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2014年12月

2014年12月31日 (水)

大晦日の浅草

毎年、大晦日には、年越し蕎麦を食べ、恙無く一年を過ごしたお礼に、浅草寺に参拝していた。 ところがドッコイ、今年は“恙無い”どころではなく、春に初孫も授かりニコニコ顔でスタートしたが、夏には天国(地獄かも?)への招待券を受け取ったような大病に罹り、“九死に一生を得た”年となった。 こんな年は“お礼参り”ではなかろうと思ったが、ジッと堪えて、天国へ行かずに済んだだけでも良かったと思い浅草寺に参拝してきた。 浅草寺の巨大な賽銭箱の前で、「来年は間違いなくいい年にしろ!」と、小さな声で叫んで手を合わせてきた。  今年最後の散歩です。

●まずは蕎麦屋で・・・・・・・・・天ざるを食し、来年は「細く、長く、ピチピチ跳ねて」元気になるぞ!

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●腹ごしらえが済めば、仲見世をブラブラ・・・・・・・・・・・こうして家族と仲見世を歩けるのは、「手術をしてくれた病院の先生のおかげ!」と思いつつ、若い看護婦さんの顔が目に浮かんだ!

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●浅草寺の境内・・・・・・・・・・初詣のテレビ中継があるらしく、映りが良いように、強烈にライトアップしていた。

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●今年の〆は・・・・・・・・・・・クリームあんみつ! 2ヶ月前まで入院していた病人とは思えない食欲に、我ながら満足! よく食べるね!
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●来年もよろしく!・・・・・・・・・・来る年も、私の散歩コースとして「浅草」は欠かせない存在だ! 大正ロマン、昭和レトロの匂いを残し、平成の色気が程よく混ざりあった町。

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2014年12月30日 (火)

総武線隅田川橋梁~隅田川大橋

いよいよ今年も、あと一日を残す運命! 帰省先のない私は東京に残るだけ、年末の静かな都会は散歩するには歩きやすいが、見るものもなくチョイとつまらない。

今日は隅田川橋梁めぐりの続きで、30番目のJRの総武線隅田川橋梁から、35番目の隅田川大橋まで、1万3千歩、10㎞の散歩です。・・・・・・・今日の散歩コースの橋は、『雅万歩』でたびたび登場するため、コメントは簡単に!


①銀杏岡八幡神社
・・・・・・・・・・我が家の氏神様。 散歩の前に、火除けの御札、夏越の大祓いでチョウダイした守護札など、神様の関連グッズを神社に返却してから行くことにした。   神社の創建年代は不詳。 源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当神社を創建したらしい。 ところで、江戸時代に入り、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となった。 享保10年(1725)には、公収され町内(福井町)の産土神となったといいます。 私の戸籍上の出生地は、「浅草区福井町10番地」なり、チョイと歴史を感じるね!

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②石塚稲荷神社
・・・・・・・・・・・隅田川沿いに祀られている石塚稲荷神社。 創建年代不詳であるが、元禄元年(1688)、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したらしい。 神社のある川沿いには、柳橋袂から上流に向かい、「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」「卯の木」「深川亭」「二葉」「鶴の家」、、、、、と料亭が続いていた。 神社は、料亭街の中程にあり、近くには見番・銭湯もあった。 現在残っているのは神社だけだ、芸妓のいない柳橋 は、“クリープのないコーヒー”みたい!・・・・・・・・神社には、注連縄、門松が飾られていた。 花柳界として賑やかなりし頃を思い出すと、これまた、寂しいね!

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総武線隅田川橋梁
・・・・・・・・・昭和7年(1932)に竣工した、3径間ゲルバー下路式ランガー桁の鉄道橋。 設計は元土木学会会長であり、東京大学教授の田中豊(昭和39年逝去)です。 隅田川上流から30番目の橋梁。

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両国橋
・・・・・・・・・・・・・・31番目は、御存じ「両国橋」。 3径間ゲルバー式(連続桁橋の中間部分に適当なヒンジを設け、中央の桁を両側の桁が片持ち形式にて支える構造)の橋、橋長約165m、昭和5年(1930)に着工し、昭和7年(1932)に竣工した。 下部工の施工は間組。

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⑤首都高6号線両国大橋
・・・・・・・・・・・中央区の箱崎JCTから伸びてきた6号線は、浜町公園から隅田川を越えて、対岸の墨田区:竪川水門の頭上で、向島方面に向かう6号線と小松川方面に向かう7号線に分岐する。 この隅田川を越える部分が両国大橋である。・・・・・・・・・・昭和44年(1969)に完成したした、橋長約330mの橋で、複雑な線形の構造と特殊な吊り構造の設計により、昭和44年度の土木学会田中賞(土木学会が定めた優れた橋梁に贈られる賞)を受賞している。 施工は石川島播磨重工業・日本橋梁・大林組による。・・・・・・・・・遠くから見ると、景観を壊す邪魔な橋梁。近くで見ると、複雑な線形と武骨な鉄の塊で、凄い橋梁。

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・・・・・・・・・・・・左岸(墨田区側)の分岐部分の竪川水門・・・・・・・・・昭和35年(1960)に隅田川・竪川の合流点にできた、周辺流域を高潮から守るための水門。 水門の頭上を7号線が走る。

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⑥江島杉山神社
・・・・・・・・・・・竪川水門に近い「一の橋」を渡った脇に、盲目の鍼灸師杉山検校(1610~1694)を祀った杉山神社と、彼が修業した江の島の弁財天を祀った江島神社を、合祀して江島杉山神社となった。・・・・・・・“杉山和一は江ノ島の弁財天の岩屋にこもり鍼術を授かった。その後、検校(盲官の最高位)となり、神社のある本所の地にて鍼術を指導した。” と、説明書きがありました。 神社の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟がり、中には杉山和一の像が祀られている。

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新大橋
・・・・・・・・・・上流から数えて33番目の橋。 現在の橋は、2径間連続斜張橋、橋長は約170m、昭和52年(1977)に竣工した。 

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⑧芭蕉稲荷神社
・・・・・・・・・・芭蕉庵は、没後、武家屋敷となり幕末・明治期には滅失してしまった。 大正6年(1917)の津波来襲の後、芭蕉が愛好した石造の蛙がこの地から発見され、ここに芭蕉庵があったと言われている。 この跡地に地元の人々により、芭蕉稲荷神社が創建された。、、、、、、芭蕉の時代のものは蛙の置物しか残ってないようで、神社と言っても祠(ホコラ)のようである。

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清洲橋
・・・・・・・・・・34番目の橋。 昭和3年(1928)に竣工した、日本で唯一の自碇式チェーン吊り橋で、モデルはドイツケルンのヒンデンブルグ橋(現在の橋は架け替えられたもの)と言われている。 平成19年(2007)に、勝鬨橋、永代橋、清洲橋の3橋が国の重要文化財となった。 文化財になるくらい、女性的で、綺麗だ!

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⑩隅田川大橋
・・・・・・・・・・・本日の隅田川橋梁めぐりの最後は、35番目の隅田川大橋。 首都高速道路公団が工事主体となり架けた、二層式の武骨で邪魔な橋である。 箱崎JCTから出てきた首都高9号深川線が上層を通り、下層には水天宮通りが通り、地下には東京メトロ半蔵門線が通っている。 昭和54年(1979)完成。 隅田川の景観をぶち壊すこの橋を、私はぶち壊したいね!

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2014年12月28日 (日)

池袋~十条

池袋駅から十条駅まで、埼京線沿いに歩いてきた。 1万1千歩、8km


①池袋駅
・・・・・・・・・・JR(山手線、埼京線、湘南新宿ライン)、東京メトロ(丸ノ内線、有楽町線、副都心線)、西武鉄道(池袋線)、東武鉄道(東上線)の、4社8線が乗り入れる、ご存じ、巨大ターミナル。 全乗降客数は一日あたり258万人、年間9億5000万人。・・・・・・・・明治36年(1903)の駅開業時は、“池袋村”に設置された農村の駅で、周囲にはキャバクラ、ストリップ、風俗店などは一切無く、いたって健全な駅であった。 でも、楽しくない人もいたと思うよ!

・・・・・・・・・・・・・今日は、通勤客も少なく、ホームはガラガラ、電車もガラガラ、、、、、駅前もガラガラ。 

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・・・・・・・・・・・・・・・開業時(明治時代)の池袋駅。 今は信じられない、駅前で大根でも収穫できそうな駅だった。

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②豊島区役所
・・・・・・・・・・・昭和36年(1961)に完成した現庁舎は、総工費4億3289万円 総面積13000㎡ 地下1階地上4階の鉄筋コンクリート造で、完成当時は千代田、文京と並ぶ都内最大級の総合庁舎だった。 しかし、現在は老朽化と手狭となり、平成27年(2015)5月7日の新庁舎移転を目指し、現在、南池袋に建設中である。 現庁舎は、平成27年5月1日(金)17時15分をもって閉庁となる。・・・・・・・・・・新庁舎は地上49階建ての超高層ビルで、庁舎は1階から9階まで、11階以上は住宅。 施工は大成建設。 

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③埼京線
・・・・・・・・・・池袋駅の北側で、川越街道跨線橋から埼京線赤羽方を眺める。 写真中央は埼京線。 その右側に山手線の池袋検車区。左側2線は東武東上線。

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④北池袋駅・・・・・・・・・・・東武東上線で、池袋の次の駅。 隣に併走するJR埼京線の池袋~板橋間に位置する。 池袋を出た東武東上線は、当駅を過ぎるとJRと離れ、北西にカーブし下板橋駅に向かう。 昭和20年(1945)には空襲で被災し休止する。 昭和26年(1951)北池袋駅として営業を再開する。

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・・・・・・・・・・・・・・駅前のこちらの踏切は、「あかずの踏切」として有名らしい。 なにせ、写真手前の東上線だけでなく、隣(写真奥)の埼京線の踏切と一体で、踏切の警報音がたえず鳴っている。 ご近所迷惑な踏切だ!

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板橋駅
・・・・・・・・・明治18年(1885)、日本鉄道の駅として開業、池袋駅よりも古い老舗の駅だ。 

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⑥埼京線
・・・・・・・・・・・板橋駅を過ぎ、北区十条台では切通しを通過する。

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⑦東京家政大学
・・・・・・・・・明治14年(1881)、創立者:渡辺辰五郎は「女性に技を身につけ、その技を通して社会的自立を計り、時代の動向を見通していく創造性に富む女性を育てる」ことを目的として裁縫私塾「和洋裁縫伝習所」を本郷に開設した。 明治25年(1892)には、「東京裁縫女学校」と改称。 さらに、昭和に入ると「渡辺女学校」に改称、昭和21年(1946)に東京大空襲で校舎を焼失し、新校地(現:板橋校舎)へ移転した。 昭和24年(1949)には「東京家政大学」と再び改称した。・・・・・・・・・女子に学問は不要と言われていた明治時代に、女子の教育の場を創った渡辺君は偉い! 親しみを感じるね。・・・・・・・・ただし、女学校は散歩で構内には入りにくいところで、カメラを持った助平爺は、守衛さんに必ずマークされる。 今日は年末で学校も休み、守衛さんも怖そうなので、パスすることにした。

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十条駅・・・・・・・・・・明治38年(1905)、日本鉄道の十条駅として開業。 最初は貨物駅として開業し、東京砲兵工廠に発着する貨物を取り扱っていた。 明治43年(1910)には、旅客営業の十条駅が開業した。 駅の改札は、駅前ロータリーのある北口(表玄関)と、路地裏の南口(勝手口)がある。 本日は勝手口から入場することにした。

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2014年12月25日 (木)

銀座並木通り

銀座教会で開かれている、「Christmas Art 2015」を鑑賞して、ついでに並木通りを1丁目から8丁目まで歩いてきた。 8千歩、6㎞。

銀座並木通り・・・・・・・・・並木通りは、銀座通り(中央通り)と西銀座通り(外堀通りの)の中間を、両通りに並行して銀座1丁目から銀座8丁目まで伸びている通り。 表の銀座通りに次ぐ100年余の歴史のある裏通りだ。


●並木通り1丁目~4丁目
・・・・・・・・・プランタン銀座の裏側で、買い物がてらの若い女性が多い、明るく活発な街。

・・・・・・・・・・・・・まずは銀座1丁目、並木通りはここから始まる。

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・・・・・・・・・・・・・オシャレな店の明りが灯る

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・・・・・・・・・・・・・・こちらは「MIKIMOTO Ginza2」。 挙式前のカップル、御用達の店。

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・・・・・・・・・・・・・・海外からの観光旅行? おそらく新婚旅行。

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・・・・・・・・・・・・・・道路を跨ぐのはプランタン銀座の連絡橋。

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・・・・・・・・・・・・・太いパイプが走るビルの裏

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・・・・・・・・・・・・・・足の長い若者はカッコいいね。 後姿も決まってる!

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●銀座教会・・・・・・・・・・・メソジスト教会として、明治23年(1890)に銀座4丁目(今のプランタン横)に誕生した。 現建物は昭和57年(1982)に建替えられた。 以前の教会は4階建てで、角が玄関となっており、さらにその真上の屋上には鐘が吊るされていた(現在は保存されている)。 近くに建築学会の建物があり、資料や図書を買いによく来たものだ。 昭和初期頃の建物だったと思う。思い出すな~~。

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・・・・・・・・・・・・・・教会の1階で、キリスト教の関係者が描いた作品による、“公現日にちなむ絵画展 「Christmas Art 2015」 ”をチョイと拝見してきた。 

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●西銀座デパート
・・・・・・・・東京五輪を迎えるため、日本で最初の高速道路が外堀通り沿いにできた。 その道路下のビルを活用して、昭和33年(1958)、西銀座デパートが開業した。・・・・・・・・私には、“三愛の水着売り場”、“フランク永井”、“歌:西銀座駅前”、“SOGO銀座店”、“Jazzバー:スイング”などを思い出させる学生時代の拠点の一つ。

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●並木通り5丁目~8丁目
・・・・・・・・・5丁目寄りは海外ブランド、若者向け飲食店が多く、8丁目寄りは、高級料理店、バーなどが並ぶ、大人の夜の街。

・・・・・・・・・・・・・5丁目寄りだが、思ったより静かだ。 若者よ!クリスマスの日は、二人でデートして、思い出を作ってくれ!

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・・・・・・・・・・・・・・この辺りから、チョイト雰囲気が変わるね!

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・・・・・・・・・・・・・あの有名な“まる源”のビルもある。

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・・・・・・・・・・・・・並木通りの8丁目寄りの終点。 

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2014年12月24日 (水)

神田明神・湯島天神

クリスマス・イブで、のんびりしたいところだが、そうは問屋が卸さない。 我が家は、そろそろ正月の準備で、出がけに『散歩に行ったら、帰り松坂屋で「御年賀」を買ってきて!』の一言。 『あいよ!』の一言で返す。・・・・・・・・今日の散歩は、我が家(浅草橋)から神田明神、妻恋神社、湯島天神と、初詣での受け入れ態勢を視察してまわり、松坂屋で終わる。 1万1千歩、8km。

カトリック浅草教会 ・・・・・・・・・・今宵は静かに、降誕祭のミサが行われるでしょう。 早朝の教会は、まだ明りも消えたまま。 現在の教会は、平成元年(1989)頃に建て替えられたもので、建物は台東区建築景観賞を受賞した。 小さいながらも周囲に緑を配し落ち着いた雰囲気を感じさせる。・・・・・・・私の幼き頃、我が家に近いこの教会には、広い敷地に“パウロ幼稚園”が併設されていた。 同級生の3割程は、この幼稚園の卒園者だった。 園児であった友達同士が、楽しそうに話しているのを見て、子供ながら私もこの幼稚園に行きたかった!

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②増子事務所
・・・・・・・・・・・・台東1丁目の旧法務局前に建つ、木造モルタル系の看板建築。 外壁に飾りが少なく地味な建物である。 私の記憶では戦前の建物である。

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③私の育った町・・・・・・・・・・・・現在の外神田4丁目、その昔は神田松富町。 末広町交差点の南東側の一角である。 さらに言うと、かつての神田青果市場の北側。 ここには私の祖父母が住み、小学生になるまでは、日中はここ、夜は現在の浅草橋で育ってきた。・・・・・・・・・・戦後の数年間、遊んだ裏通りの町並みは、だいぶ変化したが、祖父母の家の前にあった、旅館、質屋の建物は当時のまま残っている。 懐かしい一角だ!

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④千代田区立外神田住宅
・・・・・・・・・・神田明神下に建つ、昭和46年(1971)に建てられた、地上7階建て、鉄筋コンクリート造の区営住宅である。 この建物は、築後40年以上経過し劣化してきたようだ。 “区営住宅”でもあり、そろそろ耐震補強工事をするか、取り壊して新たに何か造るか? 考え時ですね!

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⑤神田明神・・・・・・・・・新年を迎える準備はよろしきや? 神田明神・妻恋神社・湯島天神の3社を歩いてきた。 まずは、神田明神、、、、、

・・・・・・・・・・・・・病み上がりにはチョイとつらい明神男坂の階段を上る

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・・・・・・・・・・・・・社殿は掃除も終わり、飾り付けも終わったようだ、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・境内脇の小唄塚・小唄作詞塚・・・・・・・・・神田明神の祭礼(神田祭)は江戸っ子自慢で、小唄の中に多く取り入れられ、“粋”と“いなせ”の象徴である。 この情景を小唄の作曲に取り込んだ大正・昭和の吉田草紙庵(本名:吉田金太郎)を顕彰し、昭和31年(1956)に小唄塚が建立された。 その後昭和62年(1987)に、小唄塚の隣りに、小唄作詞塚が建立され、曲と詩の両方を顕彰するようになった。・・・・・・・いまどき、小唄をやる人も少なくなり、、、、、若い人は、“小唄” って何?、、、、、チョイと悲しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・天野屋・・・・・・・・・・・ご存じ、明神様の鳥居脇の甘酒:天野屋。 建物の地下には、非公開の糀室があり、ここで糀を熟成させは、「明神甘酒」として提供してくれる天然の甘味である。 甘酒以外にも、神田明神名物「芝崎納豆」、「江戸味噌」なども扱っている。

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⑥妻恋神社・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・神田明神から湯島天神に向かう清水坂、、、、、、歩道に出ている石柱?、、、、、明暦3年(1657)の大火で、この地一帯の所有者であった霊山寺が浅草へ移転した。その跡地の一角を旗本:島田弾正が屋敷とした。 その後明治時代に、敷地は清水精機会社の所有となった。 会社は大正時代に、湯島天神へ行く人のために、土地の一部を提供して、坂道を整備した。 この徳をたたえるため「清水坂」と命名し、石柱を建てた。 その石柱が今も残っている。

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・・・・・・・・・・・・・・・石柱の先を右に折れると、正面、右隣にラブホテルがある妻恋神社。 清水坂の上は、ラブホテルが並ぶ、縁結びのメッカかな? 創建年代不詳。 社殿は鉄筋コンクリート造。 門松・注連縄も用意され、正月を待つばかり。

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⑦湯島天神・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・受験シーズンを向かえ、これから商売繁盛の天神様。 境内の屋台は準備OK、早いね!

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・・・・・・・・・・・・・おや? こちらには「小唄顕彰碑」。 湯島も小唄には縁ある地で、昭和34年(1959)に建立された、小唄功労者の顕彰を記念した碑、粋な計らいだ。・・・・・・・・東京音頭を歌う小唄勝太郎も顕彰されたのかな?

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・・・・・・・・・・・・・湯島と言えば、「湯島の白梅」。 この歌詞中に、“♪♪ 青い瓦斯燈 境内を 出れば本郷 ~~♪♪”と歌われている。 湯島天神境内のガス灯は5基あったそうだ、いっときすべて無くなった。 昭和56年(1981)に、東京ガスの協力をえて、1基のガス灯が設置された。・・・・・・・ガス灯の下で、忍び逢う男女の恋。 いいね、今から実践できるものなら、やってみたいね!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・このあとは、上野松坂屋 でお買い物、、、、、

2014年12月22日 (月)

駒形橋~蔵前専用橋

例年、暮れになると浅草へ行く用事が増え、今日も浅草へ行った帰り、隅田川の橋梁めぐり、上流から26番目の駒形橋、次は厩橋、その次は蔵前橋(28番目)と蔵前専用橋(29番目)とまわってきた。 8千歩、6㎞。


①チョイと、浅草寺へ
・・・・・・・・・浅草へきて、浅草寺に寄らずば失礼だ!

・・・・・・・・・・・・・・アーケード・ギャラリー・・・・・・・・・新仲見世アーケード上の往年スターの写真を見上げながら、今日も買い物を済ませた。 大原麗子、美人だね、ファンだった。 酒井和歌子、かわいかったね。 加山雄三、映画もいいが、歌もいいね。、、、、、、上を見て歩いてると、またまた店の前を通り過ぎるところだ!

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・・・・・・・・・・・・・境内でパチリ!・・・・・・・・・フランス人風の熟年夫婦、カッコいいね!・・・・・・・・台湾系のお姉ちゃん、元気よさそうだ!

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・・・・・・・・・・・・・・本堂で手を合わせ、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・影向堂・・・・・・・・本堂の左隣にある影向堂(ようごうどう)。 影向堂とは、観音さまの説法や活躍に不断に協力されている仏さまを「影向衆(ようごうしゅう)」と呼び、これらの仏さまを祀る堂。 平成6年(1994)、浅草寺中興開山慈覚大師円仁の生誕1200年を記念して建立された。 堂は、鉄筋コンクリート寄棟造り、錣(しころ)屋根本瓦葺で、内陣須弥壇中央に聖観世音菩薩、その左右に生れ年(干支)ごとの守り本尊八躰が祀られている。 堂の隅には、浅草七福神の一つ大黒天も祀られている。・・・・・・・・今年の午年の守り本尊は勢至菩薩、来年の未年は大日如来だ。 私の戌年は阿弥陀如来である。 

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・・・・・・・・・・・・・六角堂・・・・・・・・・・影向堂の隣りに建つ、木造単層六角型の小さな堂である。 室町時代(16世紀頃)の建立は、都内最古である。 本尊は日限(ひぎり)地蔵尊で、日数を決めて祈るとその願いが叶うとされる。・・・・・・・・・・六角形が面白いのか、ときおり、外人が興味を示している。

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・・・・・・・・・・・・淡島堂・・・・・・・・・・・・元禄年間(1688~1704)に紀州加太の淡島明神を勧請してお堂が建立された。 現在の淡島堂は、平成6年(1994)、戦後の仮本堂であった旧影向堂を、曳家作業により移築・改修したもの。

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②駒形橋
・・・・・・・・・・・・震災復興橋とした、優美なアーチ橋が架けられた。 中央径間は中路式ソリッドリブタイドアーチ橋、端部の径間は上路式ソリッドリブアーチ橋で、昭和2年(1927)に竣工、総工費は、約171万円。 (駒形橋、厩橋、蔵前橋の詳細はコチラ

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・・・・・・・・・・・・・・駒形橋から吾妻橋を望む

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③厩橋
・・・・・・・・・・・・こちらも震災復興橋で、3径間下路式タイドアーチ橋、昭和4年(1929)完成。 薄暗くなり、親柱のステンドグラスには明りが灯った。

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④蔵前橋
・・・・・・・・・・・・またまた震災復興橋。 総工費約175万円で造られた、3径間連続上路式ソリッドリブアーチ橋で、昭和2年(1927)完成。

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・・・・・・・・・・・・・・・蔵前橋から上流(厩橋方向)を眺める

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⑤蔵前専用橋・・・・・・・・・・・蔵前橋の下流側に並行して架かる蔵前専用橋。 NTT東日本蔵前通信ビル(台東区)と対岸(墨田区)を結ぶ、日本で初めての洞道(通信線トンネル)専用橋で、水道橋も兼ねている。 もちろん、人は通れない。 昭和43年(1968)に完成した、 3径間連続鋼箱桁橋。

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●・・・・・・・・・・・・今日は冬至、日の落ちるのも早く、我が家の近く蔵前交差点は夕暮れだ。

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●・・・・・・・・・・・・我が家では、風邪をひかない、中風にならない、しもやけにならないと言われている「小豆かぼちゃ」、 またの名を「いとこ煮」「冬至かぼちゃ」が食卓に、、、、これぞ、冬至の味です。

●・・・・・・・・・・・・湯ぶねには、ぽっかり浮いた柚子の実が2個、つい手に取って、、、、「柚子二つ 湯ぶねの中で 揉んでいた」

2014年12月20日 (土)

豊洲~木場

地下鉄有楽町線の豊洲駅から、豊洲4丁目、枝川、塩浜を抜け、地下鉄東西線の木場まで、裏通りの散歩です。 万歩計にトラブルがあり歩数計測できず。


豊洲駅
・・・・・・・・・・・・豊洲は地下に地下鉄有楽町線、地上にゆりかもめが走り、乗換駅となっている。 朝のラッシュ時はサラリーマン、学生の多い駅も、土曜日は人の波も少なく、歩きやすい!

・・・・・・・・・・・・・・地下鉄豊洲駅

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・・・・・・・・・・・・・・ゆりかもめ豊洲駅

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②豊洲四丁目アパート
・・・・・・・・・豊洲駅前交差点の裏に広がる、総戸数537戸(13棟)の都営団地である。 この団地が建てられた昭和42年(1967)~昭和46年(1971)頃は、有楽町線、ゆりかもめとも開通しておらず、石川島播磨重工業の社宅のようなものであった。 もちろん、今のように、周辺の高層ビル、大型店舗はなく、団地内1階の店舗、近隣の商店などが利用されていた。 今は寂しいもので、これらの店舗はシャッターを下してしまった。 4丁目の一角は、いずれ再開発されるであろう、、、、、それまでは高度成長期の団地の佇まいを体感できそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・団地内に残る小さな祠に入った深川薬師。 戦後に、近くの建設会社が再建寄進したようだ。 今どきのマンションでは、このような光景を見ることはできないね!、、、、、、祀って、手を合わせる人がいるまでは、人情はすたれないね!

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③埋立地
・・・・・・・・・豊洲・東雲・有明、、、、この辺りは埋め立て地であり、周囲は運河が取り巻いている。 2020年のオリンピックに向け大きく変化する地域で、“乞うご期待”。

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④枝川1丁目・・・・・・・・・・・・・町の4分の1は朝鮮人地区である。 昭和16年(1941)、深川に不法居住していた朝鮮人約1000人を、この地にバラックを建設し、移住させた。 これによりコリア・タウンが形成された。 戦後になると、昭和23年(1948)に月島署管内で集団強盗事件が発生し容疑者2名が逮捕されたが、主犯格1名が逃亡し、枝川のこの地に潜伏した。 その主犯格を捕えるため、3名の警官が出向き発砲し取り押さえた。 しかし、それを見ていた約40名の朝鮮人が暴徒化し、約10日間に及ぶ騒ぎとなった。(枝川事件と呼ぶ)、、、、、、現在は、町の一角に新しい「東京朝鮮第二初級学校」があり、その東側に漢字一文字の姓の住宅が並んでいる。 一見しただけではコリア・タウンとは見えず、極普通の住宅である。 

・・・・・・・・・・・・・朝鮮第二初級学校・・・・・・・・全生徒数は約50名程で、日本の小学校に相当する児童が学んでいる。 こじんまりとした学校である。

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・・・・・・・・・・・・・・コリア・タウン・・・・・・・・小学校の東側に並ぶ住宅。

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⑤竹中商店
・・・・・・・・・・・・コリア・タウンと運河を隔て隣の枝川2丁目に、昔ながらの駄菓子屋「竹中商店」がある。 戦後、老夫婦で営業し、50年程たったそうだ。 駄菓子屋の老舗だね。・・・・・・・・この建物、正面脇の1階の窓を見るとチョイと古そうだ、昭和初期の建物かな? 2階正面の3つの窓も、1階の窓と同じデザインであったと想像でき、洋館風の建物であったようだ。 

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⑥しおかぜ橋
・・・・・・・・・・・・枝川3丁目と塩浜2丁目の間を流れる汐見運河に架かる人道専用橋。 橋長は464mと長く、斜張橋、アーチ橋など多彩な形式による設計で、平成10年(1998)に架けられた。・・・・・・・・・アーチ橋の下には、越中島貨駅線 のレールが100m程伸びて車止めとなる。

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・・・・・・・・・・・・・アーチ橋の上から、東側を見ると東京駅から地下で走ってきた京葉線の地上への出口。

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・・・・・・・・・・・・・西側を見ると、越中島貨物線の車止めが見える。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・ここいらで、天からポツリポツリと雨粒が落ちてきた、、、、、、傘は持ってない、急ぎ、帰宅した。 

2014年12月18日 (木)

羽子板市

師走の17日~19日に、浅草寺境内で開かれる羽子板市は、歳の最後の「市」で、「歳の市」と呼ばれている。 江戸時代より「市」では、一般に日常品が商われていたが、「歳の市」では新年を迎える生活用品として、羽子板も売られるようになった。 そして、戦後の昭和25年(1950)頃には「羽子板市」の名で、浅草の歳末の風物詩として定着した。 ちなみ羽子板市で売られている押絵羽子板は、文化・文政年間(1804~1829)頃から始まり、江戸時代末期には歌舞伎の人気役者が画題となるようになった。 

今年は大病を患い、いまだ一部、手術の影響が残っているが、年中行事でもあり、行かないと観音様の罰が当たると思い、寒い冬空の下、チョックラ散歩を兼ね羽子板市を覗いてきた。 7千歩、5㎞。

●・・・・・・・・・・・・まもなく冬至、日の落ちるのも早くなり、薄暗くなってきた雷門

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●・・・・・・・・・・・・仲見世は正月を迎える飾りつけでお出迎え。

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●・・・・・・・・・・・“二人で観光ですか? ついでに、恋人同士ですか?” 聞きたくなるね。

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●・・・・・・・・・・・仁王門(宝蔵門)をくぐると、五重塔の前で羽子板市が開かれている。

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●・・・・・・・・・・オー! 金髪の和服美人!、、、、、私の悪い癖、“美人を見ると、足が止まる”

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●・・・・・・・・・・・羽子板市です。 爆弾低気圧に襲われた日本列島、冷たい風が吹き付ける中で、チョイと寒いが商売!商売!  

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●・・・・・・・・・・・・アンパンマン、アナと雪の女王、、、現代版の羽子板だ!

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●・・・・・・・・・・・・凧を売る店、羽根を売る店もある。

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●・・・・・・・・・・・・外人さんとも笑顔でコミュニケーション。

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●・・・・・・・・・・・そうだ、忘れるところだった、手を合わせていこう!

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●・・・・・・・・・・本堂脇から二つの塔を撮影。

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●・・・・・・・・・・・新仲見世で買い物をして帰ることに! アーケードの上には、往年の歌謡界のスターがお出迎え、、、、逝った歌手もいる、御無沙汰の歌手もいる、好きだった歌手もいる、歌を思い出せない歌手もいる、懐かしい~~、、、、、、伊藤咲子、あいざき進也、朝丘めぐみ、青山和子、三田明、中曽根美樹、岡本敦郎、春日八郎、曽根史郎などなど、上を見ながら、歌を思い出しては、手術でかすれた声で口ずさみ、ブラブラと、、、、、買い物すべき店の前も通り過ぎ、逆戻り。 

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2014年12月15日 (月)

新井薬師

中野の病院で眼科の検診を受け、その足で新井薬師へ、さらに中野区上高田の裏通りをぶらついて東中野駅へ、1万歩、8kmの散歩です。

新井天神北野神社・・・・・・・創建年代は天正年間(1573-1593)以前と言われている古い神社。 祭神は、天神様の菅原道真公。 新井薬師に行く前に、チョイと参拝。

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②新井薬師・・・・・・・・・正式には、新井山梅照院薬王寺と称し、真言宗豊山派の寺院。 西武新宿線の新井薬師前が最寄駅である。 天正4年(1586)に開山された。 本尊は、弘法大師が彫ったと言われている薬師如来と如意輪観音像。 秘仏とされており、12年に一度、寅年のみに御開帳される。 眼の治癒にご利益があるそうだ、私も白内障にならないように予防として病院に通っているので、しっかり手を合わせてきた。・・・・・・・・・堂宇は、元禄、明和、明治の各期に度々焼失した。 昭和20年(1945)の空襲でも、本堂・太子堂・庫裏などすべて焼失した。 しかし本尊は、火災のたびに無事救出されている。 現在は本堂・庫裏などが復興・整備されている。  建築史的には、見るべき価値ある建物は無いと、私は思っている!(言い過ぎたかな?)

・・・・・・・・・・・・・・山門をくぐると、正面に本堂がある。

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・・・・・・・・・・・・・山門の右には、不動堂と水掛けのねがい地蔵が祀られている。

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・・・・・・・・・・・・・山門の左手には鉄筋コンクリート造の薬師霊堂がる。

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③吉田理髪店
・・・・・・・・・・上高田2丁目の裏道で遭遇した、トタン貼り山型屋根部分にしっかり読める『吉田理髪店』の文字。 戦前の建物に間違いなかろう、商売をやめてからも、相当の時間が経過したようだ! 

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④万昌院功運寺・・・・・・・・・・・・上高田4丁目の大きな寺で、元々は萬昌院という寺と功運寺という別々の寺が、昭和23年(1948)に合併してできた。 元の万昌院は、江戸時代、新宿区市ヶ谷付近にあり、忠臣蔵の吉良家の菩提寺。 元の功運寺は、港区三田のあたりにあった寺。・・・・・・・・・寺には付属の幼稚園があり、境内が遊び場となっており、不審人物が立ち入らないように、山門の前に女性警備員が立っている。 昨日は討ち入りの日であったので、寺の前を通ったのも、“何かの縁”と思い、勇気を出して女性警備員に『吉良様の墓所を拝見させて下さい』と言ってみた。 結果はOK! ただし、写真撮影はダメと言われ、さらに名前を書かされた。 厳重な警備でした。 この寺には、吉良上野介、水野重郎左衛門、林芙美子などの墓がある。 吉良上野介の墓には、昨日弔いがあったようで、花が供えられていた。

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2014年12月13日 (土)

言問橋~吾妻橋

隅田川橋梁をめぐる散歩。 今日は上流から数えて、23番目の言問橋、24番目の東武伊勢崎線隅田川橋梁、25番目の吾妻橋を歩いた。 最後は、観音様で手を合わせ、新仲見世のお店で買い物をして帰宅。 1万歩、8km。


①言問橋
・・・・・・・・・・・・橋長約239mの三径間ゲルバー鈑桁橋で、大正14年(1925)に着工し昭和3年(1928)に竣工した震災復興橋である。・・・・・・・・・言問橋の名の由来は、在原業平が隅田川で詠んだ、『名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』に因んでいる。 しかし、この歌の“言問”と称する地名は実在せず、歌にちなむ場所は白鬚橋近くでもある。 命名の真相は、、、、、明治4年(1971)に創業した近くの団子屋の主人が、団子の販売に際し、隅田川にちなむ在原業平の歌から「言問団子」と命名し、人気の店となった。 この店の近くに架けた橋なので「言問橋」となった。 つまり、団子の名から命名した橋である。、、、、、ほんとかな?

・・・・・・・・・・・・・・陽を背にしたスカイツリーが、隅田川を見下ろす

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・・・・・・・・・・・・・両岸の隅田公園を結ぶ言問橋

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・・・・・・・・・・・・・墨田区側の取り付け部分。 橋の下には歩行者専用道があり通り抜けできる。 その隣には橋上とつなぐ階段があり、コンクリート製の支柱に鉄パイプの手すりが、昭和の匂いを残している。 チョイと、一昔前であったら、「君の名は」風に、この階段辺りで、私と松原智恵子似の美人が演じる、別れのシーン、再会のシーンがピッタシなのだが、、、、、、(夢)

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②牛嶋神社・・・・・・・・・・・・牛嶋神社は、貞観年間(859-79)に建立された。 かつては牛御前社と称して、本所総鎮守として崇敬を集め、明治時代には郷社に列格していた。 氏子は墨田区のほぼ南半分が該当する広い地域である。・・・・・・・・・昭和7年(1932)、関東大震災後の隅田公園の建設にともない、桜橋近くの隅田川東岸にあった神社を、現在地に移した。 昭和20年(1945)の東京大空襲により神楽殿は焼けたが、昭和7年の移転時に建てられた総檜権現作りの荘厳にして風格のある社殿をはじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事であった。

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・・・・・・・・・・・・・・神輿庫・・・・・・・・・・・・こちらも昭和7年築か?

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・・・・・・・・・・・・・撫牛・・・・・・・・身体の悪い部分と同じ部分を撫でると、身も心も治るといわれているありがたい牛。 文政8年(1825)に奉納された。 私の悪い部分は、頭が悪い、顔の造作はまあまあだが目と耳と歯が悪い、大動脈が悪い、足が腫れてる、胃は食べ過ぎか、手は癖が悪い、懐は寒い、、、、悪いところは身体全て、牛の頭から足まで撫でてきた!

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③東武伊勢崎線隅田川橋梁
・・・・・・・・・・・元土木学会会長の田中豊(1888~1964)が設計した、鉄道橋梁の傑作。  3径間複線中路カンチレバーワーレントラス橋、昭和2年(1927)着工、昭和6年(1931)竣工。 橋長166mで、隅田川を越えるが、トラス橋のトラス部分が車窓からの景観を邪魔しないように、トラスの高い部分を車窓より下げ景色を見やすくした。 また、架線柱に曲線のデザインを取り込み、これも景観に配慮したものとなっている。

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④吾妻橋・・・・・・・・・・・吾妻橋が初めて架けられたのは、安永3年(1774)のことである。 その後、いくどか架け替えられたが、明治20年(1887)、隅田川に初の鉄橋として吾妻橋が架け替えられた。 現在の橋は、昭和6年(1931)に、3スパン鋼製ヒンジアーチ橋で架けられた。 橋の右岸の「雷門」を意識したようで、朱塗りに、高覧には雷紋(ラーメンどんぶりの渦巻き)を配したデザインは、浅草らしさを感じるね。

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2014年12月12日 (金)

ときわ台

我が家を出たときは、『たまには池袋でも行ってみるか』の気分で外出。 池袋に近づくと、『たまには東上線でも乗ってみるか』の気分で乗車。 東上線に乗ると、『久しぶりにときわ台で下車してみるか』と駅前に立つ。 古い駅を見て、駅前に立つと、『歩いたことのない上板橋駅方向に向かってみるか』と歩き出す。 途中で教会を拝見し、上板橋近くの公園に、園内で板橋区の史跡案内板を見て、「高射砲陣地跡」の文字が目に入り、『よし近くにあるようだ見に行こう! 場所はどこだ?』。 これが、“間違いの素”。 地元の人に場所を尋ねても、誰も知らず、そうこうするうち、道の方角も???、、、、アレレ、出てきたところは“常盤台2丁目”、、、、、「高射砲」はあきらめて、常盤台の町歩き、下車したときわ台駅から帰宅。 1万歩、8kmの散歩。 、、、、、、 帰宅後、「高射砲陣地跡」を調べてみたら、ナント!案内板が設置されていた公園が高射砲陣地跡であった。 それらしき、碑・表示もないので、まさに『灯台下暗し』。 地元の人も、区の職員も知らないのだ!



①ときわ台駅
・・・・・・・・・・・・池袋から東武東上線で5つめの「ときわ台駅」は、昭和10年(1935)に「武蔵常盤駅」として開業した。 昭和26年(1951)に駅名を「ときわ台」に改称。 開業時からの駅舎は、青い洋瓦に白壁の瀟洒なもので、小駅としては特徴的な建築である。 東武鉄道は田園調布に並ぶ高級住宅街を目指し、駅舎にも金をかけ、開発に取り組んだ意気込みの表れであろう。 駅前はロータリーがあり、駅を中心とした放射状・同心円状の街路があるところなどは、田園調布駅と同じである。 駅前を歩く女性も、一部を除き、洗練された美人にみえた。

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②常盤台バプテスト教会・・・・・・・・・・・・ときわ台駅から西へ向かうと、建て直されて25年程経過した教会がある。 会堂ではクリスマス行事のため、讃美歌のピアノ演奏の練習が行われていた。 牧師さんは付属幼稚園の朝のお出迎えで、忙しそうだ。

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③平和公園
・・・・・・・・・上板橋駅に近い常盤台4丁目にある公園。 ここは、旧東京教育大学の寄宿舎の跡地で、板橋区が平和都市宣言をしたことに因み名称を「板橋区平和公園」とし、昭和61年(1986)に開園した。 第二次大戦中には、ここに陸軍高射砲陣地が築かれていた、今はその面影を示すものは何もなく、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願うモニュメントが、公園の片隅にあるだけだ。 陸軍高射砲陣地の跡であることぐらい、どこかに明示してほしいね!

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④常盤台高級住宅地・・・・・・・・・・大正時代後期から昭和初期にかけ、不動産会社・鉄道会社による私鉄による郊外住宅地の分譲が次々に行われた。 渋沢栄一による田園調布の開発などである。 常盤台は東武鉄道により、鉄道開通の翌年:昭和11年(1936)から2期に分け開発分譲された。 おおむね現在の常盤台1丁目と2丁目である。 分譲区画は全部で591、433の住宅地は1区画100~120坪で、坪当たり20~35円で売り出された。・・・・・・・・・町では、住宅地のイメージを守るため、無機質に壁のようにそそり立つ高層マンションなどが建たないように、平成19年(2007)「ときわ台景観ガイドライン」が制定された。 たしかに、この街には高層マンションやコンビニなどは少ない。 

・・・・・・・・・・・・・住宅地の中を同心円状に周る、開発当初から設計された散歩道「プロムナード」。 プロムナードに沿って歩くと、この街に住みたくなるね!

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・・・・・・・・・・・・・・自動車が住宅地の中を通過する機会を少なくするため、行き止まり形式で、端部には円形の植栽された転回部分「クルドサック」が造られている。

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・・・・・・・・・・・・・・常盤台の住宅・・・・・・・・分譲当初に建てられた住宅もある

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⑤帝都幼稚園・・・・・・・・・・・昭和11年、常盤台の分譲に合わせ、帝都学園女学校として開校した。 昭和21年、女学校は火災で焼失し、昭和26年廃校となる。 その後に帝都幼稚園として開園し、現在に至っている。・・・・・・・・・・黄色の門柱は、昭和30年に卒業生により寄付されたもの。 下見板貼り薄緑の建物は昭和21年の火災で焼失を免れた校舎である。 チョイト、ボロくなった建物だが、元気な園児には関係ないようだ!

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2014年12月10日 (水)

高輪台~目黒

都営浅草線高輪台駅から、白金台、上大崎をぶらついて目黒駅まで、9千歩、7㎞の散歩です。


①高輪台駅
・・・・・・・昭和43年(1968)に開業した都営浅草線の駅。 駅ホームに立つと円筒形のトンネルが上下1本ずつ、計2本のシールドトンネルで構成されていることがわかる。 ホーム中央部には、改札階に向かう階段・エスカレータなどが集約されている。・・・・・・・都営浅草線20駅の中では、最少乗降客数を誇る駅。 平成25年度は一日の乗降客数:約13000人。 

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②畠山記念館・・・・・・・・・・この記念館の前には、幾度か来たことがあるが、いずれも早朝で開館前の時刻である、今日も門は閉ざされている。 城郭を連想させる、白壁と石垣の門を撮影してまた来ることにしよう!・・・・・・・・・・“畠山”とは、荏原製作所の創業者畠山一清のことで、歌手の畠山みどりではない。  実業家:畠山一清は明治14年(1881)に金沢で生まれた。 東京帝国大学機械工学科を卒業後、大正元年(1912)に荏原製作所の前身にあたる「ゐのくち式機械事務所」というポンプの販売会社を興した。 会社はその後発展し荏原製作所となる。 畠山は茶道具を中心とした近代日本の美術コレクターとして知られ。 国宝6件を含め、1300件程のコレクションを有している。・・・・・・・・・ぜひ一度、入館したいものだ!

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③今里地蔵・・・・・・・・・・・白金台の裏道に、「元禄 今里地蔵」と記された碑のある古びたお堂がある。 堂内には、小さな地蔵様がポッンと置かれている。 元禄に建てられた地蔵様だ。・・・・・・・・・・お手頃な大きさの地蔵様は、仏像の窃盗団も多いので、くれぐれも盗まれないようにね!

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④上大崎1丁目・・・・・・・・・・高輪台駅と港区白金台の都庭園美術館の間に位置する、品川区上大崎1丁目の町には、なぜか寺が多い。 しかも、ほとんどが浄土宗の寺である。 江戸時代、この辺りは芝増上寺下屋敷があった。 さらに、江戸の7大荼毘所(だびしょ=火葬場)のひとつもあったようだ。 寺は多いが、残念ながら、歴史ある建物は戦災で焼失し残っていない。

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・・・・・・・・・・・・・光取寺・・・・・・・・・・浄土宗の光取寺は、増上寺下屋敷内子院8ヶ寺の一つ。 寛永元年(1624)に江戸の芝西久保に起立し、その後、麻布狸穴へ移転し、天和3年(1633)に現在地:上大崎へ移転した。 墓地には、幕末の名力士陣幕久五郎が眠っている。

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・・・・・・・・・・・・・清岸寺・・・・・・・・・・・寛永元年(1624)、八丁堀にて創建し、何か所か移転の後の寛文元年(1661)現在地に移転した。 ここも、増上寺下屋敷内子院8ヶ寺の一つである。 現本堂は、天保8年(1837)に再建されたもので、この辺りの寺は戦災で堂宇を焼失したが、被災を免れた寺はここだけのようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・隆崇院・・・・・・・・・・・・隆崇院(りゅうそういん)も増上寺下屋敷内子院8ヶ寺の一つで、寛文年間に創建され、寛文8年(1668)にこの上大崎村に地を賜って移転したといわれている。 現在の本堂は鉄筋コンクリート造りで昭和37年(1962)に竣工した、青瓦の屋根が特徴的で異彩を放つたたずまいを見せている。 本堂の格天井には伊東深水(女優:朝丘雪路の父)とその一門の作である絵が描かれており、中央部の「牡丹唐獅子」(写真はレプリカ)が伊東深水の筆によるもので、昭和42年(1967)に完成した。 

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・・・・・・・・・・・・・宝蔵寺・・・・・・・・・・増上寺子院の一つで、芝赤羽に開創された寺。 こちらも後に、移転してきた。 詳細は不明。

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・・・・・・・・・・・・・最上寺・・・・・・・・・・・・増上寺子院の一つで、赤坂溜池にあったが、寛文元年(1661)に現在地へ移転した。

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⑤タイ王国大使公邸
・・・・・・・・・・この建物は、ヒゲタ、キッコーマンの前身銚子醤油の社長であり、ラストエンペラーの愛新覚羅溥傑のもとに嫁いだ浩の伯父でもある実業家:十代目濱口吉右衛門(1883-1946)の邸宅として、和田順顕の設計、清水建設の施工により、昭和9年(1934)竣工した。 鉄筋コンクリート造、2階建て。 グレイの石貼りで、ゴシックスタイルの外観は、古城のような重厚な印象を与えてくれる。・・・・・・・・・・・昭和18年(1943)に当時のタイ王国大使に100万円で売られたそうだ。 今なら私でも買えるのだが、大工の一日の手間賃が3円90銭の時代の100万円!

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⑥Y邸
・・・・・・・・・・・・タイ王国大使公邸の隣に建つ建築家:山田信一郎の自邸。大正13年(1924)の建築、設計は山田信一郎自身。

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⑦JR目黒駅
・・・・・・・・・・・・・・・・明治18年(1885)、日本鉄道品川線(品川~赤羽)が開通した。 このときの開通から、半月遅れて目黒駅と目白駅が同時開業した古い駅である。 大正12年(1923)には目黒蒲田電鉄(東急目黒線)が開業し、平成12年(2000)には地下鉄南北線と三田線が乗り入れた。 駅舎は大きなビルとなったが、駅としては特徴がなく平凡な駅である。

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2014年12月 8日 (月)

小石川

水道橋駅から、後楽園遊園地の北側“小石川1丁目・2丁目”付近をぶらつき飯田橋駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

①春日町交差点・・・・・・・・・・・・・・文京シビックセンターの建つ交差点。 この交差点は、昭和30年代には、私の中高校生時代の通学経路であった。 当時は都電が縦横に通り、交差点から北に向かった指ケ谷町(現:白山)に学校があり、南の水道橋・神保町は浅草橋方面への乗換停留所である。 東に向かうと、本郷3丁目・御徒町を抜け厩橋へ、ここで乗り換えても浅草橋に着く。 つまりは、春日町を通れば、我が家に帰れる交差点だった。

・・・・・・・・・・・・・文京シビックセンター・・・・・・・・・・春日町交差点の南西の角に建つ、高さ142mの超高層ビル。 地上28階建の文京区役所本庁舎と、1800の客席を有する公会堂:シビックホールで構成される。 建物は文京公会堂の跡地に平成11年(1999)に竣工した。 総工費816億円で、現都庁の約半額のお値段である。(チョイと豪華すぎて、金の使いすぎだね!)

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・・・・・・・・・・・・・都営文京真砂アパート・・・・・・・・・・・・春日町交差点北東の角には、都営文京真砂アパートがある。 この建物は、私にとっては忘れられない建物である。 昭和44年(1969)、ゼネコンに建築技術者の卵として入社した私は、新人研修の場としてこの建物の工事現場に見学に行かされた。 その縁で、現場所長と懇意となり退職するまで世話になることとなった。・・・・・・・・・・12階建て、1階~4階までは文京区民センター、5階から上が都営住宅、昭和44年(1969)竣工。・・・・・・・・・この建物の1階には、旧東京市の時代に、現23区内に14か所の公設小売市場が開設され、その一つ真砂(まさご)市場がある。 開設後95年を経た今年、都内最後の市場として残っていた真砂市場も閉じられることとなった。

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・・・・・・・・・・・・・・まだ「真砂市場」の看板は出ているが、かつては17区画に店舗が並んでいたが、現在は2店舗だけとなった。 

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②照井医院
・・・・・・・・・・・・小石川1丁目に建つ、大正初期の歯医者さん。 正面はモルタル塗り、側面は下見板張りで、縦長の古い窓と木造のドアが、レトロな感じを演出している、かわいい建物だ。

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・・・・・・・・・・・・医院の隣りには銅板建築の佐藤紙工、こちらも古そう!

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③遠州屋・イーグル文京・・・・・・・・・・昭和3年(1928)の建築と言う話もある、古そうな銅板建築。

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④大亜堂書店
・・・・・・・・・・大正末期に創業し、昭和7年(1932)より現在の小石川2丁目こんにゃくえんま前交差点にて営業している書店。 建物は、震災後の看板建築で壁のスクラッチタイルと左書きのブリキ看板が特徴である。・・・・・・・・・ブックオフのような新しき古本屋に押され、少なくなってきた昔ながらの古本屋さんは、店主が高齢化し商売も難しくなってきたようだ。 

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⑤源覚寺
・・・・・・・・・・小石川2丁目の浄土宗の寺。 通称『こんにゃく閻魔』で知られている。 寛永元年(1624) に創建され、本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)である。 現在の本堂は昭和54年(1979)に再建された鉄筋コンクリート造で、境内正面には平成15年(2003)に再建された木造の閻魔堂がある。・・・・・・・・こんにゃく閻魔は「身代わり閻魔」として人々の信仰を集め、眼病に御利益があるそうだ。 

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⑥小石川2丁目の路地裏・・・・・・・・・・・大亜堂書店の北側から上富坂教会の前に出る、ひそやかな坂道がある。階段状の細い坂道でクルマは入れず、周囲の高層ビルから見下ろされる位置に、数軒の民家がひそりと軒を並べている。 家の前では、ベーゴマ、縄跳び、メンコなどで、ワンパクが遊んでいたと思われる。 懐かしい光景が想像される、私好みの路地だ。 いつまで続く、この景色!

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⑦日本基督教団上富坂教会
・・・・・・・・・・明治24年(1891)に文京区富坂(現:小石川2)に新教神学校が建てられ以来、教会、幼稚園などが周辺に整備されてきた。 現在の教会の建物は戦災を免れたが、関東大震災には遭遇したようで、煉瓦造りの部分もあり、かなり古そう! 平日は門も閉じられている、日曜礼拝の時などに内部を見ることができるので、一度拝見してみたいものだ!

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⑧善光寺
・・・・・・・・小石川3丁目に、慶長7年(1602)に創建された、伝通院の塔頭で、かつて縁受院と称した寺がある。 明治17年(1884)に寺は善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。 この寺の前にある坂を「善光寺坂」と呼び、この界隈には幸田露伴・徳田秋声や島木赤彦・古泉千樫ら文人、歌人が住み活躍した。 このへんも、文士村の一つかも。

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⑨澤蔵司稲荷
・・・・・・・・・・・善光寺の隣りには、澤蔵司稲荷(たくぞうすいなり)の慈眼院がある。 浄土宗の慈眼院の創建年代は不詳である。 元和6年(1620)に沢蔵司稲荷の別当を慈眼院としたのが伝通院中興開山廓山上人ということから、その頃には慈眼院が創建していたと推定できる。 なお、沢蔵司稲荷の沢蔵司は、僅か三年で浄土宗の奥義を極めたという秀才で、「澤蔵司てんぷらそばがお気に入り」と川柳に読まれた僧だった。 ・・・・・・・・・・“天ぷら蕎麦”は私も好きだが、大きな衣に小さなエビの天ぷらは、好きになれないね!

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・・・・・・・・・・・・・ムクノキ・・・・・・・・・・江戸時代にも傳通院本坊から澤蔵司稲荷へ続く参道(善光寺坂)の途中に存在していた「椋の木」が現存している。 明治20年頃、道路拡張工事が行われ、現在のように道路の真ん中に出てしまった。 昭和20年(1945)の空襲では、火災により木の上部が焼け、昭和30年代に幹の上部が伐採された。  さすが、幹の周囲は5m程ある、樹齢400年を誇る古木だ!

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⑩傳通院
・・・・・・・・・・・・・・・傳通院は、正式には無量山傳通院寿経寺という。 応永22年(1415)の創建。 慶長7年(1602)に徳川家康の生母於大の方が京都伏見城で亡くなり、翌年、家康は母の遺骨を現在の墓地(傳通院に在る)に埋葬し、寿経寺を現在地に移転して堂宇を建て、母の法名「傳通院殿」にちなんで院号を傳通院とした。 昭和20年(1945年)の空襲では、傳通院も江戸時代からの山門や当時の本堂などが全て焼失した。 現在の本堂は、昭和63年(1988)に戦後2度目に再建されたものである。 山門は平成24年(2012)に再建された。 広い境内だが、歴史ある建物は残っておらず、チョイと残念だ。

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2014年12月 6日 (土)

白鬚橋・桜橋

かつてのスラム“山谷”地区のバス停:清川2丁目で下車し、白鬚橋を渡り墨田区へ入る。 東向島の裏通りをぶらつき、墨堤通りを歩いて桜橋へ、橋を渡ると再び台東区に入り、浅草でチョイと用を足し帰宅する。 隅田川橋梁の21番目・22番目をめぐる、1万2千歩、9kmの散歩です。 


①清川2丁目の古い建物
・・・・・・・・・・・裏通りには山谷の面影が残っている

・・・・・・・・・・・・1階はスナック、2階は理髪店。 昭和初期の建物と思われるが詳細不明?

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・・・・・・・・・・・・・アサヒ商店街の7軒長屋。 木造モルタル塗の長屋、こちらも年代不詳。 
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②おばけ地蔵
・・・・・・・・・・・・台東区橋場2に、高さ3m余りの大きな地蔵さんが立っている。 この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刺総泉寺の境内地であった。 門前一帯は浅茅ケ原といい、松並木があり、その傍らに享保6年(1721)建立の大きな石地蔵が残されてきた。 この地蔵は、関東大震災で二つに折れたが、補修し現在に至っている。 総泉寺は、昭和4年板橋区へ移転した。 地蔵さんを置いて、坊さんは行っちゃった!

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③白鬚橋・・・・・・・・・・・・・右岸は荒川区南千住と台東区橋場、左岸は墨田区堤通で、橋上には「明治通り」を通す。 白鬚橋(しらひげばし)の名は、近くの「白鬚神社」に因む。・・・・・・・・初代の白鬚橋は、近隣住民が資金をだし、大正3年(1914)に架けられた木造橋であった。 しかも、有料で、橋の上に小屋を建て大人一人1銭の通行料を取ったらしい。・・・・・・・・・現在の白鬚橋は、昭和6年(1931)に竣工した震災復興橋である。 設計は「千住大橋」を設計した増田淳、施工は大林組、橋桁製作は川崎造船所により架橋された。 橋長は約169mほどある、鋼橋で横長の骨太な感じは永代橋と似通っていて重量感があるタイドアーチ橋。・・・・・・・・・・・・『白鬚』と聞くと、私は「白鬚橋病院」を反射的に思い出す人間となってしまった。 事の顛末はこちら! と こちら! 

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④白鬚ビル・・・・・・・・・・・・東向島3、明治通りに面した共同住宅ビル。 年代不詳だが、かなり古そうな建物だ。 かつて、1階の商店の人に聞いてみたが、耐震的には危険な状態らしい。 2階では理髪店が営業中。 危険を感じたか、その他の部屋は空き部屋となったようだ! 写真ではわからないが、正面から見ると、チョイと左側に傾いているようだ、壊れる前に壊すかな?

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⑤白鬚神社・・・・・・・・・・・天暦5年(951=平安時代初期)に近江の白鬚大明神の分霊をこの地(旧寺島村)に祀った。 商売繁盛、方災除け、厄除けの神として多くの人々の崇敬を受けている。 ・・・・・・・・・隅田川七福神の寿老神としても崇められている。 神社に寿老神が祀られているのは、文化の頃(江戸時代)、向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。 そこで、白鬚大明神はその名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人うってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく隅田川七福神がそろったといわれている。 江戸時代から、七福神詣でで稼ごうとした神社のこじつけだな。 だまされた私が悪いのか、だました神社が悪いのか、昔のことだ、だまされたままでいよう!

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⑥桜橋・・・・・・・・・・・・・墨田区と台東区の両岸に広がる隅田公園を結ぶ歩行者専用橋。昭和60年(1985)、両区の折半で総工費28億3000万円かけ完成した。 X形の曲線平面をした箱桁橋で、橋長約169mの立派な専用橋である。・・・・・・・・・花見の時は、橋の両岸で賑わう。 とくに、墨田区側では向島の芸者も総出の“お・も・て・な・し”は嬉しいね!

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2014年12月 5日 (金)

新橋・銀座

師走の金曜日、ボーナスが支給された人もいる、今日は絶好の飲み会の日だ! 呑めない私にも、現役の頃はお誘いがある日だ。 今日は、新橋で中高等学校の同窓会があり、帰りは日本橋まで歩いてきた。 8千歩、6㎞。


①新橋
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・駅前広場は、待ち合わせのサラリーマンで混雑していま~~す。 電飾された蒸気機関車C11 の前は人・人・人。

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・・・・・・・・・・・・・烏森神社 は、会社帰りの中高年サラリーマンが、会社のことか、家庭のことか、何やら頼み事でもあるらしい。 途切れることなく、社殿に向かう、、、、、

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・・・・・・・・・・・・オー、行列のできる鯛焼き屋さんだ! レンガ通りの一角で、、、、、寒い日は、歩きながら食べる鯛焼きも良し。 家に帰って、レンジでチンして食べる鯛焼きも良し。 私は2個買って、歩きながら食べて、家に帰ってまた食べるね!

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・・・・・・・・・・・・・夜の盛り場、雰囲気は大好きだ。

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②銀座
・・・・・・・・・・・・8丁目から1丁目に向かって歩く。

・・・・・・・・・・・・・これから出勤の人もいる、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・並木通りのクリスマス

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・・・・・・・・・・・・・・4丁目交差点は、東京一の観光スポット。 ビルを見ても、花壇を見ても、ツリーを見ても、女性を見ても、みんな綺麗だ!

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・・・・・・・・・・・・・・クリスマス・プレゼントのおねだりか?

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・・・・・・・・・・・・・・・暖かそうな明りが灯る、裏通りのアンティーク・ショップ。 
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2014年12月 2日 (火)

東電送電橋~千住大橋~水神大橋

隅田川の橋梁めぐり、今日は13番目の東京電力送電橋から、15番目の千住大橋などを見て、20番目の水神大橋まで、一挙に8橋を制覇してきた。 1万3千歩、9kmの散歩です。


①千住大橋駅
・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)に開業した、日光街道(国道4号)沿いの京成本線の駅。 駅は高架で、島式ホーム2面4線で待避設備を有する駅。・・・・・・・・日光街道と改札口の間は、「フードプラザ大橋」という商店街になっている。 9店舗程が入居していたが、スーパーやハンバーガー店などは閉店し、現在営業中は、コンビニ、クリーニング、酒屋、中華の4店舗のみ。 どうやら、高架橋の耐震補強工事をするようだ!・・・・・・・・・チョイト薄暗く、ほのかに昭和の匂いがする駅で、私の好きな駅の一つ。

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②東京電力送電橋・・・・・・・・・上流から13番目に架かる橋は、人が通ることのできない送電用の専用橋。 鋼タイドアーチ桁橋で、橋長は約104m、昭和40年前後に架けられたようだ。 送電線は川を越えると、地中に消えていく。 この辺りの両岸の堤防は、昭和30年~50年頃に造られた、鉄筋コンクリート造の厚さの薄い“カミソリ堤防”で、只今、順次、遊歩道を備えた堤防に改良工事が行われている。 (全景写真は、11月28日に上流から撮影)

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③千住水管橋・・・・・・・・・・千住大橋の上流側に並行して、東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋が架けられている。 この工業用水は左岸の墨田区、江東区、そして江戸川区の地盤沈下対策を目的に供給されている。 昭和30年~40年代には最大23cm/年の沈下を記録した東京都は、その後、地盤沈下対策に多額の税金を投入してきたそうだ!
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④千住大橋
・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に竣工した、震災復興橋のひとつ。 設計は白鬚橋(東京)、十三大橋(大阪)、鳥羽大橋(京都)、伊勢大橋(三重)など、全国各地に代表的な作品を残している増田淳(1883~1947)が手掛けた。 現在は、親柱や電灯が復元され、下り専用橋となっている。 東隣に上り専用に昭和48年(1973)製の新橋が、ピッタリ並行して架かっている。 西隣は千住水管橋で、どちらにしても両側で邪魔して、橋の全景を見ることはできない。 

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・・・・・・・・・・・・・竣工当時の千住大橋(Wikipediaより)

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⑤日枝神社・・・・・・・・・・荒川区側で、千住大橋と常磐線隅田川橋梁の中間に、歯神・山王清兵衛を祀った小祠がある。 区の説明板には、『いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。』と書かれている。・・・・・・・・歯痛で切腹するとは、チョイト情けない武士だ。糸でも巻いて、シッコ抜いたら治るだろうに。 私の幼き頃はは、虫歯には「正露丸」をつめて、痛み止めとした経験がある。 我が家の親父も乱暴な治療をしたものだ!

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⑥常磐線隅田川橋梁・つくばエクスプレス隅田川橋梁・日比谷線隅田川橋梁 ・・・・・・・・・・並んで隅田川を超える3本の橋梁。上流側(写真左側)からJR常磐線、次はつくばエクスプレス、下流側に東京メトロ日比谷線の各隅田川橋梁が並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・常磐線隅田川橋梁とつくばエクスプレス隅田川橋梁は、銭高組により一体として工事が進められた。 工事は、旧常磐線隅田川橋梁が、現在のつくばエクスプレスの位置にあったため、ステップ1として現常磐線の橋梁を造り、旧常磐線を現在の位置に移設した。 ステップ2では、旧常磐線の橋梁を撤去。 ステップ3で、つくばエクスプレスの橋梁を旧常磐線の橋梁跡に、平成16年(2004)に構築した。

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・・・・・・・・・・・・・東京メトロ日比谷線が通る橋梁で、3線の橋梁では最も古い。 南千住~北千住間の開通は昭和37年(1962)で、橋梁も同時期に竣工したと思われる。 

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⑦千住汐入大橋
・・・・・・・・・・・・・平成18年(2006)に開通した、南千住(荒川区)と堀切菖蒲園(葛飾区)方面をつなぐ橋。 橋長約159mの2径間連続鋼床鈑箱桁橋で、シンプルなデザインである。

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⑧This is The Smidagawa ・・・・・・・・・・・

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⑨水神大橋・・・・・・・・・・・20番目の橋は、荒川区南千住の汐入地区高層住宅群 と墨田区堤通の防災拠点「白鬚東アパ―ト」を結ぶ水神大橋である。 平成元年(1989)竣工、3径間連続ニールセンローゼ桁橋 橋長は約157m。

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