言問橋~吾妻橋
隅田川橋梁をめぐる散歩。 今日は上流から数えて、23番目の言問橋、24番目の東武伊勢崎線隅田川橋梁、25番目の吾妻橋を歩いた。 最後は、観音様で手を合わせ、新仲見世のお店で買い物をして帰宅。 1万歩、8km。
①言問橋・・・・・・・・・・・・橋長約239mの三径間ゲルバー鈑桁橋で、大正14年(1925)に着工し昭和3年(1928)に竣工した震災復興橋である。・・・・・・・・・言問橋の名の由来は、在原業平が隅田川で詠んだ、『名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』に因んでいる。 しかし、この歌の“言問”と称する地名は実在せず、歌にちなむ場所は白鬚橋近くでもある。 命名の真相は、、、、、明治4年(1971)に創業した近くの団子屋の主人が、団子の販売に際し、隅田川にちなむ在原業平の歌から「言問団子」と命名し、人気の店となった。 この店の近くに架けた橋なので「言問橋」となった。 つまり、団子の名から命名した橋である。、、、、、ほんとかな?
・・・・・・・・・・・・・・陽を背にしたスカイツリーが、隅田川を見下ろす
・・・・・・・・・・・・・両岸の隅田公園を結ぶ言問橋
・・・・・・・・・・・・・墨田区側の取り付け部分。 橋の下には歩行者専用道があり通り抜けできる。 その隣には橋上とつなぐ階段があり、コンクリート製の支柱に鉄パイプの手すりが、昭和の匂いを残している。 チョイと、一昔前であったら、「君の名は」風に、この階段辺りで、私と松原智恵子似の美人が演じる、別れのシーン、再会のシーンがピッタシなのだが、、、、、、(夢)
②牛嶋神社・・・・・・・・・・・・牛嶋神社は、貞観年間(859-79)に建立された。 かつては牛御前社と称して、本所総鎮守として崇敬を集め、明治時代には郷社に列格していた。 氏子は墨田区のほぼ南半分が該当する広い地域である。・・・・・・・・・昭和7年(1932)、関東大震災後の隅田公園の建設にともない、桜橋近くの隅田川東岸にあった神社を、現在地に移した。 昭和20年(1945)の東京大空襲により神楽殿は焼けたが、昭和7年の移転時に建てられた総檜権現作りの荘厳にして風格のある社殿をはじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事であった。
・・・・・・・・・・・・・・神輿庫・・・・・・・・・・・・こちらも昭和7年築か?
・・・・・・・・・・・・・撫牛・・・・・・・・身体の悪い部分と同じ部分を撫でると、身も心も治るといわれているありがたい牛。 文政8年(1825)に奉納された。 私の悪い部分は、頭が悪い、顔の造作はまあまあだが目と耳と歯が悪い、大動脈が悪い、足が腫れてる、胃は食べ過ぎか、手は癖が悪い、懐は寒い、、、、悪いところは身体全て、牛の頭から足まで撫でてきた!
③東武伊勢崎線隅田川橋梁・・・・・・・・・・・元土木学会会長の田中豊(1888~1964)が設計した、鉄道橋梁の傑作。 3径間複線中路カンチレバーワーレントラス橋、昭和2年(1927)着工、昭和6年(1931)竣工。 橋長166mで、隅田川を越えるが、トラス橋のトラス部分が車窓からの景観を邪魔しないように、トラスの高い部分を車窓より下げ景色を見やすくした。 また、架線柱に曲線のデザインを取り込み、これも景観に配慮したものとなっている。
④吾妻橋・・・・・・・・・・・吾妻橋が初めて架けられたのは、安永3年(1774)のことである。 その後、いくどか架け替えられたが、明治20年(1887)、隅田川に初の鉄橋として吾妻橋が架け替えられた。 現在の橋は、昭和6年(1931)に、3スパン鋼製ヒンジアーチ橋で架けられた。 橋の右岸の「雷門」を意識したようで、朱塗りに、高覧には雷紋(ラーメンどんぶりの渦巻き)を配したデザインは、浅草らしさを感じるね。
「散歩」カテゴリの記事
「建築」カテゴリの記事
- しばられ地蔵(2018.03.17)
- 京成団地~平和交通本社(2018.03.13)
- 高砂~亀有(2018.03.11)
- 日本橋(2018.03.10)
- 立会川~西大井(2018.03.06)