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2014年5月

2014年5月31日 (土)

新宿~四ツ谷

新宿駅から四ツ谷駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①ルミネエスト新宿・・・・・・・・・・・・手短に言うと“新宿駅東口の駅ビル”である。・・・・・・・・・新宿駅は、明治18年(1885)に日本鉄道が開業し、明治22年(1889)には甲武鉄道が開業した。 明治39年(1906)に両鉄道が国有化されたが、周囲は田圃が広がる“角筈村”、“柏木村”の時代である。・・・・・・・・・戦後、昭和39年(1964)に新宿駅東口が建替えられ、オリンピック開催の直前に近代的な駅ビルができた。 ビルの名称は、若い人には「ルミネ」、中年には「マイシティ」、年寄りには「ステーションビル」と言うと解るだろう。 

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・・・・・・・・・・・・・・駅前の広場には、明治39年(1906)に、東京の上水道整備に当たった中島鋭治博士(1858~1925、駒沢給水塔などを設計)がイギリス視察中に貰った馬の水飲み施設である馬水槽が残されている。 現存している馬水槽は世界中で3つしかないとの言われている。 ホントかな?

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・・・・・・・・・・・・・昭和33年(1958)東口駅前の写真(新宿歴史博物館発行:「新宿風景」より)。 右から、住友銀行(現:三井住友銀行)、アオキ靴店(現:洋服の青山)、一軒とばして、大きな魚の看板の二幸(現:アルタ)
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・・・・・・・・・・・・・・上と同じアングルで現在。 右端は、大成建設+飛島建設で工事中のヒューリック新宿ビル(旧:みずほ銀行)。 隣りに、三井住友銀行、青山、アルタと並ぶ。・・・・・・・昭和40年代、大学生の私は、三井住友銀行の右側路地を入った裏手の、喫茶店「ケルン」に度々通った記憶がある、、、、、、何しに通ったのか、今では疑問だ?

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②紀伊國屋書店ビル
・・・・・・・・・・このビルも昭和39年(1964)に建てられた。設計は東京文化会館を設計した前川國男(1905~1986)。・・・・・・・・・・小学生の頃は浅草橋駅前の書店、中・高校生になると神田神保町の三省堂、大学生でここ新宿の紀伊國屋と、私御用達の書店も通学経路に合わせ変わってきた。 社会人になると、参考書と縁が切れ、ガクンと質を下げ、キヨスクで週刊誌を購入。 今は、本を買うこともまれになった。 

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③伊勢丹
・・・・・・・・・現在の伊勢丹のビルは三つのビルが合体したビルである。 その中心は、大正15年(1926)に「ほてい屋」として、交差点角の局面部分の建物が清水組(現:清水建設)により建てられた。 その後、昭和8年(1933)に伊勢丹が「ほてい屋」のビルを囲むように、同じデザインで密着して建てた。 2年後には「ほてい屋」と合併し、建物も改修し一つのビルとなる。 さらに、昭和32年(1957)、左隣の都電車庫跡地へ増築し、一辺100m程の巨大ビルとなった。 外装は垂直線を基調としたデザインをよく残している、アール・デコ建築の名品である。

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・・・・・・・・・・・・左右同じデザインで、素人さんが見るかぎりでは、ビルのつなぎ部分と解らないね!

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④太宗寺
・・・・・・・・・・地下鉄新宿御苑前駅の北に、浄土宗の太宗寺(たいそうじ)がある。 この寺は、この付近にいた太宗という名の僧が建てた草庵がその前身で、寛文8年(1668)に徳川家重臣:信州高藤藩主内藤重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立した。・・・・・・・・・昭和20年(1945)の東京大空襲で被災し、現在の本堂は昭和37年(1962)に鉄筋コンクリート造で再建された。

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・・・・・・・・・・・・・・境内の閻魔堂には、高さ5.5mの閻魔大王(1814年頃製作)と、閻魔に仕える高さ2.4mの奪衣婆(だつえば、1870年製作)の像が安置されている。 2体の像とも、恐ろしいくらい迫力あるね!

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・・・・・・・・・・・・・江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706)に発願し、江戸の出入口6箇所に地蔵菩薩像を造立した。 その六地蔵の一つが、甲州街道の入り口にあたる太宗寺に祀られている。

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⑤花園町アパート
・・・・・・・・・新宿1丁目の裏通りに、昭和39年(1964)~昭和40年(1965)に建てられた、2DKが35戸の都営住宅。 “オヤ! こんなところに都営住宅が?”と思われる、大人の夜の遊び場近く、小さな一画に2棟のアパートが建っている。

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須賀神社
・・・・・・・・・・江戸時代初期から四谷の地に鎮座する総鎮守。 本殿御内陣は文政2年(1819)に造営されたものであるが、先の戦災では辛うじて焼失を免れたものの極度に老朽化が進んだため、平成元年(1989)大規模な修復がなされた。 今は、都内では珍しく荘厳華麗な建物として残されている。・・・・・・・・社殿内部には天保7年(1836)に完成した“三十六歌仙”の絵が、一人一枚に描かれ飾られている。

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⑦R邸
・・・・・・・・・・・四ツ谷駅に近い新宿区若葉の住宅。 中華風建物をイメージさせる、反りのある屋根、窓の格子のデザインなど、おそらく昭和初期頃の建物だろう。

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2014年5月29日 (木)

丸子橋

横須賀線武蔵小杉駅で下車し、丸子橋を渡り東急目黒線田園調布駅まで、1万歩、7kmの散歩です。


①JR武蔵小杉駅
・・・・・・・・・・現:南武線、川崎駅~登戸間の開通は昭和2年(1927)で、開通後8ヶ月程遅れて、現在地に「グラウンド前停留場」が開設され、昭和19年(1944)には武蔵小杉駅に改称した。 また、大正15年(1926)から、近くを通過していた東横線が、昭和20年(1945)に武蔵小杉駅を開設した。 さらに、昭和55年(1980)には近くを通過していた貨物専用の品鶴線に、横須賀線が運転され、平成22年(2010)に武蔵小杉駅が開業した。・・・・・・・・・・南武線沿線には、東芝、富士通、日本電気などの事業所・工場が並び、かつて私も度々訪れたことはあるが、最近は工場がマンションに変わり、急激に町の雰囲気が変化した。 久しぶりに、下車して“ビックリ、シャックリ、ギックリ腰”だ!

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②京浜伏見稲荷神社
・・・・・・・・・・・・・武蔵小杉駅から400m程北東に歩くと、数軒のラブホテルが並ぶ裏通りに、大きな朱塗りの鳥居が見える。 『なんじゃコリャ?』あまりのケバさに、再び“ビックリ、シャックリ、ギックリ腰”。・・・・・・・・・・昭和26年(1951)、初代宮司が京都伏見稲荷の神示により創建したそうだ。 祭神は、五成(いなり)大明神、宇迦之御魂神、大己貴命、大国主命、猿田彦神、天宇受売神、大宮能売神などなど、多くの神様です。 御利益は、商売繁盛、五穀豊穣、縁結び、恋愛成就、技芸上達などなど、なんでもOKです。・・・・・・・・・境内には108体の狐がいる。(108匹ワンちゃんなら知ってるのだが?) この狐が、これまた厚化粧してお出迎え、朝っぱらから変なものを見た感じだ。

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③丸子橋
・・・・・・・・・東京都大田区田園調布本町と神奈川県川崎市中原区上丸子八幡町を結び、多摩川に架かる橋。(橋の上の道路は中原街道)・・・・・・・・現橋は、長さ406m、幅25m、構造は鋼ローゼ(2連)+3径間連続PC箱桁橋、事業費は142億円、平成12年(2000)完成。

・・・・・・・・・・・・・・右岸(川崎市)から

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・・・・・・・・・・・・・・左岸(大田区)から

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・・・・・・・・・大田区側の橋詰に、昭和9年(1934)に約50万円程で架けられた旧橋の親柱が残されている。(橋の開通は翌昭和10年)

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④多摩川浅間神社
・・・・・・・・・丸子橋を渡ると、左側の台地状の古墳の上に浅間神社がある。 創建は文治年間(1185~1190=鎌倉時代)と伝えられている。 源頼朝が豊島郡滝野川に出陣した時、夫の身を案じた北条政子が後を追って来たが、あいにく、わらじの傷が痛み、この地で傷の治療をすることにして逗留した。 この際、現社殿の建つ丘の上へ登ると富士山が鮮やかに見えたので、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。 これが、浅間神社の始まり。・・・・・・・・鎌倉からわざわざ大田区まで夫の後を追ってこられたら、ジャマくさい女房だ! 我が家では夫婦喧嘩になるかも?

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・・・・・・・・・・・・・・社務所の屋上から対岸(川崎市)を眺めると、右に東急東横線多摩川橋梁、左に丸子橋が見える。

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⑤多摩川駅
・・・・・・・・・・・・・東横線と東急多摩川線の2路線の乗換駅である。 大正12年(1923)、目黒蒲田電鉄の目黒~丸子(現:沼部)駅間開通と同時に多摩川駅として開業。 大正15年(1926)には丸子多摩川駅に改称。 さらに、昭和6年(1931)に近くの「多摩川園遊園地」にあやかり多摩川園前駅に改称。 さらにさらに、昭和52年(1977)、多摩川園駅に改称。 まだまだ、平成12年(2000)には再び多摩川駅に改称。・・・・・・・・私の幼き頃(昭和30年代)には、多摩川べりに二子多摩川園、多摩川園などの遊園地があった。何度か連れてきてもらったが、思い出は思い出せない!

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⑥田園調布駅
・・・・・・・・・・高級住宅街の代名詞『田園調布』。 駅舎は、これまた有名な洋館風の建物。・・・・・・・・・大正12年(1923)の開業。 平成7年(1995)にホームの地下化が完成した。・・・・・・・・・洋館風の旧駅舎はマンサード屋根(屋根の勾配が上部はゆるく、軒に近い方で急に折れ曲がった屋根)が特徴的で、ヨーロッパの田舎の民家みたいだ。 設計は神宮外苑絵画館、上高地帝国ホテル、伊豆川奈ホテルなどを手掛けた矢部金太郎。  駅の地下化により平成12年(2000)に復元された。 なんと言っても田園調布のシンボルだ、いいね!

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2014年5月28日 (水)

八広

京成押上線八広駅から押上駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

墨田区八広地区は、スカイツリーがある押上駅の次の京成曳舟駅から、さらに次の八広駅までの、京成押上線の左右に広がる一帯である。 線路は1丁目.・5丁目・6丁目を串刺しにするように伸びており、その東南側に八広駅から押上方向に4丁目・3丁目・2丁目と続き、明治通りを越えると京島3丁目になる。 4丁目・3丁目・2丁目の外郭を矩形に囲む4本の主要道路以外は、ほぼすべての道が裏通りで、しかも曲がりくねり、直線道路が無い! この辺りはいわゆる「木密地域」である。・・・・・・・・・私好みの町、八広4・3・2丁目の裏道・路地・行止まりを、行ったり来たりしてきた!


八広駅
・・・・・・・隣の四ツ木駅と共に、荒川を挟み両駅とも土手沿いにある。 八広駅は大正12年(1923)、「荒川」駅として開業した。 ホームは、押上寄りの都道449号線と荒川土手の間に高架で作られている。 八広駅の出入口は1か所しかなく、その位置はホーム中央下のゴチャゴチャした宅地の中だ! 主要道の都道からは高架下を土手側に入った位置である。 なぜ、こんなところに造るのだ、しかも階段は土手側に向いてる、チョイト頭にくるね! 京成電鉄に何かたくらみがありそうな、出入口の配置だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・都道から高架下を100m程歩くと駅出入口

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②八広4丁目
・・・・・・・・・・この辺りも、震災、戦災に遭い、歴史ある古い建物は見当たらない。 

・・・・・・・・・・・・・・戦後の混乱期に建てられた建物が、折れた道路、行止まりの道路際に散見される。 

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・・・・・・・・・・・・・・玄関先の道路に、洗濯物を干す柱が建っているのもこの町の特徴か?

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・・・・・・・・・・・・玄関先の鉄屑はどこかの製作所、脚立はどこかの工務店、蛍光ランプの看板はどこかの電気屋さん。

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・・・・・・・・・・・・・・どこの道も一車線の幅、教習所のS字カーブ、車庫入れなどの技術が役立つ町。

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・・・・・・・・・・・・・・高齢者だけの住まいは朽ちてゆき、元気な人の住まいは耐火住宅に変身。

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③三輪里稲荷神社
・・・・・・・・・・・慶長19年(1614)出羽国湯殿山の僧が、この周辺の総鎮守として羽黒大神の分霊を勧請して三輪里稲荷大明神とした。 通称「こんにゃく稲荷」と呼ばれて、初午の日に当社が「こんにゃくの護符」を授かり、これをいただき煎じて服用すると、のどや風邪の病に効くそうだ。

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④八広3丁目・2丁目
・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・“備えあれば 憂いなし” どこの家も火事には細心の注意を、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・チョイト狭いアプローチ

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・・・・・・・・・・・・・狭い道、行止まりも多いね!

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・・・・・・・・・・・・・明治通りの向かい側は京島3丁目 、TVでおなじみの、昭和が残る「キラキラ橘」商店街

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2014年5月27日 (火)

稲毛浅間神社

稲毛のパソコン同好会に出席の後、『どっちの方向へ歩こうか?』と考えた時、頭に浮かんだ今朝のニュース『愛新覚羅けんきさん死去』。 『そうだ!愛新覚羅溥傑の仮寓へ行ってみよう!』ということで、稲毛浅間神社の周囲をミニ散歩。

①京成千葉線の架道橋・・・・・・・・・・・京成稲毛駅近くの名も無い小さな煉瓦造りの架道橋。 私の推定では、京成千葉線(津田沼-千葉間)  が開業した大正10年(1921)に合わせて竣工したものと考える!? 桁下2.1m、幅は2m以下、これでは車は通れません、荷車なら通れそうだ! 

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②愛新覚羅溥傑仮寓
・・・・・・・・・・・ご存知、映画「ラストエンペラー」でお馴染みの清朝最後の皇帝:愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)。 その溥儀の弟:愛新覚羅溥傑(ふけつ、1907~1994)と、その妻:浩(ひろ、1914~1987)が、昭和12年(1937)、新婚当初の半年間暮らした家である。 家は木造平屋で、8~10畳の部屋が5間と洋室、それに離れがある間取り。 稲毛浅間神社の西側に隣接する小さな敷地に建っている。  現在は、「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開されてる。

・・・・・・・・・・・・・どう見ても、清朝王族の住む家に見えない玄関。

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・・・・・・・・・・・・・客間・・・・・・・・10畳と8畳の2間

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・・・・・・・・・・・・・客間の廊下から居室を見る

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・・・・・・・・・・・・・居室・・・・・・・・・写真正面の8畳が2間が居室。 手前に庭がある。

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・・・・・・・・・・・・・洋室・・・・・・・・壁に展示されていた、溥傑と浩の新婚時代の写真。 近くの松林でのツーショット、いいね、気に入った!

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・・・・・・・・・・・・・離れ

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・溥傑は30歳、浩は23歳と、若い二人の住まいだが、清の皇族(満州国皇帝の弟)の住まいとしては、チョイトお粗末で、可哀そうだ。 まさに、日本軍による傀儡国家として作られた満州国の地位を示しているようだ。・・・・・・・・・展示されている二人の写真を見ると、“政略結婚”などの厳しさは感じられず、互いに愛し合い二児を生んだ。 終戦で、溥傑は捕えられ二人はしばらく別々となるが、昭和35年(1970)に釈放され、15年ぶりに再会し北京に居住することになる。 昭和62年(1987)、浩死去。 平成6年(1994)溥傑死去。 日本の華族として生まれた、嵯峨浩の一生は大河ドラマを見るようだ。

●・・・・・・・・・・・・・・・・・・昨日(26日)、95歳で亡くなった清朝王族最後の生き残:愛新覚羅顯琦(けんき)は、愛新覚羅一族であるが溥傑とは、遠い遠い親戚と云う関係。



③稲毛浅間神社
・・・・・・・・・・大同3年(808=平安時代の始まり)、現在の富士山本宮浅間大社の分霊を奉斎したのが起源。 広い境内に、社殿は遠く富士山と向かい合う方角に建てられている。 方角はOKでも、マンションなどが建ち、現在は富士山を眺めることはできないと思う? 文治3年(1187=鎌倉時代始め)に建てられた旧社殿は昭和39年(1964)に火災により焼失し、昭和41年(1966)に現社殿が建てられた。 新しい社務所も立派である。・・・・・・・・・・・境内には末社も多く、松林の中に点在しており、全てに手を合わせようとすると、歩行距離、賽銭の額、ともに大変だ!! 

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④稲毛公園
・・・・・・・・・・・稲毛浅間神社に隣接して、黒松林が拡がる「稲毛公園」。 公園内には防風保安林として、たくさんの松が植えられている。 かつてはこの辺りが海辺であったが、今では遠くまで埋め立てられ都市化してしまった。 しかし、黒松林はお見事、綺麗だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・公園の一角に「千葉森林管理事務所」がある。 松林が海岸線に伸びる防風林として機能していた時代、松林を見守る必要から管理事務所がここに置かれたと推測できる。

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⑤京成稲毛1号踏切
・・・・・・・・・・・・稲毛公園の東側の小さな踏切。 踏切があると写真を撮りたくなるのです、、、、、(半分、病気かも?)

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2014年5月26日 (月)

小岩~新小岩

JR総武線で一駅の区間、小岩駅から南下して松本橋を渡って新小岩駅へ、1万2千歩、9kmの散歩です。


①りそな銀行小岩支店
・・・・・・・・・・小岩駅前、フラワーロード商店街の入り口にある銀行。 昭和47年(1972)頃は「協和銀行」として現建物で営業していた、その後行名は「あさひ銀行」となり、今は「りそな銀行」と変わっている。 建物は、戦後に建てられたと、私が勝手に推測するが、古そうだ! 鉄筋コンクリート造、2階建て。

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②円蔵院
・・・・・・・・・・南小岩6丁目に、特筆すべき事柄のない“ゴク普通”の寺である、真言宗豊山派の円蔵院がある。 創建年代不詳だが、江戸時代中期には存在していた。 「影向のマツ」で有名な善養寺の末寺であり、隣の南小岩天祖神社の別当であった。

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・・・・・・・・・・・・南小岩天祖神社

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③二枚橋
・・・・・・・・・・・・小岩駅から南下し、千葉街道が新中川を越える小岩大橋の東詰に二枚橋交差点はあるが、橋は無い! 交差点の位置に、かつて川が流れそこに「二枚橋」が架かっていたそうだ。 今、川は埋められ、親柱らしきものが歩道に残されている。・・・・・・・・・案内板でも設置し、チャンと説明し残して欲しいね! 調べるのが大変だ!!

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④郵政南小岩宿舎
・・・・・・・・・二枚橋交差点に郵政の南小岩宿舎がある。 昭和40年(1965)頃の、鉄筋コンクリート造、4階建て、9棟の団地である。 団地内の鉄筋コンクリート造の給水塔が、時の経過を物語っているが、宿舎の半分以上は空き家となっている。 日本郵便は何か計画があるのか、古い団地を一生懸命リニューアルしており、外装は綺麗だ。 近所のおばさんが、“税金の無駄遣い”とぼやいていた。

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・・・・・・・・・・・・・・半数ほどが入居している棟

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・・・・・・・・・・・・・リニューアル工事が済み、全て空室の棟

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●・・・・・・・・・・・この郵政宿舎は「東京パレス」の跡地に建っている。 「東京パレス」とは、元は時計の精工舎の寮であった、木造の細長い5棟の建物を、戦後、アパート式の赤線に改装したもので、ダンスホールなども用意されていたそうだ。 しかし、売防法が施行され閉鎖された。・・・・・・・・・近所のオバサンは、東京パレスの話題となると、「お父さんが、行ったみたいで、スゴイところだったそうね」と、凄さを強調していたが、私には???



⑤小岩大橋
・・・・・・・・・・・新中川に架かる橋で、江戸川区南小岩5丁目と江戸川区興宮町を結び、千葉街道を通す。 昭和30年(1955)に完成した、全長133mのプレートガーダー橋。

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・・・・・・・・・・・・・・下を流れる新中川は、昭和22年(1947)のカスリーン台風で浸水した地域を守るため、昭和38年(1963)に完成した放水路である。

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⑥K病院
・・・・・・・・・・・・・江戸川区東松本の地域密着型の病院で、昭和21年(1946)に開設され、一般病棟100床、結核病棟50床を有している。 この病院の裏側で、めずらしく懐かしい光景がチラリと見えた。 病棟を結ぶ木造の廊下で、突き当りの部屋には木札で「給湯場」の文字が読める。

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⑦松本橋
・・・・・・・・・・・・小岩大橋の下流に架かる橋。 新中川の掘削に伴い昭和31年(1956)に架橋。 昭和45年(1970)には、橋の両側に歩道を増設し人車分離した。 この橋かなり劣化しており、架け替え計画はあるが、予算が無いので、具体的には何もできないらしい。 壊れる前に架け替えてほしいね!

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2014年5月25日 (日)

浅草橋~上野

浅草橋の我が家からスタートして、東本願寺、上野公園と歩き、公園内の五條天神社では祭礼に見入り散歩を忘れた。 上野駅までの、1万歩、7kmのチョイト短い散歩となった。


①吉祥院
・・・・・・・・・・元浅草の街中の寺院は、真言宗智山派の吉祥院。 創建年代は不詳、慶長16年(1611=大坂冬の陣の3年前)に中野に寺地を与えられ、寛永21年(1644=将軍家光の時代)には台東区元浅草の現在地へ移転した。・・・・・・・・・この寺院の特徴は小さな境内に、手入れの行き届いた植栽が多く、落ち着いた癒しの雰囲気がある。

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②誓教寺
・・・・・・・・・・・・吉祥院の向かいに、創建年代不詳の浄土宗誓教寺があり、ここには、浮世絵師:葛飾北斎の墓がある。 葛飾北斎は、本所(墨田区)で生まれ、生涯に号を変えること30回以上、引っ越しは93回、結婚2回と、名も居所も転々としたそうだ。 現代なら、住所変更届、婚姻届など諸手続きが多く、こんなことできないね! 最期は、嘉永2年(1849)、山谷堀(台東区)にて90歳で没した。 墓石には「画狂老人卍墓」と正面に、右側面には辞世「ひと魂で ゆく気散じゃ 夏の原」が刻まれている。

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③仏壇通り
・・・・・・・・・・JR上野駅から浅草へ続く浅草通りは、別名「仏壇通り」といわれ、地下鉄銀座線「田原町」駅を中心に、通りの南側左右に50軒程の仏壇・仏具店が軒を連ねている。 江戸時代、上野の山には東叡山寛永寺が建立され、隅田川沿いには浅草の観音さまが祀られ、さらに周辺には明暦の大火(1657)により多くの寺院が集められ寺町となった。 まさに、仏具店が増える好条件だ! そして、浅草通りは仏壇通りと化した。 ただし、仏壇屋は直射日光を避けるため、通りの南側に軒を連ねている。・・・・・・・・仏壇、仏具、位牌、数珠、線香、仏像、盆提灯、神棚、鳥居、神輿など、宗教用具なら何でも揃う街だが、十字架、聖書はないね!

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④難波仏具店
・・・・・・・・・・仏壇通りに建ち並ぶ仏具屋さんの1軒が、榎本徳蔵の設計、戸田組(現:戸田建設)の施工で、昭和4年(1929)に建てられた「難波仏具店」。 鉄筋コンクリート造、3階建てだが、屋上に中国風の塔を設け、外壁には大きな丸窓が3か所の、エキゾチックなデザインの建物だ! 

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東本願寺
・・・・・・・・・東本願寺の正式名称は「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」。 かつては、浅草本願寺、東京本願寺などとも呼ばれていましたが、真宗大谷派から独立した。 関東大震災により本堂を焼失し、昭和14年(1939)に鉄筋コンクリート造の本堂が再建された。

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⑥西郷隆盛像
・・・・・・・・・明治31年(1898)に建立された、東京の代表的な名所だが、最近は像を見る人も少なくなった。 特に、修学旅行の生徒が、像の前で記念写真を撮る光景はなくなったね!

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⑦五條天神社大祭
・・・・・・・・・・・上野公園内に祀られている、医薬祖神の五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)の例大祭。 私が着いたころは、神輿の宮出し前、神主・巫女・地元の世話人・担ぎ手、皆さん準備して、お祓いして、出発です。・・・・・・・・・・・なぜか、私の住む浅草橋の住人がここで、半纏を着ている、写真を撮っている、アレレ、世間は広いようで狭い!

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2014年5月24日 (土)

タワービュー通り

♪♪ダルマのようで ダルマでない それは何かと尋ねたら 起き上がり 起き上がり♪♪てな調子で、「おきあがり」(写真)が欲しく、一月ほど前から妻と二人でアチラコチラのおもちゃ屋を見て回っていた。 ゆれるたびに“コロンコロン”と心地よい音を出し、赤ちゃんに興味をひかせる、昭和を代表する懐かしおもちゃである。 (戦前、大日本セルロイド(株)の関係会社が発売したそうだ。 現在は「トイローヤル」が「ポロンちゃん」 として販売している。)

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今日は錦糸町の赤ちゃん用品の店へ出向いてみた。 残念ながら無かった。 でも、形状、大きさがチョイト似ている類似品を発見し、お買い求め! 中高年の夫婦がおもちゃを抱え満足したら。 「スカイツリータウンに寄って帰ろう!」と云うことで、チョイト、ミニ散歩してきた。



●タワービュー通り
・・・・・・・・・・錦糸町から真正面にスカイツリーを望みながら、スカイツリー向かう約1200mの通りの通称。 途中、春日通りから北の500mは、平成26年(2014)に電線を地中化し、電柱はなくなり、空を這う電線もなく、スッキリ、キレイになった。 これで、写真写りも良くなった!

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2014年5月23日 (金)

大塚~駒込

今朝、“西日暮里で信号故障”、私の乗ってる京浜東北線は、鶯谷駅で停車中。 『当分、運転再開はできないようです。お急ぎの方は山手線に乗り換えてください。』のアナウンス。 多くの乗客とともに、私も乗り換えたが、『さて、何処で下車しようか?』 日暮里・西日暮里・田端と、停車する都度、混んできた。 私の前に立つ、可愛いOLにつづいて下車した駅は大塚駅だった。 ・・・・・・・・ ということで、大塚駅から染井霊園・霜降銀座をまわって駒込駅まで、1万歩、8kmの散歩となった。


①大塚ビル
・・・・・・・・・・・大塚駅前の大塚ビル、このビルの前身は、今は無き白木屋百貨店の大塚分店。 昭和12年(1937)、石本喜久治(現:石本設計事務所)の設計、清水組(現:清水建設)の施工により竣工。 現在は、内・外装に手を加え、古いビルの面影は薄れた。・・・・・・・・・「白木屋」日本橋本店はもちろんだが、五反田・大森にも分店があり、記憶に残る懐かしいデパートの一つだ。

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・・・・・・・・・・・・・ビルの玄関に飾られていた竣工時の写真

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②子安天満宮
・・・・・・・・・・・大塚駅から巣鴨警察署を通り、山手線の北側に神社はある。天文年間(1532-1555)に巣鴨の保坂徳右衛門が屋敷神として邸内に勧請したといわれている。 「天満宮」なので、祭神は菅原道真である。 鳥居・社殿・社務所、全てが新しい造りで、境内は綺麗に整備されている。 狛犬・燈籠・紅梅白梅がない!・・・・・・・・・・保坂家は室町時代からの大地主で、現在の保坂家の当主は弁護士であり、神主の資格も持っているそうだ。

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③眞性寺
・・・・・・・・・・・「巣鴨地蔵通商店街」入口脇の真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺には、江戸六地蔵の一つがある。 高さ2.7mで、大きな傘をかぶり、杖を持つお地蔵様は、中山道の江戸の出入口に置かれ旅の安全を見守っていた。・・・・・・・・・・爺婆の人気では、高岩寺の「とげぬき地蔵」に負けてる。 歳取ると、“交通安全”より“長寿延命”の御利益に期待が大きいからね!

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④K邸
・・・・・・・・・・大正15年(1926)に竣工した駒込の住宅。鉄筋コンクリート造、2階建て、約86坪、工事金額は4.8万円だったそうだ。 設計は明治から昭和にかけ、朝鮮、旧満州及び静岡県の銀行や公共施設の作品を手掛けた中村與資平(なかむらよしへい、1880~1963、旧古河銀行元浜町支店などの作品が現存)。 所々にライト風のデザインが見られるが、落ち着いた印象を与える建物だ!・・・・・・・・施主のK氏は東京帝大を卒業し、鉄道院に勤め碓氷峠の電化を行い、その後アメリカへ留学し、昭和20年(1945)には東京急行電鉄の社長に就任した。 設計した中村とは、三高(京都)、帝大の同期生だった。 “刎頸の友”という仲か?

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⑤ビラ・グルネワルト・
・・・・・・・・・・・K邸の隣りは、設計:江畑幸太郎、施工:藤木工務店により、昭和13年(1938)に建てられた、3階建ての民間の外国人向共同住宅。 今は、ギャラリーとしても利用されているようだ。

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⑥染井霊園
・・・・・・・・・・・・豊島区駒込にある都営霊園。 明治7年(1872)に明治政府により開設され、明治22年(1889)に東京市に移管された。 都内の歴史ある霊園となれば、埋葬されている著名人も多く、園内の数ケ所に墓所の案内図が設置されている。・・・・・・・・・園内には100本のソメイヨシノが植えられているそうだが、花も散り葉の緑も濃くなり、どれがソメイヨシノやら?

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⑦慈眼寺
・・・・・・・・・・・・・染井霊園の西側に位置する日蓮宗の慈眼寺は、深川で創建し、元禄6年(1693)本所猿江に移転、明治45年(1912)谷中妙伝寺と合併して、現在地へ移転した。

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・・・・・・・・・・・・・現在の境内には、芥川龍之介、谷崎潤一郎、小林平八郎等の墓があります。 どの墓も、大きく立派と云うより、『これらしいね?』と云う感じで、静かに寝ておられた。 写真は芥川龍之介の墓(左側の小さい墓石)

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⑧霜降銀座商店街
・・・・・・・・・・・昭和15年(1940)、染井霊園を通り上野不忍池に流れる谷田川の暗渠化工事が完成した。 工事の後は新しい道路となり、商店が集まり、昭和31年(1956)に商店街「霜降銀座栄会」が設立した。 染井銀座商店街など4つの商店街とも細長くつながっている。・・・・・・・・・ブラブラしながら、面白いものはないか探してみたが何も無かった!

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2014年5月22日 (木)

西片2丁目

我が家(浅草橋)から蔵前橋通りに沿って本郷へ、東大正門の前から裏通りを抜け清水橋を渡り西片2丁目をぶらつき、都営三田線白山駅まで、1万4千歩、10kmの散歩です。


①法真寺
・・・・・・・・・・東大赤門前にある、浄土宗の法真寺は、 慶長元年(1596)に知恩院より寺号を附与されたが、開山年は不詳。 この寺は“樋口一葉ゆかりの寺”である。 一葉の一家は明治9年(1876)に寺の隣りに居を移し、一葉は9歳までの5年間住んでいた。 一葉の「ゆく雲」に登場する「腰ごろもの観音さま」は、本堂脇に現存している。 安産の御利益が期待できるそうだ、私も手を合わせたが、『さて! 何を期待するか?』

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②旧日本昼夜銀行本郷支店
・・・・・・・・・・・東大前の、現在は主にドイツ語関連の書籍を発行する郁文堂(いくぶんどう)の社屋。 日本昼夜銀行本郷支店として、大正12年(1923)に建てられた。 小柄だが、まさに銀行建築だ!・・・・・・・・・「日本昼夜銀行」は大正11年(1922)から昭和18年(1943)まで存続し、安田銀行(後に富士銀行)と合併した。

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③旧大西質店
・・・・・・・・・明治末期の木造の質屋です。外壁の板張り、2階の格子、いいね!

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清水橋
・・・・・・・・・本郷6丁目と西片1丁目・2丁目の台地を結ぶ陸橋。 現在の橋は大正期に架けられたようだ。 橋の脇に上下の道路を結ぶスロープがある、私好みの景観を演出している。

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⑤金澤邸
・・・・・・・・西片の住宅地に残る昭和の木造建築。 東京芸術大学(元:東京美術学校)の正木記念館を設計した、同校の建築科助教授:金澤庸治が父親のために、昭和5年(1930)に建てた住宅。 塀沿いにはアトリエもある。 施工は清水組(現:清水建設)。 国の登録有形文化財。

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⑥平野邸
・・・・・・・・・・・・白いタイル貼りの壁、ハーフティンバースタイルの洋館。 玄関の門などとともに、国の登録有形文化財に指定されている。 この建物は、中央公論社の初代社長:麻田駒之助の邸宅で、大正10年(1921)から大正12年(1923)にかけて建てられた。 設計は建築家:保岡勝也(1877~1942)。・・・・・・・・・・住宅地本郷の西片地区に建つ落ち着いた雰囲気の“お屋敷”である。

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⑦西片の長屋
・・・・・・・・・・西片の一角に、大正・昭和の長屋の雰囲気が残っている。 向かい合わせで10数件が並ぶ、土と石の匂いが混じる路地裏。 いいね~~! 

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⑧吉田屋
・・・・・・・・・・・本郷弥生交差点の角に建つ吉田屋かばん店。 昭和初期の建物。 現在の吉田屋は昭和53年(1978)に移転してきた、それ以前は洋服屋の建物であった。

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⑨SA邸
・・・・・・・・・・・・・建物の状態もよさそうで、今も使用されている。 昭和初期?

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⑩日本基督教団西片町教会
・・・・・・・・・昭和10年(1935)に建てられた、木造2階建ての教会。・・・・・・・一度、内部を拝見したいのだが、今日は施錠されてた。残念!

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⑪橋本邸
・・・・・・・・・・・木造2階建て、玄関上にはバルコニーが造られた特徴的な洋館である。 昭和8年(1933)の完成の建物だが、劣化が酷く、登録有形文化財とは思えない。 前庭の木も茂り、撮影も難しい状態だ。

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2014年5月20日 (火)

日暮里~上中里

JR日暮里駅から線路沿いに上中里駅まで、線路を追っかけて、1万1千歩、8kmの散歩です。


①JR日暮里駅
・・・・・・・・・・明治38年(1905)、日本鉄道土浦線(現:常磐線)の日暮里~三河島間開業と同時にできた駅。 この間が開業する以前は、上野発の常磐線列車は田端へ向かい、田端でスイッチバックして常磐線(現:常磐貨物線)に入っていた。

・・・・・・・・・・・・・・ホームの上屋を支える古レール。

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・・・・・・・・・・・・・・跨線橋から上を見れば超高層住宅、下を見れば通勤時間のホーム。

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・・・・・・・・・・・・・南口は三角帽子の橋上駅舎。 JRの改札は北口にもあり、改札の大きさ、賑わいから計ると、メインは北口だ。

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②金杉踏切
・・・・・・・・・・・日暮里駅前の北で、常磐線と京成本線がクロスする地点に、上野を出た常盤線が最初に通過する金杉踏切がある。・・・・・・・・「金杉」は、現在の荒川区東日暮里・台東区根岸あたりを「金杉村」と称した、今は無き地名。

・・・・・・・・・・・・・・常磐線の通過待ちの間に、頭上を京成スカイライナーが通り抜ける。

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・・・・・・・・・・・・・待ち人も、一人、二人、三人、、、、、そろそろ、イライラする頃だ!

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・・・・・・・・・・・・・やっと、通過しました

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・・・・・・・・・・・・・・踏切を渡ると、すぐに“お次の番”だよ!

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・・・・・・・・・・・・・次は下りの特急「スーパーひたち」。 『何時まで見てるの、子供じゃないのだから、早く散歩を続けなさい!』と、妻の声が聞こえた。

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③第二日暮里跨線線路橋
・・・・・・・・・・細長い部材で三角形を構成したものを、繰り返して桁とするトラス橋。 そのトラスを橋の左右に配し、左右のトラスを上部で繋ぐ部材が無いのがポニートラスである。 第二日暮里跨線線路橋は、日本では珍らしいポニートラスの橋である。・・・・・・・・・東北本線が常磐貨物線(旧常磐線)を渡る跨線橋である。 大正12年(1923)に鉄道省が設計し、翌年、川崎造船所で桁を作成し、昭和4年(1929)に開通した。

・・・・・・・・・・・・・西日暮里駅前で、東北本線(右)と東北・上越新幹線(左)の間の道を入って行く。

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・・・・・・・・・・・・・新幹線高架下の駐輪場を通して西日暮里駅ホームが見える。 なんだか“覗き”のようで、チョイト心が痛む!

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・・・・・・・・・・・・・・見えました、第二日暮里跨線線路橋

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・・・・・・・・・・・・跨線線路橋の隣りには、人と車の跨線橋が並行する。

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・・・・・・・・・・・・跨線橋の下は、常磐貨物線が走る。 この辺りから上中里駅近くまでが、JR貨物の田端信号場駅。

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・・・・・・・・・・・・・跨線橋を通過する東北線

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・・・・・・・・・・・・・・古い枕木に寄り添って可愛い花が、、、、、

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④田端ふれあい橋
・・・・・・・・・・・田端ふれあい橋(旧田端大橋)は、昭和10年(1935)に当時の造船技術を生かし接合部の全てを現場溶接で造ったゲルバー橋である。 昭和62年(1987)、隣りに新田端大橋が架けられ撤去する予定であったが、地元住民から歩道橋への転用の要望があり、歩行者専用橋「田端ふれあい橋」として生まれ変わった。・・・・・・・・・・橋は転用するに当たり改装され、主桁などは見にくくなった。 田端駅ホームから橋脚などをチラリと見ることはできる。

・・・・・・・・・・・・・・田端ふれあい橋と、橋の際に保存されてる旧田端大橋の親柱。

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・・・・・・・・・・・・・橋からホームの無い田端信号場駅を望むと、貨物列車がみえる。

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⑤田端信号場駅
・・・・・・・・・・田端ふれあい橋の北側にJR東日本東京支社ビルがある。このあたりも田端信号場駅で、機関車を見ることができる。 隣りは新幹線の車両基地。

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・・・・・・・・・・・・・道路を挟み、西に田端信号場駅、東に尾久車両センター、両所を結ぶ連絡線。

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⑥上中里駅
・・・・・・・・・・・・島式ホーム1面2線の地上駅だが、駅舎は西側の滝野川の台地と同レベルで橋上駅舎となっている。 東側の上中里地区からはエレベーター、階段で駅舎の高さまで上がることになる。・・・・・・・・・最大の特徴は、都内の駅でも、指折りの乗車人員の少ない駅だ! ついでに話すと、駅前商店街などはなく、コンビニが在るぐらい。

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・・・・・・・・・・・・・新幹線高架橋の下をJR貨物の機関車が単騎で走り去る

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2014年5月19日 (月)

泉岳寺~麻布十番

都営浅草線泉岳寺駅から大江戸線麻布十番駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。


①泉岳寺
・・・・・・・・・・泉岳寺駅で下車し、『どっちへ歩こうか? とりあえず、季節外れだが赤穂義士にご挨拶してから、方向を決めよう!』ということで、お立ち寄り。

・・・・・・・・・・・・・・・中門・・・・・・・・・現在の中門は天保7年(1836)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・・・・山門・・・・・・・・・この門は天保3年(1832)に再建された。 朝、高輪学園の生徒が中門を抜け、山門の横から登校していく。

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・・・・・・・・・・・・・大石内蔵助吉雄銅像・・・・・・・・・・浪曲の宗家:桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、大正10年(1921)に泉岳寺に寄進された。 さすが“グループの長”で、キリッと締まったいい男だ、内蔵助と言えば長谷川一夫のイメージだが、通じるところありだ。 私もこんな男になって、チョイト、一力で女遊びしてみたいね!

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・・・・・・・・・・・・・本堂・・・・・・・・・・旧本堂は戦災で焼失し、現本堂は昭和28年(1953)に再建した鎌倉様式の建築。

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・・・・・・・・・・・・講堂・・・・・・・・・・関東大震災後の大正14年(1925)竣工。

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・・・・・・・・・・・・赤穂義士墓地・・・・・・・・・・・討ち入りの翌年、元禄16年(1703)、に切腹した47士の墓。 アレ、墓碑が48ある?、、、、、討ち入り前に切腹した萱野三平の墓碑がプラス・ワン。

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②泉岳寺横の路地
・・・・・・・・・・・・路地の長さ、道幅の狭さ、曲がりの多さ、夜の暗さ、お化けの住み易さ、どれもベスト・テンにランク入りすると思われる路地だ。 私の好きな路地の一つ!

・・・・・・・・・・・・・・泉岳寺山門の横を右に入っていき、高輪学園前から路地に入る。

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・・・・・・・・・・・・・・左に泉岳寺、右に高輪学園の間を進む。 日中は女性の通行も多い。 私は気が弱いので、すれ違う時はチョイト怖いね!

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・・・・・・・・・・・・・右折すると今度は、高輪学園の校庭を掘り下げたような道になる。 頭上には、生徒が通る渡り廊下がある。

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・・・・・・・・・・・・・突き当りを右折すると、墓石と塔婆の並びが見える。

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・・・・・・・・・・・・・左右に人家が現われ、石畳に変わる、手押しポンプが一味添えている。

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・・・・・・・・・・・・・石畳はココまで

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・・・・・・・・・・・・・チョイト広くなった、坂の下。 写真中央の坂の上から、車はココまで入れる。

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・・・・・・・・・・・・・坂を上がった路地の終点。 出た処は二本榎通りの旧高松宮邸の近くである。

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③堀江歯科医院
・・・・・・・・・・・二本榎通りに面した、シュロの木も似合う、かわいらしい建物。 チョイト軒先で反りのある、青い瓦屋根もいいね。 大正14年(1925)頃の建築。

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④高輪虎屋
・・・・・・・・・・・赤坂の虎屋とは関係がない、こちらは高輪の虎屋。 こちらも、最中、懐中しるこなどが名物であったが、平成22年(2010)頃休業し、以来シャッターが上がる様子はない。 建物は大正末期頃の建築で、煙突が立つ独特のデザインで印象的だ。 

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⑤赤穂義士切腹の地
・・・・・・・・・高輪1丁目都営住宅の裏に、大石良雄外16名の赤穂義士が元禄16年(1703)2月4日に細川邸で切腹した、その地(庭の一部)が残されている。 施錠された扉の内側に、庭石が配されており、中央には切腹の場所らしき空間がある。 何か不思議なパワーを授かる場所のようだ!

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⑥立行寺
・・・・・・・・・・・白金2丁目に法華宗の立行寺(りゅうぎょうじ)がある。 この寺は、寛永7年(1630)、旗本大久保彦左衛門によって麻布六本木に創建された。 寛文8年(1668)に火災にあい現在地に移転した。 境内の墓地には鞘堂付の大久保彦左衛門の墓と魚屋一心太助の墓がある。・・・・・・・・昭和30年代・40年代の東映映画で、月形龍之介の彦左衛門と中村錦之介の一心太助、思い出すね! 

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⑦白金氷川神社
・・・・・・・・・・・・・・白鳳時代、日本武尊が東征の折、大宮の氷川神社を遥拝した当地に創建した。 江戸時代、明和の大火(明和9年(1772))により社殿は焼亡し、その後再建されたが、太平洋戦争で再建した社殿を焼失した。 現在の社殿は昭和33年(1958)に建てられたものである。

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⑧薬園坂
・・・・・・・・・・・南麻布3丁目、イラン大使館前の坂。 江戸時代前期、坂上の西側に幕府の御薬園(薬草栽培所、小石川植物園の前身)があったことに由来している。

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・・・・・・・・・・・・・坂の上り口に、イラン大使館がある。 設計:日本設計、施工:大成建設、平成16年(2004)の竣工。

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⑨南麻布の窪地
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・薬園坂8合目あたりに、脇に折れる裏道がある。 チョイト、行ってみるか!

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・・・・・・・・・・・・足を踏み入れて、、、、、ドキ! ナント、下って、上る、窪地だ!

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・・・・・・・・・・・・車は入りそうもなく、谷底は木造住宅が、静かに花に飾られ建っていた。 ここは「南麻布」、信じられない!

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・・・・・・・・・・・・下ってきた道と反対の道を上ると、本村小学校の裏手に出た。

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⑩南麻布の蔵造り
・・・・・・・・・・・道路側は蔵造りで、後ろには木造の建物が続く、商家風の建物である。 チョイト、歴史のありそうな、気になる建物だ!

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●・・・・・・・・・・・・この後、多くの警官でガードされた韓国大使館前でパチリ! 警官が2人近づき、「ここは撮影禁止です」、、、、、「知らずに撮りました、コリャまた失礼しました!」 (当然ですが、写真はありません) 

2014年5月17日 (土)

立石~新小岩

京成押上線の立石駅からJR総武線新小岩駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


京成立石駅
・・・・・・・・・・大正元年(1912)に開業した古参の駅。 昭和48年(1968)橋上駅に改良されたが、それ以前は道路面からホームに上がれる、お年寄りにやさしい駅であった。 現在は立石駅を挟む、四ツ木~青砥間の高架化工事の着工が待たれている。・・・・・・・・私の本音で言うと、高架化せずに“昭和の下町の駅前”を残して欲しい気持ちが強いね。 でも時代の流れ仕様がないか!

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②東立石
・・・・・・・・・・・京成押上線及び奥戸街道の南側一帯が「東立石」である。 (今年3月、この付近を散歩したので、こちらをも見てね!

・・・・・・・・・・・・・・ガレージの上に大きな邸内社! お稲荷さんの御利益かな(?)、大きな邸宅だ!

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・・・・・・・・・・・・・なんと! こちらのお宅は、2間程の玄関先に邸内社が祀られている。 商売をやめ、広い玄関先は不要になったのかも? 

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・・・・・・・・・・・・・区立川端小学校では大運動会。 青空の下、お父さん、お母さんで朝から「満員御礼」です。 児童数は500名程らしい。

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・・・・・・・・・・・・昭和50年(1975)に建てられた公団住宅「東四つ木2丁目団地」。 建設当時としては、周囲を一望する大きな建物だったと思われる。

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・・・・・・・・・・・・・機械油の匂いがする町工場、私の好きな匂いだ。 イイネ!

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・・・・・・・・・・・・・東立石から見る中川。 左から右に流れ荒川に合流する。

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③平和橋
・・・・・・・・・・・昭和35年(1960)、中川に架けられた橋。 平和橋の由来は、、、、、、解りません! 何処かの役人が安易に命名したのか? 

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・・・・・・・・・・・・・・平和橋から見るスカイツリー、手前にはかつしかハープ橋も見える。

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④天祖神社
・・・・・・・・・・平和橋の南東側に鎮座する神社。 昭和46年(1971)に完成した社殿が綺麗な神社だ! 創建は、鎌倉時代の源頼朝の家臣:葛西三郎清重が、勧請したと伝えられている。

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⑤上品寺
・・・・・・・・・・・東新小岩の上品寺(じょうぼんじ)は、創建年代不詳だが、享保元年(1716)に新義真言宗の寺となった。・・・・・・・・・・本堂は、古い建物ではないが、屋根の勾配が綺麗で、私好みの寺だ!

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・・・・・・・・・・・境内閻魔堂には、高さ2mの室町初期の閻魔大王が座している。 この閻魔は、江戸十六閻魔の一つである。 日頃の嘘つきをチャラにしてもらうため、500円硬貨を浄財に置いてきたが、不足しているかも?

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⑥東立石の花
・・・・・・・・・・・え、名前?、、、、、知りません!

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2014年5月16日 (金)

北の丸

飯田橋駅から北の丸公園を抜け市ヶ谷駅へ、1万2千歩、9kmの散歩です。


①同和製本
・・・・・・・・・・飯田橋3丁目、東京区政会館前の製本屋さん。 鋭角のコーナー部に丸柱のシャッターが付いた入口がある。 この入口にはかつて3本の丸柱があり、ドアが2か所あった。 今は2本足でアーチ状の庇の右端が切断された。 かつては入り口部分に「明治印刷」と表示されていた。  3階には3か所小窓(?)のようなものがある。 建築年代は不詳。

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東京大神宮
・・・・・・・・・・・東京における伊勢神宮の遥拝殿として、明治13年(1880)に日比谷の地に創建された「日比谷大神宮」。 日比谷大神宮は関東大震災後、昭和3年(1928)に現在地へ移転し「飯田橋大神宮」に改名し、戦後は「東京大神宮」となる。・・・・・・・・神前結婚式の元祖で若い女性に人気の神社。 今朝も出勤前の神頼みと思われる女性が何人か手を合わせていた。

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③東京ルーテルセンタービル
・・・・・・・・・・旧住友財閥営繕部門を独立させ、長谷部竹腰建築事務所(現:日建設計)を設立した長谷部鋭吉(1885~1960)の設計。 施工は大成建設の前身:大倉土木により、昭和12年(1937)に竣工した。 鉄筋コンクリート造地上4階/地下1階建ての建物は、装飾の少ないシンプルなデザインで、神学校として建てられたものだ。・・・・・・・・・・白亜の塔に十字架が印象的だ!

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④九段の中・高等学校
・・・・・・・・・・・・九段の靖国神社大鳥居の北側に中・高一貫校が3校並んでいる。

・・・・・・・・・・・千代田区立九段中等教育学校・・・・・・・・・東京23区初の区立の中高一貫校で、平成18年(2006)に設立した。・・・・・・・・この学校の前身は、大正13年(1924)創立の都立九段高校である。 都立の名門で東大への進学者数も2桁を誇っていたが、学校群制度の導入で進学者数も減り、区立の中・高一貫校に変身した。・・・・・・・・・ちなみに、九段高校は我が家の娘の母校である。

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・・・・・・・・・・・九段高校の斜め前には、暁星学園(ぎょうせいがくえん)の中・高等学校がある。・・・・・・・・・こちらは、フランス語教育をする高校で、語学の弱い私には、近寄りがたく感じた、カトリック系の中・高一貫の名門校。 校舎西側は煉瓦塀が続き、歴史の古さを漂わせている。

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・・・・・・・・・・・・・暁星学園のお隣は女和洋九段女子中・高等学校。・・・・・・・・洋裁学校を前身として、明治30年(1897)に創立した私立女子の中・高一貫校。・・・・・・・・こちらは、我が妻の母校。

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⑤フィリピン大使館公邸
・・・・・・・・・・・・・暁星、和洋、両校の隣りにフィリピン大使館公邸がある。 昭和10年(1935)に建てられた旧安田岩次郎(安田財閥総帥:安田善次郎の婿養子の四男で画家)邸で、鉄筋コンクリート造2階建て、白い外壁に縦長のアーチ型の開口部が特徴的なモダンな建物。  フィリピンの国家的歴史建造物に指定されている。

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田安門
・・・・・・・・・・・寛永13年(1636)に建てられた田安門。 今は、北の丸公園への入り口。

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⑦弥生慰霊堂
・・・・・・・・・・・・田安門の東側に、ひっそりと弥生慰霊堂(やよい いれいどう)がある。 武道館の脇から入り、人目につきにくい処だ、ここには警視庁及び東京消防庁の殉職者が祀られている。・・・・・・・・・・・明治10年頃に警察・消防の殉職者を祀る施設の創建が求められ、明治18年(1881)に本郷区(現:文京区)向ヶ岡弥生町に「弥生神社」が創建された。 この神社が本郷、芝公園、青山など転々と遷座し、昭和6年(1931)には麹町に移り、終戦をむかえた。 戦後は警視庁が神社を管理できず、神社は慰霊堂として現在地に移され、有志により無宗教形式で慰霊されている。・・・・・・・・「弥生慰霊堂」の碑はあるが、この施設の由来を説明した案内板などは一切ないので、見回りの警察官も何の施設だか知らなかった。 “知る人ぞ知る”慰霊堂だ!

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⑧日本武道館
・・・・・・・・・・・昭和39年(1964)に設計:山田守、施工:竹中工務店により竣工した、東京オリンピック柔道競技場。 以来、ライブコンサート、入学式、卒業式など各種イベントの会場として利用されている。・・・・・・・・・私は大学の入学式をここでやった。 も一つ思い出があるのは、大学1年生の頃、旗屋でバイトしていた私は、武道館中央の天井から下がった日の丸を納めに行った。この時の日の丸がバカデカく巨大な風呂敷のようでビックリしたことがあった。 約50年程前の話だ!

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・・・・・・・・・・・・・・靖国神社高灯籠と武道館

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⑨近衛歩兵第一連隊・第二連隊跡
・・・・・・・・・・北の丸公園には、明治7年(1874)に編成された近衛連隊が駐屯していた。 その跡に、2つの連隊の記念碑がある。

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旧近衛師団司令部
・・・・・・・・・・明治43年(1910)に衛戍地であった北の丸に近衛師団司令部として建設された。 戦後は、東京国立近代美術館工芸館として、改修保存工事が行われ保存されている。

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⑪アレ、なくなった!
・・・・・・・・・・・・千鳥ヶ淵の首都高は只今補修工事中。 その先に大きなマンションが見えるけど、その隣(写真中央)にあったビルがなくなった。 ここには、私が25年勤めたオフィスがあったのだ、チョイト、寂しいね。

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・・・・・・・・・・・・・3年前の写真。 私のオフィスが見える、懐かしい光景。

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2014年5月14日 (水)

羽田

『羽田空港にでも行ってくるね』と家を出たが、空港の手前「天空橋」駅が見たくなり下車。 駅を見たあとは羽田の町をブラブラし穴守稲荷駅まで、9千歩、7kmの散歩です。


①京急天空橋駅
・・・・・・・・・・・京浜急行空港線は、明治35年(1902)「穴守線」として大森~穴守稲荷間が開業したのが前身である。 その後、海老取川を越えて空港島に延伸したが、戦後は空港島が連合軍に接収され、海老取川の手前に「羽田空港」駅を開業した。 このときの羽田空港駅は名前こそ「羽田空港」であったが、空港ターミナルビルとは遥かに離れた位置で、搭乗客の利用は皆無に近かった。 平成5年(1993)、空港の沖合展開事業が進み、現在の天空橋駅がある位置に地下駅「羽田」を開業した。 同時期に東京モノレールも羽田駅を開業し、共に地下で接続した。 その後、空港のターミナル(ビックバード)に京浜急行も乗り入れ、「羽田」は単なる途中駅となり、名前も「天空橋」に変えた。、、、、、と云う、経緯がある駅だ。・・・・・・・・・相対式ホーム2面2線を有する地下駅で、出口は海老取川に近いところに2か所あるのみ。 駅には売店もなく、周辺にコンビニもなく、建物は交番と消防署とポンプ場がある程度、用もないのにわざわざ訪ねる程の駅ではないね。

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・・・・・・・・・・・・・写真左側の人道橋が「天空橋」だ、この下を海老取川が流れ渡れば「大田区羽田」の町

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②大鳥居
・・・・・・・・羽田空港と羽田の町を分ける海老取川が多摩川に合流する地点に朱塗りの大鳥居がる。 この鳥居は穴守稲荷の鳥居で、神社とともに、戦前まで羽田空港の敷地内にあった。 進駐軍が占領した時、神社は強制退去で現在地に移転し、鳥居だけが残されていた。 残された鳥居も、羽田空港沖合展開事業で現在地に移設された。・・・・・・・・羽田の歴史を物語る鳥居!

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③弁天橋
・・・・・・・・・・・大鳥居の近くに架かる弁天橋。 現在の橋は平成16年(2004)に、間組の施工で架け替えられた。

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④天空橋
・・・・・・・・・弁天橋の上流に架かる人道橋。 橋の外観は錆び色のガーダ橋で、なんとなく古さを感じる、また橋上は幅も狭く電車一両の幅である。、、、、、と言うことは、そうなんです。 『この橋は以前(戦前から戦後)ここに架かっていた京浜急行の鉄橋』と言いたいのですが、残念ながら平成5年(1993)の完成。・・・・・・・平成5年、京急空港線が空港敷地内へ延伸する時、この橋の下の地下に空港線を通し、天空橋は戦前の鉄橋の面影を残すようにデザインしたものだ。 電車が走る姿を想像させる、粋なデザインで、いいね!

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・・・・・・・・・・・・・・対岸の三角屋根の建物は天空橋駅

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・・・・・・・・・・・・・天空橋から穴守稲荷駅方向を眺めると、かつての「羽田空港」駅跡地が駐車場になっている。 現在はこの地下に空港線が走っている。

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⑤稲荷橋
・・・・・・・・・天空橋の上流に架かる昭和30年(1955)竣工の稲荷橋。 現在は50m上流に環八の橋が架かり、稲荷橋は歩行者専用となった。

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⑥錆び色の町
・・・・・・・・・羽田5丁目、6丁目は、今は空港の隣り町であるが、昔からの漁師町で、今でも雰囲気が残されている。 裏道を歩いていると、佃煮を煮る匂いが漂ってきた、“醤油で味付けしてるのは、小魚の佃煮かな?” 

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・・・・・・・・・・・・・堤防の下には「玉川弁財天」が祀られている。 創建年代不詳。 弘法大師が護摩の灰を固めて自ら制作した、と言われている神体があるそうだ。 見てみたかった!

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・・・・・・・・・・・・・・かつての暴れ川「多摩川」の洪水から羽田地区を守るため、大正7年(1918)から工事をした煉瓦堤防。 現在は堤防の外に、高い堤防が造られた。

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・・・・・・・・・・・・・邸内社なのか特に由緒書もない藤崎稲荷神社。 “昭和十年”と彫られた狐の脇には、ゴミ箱と防火用水が、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・羽田は裏道・路地が多く、私をワクワクさせる町。

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・・・・・・・・・・・・・・猟師が漁で得た白魚を奉納する慣わしになっていたことから白魚稲荷神社と称している。 創建年代不詳。 

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・・・・・・・・・・・・・・水やりも一苦労しそうな花壇(?) 只今、咲き競っています。

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・・・・・・・・・・・・・バス停での世間話、、、、、話題はたぶん、糖尿病か? 腰痛か? 夜尿症か?

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・・・・・・・・・・・・・チョイト、お立ち寄りは文化文政期(1818)の創建、穴守稲荷神社

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⑦穴守稲荷駅
・・・・・・・・・・明治35年(1902)、穴守駅として開業。 昭和20年(1945)には 連合軍に穴守線(現:空港線)を接収され、当駅より空港寄りの区間については営業を休止する。 昭和31年(1956)、当駅より空港寄りの区間を延伸し、海老取川のそばに羽田空港駅が開業した。 現在は相対式2面2線の地上駅。・・・・・・・・駅近くに航空会社の施設があるようで、研修中の新人CAと思われるピチピチの可愛い娘がゾロゾロ下車してきた。(シャッターチャンスを逸した、ゴメン!)

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・・・・・・・・・・・羽田空港行の電車は、当駅を出ると地下にもぐり、海老取川を横切り、空港敷地内を横断し、ターミナルビル(ビックバード)の地下に向かう。

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2014年5月12日 (月)

日本橋蛎殻町

我が家(浅草橋)から横山町、人形町を抜け、日本橋蠣殻町をぶらつき、わが家へ戻る、ドア・ツー・ドアで1万4千歩、10kmの散歩です。


①浅草橋架道橋
・・・・・・・・・・・大正12年(1923)の関東大震災以前、総武本線は両国橋駅(現:両国駅)を起点としていた。 震災後は、都心部への交通量も増え、市電により隅田川を渡る利用客も増加した。 総武線も両国と御茶ノ水を結び中央線に乗り入れることとなり、昭和7年(1932)に同区間が開通した。 浅草橋架道橋はこの時期に完成した。・・・・・・・・・この架道橋も浅草橋の景観の一つとなっている。

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②隙間の無い木造建築
・・・・・・・・・・日本橋久松町と日本橋富沢町の境界は、大正時代は浜町掘だった。 その堀が、終戦直後、瓦礫処分で埋め立てられ、昭和25年(1950)には完了した。 埋立地上には、長~く、店が建てられ、今日に至っている。 多くは道路・ビル・公園に変わっていたが、一部木造の建物がバラック時代を思い出させるように残っている。・・・・・・・・・・木造3階建て、隣との境に空間無し、長屋のようで一戸建て? なんと説明いたらよいのか? 写真を見て! 鼠の入る隙間もないね!

・・・・・・・・・・・・・埋立地の上にズラリと飲食店が並ぶ表通り側

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・・・・・・・・・・・・・・裏通り側まわると、、、細い路は埋め立て前の川の中程に位置している。

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③日本橋蛎殻町の建築
・・・・・・・・・・・人形町のお隣り「日本橋蠣殻町(かきがらちょう)」に戦前から建つ、看板建築、和風建築です。

・・・・・・・・・・・・山桂商店・・・・・・・・・モルタル系の看板建築。 長屋の両側が取り壊されたようだ。

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・・・・・・・・・・・・S・N邸・・・・・・・・・・・純和風で、下町風の住宅。

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・・・・・・・・・・・・・IC邸・・・・・・・・・・・・下町のお屋敷。この建物は戦後の建築かも?

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・・・・・・・・・・・・・白谷タバコ店・・・・・・・・・・トタン板の商店建築。 自販機の無い頃は、看板娘が店頭にいたかもね?

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・・・・・・・・・・・・・旧小川歯科・・・・・・・・・・・あれ! 似て非なる建物に変身。  2枚目の写真は平成24年撮影。

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・・・・・・・・・・・・銅板建築・出桁造りの商店・・・・・・・・・・下町には、まだ多く残る銅板建築。

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・・・・・・・・・・・・・IT邸・・・・・・・・・・・浴衣姿のミヨちゃんが、赤い鼻緒の下駄履いて、『縁日に行こう』と、飛び出してくるような懐かしい雰囲気だ。

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・・・・・・・・・・・・・日清製粉晴東寮・・・・・・・・・スクラッチタイル風の貼りもの、デザインはシンプルです。 (建物の前にトラックが停まっており、斜めからパチリ。)

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・・・・・・・・・・・・・ゾートスサロンひらさわ・・・・・・・・・・モルタル系の看板建築。 マンサード屋根の勾配が見える!

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・・・・・・・・・・・・・堀善商会・・・・・・・・・・・2階コーナ部の、鉄製の扉(?)は何だろう?

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・・・・・・・・・・・・・・ゆたか印刷所・・・・・・・・・・・名刺・挨拶状などを簡単に印刷してくれる下町の印刷屋さん。

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・・・・・・・・・・・・・H邸・・・・・・・・・・・出桁造りの商家の1階を改造したようだ。

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・・・・・・・・・・・・・永楽屋・・・・・・・・・・・・大正14年(1925)に建てられた、モルタル系看板建築の店舗兼住宅。 創業明治27年(1894)のオーダーシャツ専門店。・・・・・・・・・看板は、昇る朝日に、ニワトリが二羽、そしてモダンな書体で屋号が、いいね~~!

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・・・・・・・・・・・・・・屋外機の台となった『防火用水』・・・・・・・時代は変われど、どちらも家庭の必需品。

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④中央区立日本橋公会堂
・・・・・・・・・・・蛎殻町に平成11年(1999)にオープンした中央区の複合施設。1階に区特別出張所、2階に区民施設、4、5階に客席数440席の公会堂(愛称:日本橋劇場)が入る。 玄関まわりの石積みと大きなアーチは特徴的。 公会堂は可動の花道や迫りを装備し、演劇・コンサート・落語・邦舞などを楽しむことができる。 大中小の“中劇場”クラス。

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⑤日本橋人形町の建築
・・・・・・・・・・・・散歩の帰りがけにパチリした建物

・・・・・・・・・・・・・魚久水天宮店・・・・・・・・・・モルタル系看板建築

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・・・・・・・・・・・・・・壽堂京菓子司・・・・・・・・・看板商品「黄金芋」は美味しい。 その名菓に、負けじと独特の造りの建物だ。

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・・・・・・・・・・・・・近為・・・・・・・・・・・明治12年(1879)創業の京漬物の老舗。 2階部分にモルタル系看板建築の様子が見られる。

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・・・・・・・・・・・・・寺倉モータース・・・・・・・・建物は3軒長屋。

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・・・・・・・・・・・・神谷商店・・・・・・・・・・・上部に屋号の跡が残る看板建築

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・・・・・・・・・・・・・・歯科多和田・・・・・・・・・・看板は残っていが、営業はしていない。

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・・・・・・・・・・・・・加島商店・・・・・・・・・・・・これぞ下町の酒屋さん。

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2014年5月11日 (日)

新京成線(京成津田沼~二和向台)

新京成線に沿って、京成津田沼駅から二和向台駅まで、2万5千歩、18kmの散歩です。

・・・・・・・・・・新京成線・・・・・・・・・・昭和初期頃から、陸軍鉄道連隊演習線として松戸線(津田沼~松戸)を完成させた。 松戸線は演習線であり旅客輸送は行われなかった。 戦後、松戸線は京成電鉄に払い下げられ、昭和22年(1947)に新京成電鉄新京成線として新津田沼(初代)~薬園台間を開業した。 翌年、薬園台~滝不動間が開業。 昭和24年(1949)、滝不動~初富間が開業。 昭和30年(1955)、初富~松戸間が開業し、新京成線が単線で全線開業した。・・・・・・・・・演習線の名残で、カーブが多く、線路沿いから外れた道を歩くと、線路を見失うことも多く、『アレ! 線路はどっちの方向かな?』を連発しながらの散歩となった。


①京成津田沼駅
・・・・・・・・・新京成線の終点駅で、京成本線、千葉線との接続駅。1~4番線は京成が使用し、5番線は京成と新京成が共用し、6番線を新京成が使用している。

・・・・・・・・・・・・・・・左側から6番・5番・4番線~1番線の並び。

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・・・・・・・・・・・・・・手前から奥(上野方)へ直進する京成本線。右側の新京成線は踏切の先で右にカーブし松戸方面へ向かう。

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・・・・・・・・・・・・・・御大典記念道路・・・・・・・・・京成津田沼駅前の踏切(上の写真)の脇に「御大典記念道路」の石碑がある。 「御大典」とは、昭和3年(1928)11月10日に京都御所で挙行された昭和天皇の即位式のことである。 この記念碑は、昭和天皇の即位を記念して、踏切の際から京成線沿いに谷津に向かう細い生活道路を、工費4,682円で完成させたことを記している。 工費の半分は津田沼町が、残り半分は住民が負担したことも記されている。・・・・・・・・・ついでに、この道をチョイト入ると、京成電鉄の労働組合と社員食堂がある。

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・・・・・・・・・・・・・駅前の気になる2軒・・・・・・・・・・・植草米店と駐車場の隅の小さな家 どちらも年代物の建物のようだ?

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・・・・・・・・・・・・・新京成県道架道橋・・・・・・・・・京成津田沼と新津田沼駅間で、新京成線が総武線を跨ぐ橋梁。 この橋梁は、新京成線が開通する昭和28年(1953)以前に造られた。 新京成が開通する以前は、この間の路線は京成の所有で、新津田沼駅の前に京成の車両工場があり、京成津田沼から引き込み線が伸びていた。 新京成は、当時の橋梁をそのまま使用している。・・・・・・・・・・橋梁の橋台は、鉄道連隊が造った煉瓦造であるが、補強工事をして煉瓦が見えない状態となっている。・・・・・・・・・複線分の橋台であるが桁は単線分しかない。いずれ、複線となるかな?

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・・・・・・・・・・・・・千葉工業大学通用門・・・・・・・・・明治40年(1907)に現在地に駐屯した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門である。

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②新津田沼駅
・・・・・・・・・・・昭和22年(1947)の新京成線開業時の始発駅。 駅はその後3回移転し、現在は4代目の駅舎である。 橋上駅で、イオン、イトーヨーカドーなどと繫がっている。JR津田沼駅とは400m程離れている。

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・・・・・・・・・・・・・・・新津田沼駅からJR津田沼駅のホームを望む

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・・・・・・・・・・・・シーズン開幕直前の3月から約三カ月間運行する、千葉ロッテマリーンズラッピング電車「2014 マリーンズ号」。

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③前原駅
・・・・・・・・・・・昭和30年(1955)開業。

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・・・・・・・・・・・・・・駅を過ぎると、線路は僅かにカーブするが、次の薬園台まではほぼ直線的に進む。

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・・・・・・・・・・・・・駅近くの道入庵は前原地域にある唯一の寺院で、明治6年(1873)には寺院内に現:船橋市立前原小学校の前身が設立された。 現在の本堂は昭和6年(1931)の建築。・・・・・・・・なんだか歴史ある寺だ!

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・・・・・・・・・・・・・道入庵の東に、御嶽神社がある。 延宝4年(1676)の創建と伝えられている。 神社の長い参道は、阪妻プロダクションの映画によく利用されていたそうだ、たしかに長い参道だが、幅は大立ち回りするほど広くはないと思う。 社殿は昭和40年(1965)完成の鉄筋コンクリート造。

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・・・・・・・・・・・・・・民家には立派な長屋門が残っている

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④薬園台駅
・・・・・・・・・・昭和22年(1947)新京成線が初めて開業した時の終着駅。 現在の駅舎は3階建ての橋上駅。・・・・・・・・・駅名・高校名は「薬園台」で、駅所在地・小学校名は「薬円台」である。 また、「薬円台」の地名と、「薬園台町」という地名が隣り合わせ、船橋市の役人さんはチョイト考えてほしいね!

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・・・・・・・・・・・・・・8800形・・・・・・・昭和61年(1986)に登場した、現在の新京成の主力車両。

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⑤習志野駅
・・・・・・・・・・・昭和23年(1948)に開業した地上駅。・・・・・・・・・またまた、ややっこしい話。 習志野駅と次の北習志野駅の所在地は船橋市、そして駅周辺は「西習志野」、「習志野台」、チョイト離れて「習志野」の地名が船橋市にある。 さらに、「東習志野」の地名が習志野市にある。・・・・・・・・・“習志野”と称する台地が広域に広がり、各所にその名を留めているようだ。 たぶん、“習志野”と聞くと、陸軍習志野練兵場、自衛隊習志野駐屯地をイメージする人には理解できると思うね。

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⑥北習志野駅
・・・・・・・・・・・昭和41年(1966)に開業。 東葉高速鉄道への乗換駅でもある。

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⑦高根木戸駅
・・・・・・・・・・・・高根木戸駅(たかねきどえき)は、 島式ホーム1面2線の橋上駅。 昭和23年(1948)の開業。

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⑧高根公団駅
・・・・・・・・・昭和36年(1961)に開業した、島式ホーム1面2線の橋上駅。 名前のとおり、日本住宅公団が造成した高根台団地の入居に合わせて開業した駅。 今は、日本住宅公団も都市再生機構に変わったが、「公団」の名は残るようだね。

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・・・・・・・・・・・・・8000形・・・・・・・・・・昭和53年(1978)にデビューした

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・・・・・・・・・・・・・・気持ちよく走り去る8800形

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⑨滝不動駅
・・・・・・・・・・・昭和23年(1948)の開業。 名のとおり、御滝不動尊金蔵寺があるそうだが、駅から遠いらしいのでパスした。

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・・・・・・・・・・・・・・この付近には牧場が多く、牛の糞の臭いと蝿の大群にはマイッタ!

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⑩三咲駅
・・・・・・・・・・・昭和24年(1949)開業、2面2線の相対式ホームを持つ橋上駅。

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・・・・・・・・・・・・・8000形も頑張ってます

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⑪二和向台駅
・・・・・・・・・・・・昭和24年(1949)開業、相対式ホーム2面2線の地上駅。

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・・・・・・・・・・・・・二和宿舎・・・・・・・・・駅に近い8棟200戸の公務員住宅。 昭和55年(1980)~58年(1983)の建築。 昨年、廃止が決まったようだ、跡地は船橋市が取得して、公共施設を造りたいようだ。

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●・・・・・・・・・・・・・・・本日の新京成線の散歩は、二和向台駅で終了。 次回、乞うご期待!

2014年5月 9日 (金)

浅草橋~押上

連日の病院通い、今日は墨田区の病院で皮膚科の定期検診。 散歩を兼ね病院へ。 美しい女医さんが頭部の髪の毛を掻き分け手術跡を診て、「綺麗に治ってますね、いいですよ」と嬉しいお言葉を頂戴した。 ルンルン気分で病院をあとにして押上まで散歩してきた。 1万歩、7km。


隅田川
・・・・・・・・・・・・60余年見てきた隅田川。 昭和40年代前後の汚い、臭い、黒い川は消え、今は綺麗な川となり、両岸には散歩用のテラスも整備された。・・・・・・・・蔵前橋から上流の厩橋を望む。

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②徳之山稲荷神社
・・・・・・・・・・墨田区石原のこの神社は、池波正太郎の小説に登場する“火付盗賊改”徳山五兵衛(江戸初期の本所築地奉行)の屋敷跡だ。 孫の徳山五兵衛(同名)も火付盗賊改で、歌舞伎「白波五人男」の一人、日本駄右衛門のモデルになった盗賊:日本左衛門を捕えたことで有名である。 境内には「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」が建っている。・・・・・・・・・・思い出した! 「白波五人男」日本駄右衛門の名乗りの台詞は、、、、、『問われて名乗るも おこがましいが 産まれは遠州 浜松在 十四の年から 親に放れ ~ ~ ~ 賊徒の首領 日本駄右衛門』  名場面、いいね!

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③天理教東本大教会
・・・・・・・・・・墨田区本所にある、天理教の中で格付の高い教会本部直属の教会である。 鉄筋コンクリート造の建物は、昭和20年(1945)の空襲でも残り、教会に避難した人も多かったそうだ。 (昭和初期の建築らしい?)

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④旧厩橋交番
・・・・・・・・・・・本所1丁目の交差点の角地に建つ、昭和3年(1928)建築の三角形の小さな交番だ。 現在は「厩橋地域安全センター」として使用されている。・・・・・・・この交番も、東京大空襲の戦禍を見てきた建物だ!

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⑤スカイツリー
・・・・・・・・・・本所、業平地区で撮影

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⑥森八本舗
・・・・・・・・・・昭和8年(1933)創業の押上の和菓子屋さん。 建物は、“森八城”と称し、かなり頑張った造りだ!・・・・・・・・・・・私は、ここの「栗入り最中」が好き!

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2014年5月 8日 (木)

三崎橋

水道橋駅近くの循環器内科で定期検診日。 血液、心電図、X線、エコーとメニュー豊富に検査してもらい結果は『異常はあるが、異常なし』。 つまり、以前から悪いところはあるが、前回の検査から悪化していないとのこと。 まあ一安心だ!

・・・・・・・・ということで、散歩はできず、午後の所用に合わせ帰ることに、、、、、三崎橋を渡って帰ってきた。


●三崎橋
・・・・・・・・・・・水道橋駅と飯田橋駅の中程に、神田川に架かる小石川橋がある。 この小石川橋の下流側(千代田区飯田橋3と三崎町3の境)で分岐する川が日本橋川である。 日本橋川は江戸時代初期に開削した川であるが、その後埋め立てられ武家屋敷となった。 明治36年(1903)に、日本橋川は再度開削された。 現在の三崎橋は昭和29年(1954)に架け替えられたものであるが、以前の三崎橋が何時架けられたかは不明である。・・・・・・・・・昭和29年に完成し、現在は車道として利用されている鋼製桁橋と、両側に歩道橋として昭和62年(1987)に架けられた鋼製桁の橋が2本増設され、計3本で構成されている。

・・・・・・・・・・・・・・手前から左へ流れ下る神田川、右へ分岐し流れる日本橋川。 左奥の橋は後楽橋、右に三崎橋と小石川橋通りガードが見える。

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・・・・・・・・・・・・・・歩道橋+車道橋+歩道橋の三崎橋

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・・・・・・・・・・・・・三崎橋の隣りに中央本線の小石川橋通りガードがある。 こちらは、明治期のドイツ製の桁で歴史もあり、煉瓦造りの橋脚は見栄えもいい。 三崎橋はチョイト影が薄く見過ごされ、存在感に乏しいね!

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●・・・・・・・・・・・・・・昭和62年の三崎橋改修工事は、近くの三崎町に本社がある「鉄建建設」の施工です。

2014年5月 7日 (水)

神谷町~六本木

地下鉄日比谷線の神谷町駅から六本木駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


①西久保八幡神社
・・・・・・・・港区虎ノ門5丁目にある八幡神社です。 源頼信が石清水八幡宮の神霊を請うじて、現在の霞ヶ関のあたりに創建した。 寛弘年間(1004~1012)には、太田道灌の江戸城築城に際して現在地へ遷座された。・・・・・・・・・・神社のある地はかつて「西久保(にしくぼ)」と呼ばれ、現在の虎ノ門2丁目~5丁目で、概ね愛宕山の西側の窪地である。 西の窪地で「西久保」、これホント!・・・・・・・・も一つホントは、神社の境内に縄文貝塚がある。

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②大橋茶寮
・・・・・・・・・・・・・・玄関まわりの塀、表門、内部茶室5棟など、9件の構造物が国の登録有形文化財に指定されている。 昭和中期(1946年頃)の数寄屋造りの建物で、戦後の一時期、裏千家14代・淡々斉の東京道場でもあった。 茶寮が建つ仙石山は、森ビルによる虎ノ門再開発のエリアに入り、建物が取り壊されるおそれがあり、平成18年(2006)に文化財に指定されて危機を間逃れた。・・・・・・・・・現在は茶会、懐石料理で利用されている。

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③仙石山再開発
・・・・・・・・・大橋茶寮の西側一帯は、「アークヒルズ 仙石山森タワー」(地上47階建て)を中心とした再開発が平成24年(2012)に竣工した。 今後、茶寮の東側、桜田通りに面する虎ノ門5丁目の再開発が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・・写真手前の窪地が、今後の再開発地区。 すでに空き家で“森ビル”の貼紙がある建物も多い。

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④三年坂・
・・・・・・・・日本郵政飯倉ビルと霊友会釈迦殿の間にある、歩きやすく、静かで、心地よい坂である。 私の好きな坂の一つ!・・・・・・・・坂の由来は、いつの頃から、誰が名付けたか、解りません。 京都清水寺近くの「三年坂」のパクリか?、「三念坂」と呼び若い二人が恋の成就を願ったか?

・・・・・・・・・・・・坂の上の大きな建物は霊友会釈迦殿

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・・・・・・・・・・・・・・坂の下は再開発を待つ窪地

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⑤霊友会釈迦殿
・・・・・・・・・・・・・三年坂を上がり、釈迦殿の前で見上げていたら、『どうぞ内部を見てください』の一声。 『ありがとうございます』と遠慮なく中へ、、、、、、凄い! 1階は吹き抜けで、その上に3500人収容の大ホール、廻廊が宙に浮いている構造だ。 幅50m、奥行100mの大ホールは、28本のV型の柱で支えられている。 外部・内部とも見える部分は全てブラジル産・スウェーデン産の御影石・大理石貼り。 建設費はいくらと聞きたくなった?・・・・・・・・・昭和50年(1975)竣工、竹中工務店の設計・施工、延床面積26,000㎡ (残念だが、敷地内は撮影禁止)

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⑥日本経緯度原点
・・・・・・・・・・ロシア大使館の南側裏手に、測量法施行令により「東京都港区麻布台二丁目18番1地内日本経緯度原点金属標の十字の交点」が原点と定められた、日本経緯度原点がある。 この点は、東経139度44分28秒8869、北緯35度39分29秒1572、原点方位角32度20分46秒209、と定義されている。 先の大地震で、経緯度原点は東へ27cm移動し、日本水準原点の標高も24mm沈下したそうだ、これらの変化は即刻改正された。 ここには、明治7年(1874)海軍水路寮が観象台を設置した後、明治21年(1888)に東京天文台に移管され、明治25年(1892)に参謀本部陸地測量部が天文台の子午環の中心を日本経緯度原点として定めた。 しかし、大正12年(1923)の関東大震災で子午環が崩壊したため、その跡に金属標を設置した。 現在は、国土地理院の管轄。・・・・・・・・・・お国の大切な原点が、草の生えた地に野ざらし状態で、チョイト寂しいね。

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・・・・・・・・・・・・・・(おまけ) 経緯度原点の隣に建つ、アフガニスタン大使館

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⑦日本郵政飯倉ビル・
・・・・・・・・昭和5年(1930)に竣工した旧逓信省貯金局。 大蔵省営繕管財局の設計、銭高組の施工による、鉄筋コンクリート造4階建ての堅いイメージの建物。・・・・・・・・この建物の斜め前には、ロシア大使館があり、隣りは外務省の飯倉公館があるため、アチラ、コチラに制服の警察官がウロウロ。 悪いことしていなくとも、怖いね!

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⑧外務省飯倉公館
・・・・・・・・・・・・昭和46年(1971)に完成した、首脳・外相会談や各種会議およびレセプションなどで利用する、外務省の迎賓館的な建物。 吉田五十八の設計。 吉田五十八(よしだいそや、1894~1974)は昭和期に活躍した、数寄屋建築をイメージした洗練されたデザインの建築家である。 「太田胃散」創業者の五男として東京生まれ、東京美術学校(東京芸術大学)卒業。 文化勲章受章者。

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・・・・・・・・・・・・・公館の隣りに「外交史料館別館」がある。 今日は、チョイ内部も拝見させてもらった。 正面には、吉田茂の胸像がお出迎え。

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・・・・・・・・・・・・・・リンカーン大統領親書・・・・・・・文久元年(1861)、徳川家茂に送られた。

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・・・・・・・・・・・・・ナポレオン三世親書・・・・・・・文久3年(1863)、徳川家茂に送られた。 一番上の行に大文字で「Napoleon」と書かれている、凄い!

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・・・・・・・・・・・・・吉田茂のパスポート

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2014年5月 4日 (日)

浅草

連休中の浅草の賑わいを体感すべく、午後から視察に行ってきた。 7千歩、5kmのミニ散歩。


①水上バス・
・・・・・・・・・・・浅草、吾妻橋際の乗り場から出航し、隅田川を下り日の出桟橋までのコースで、通称「水上バス」と呼んでいる。 運行の歴史は、明治39年(1906)に「一銭蒸気」を運航する隅田川汽船会社の設立まで遡るらしい。 現在は、もっぱら隅田川観光に供しており、通勤・通学で利用する人は、おそらくいないであろう。・・・・・・・・・私の知る戦後の水上バスは、小さなポンポン船のような船で、各所に乗船場があり(我が家の近くは、柳橋にもあった)通勤・通学で利用する人もいた。 30年代頃から、浅草と浜離宮を結ぶ観光船に変身してきた。・・・・・・・・・・今日は、乗船の行列がつづき、船上は満員状態。

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②東京大衆歌謡楽団 in 浅草
・・・・・・・・・・・・・・知る人は少なく、知らない人はまったく知らない、大道芸のミュージシャン、その名は「東京大衆歌謡楽団」・・・・・・・・・・ボーカルの髙島孝太郎(昭和58年生、富山終身、兄)、アコーデオンの髙島雄次郎(昭和60年生、富山、弟)、ウッドベースの髙鳥玲 (昭和54年生、東京)が平成21年(2009)に結成した。 結成後、浅草、上野などで路上ライブを行い、中高年に“あの頃”の“あの歌”で哀愁を誘い受けている。 CDデビューもはたし、ラジオ、TV出演も多く、これからも“乞うご期待!”・・・・・・・・・今日は浅草の水上バス乗り場の横で披露していた。 私も、東海林太郎を思い出しながら、昭和20年代の歌に聴き入り、散歩の足が止まってた!

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・・・・・・・・・・・・・・歌に合わせて、踊るオバサン、楽しそうだね!

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③浅草
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・和服美人が多い浅草

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・・・・・・・・・・・・・・・線香の煙、アジアの人には、癒しの煙

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・・・・・・・・・・・・・・・日本の観光の思い出に!

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・・・・・・・・・・・・・・こちらの美人は、中国? 韓国? 台湾?

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・・・・・・・・・・・・・・ハイスクールの修学旅行かな? 

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・・・・・・・・・・・・・・元気に泳いでいたね

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・・・・・・・・・・・・・・・春の天皇賞、当てましたか? 3連単は21万円馬券がでたよ!

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・・・・・・・・・・・・・・ヨー、師匠!

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・・・・・・・・・・・・・・焼き鳥、もつ煮で、チョイト休憩!

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・・・・・・・・・・・・・・・只今、満席です~~

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・・・・・・・・・・・・・・渋滞避けて裏通りへ

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・・・・・・・・・・・・・・・正月三が日のような人出!

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2014年5月 3日 (土)

千葉ニュータウン中央~新木

北総線の千葉ニュータウン中央駅から、裏道、農道、畦道を歩き、成田線の新木駅まで、1万9千歩、14kmの散歩です。


①千葉ニュータウン中央駅
・・・・・・・・・・・・橋上駅舎を有する、島式ホーム1面2線の地上駅である。 素人的には北総鉄道の駅だが、鉄道オタク的には北総鉄道と京成電鉄が第二種鉄道事業者として私設・線路を借り鉄道を運営し、「千葉ニュータウン鉄道」が第三種鉄道事業者として施設・線路を保有している。 駅の運営は北総鉄道で、ややこしいね!・・・・・・・・でも、北総鉄道は京成グループで京成が筆頭株主、千葉ニュータウン鉄道は100%の京成子会社。 ということで、ここらは京成電鉄一家の縄張りである。

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②ニュータウン・
・・・・・・・・昭和41年(1966)に千葉県が事業を開始し、昭和50年代には宅地開発公団(現:都市再生機構)も事業参加した。 共同で大規模な宅地開発が進められ、約50年経過して、やっと駅周辺の半径1kmの範囲は“ニュータウン”になってきた。 今だ人口は当初計画の1/4で、100年後も“ニュータウン”開発中かも?・・・・・・・・・・駅周辺は住宅販売のパンフレットに載っている、This is “ニュータウン”である。 古いもの、歴史あるものが無い、私の肌には合わない街だ!

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③田舎道
・・・・・・・・・・・駅から1km北に県道59号が走っている。 この県道を境に、“ニュータウン”とは別れ、里山の空気も残る田舎道となる。

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・・・・・・・・・・・・・県道沿いのショウブに誘われ、白幡地区の横路に入っていくと、白幡道の庚申塔群に出会う。

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・・・・・・・・・・・・・庚申塔群の前を道なりに奥に進むと、三叉路の角に朱入笠付の三猿文字塔がある。 寛文十二年(1672)の年号が読める。・・・・・・・・・ここもそうであったが、鮮やかな朱を塗られた石塔・石仏は、今でも昔の信仰が息づいているようだ。 不思議なパワーを感じるね!

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・・・・・・・・・・・・・・道はさらに奥へ続き、行き止まりには、白幡地区集落の中にひっそりと白幡山吉祥院がある。 堂は平成15年度の県の補助金で直されたそうだ。 境内には「四国八十八ヶ所」の“写し”である「印西大師」の第63番札所っが設けられている。

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・・・・・・・・・・・・・・吉祥院から戻り、竹藪、竹の子、馬頭観音の石塔を見ながら道を行く。

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・・・・・・・・・・・・・・あれは! 今は赤い屋根に変わったが、かつては茅葺の屋根の馬小屋(牛小屋かも?)だったと推定した! 懐かしい造りだと感動し、立ち止まっていたら、風が“かまど”で火を燃やす匂いを運んできた、再び感動!

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・・・・・・・・・・・・・・・木立の間の細い道を行くと、八幡宮にでた。 厳島神社の大鳥居と同じ、主柱を4本の稚児柱で支える両部鳥居(りょうぶとりい)の神社だ。 境内には講の石碑が並んでいた。

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・・・・・・・・・・・・・神社を過ぎると、視界は広がり里山の雰囲気だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・またまた、山の中へ。 道祖神が祀られている道を入る。

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・・・・・・・・・・・・・印西市浦部地区の鳥見神社がお出迎え! もちろん、神主も巫女さんもいません!

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・・・・・・・・・・・・・観音寺は、天長6年(829)~承和4年(837)の間に、慈覚大師が手賀沼湖畔の高台に開山した古刹。 境内の高台には観音堂もある。

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④畦道
・・・・・・・・・観音寺を過ぎると、手賀沼の下流にひろがる田圃は、一斉に田植えが始まった。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和35年(1970)に架けられた手賀干拓一の橋

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・・・・・・・・・・・・・・水田の中に、気持ちよさそうに立つ鉄塔。

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・・・・・・・・・・・・・・手賀川に架かる、昭和61年(1986)に竣工した浅間橋。 この辺りは、釣り人も多いようだ。

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⑤新木駅
・・・・・・・・・・・明治34年(1901)の成田線我孫子~安食間の開業から57年後の、昭和33年(1958)に開業した新木(あらき)駅。 島式ホーム1面2線の地上駅。 かつて、コンクリート造の駅舎があったが、現在は取り壊されて駅舎はない。 跨線橋からホームへ降りた階段の先に改札がある。

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2014年5月 2日 (金)

南千住~三河島

GWに入りチョイト忙しく、散歩の機会が無かった。 “ヨシ!今日は夜の散歩にしよう。”と、貨物列車を見に、南千住へ行ったが、途中で気が変わり裏道へ。 三ノ輪橋から商店街へ、また裏道へ、また商店街へ、三河島駅で“やめた、帰ろう!”  9千歩、6km。


常磐貨物線
・・・・・・・・・日没の頃、隅田川駅に着いたが、好きな貨物列車を見てる間に暗くなった。

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②南千住仲通り商店会
・・・・・・・・・・・・・南千住駅西口から都電荒川線「三ノ輪橋」停留場近くへ延びる商店街。 元気のいい店は少なく、寂しさがどことなく懐かしさを感じさせる、風情ある商店街。

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③三ノ輪橋停留所
・・・・・・・・・・・・都電荒川線の停留所。 いつ来ても、映画のワンシーンのようで、好きな光景だ!

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④ジョイフル三の輪
・・・・・・・・・・・・荒川線の三ノ輪橋と荒川一中前の一停留場間(約400m)に並行する下町商店街。 時刻も遅く、半数の店は閉じ、残りの店も店仕舞中。 売れ残った惣菜は、半値以下の値札で最後まで店頭に並べられていた。

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⑤荒川仲町通り商店街
・・・・・・・・・・荒川3丁目の商店街。 この商店街を抜けると三河島駅。 

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『気を付けよう、暗い夜道と派手な美女!』 危ない、危ない、親爺は早く帰りましょう。

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