北の丸
飯田橋駅から北の丸公園を抜け市ヶ谷駅へ、1万2千歩、9kmの散歩です。
①同和製本・・・・・・・・・・飯田橋3丁目、東京区政会館前の製本屋さん。 鋭角のコーナー部に丸柱のシャッターが付いた入口がある。 この入口にはかつて3本の丸柱があり、ドアが2か所あった。 今は2本足でアーチ状の庇の右端が切断された。 かつては入り口部分に「明治印刷」と表示されていた。 3階には3か所小窓(?)のようなものがある。 建築年代は不詳。
②東京大神宮・・・・・・・・・・・東京における伊勢神宮の遥拝殿として、明治13年(1880)に日比谷の地に創建された「日比谷大神宮」。 日比谷大神宮は関東大震災後、昭和3年(1928)に現在地へ移転し「飯田橋大神宮」に改名し、戦後は「東京大神宮」となる。・・・・・・・・神前結婚式の元祖で若い女性に人気の神社。 今朝も出勤前の神頼みと思われる女性が何人か手を合わせていた。
③東京ルーテルセンタービル・・・・・・・・・・旧住友財閥営繕部門を独立させ、長谷部竹腰建築事務所(現:日建設計)を設立した長谷部鋭吉(1885~1960)の設計。 施工は大成建設の前身:大倉土木により、昭和12年(1937)に竣工した。 鉄筋コンクリート造地上4階/地下1階建ての建物は、装飾の少ないシンプルなデザインで、神学校として建てられたものだ。・・・・・・・・・・白亜の塔に十字架が印象的だ!
④九段の中・高等学校・・・・・・・・・・・・九段の靖国神社大鳥居の北側に中・高一貫校が3校並んでいる。
・・・・・・・・・・・千代田区立九段中等教育学校・・・・・・・・・東京23区初の区立の中高一貫校で、平成18年(2006)に設立した。・・・・・・・・この学校の前身は、大正13年(1924)創立の都立九段高校である。 都立の名門で東大への進学者数も2桁を誇っていたが、学校群制度の導入で進学者数も減り、区立の中・高一貫校に変身した。・・・・・・・・・ちなみに、九段高校は我が家の娘の母校である。
・・・・・・・・・・・九段高校の斜め前には、暁星学園(ぎょうせいがくえん)の中・高等学校がある。・・・・・・・・・こちらは、フランス語教育をする高校で、語学の弱い私には、近寄りがたく感じた、カトリック系の中・高一貫の名門校。 校舎西側は煉瓦塀が続き、歴史の古さを漂わせている。
・・・・・・・・・・・・・暁星学園のお隣は女和洋九段女子中・高等学校。・・・・・・・・洋裁学校を前身として、明治30年(1897)に創立した私立女子の中・高一貫校。・・・・・・・・こちらは、我が妻の母校。
⑤フィリピン大使館公邸・・・・・・・・・・・・・暁星、和洋、両校の隣りにフィリピン大使館公邸がある。 昭和10年(1935)に建てられた旧安田岩次郎(安田財閥総帥:安田善次郎の婿養子の四男で画家)邸で、鉄筋コンクリート造2階建て、白い外壁に縦長のアーチ型の開口部が特徴的なモダンな建物。 フィリピンの国家的歴史建造物に指定されている。
⑥田安門・・・・・・・・・・・寛永13年(1636)に建てられた田安門。 今は、北の丸公園への入り口。
⑦弥生慰霊堂・・・・・・・・・・・・田安門の東側に、ひっそりと弥生慰霊堂(やよい いれいどう)がある。 武道館の脇から入り、人目につきにくい処だ、ここには警視庁及び東京消防庁の殉職者が祀られている。・・・・・・・・・・・明治10年頃に警察・消防の殉職者を祀る施設の創建が求められ、明治18年(1881)に本郷区(現:文京区)向ヶ岡弥生町に「弥生神社」が創建された。 この神社が本郷、芝公園、青山など転々と遷座し、昭和6年(1931)には麹町に移り、終戦をむかえた。 戦後は警視庁が神社を管理できず、神社は慰霊堂として現在地に移され、有志により無宗教形式で慰霊されている。・・・・・・・・「弥生慰霊堂」の碑はあるが、この施設の由来を説明した案内板などは一切ないので、見回りの警察官も何の施設だか知らなかった。 “知る人ぞ知る”慰霊堂だ!
⑧日本武道館・・・・・・・・・・・昭和39年(1964)に設計:山田守、施工:竹中工務店により竣工した、東京オリンピック柔道競技場。 以来、ライブコンサート、入学式、卒業式など各種イベントの会場として利用されている。・・・・・・・・・私は大学の入学式をここでやった。 も一つ思い出があるのは、大学1年生の頃、旗屋でバイトしていた私は、武道館中央の天井から下がった日の丸を納めに行った。この時の日の丸がバカデカく巨大な風呂敷のようでビックリしたことがあった。 約50年程前の話だ!
・・・・・・・・・・・・・・靖国神社高灯籠と武道館
⑨近衛歩兵第一連隊・第二連隊跡 ・・・・・・・・・・北の丸公園には、明治7年(1874)に編成された近衛連隊が駐屯していた。 その跡に、2つの連隊の記念碑がある。
⑩旧近衛師団司令部・・・・・・・・・・明治43年(1910)に衛戍地であった北の丸に近衛師団司令部として建設された。 戦後は、東京国立近代美術館工芸館として、改修保存工事が行われ保存されている。
⑪アレ、なくなった!・・・・・・・・・・・・千鳥ヶ淵の首都高は只今補修工事中。 その先に大きなマンションが見えるけど、その隣(写真中央)にあったビルがなくなった。 ここには、私が25年勤めたオフィスがあったのだ、チョイト、寂しいね。
・・・・・・・・・・・・・3年前の写真。 私のオフィスが見える、懐かしい光景。