自宅待機の雅万歩
雅万歩は、本日、我が家に戻りました。 来月末頃の手術に向け、ひとまず休養です。
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雅万歩は、本日、我が家に戻りました。 来月末頃の手術に向け、ひとまず休養です。
盆休みの初日13日に、荒川遊園、小台橋を散歩した後、ブログに書く前にチヨイト昼寝をはじめた。 ウトウト、これから夢に天使が登場するころ、背中に激痛がはしり、、、、ギヤーオ、ナンジヤコレハ? しばらくすると左足が痺れ、腰の付け根からだるくなって来た。 盆休み期間で医者も休み。タクシーで、地元台東区の指定緊急病院へ運んでもらった。病院に到着した頃は、左足の感覚はなく、血行もなく、、、、ア 〜〜我が足ともお別れか❗️ 病院では、x線、CT、などの緊急検査を受け。名医が『大動脈解離です。この治療をおこなえる病院はこのあたりでは、三井記念病院と葛飾の病院の二カ所しかないので、受け入れ先が決まり次第、救急車で転送します。』 、、、、、、、、てななりゆきで、、、、、三井記念病院に転送されて、13日18時頃より、右足付け根の大動脈から、左足の大動脈へバイパス手術を施した。
足は完全に回復し、今週から、「大動脈瘤」の検査と手術になるようだ!!!!、、、、、チヨイト恐いが、男は度胸で、先生に任せた、好きなようにヤツテクレ!
・・・・・・・・・・・「雅万歩」は、病気が回復するまで、お休みさせて貰います。
台風一過の晴天だが風は強く、今朝の気温は29℃、暑さに注意しながら、南北線王子神谷駅から隅田川沿いに歩いてJR王子駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩です。
①庚申塔・・・・・・・・・・・・南北線王子神谷駅の近くに、「神谷橋庚申通り商店会」がある。 その商店街入口に、「庚申塔」と大きく書かれた看板のある祠があり、中には板碑型の搭が建立されてる。 「四条天皇の頃(鎌倉時代)、この地に庵を結んでいた尼がいた。 尼は人々の救済に勤めていたが、晩年は庵から出ることが出来なくなり、読経を続けるばかりとなった。この尼が亡くなった後も、庵からは生前同様に読経の鐘の音が聞こえたので、この尼を弔うために庵の傍らに碑を立てて祀った。」、らしい。 寛文5年(1665)、「武州豊島郡馬場村」の講中によって造立された。
②都営王子5丁目アパート・・・・・・・・・・昭和44年(1969)に竣工し、そろそろ築50年となる都営住宅。 都営住宅の“下町化”か、西日が射し込み暑いのか、簾・葭簀・日よけシートが大活躍。
③気になる建物・・・・・・・・・・商店会の中程(北区豊島8)に木造平屋の元店舗兼住宅(?)がある。 山型の屋根、白塗り左右対称の構え、中央の両開きのガラス戸、しかもガラスは汚れていない、カーテンは純白、軒先はチョイト空き瓶などが散乱しているが、、、、まさに人が住んでいるようだ。 この建物の年代は戦前と推測した、以前は何の商売していたのか?
④新田橋・・・・・・・・・・・隅田川上流、旧岩淵水門から数えると4番目の橋が、北岸の足立区新田地区と、南岸の北区豊島地区を結ぶ新田橋(しんでんはし)である。 橋長114m、5径間単純鋼桁橋の橋で、昭和36年(1961)に竣工した。 橋脚は、A字型をした木橋時代の橋脚を模したもので、珍しいものある。 竣工後50年以上経過し、橋の老朽化により、現在架け替えの計画があるそうだ。 残してほしい橋だね!
・・・・・・・・・・・・・この地には、もともと「野新田(やしんでん)の渡し」と呼ばれる、江戸時代から続いた渡しがあったが、昭和16年(1941)に旧新田橋が架けられ廃止された。 情緒ある景色はもうなくなり、写真だけが残っている。
⑤新豊橋・・・・・・・・・・・新田橋の下流に架かる新豊橋(しんとよはし)は、平成19年(2007)に開通した、隅田川に渡河する32番目の橋である。 北岸は足立区新田地区、南岸は北区豊島地区で、両岸の地名にちなみ名づけられた。 橋長105m、単純箱桁・アーチ複合橋、平成19年(2007)竣工。 この橋は、エレガントで美しいカーブを持ったアーチ形状が特徴的で、優れたデザインにより、日本土木学会から平成21年度(2009)田中賞(橋梁設計の第一人者であった故田中博士の功績をしのんで設定された)を受賞した。・・・・・・・・・・たしかに、受賞するだけあって、アーチの女性的な緩やかなカーブが、なんとも言えないね。 また、橋脚のないシンプルな感じもいいね!
・・・・・・・・・・・・・・隅田川は新豊橋を過ぎると、右へ大きくUターンするように流れ下る。
⑥トンボ鉛筆・・・・・・・・・新豊橋の南詰(北区豊島)にトンボ鉛筆の本社ビルがある。 このビルは、久米設計の作品で、2008年グッドデザイン賞を受賞した。 ガラスと金属による構成で、シンプルさを強調した建物である。・・・・・・・・・トンボ鉛筆と言えば、楠トシエが歌う、昭和31年(1956)のコマーシャルソング。 ♪♪すらすらすら~と鉛筆の 走った足あと絵になった~ いつでも どこでも ト ト トンボ鉛筆 トンボ~ トンボ~♪♪ 50年過ぎても、まだスラスラ思い出して歌える懐かしの曲。・・・・・・・・私が建築学科の学生の頃は、製図用の鉛筆は三菱の“uni”、消しゴムはトンボの“MONO”が定番だった。 お世話になりました。
⑦豊島橋・・・・・・・・・隅田川の上流から6番目の橋が豊島橋(としまはし)。 北岸は足立区宮城2丁目、南岸は北区豊島5丁目で、橋名は北区側の地名にちなんでいる。 豊島橋の架かる地にも、かつて「六阿弥陀の渡し」と呼ばれる渡しがあった。 大正14年(1925)、ここに初代の豊島橋(木橋)が架けられたが、老朽化により昭和35年(1960)に現在の位置にゲルバー式鋼製桁橋が架けられ、昭和42年(1967)まで存在していた。 3代目の現橋は平成13年(2001)に架けられた。・・・・・・・・・・橋長106.7m、単純下路式鋼ローゼ桁橋(アーチ部材と補強桁で構成される橋)の現橋は7年の工事期間を要し完成した。 私には、大きな半円に近いアーチが、チョイと単調に見える。
・・・・・・・・・・・・・・上流を見ると、隅田川が新豊橋から大きくUターンして流れてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・右岸の北区側には巨大な公団豊島5丁目団地が並んでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・左岸の足立区側には首都高が走る。
⑧見えない首都高速道路中央環状線隅田川橋梁・・・・・・・・・7番目に隅田川に架かる首都高速道路中央環状線隅田川橋梁だが、豊島橋を渡り右岸(北区側)を歩いたら、護岸が高すぎて見えない! 行けども行けども、私の背より高い、コンチクショウ!
・・・・・・・・・・・・・・やっと見える場所を見つけたと思い、都営住宅の上から眺めると、、、、、目の前のマンションが邪魔だ! マンションの裏で首都高は隅田川を渡河しているのだ。 今日はあきらめた。
⑨新堀橋・・・・・・・・・・・こちらの橋は首都高の隅田川橋梁近くで、隅田川に合流する石神井川の最下流に架かる小さな橋。 昭和35年(1960)に架けられたコンクリート橋であるが、劣化により架け替えが間もなく行われる予定である。 記念にパチリ!
久々に、30℃を割る気温で、熱中症のリスクも多少やわらいだと思い、隅田川を陸の上から下ることにした。 今日はその初日、まずは隅田川の最上流を歩いてきた。 赤羽駅から岩淵水門 をまわり、新神谷橋を渡って東十条駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩です。
・・・・・・・・・・・・・荒川放水路(現在の荒川)・・・・・・・・・江戸時代には、荒川(現在の隅田川)沿川では、頻繁に洪水が発生していた。 明治43年(1910)に洪水対策として、荒川放水路の建設計画が策定され、翌年より開削工事が開始された。 工事規模は、総工事費31,446,000円(当時の大卒者の初任給35円)、延長22㎞(北区岩淵~江東区砂町)、掘削土量2,180万立米(東京ドーム18杯分)、橋梁新設17橋、土地買収1,098町歩(約11k㎡:北区の面積の約半分)であった。 工事は関東大震災などで遅れたが、昭和5年(1930)に完成した。 まさに、20年の歳月を要したビッグプロジェクトであった。・・・・・・・・・完成後は旧岩淵水門より下流が隅田川となった。 荒川放水路は現在「荒川」と改称した。
①旧岩淵水門(赤水門)・・・・・・・・・・隅田川と荒川(荒川放水路)の分岐点(北区岩淵町 )に造られた水門。 大正5年(1916)から大正13年(1924)までの8年間の歳月をかけ建設された。 鉄筋コンクリート造で、9m幅のゲートが5門ある。 昭和35年(1960)に通船の必要性から右端5番ゲートは改造された。 現在、旧岩淵水門は下流に岩淵水門が完成し、水門としての役割は無くなった。 貴重な産業遺産として保存されている。
・・・・・・・・・・・・・・・上流側から
・・・・・・・・・・・・・・下流の岩淵水門を見る
・・・・・・・・・・・・・下流側から拝見!
・・・・・・・・・・・・・・・左端に赤水門、右端に青水門、中央は荒川、対岸は川口市
②岩淵水門(青水門)・・・・・・・・・・・・・・旧岩淵水門から300m程下流に、200年に1回の大洪水にも耐え得るように作られた。 昭和57年(1982)に事業費は約70億円にて完成した。 鉄筋コンクリート造で、10m幅の3つのゲートで構成されている。 荒川が増水した時は水門を閉め、隅田川へ流さないようにして東京を洪水から守る役割を担っている。・・・・・・・・・私が、近くの土木研究所(現:荒川下流河川事務所)でバイトをしていた昭和40年頃はまだ無かった水門で、荒川土手のこの辺りも大きく変化した!
・・・・・・・・・・・・・上流(旧岩淵水門)から
・・・・・・・・・・・・・・下流側から後姿をパチリ!
・・・・・・・・・・・・・・水門から100m程下流で、川越方面から流れ下る新河岸川(写真左側)と合流する隅田川。 ついでに、写真中央の建物(青水門の左側:塔のある建物)に、かつて私がバイトした土木研究所が在った。
・・・・・・・・・・・・・・・下流を眺めれば、景観は緑の“荒川”から、都会の“隅田川”に切り替わる!
③隅田川の左岸・・・・・・・・・・・左岸は足立区新田地区、右岸は北区志茂・神谷地区
・・・・・・・・・・・・日本化薬東京工場・・・・・・・・・・・隅田川沿いの両岸に日本化薬がある。 大正5年(1916)に、産業用火薬メーカとして創業したが、現在は医薬品、染料、触媒、農薬などを扱う総合メーカ。 その、事業所が右岸に、東京工場が左岸にある。 きょうは工場を眺めながら左岸を歩いてきた。 野積されたドラム缶の中は?、、、、、火薬か?、ニトログリセリンか?などと想像もしてみたが、、、、インク工場だった!
・・・・・・・・・・・・・・新田稲荷神社・・・・・・・・・・・創建は元禄10年(1697)と伝えられる。社殿は戦災で焼失し、昭和22年(1947)に再建された。
④新神谷橋・・・・・・・・・・・・岩淵水門を除いて、隅田川の最上流に架かる橋が、新神谷橋(しんかみやばし)である。 もともとは、現在、橋の架かる位置のチョイト近くの堀に、「神谷橋」(昭和2年(1927)架橋)が架けられていたが、昭和52年(1977)に堀は埋め立てられ廃橋となった。 その名を頂戴し、昭和42年(1967)に新神谷橋が隅田川に架けられた。・・・・・・・・・新神谷橋は、長さ153.1m、幅員20.0mのプレートガーダー橋。 橋上には環七通りがとおる。
・・・・・・・・・・・・・・新神谷橋から下流を望む
山手線を追いかけて夕方の散歩、今日は駒込駅から大塚駅まで、9千歩、7㎞を歩いてきた。
①駒込駅・・・・・・・・・・・明治43年(1910)に開業。 駅前は本郷通り。
・・・・・・・・・・・・・・・桜でデザインされた駅脇のポスト。 おそらく駅近くの旧染井村のソメイヨシノにあやかって、桜を散らしたピンク色に変身したのであろう。 ラブレターでも投函したくなるね!
・・・・・・・・・・・・・・・駅横の公園に残されている旧駒込橋の欄干。 旧橋は大正から昭和初期に架けられた山手線の跨線橋であるが、地下鉄南北線の工事に伴い現在の駒込橋に架け替えられた。
・・・・・・・・・・・・・・現在の駒込橋の欄干には、桜と富士がデザインされている。 “桜と富士”では、今は無きブルートレインを思い出す。
・・・・・・・・・・・・・・橋の下には山手線。
②染井橋・・・・・・・・・・・・駒込橋から100m程、巣鴨寄りに架かる跨線橋。 旧橋は大正14年(1925)に架けられたが、平成17年(2005)に現在の橋に架け替えられた。 こちらの欄干もソメイヨシノのデザインだ!
③巣鴨駅・・・・・・・・・・・・明治36年(1903)、日本鉄道の駅として開業。 島式ホーム1面2線の地上駅で、改札は大塚駅寄りに1か所あるのみ。 改札口は、白山通りに面し橋上駅舎としてあり、平成22年(2010)にはショッピングビル「アトレヴィ巣鴨」のオープンと共に改修工事を終えた。
・・・・・・・・・・・・・・・駅前の白山通り(国道17号)に、巣鴨橋が跨線橋として架かっている。 現在の橋は昭和45年(1970)に竣工したが、国道の交通量の多さに負け、チョイと劣化しているようだ。
④宮下橋・・・・・・・・・・・・明治36年(1903)の田端線開通時に初代の跨線橋が架けられた。 その後、震災後に2代目が架けられ、現橋は平成3年(1991)に架け替えられた。
・・・・・・・・・・・・・・巣鴨駅方向を眺める。 左の2線が山手線、右の2線が湘南新宿ライン。
・・・・・・・・・・・・・・・大塚駅方向を眺める。
⑤江戸橋・・・・・・・・・・・・現在の橋は平成12年(2000)に竣工した、3代目の跨線橋である。 ここにもあった「江戸橋」、果たして全国に何橋あるだろうか? 中央区の江戸橋、神田川に架かる江戸橋、近鉄名古屋線沿線の江戸橋、、、、、まだ、まだ、ありそうだ!
⑥平松架道橋・・・・・・・・・・・・複々線となった大正末期の頃に造られたと思われる。
⑦南大塚花街・・・・・・・・・・・大正11年(1922)に現在の南大塚1丁目の界隈が二業地に指定された。 さらに、大正13年(1924)に待合が加わり三業地となる。 昭和30年から40年には、料亭50軒、芸者150名で、栄えたそうだ。 現在はつい最近まで、料亭数軒、芸者10名程で寂しが、見番も残っていた。・・・・・・・今日、見番の前を通ったら、アレ! 看板がない! ネットで検索したら、見つからない、ホームページも無くなった! また消えたようだ、昭和の花街が一つ! 料亭は営業しているようだ!
・・・・・・・・・・・・・大塚駅の東に、「大塚三業通り商店街」がある。 その入り口には、しっかりと性病科の医院がある。
・・・・・・・・・・・・・・商店街を入っていくと、、、、、料亭、料理屋が、、、、廃業した店もある
・・・・・・・・・・・・・・・さらに奥には、ホテルが続く、、、、、寂れ、変わった昭和の花街。
⑧大塚79号架道橋・・・・・・・・・・・・比較的新しい架道橋で、昭和52年(1977)の竣工。 大塚駅寄りにある大塚架道橋の幅員が片側一車線と狭く、それを補うため造られた。
⑨大塚架道橋・・・・・・・・・・・・大塚駅の東側に明治35年(1902)に竣工した、煉瓦造りの架道橋。 橋台の煉瓦積も綺麗で、いつまでも現役で残ってほしい。
⑩王子電車跨線線路橋・・・・・・・・・・・大塚架道橋と隣り合わせに、都電大塚駅前停留場がある。 この停留所のあるところが、「王子電車跨線線路橋」で、昭和3年(1928)の竣工である。 「王子電車」とは、荒川線の前身の会社名。・・・・・・・・高架下の都電ホームのように見えるが、れっきとした架道橋(ガード)である。
⑪大塚高架橋・・・・・・・・・大塚駅と都電停留所の間に高架部分が見える。 一昔前の四角い形でデザインされた高架橋は、いつ造られたのか? 山手線の池袋・田端間が開業した明治36年(1903)に建設されたのか? 高架橋に連続する「王子電車跨線線路橋」ができたのと同じ昭和3年(1928)頃と推測される。
⑫大塚駅・・・・・・・・・・・・明治36年(1903)日本鉄道の駅として開業。 島式ホーム1面2線の高架駅。 改札口は高架下で、改札を出ると南口と北口に分かれる。 昨年、南口に駅ビルがオープンした。
田端駅から駒込駅まで、山手線を追いかけて歩いてきた。 駒込駅周辺では、チョイと夜の裏通りもぶらつき、1万歩、7㎞の散歩となった。
①旧田端大橋/新田端大橋・・・・・・・・・・・田端駅北口前に架かる、2本の跨線橋。
・・・・・・・・・・・・・旧田端大橋・・・・・・・・・・・昭和10年(1935)に架けられた跨線橋で、造船技術を生かし全部溶接で造られた橋としては東洋一であった。 平成4年(1992)に「田端ふれあい橋」として、歩行者専用の跨線橋となった。
・・・・・・・・・・・・新田端大橋・・・・・・・・・・旧田端大橋の隣に並行して架けられた跨線橋。 こちらは、昭和62年(1987)竣工。 人は旧田端大橋、車は新田端大橋で、両橋合わせて一つの橋だね!
②JRの専用橋・・・・・・・・・新田端大橋の隣に、新幹線車両センターへ繋がる跨線橋がある。 こちらはJR専用で、私みたいな暇な鉄道オタクは通行禁止。 ゲートもあり、渡るのはチョイト厳しい警備をすり抜ける必要があり、無理だね!
③田端トンネル/田端跨線線路橋・・・・・・・・・・田端駅を出た京浜東北線北行き電車は、短い田端トンネルに入る。 同じく田端駅を出た山手線は田端トンネルの脇の盛土上を走り駒込方向へ向かう。 田端トンネルの駒込側で、京浜東北線は、山手線の田端跨線線路橋の下をくぐり、ここで、両線は交差する。
・・・・・・・・・・・・・写真右端に田端トンネルの出口が見え、中央を横切る2線が山手線。 山手線は写真左端の田端跨線線路橋を走り、京浜東北線は跨線橋下を抜けて行く。 この撮影ポイントは道灌山の崖上である。
④道灌山トンネル遺構/富士見橋・・・・・・・・・・京浜東北線と分かれて、山手線は大きくカーブして駒込へ向かう、その先に道灌山トンネルの遺構と富士見橋が架かる。
・・・・・・・・・・・・・・・カーブしながら富士見橋を抜ける手前(○印)に道灌山トンネルの遺構として、トンネル上部のパラペット部分が見える。 山手線の開通当時は、富士見橋はなく、道灌山トンネルがあり、道路はトンネルの上を通っていた。 大正14年(1925)に初代の富士見橋が架けられ、現橋は昭和41年(1966)に架け替えられた。
・・・・・・・・・・・・・・山手線は、かつてこのトンネルを走っていた。
⑤道灌山跨線線路橋・・・・・・・・・・・富士見橋を下を抜けた先で、山手線は湘南新宿ラインと交差する。 湘南新宿ラインは駒込から上中里方向に左カーブで中里トンネルに入っていく。 山手線はの湘南新宿ラインの上を道灌山跨線線路橋 で跨ぐ。・・・・・・・・・夕闇の中里トンネルと道灌山跨線線路橋の撮影は、真っ暗で、雑草が茂り、やぶ蚊に襲われ、私には無理だった。 複数個所刺され、かゆい、かゆい、腫れてきた!
・・・・・・・・・・・・・・・かろうじて、撮れた1枚だが、解るかな?
・・・・・・・・・・・・・・中里踏切から撮った交差部。右は湘南新宿ラインで、中里トンネルへ向かう。 左は山手線で、道灌山跨線線路橋を渡っている。
・・・・・・・・・・・・・第二中里踏切・・・・・・・・・・・山手線唯一の踏切として有名である。
・・・・・・・・・・・・・・中里橋・・・・・・・・・・踏切に続く跨線橋で、橋の下は湘南新宿ラインが走る。 昭和29年(1954)完成。
⑦中里第一隧道/中里用水架道橋・・・・・・・・・駒込駅の手前に造られている、煉瓦造りの架道橋が中里用水架道橋。 中里用水架道橋は2車線分の幅しかなく、すぐ隣に造られている中里第一隧道が歩行者専用の架道橋である。 中里第一“隧道”は“架道橋”である。 なぜ“隧道”となったことやら? 写真手前が中里第一隧道、奥に中里用水架道橋が見える。
・・・・・・・・・・・・・中里用水架道橋・・・・・・・・・・・歩道もなく車専用。
・・・・・・・・・・・・・・中里第一隧道・・・・・・・・・・・昭和51年(1976)竣工。
⑧駒込駅・・・・・・・・・・・・明治43年(1910)、旅客営業のみで開業した。 島式ホーム1面2線の地上駅であるが、地形が傾斜しているため、西側が掘割で橋上駅舎、東側が盛土上にホームがあり改札は線路下となっている。
・・・・・・・・・・・・・東口・・・・・・・・・・・
「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや」(論語)は孔子の言葉・・・・・・・・・「友有り、近場より来たる。またまた楽しからずや」は雅万歩の言葉。
三鷹と浦和の姐さんがたが、猛暑の中、葛飾柴又 まで出向いてくれ、我が老体を帝釈天に捧げるがごとく、一日遊んでくれました。 威厳ある「帝釈天」、清楚な昭和初期の住宅「山本邸」、昭和を懐かしむ「寅さん記念館」、シネマの世界「山田洋次ミュージアム」とまわり、美味しい“うな重”、土産に“佃煮”・“草団子”を手にし、、、、、、楽しい時間を過ごし、満足して帰宅。
チョイト歩いた(8千歩程)けど、のんびり、ウキウキ状態で、ダイエット効果は期待できず。 減量の為の散歩は無かったことにしよう!
夕暮れとなり、気温32℃、無風状態、湿度ベタベタ、体調良好、ヨシ! 散歩に出発!
西日暮里駅から田端駅まで、6千歩、5㎞のショートコースの散歩です。
①西日暮里駅・・・・・・・・・・・・山手線の駅としては最も新しいい、昭和46年(1971)に開業した。 接続している地下鉄千代田線の西日暮里駅は、2年前の昭和44年(1969)の開業である。 JRは千代田線との乗換駅として開業したため、田端~西日暮里間は800m、西日暮里~日暮里間は500mと、駅間距離も短い。 一般の改札口はガード下の1か所のみで、地下に千代田線との連絡用の改札がある。
・・・・・・・・・・・・・ 駅の西側は開成学園のある道灌山で、この道灌山の尾根がチョイトくぼんだ位置に「道灌山通り」が切通し状にホームの下を抜けて行く。 ホーム下の架道橋は「間之坂架道橋」(まのさかかどうきょう)で、かつてここは踏切であったが、昭和になり架道橋となった。 千代田線は道灌山通りの下を走っている。
・・・・・・・・・・・・・・ホームから見ると、、、、歩道橋の先の右側が開成学園
②諏訪坂架道橋・・・・・・・・・・・上野駅寄りのホームの端あたりに架道橋はある。 以前は踏切であったが、昭和58年(1983)頃に架道橋として完成したようだ。
・・・・・・・・・・・・・・西日暮里駅の高架橋脇を上野寄りに歩くと、諏訪坂架道橋がある。
・・・・・・・・・・・・・・架道橋の先は階段となっており、自転車も通り抜けることができないため、架道橋下は駐輪場として一部利用されている。
・・・・・・・・・・・・・・架道橋を抜けた先の階段は、諏方神社(すわじんじゃ)への参道となる。 参道両側の石積みは氏子が御大典記念として大正4年(1915)に寄進した。
・・・・・・・・・・・・・・鳥居をくぐれば、諏方神社。
③太平洋美術会・・・・・・・・・・・諏方神社前にある建物は、明治22年(1889)に日本最初の洋画団体「明治美術会」として誕生した現:太平洋美術会。 明治・大正・昭和・平成と四時代にわたり、坂本繁二郎、高村智恵子、中村彜などの幾多の英才、奇才を世に送り出し、日本近代洋画史に燦然たる足跡を残してきた美術団体。 明治37年(1904)、谷中で開設したが戦災で被災し、昭和20年(1945)現在地にて再建された。
④道灌山から・・・・・・・・・・・開成高校脇の「ひぐらし坂」を上り、道灌山から撮影。
・・・・・・・・・・・・・・西日暮里駅をパチリ。 奥の超高層は日暮里駅前。
⑤田端駅 ・・・・・・・・・・・・明治29年(1896)、田端駅は開業し、同年に土浦線(現:常磐線)田端~土浦間も開通した。
・・・・・・・・・・・・・・闇夜の道灌山で、明りがともる田端駅南口。
・・・・・・・・・・・・・・目の下には田端駅ホームが見える。
『あついあついと 言われた仲も 三月せぬ間に あきがくる』と、言われてみたい、姐さんはいずこに! 連日暑さ、妄想だけでも楽しみたいね!
『暑い暑いと 言われた夏も 三月せぬ間に 秋がくる』と、連日の暑さに自分を慰め、朝から渡るは隅田川! 向かうは、病院のCT検査室! 美人の検査技師が二人で、手取り、足取り、ベッドに寝かされ、造影剤の注射、最後はCTのトンネルへ突入!
終われば、『結果は来週、皮膚科で聞いてください』と、会計の窓口へ促された。
・・・・・・・・・・・病院の帰り、1か月後の震災記念日を思い出し、近くの震災記念堂(現在は「東京都慰霊堂」 が正式名称)へお立ち寄り。
①東京都慰霊堂・・・・・・・・・・・大正12年(1923)の関東大震災で身元不明の遺骨を納め霊を祀る施設として、昭和5年(1930)に墨田区横網の元陸軍被服廠跡に「震災記念堂」として建てられた。 昭和23年(1948)からは、東京大空襲の遺骨も合祀し、「東京都慰霊堂」とした。 堂は伊東忠太の設計、戸田組(現:戸田建設)の施工、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建てで建設された。・・・・・・・・・・ 慰霊堂は白い工事用仮囲いの中で、2年後の平成28年(2016)の完成をめざし耐震補強工事が行われていた。 ちなみに、補強工事は約12億円の工事費で戸田建設・小沢組JVが実施中。 工事中は脇から入り、参拝可能です。 やっと、綺麗になるようで、完成が楽しみだ!
②東京都震災復興記念館・・・・・・・・・・・・・震災記念堂の付帯施設として、関東大震災の復興事業を記念する資料館。 こちらは伊東忠太+佐野利器の設計、戸田組(現:戸田建設)の施工により、昭和6年(1931)に建設された。 帝冠様式(鉄筋コンクリート造の様式建築に和風の屋根を載せた建物)、スクラッチタイル張りの建物。
・・・・・・・・・・・・・・災害当時使用されていた松葉杖と車椅子・・・・・・・・・松葉杖も、車椅子も、使われていた当時の状況を想像すると、目が潤んできた。
・・・・・・・・・・・・・・地震直後の日本橋・・・・・・・・・展示されていた写真の中で、私が選んだ1枚!・・・・・・・・・・地震が発生した直後、多くの人が表通りに出て避難した時の写真(左側のビルが三越)。 まだ火災も発生していないので、緊張感は出ていないが、この後悲惨な状況となっていく、、、、、
・・・・・・・・・・・・・・柳原白蓮・・・・・・・・・・只今放送中の、NHKの朝ドラ「花子とアン」の中で、仲間由紀恵が演じる葉山蓮子のモデルとなっている柳原白蓮が、復興記念館に展示してあるの「大震記念」(有島生馬:作)の中央に大きく描かれている。・・・・・・・・・ 柳原白蓮(1885~1967)は大正三美人の一人で、大正10年(1921)、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻の身で、社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちし、マスコミにセンセーショナルに報じられました。 事件が鎮静化した時、関東大震災に見舞われ、駒込に避難していた白蓮は、地震の混乱が続く中、着の身着のまま歩いて北豊島で結核に臥せっている龍介のもとへ辿り着いた。 絵は、この時の白蓮と、当時の名士を描いている。・・・・・・・・・ 残念だが、私がお会いした人は一人もなく、真実は?
●・・・・・・・・・・・・・・・・・記念館には貴重な資料が多く展示されており、ぜひ一見を!
●・・・・・・・・・・・・・・・・・蛇足ですが、写真、絵は許可を得て撮っています。