ときわ台
我が家を出たときは、『たまには池袋でも行ってみるか』の気分で外出。 池袋に近づくと、『たまには東上線でも乗ってみるか』の気分で乗車。 東上線に乗ると、『久しぶりにときわ台で下車してみるか』と駅前に立つ。 古い駅を見て、駅前に立つと、『歩いたことのない上板橋駅方向に向かってみるか』と歩き出す。 途中で教会を拝見し、上板橋近くの公園に、園内で板橋区の史跡案内板を見て、「高射砲陣地跡」の文字が目に入り、『よし近くにあるようだ見に行こう! 場所はどこだ?』。 これが、“間違いの素”。 地元の人に場所を尋ねても、誰も知らず、そうこうするうち、道の方角も???、、、、アレレ、出てきたところは“常盤台2丁目”、、、、、「高射砲」はあきらめて、常盤台の町歩き、下車したときわ台駅から帰宅。 1万歩、8kmの散歩。 、、、、、、 帰宅後、「高射砲陣地跡」を調べてみたら、ナント!案内板が設置されていた公園が高射砲陣地跡であった。 それらしき、碑・表示もないので、まさに『灯台下暗し』。 地元の人も、区の職員も知らないのだ!
①ときわ台駅・・・・・・・・・・・・池袋から東武東上線で5つめの「ときわ台駅」は、昭和10年(1935)に「武蔵常盤駅」として開業した。 昭和26年(1951)に駅名を「ときわ台」に改称。 開業時からの駅舎は、青い洋瓦に白壁の瀟洒なもので、小駅としては特徴的な建築である。 東武鉄道は田園調布に並ぶ高級住宅街を目指し、駅舎にも金をかけ、開発に取り組んだ意気込みの表れであろう。 駅前はロータリーがあり、駅を中心とした放射状・同心円状の街路があるところなどは、田園調布駅と同じである。 駅前を歩く女性も、一部を除き、洗練された美人にみえた。
②常盤台バプテスト教会・・・・・・・・・・・・ときわ台駅から西へ向かうと、建て直されて25年程経過した教会がある。 会堂ではクリスマス行事のため、讃美歌のピアノ演奏の練習が行われていた。 牧師さんは付属幼稚園の朝のお出迎えで、忙しそうだ。
③平和公園・・・・・・・・・上板橋駅に近い常盤台4丁目にある公園。 ここは、旧東京教育大学の寄宿舎の跡地で、板橋区が平和都市宣言をしたことに因み名称を「板橋区平和公園」とし、昭和61年(1986)に開園した。 第二次大戦中には、ここに陸軍高射砲陣地が築かれていた、今はその面影を示すものは何もなく、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願うモニュメントが、公園の片隅にあるだけだ。 陸軍高射砲陣地の跡であることぐらい、どこかに明示してほしいね!
④常盤台高級住宅地・・・・・・・・・・大正時代後期から昭和初期にかけ、不動産会社・鉄道会社による私鉄による郊外住宅地の分譲が次々に行われた。 渋沢栄一による田園調布の開発などである。 常盤台は東武鉄道により、鉄道開通の翌年:昭和11年(1936)から2期に分け開発分譲された。 おおむね現在の常盤台1丁目と2丁目である。 分譲区画は全部で591、433の住宅地は1区画100~120坪で、坪当たり20~35円で売り出された。・・・・・・・・・町では、住宅地のイメージを守るため、無機質に壁のようにそそり立つ高層マンションなどが建たないように、平成19年(2007)「ときわ台景観ガイドライン」が制定された。 たしかに、この街には高層マンションやコンビニなどは少ない。
・・・・・・・・・・・・・住宅地の中を同心円状に周る、開発当初から設計された散歩道「プロムナード」。 プロムナードに沿って歩くと、この街に住みたくなるね!
・・・・・・・・・・・・・・自動車が住宅地の中を通過する機会を少なくするため、行き止まり形式で、端部には円形の植栽された転回部分「クルドサック」が造られている。
・・・・・・・・・・・・・・常盤台の住宅・・・・・・・・分譲当初に建てられた住宅もある
⑤帝都幼稚園・・・・・・・・・・・昭和11年、常盤台の分譲に合わせ、帝都学園女学校として開校した。 昭和21年、女学校は火災で焼失し、昭和26年廃校となる。 その後に帝都幼稚園として開園し、現在に至っている。・・・・・・・・・・黄色の門柱は、昭和30年に卒業生により寄付されたもの。 下見板貼り薄緑の建物は昭和21年の火災で焼失を免れた校舎である。 チョイト、ボロくなった建物だが、元気な園児には関係ないようだ!