松が谷
浅草で買い物の用事ができ、散歩がてら行くことにした。 我が家(浅草橋)から、稲荷町にでて、合羽橋道具街の西側の「台東区松が谷」をぶらつき、旧国際劇場の裏から浅草寺へ。 そのあと買い物を済ませ、我が家まで、1万3千歩、10kmの散歩です。
①祝言寺・・・・・・・・・・・・・・地下鉄銀座線稲荷町駅と田原町駅の中程(台東区松が谷)に、曹洞宗萬年山祝言寺(しゅうげんじ)はある。 太田道灌が室町時代に建立したと言われている祝言寺は、祝言村(現在の日比谷あたり)に建てたが、徳川幕府は江戸城の拡張により祝言寺を含め複数の寺を移転させ、現在の地に移った。 寺は、振袖火事、震災、戦災などで被災し、記録・遺物など一切残っていないようだ。・・・・・・・・・・・・現代建築が合う、私のすきな寺。
・・・・・・・・・・・・・・・・本堂・・・・・・・・・・・戦後の日本建築界を代表する建築家の一人、内井昭蔵(1933~2002、)による設計で、大成建設の施工により、昭和60年(1985)に竣工した。 渋い黒を基調に繊細なデザインと丁寧な仕上げによる、落ち着いた感じの建物だある。 本堂前のアプローチは、掃き目もクッキリとした砂が敷き詰められ気持ち良い。
・・・・・・・・・・・・・・・山門・慰霊塔(鐘楼)・・・・・・・・・・燻製色の落ち着いた色合いのボーダータイル貼りで、本堂とも調和し、重厚で格調高い雰囲気を演出している。 設計はテツク建築設計事務所、施工は大成建設、平成18年(2006)の竣工。
②江戸十大祖師・・・・・・・・・・・・・江戸十大祖師とは、、、、、、、江戸にある10ヶ寺の日蓮宗寺院を参拝することにより祖師(日蓮)のご利益にあずかろうとする、江戸時代に盛んであった民間信仰。 その内の2寺(妙音寺、本覚寺)が台東区松が谷に在る。
・・・・・・・・・・・・・妙音寺・・・・・・・・・・もちろん、日蓮宗の寺。 慶長15年(1611)に日本橋馬喰町にて創建、明暦の大火により現在地に移転した。 境内には弁財天も祀られている。
・・・・・・・・・・・・・・・本覚寺・・・・・・・・・・・本覚寺も、天正19年(1591)、日本橋馬喰町にて創建し、明暦の大火の後、現在地へ移転した。 江戸十祖師の一つ日限祖師として有名らしい。(私は知らなかったけど!) 本堂にはステンドグラスがあり、『教会じゃないよ、合わないね!』と言いたかった。 本堂とは別に、チョイト古そうな日限祖師堂がある。
③S邸・・・・・・・・・・・本覚寺の隣りには、1階角の上部にラーメンどんぶりの模様(正式には“雷紋”という)のある、昭和の建物がある。 この模様は、中国では皇帝など、高貴な人の身の回りにあしらう文様とされている、珍しいデザインだ!
④松が谷の2社・・・・・・・・・・合羽橋道具街の西側、「台東区松が谷」は寺社多い町で、チョッピリ有名な神社が2社ある。
・・・・・・・・・・・・矢先稲荷神社・・・・・・・・・・・・徳川家光が寛永19年(1642)に創建した浅草三十三間堂の守護神として祀られた稲荷大明神が起源である。 三十三間堂は、元禄11年(1698)の大火後に深川へ移転したが、稲荷大明神は現在地に残り、三十三間堂(弓矢の練成道場)の由来から、矢先稲荷神社と称した。
・・・・・・・・・・・・・秋葉神社 ・・・・・・・・・・・神社の歴史は、明治2年(1869)暮の大火から始まる。 明治天皇は大火の翌年、現在のJR秋葉原駅構内に、火の神火産霊大神、水の神水波能売神、土の神埴山毘売神の三柱を祀神として勧請した。 この神社を当初、鎮火社と称した。 鎮火社は、火除地(空地)にあり、この地を「秋葉の原(あきばのはら)」などと称し、神社も「秋葉さん」と呼ばれるようになった。 明治21年(1888)、日本鉄道が上野から秋葉原まで延伸され、神社は現在の地へ移転することとなった。 移転後は「秋葉神社」と称した。
⑤曹源寺・・・・・・・・・・・かっぱ橋本通りに面する、曹洞宗の曹源寺は、「かっぱ寺」と呼ばれている。 文化年間(1804-18)、寺の近くに、雨合羽を商う合羽河太郎(合羽屋喜八)がいた。 この寺の付近は、低地で水害も多く、河太郎は住民の難儀を救うため、私財を投じて排水路をつくった。 工事の際、河太郎に恩義のある河童たちが助勢したとの伝承もある。 曹源寺には、その河太郎の墓と言われている石碑が残されている。 今日は植木が入り、境内の手入れの真っ最中。 邪魔するのはヤメタ!
・・・・・・・・・・・・・・・合羽橋道具街に、平成15年(2003)に建立された、黄金の河太郎像で我慢するか!
●・・・・・・・・・・・・・・・・このあとは、浅草寺へ寄って帰宅。
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