x683



⑧三河島道踏切
・・・・・・・・・・常磐貨物線の踏切で、南千住付近から常磐線に並行していた貨物線は、ここで常磐線と離れ直進し田端方向に向かう。 常磐線の列車は、踏切の頭上を高架で走り抜ける。・・・・・・・・・私の好きな踏切の一つだ!

20140424_225_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・踏切から三河島方向を見る。高架も常磐線を挟み、右側が常磐貨物線、左側が常磐線下りにつながる貨物線。

20140424_217_1024x683

・・・・・・・・・・・・・田端方向を見る。 高架で上野方向へ曲がる常磐線、田端方向へ直進する貨物線。

20140424_218_1024x683



⑨日暮里八丁目3号踏切
・・・・・・・・・・・・常磐貨物線は京成本線の下を抜け、田端へ向かう。

20140424_251_1024x683_2



⑩田端信号場駅
・・・・・・・・・・・・・・JR貨物の駅で、操車場の機能がある。駅構内は広く、西日暮里付近から上中里付近まで、約2kmの長~い駅。 今日は田端駅まで来たが、機関車は見当たらず、チョイト寂しいいね。

20140424_278_1024x683

2014年4月23日 (水)

小岩~篠崎

総武線小岩駅から、新宿線篠崎駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。


①小岩駅南口
・・・・・・・・・・・・明治32年(1899)に総武鉄道の駅として開業。 この頃は既に総武鉄道の本所(現:錦糸町)~銚子間が開通していたので、中間駅として小岩駅が設置されたことになる。 国鉄時代の総武線が高架となったのは昭和46年前後で、小岩駅も昭和45年頃は高架化工事の最終段階であった。・・・・・・・・私がゼネコンの新入社員として、初めて現場見学したのが、この小岩駅の高架化工事の現場であった。(50年前の話だ!)

20140423_010_1024x682

・・・・・・・・・・・・・栃錦の銅像・・・・・・・・・・・江戸川区南小岩で生れ育った44代横綱栃錦は平成2年(1990)に亡くなり、その年に小岩駅に銅像が建てられた。 改札正面の銅像は待ち合わせ場所として人気があるようだ。

20140423_005_1024x683



②東小岩の宗教法人?
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・小岩四恩キリスト教会・・・・・・・・・何処の教派にも属さない単立教会と言うことです。 戦前は日本聖教会の教会だったが、昭和43年(1968)に独立した宗教法人となったそうだ。 

20140423_035_684x1024

・・・・・・・・・・・聖徳宮・・・・・・・・・創建は昭和8年(1933)で、祭神は聖徳太子。 こちらは、神社本庁に属さない単立神社かな(?) 

20140423_038_1024x683



③善養寺
・・・・・・・・・真言宗豊山派の善養寺(ぜんようじ)が、東小岩2丁目にある。 寺のご本尊は地蔵菩薩で、奈良長谷寺を総本山、護国寺を大本山とする。 足利時代の大永7年(1527)に京都醍醐山の僧が霊夢のお告げで、小岩の地を訪れ、堂宇を建立したのが始まりらしい。

20140423_059_1024x683_2

・・・・・・・・・・・・・・この寺で、最も有名なのが、本堂正面の茂る、樹齢600年、繁茂面積では日本一の「影向(ようごう)の松」。 国の天然記念物に指定されている。

20140423_063_1024x487

20140423_058_1024x683



④茅葺屋根の民家
・・・・・・・・・・江戸川区には「一之江名主屋敷」という、茅葺き曲がり屋造りの屋敷が残され、公開されている。 善養寺の近くには、その名主屋敷と同じような茅葺の民家が、広大な敷地の中に現存している。 (こちらは非公開)・・・・・・・・・・塀の外からチラリと見えたので、撮影!

20140423_081_1024x683



篠崎公園
・・・・・・・・・昭和15年(1940)に紀元2600年の事業のひとつとして計画された防空大緑地が、篠崎公園の始まりである。 都心部を空襲から守るため、農地などに転用して延焼を防いでいたのである。 戦後は緑を守る観点から、砧公園、舎人公園などと共に整備されてきた。

20140423_093_1024x683



⑥荒川百年物語
・・・・・・・・・・篠崎駅近くの、「しのざき文化プラザ」で開いていた企画展です。・・・・・・・・・明治44年(1911)の荒川放水路(現:荒川)が開削工事着手から、ほぼ100年が経過し、この間の工事の歴史、荒川の歴史、工事を担当した技術者:青山士の話、などがパネル展示されいる。 小規模の展示であり、要領を得た解説で荒川放水路の必要性が理解できる、興味深いものがある。 入場は無料。

20140423_152_1024x683

20140423_129_1024x683

2014年4月19日 (土)

印旛日本医大~安食

北総線印旛日本医大駅から、春の日差しを受けて畦道を、成田線の安食駅まで、2万3千歩、17kmの散歩です。

印旛日本医大駅・・・・・・・・・・・・・平成12年(2000)に開業した北総線と京成成田空港線の駅。 駅舎には2つの塔があり、丸い塔はコンコースのドーム天井、尖った塔は展望台(非公開)で、ユニークな駅だ。・・・・・・・・・・駅には売店が無く、駅前の交番は閉鎖し、駅前には商店・コンビニが1軒もなく、寂しい駅だ。 

20140419_007_1024x692

20140419_004_1024x683

・・・・・・・・・・・・・駅前の跨線橋から眺める、北総線の折り返し列車。

20140419_012_1024x682

②鳥見神社・・・・・・・千葉県の北部(旧印旛村、旧本埜村、印西市、白井市、柏市)には「鳥見神社」が21社あるそうだ。 旧印旛村萩原の鳥見神社は、その内の一社である。 まさに村の神社で、林の中の拝殿は閉じられ無人である。 神社の由緒は、『第五代考昭天皇の御代大和国城上群萩原村の鳥見山の神々の霊を当地に遷座した』とのこと。・・・・・・・・・誰が参拝しているのか、綺麗に掃除された境内だ!

20140419_034_1024x683

20140419_036_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・神社の周辺では、畑にも春到来、、、、、

20140419_031_1024x683

20140419_040_1024x685

③慶昌寺・・・・・・・・・・・こちらは、村のお寺さま。 曹洞宗大雄山東祥寺の末寺七つのうちの一つだ。 本堂の前では、大黒様が参拝客を出迎える。

20140419_050_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・お寺の周りの水田は、田植えの準備中

20140419_056_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・童謡でも歌いたくなる散歩道だが、私が口ずさむ曲は、何故か春日八郎の「お富さん」?

20140419_062_1024x684

20140419_066_1024x683

④東漸寺・中根不動堂・・・・・・・・・宝暦5年(1754)に旧堂を焼失し、宝暦14年(1764)に再建された田舎のお不動さま。 まるで、時代劇映画のワンカット、、、、、恋い慕う男の無事を祈り、名主の娘が願掛けに登場、、、、、、この後、悪代官にさらわれ、、、、、アレ~~、代官様お許しを、、、、

20140419_067_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・近くの名主屋敷のような農家

20140419_074_1024x683

⑤鳥見愛宕両社・・・・・・・こちらは、印西市笠神の「鳥見神社」。 鳥居に注連縄が倒れかけ、急な石段を登った上には、民家風の拝殿のお社があるだけ!・・・・・・石段には手摺もなく、石積みは崩れかけ、降りるのが怖かった!

20140419_082_1024x683

20140419_084_683x1024

20140419_086_1024x683

⑥蘇羽鷹神社・・・・・・・・・・・・鳥見愛宕両社の近くに、蘇羽鷹神社(そばたかじんじゃ)がある。 参道の石段は苔で覆われ、苔の中から竹の子が頭を出し美味そう! 踏んで歩く人もない神社なり! 奥には、小さな堂があるだけ。

20140419_098_683x1024

20140419_097_1024x683

⑦南陽院・・・・・・・・・・・天台宗の寺。 印西大師を興したのは江戸時代の南陽院の住職・臨唱法印なり。 大師堂(写真左の堂)も寂しく、土埃にまみれていた。

20140419_107_1024x684

・・・・・・・・・・・・・・・お寺の前には、タンポポが、、、、、

20140419_110_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・水田の中に、先祖代々続く、一族の墓地が!

20140419_129_1024x683

⑧成田線我孫子支線・・・・・・・・・・成田線の本線は佐倉~松岸(銚子の手前)間である。我孫子支線は、ズバリ、全線単線の我孫子~成田間である。 E231系10両編成が走っている。 安食駅付近ではガラガラだ。

20140419_163_1024x682

20140419_162_1024x683

20140419_166_1024x682

20140419_169_1024x683_2

⑨成田線長門川橋梁・・・・・・・・・・・・・成田線我孫子支線は、利根川沿岸の物資及び成田山への参拝客の輸送を目的に明治34年(1901)に成田鉄道として開業した。 後に国有化され、民営化後はJRに引き継がれた。 小林~安食間の長門川橋梁の橋脚は開業時に建設された煉瓦造である。 明治期のお雇い外人の一人として、碓氷峠の煉瓦橋梁を設計した英国人:Charles Assheton Whately Pownallにより、明治27年(1894)に設計された。 橋長は168m。 橋桁は明治期の英国製で、単線上路プレートガーダーである。

20140419_181_1024x673

20140419_188_1024x683

⑩安食の街・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・石井時計店・・・・・・・・・この次訪れた時は壊されているかも?

20140419_199_1024x683

・・・・・・・・・・・・・旅館竹村・・・・・・・・・・築50年以上の老舗旅館らしい

20140419_197_1024x683

・・・・・・・・・・・・・山本太四郎本店・・・・・・・・大きな建物の瀬戸物屋さん

20140419_200_1024x683

・・・・・・・・・・・・・割烹三福・・・・・・・・・路地奥の洋館風の料理屋、営業はしていない

20140419_206_1024x683

⑪安食駅・・・・・・・・・・明治34年(1901)開業。駅名“あじき”は難読で有名。

20140419_214_1024x683

2014年4月17日 (木)

芝公園

新橋駅から、大門、芝公園、飯倉を抜けて、大江戸線赤羽橋駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。 増上寺・東京タワーをぐるりと大きく回った散歩です。



①有章院霊廟二天門
・・・・・・・・・・・・有章院(ゆうしょういん)は江戸幕府第7代将軍:徳川家継(いえつぐ)(1709~1716)の院号。 霊廟は第8代将軍:徳川吉宗が享保元年(1716)に造営したもので、日光東照宮に並ぶ豪華な建築だったそうだ。 昭和20年(1945)の空襲によりこの二天門だけを残して、全て焼失してしまった。・・・・・・・・・・墓所は改葬され、この二天門だけが、プリンスホテル前に、都会の空気に汚され静かに残されている。

20140417_015_1024x683

20140417_024_1024x680

 

②安蓮社・・・・・・・・・・・御成門小学校の西に、安蓮社(あんれんじゃ)がある。 寺院らしくない名前、建物は事務所ビル風、道路からは墓石の頭部がチラリと見えるだけの、“寺”らしくない寺である。 ビルの谷間に位置する、ここの墓地に入ると、増上寺の歴代大僧正の墓がズラリと並んでいる。 墓石は、丸く膨らんだものが、蓮模様の台座の上に突き出ている、特異な形状をしている。・・・・・・・・・・正月には、増上寺の大僧正が50人以上の僧を従えて墓参りするそうだ。 スゴイだろうね、見てみたい。

20140417_032_1024x683

20140417_035_1024x684



③正則高等学校
・・・・・・・・・・・御成門交差点近くの私立高等学校。 明治22年(1889)に予備校として創立した、歴史ある高校だ。 戦後しばらくは男子校であったが、平成12年(2000)から男女共学となった。

・・・・・・・・・・・・・・現在一部が残る、昭和11年(1936)完成の校舎。

20140417_050_682x1024

20140417_056_1024x682

・・・・・・・・・・・・・・昭和11年(1936)完成当時のモダンな校舎

20140417_045_1024x666

・・・・・・・・・・・・・・大正4年(1915)当時の校舎

20140417_046_1024x676_2



④オランダ大使公邸
・・・・・・・・・・・・正則高等学校前の坂を上るとオランダ大使館があり、敷地内にオランダ大使公邸もある。 明治16年(1883)に芝公園の現在地に公使館が開設された。当時は木造2階建ての建物であったが震災で焼失した。昭和3年(1928)に「和蘭公使館」が再建された。 その後、オランダ大使館は別に建てられ、公使館の建物はオランダ大使公邸となった。 設計はアメリカ人のJ・M・ガーディナ、施工は清水組(現:清水建設)、鉄筋コンクリート造2階建て。・・・・・・・・・外観は左右対称で、調和のとれた均衡ある建物で、美しい!

20140417_069_1024x683



⑤東京都水道局芝給水所
・・・・・・・・・・・オランダ大使公邸のお隣は芝給水所。 明治29年(1896)に竣工し、明治31年(1901)に給水が開始された。 歴史ある給水所だが、平成になり大規模に改造された。

・・・・・・・・・・・・・正門は、明治31年(1898)に造られた淀橋浄水場の門を昭和40年(1965)に移築したもの。

20140417_083_1024x683

・・・・・・・・・・・・・給水所のレリーフは、明治31年(1898)の通水時の流入弁室の入口部に、銘板を嵌め込み保存したもの。 明治22年(1889)に決められた、東京都の紋章がいいね!

20140417_100_684x1024

・・・・・・・・・・・・・平成14年(2002)に完成した現在のポンプ棟

20140417_081_1024x683



⑥幸稲荷神社
・・・・・・・・・・給水所前に鎮座する小さな神社。 応永元年(1394)に豊島郡岸之村(現:芝公園2丁目辺り)の鎮守として勧請された。 創建時は岸之稲荷大明神と称していたが、氏子・崇敬者に願望成就・商売繁盛・子孫繁栄などの幸事が多く起こったため、寛永元年(1624)幸稲荷に改称した。・・・・・・・・そんなに御利益あるなら、神社自身が商売繁盛の御祈祷をしたらどうだ! デッカイ拝殿でも建てられるかも!

20140417_092_1024x683



⑦懐かしき学生姿・
・・・・・・・・・・・布製肩掛け学生カバン、カラーのついた学生服、どちらも下ろしたてを身に付けた芝中の新入生さん。 50年前と変わらない、懐かしい通学風景だ!・・・・・・・・・私も中学生時代に御愛用。 アルミの弁当箱から出た醤油のシミが白いカバンにくっきりと匂いと共につき、セルロイドのカラーで首筋がスレてヒリヒリしたのは、今でも覚えている!

20140417_097_1024x683



⑧巨大な纏!
・・・・・・・・・・・給水所の近くにある日鳶連会館の巨大なる纏だ。 “日鳶連”とは、とび・土工工事業者による全国団体で、国土交通省許可の公益法人。 纏の中は、鉄骨のらせん階段がある。

20140417_106_682x1024



⑨聖アンデレ教会/聖オルバン教会
・・・・・・・・・・・飯倉交差点近くに建つ、聖アンデレ教会は、日本聖公会に明治6年(1873)、2人の英国人宣教師が日本に派遣され、日本人への伝道が開始された。 明治10年(1877)、現在の地を購入し聖堂を建てる。 これが聖アンデレ教会の始まりとなる。 敗戦の年、それまで強制移転や信徒住宅で礼拝を守っていた、教会活動が再開され、昭和23年(1948)には聖アンデレ教会の仮礼拝堂が整備された。 昭和31年(1956)には、「敷地内に英語礼拝のための聖堂を建てたい」という思いがあり、新たな礼拝堂として聖オルバン教会が建設された。 平成8年(1996)には、現在の聖アンデレ教会が完成した。

・・・・・・・・・・・・・・坂の途中に建つ、聖アンデレ教会(左)と聖オルバン教会(右)

20140417_172_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・聖アンデレ教会・・・・・・・・香山壽夫の設計、ナカノコーポレーションの施工で平成8年(1996)に竣工。・・・・・・・・・・20日のイースターに向け、今日から「聖なる三日間の礼拝」が始まるので司祭が集まって準備中。 邪魔しないように聖堂を拝見!

20140417_162_1024x683

20140417_157_1024x683

・・・・・・・・・・・・・聖オルバン教会・・・・・・・・・・・・昭和31年(1956)、アントニン・レーモンドの設計で、シンプルな木造の礼拝堂が建てられた。 レイモンドは聖路加病院、カトリック目黒教会、旧星商業学校(星薬科大学)なども設計している。

20140417_142_1024x683

20140417_125_1024x683



⑩ノアビル・
・・・・・・・・・飯倉交差点のシンボル。 楕円形のランドマークは、事務所兼ショールームのノアビル。 設計は昭和期の建築家:白井晟一(1905~1983)。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下2階/地上15階建、竹中工務店の施工で、昭和49年(1974)に建てられた。・・・・・・・・・・今でも、新鮮な感じを受け、違和感の少ない建物だ!

20140417_182_1024x683

2014年4月15日 (火)

神宮外苑

信濃町駅から、国立競技場の周辺を歩き、信濃町駅へ、1万2千歩、9km。


①旧神宮プール・
・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)に神宮外苑に竣工した、50m×9コースの屋外プール。 昭和23年(1948)には“日本選手権大会”が実施され、古橋広之進が男子千五百メートル自由形で18分37秒0で優勝した。 この記録は同時に行われていたロンドン五輪の優勝タイム19分18秒5を大きく上回った。 当時、日本は五輪に参加できなかったため、国内では大いにわいたそうだ! 神宮プールは平成14年(2002)に閉鎖され、今は“神宮外苑フットサルコート”となっている。

20140415_035_1024x683_2

・・・・・・・・・・・・・建物右端にはプールの入場券を売っていたのか?券売場らしき窓口の跡も残っていた。

20140415_026_1024x683



②国立競技場
・・・・・・・・・・・・競技場は昭和32年(1957)年に起工し、翌年、昭和33年(1958)に竣工した。その年にはアジア大会、翌年には国体東京大会が開かれた。その後昭和39年(1964)の東京オリンピックに合わせ、スタンドの増築など大改修された。・・・・・・・・・・いよいよ今年の7月から、「新国立競技場」の建設に向かい、解体されることになる。 昭和の建築が消え、新時代の建築に蘇える、期待しよう!

・・・・・・・・・・・・・・・私が最も多く入場した門が「千駄ヶ谷門」

20140415_033_1024x682

・・・・・・・・・・・・・・・「千駄ヶ谷門」から「代々木門」の方向を眺める。 中央のメインゲートには東京オリンピックで金メダルを獲得した319名を刻んだ銘板が設置されている。 この銘板と聖火台は「新国立競技場」でも保存されるらしい。

20140415_039_1024x683

20140415_045_1024x682

・・・・・・・・・・・・・・・メインゲート横には練習用の施設も在る

20140415_050_1024x684

・・・・・・・・・・・・・・・「代々木門」から見る

20140415_062_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・・スタンド上部に聖火台が見える「青山門」

20140415_082_1024x682 

・・・・・・・・・・・・・・スタンドへ出る閉じられたゲートの先にオレンジ色の観客席が見える

20140415_085_1024x686

・・・・・・・・・・・・・・バックスタンドには4基の照明塔が設置されてる

20140415_075_683x1024



③日本青年館
・・・・・・・・・・・国内各地で活動する「青年団」の総本山的な施設で、ホテルやホールなどを備えている。 修学旅行でも利用されているそうだ。 初代の日本青年館は、大正14年(1925)に戸田組(現:戸田建設)の施工で建てられた。 現在は2代目で、昭和54年(1979)に、槙文彦の設計、フジタ工業の施工で建て替えられた。 2代目も、新国立競技場の建設に伴い、平成26年度内に取り壊されることとなった。・・・・・・・・・私は初代の建物で、友人のピアノの発表会を観賞した。 2代目は建築技術士の講習会などで、利用した記憶が残っている。 

20140415_105_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・初代:日本青年館

1024x718



④都営霞ヶ丘アパート・
・・・・・・・・国立競技場、日本青年館、そして、このアパートが取り壊され、新国立競技場の建設用地となる。・・・・・・・・・昭和35年(1960)から昭和41年(1966)にかけ建設された10棟(261戸)の都営住宅である。

・・・・・・・・・・・・・約半数の人は、引っ越しされたそうだ! 子供の声はなく、若い人も居らず、お年寄りが残っているらしい。

20140415_121_1024x683

20140415_123_1024x683

20140415_130_1024x683

20140415_131_683x1024

20140415_137_1024x684  

・・・・・・・・・・・・・6号棟の1階に残っている「外苑マーケット」。 たばこ屋のご主人と2年ぶりにお会いし聞いたところ、店はあと1年営業できるそうだ。 しかし、マーケット内に残っている店も、タバコ屋さん、八百屋さん、米屋さんなどだけ。

20140415_148_1024x683

20140415_147_1024x683

20140415_140_1024x684

・・・・・・・・・・・・・入口のテント屋根も錆びた骨組みだけとなった

20140415_156_1024x683



⑤明治公園
・・・・・・・・・・・新国立競技場予定地に含まれている日本青年館前の公園。 ゴク普通の犬の散歩公園だが、公園の一画に近衛連隊の碑が2基ある。・・・・・・・・・江戸時代は、神宮外苑一帯の広大な地は大名屋敷や幕府役人の役宅があった。 明治19年(1886)に日比谷練兵場が政府の庁舎になり、ここ青山(現:神宮外苑)に練兵場は移された。 碑はこの地に、近衛歩兵第四連隊と近衛歩兵第六連隊の駐屯地があったことをしるしている。 この碑はどうなるのかな?

20140415_112_1024x683

20140415_108_1024x683



⑥大番町通跨線道路橋
・・・・・・・・・・・・慶応義塾大病院の横に架かる跨道橋。 この跨道橋は、明治19年(1886)に開設された青山練兵場と、JRの線路を挟み、向かい側(現:慶応義塾大病院)にあった軍の施設を結び架けられたようだ。

20140415_228_1024x682



⑦新緑のイチョウ並木
・・・・・・・・・・・黄葉の時期は人がイッパイ! 新緑の時期は誰もいません!

20140415_196_1024x681

20140415_204_683x1024

2014年4月14日 (月)

曳舟~平井

“今日はどこから歩こうか?”と考えながら、とりあえず地下鉄にに乗り、京成曳舟で下車。 駅前で財布を拾い、落とした高校生の通う学校へ届けてあげようと、行先定めずの散歩で、行先が決まった! 届けたあとは総武線平井駅まで歩いた。 1万2千歩、9km。



①京成曳舟駅
・・・・・・・・・・・・・大正元年(1912)開業の歴史ある駅だが、只今、京成押上線(押上~八広間)高架化工事が進行中である。 現在、上り線の高架化は完了し、下り線の高架化工事の真最中。 

20140414_001_1024x682

・・・・・・・・・・・・・駅前の明治通りにある踏切もいずれ無くなり、電車の通過を待つ光景も消える!

20140414_012_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・工事警備員の人がいる場所辺りで、財布を拾った。 中には定期券・学生証があり、届けてあげよう! 今日の散歩の行先が決まった!

20140414_019_1024x683



②6軒+3軒長屋
・・・・・・・・・・・京島3丁目、明治通りに面して建つ6軒長屋と3軒長屋。 この一画は戦災で焼けなかったところで、モルタル吹付外壁の長屋が残っている。 3軒長屋と6軒長屋の間は空き地となっているが、元は6軒長屋が2棟あったようだ。

20140414_029_1024x655

20140414_032_1024x636



③昭和の質屋!
・・・・・・・・・・・・八広2丁目に建つ、しっかりした造りの蔵と、泥棒猫除けらしき塀の質屋さん。 

20140414_035_1024x682



④裏通りのアート?・
・・・・・・・・・・・懐かしい蝋石で路上に描かれたアートです。、、、と、思ったらチョークで描かれていた。・・・・・・・・・私の小さい頃(昭和20年代)は、駄菓子屋で買った蝋石が遊びの筆記具であり、チョークは学校で使う物だった。・・・・・・・・・今の時代、蝋石は売っているのか? そうそう思い出した、蝋石で富士山などをかたどったお土産の置物も、観光地で売っていたけど最近見ないね!

20140414_049_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・路上には新幹線と子供が描かれている

20140414_048_1024x682



⑤町工場
・・・・・・・・・・・町工場の多い、墨田区八広・立花を抜けて行く。

20140414_034_683x1024

20140414_041_1024x682

20140414_052_1024x682

20140414_072_1024x683 20140414_073_1024x683

20140414_077_1024x683

20140414_080_1024x682



⑥東京都立橘高等学校
・・・・・・・・・・・曳舟駅前での拾得物のお届け先で~す。・・・・・・・・・・昭和13年(1938)に東京市立向島工業学校として開校した都立向島工業高等学校と、昭和10年(1935)に東京市向島女子商業学校として開校した都立向島商業高等学校が、平成19年(2007)に合併し東京都立橘高等学校となった。 校舎は新しく、歴史を感じることはできなかった。

20140414_089_1024x683



⑦東あずま駅
・・・・・・・・・・橘高等学校からは、明治通りを越えると東武亀戸線の東あずま駅がある。

20140414_106_1024x683_2



旧中川
・・・・・・・・・荒川から平井新橋の近くまでは、墨田区と江戸川区の区境を流れる旧中川。

20140414_112_1024x683

20140414_113_1024x683

20140414_121_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・・江東新橋を渡ると江戸川区平井に入る。 江東新橋の上は、蔵前橋通りで、昭和36年(1961)に新設された。

20140414_124_1024x683

20140414_126_1024x678

●・・・・・・・・・・・・・・・この後平井駅へ行く途中、平井諏訪神社と燈明寺に、チョイト立ち寄ってきた。

2014年4月13日 (日)

スカイツリー

夕方からスカイツリーを見上げながら、我が家(浅草橋)から亀戸まで歩いてきた。


①北十間川のスカイツリー・
・・・・・・・・・・今日は曇り空。 スカイツリーは「桜ライティング」と称し桜色に!

20140413_066_683x1024

20140413_078_683x1024

20140413_081_683x1024

20140413_090_1024x683



②とうきょうスカイツリー駅 留置線
・・・・・・・・・・・・スカイツリーを見上げながら、留置線を見下ろす、押上駅前の駐輪場の屋上からパチリ!

20140413_020_1024x683

20140413_028_1024x683

20140413_054_1024x683

2014年4月12日 (土)

初台~幡ヶ谷

京王線初台駅から渋谷区初台・元代々木の住宅地を抜けたら、小田急線代々木八幡駅近く出たので方向を変え裏道を歩くと代々木上原駅に、再び方向を変え裏道を行くと西原を抜けて京王線幡ヶ谷駅に、1万1千歩、8kmの散歩です。


①初台駅・幡ヶ谷駅
・・・・・・・・・・・両駅ともに、昭和53年(1978)の京王新線開通にともない、京王線からはずれ、京王新線の駅として現在の甲州街道地下に移転した。

・・・・・・・・・・・・・・初台駅・・・・・・・・・・・・・大正3年(1914)に改正橋駅として開業し、大正8年(1919)初台駅と改称した。 昭和39年(1964)、京王線の地下化により地下駅となる。(この時の地下ホーム跡は、京王線に現存する。) 昭和53年(1978)に現地下駅に移転した。

20140412_002_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・幡ヶ谷駅・・・・・・・・・大正2年(1913)に開業。 昭和53年(1978)に現地下駅に移転した。

20140412_130_1024x683


②初台商盛会
・・・・・・・・・・・初台駅前の商店街。まだ朝早く、どちらの店も開店前だが、日中は賑やかそうだ。 商店街の中程には「初台スーパー百貨店」と称する、今は少なくなった個人店舗が集まって商売しているスーパーも健在だ。 営業時間帯にぜひ来てみたいね!

20140412_005_1024x682

20140412_006_683x1024

20140412_008_1024x683


③ベトナム社会主義共和国大使館
・・・・・・・・・・・・商店街を抜け元代々木町の住宅地の中に大使館がある。 戸田建設の設計・施工で、平成15年(2003)に完成した、鉄筋コンクリート造3階建てのベトナム風瓦屋根の建物である。

20140412_021_1024x683


④KI
・・・・・・・・・・・ベトナム大使館近くに在る戦前住宅。 木造2階建て、勾配の緩やかな屋根が安定感を与え、落ち着いた住宅である。

20140412_028_1024x681


⑤KS邸
・・・・・・・・・・・・上原1丁目の木造2階建ての住宅。 戦前の建物か?

20140412_070_1024x683


⑥上原1丁目の路地
・・・・・・・・・坂道に途中、畳屋さんの横を入ると、、、、、

20140412_079_1024x670

・・・・・・・・・・・・・・短い距離だが、落ち着いた佇まいの住宅が並ぶ、、、、、

20140412_082_683x1024

20140412_087_681x1024


⑦N邸
・・・・・・・・畳屋さんの横を入り突き当りに建つ木造住宅。 建築年は不詳。 北米風のデザインで、2階窓は印象的だ。

20140412_091_1024x682


⑧IG邸
・・・・・・・・・・こちらもも上原に建つ邸宅。 洋館風ですが、年代等不詳。

20140412_106_1024x682


⑨TN邸
・・・・・・・・・・・渋谷区西原3丁目の住宅。 正面の出窓と玄関回りは洋風で、奥は和風の木造2階建て住宅。 

20140412_114_1024x683


⑩SI邸
・・・・・・・・・西原2丁目の木造平屋住宅。 建築年代は不詳。 こちらも出窓が特徴的だ!

20140412_123_1024x683

●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩は、裏通りのチョイト古そうな住宅見学となった。 いずれの住宅も残して欲しいね!

2014年4月11日 (金)

三田4丁目

浅草線泉岳寺駅で下車し、北の方角へ歩きはじめたが、三田4丁目付近で袖を引かれ、この辺りの寺院を軒並み覗いて帰宅となった。 1万2千歩、9km。


①伊皿子坂
・・・・・・・・・・・泉岳寺から上り坂となり、頂上で魚籃坂と繫がっている伊皿子坂(いさらござか)。 坂の由来は、明国人「伊皿子」(いんべいす)が住んでいたと伝えられている。 「伊皿子」の墓は泉岳寺の近くの正源寺にある。

20140411_161_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・坂上の伊皿子交差点の角に「歯科医学教育発祥之地」の碑が設置されている。 碑のある三田四丁目18番に、明治23年(1890)、現東京歯科大学の前身である高山歯科医学院が創設された。・・・・・・・・・当時の歯医者には、まともな治療機器・器具もなく、“痛ければ、ペンチで抜け!”の治療だったのかも? 恐ろしや!

20140411_007_1024x678


②魚籃坂
・・・・・・・・・・・・伊皿子坂を上がりつめ、伊皿子交差点から下る坂が魚籃坂(ぎょらんざか)。 坂の由来となった魚籃寺が坂の中程に在る。

20140411_069_1024x683


③魚籃寺
・・・・・・・・・坂の中程に、寛永7年(1630)に開山した、江戸三十三観音札所の魚籃寺がある。 「籃」は「かご」のことで、魚籃とは魚を入れるかごです。 魚籃観音は魚の入った魚籃を下げている観音像だそうだが、本堂の扉は閉じられ拝見できず!・・・・・・・・土埃に見舞われたのか? 掃除の手抜きか? 朱の山門を泣かせる埃っぽい本堂は、400年の歴史を語る古刹だ!

20140411_062_1024x682

20140411_049_1024x683_2



④キリスト友会フレンズセンター・
・・・・・・・・・・・伊皿子交差点の北側にあるフレンズセンター。 “キリスト友会”とは、“クエーカー”のことで、キリスト教の一派。 “フレンズセンター”は、教会の宿泊施設。 大正11年(1922)に、宣教師館として建設された、木造2階建一部地下室付きの建物。 設計は浅草聖ヨハネ教会、東洋英和女学院、スコットホールなどを手掛けた建築家ヴォ―リズ。 関東大震災以前の数少ない現存する西洋館の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。

20140411_034_1024x683


⑤幽霊坂
・・・・・・・・・・東京に7カ所以上ある「幽霊坂」の一つで、魚籃坂とほぼ並行して、三田4丁目の裏道を走る坂。 坂の両側は、寺院・墓地が多く、幽霊も出やすい雰囲気がある。 坂の中程は傾斜もきつく、「気をつけよう 暗い夜道の 幽霊坂」。

20140411_141_1024x671


⑥玉鳳寺
・・・・・・・・・・・幽霊坂を上がったところに、慶長4年(1599)に八丁堀に開創し、寛永12年(1635)に現在地に移転した玉鳳寺(ぎょくほうじ)がある。 こちらの山門は明治39年(1906)、高橋是清をはじめ檀家の寄進で建てられた。・・・・・・・・・山門横の地蔵堂には、化粧延命地蔵(おしろい地蔵)が安置されている。 八丁堀の地蔵橋畔に放置されていたものを住職が修復し、さらに地蔵が泥にまみれ汚れているのを不憫に感じた住職が白粉を塗って祭ったところ、和尚の顔面の痣が消えた。その後、人々は病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになった。 私の場合は、自分の顔に白粉を塗らないとダメなので、今日は祈願をヤメタ!

20140411_135_1024x683

20140411_140_1024x683


⑦大谷石の斜路
・・・・・・・・・・・・玉鳳寺の横の路地を行くと、清久寺の山門へ向かう大谷石の幅の狭い斜路がある。 斜路の上には、外灯、コンクリートの支柱の柵と、2階の物干しが特徴的な木造住宅。 まさに“戦後の昭和”である。 懐かしさと、親しみと、嬉しさが、まぜこぜで湧いてきた! 家の前で、悪ガキ4、5人集まり、ベーゴマ、メンコをやる姿が浮かんだね!

20140411_149_1024x682

20140411_151_1024x683


⑧亀塚公園
・・・・・・・・・・・幽霊坂を完全に上りきると亀塚公園にでる。 江戸時代は上野沼田藩の下屋敷、明治維新後は皇族華頂宮邸、今は中央に古墳らしき塚の残る広い公園。

20140411_134_1024x683


⑨聖坂
・・・・・・・・・聖坂(ひじりざか)は伊皿子坂から慶応大学の方角に伸びる坂。 坂上から坂下に向かい、亀塚公園、クウェート大使館、亀塚稲荷神社、普連土学園などが並んでいる。

・・・・・・・・・・・・・・クウェート大使館・・・・・・・オイルマネーで金持ちな国だ、建物も立派。 設計は丹下健三。 昭和45年(1970)竣工、地上7階/地下2階建て、鉄骨鉄筋コンクリート造。 建物の上層部は大使公邸、下層部は大使館の事務室で、近代的なデザイン。

20140411_120_683x1024

・・・・・・・・・・・・亀塚稲荷神社・・・・・・・・かつては亀塚公園にある塚の頂に鎮座していたが、明治の初めに現社地に遷座された。 今は、ビルの前に鎮座する小さな社。

20140411_119_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・普連土学園・・・・・・・・・明治20年(1887)、キリスト友会(クエーカー)の婦人伝道会が女子教育を目的として創設した女子校。 現在は1学年135名程の中・高等学校。 新珠三千代の出た学校。・・・・・・・・・昭和37年(1962)に講談社が創刊した雑誌『少女フレンド』を思い出した。、、、、、、『マーガレット』、『少女コミック』、『なかよし』、なんていうのもあったね! 私の愛読書は『少年マガジン』だった。

20140411_113_1024x683



⑩願海寺付属洋館
・・・・・・・・・桜田通りに面する、浄土宗の願海寺には、異様な雰囲気の洋館風建築が残っている。 謎だ!

20140411_080_1024x683

20140411_078_1024x683

20140411_091_1024x683

2014年4月10日 (木)

東十条~赤羽

東十条駅から、裏道を歩き路地を抜け行止まりで戻り、姥ヶ橋陸橋に出たら、再び裏道を歩き路地を抜け行止まりで戻り、赤羽駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①朽木質店・・・・・・・・・・東十条駅の西側の裏道にある。 塀の戸も壊れたままで、どうやら廃業したようだ。・・・・・・・・・質屋で当座の金を借り、稼いだら質草を出しに行く人も少なくなり、一六銀行の時代も終わったか!

20140410_021_1024x682

②赤羽線北仲原踏切・・・・・・・・・・・・十条仲原2丁目と中十条3丁目をつなぐ埼京線の踏切。・・・・・・・・・踏切名には「赤羽線 北仲原踏切」と書かれている。 池袋~赤羽間の埼京線の正式名は「赤羽線」である。 懐かしい呼称だ、いまだ健在とは嬉しいね。 ちなみに、赤羽線の開通は明治18年(1885)である。

20140410_037_1024x684

20140410_044_1024x682

③十条仲原貯水槽・・・・・・・・・・・十条仲原2丁目で環七通りに沿いにド~ンと建っている。 こんなところに? 

20140410_060_1024x680

20140410_055_1024x682

④入口はどこだ!・・・・・・・・・・・・・訪問時は、一瞬躊躇しそうだ。

20140410_068_681x1024

20140410_070_1024x683

⑤区境です!・・・・・・・・・・路地の東側(写真右)は北区上十条、西側(左)は板橋区稲荷台。 ここを歩くと、右足は北区を、左足は板橋区を歩いている! 

20140410_078_671x1024

⑥姥ガ橋延命地蔵尊・・・・・・・・・・環七通り姥ガ橋陸橋の交差点角に祀られている地蔵さま。・・・・・・・・・姥ヶ橋とは、現在は暗渠化された稲付川に架かっていた橋の名称である。この橋で、誤って幼児を溺死させてしまった乳母が、責めを感じてこの橋から身を投げて死んだ事により、乳母の供養のため村人が地蔵尊を建立した。 地蔵尊には享保9年(1724)の建立銘がある。

20140410_093_1024x683

20140410_098_682x1024

⑦稲付公園・・・・・・・・・・赤羽西3丁目の高台に在る公園。 ここは、かつて、講談社の創立者である野間清治(1878~1938)の旧別邸であった。 現在、建物などは残されていないが、大きな石が所々に残り邸宅の跡を感じさせる。 公園前の坂は「野間坂」と呼ばれている。

・・・・・・・・・・・・・・・右側は野間坂、左は公園入口。 入口の石積みは、野間邸当時のものらしい。

20140410_131_1024x682

・・・・・・・・・・・・・・・大きな石や、四阿の跡らしき基盤が残る公園

20140410_140_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・公園からの眺望

20140410_138_1024x683

⑧鳳生寺・・・・・・・・・稲付公園の下に建つ、太田道灌の開基と伝えられる鳳生寺(ほうしょうじ)。文明10年(1478)建立。・・・・・・・・山の奥に建つ寺のように、静かで、緑豊かで、苔の生えた広い境内は癒しの空間である!

20140410_161_1024x683

⑨法真寺・・・・・・・・・・・日蓮宗の法真寺は、稲付山と号し、天正元年(1537)の開山。 こじんまりとし手入れの行き届いた庭が美しい。

20140410_169_1024x683

⑩普門院・・・・・・・・・・赤羽駅の南方に在る、徳治2年(1307=鎌倉時代)の創建と伝えられる寺。 参道正面には中国・台湾風の鐘楼門(昭和18年(1943)頃完成)があり、境内にはインドの仏塔をモデルにした共同墓地(昭和41年(1966)完成)がある、異国情緒豊かな寺だ。

20140410_184_682x1024

20140410_181_1024x683

20140410_178_665x1024

2014年4月 9日 (水)

神田川(たつみ橋~永福橋)

神田川の最下流に架かる柳橋(台東区と中央区を結ぶ)から数えて、83番目の向田橋(中野区)までは、前回(3月12日)の散歩により制覇し、今日から杉並区に入る。 今日は、84番目の「たつみ橋」から、100番目の「永福橋」まで歩いてきた。 1万1千歩、8km。

①方南町駅・・・・・・・・・・・・・東京メトロ丸ノ内線支線の終着駅。 3両編成の列車が停まる頭端式ホーム1面2線。 出入口はホーム西端の環七通りと方南通りとの交差地点に1か所、ホーム東端の方南通り沿いに1か所、共に狭い計2ケ所である。・・・・・・・・・丸ノ内線支線の中野富士見町駅から方南町までの延伸は昭和37年(1962)に行われた。・・・・・・・・・・・・ホームは6両編成が停車できるように、出入口はバリアフリー化に、それぞれ改良計画があるようだ、乞うご期待!

10_20140409_009_1024x668

10_20140409_015_1024x683

②たつみ橋・・・・・・・・・・下流から84番目の「たつみ橋」。 現橋は昭和62年(1987)の完成。 “たつみ”の謂れは知りません!

10_20140409_037_1024x683

③上水橋・・・・・・・・・・たつみ橋の上流50m程の処に架かる上水橋(じょうすいばし)。

10_20140409_031_1024x683

④方南橋・・・・・・・・・・・・・・環七通りが上を通る橋で、昭和39年(1964)の完成。

10_20140409_044_1024x666

10_20140409_061_1024x682

・・・・・・・・・・・・・神田川・環状七号線地下調節池・・・・・・・・・・・方南橋の際にある円形の建物は、環状七号線の地下約40mに造られた直径12.5m、長さ4.5kmの巨大な池の取水口である。 神田川が氾濫することを防ぐため、大雨の時はここから地下調節池に雨水を流し、一時的に貯水する施設。 大きな取水口が隣りの緑地の下で口を開けている。 平成9年(1997)の完成。

10_20140409_056_1024x682

10_20140409_062_1024x683

⑤方南第一橋・・・・・・・・・・・“第一”があって、“第二”、“第三”と続かない、「方南第一橋」。 いつの日か“第二”ができるのかな?

10_20140409_069_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・この付近、護岸も整備され、所々には緑地もあり、年寄りの休憩所だ! 川の水も澄んで川底まで良く見える、何年か前の神田川は消えたようだ!

 10_20140409_072_1024x683

10_20140409_074_1024x683

⑥弁天橋・・・・・・・・・・・・杉並区和泉4丁目のほぼ中央に位置する、平成21年(2009)に架け替えられた弁天橋。 橋名の由来となった弁天様は、橋の南300m程行った高校の裏手に祀られているそうだ。

10_20140409_077_1024x683

⑦和泉橋・・・・・・・・・・・昭和53年(1978)に架けられ、平成22年(2010)に架け替えられた「和泉橋(いずみばし)」。 

10_20140409_085_1024x683

⑧一本橋・・・・・・・・・・・90番目の橋は「一本橋」。 旧橋は昭和41年(1966)に完成したが、平成24年(2012)に現在の橋に架け替えられた。 きっと、大昔はホントに丸太の一本橋だったのかも?

10_20140409_097_1024x683

⑨番屋橋・・・・・・・・・・・和泉2丁目と和泉4丁目の境に架かる、昭和42年(1967)に完成したコンクリート造の「番屋橋(ばんやばし)」。 そろそろ架け替え時期かも?

10_20140409_100_1024x683

10_20140409_105_1024x683

⑩中井橋・・・・・・・・・・・・平成24年(2012)に架け替えられた「中井橋」。

10_20140409_113_1024x683

⑪宮前橋・・・・・・・・・・・名前のとおり、宮前橋は和泉熊野神社の前にある。 

10_20140409_116_1024x683_2

・・・・・・・・・・・・・和泉熊野神社・・・・・・・・・・杉並区和泉にある熊野神社で、創建は文永4年(1267)、和泉村の鎮守様である。 鎮守の森の面影が残る境内は、癒しの空間である。 隣りの幼稚園児のお母さんの話し声が、ベラベラ、ペラペラ聞こえ、チョイト、五月蠅いのが玉に傷!

10_20140409_121_1024x683

10_20140409_127_1024x683

・・・・・・・・・・・・・和泉貴船神社・・・・・・・・・・和泉熊野神社の200m程北にある貴船神社。鳥居と小さな社が在るだけだが、境内に小さな池があり地名“和泉”の由来となっている。

10_20140409_172_1024x683

・・・・・・・・・・・・・龍光寺・・・・・・・・・・熊野神社、貴船神社の別当であった龍光寺が、熊野神社の隣りにある。 真言宗室生寺派の龍光寺は、承安2年(1172)の開創。・・・・・・・・・散り始めた枝垂れ桜が興を添えてくれる美しい寺だ!

10_20140409_134_1024x683

10_20140409_148_1024x683

⑫栄泉橋・・・・・・・・・・・・龍光寺の前に架かる「栄泉橋(えいせんばし)」。 木製の欄干の橋だ!

10_20140409_178_1024x683

⑬神泉橋・・・・・・・・・・昭和43年(1968)に完成した、井の頭通りを渡す橋。 橋の近くに京王井の頭線が走っているが、井の頭線の神泉駅は5kmぐらい先の渋谷の隣りだ、関係あるのか、無いのか?

10_20140409_189_1024x683

・・・・・・・・・・・・・神泉橋から見る、上流の蔵下橋と井の頭線。もちろん、下を流れるのは神田川。

10_20140409_194_1024x682

⑭蔵下橋・・・・・・・・・・昭和42年(1967)完成の橋。 農道に架かる橋のようだ!

10_20140409_200_1024x683

⑮明風橋・・・・・・・・・・・・・井の頭線を越え杉並区永福に入ると、竹林など緑の多い静かな住宅地となる。 「明風橋(みょうふうばし)」は、昭和44年(1969)に完成した。

10_20140409_207_1024x683

10_20140409_212_1024x681

⑯永高橋・・・・・・・・・・・・旧都立永福高校の前に架かる橋で、「永福高校」を縮めた「永高」が名の由来となっているそうだ。 橋は高校の設立に合わせて架けられたそうだ。 ところで、永福高校は平成16年(2004)に閉校し、跡は永福学園養護学校となっている。

10_20140409_215_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・・上流側

10_20140409_220_1024x683

⑰ひまわり橋・・・・・・・・・昭和46年(1971)に架けられた歩行者専用橋。 北側に永福小学校があり、名前は児童向けに命名されたのかも?

10_20140409_225_1024x683

⑱永福橋・・・・・・・・・・・・本日の最後で、下流側から100番目の橋は「永福橋」。 昭和43年(1968)完成。 橋名、地名の「永福」は、北側の永福寺に由来するそうだ。

10_20140409_233_1024x683

2014年4月 8日 (火)

千葉教会・千葉神社

稲毛の帰り、京成千葉線の千葉中央駅から、県庁、千葉教会、千葉神社を歩いてJR千葉駅まで、6千歩、5kmのミニ散歩。

①千葉県葭川排水機場・千葉県文書課書庫・・・・・・・・・・・・千葉県庁を見上げる程近い、中央区中央の葭川(よしかわ)が都川(みやこがわ)に合流する地点に「千葉県葭川排水機場」がある。 “何だ、コリャ!”と思うようなデザインの排水機場だ、さらにこの排水機場は千葉県の書庫を兼ねている、ユニークなコラボである。・・・・・・・・・鉄骨鉄筋コンクリート造、地上7階/地下1階、延床面積約6200㎡。 鹿島建設+旭建設の施工。 1997年の千葉市優秀建築賞受賞作品。(排水機場の隣りの水門は平成元年(1989)竣工)

20140408_012_1024x683

20140408_009_1024x683

市場町・・・・・・・・・・県庁のある“千葉の霞が関”。

・・・・・・・・・・・・・千葉県庁・・・・・・・・地上20階建て(高さ95.4m)の高層ビルの本庁舎。平成8年(1996)竣工。

20140408_024_682x1024

・・・・・・・・・・・・・モノレール・・・・・・・・・頭上を走り、景観を壊し、私には首都高と同じで好きになれないね!

20140408_023_1024x683

20140408_019_1024x682

・・・・・・・・・・・・・県庁近くの店・・・・・・・・・・活気がない!

20140408_027_1024x682

20140408_054_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・蔵を発見!

20140408_051_1024x683

20140408_060_1024x683

・・・・・・・・・・・・・千葉教会・・・・・・・・明治28年(1895)に建てられた、木造の洋風教会堂。 ドイツの建築家:リヒャルト・ゼールの設計。

20140408_035_683x1024

20140408_046_1024x683

20140408_050_1024x683

③若葉郵便局・・・・・・・・・・・“たがが郵便局、されど郵便局”。 こちらは、明治5年(1872)に「千葉郵便取扱所」として開設され、明治8年(1875)に「千葉郵便局」となった。 現在の建物は、昭和38年(1963)に竣工した郵政建築(デザインが似ている郵政省関連の建物)。 平成19年(2007)には郵政民営化により、「若葉郵便局」に改称した。

20140408_065_1024x683

④千葉神社・・・・・・・・・・・創建年代は不詳の神社である。 千葉氏は妙見を崇拝しており、当地には千葉家三代忠常が勧請した。 天正19年(1591=千利休が自害した年)に妙見社として社領200石の御朱印状を拝領し、明治元年(1868)に千葉神社と改称した。 祭神は北辰妙見尊星王。・・・・・・・・・昭和20年(1945)の空襲により神社は灰燼に帰したが、昭和29年(1954)に木造の社殿が再建された。 平成2年(1990)に『平成の大造営』として、新たな社殿(現在の上下2階建てで、二つの拝殿を有する我が国初の重層社殿)が造営された。・・・・・・・・1階と2階に拝殿があり下で手を合わせ、上でも手を合わせる、賽銭の2重取りだ! さらに、昭和29年築の旧社殿は「千葉天神」として、重層社殿の横に残されている。・・・・・・・・・・参拝後は、何となく見世物小屋を覗いたような気持ちになった神社fだ!

20140408_070_1024x683

20140408_074_1024x683

⑤千葉駅前交番・・・・・・・・・・・・昭和38年(1963)に旧国鉄「千葉駅」が現在地に移転し、開業したのに伴い、昭和39年(1964)に駅前交番が新設された。 その後、駅前にモノレールができ、交番も平成8年(1996)に現在の場所に新築した。・・・・・・・・・通称「フクロウ交番」と呼ばれているらしい。 千葉駅前広場は、モノレールの鉄骨などに囲まれた人工の森と見立て、森の守り神、森の哲学者としてフクロウをイメージしたデザインで設計したそうだ。 たしかに、駅前は鉄骨が建ち、フクロウの活躍する“暗い”雰囲気がするね!

20140408_083_1024x683

2014年4月 7日 (月)

隅田川駅

南千住駅に隣接するJR貨物の隅田川駅周辺を散歩してきた。1万1千歩、8km。

①南千住駅・・・・・・・・・・・南千住駅は、JR東日本、東京メトロ、つくばエクスプレスの駅である。・・・・・・・・明治29年(1896)日本鉄道の駅として開業し、明治42年(1909)からは常磐線の駅となった。 昭和36年(1961)には地下鉄日比谷線が開通し、平成17年(2005)からはつくばエクスプレスの駅も開業。・・・・・・・・常磐線と日比谷線のホームは高架で、からはつくばエクスプレスは地下1階にホームがある。 いずれも独立した配置だが、改札はほぼ集中しており、乗り換えるときの不便さはさほど感じられない。・・・・・・・・・・駅前、周辺には高層マンション、公営住宅がボコボコ建ち、朝は通勤・通学客が多くなったね!

・・・・・・・・・・・・・・(1枚目の写真)中央がJRの改札、その右側につくばエクスプレスの改札がある。 さらに、つくばエクスプレスの改札(2枚目の写真)の隣り(写真では奥)に日比谷線の改札(3枚目の写真)がある。・・・・・・・(3枚目の写真)で日比谷線改札の後ろに、常磐線と隅田川駅をつなぐ常磐線支線(隅田川貨物線)がある。

20140407_003_1024x683

20140407_099_1024x683

20140407_095_1024x668

・・・・・・・・・・・・・南千住駅の東側、高架は日比谷線、隅田川駅はこの前にある。

20140407_085_1024x683

隅田川駅・・・・・・・・・・・南千住駅の東側に隣接する、JR貨物とJR東日本の常磐線支線(隅田川貨物線)の隅田川駅がある。 プラットホーム、改札口、キヨスクなどは無く、広い敷地に、10線以上のホームと仕分け線や留置線などが展開している。・・・・・・・・この駅は、東北本線・常磐線を建設した日本鉄道によって、隅田川の水運と連携して東京の市街地へ石炭・木材・砂利などを運ぶために開設された。・・・・・・・・・駅の外周一回りは約2.5kmあり、結構広さを感じるね!

・・・・・・・・・・・・・・まずは正門?

20140407_090_1024x683

・・・・・・・・・・・・・南側からの全景パノラマ写真

20140407_108_1024x316

・・・・・・・・・・・・・・北側から見ると・・・・・・コンテナが小さく見える!

20140407_078_1024x683

20140407_074_1024x683

20140407_071_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・・ついでに、西側から見ると・・・・・・・・コンテナが積まれているだけ!

20140407_061_1024x682

・・・・・・・・・・・・・機関車

20140407_064_1024x684

20140407_119_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・常磐線から分岐し隅田川貨物線に入ってくる貨物列車。左端は南千住駅ホーム。(日比谷線ホームから撮影)

20140407_137_1024x685

③東京メトロ車庫・・・・・・・・・・・・・隅田川駅の北側に、都営住宅、UR都市機構の住宅を挟み日比谷線の車庫がある。 ここの土地もかつては、一部、隅田川駅のものであった。 車庫の北側は隅田川であり、常磐線で運ばれた石炭は、現隅田川駅を抜け、この車庫あった桟橋から船積みされ市街地へ運ばれたそうだ。

20140407_047_1024x683

20140407_019_1024x683

④トミンタワー南千住4丁目・・・・・・・・・隅田川駅と東京メトロ車庫の間に建つ、32階建ての都営高層住宅。 ちなみに、お家賃は10万円台でピンキリです。 

20140407_038_1024x683

2014年4月 6日 (日)

新宿御苑

午後から、新宿御苑で春の陽を浴び、その後、新宿ストリートで買物を兼ね散歩をする予定で出てきた。 御苑までは予定通りだったが、しばらくするとポツリポツリ! 散歩は止めて急ぎ買物して帰宅。、、、、、ついてないね!

・・・・・・・・・・・・ピンクの桜がお出迎え、、、、、

20140406_005_1024x683

・・・・・・・・・・・・・負けじと色づくしだれ桜、、、、、

20140406_021_1024x683

・・・・・・・・・・・・・さらに負けじと、派手な衣装で艶っぽく、、、、、

20140406_012_1024x683

・・・・・・・・・・・・・こちらは、花よりおしゃべりの宴

20140406_038_1024x683

・・・・・・・・・・・・・見初められた白い花も、薄緑の葉に責められて、散る春だ、、、、、、

20140406_011_1024x683

・・・・・・・・・・・・・・桜色から新緑に!、、、、、“さくら餅”から“うぐいす餅”に!

20140406_028_1024x683

・・・・・・・・・・・・・気候も暖かくなり、二人が熱くなる季節の到来、、、、、

20140406_042_1024x682

・・・・・・・・・・・・・寒い人は温室に入って温まろう!

20140406_055_1024x683

20140406_052_1024x683

・・・・・・・・・・・・・温まって出たら、心を冷やす無情の雨、、、、、

20140406_059_1024x683

・・・・・・・・・・・・・出口に向かう傘の列、、、、、

20140406_064_1024x683

・・・・・・・・・・・・・本日の散歩は中止となりました、またのお越しをお待ちしております! 

2014年4月 5日 (土)

蔵前・浅草

我が家(浅草橋)から蔵前を抜け浅草へ、買物ついでの散歩、往復1万3千歩、9km。

①メタセコイア・・・・・・・・・・・浅草橋2丁目で、江戸通りに面して建つビルの一角に「メタセコイア」の木が、空にまっすぐ伸びている姿が目に入る。 ビルの竣工記念に平成元年(2013)に植えられたものうだ。 隣のビルの9階程の高さに育っている、30m弱の身長かな?

20140405_004_683x1024

②浅草聖ヨハネ教会・・・・・・・・・浅草聖ヨハネ教会の始まりは、明治9年(1876)に宣教師が浅草で伝道を始めたことによる。 その後、明治後期に教会の建物が建ったが、関東大震災で崩壊し、蔵前2丁目に、現在教会が昭和4年(1929)に鉄筋コンクリート造で再建された。国の登録有形文化財。・・・・・・・・・・・我が家からは歩いて15分程のところに在るが、近くて遠い教会で、3年ぶりに内部を拝見してきた。・・・・・・・・東京大空襲で被災し、屋根を修復したそうだが、内部から見る木組みの船底屋根は美しく、清楚な感じの印象的な教会である。 隅に置かれていた、洗礼台も印象に残るね。

20140405_047_1024x683

20140405_026_1024x683

20140405_037_1024x683

20140405_030_1024x683

20140405_028_683x1024

③蔵前の木造の商店・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・街歩きの本を見ると必ず出てくる古本屋さん「御蔵前書房

20140405_053_1024x683

20140405_054_1024x683

・・・・・・・・・・・・・看板建築の土佐丸

20140405_057_1024x681

・・・・・・・・・・・・・萩原亀吉商店・・・・・・・表側と裏側では建てた年代が異なるようだ?

20140405_061_1024x683

④東京厚生信用組合浅草支店・・・・・・・・・厩橋の交差点に建つ信用組合。昭和5年(1930)の建築。 小粒だが、アールデコ風の建物だ!・・・・・・この信用組合は、福祉関係の企業者や勤労者の相互扶助を目的とした金融機関で、東京に4店舗ある。・・・・・・・・・設立当時(昭和28年)の写真とほとんど変わっていない。街路樹の位置まで同じだ!

20140405_069_683x1024

20140405_062_765x1024

⑤謎の家?・・・・・・・・・・駒形の裏道に建つ、鉄筋コンクリート造の古い家です。 玄関上の2つの丸い鉄の蓋は何? 飾り? 窓? 空気抜き? 錆びてボロボロ!

20140405_108_682x1024

⑥浅草寺 弁天堂・・・・・・・・・・本堂の東南、弁天山と呼ばれる小高い丘に建つ、昭和58年(1983)に鉄筋コンクリート造で再建されたお堂。 弁天様が祀られている。・・・・・・・・お堂の手前に、芭蕉の句 “花の雲 鐘は上野か 浅草か” で有名な鐘がある。鐘楼は昭和25年(1950)の再建であるが、鐘は元禄5年(1692)に改鋳されたものだ。江戸時代の“時の鐘”の一つ。現在も毎朝6時に鳴っている。・・・・・・・・・・・我が家でも、静かな晦日は何処かの鐘の音が聞こえる! “大晦日 遠くかすかな 鐘は上野か 浅草か それとも石町か” イッパイの字余り。

20140405_166_1024x683

20140405_167_683x1024

⑦浅草寺・・・・・・・・・・・・

20140405_216_1024x683

20140405_227_1024x683

20140405_188_1024x683

20140405_198_1024x683

2014年4月 4日 (金)

浅草橋~東京

ここ数日、忙しい日々を過ごし、今日は午前中があいていた。 曇天とポツリポツリのミックス空の下、散歩を決意した。 よし!皇居の通り抜けに行ってみるか! 浅草橋から歩き10時に皇居前着、人の多さにビックリ、ドッキリ、ヒャックリ、ガックリ! 気の短い江戸っ子は、ならぶのが嫌い、ヤメタ! 丸の内の可愛いOLの顔を見て帰宅。 1万歩、7km。

①昨日の雨の余韻が残る浅草橋交差点・・・・・・・・・・ポツリ、ポツリ落ちてきた!

20140404_001_1024x682

②コブシ並木・・・・・・・・・浅草橋交差点から昭和通りにかけ、江戸通り沿いにコブシの白い花が満開だった。 昨日の雨で、花は散り始め、たくさんのウェットティッシュが枝に引っかかっているようだ! 歩道にもティッシュが濡れ落ち、掃除が大変!(たとえが悪いかな、ゴメン)

20140404_015_682x1024

20140404_018_683x1024

20140404_010_1024x684

③咲いた花なら 散らねばならぬ 恨むまいぞえ 小夜嵐・・・・・・・・・・・小伝馬町の公園では、そろそろ葉桜に・・・・・・

20140404_022_1024x684

④吉岡商店・・・・・・・・・・・日本橋本町界隈に残る、関東大震災後(昭和初期)の看板建築の一つ。・・・・・・・・・吉岡商店のオーナーは、私とは神田川を挟み、向かい合わせに育った江戸っ子で、今日はしばし御歓談。

20140404_028_683x1024

⑤Mother and Child・・・・・・・・・・コロンビアの抽象芸術家:Fernando Boteroの作品。母と子(ブロンズ像、1988作)の像は日本橋本町「ニューカワイビル」の玄関先にある。・・・・・・・・・作者が何を訴えたいかは、見た人が自分で考えて!

20140404_036_681x1024

⑥江戸桜通り・・・・・・・・・“知る人ぞ知る、知らない人は知らない”、都心の桜並木の名所。 日本銀行脇の日本橋本石町1丁目から日本橋本町1丁目まで続く道で、日本銀行、日本橋三越、三井本館などの歴史的建造物の脇を通り、コレド室町に出る。 さすがにブルーシートを敷いて宴会をする人はいないね!

20140404_056_1024x518

⑦ときわばし・・・・・・・・・・・・外堀通りを挟み日本銀行の向かいに“ときわばし”が2橋ある。常磐橋常盤橋である。 “磐”と“盤”の違い!

・・・・・・・・・・・・・常磐橋・・・・・・・・東京最古の洋式石橋で、保存状態が悪く、劣化が激しいため、現在改修工事中。 付近は立ち入り禁止につき、もう一つの常盤橋から撮影。

20140404_077_1024x682

・・・・・・・・・・・・・・改修工事前の平成24年撮影

2012_0527_0928042_1024x679

・・・・・・・・・・・・・・・明治13年の常磐橋。(Wikipediaより)

188013_680x425_2

・・・・・・・・・・・・・・常盤橋・・・・・・・・・・常磐橋のやや下流に、昭和元年(1926)に架けられたかけられた橋。 親柱も欄干も、手入れが良い(?)ようで、苔の緑が目につくね!

20140404_070_1024x683

20140404_063_683x1024

⑧渋澤栄一の像・・・・・・・・・・常盤橋の際に、昭和30年(1955)に建てられた実業家:渋澤栄一の像がある。 朝倉文夫製作。・・・・・・・・・・この場所に、なぜ?

20140404_076_1024x683

⑨皇居通り抜け・・・・・・・・・・10時にこの人出、“中に入る人はバッグの検査、ボディ・チェックを受けてください!”との案内。 コリャ大変だ、ヤメタ!

20140404_087_1024x683

20140404_091_1024x683

⑩東京駅・・・・・・・・・・

20140404_103_1024x340

« 2014年3月 | トップページ | 2014年5月 »