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2015年1月

2015年1月30日 (金)

雪の両国

3年前手術で除去した後頭部の悪性腫瘍について、その後の再発を確認するため、今日はCT検査の日。 選りに選って、寒い雪の日となった、しかも、朝一番の9時の検査である。 隅田川を挟み、我が家と反対側にある両国の病院まで歩いていくことにした。 大粒の雪と北風に耐えるべく重装備で出発!・・・・・・・・・・雪の中を歩き始めると、子供と同じで結構楽しくなり、検査後の帰路も歩きプチ散歩となった。 7千歩、5㎞。

・・・・・・・・・・・・・・私が家を出た8時過ぎ、大粒の雪が降ってきた。 浅草橋駅前には、まだ積もっていない。 寒い! 

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・・・・・・・・・・・・・・♪♪富士の高嶺に降る雪も 蔵前交差点に降る雪も 雪に変わりは ないじゃなし とけて流れりゃ みな同じ♪♪

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・・・・・・・・・・・・・・警察署のパトカーにも積もりはじめた

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・・・・・・・・・・・・・蔵前橋は雪の中。 誰の歌だったか、、、、、♪♪あなたの背中に 顔臥せて 朝までいてよと 泣き濡れた 雪舞いの 雪舞いの 橋のたもとの隠れ宿♪♪

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・・・・・・・・・・・・・・3年前、後頭部に腫瘍ができ、ここの病院の皮膚科に来たら、超美人の女医さんが診てくれた。 腫瘍切除も女医さんが、、、、、半月後、切除した腫瘍が悪性と判明し、もう一度、ひとまわり大きく切除手術をした。 これも女医さんが担当。 『この先生なら、まだ10回ぐらい手術してくれてもいいな!』と思い通いつめたら、昨年から、女医さんは医局へ戻り、男性の先生に変わった。 ガックリ!、、、、、、、「雪が積もれば 思いも積もる あの女医さんは いずこにか」

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・・・・・・・・・・・・・病院のお隣には「安田庭園 」が、うっすら雪をかぶり静かに私を待っていた。 

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・・・・・・・・・・・・・後ろの茶色い建物は「両国公会堂」(=旧本所公会堂、大正15年建築)。

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・・・・・・・・・・・・・チョイと足を延ばして、両国国技館内の相撲博物館にもお立ち寄り。 「大相撲 新春を寿ぐ」と称して、縁起物を配した化粧まわし、行司による書・色紙などを展示している。(写真撮影禁止) 力士・行司の字の美しさには、びっくり、しゃっくり、驚いた、

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2015年1月28日 (水)

沼袋~野方

西武新宿線に乗り、『どこで下車しようか?』。 沼袋駅手前で車窓から、神社の旗と提灯を見て、『お祭りか? ヨシ、降りてみよう。』。 沼袋で下車し散歩することにした。 結果的には、沼袋駅から1km先の隣の野方駅までを、練馬区豊玉南経由で歩き、1万1千歩、8kmの散歩となった。


①沼袋駅
・・・・・・・・・・・・西武新宿線の新宿から5駅目の沼袋駅(ぬまぶくろえき)は、昭和2年(1927)の開業である。 現在は相対式ホーム2面2線と、中央に追い越し線2線がある地上ホームとなっている。 西武鉄道と東京都は、中井~野方間(約2.4 km)の連続立体交差事業に着手した。 平成32年(2020)をめどに同区間を地下化し、新井薬師前駅と沼袋駅は地下駅となる。 また、両駅前後の現在ある7つの踏切が廃止される予定だ。 事業費は726億円なり。・・・・・・・・地下化の工事は5つの工区に分けて実施され、沼袋駅は地下に170mの島式ホーム2面4線が造られる。 駅部西側は第1工区で鹿島・鉄建・戸田建設・五洋建設JV、東側は第2工区で大林組・前田建設工業・フジタ・飛島建設JVが担当する。

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・・・・・・・・・・・・・・跨線橋から東西方向を見ると、工事が始まっており、この地下に駅ができる。

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・・・・・・・・・・・・・特急「小江戸」も、いずれ地下に潜るであろう。

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②沼袋氷川神社
・・・・・・・・・車窓から見えた神社は「沼袋氷川神社」だった、派手やかな旗と提灯は初詣の飾りで、まだ正月気分のようだ! 創建年代不詳であるが、文明9年(1477)に太田道灌が、江古田ヶ原・沼袋の戦いで戦勝を祈願した。(「江古田ヶ原・沼袋の戦い」とは、初めて聞いたね! 山川出版社の歴史の教科書にはなかったね!)

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・・・・・・・・・・・・・・正保年間(1644~1648)代官:野村彦太夫が社殿を修築し、明治13年(1880)には社殿を改築、大正11年(1922)幣殿を増築し、大正15年(1926)社務所が新築された。 祭神は、八岐大蛇退治の神話に出てくる主人公の須佐之男命(すさのおのみこと)。

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・・・・・・・・・・・・・・社殿の左側に、大きな松が植えられている。 『悪しきことはスギ去れ、願い叶うをマツ』と杉の木に願いを掛けて、不運・災難から逃れ松の木に幸福を願うと、必ず叶うと信じられている。、、、、、、私の場合は、『良きことをマツと、悪しきことが多スギ、いつまでマツても来てくれぬ』

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③大岡稲荷大明神
・・・・・・・・・・・・・駅前の商店街を北に向かうと、脇道に「大岡稲荷大明神」の額を掲げた朱塗りの鳥居がみえた。 “発見”をチョイと期待して進むと、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・ナ・ナント! 住宅の中の邸内社だ! だまされた!・・・・・・・・・・帰宅後、調べてみたら、写真は社務所に祀られている大明神のようです。 どうやら別の処に小さな祠のような社殿があるそうだ。 どちらにしても、“大明神”どころか、見落としてしまうほどの“小明神”。 

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④明治寺
・・・・・・・・・・・・中野区沼袋2丁目、真言宗東寺派の「明治寺」(めいじでら)は、如意輪観世音菩薩を本尊とし、大正元年(1912)に創建された。 明治45年に明治天皇の病気平癒を祈るため観音開眼を期して、榮照法尼によって建立されたのが寺の始まりである。 しかし観音開眼を待たずして明治天皇は崩御したため、深い感謝と哀悼の祈りを捧げるため、大正元年(1912)に観音開眼供養が行われた。 その後は、一大観音霊場を築きあげるため、大正5年までに100体の観音が整った。 現在は180体ほどの観音像が境内に建立されている。

・・・・・・・・・・・・・・銅板葺き宝形造り屋根に、コンクリート打ち放し仕上げの、落ち着いたデザインの本堂。

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・・・・・・・・・・・・・180体の観音様の一部。

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・・・・・・・・・・・・・・境内の一部は公園として開放されており、戦災で焼け落ちた鐘楼跡には、すべり台が造られていた。 コンクリート造のすべり台とは懐かしい!

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⑤徳田教会
・・・・・・・・・・・沼袋駅から北の方角へ歩いてくると、練馬区豊玉中1丁目にぶつかり、ここに徳田教会(とくでん教会)がある。・・・・・・・・この教会は、明治42年(1909)にパリ外国宣教会から日本に派遣されたヨゼフ・フロジャック神父の歩みと共に活動してきた。 神父は、昭和初期、中野区江古田にあった結核療養所の入院患者が、退院を強いられ行き場を失っていたのを見て、一軒の家を借りて収容された。 その後、この家の周りに、患者を支える社会福祉法人慈生会、ベタニア修道女会、徳田教会などがつくられていった。 昭和28年(1953)には、神父の尽力により、現在の聖堂・司祭館が造られた。 その後、神父は昭和34年(1959)に他界した。

・・・・・・・・・・・・・・重厚さはないが、可愛らしさがある教会。 門を入り正面に鐘楼、左側が聖堂、右奥が司祭館。

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・・・・・・・・・・・・・・・鐘楼
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・・・・・・・・・・・・・・聖堂・・・・・・・・・・淡い若草色・茶色・水色のステンドグラスが、優しい光を取り込み、内部は清い空間を創っている。
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・・・・・・・・・・・・・・・司祭館
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・・・・・・・・・・・・・建物後ろ側(中庭)から眺めると、、、、両サイドの丸みある外壁、中世の城のようだ。

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⑥正覚院
・・・・・・・・・・・豊玉南2の豊玉南小学校前にある、室町時代の長禄年間(1457~1460)に創建された、真言宗の寺。 小さいながらも手入れの行き届いた庭があり、緑豊かな寺である。 本堂は昭和51年(1976)の建築で、鉄筋コンクリート造。 多宝塔は平成3年(1991)の建築で、こちらも鉄筋コンクリート造。

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⑦氷川神社
・・・・・・・・隣の正覚院が、かつての別当寺であった。 創建年代不詳の古い神社。 社殿は昭和3年(1928)の建築。 境内には、社殿よりも古い、1800年前後の水盤、正徳元年(1711)の庚申塔、明治39年(1906)の日露戦役従軍記念碑など、いろいろ古いものがある。・・・・・・・・・チョイと変わったところでは、「ビール麦 金子ゴールデン 発祥の地」の石碑がある。 

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⑧野方駅
・・・・・・・・・・昭和2年(1927)開業、西武新宿線の駅。 隣りの沼袋駅との距離は約1km。 
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2015年1月26日 (月)

中延~西小山

散歩に行ってくると言って家を出たが、行先が定まらず、とりあえず地下鉄浅草橋駅のホームに立ち、先に来た電車に乗ることにした。 島式ホームで1番線は羽田空港行、2番線は高砂行、どちらが先に来るか? 発車時刻から推測すると2番線の高砂行だな、乗ったらどこで降りようか思案中、、、、、、ナント、先に来たのは、1番線で西馬込行だった。 乗ったら、『本日は電車が遅れて、申し訳ございません』の車内放送、、、、、納得! さて、どこで下車しようか?、、、、、、車内の路線図を見て、『どこにしようかな』、目が止まったのは「中延」。 これで決まり!

都営浅草線中延駅から、東急旗の台駅、東急目黒線洗足駅に寄って、目黒線西小山駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。・・・・・・・・(中延駅から旗の台駅までは、2014/2/19歩いてた)


①東急大井町線 中延駅
・・・・・・・・・・昭和2年(1927)、目黒蒲田電鉄大井町線の駅として開業。 都営浅草線の中延駅までは50m、東急の高架駅から都営の地下駅に走って乗り換える人が多い。

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②大井町線 中延4丁目ガード
・・・・・・・・・・桁下2.1mは、チョイと低いが、車も人もOKだ! ガード下から見上げると電車の床下が丸見え!

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③洋服直し 理想郷
・・・・・・・・・・・旗の台4丁目商店街に残る昭和初期の建物。 建物は昭和30年ころまでは和菓子屋「青柳」として使用されていた。 その後、仕立て屋となったようで、「理想郷」という名前がシャレている。・・・・・・・・・・この建物が建つ一画は戦災で焼けなかったそうで、現在も裏手には木造平屋の建物が数件残っている。  (写真の色合いが暗いのは、カメラの設定を間違えたため、悪しからず)

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④旗の台駅
・・・・・・・・・・・・東急大井町線と池上線が立体交差する乗換駅、大井町線は高架で、池上線はのんびり地上を走る。

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⑤旗の台6の住宅街
・・・・・・・・・・旗の台駅前の「稲荷通り」を抜け、中原街道を横切ると、旗の台6丁目の住宅街となる。 骨董的な古い建物はなく、比較的新しい住宅が多い。 田園調布のような高級感はなく、中産階級向けのお手頃住宅かも。

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⑥洗足駅
・・・・・・・・・・大正12年(1923)に開業した目黒線(旧目蒲線)の駅。 昭和40年(1965)に地下化された。

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・・・・・・・・・・・・・・目黒方面から洗足駅に来る電車は、駅手前で地下から顔をだし切通し区間を走り、再び地下にもぐり洗足駅に入る。・・・・・・・・・・金網越しにチラリと見える電車を、嬉しそうに写真に撮る親爺も、そろそろ卒業しないと孫に馬鹿にされるかも。

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・・・・・・・・・・・・・地下化された線路の上は、“緑道”として開放されている。 お隣の西小山駅へ続く。 歩きやすく、ベンチも多く、お年寄りには優しい緑道である。

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⑦厳島神社
・・・・・・・・・・・洗足駅の北東に厳島神社がある。 ここでは、弁財天も祀っているようで、「弁天神社」とも書かれていた。 境内には由緒書きらしきものは見当たらず、謎の多い小さな神社だ。 朱塗りの橋の下には池があり鯉がいる。

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⑧西小山駅
・・・・・・・・・・・・昭和3年(1928)に開業した。 開業時の駅舎は地下化工事のため平成11年(1999)に取り壊された、残念! 現駅舎は平成20年(2008)に駅ビルとして完成した。

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2015年1月25日 (日)

愛宕山

新橋から神谷町まで、夫婦で散歩です。 1万歩、7㎞。


①虎ノ門ヒルズ
・・・・・・・・・・・虎ノ門から新橋を結ぶ「幻のマッカーサー道路」と呼ばれた「環状2号線」は、昭和21年(1946)に計画された。 しかし、用地買収が難航し、平成10年(1998)に地下化することで地元の合意を得た。 都は道路用地を取得し、地下に環状2号線を通し、地上には森ビルにより超高層ビルを建設することにした。 昨年(2014)5月に、その超高層ビルが完成し「虎ノ門ヒルズ」と命名された。(工事中は環状2号線プロジェクト と呼ばれていた)・・・・・・・・・1階から4階は店舗、4階・5階は国際会議場、6階から36階はオフィス、37階から46階は住居、47階から52階はホテルという構成で、都内では東京ミッドタウンに次ぐ2番目の高さを誇るビル。 日建設計の設計、大林組の施工。・・・・・・・・個人的には、高所恐怖所の気があり、高い処は好きになれないので、ここのホテルに泊まることはないだろう。 今日は夫婦で店舗部分をチョイト拝見!

・・・・・・・・・・・・・・環状2号線の新橋側から、虎ノ門方向を眺めると、道路正面に虎ノ門ヒルズが見える。 地上の片側1車線の道路は、歩道部分が広くシンボリックな道路に変わるらしい。 地下には片側2車線の本線が走っている。

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・・・・・・・・・・・・・・上記の撮影場所で後ろを振り向くと、汐留の超高層ビルが見える。

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・・・・・・・・・・・・・・虎ノ門ヒルズの反対側には、地下道路「築地虎ノ門トンネル」の出入り口がある。

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・・・・・・・・・・・・・・下から見上げると、でけ~え! 上層のホテルでは、見晴らしはよいが、高い所にいると思うと落ち着いて寝られないね!

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・・・・・・・・・・・・・ビルの周りには緑の空間がある。

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・・・・・・・・・・・・・・店舗は飲食店がばかり、ショッピングする店は無い。 

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②日本基督教団芝教会
・・・・・・・・・・・・虎ノ門ヒルズの北隣に西松建設のビルがある。そのさらに北隣にあるプロテスタント系の日本基督教団芝教会がる。 昭和11年(1936)に竣工した鉄筋コンクリート造3階建ての建物が、都心のビルの間に残されている。・・・・・・・・今日は日曜礼拝があり、教会も開いているだろうと思い寄ってみた。 残念だが、礼拝は午前中で、扉は閉められていた。 一度、内部を拝見したいものである。

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愛宕神社 ・・・・・・・・・・・標高26mの愛宕山山頂に鎮座する神社。 主祭神の火産霊命(ほむすびのみこと)は火の神で、防火・防災に霊験のある神社として知られている。 慶長8年(1603)に徳川家康の命により創建された。

・・・・・・・・・・・・・神社の“売り”は、曲垣平九郎の故事にちなむ「出世の石段」と呼ばれる急な石段である。 今日も女性が上ってきた。 下からの撮影はチョイとヤバイので上からパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・放送博物館に展示されていた幕末の愛宕神社階段

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・・・・・・・・・・・・・・神社に手を合わせ、まずは私の「病気平癒」を願い、夫婦で「夫婦円満」を願い、宝くじに「一攫千金」を願い、最後に妻にナイショデ「良縁成就」を願い。 しめて100円也。 チョイとケチりすぎたかな?

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④放送博物館・・・・・・・・・・愛宕山の頂上にあるNHKの放送博物館。 ラジオの時代から現代まで。 君の名はから、ブーフーウー、ひょっこりひょうたん島、オリンピックを経て、マッサンまで。 夫婦で話のタネは尽きず、楽しめる、お手頃博物館。 建物は昭和43年(1968)竣工。

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⑤愛宕隧道・・・・・・・・・・・・・このトンネルは、東京23区内で最も高い自然の山「愛宕山」を掘りぬいた山岳トンネルである。 飛島組(現:飛島建設)の施工で、昭和5年(1930)に竣工した。 平成16年(2004)に耐震補強工事が行われたが、ほぼ竣工当時の姿をとどめているようだ。 短いトンネルだが、愛おしく感じるね!

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2015年1月23日 (金)

今井街道 続き

夕方、今井街道 の続きを歩き、一之江駅から浦安駅まで。1万歩、7㎞。


①一之江駅
・・・・・・・・・・昭和61年(1986)に開業した、都営地下鉄新宿線の駅。・・・・・・・この駅の周辺には、一之江、一之江町、二之江町、松江、瑞江、春江そして区名が江戸川と“江”の字が多い。 国語辞書では、【海や湖沼の陸地に入り込んでいる所。入り江。古くは、広く海・川・堀などをいった。】 つまりは、江戸川区の多くはもともと沼地・入り江で、私には、戦後の昭和40年代ぐらいまでは、白鷺の舞うハス田が広がっていた記憶がある。・・・・・・・・ところで駅前に出ると、何となくサッパリした街だと感じた。 キョロキョロ見て、解った。 街灯、信号機のポールはあるが、電線がない! 地中に埋まっているのだ、 見た目スッキリとしていいね。

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②瑞江大橋
・・・・・・・・・・橋が架かる新中川は、戦前の浸水被害を教訓に開削が計画された河川であるが、戦後の昭和38年(1963)に「中川放水路」(現:新中川)として完成した。 橋上には今井街道が通り、昭和43年(1968)までは、トロリーバス(上野公園~今井間)が運行されていた。 橋は、単純プレートガーダー桁橋で昭和35年(1960)の架橋。 

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③東京都交通局今井無軌条電車営業所
・・・・・・・・・・・・瑞江大橋を渡り東詰に、都営西瑞江四丁目第2アパートがある。 このアパートの1階は都バスの「今井」バス停であり、操車所となっている。 ここは、都電時代の折り返し所であり、トロリーバス時代の、「東京都交通局今井無軌条電車営業所」としてトロリーバスの車庫であった。 昭和43年にトロリーバスは廃止された。 現在は、東京都交通局江戸川営業所臨海支所。・・・・・・・・・アパートの建物は昭和63年(1988)の建築で、総戸数64戸である。

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・・・・・・・・・・・・・アパートの前には「今井街道」の標識がある。 標識の白ペンキも剥げ落ちて読みにくくなったね!

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④今井橋
・・・・・・・・・・現在ある今井橋は昭和54年(1979)に完成し、江戸川区江戸川4と千葉県市川市を結んでいる。 それまでは現在の橋の50m程上流側に昭和26年(1951)に完成したコンクリート製の橋があった。 下に流れるは、旧江戸川。  橋を渡り、千葉県側で今井街道と行徳街道がT型にぶつかり、これより行徳街道となる。

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・・・・・・・・・・・・・橋の上は強風で寒いが、夕日と富士山が遠望できた。 さすが世界遺産、千葉県からも見えるんだ!

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⑤善福寺
・・・・・・・・・・浦安市当代島にある、東海山善福寺と称す、新義真言宗の寺。 昔は江戸川区東小岩の善養寺の末寺だった。 現在は、紀州の根来寺に属している。 元和5年(1619)の開山。 チョイと大きな寺があり手を合わせてきた。

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⑥浦安駅
・・・・・・・・・・・・東京メトロ東西線の駅。 昭和44年(1969)3月開業(この時は、私が大学を卒業した時)。 昭和58年(1983)には、東京ディズニーランドが開園し、その最寄駅となった。 当時、私も浦安駅から混んだシャトルバスに乗りディズニーランドへ行った思い出がある。 混んでいて、夜の子供づれは、帰りが大変だったね! 現在は、最寄駅が京葉線の舞浜駅となり、浦安駅は普通の駅となった。 ホームの幅が広いのは、ディズニーランド最寄駅当時の名残か?

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2015年1月20日 (火)

稲荷神社めぐり

昨日の夕食時、妻の一言、『あした○○(都内に嫁いだ娘)が来るって、昼食を家で食べるから、散歩の帰り稲荷ずしとバッテラ買ってきて。』、、、、、、これで、今日の散歩コースは7割程度確定した。 昼食を我が家で食べるということは、散歩を午前中に済ませ、さらに買い物も済ませろと言うこと。 買い物は稲荷ずしにバッテラとなると、人形町の「志乃多寿司」に行って来いと言うこと。 我が家から人形町までは、歩いて30分程度なので、あまり早く散歩に出ても店は開いていないだろうし、中途半端な散歩になりそうだ!、、、、、どうしようかな? 困ったときの神頼み、、、、、、昨日、床に入りキラリとひらめいた。 “稲荷ずしを買いに行くなら、その前に稲荷詣でと洒落こもう。”  江戸下町の商家では商売繁盛の御利益を期待し、稲荷信仰する人が多く、稲荷神社も多いので、まとめて歩いてみるか!

・・・・・・と言うことで、今日の散歩は、浅草橋から人形町まで、“○○稲荷神社”と称する神社だけをめぐってきた。 1万2千歩、10㎞。 (神社は今日歩いた順番で紹介する)


●・・・・・・・・・・・・只今、午前8時半。 朝の旅立ちは、サラリーマンの出勤時間。     ここで、一句「大寒の 寒さを体感 大寒い」    

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①石塚稲荷神社
・・・・・・・・・・JR総武線の隅田川橋梁が架かる、台東区柳橋に祀られている稲荷神社。 創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといい、元禄元年(1688)に現在地へ移転したと言われている。  火伏神と言う事で、戦後、柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進し再建した。 芸妓との“火遊び”は危ない時代だったのかも。    また一句、「石塚の 夜遊び燃えて 火遊びに」

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②篠塚稲荷神社
・・・・・・・・・・・こちらも柳橋にある神社だが創建年代は不詳。 正平年間(1325年頃)新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになった。 延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったものの、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残った。 大正末期まで、境内では寺子屋(篠塚学校)が運営されていた。    一句「花街の 熱り(仏)は消えて 髪(神)残る」

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③川上稲荷神社
・・・・・・・・・・・両国橋のたもとに近い中央区東日本橋のビルの裏で、2坪ぐらいの境内にしっそりと祀られているお稲荷さん。 寛永5年(1628)の創建と伝えられている。 もともと「川上稲荷」と称して、江戸幕府の乗船場に在ったが、明治2年、新開の街になるにつけ、当地に移転し崇敬されてきた。 明治6年には、神田神社(神田明神)の兼務社となり、昭和20年(1945)戦禍にて烏有に帰す。 昭和63年(1988)、近隣町民有志にて再建された。   「新開地 古き神社は ジャマだどけ」  

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④矢ノ庫稲荷神社
・・・・・・・・・・・・東日本橋2、薬研堀不動院の裏手に神社はある。 正保2年(1645)、お隣の東日本橋1丁目あたりは谷野と呼ばれていた。 そこに、幕府は谷野蔵・矢之倉と称する米蔵を建て、その庭中に蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社を祀った。 元禄11年(1698)に蔵は移転し、三社稲荷も遷座したが、地元住民が三社稲荷を惜しみ、谷野蔵稲荷の名称を矢ノ庫稲荷に改め現在地に鎮座した。 平成23年(2011)、"薬研堀不動院開創420年"にあわせて新社殿が奉納された。 ・・・・・・・・神社の隣りは大日本除虫菊(株)(蚊取り線香のキンチョウ)の東京支店。    ここで、またまた一句、「緊張(キンチョウ)で かゆみ知らずの 薬研掘」 

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⑤笠間出世稲荷大明神
・・・・・・・・・・明治座ビルの角っこに笠間出世稲荷大明神がる。 笠間稲荷神社の東京別社の分社らしい。 いうなれば、笠間稲荷神社東京支店明治座営業所という感じだな。 それにしても、“出世”、“大明神”とやたら大げさな名前を付けたな!      ここらで一句、「見栄を張る 芝居かぶれの 狐かな」

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●・・・・・・・・・・・・明治座正面の道路は中央分離帯が広く、公園のようになっている。 都営地下鉄新宿線の浜町駅はちょうどこの下、通勤客がぞろぞろと出てくるね! 只今、午前9時半。

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⑥元徳稲荷神社・綱敷天満神社
・・・・・・・・・・・・・由来は、江戸時代上期1500石を領した川村徳エ門が伊勢の外宮から御霊を受け、小石川の自分の屋敷内に祀った。 後に屋敷替えとなり今の墨田区に遷宮して一般市民にも参拝が出来るように開放した。 その後、川村徳エ門が再度屋敷替えをした跡に民家が建ち、この町を「元徳エ門町」といい、稲荷神社は元徳稲荷神社と名づけられた。 現在の浜町2丁目には細川公の屋敷があり、細川公は元徳稲荷神社の分け御霊を受けて祀ったいた。 これが、現在の元徳稲荷神社である。 その後、同じ町内に祀っていた綱敷天満神社を合社し、進学の神、産業、商売繁盛、火伏せの神としてのご利益のテリトリーも広がった。 おや、旗を見ると!弁天様も合祀したようだ。       合格祈願の受験生、「弁天の 色香に迷い 不合格」

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●・・・・・・・・・・・・元徳稲荷神社からは、再び明治座前を抜け笠間稲荷神社へ向かう。 途中、昭和36年(1961)建築の「栄マンション」をパチリ! 古ぼけた味のあるマンション、私好みだ!

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⑦笠間稲荷神社
・・・・・・・・・安政6年(1859)に、茨城県の笠間稲荷神社より分霊を受けて、祀られている。 昭和20年(1945)には戦災により大きな被害を受けたが、昭和21年(1946)に本社の援助により復旧し、昭和28年(1953)拝殿の再建がなされた。 日本橋七福神の寿老人も祀られている。      「復興に 寄らば大樹の 陰なるや」

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⑧富沢稲荷神社
・・・・・・・・・・・日本橋富沢町に祀られている稲荷神社。 創建年代不詳であるが、昭和25年(1950)に、元弥生町、新大阪町、元浜町の3町それぞれの稲荷社が合祀され、富沢稲荷神社と改称した。 ようするに、3社合併の神社で、社名は所在地から命名された。      「合併で 社名も変わり スッキリと」   

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト待て、境内社として片隅に、初姫稲荷神社があるぞ、艶っぽい社名だ!      「富沢も 隅に置けぬ にくいやつ」

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●・・・・・・・・・・・・富沢稲荷神社の西(日本橋富沢町)に、旧常陽銀行東京支店で、国の登録文化財となった、ハリオグラスビルがある。 まさに銀行建築で、コリント式の大オーダーが2つの通りに面して並べられている。 いいね!

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⑨池洲稲荷神社
・・・・・・・・・日本橋堀留町にある稲荷神社。 その昔、日本橋通り旅籠町に小田原より移した池洲(いけす。=魚を飼う場所)屋敷があり、その池沼より出現した稲荷と伝えられている。 社殿は大正12年(1923)震災で炎上し、昭和に入り再建された。 ビルの間のせせこましい社だ!      一句、「小田原の いけすの魚は 板付きか」 

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⑩三光稲荷神社
・・・・・・・・・・・・日本橋堀留町の路地裏にある稲荷神社です。三光稲荷神社は、絹布問屋、木綿問屋の二家が江戸時代初期に勧請したとも、中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者が元禄2年(1689)以前に伏見より勧請したもいわれている。 どちらにしても、古い話で、私には詳細は不明である。  古くから娘、子供、芸妓などが参詣することが多いそうだ。 私が来るときは、おばさんが多い、なぜだろう?         そろそろ一句、「右おでん 左やきとり 中三光」

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⑪橘稲荷神社
・・・・・・・・・・・・日本橋人形町3丁目、このあたりは江戸時代、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったこと場所。 一帯を玄冶店(げんやだな)と称した。 そう、 春日八郎のヒット曲「お富さん」では、“♪♪ エーサオー玄冶店 ♪♪”と歌っている。 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされている。 地元町民の浄財で再建された、ビルの裏の小さな祠が、現在の佇まいだ。         またまた一句、「ちいせえな 知らぬはずだよ お富さん」

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・・・・・・・・・・・・・・・ビルの表側には「玄冶店」の碑がある。

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⑫出世稲荷神社
・・・・・・・・・・・・日本橋堀留町1の路地を入り、マンションの通路をぬけて、マンションの非常階段の下に、目指す出世稲荷神社がある。 出世稲荷神社は、元和3年(1617)の創建と伝えられ、江戸時代初代市川団十郎が日参し名をあげたことから出世稲荷神社と称されるようになった。 現在の本殿は、関東大震災後に椙森神社の旧拝殿の廃材を再利用して建立した。 本殿には岩代稲荷神社も合祀されている。         ここでも一句、「参道の 素晴らしさには 感動だ」

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⑬常盤稲荷神
・・・・・・・・・・・・・・日本橋本町1丁目に鎮座するは常盤稲荷神社。 長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の分霊をいただき、常盤稲荷と名付け、江戸城の守護神として勧請した。 その後、江戸時代には、日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神を相殿に祀り鎮座されました。 水神大神は、明治34年(1901)に神田明神境内に遷座した。  まだ昼前だ、扉ぐらい開けておけ! ここで一句、「社殿の 扉も閉まり 今、時は」        

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⑭明星稲荷神社
・・・・・・・・・・・日本橋小網町町会会館前に建つ神社。 まだ、新しい社で何もかも不明。 由緒書きでも見えるようにしておくれ!      一句、「正体が つかみきれない 金星か」
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●・・・・・・・・・・・以上、浅草橋から人形町界隈までの、14社の“稲荷神社”、結構あるね! “結構毛だらけ猫灰だらけ”です。

●・・・・・・・・・・・時刻は、午前11時。 明治座の観劇に、旅のお供に、「志乃多寿司」と言うことで、おばさん連中に混じりお買い物。

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2015年1月19日 (月)

今井街道

『今日も寒そうだ、近場で平井から歩いてみるか・・・』と、総武線平井駅で下車した。 まずは、チョイと腹を温めてと思い、駅前の喫茶店へ向かったら『只今、改装中』。 しかたなく諦め、直進し京葉道路に出て、寒い新小松川橋を渡った。 橋を渡ると、『今井街道』の標識が目に入り、『よし、街道に沿って歩いてみよう』、、、、、平井駅 から、都営新宿線一之江駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩となった。


①京葉道路
・・・・・・・・・浅草橋交差点(中央区に位置する。 我が家のある町名:浅草橋は台東区。 互いに橋の両側だ!)が起点で、江戸川区篠崎が一般道(国道14号)としての終点。 篠崎から東は千葉県に入り、市川、船橋を抜け、曽我まで高速道で有料道路である。 小松川の付近では、『ほんに、まあ! いつのまにやら6車線の立派な道路となりおって、えれえ出世したもんや!』

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②小松川大橋
・・・・・・・・・・・・小松川大橋(こまつがわおおはし)は京葉道路が荒川を越える橋で、上流側が「小松川橋」、下流側が「新小松川橋」と呼ばれる。 全長495mの鋼ゲルバー箱桁橋、昭和44年(1969)に竣工。 今日は晴天、スカイツリーもよく見える。

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・・・・・・・・・・・・・荒川では、早朝の風の吹く寒さの中で蜆(シジミ)採り。 昭和20年代には、我が家(浅草橋)の辺りにも、早朝から味噌汁の具として、『アサリ~~、シジミ』の掛け声で、ここで採れたシジミを籠に入れ、自転車で売りに来た。 懐かしい光景を思い出した。

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③今井街道
・・・・・・・・・・・・小松川大橋を渡り切った処に、「今井街道」の標識を見つけた。 この道は、歩いたことがないと思い、歩くことにした。

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今井医院
・・・・・・・・・・・『オー、以前、写真を撮った医者がある! そうか! 2年前に来たときは、今井街道に直交するように歩いてきたのだ!』・・・・・・・・・昭和初期の建築。 外部の塗装は塗り替えたようだ。 チョイと診てもらいたくなるような明るい医院。

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・・・・・・・・・・・・・今井医院の隣りには、こちらも戦前の建築と思われる金物屋さん「宮万商店」。

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⑤松江橋
・・・・・・・・・・今井街道が小松川(現:小松川親水公園)に架かる橋。 高欄はコンクリート製で歴史を感じる橋である。 架橋年代不詳。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の脇に、行徳街道の説明板があり、それによると、、、、、、江戸時代、中川の平井の渡しから、東小松川村、西一之江村を抜け今井の渡しに至る道を、行徳道(行徳街道)と呼んでいた。 江戸中期以降は、成田山参詣路の一つでもあった。 その一部、今井橋に至る江戸川区内の部分を、「今井街道」と呼んでいる。


⑥商店街
・・・・・・・・・今井街道は、東小松川で首都高7号の下をくぐり、松江地区に入ると、この辺りから一之江付近まで複数の商店街が連なる。 午前中であるためか、いま一つ賑やかさに欠ける通りだ!

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⑦可哀そうな松江交番
・・・・・・・・・・商店街の中程(松江1丁目)にある交番、隣に立派な公衆便所が建っており、チョイト、見劣りする可哀そうな交番だ! 建物の高さも同程度で、交番は2階建て、便所は平屋、生活空間としてはどちらがベスト?

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⑧街道に残る商家
・・・・・・・・・・木造平屋、押縁下見板張り。 街道には歴史を語る建物はほとんどなく、唯一残る建物だ。 店は閉めたようで、いつまで残るのか?

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⑨西一之江香取神社
・・・・・・・・・・・西一之江3丁目、街道の裏道に建つ神社。 祭神は経津主命、創建年代は不詳であるが、鎌倉時代の創建とも伝えられている。 社殿は万治2年(1659、=江戸時代初期)に再建され、また昭和43年(1968)に改修された。・・・・・・・・・社殿の前で手を合わせていたら、男二人が賽銭箱の後ろで、ゴソゴソしていた。 賽銭泥棒と思い、まずは証拠写真をと思いカメラを構えたら、男の方から『ご苦労様です』の一言が、、、、、どうやら、宮司とその手下のようだ! ここは失礼のないように頭を下げて退散してきた。 疑って、ごめんなさい!

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⑩都電の軌道遺跡
・・・・・・・・・・・・今井街道が一之江境川親水公園と交差する地点(堺橋)に、かつて今井街道に走っていた都電(城東電車と呼ばれた26系統路面電車)の軌道遺跡が残っている。 遺跡と言っても、橋梁と線路の一部だが、、、、、26系統とは、東荒川(現:西小松川町あたり)から今井橋までの約3.2kmの区間で、城東電気軌道株式会社が大正14年(1925)に開通させた。 昭和17年(1942)、東京市に買収され市電となる。 昭和27年5月19日をもって廃止となる。 翌20日から、上野公園~今井橋間にトロリーバスが開通した。 昭和43年(1968)には、トロリーバスも廃止された。・・・・・・・・・この辺りには、都電・トロリーバスの走っていた痕跡はほとんど残っていない。 遺跡の案内板には城東電車の写真があった。

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⑪長勝寺
・・・・・・・・・一之江6丁目、日蓮宗で利栄山善学院といって中山法華経寺 の末寺。 天正11年(1583)に創建された。 広々とした境内で、明るい雰囲気の寺である。

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●・・・・・・・・・・・・あと少しで街道の終点:今井橋なのだが、帰る都合もあり一之江駅までとした。 この続きは、いずれ歩くとしよう!

2015年1月17日 (土)

法華経寺

JR総武線下総中山駅で下車し、法華経寺とその周辺をブラリ散歩。 1万歩、7㎞。


①下総中山駅
・・・・・・・・・・明治28年(1895)、総武鉄道の中山駅として開業し、大正4年(1915)に下総中山駅に改称した。 ここの駅には大正初期に、サツマイモ、薪炭などの農作物・資材の輸送を目的とした東葛人車鉄道が延伸し、鎌ヶ谷~中山間の営業が開始されたが、数年後には休止し、会社も廃業した。 知る人は少ないね!(私も、数年前まで知らなかった)・・・・・・・・人車鉄道は木下街道(きおろしかいどう)を通っていたので、中山競馬場へ行くにはちょうど良い交通機関になったかも? その時は人車でなく、馬車にしたかもね!

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・・・・・・・・・・・・・・昭和41年頃の下総中山駅。(清華園の案内板の写真より) まだ、地上ホームと跨線橋の時代だ。

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・・・・・・・・・・・・・・駅前の参道。 「南無妙法蓮華経」と染め抜いた赤い旗が並ぶ。

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②京成中山駅
・・・・・・・・・・大正4年(1915)に中山駅として開業し、昭和6年(1931)に京成中山駅と改称した。 列車6両分の長さしかない2面2線の相対式ホームで、優等列車はすべて通過する悲しい駅である。 年に一回、エイプリルフールの日には、スカイライナーが停車したらマニアは驚き喜びそうだね!

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③法華経寺黒門
・・・・・・・・・・・・京成中山駅の近くの参道を跨ぐ総門。 江戸時代初期の建築と言われている。 四角い本柱2本と丸い控え柱4本で組まれ、上部に切り妻屋根をを載せた門。 平成21年(2009)には、基礎をコンクリートに改めた。 

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・・・・・・・・・・・・・・扁額には、『如来滅後 閣浮堤内 本化菩薩 初轉法輪 法華道場』と彫られている。 どうゆう意味?、、、、、そんなこと私には解らん。解れば大上人になっているよ!
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④清華園
・・・・・・・・・・・・参道に面して門のある清華園は、平成4年(1992)、地元の石井はなさんから寄贈された。 石井家は江戸時代中期の享保年間(1716~36)からこの地に住み、近代に入って文房具店と「清華堂」と名付けた書店を営んでいた。 建物は戦後の造りで見るべきものはないが、敷地は奥行きが長く広い、市川市では庭園として整備し公開している。

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⑤法華経寺赤門
・・・・・・・・・・・・参道の中程に赤門(仁王門)がる。 黒門と同時期の建築らしい。 正面の額の文字は、本阿弥光悦筆で、山号の『正中山』。

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⑥参道の左右に並ぶ寺院
・・・・・・・・・・・赤門をくぐると、参道の左右には山内の寺院・塔頭が並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・・寺院の先には、数件の食事処(?)、みやげや(?)らしき店がある。 店頭には法華経寺の名物“きぬかつぎ”が並んでいる。 “きぬかつぎ”とは「衣かつぎ」と書き、サトイモの小芋を皮の付いたまま蒸して、皮を剥いで塩を付けて食する。 味は?、、、、、自分で食べてみて! 

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⑦祖師堂
・・・・・・・・・・・鎌倉時代の文応元年(1260)に創建された法華経寺の堂。江戸中期の延宝6年(1678)の建築、比翼入母屋造で屋根はこけら葺き、重要文化財である。

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⑧五重塔
・・・・・・・・・・・・・元和5年(1622)、加賀前田家の寄進により建立した。国の重要文化財。 こちらも重要文化財。

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⑨聖教殿
・・・・・・・・・国宝の「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」、「立正安国論」及び、重要文化財61巻ほか多くの宝物を所蔵する宝殿。 設計は宗教建築の大家で東大教授:伊東忠太、施工は清水組で、大正15年(1926)に起工し、昭和4年(1929)に竣工した。 塔の直径は10m、高さ22.8mで、鉄筋コンクリート造、仕上げは花崗岩張り。 本当に、この中に国宝が保管されているのか、湿気て劣化してしまうかも、疑ってしまいゴメンなさい!
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⑩鬼子母神堂
・・・・・・・・・・・木造の鬼子母神堂の前に、近代的な本院・大客殿が造られ、廊下を伝って進んだ先に鬼子母神堂がある。 日蓮大聖人御親刻の鬼子母神像を安置されており、江戸三大鬼子母神のひとつとされる。

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⑪若宮奥之院
・・・・・・・・・・法華経寺の奥之院。 祖師堂から700m程奥に入ったところにある堂。 山寺の奥之院なら、山道をかき分け進んで行くが、ここは住宅が並ぶ法華経寺の裏道を進んで行く。

・・・・・・・・・・・・・・道の曲がり角には奥之院へ導く道標が建てられている

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・・・・・・・・・・・・・着いたところは、コレマタ立派な奥之院!

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・・・・・・・・・・・・・・境内には水子地蔵尊も祀られている。 私も腹をいためたわけではないが、手を合わせてきた。

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2015年1月16日 (金)

神田川(都橋~水門橋)

一昨年の12月、神田川の橋を最下流の柳橋から歩き始めたが、昨年の夏の暑さと入院により途中で中断した状態となっていた。 一昨日、隅田川の橋梁を制覇したことで、今日は神田川の橋を制覇すべく、残り12橋をめぐってきた。 9千歩、7㎞。

①久我山橋・・・・・・・・・神田川に架かる人が自由に通れる橋を下流から見てきたが、その127番目が、京王井の頭線久我山駅前に架かる久我山橋。 今日はここからスタートです。

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②都橋
・・・・・・・・・・・・128番目は都橋(みやこばし)。 両側の欄干には、なぜか緑のボロボロとなったシートが掛けられている。 橋名も透けて見える、存在感の薄い橋だ。 せっかく名づけられた、いい橋名だが、名前負けしているね! 

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・・・・・・・・・・・・・・・この辺りは、住宅街だが高層マンションは無く、低層の親しみやすい感じのマンションが多い。 でも、川筋を歩いていると、洗濯物が見えるのは好きになれないね!

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③宮下人道橋
・・・・・・・・・・昭和53年(1978)完成の人間様専用の橋。 犬もOK!

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④宮下橋
・・・・・・・・・久我山駅から350m程西に寄った地点に、昭和53年(1978)に完成した130番目の宮下橋がある。 その名のとおり、“宮”(久我山稲荷神社)の下に位置する橋だ。 

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・・・・・・・・・・・・・・橋の北側、小高い処に久我山稲荷神社がある。 創建年代は不詳だが、古くから久ヶ山村の鎮守さまであった。 “村の鎮守の神様”の雰囲気が残っている神社だ、湯立て神事の奉納も残っている神社。

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⑤緑橋
・・・・・・・・・これまたイージーな命名の緑橋(みどりばし)。 昭和54年(1979)完成。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の左右は桜の名所? 太い幹の桜が川筋を覆っている神田川には多い光景だ。 花見の頃にまた来てみたいね!

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⑥みすぎ橋
・・・・・・・・・132番目の橋。 “みすぎ”って何? 答えは、、、、、右岸は三鷹市井の頭、左岸は杉並区久我山で、三鷹の“三”と杉並の“杉”で「みすぎ」と言うこと! 漢字で“三杉橋”と称すれば納得できるが、ひらがなで“みすぎ橋”とは解りにくいね。 これより上流は三鷹市でござる!
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⑦神田橋
・・・・・・・・・・・・・・昭和55年(1980)完成のこの橋の名もチョイとイラつくね! 神田川には、中野区、杉並区、三鷹市に、それぞれ「神田橋」が架かり3本ある。 本家・本元と思われる、千代田区神田近辺の神田川には「神田橋」はなく、千代田区は日本橋川に「神田橋」が架かっている。、、、、、“なんだかんだと 役所仕事の 神田橋 ややっこしくて 舌噛んだ”

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⑧三鷹台駅
・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)帝都電鉄の駅として開業。 近くには立教女学院があり、可愛い学生さんが下車する駅。 ウロチョロすると変態爺と思われるので、静かに、足早に、通過!

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・・・・・・・・・・・・・・駅の渋谷寄りに、井の頭線が神田川を越える橋梁が架かる。 新しそうなコンクリート橋である。 橋梁の端からは駅はスグだ。

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⑨丸山橋
・・・・・・・・・・・・134番目の橋は、三鷹台駅前踏切の北側に架かる橋。 昭和58年(1983)の竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・三鷹台駅から350m程は、中央の遊歩道を挟み、右に神田川が流れ、左に井の頭線が走る。 いいね、欲を言うと神田川の護岸をもうチョイと低くして、川と親しみやい遊歩道だと、モンクないのだが!

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⑩あしはら橋
・・・・・・・・・・・昭和57年(1982)に竣工した「あしはら橋」。

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⑪神田上水橋
・・・・・・・・・上流側に井の頭公園の森を見る神田上水橋。 昭和58年(1983)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・神田上水橋から上流側は井の頭公園となる。

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⑫夕やけ橋
・・・・・・・・・・公園内のせせらぎに造られた橋だ。 ここでは、護岸がなくなり、自然に近い景観となっている。 

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⑬井の頭公園駅
・・・・・・・・・・公園内にある井の頭公園駅。 昭和8年(1933)に、帝都電鉄渋谷~井の頭公園間が開業した。 その後、昭和9年(1934)に、井の頭公園~吉祥寺間が延伸開業した。 約一年間は井の頭線の終点駅であった。 駅舎は平成18年(2006)に改装された。

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・・・・・・・・・・・・駅を出た井の頭線は、すぐに神田川を越え、吉祥寺に向かう。 そこに架かる橋梁。 鋼桁には昭和7年(1932)製作の表示が残されていた。

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⑭よしきり橋
・・・・・・・・・・・井の頭線の脇に架かる橋。 公園内の橋。

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⑮水門橋
・・・・・・・・・・・東京都が掲げている案内板によると、神田川の最上流端はこの水門橋である。 ここから上流側は、川ではなく井の頭公園の「井の頭池」と言うことになる。 これで私も、神田川で人が自由に行き来できる橋梁(139橋)すべてを制覇したことになる。 ご苦労様でした!

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・・・・・・・・・・・・・・・橋の横に建つ「水門橋」の碑

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・・・・・・・・・・・・・・水門橋から見る、井の頭池の水門。

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⑯ひょうたん橋
・・・・・・・・・・オイ、チョイトまて! 水門の直前に橋があるぞ! どうやら、この橋は池の橋として扱われ、神田川に架かる橋ではないようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・公園の散策は、暖かくなったらゆっくり夫婦で来ることとしよう。 今日はここまで!

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●神田川の全橋梁は、隅田川寄りの最下流から13回の散歩に分けて踏破しました。・・・・・・・・・・ブログ『雅万歩』のカテゴリーから「神田川」を選択すれば、すべてを見ることができます。

2015年1月14日 (水)

佃大橋・勝鬨橋・築地大橋

隅田川の橋梁めぐりも、いよいよ大詰め、38番目の佃大橋、39番目の勝鬨橋と見て、40番目の築地大橋で、〆て完結しました。 1万4千歩、10㎞。


①中央区佃
・・・・・・・・・・・・隅田川下流にて、隅田川と隅田川派川が分岐する位置にある佃島 。 今は月島・晴海などの地区とつながり、島のおもかげは薄れてしまった。 かつては、隅田川の対岸から渡し船で渡ったもので、遠い昔の話となった。 私は、昭和35年頃、渡し船で佃島へ行った思い出がある。 当時は、都の運営によるポンポン船の渡し船で、乗船料はタダであったと記憶している。

・・・・・・・・・・・・佃3丁目・・・・・・・・・明治29年(1896)に佃3丁目(旧:新佃島)埋め立てが完了した。

・・・・・・・・・・・・佃3丁目の路地裏の民家

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・・・・・・・・・・・・・・海水館の碑・・・・・・・・・・海水館は明治30年代(1900前後)の終り頃、新佃島(現:佃3丁目)にあった旅館です。 当時、この辺は房総を一望できた景色のよい、閑静な場所で、この地を愛した島崎藤村、小山内薫、木下杢太郎、市川左団次、三木露風、吉井勇、久保田万太郎、竹久夢二、日夏耿之助らの文人がしばしば集い、滞在したと言われている。 現在は、旅館もなく、房総を一望できず、ただ碑があるのみ。 碑の前には、高い護岸が連なり見えるのは、ご近所の植木鉢ばかりなり。

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・・・・・・・・・・・・・佃1丁目・・・・・・・・・・徳川家康の時代にできた、最も古い埋立地。 

・・・・・・・・・・・・・住吉神社・・・・・・・・・佃1丁目のシンボル的な神社。 大正5年(1916)に造られた赤煉瓦の神輿庫は、拝殿の脇にチョイと恥ずかしげに建っている。

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・・・・・・・・・・・・・佃小橋・・・・・・・・・・・・住吉神社とならび、佃のシンボル。 朱塗りの欄干が特徴的で、佃の写真にはたびたび登場する。 橋長12.5m、鉄筋コンクリート造、昭和59年(1984)の架橋。

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・・・・・・・・・・・・・・佃島渡船場跡・・・・・・・・・・佃大橋の際の公園にある、佃島渡船場の跡地の碑。 明治9年(1876)に、渡し賃一人5厘で始まった渡し船。 大正15年(1926)には、東京市の運営となり、翌昭和2年には無賃の曳船渡船となった。 昭和39年(1964)に、隅田川を跨ぐ佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止された。

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②佃大橋
・・・・・・・・・・・・隅田川の上流から数えて、38番目の橋梁は佃大橋。 上流側の永代橋と下流の勝鬨橋の間に、昭和39年(1964)、東京オリンピック開催に備え架けられた。 飾りのない、味気ない、素っ気ない、3径間連続鋼床鈑箱桁橋で、見る人を楽しませてくれない橋だ! 橋桁の製作は、地元の石川島播磨重工業(現:IHI)佃島工場である。

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聖路加ガーデン
・・・・・・・・・・・隅田川の右岸(中央区明石町)にカッコよくそびえ建つ「聖路加タワー」と「聖路加レジデンス」。 共に平成6年(1994)に竣工した建物、大きな方が聖路加タワーで、地上48階(約221m)建て、オフィスと商業施設で使用。 小ぶりな方は、地上38階(約141m)建ての聖路加レジデンス。 1階から31階までは、高齢者向けの賃貸マンション。 32階から38階までは、阪急ホテル。 両ビルは上層部の連絡橋で結ばれている。・・・・・・・・・・“聖路加”は、“せいろか”と読まずに、正しくは“せいるか”だ! 私は、四の五の言わずに、江戸訛りで“せいろか”と発音しているのだが、、、、キリスト教の聖人ルカさまに失礼しました、ゴメン!

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④旧月島警察署西仲通交番
・・・・・・・・・・月島もんじゃストリートの中程に、現存する最古の交番建築がある。 現在は地域安全センターと称して使用している、大正15年(1926)の建物。・・・・・・・・・・警棒を持った制服のお巡りさんが、交番の前に立っている光景を想像してしまうね!  

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⑤月島川水門
・・・・・・・・・・・佃島の南側に明治時代に造成された埋立地である月島と勝どきの間を流れる長さ500m程の短い運河が月島川。 隅田川と運河の接続部に月島川水門はある。 昭和39年(1964)に設置された水門で、幅員11mのローラーゲート式。 

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⑥勝鬨橋
・・・・・・・・・・・・・39番目の橋は、国の重要文化財である、御存じ「勝鬨橋」。 築地と対岸の月島を結ぶ橋の架橋は悲願であったが、明治38年(1905)の日露戦争で旅順陥落祝勝記念として、とりあえず「かちどきの渡し」が設置された。 その後、昭和4年(1929)に架橋が計画され、昭和15年(1940)に竣工した。 開閉式の橋として、昭和45年(1970)11月29日まで開いていたが、以後は一度も開いていない。・・・・・・・現在、開けるとなると、機械の整備から始めるため、10億円程かかるそうだ。 現実的には、もう、開けるのは無理だろうね!

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・・・・・・・・・・・・・橋の袂には「かちどきのわたし」の碑がある。

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⑦築地大橋
・・・・・・・・・・・・40番目の橋梁は、ただいま開通に向け整備中の「築地大橋」。  都は、赤坂見附 → 虎ノ門 → 新橋 → 築地 → 勝どき → 晴海 → 豊洲 → 有明と東京オリンピック競技場・選手村へのメインアクセスとなるであろう環状2号線の道路整備を実施している。 その一環として、これまで、隅田川の最下流に架かる橋は勝鬨橋であったが、さらに下流の築地市場のある築地5丁目と勝どき5丁目を結ぶ、築地大橋の架設工事が昨年完了した。 橋長245m、鋼3径間連続中路式アーチ橋。 まだ、工事中につき渡れず、遠くからチラリとみて、パチリとしてきた。

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●・・・・・・・・・・・・・昨年の8月9日から、隅田川に架かる全橋梁を見てきました。 途中、8月13日から大動脈解離を患い、11月まで入院生活。 退院後に、続きを再開し、本日めでたく最下流の築地大橋で終了します。

●2014年8月9日・・・・・・・1番目:岩淵水門~3番目:新神谷橋


●2014年8月11日・・・・・・4番目:新田橋~6番目:豊島橋


●2014年11月27日・・・・・7番目:首都高隅田川橋梁~10番目:舎人ライナー隅田川橋梁

●2014年11月28日・・・・・11番目:尾竹橋~12番目:京成本線隅田川橋梁

●2014年12月2日・・・・・・13番目:東京電力送電橋~20番目:水神大橋

●2014年12月6日・・・・・・21番目:白鬚橋~22番目:桜橋

●2014年12月13日・・・・・23番目:言問橋~25番目:吾妻橋

●2014年12月22日・・・・・26番目:駒形橋~29番目:蔵前専用橋

●2014年12月30日・・・・・30番目:総武線隅田川橋梁~35番目:隅田川大橋

●2015年1月10日・・・・・・36番目:永代橋~37番目:中央大橋

●2015年1月14日・・・・・・38番目:佃大橋~40番目:築地大橋

2015年1月12日 (月)

浅草

北風の吹く寒い成人の日、昼から妻と浅草へ散歩に、、、、、、

●・・・・・・・・・・・『チョイと寒いね、久しぶりに松屋に入ってみよう!』と話し、“松屋”(現在は、EKIMISEと称す)にお立ち寄り。

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●・・・・・・・・・・・・まずは、北風の吹きつける屋上にあがり、屋上に遊園地があったころの思いで話で年齢を感じ。 青空の下、スカイツリーをパチリ! 

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●・・・・・・・・・・・下の階では、北海道の出店で、「ココアキャラメル」、「珈琲キャラメル」を買い。 まぼろしの「しるこキャラメル」、「牛乳キャラメル」とキャラメルに話題は移った。

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●・・・・・・・・・・・・歴史を感じる階段の手すりを撫でながら下りる。 昭和6年(1931)の建築。 80年以上経過したシブイ階段だ! 

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●・・・・・・・・・・・・階段を下りると家電専門店。 4KTVの美しさに、つい見とれて『綺麗だね、いいね!』。 次は、コーヒーメーカーを見て、『旨いコーヒーできるかな? ひとつ、買ってみようか!』と、衝動買い。 

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●・・・・・・・・・・・・この下の階は衣料品売り場、しかも婦人物。 私の歩みは早まり、妻の歩みはスローに! 『またまた、衝動買いとなると、最悪だ!』 ブタに別れを告げて、ここは階段で一気に1階まで。 

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●・・・・・・・・・・・・仲見世に来ると、『なんたる混みよう、もう三が日も過ぎ、今日は何もないはずだ!』。 妻が『今日は成人の日、まだ正月の初詣気分が続いているの!』。 納得!! 

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●・・・・・・・・・・・・仁王門の下で晴れ着姿の新成人が、『おめでとう!』。 『おや、片手にお持ちの“あげまんじゅう”、美味しいですか?』、、、、、ピチピチの娘さん、可愛いね!

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●・・・・・・・・・・・北風に旗もなびく中、『この人出 やっぱり天下の 浅草寺』 

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●・・・・・・・・・・・本堂には巨大な賽銭箱が年末から置かれている。 ちらほら見える紙幣だが、束で入れる人はない!

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●・・・・・・・・・・・・・海外からの姐さんも、小銭入れから賽銭を、、、、、『エライ! 御利益があるよ!』

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●・・・・・・・・・・・・そろそろ、ひと休みするかと思う頃、甘味処は行列。 『今日は“あんみつ”やめた!』 短気な私には行列はダメ。 寒空の下で、30分待ちの行列は、小便をチビルだけ!、、、、、『今日は、コーヒーにホットケーキとしよう。』

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●・・・・・・・・・・・・『オヤ! こちらも、可愛い娘。』 ついついパチリ! 隣で妻も笑い顔。

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●・・・・・・・・・・・ホットケーキを食べた後は、雷門で新成人の集団が、私を笑顔でお出迎えと思いきや、何かのインタビューだった。 残念! 

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●・・・・・・・・・・・・外人さんもカメラを構えて、『ビューティフル ゲイシャガール!』なんて、思っているかな? “ゲイシャガール”は、チョイと古いね! ゴメン!

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2015年1月10日 (土)

永代橋・中央大橋

隅田川の最上流:岩淵水門から数えて、36番目の橋梁は永代橋、37番目は中央大橋、今日の散歩はこの2橋と霊岸島(中央区新川)を辺りをぶらついてきた。 1万4千歩、10km。

●昭和23年の「国土地理院の空中写真」では、清洲橋と永代橋が隅田川に架かっているが、隅田川大橋と中央大橋は架かってない。 霊岸島には島の中央付近に亀島川 と隅田川を結ぶ運河:「新川」が写っている。 地名「新川」の由来となった運河。

1948


①湊橋
・・・・・・・・・・・・中央区新川と日本橋箱崎町を結び、日本橋川に架かる湊橋(みなとばし)。 この辺りは、江戸時代には「江戸湊」と呼ばれ、江戸と地方を結ぶ水運の中心地で、まさに港であった! とくに、塩、酒、醤油などの生活必需品運搬の中心地となっていたので、現在でも橋の北詰には、海運業・酒問屋・醤油問屋などの会社が多い。・・・・・・・・・・・現在の橋は、関東大震災復興事業の一環で昭和3年(1928)に架けられた、鉄筋コンクリート3連アーチ橋である。 総工費は、ナント!、208,000円なり。 平成元年(1989)に改装され、チョイとモダンな外観となった。

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②豊海橋
・・・・・・・・・・・湊橋の下流、日本橋川が隅田川に合流する地点に豊海橋(とよみばし)が架かる。 こちらも、昭和2年(1927)に震災復興橋として架設された。 この橋は、永代橋を意識し、梯子を横にしたような重量感あるデザインで設計された。 丈夫な鉄骨をガッチリと鋲止した橋。 橋長約46m、設計は福田武雄、施工は横河橋梁製作所。

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③IBM箱崎ビル(三井倉庫箱崎ビル)
・・・・・・・・・・・豊海橋の箱崎寄りには、IBM箱崎ビルがある。 地上25階建て、高さ:108.32m、約135,000㎡の延床面積を有し、設計・施工は竹中工務店、オナーは三井倉庫の建物だ。 平成元年(1989)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・・高尾稲荷神社・・・・・・・・・・IBMの前にある神社。 万冶2年(1659)、江戸の花街:吉原の遊女高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため切り殺された。 隅田川に捨てられたその遺体が引き揚げられた北新堀河岸(現:日本橋箱崎町)に、彼女の神霊高尾大明神を祀ったのを起源としている。 現在、神社には、稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭神として安置している。・・・・・・・・・高尾太夫の頭蓋骨?チョイと気味が悪いね!

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④茅場町タワービル
・・・・・・・・・豊海橋の新川寄りには、平成9年(1997)突然廃業した旧山一証券の本社ビルがある。 倒産当時は連日このビルが象徴的にテレビに映し出されていた。 ビルは倒産前年の平成8年(1996)に竣工した、地上21階、高さ99.9mの規模を有する大きなビルだ。

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⑤永代橋
・・・・・・・・・・・元禄11年(1698)に初代永代橋が架けられた。 隅田川で4番目の架橋である。 当時としては最大規模の橋であったが、木造で維持管理が大変だったようだ。 文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の祭礼日には、詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、1400名以上の犠牲者を出す落橋事故が起きた。 大田南畝の狂歌には、、、、“永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼”とある。・・・・・・・・・現:永代橋は、関東大震災復興橋の一つで、橋長185m、3径間(中央はスチールアーチ橋、両側は鋼桁橋)の橋。 設計は田中豊原案、竹中喜忠設計(意匠面では山田守、山口文象もの関与)、橋桁製作は神戸川崎造船所、下部工の太丸組は間組の施工で、大正15年(1926)12月20日に完成した。 震災で疲れた東京市民への、年末のクリスマスプレゼント!    

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・・・・・・・・・・・・・・・・永代橋から眺めた佃島。 隅田川はここで右:隅田川と左:隅田川派川に分岐する。

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⑥新川の跡
・・・・・・・・・・永代橋際の新川公園には、地名の由来となった運河の「新川」跡に碑が立っている。 新川は万治3年(1660)、政商であった河村瑞賢の開削と伝えられている運河。 河村瑞賢の屋敷は新川にあり、諸国から運ばれてくる荷の陸揚げを容易にするため、運河を開削したそうだ。 運河は昭和23年(1948)から、戦後の残土処理のために埋め立てが始まり、翌昭和24年には完全に消滅した。 

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⑦霊岸島(新川)の神社
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・・・・・・・・・・・・・・新川大神宮・・・・・・・・・・・・中央区新川のビルの谷間にある神社。 新川大神宮は、慶光院周清上人が寛永2年(1625)に代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けたことが始まり。 その後、明暦3年(1657)の大火で類焼したので、霊岸島に替地を賜り、万治元年(1659)勧請したといわれている。 酒問屋の信仰が篤く、第二次世界大戦で罹災後も、昭和27年(1952)に全国の酒問屋からの協賛を得て再建した。・・・・・・・・・・河村瑞賢の屋敷跡に近い神社。

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・・・・・・・・・・・・・・新川金刀比羅神社・・・・・・・・・・神社は、天保年間(1830-1844)武蔵国山岡吉右衛門邸に創建、明治8年当地に遷座したといいます。 歴史を感じられない、何もない神社。 せめて、道路側に神社名を表示してほしいね!

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・・・・・・・・・・・・・・於岩稲荷田宮神社・・・・・・・・・四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」(1825年初演)の主人公お岩の伝承をもつ神社。 御祭神は豊売比売大神、田宮於岩命。 明治の初め、歌舞伎役者や崇敬者の願いを受けて芝居小屋に近く便の良い当地に創建され、江戸の寛永時代から田宮家於岩様(1636年没)を祀る四谷左門町の「四谷於岩稲荷田宮神社とともに参詣されている。 明治12年に神域が手ぜまになったので、現在地に移座し、四谷の神社は飛地境内神社とした。

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⑧中央大橋
・・・・・・・・・・・・・・・・平成5年(1993)に竣工した、橋長215mの鋼斜張ハープ橋。 中央区新川と中央区佃を結んでいる。 佃の超高層マンション群とはよく似合い、いいデザインだ! 

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2015年1月 8日 (木)

佐賀

我が家(浅草橋)から、明治座、清洲橋を通り、江東区佐賀へ。 佐賀の町をうろつき、門前仲町まで。 1万1千歩、8kmの散歩です。

佐賀の町は、清洲橋から永代橋までの隅田川左岸(江東区)の町。 今は、隅田川大橋(上部は首都高9号線)につづく道路が、1丁目(南側)と2丁目(北側)を分断するように横切っている。

「江東区の地名由来」によると:::寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。 元禄8年(1695)の検地後、この地形が肥前国(現・佐賀県)佐賀湊に似ているので佐賀町の名をつけたと伝えられる。

その後、猟師町から江戸の材木置き場、蔵の町と発展した。 町は周囲に多くの運河があり、戦後も昭和の時代までは倉庫・洋館・看板建築などが、多数う残されていた。

①上之橋跡・・・・・・・・・・・上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀川に架る橋であった。 現在、橋跡に残されている4本の親柱は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場 建設に伴い撤去された橋の名残である。

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②蔵のある住宅
・・・・・・・・・・・・佐賀2丁目の、3階建ての蔵のある住宅。 築100年程経過したそうだ! 大正初期の建築か? 内部はヒノキの木組みで、外部は近年、黄土色で塗られた。・・・・・・・・・外見上は、改修されたためか、古さを感じることはできない。

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③佐賀稲荷神社・・・・・・・・・・佐賀稲荷神社は、佐賀町に住む人々の厄除招福を願い寛永7年(1630)に創建された。 境内には力持ちを競う力石が奉納されている。

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④三井倉庫・・・・・・・・・・佐賀2丁目、松永橋の際に建つ、昭和37年(1962)竣工の倉庫。

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⑤佐賀の橋・・・・・・・・・・3橋を紹介する

・・・・・・・・・・・・・緑橋・・・・・・・・・・・佐賀町1丁目と福住1丁目を結ぶ橋で、大島川西支川に架かる。 昭和4年(1929)竣工の鋼鉄製トラス橋で、東京市復興局の設計である。 橋長23mの小さな橋であるが、トラス部分に膨らみのあるデザインを施し、存在感を出している。 

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・・・・・・・・・・・・・緑橋の北側で、大島川西支川を望む。

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・・・・・・・・・・・・・御船橋・・・・・・・・・・・緑橋の南に架かる御船橋(みふねはし)は、昭和3年(1928)に竣工した3径間鋼鉄ガーター橋である。 アールデコ調の洒落たギザギザの親柱が特徴の橋。

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・・・・・・・・・・・・・・豊島橋・・・・・・・・緑橋の北側、佐賀2丁目の大島川西支川の支流・中之堀川に架かる橋。 東京市臨時復興局の設計で、昭和5年(1930)に竣工した1径間鋼製ガーター橋である。 

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・・・・・・・・・・・・・豊島橋の架かる大島川西支川の支流・中之堀川。 突き当りの右側で川は途切れる。 水運時代の名残りの運河。

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⑥佐賀1丁目の建築
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・チョイと洋館風の建物・・・・・・・・・・「コスガ」という会社の建物です。

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・・・・・・・・・・・・・コスガの隣りは肥料製造業「網中産業株式会社」。 近年、外装を改装しているが、玄関ドアに古さを残している。

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・・・・・・・・・・・・・看板建築・・・・・・・・・・
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⑦精麦会館
・・・・・・・・・・・佐賀1丁目に建つ、昭和26年(1951)に設立された全国精麦工業協同組合連合会の建物。 連合会HP掲載の昭和37年(1962)当時の写真では、クラシカルなデザインが外壁を覆い、特徴ある建物であった。 現在は補修したのか? 凹凸、飾りは無くなり、味のない建物だ!

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⑧村林ビルディング・
・・・・・・・・・・・精麦会館の斜め前にある、鉄筋コンクリート3階建て、コーナー部に玄関を配し、丸みのある特徴的なビル。(「佐賀町スタジオ」とも称されていた) 建物は関根要太郎の設計、大林組の施工により、昭和3年(1928)に竣工した。・・・・・・・・・・今は設計事務所が使用している。 ときたま、TVの撮影などにも使用されているようだ!

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⑨紀文稲荷神社
・・・・・・・・・・・・御船橋の袂(江東区永代1)に、江戸時代は元禄の華やかなりし頃の豪商:紀国屋文左衛門が伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地にお祀りした神社が紀文稲荷神社だ。 当時、紀国屋文左衛門の店は八丁堀にあり、その下屋敷が現神社の近くにあった。 また、運河に近く、このあたりに紀国屋文左衛門の船蔵があり、航海の安全と商売の繁盛を祈り、この地にお稲荷様を祀ったものである。・・・・・・・・・なんだか、蒲鉾屋の神社のようでもあるね? 

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2015年1月 7日 (水)

向島百花園

今日は七草粥の日、春の七草を6日の夜から用意し、7日の朝に粥にして食べる日である。 我が家では、朝、家族が揃うことは難しかったので何十年前からか、七草粥は夕食で食べる習わしとなっている。 また、今日までが“松の内”で、正月飾りなども取り下げ神社に持っていく日である。・・・・・・・・正月気分はおしまい!

今日の散歩は「向島百花園」に行って、皇室に献上する七草籠を見てきた。 東武伊勢崎線東向島駅で下車し、百花園とそのご近所を歩き回り京成曳舟駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。


①向島百花園
・・・・・・・・・・・骨董商を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、文化2年(1805)に花園として開園した。 開園当初は360本もの梅の木を植えたことから、亀戸にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていた。 文化6年頃より「百花園」と呼ばれるようになり、江戸時代には文人墨客のサロンとして利用された。 著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。 昭和13年(1938)に所有者から東京市に寄付され、翌年には有料の公園として再開園した。

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・・・・・・・・・・・・・冬の百花園は枯草色に染まり、寒そうだ!

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・・・・・・・・・・・・・向島百花園では文化4年(1807)より、園主が年末に籠に植えた七草をお得意様にお歳暮として届けていた。 この慣わしが現在の七草籠の原型らしい。 明治時代には、お得意様の中に九條家(後の大正天皇の皇后様となられました節子姫の御生家)があり、年末になると七草籠を届けていた。 その後、明治33年(1900)に節子姫が大正天皇の皇太子妃になられると、七草籠を宮内庁に届けるようになり、献上七草籠のはじまりとなった。 毎年百花園の職員が手作りで育てた七草を籠に盛り込んで、新年に皇室に献上しているそうだ。・・・・・・・・・・竹の籠には、七草(せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ)が植えられ、粋で、上品なお歳暮だね。

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・・・・・・・・・・・・・園内の福禄寿尊堂には福禄寿が祀られ、「隅田川七福神めぐり 」のコースに組み込まれており、七福神めぐりの人も、入園料を払って手を合わせている。 しっかりと、祭壇には七草籠も供えられている。

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・・・・・・・・・・・・まもなく春です、、、、、、冬囲いのとハボタン、咲いたスイセン、ふくらんできたフクジュソウ、蕾がでてきたウメ、、、、みなさん、春に向け準備はよろしいようで!

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②子育地蔵尊
・・・・・・・・・・・・・百花園から墨堤通りにでた際に、子育地蔵尊が祀られている。 由来は、、、、、『文化年間(1804~1817)に隅田川の堤防修築工事の際、 土中から発見されたと伝えられている地蔵様で。 当初は村の子供たちが、 神輿がわりにこの地蔵様をかついでいたそうだ。 ところがこの地に古くから住む植木屋平作方の雇人夫婦が、ある日、田地で殺害されましたが、この地蔵が村のこどもの口をかりて犯人をお告げになり、 たちまち犯人を捕えることができた。 この奇跡に驚いた平作は、 当所に地蔵を安置して供養を怠らず。 その後、将軍家斉が当地に鷹狩に来て、 平作方に小憩の際、 地蔵の由来を聞いて感銘し、帰城の時にお参りした。 平作はこれを記念して小堂を建てて、 地蔵を安置したところ、 多くの人々が参詣するようになった。』

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③蓮花寺
・・・・・・・・・・・・・百花園の南側に位置する清瀧山蓮花寺は、京都智積院末で真言宗に属し、本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられている。 寛元4年(1246)、鎌倉幕府五代執権北条時頼の甥頼助が建立、鎌倉に建立した蓮華寺を時頼が当地へ遷したと伝えられています。 江戸時代には数多くの末寺を、隅田、亀戸、堀切などの近隣に持つ中本寺格の寺院であった。 東向島では大きな寺だ!

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④京成曳舟駅
・・・・・・・・・・・・大正元年(1912)に開業した。 只今、京成押上線の押上~八広間の高架化工事の真っ最中である。 既に上り線は、平成25年(2013)に高架となった。 下り線は、現在地上の仮ホームを使用中であるが、高架部分も7割程度完成しており、来年あたりは高架に切り替わっているかも?

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●・・・・・・・・・・・・・・・・我が家の夕飯、七草粥がでてきたね!

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2015年1月 5日 (月)

小岩~柴又

JR総武線小岩駅から、北へ歩きはじめたが、途中で女狐に惑わされ、行き着いたところは、四日前に来た柴又。 これも何かの縁と思い、閉店前の帝釈天に手を合わせて帰る。 9千歩、7㎞。 


①JR小岩駅北口
・・・・・・・・・・・・明治32年(1899)、私鉄:総武鉄道の駅として開業し。 明治40年(1907)に、国有化される。 駅前のバスターミナル、賑やかな商店街などがあるのは南口。 駅裏の駐輪場、寂しい商店街などがあるのは北口。

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②中島商店
・・・・・・・・・・・・北口の商店街にある、線香、香、蝋燭の専門店。 看板の「好文木(こうぶんぼく)」とは店名ではなく、大阪で300年の歴史を誇る「梅栄堂」の線香のブランド名。 線香の好文木は、中国の故事による「文を好む平和の花」として梅の美称を頂戴し、白檀、桂皮などの天然香料をふんだんに使用した線香の逸品。・・・・・・・・建物は昭和10年頃の建築らしい。

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③吉野湯
・・・・・・・・・・・・昭和27年(1952)に開業した西小岩の銭湯。 戦後の建物だが、瓦葺きの堂々とした建物である。 私は利用したことがないが、話ではかなり熱めの湯で、頑固親爺向けの銭湯らしい。

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④小岩用水
・・・・・・・・・・・・小岩駅北口から駅前の通りを真っ直ぐ歩いてきたが、葛飾区鎌倉1丁目に入ると、道もチョイと曲がり、鎌倉2丁目で京成線とぶつかった。 “オヤ!行き止まりだ!”

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・・・・・・・・・・・・・・道の中央に、何やら案内板が、、、、、「小岩用水の沿革」である。・・・・・・・・超要約すると、ここには、現在の水元公園 から引かれた小岩用水が、昭和40年頃まで流れていた。 この用水は江戸時代中期に、現在の葛飾区・江戸川区の農業用水として整備されたものである。 戦後になると、用水の役割はなくなり、家庭排水が流れるようになった。 区では用水を緑道として整備した。

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・・・・・・・・・・・・・・線路とは反対側を眺めると、広い道が整備されている。 この道は江戸川区の中央付近まで続いている。 かつて、小松菜などの野菜作りに整備した小岩用水の跡だ!

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・・・・・・・・・・・・・・踏切を渡り小岩用水の跡には、寛文3年(1663)に建立された地蔵菩薩と、安永6年(1777)に建立された青面金剛立像が祀られている。

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⑤鎌倉八幡神社
・・・・・・・・・・地蔵菩薩のところで、女狐に出会い、私の足はついフラフラと女狐の方角に向かい、いつのまにか鎌倉3丁目の迷路のような裏道に、我に目覚めたのは鎌倉八幡神社の前だった。・・・・・・・・・『寛永年間(1624-44)相模鎌倉郡の人、源右衛門が当地開発に際し、鎌倉八幡宮を勧請して氏神としたもので、地名の鎌倉もこれに由来するという。』と、葛飾区教育委員会では説明している。

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⑥新柴又駅
・・・・・・・・・・・・途中、元旦に“柴又七福神めぐり”で歩いた新柴又駅を通り、鎌倉八幡神社からは柴又街道を柴又へ向かう。 

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⑦帝釈天
・・・・・・・・・・・・・柴又へ来てしまったので、日も暮れたが、一応、帝釈天に御挨拶して帰ることにした。 参道の店は、そろそろ閉店です。

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⑧柴又駅・・・・・・・・・・・・・寅さんに別れを告げ、二人が語らうホームに立つと、男一人は寒いね!

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2015年1月 4日 (日)

巣鴨~板橋

今日は4日、“4”のつく日は巣鴨の“とげぬき地蔵”の縁日である。 “よし、久しぶりに地蔵様を見に行こう!”と、我が家を飛び出した。 巣鴨から板橋まで、9千歩、7㎞の散歩です。 (2013/3/13に、ほぼ同じコースを板橋側から歩いているので、重複するコメントはカット!)

①眞性寺(江戸六地蔵)・・・・・・・・・・“巣鴨地蔵通り”入口(出口かも?)の手前に、江戸六地蔵尊の一つとして知られる真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺がある。 江戸の六街道の出入り口に六体の地蔵様が祀られ、道中の安全を見守ってくれた。 ここは、中山道の出入り口にあたり、大きな傘をかぶり杖を持つ地蔵様が、旅人の安全を見守っていた。 像は正徳4年(1714、=井伊直該が隠退により大老を辞任した年)に造立された。 300年間、この地に座り旅人を見守り、ありがたい地蔵さんだ。

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②巣鴨地蔵通商店街・・・・・・・・・・・私には、年齢的にまだチョイと違和感を肌で感じる商店街。 原宿の竹下通り商店街の方がなじみやすいね!

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・・・・・・・・・・・・・まだ午前9時前であるが、今日は「初地蔵」でヨタヨタのお年寄りが多く参拝するため、特別体制で警備にあたるお巡りさん。 只今、打合せ中。

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・・・・・・・・・・・・・・お年寄りは、朝は早いし、気が早い、地蔵通りには既にお年寄りの姿が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・開運赤パン・・・・・・・“巣鴨名物?”、ウンがつく赤パンツが店頭に!

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・・・・・・・・・・・・・・大福やさんの前には、お年寄り向けに解りやすく表示された食堂のショーウィンドウがあった。 あんみつからコーヒーまでの軽食、かつ丼、オムライス、タンメン、天ぷらそば、和洋中華何でもある食堂です。 既に営業中。

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・・・・・・・・・・・・・・・金太郎飴、たんきり飴、さらし飴、ニッキ飴、あんこ飴、いも飴、げんこつ飴、、、、、懐かしい飴のオンパレード。 どこぞのお坊さんもお買い求め、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・古着屋、骨董屋、古道具屋、何でも屋、、、、、、露店には、既にお年寄りが、お集まり。

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③高岩寺・・・・・・・・・・・「とげぬき地蔵」で親しまれている、曹洞宗萬頂山高岩寺。 慶長元年(1596)に江戸湯島に開かれ、その後下谷に移転し、明治24年(1891)に現在地の巣鴨に移転してきた。 本尊は「とげぬき地蔵」として病気の治癒改善に御利益が期待されている延命地蔵菩薩。 お年寄りには、うれしい御利益だね。 なお、本尊の地蔵菩薩様は秘仏であるため、残念ながら拝見できないそうだ。(お賽銭の額により、ないしょでチラッと見せてほしいね。)・・・・・・・・・「とげぬき地蔵」の由来は、、、、江戸時代、毛利家の女中が針を誤って飲み込んだ際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだら、針が御影に刺さって吐き出されたという伝承がある。(ほんとかな?マジックのような話だ!)・・・・・・・・・本堂は昭和32年(1957)、鉄筋コンクリート造にて完成。

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・・・・・・・・・・・・・境内の脇に立つ石造の聖観音像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれ、これが「洗い観音」の起源となった。 現在の聖観音は、平成4年(1992)に新たに奉納されたものである。 私の場合は、全身に水をかけて、顔を除く、全てを洗わないとダメかも?

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④猿田彦大神庚申堂
・・・・・・・・・・・都電の庚申塚停留所の近くに庚申堂がある。 現在は、庚申様を祀る庚申堂に猿田彦大神を合祀している。猿田彦大神とは日本神話に登場する神様です。天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されました。 庚申塔は文亀2年(1502)に造立された。

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・・・・・・・・・・・・・・猿の顔を見ていたら、何となく、最近見かけることもなくなった三河万歳を思い出した。 私が幼き頃、正月には獅子舞、三河万歳が必ず来て、家々を回っていたものだ。
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⑤東京種苗株式会社
・・・・・・・・・・・・巣鴨地蔵通商店街のある通りは中山道である。 明治から昭和初期にかけ、巣鴨から北区滝野川にかけては 野菜の種を商う種子問屋が軒を連ねていたそうだ。 その一軒が、庚申塚で種子問屋を営む榎本留吉商店(現:東京種苗)の建物で、昭和初期まで日本の農業を支えてきた、種子問屋の歴史を感じることができる。

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⑥すがも鴨台観音堂
・・・・・・・・・・・・西巣鴨3丁目、明治通りに出る直前に、「すがも鴨台観音堂(すがもおうだいかんのんどう)」がある。 八角・三匝の階堂で、二重らせん構造の“さざえ堂”である。 大正大学が建学の理念「知恵と慈悲の実践」に重ねて具象化した建物である。 平成25年(2013)、大林組の施工で建設。 60段の階段をのぼると、鴨台観音が祀られており、健康と幸福を授けてくれる。・・・・・・・・・大正大学のかわいい学生さんが案内してくれました。

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⑦亀の子たわし西尾商店・・・・・・・・・・・・亀の子たわしの元祖:西尾商店の洋風の本社屋(北区滝野川6)。 大正11年(1922)の建築。 

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・・・・・・・・・・・・玄関前の門松、よく見て! 中央に“たわし”をぶら下げてます。 いいね、洒落てるよ!

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⑧滝野川6丁目の建物
・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・M邸・・・・・・・・・元は医院。 昭和初期の建物か?

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・・・・・・・・・・・・・・稲荷湯・・・・・・・・・・昭和5年(1930)年建築。 木造2階建。

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・・・・・・・・・・・・・神召教会・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)建築、鉄筋コンクリート造2階建。 本日は日曜礼拝が行われていた。

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2015年1月 1日 (木)

柴又七福神

我が家の氏神様に手を合わせた後、『どこか“七福神めぐり”しよう!』と、妻と二人で散歩をすることにした。 浅草名所七福神、日本橋七福神、隅田川七福神、深川七福神、谷中七福神、亀戸七福神、、、、、みな制覇したので、今年は柴又七福神とした。

京成高砂駅で下車し、七福神めぐりして、京成金町駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

京成高砂駅 ・・・・・・・・・・・・大正元年(1912)に、曲金駅(まがりかねえき)として開業した。 駅名は「曲金」から「高砂」となり、昭和6年(1931)に「京成高砂」と改称した。 現在は、京成本線、京成金町線、北総線の分岐駅で、電車の発着本数もかなり多い。 駅部付近では、線路は地上に敷かれ、駅東側の都道との平面交差部では“開かずの踏切”となっている。 上野寄りの青砥駅は高架となっており、京成高砂も早いとこ高架化を考えてほしいね。

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②観蔵寺(寿老人)
・・・・・・・・・高砂駅の西側、線路脇の小さな寺が真言宗豊山派の観蔵寺。 文明元年(1469)僧空性坊が創建、承応2年(1653)隆敬法印が中興開山したと伝えられている、私は二人の僧を知らないので、どうでもいい由来である。・・・・・・・寿老人は“新春特別興行”のように、半開きの引き戸の隙間から、チラリと拝見できた。 長寿延命の神様で、数ヶ月前に手術した私にとっては、大切な神様である。 賽銭を奮発!

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③新柴又駅・・・・・・・・・・・北総鉄道の駅の中で唯一、都内に存在する駅。 平成3年(1991)の開業。 乗降客は一日あたり3600人程で、少ない!

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④医王寺(恵比寿天)・・・・・・・・・・新柴又駅の南側に位置する、真言宗豊山派の寺。 応永14年(1407)に創建され、下総国分寺下の薬王寺と呼ばれた。 両目が充血し、最後には失明する恐れがある奇病「赤目病」に御利益があるそうだ。 現在は眼病を護る仏として信仰されている。 私も目の病に罹る恐れがあり、御本尊にチョイと賽銭を置いてきた。・・・・・・・・・恵比寿天は御本尊の腹仏として、天文年間(1532~1555、戦国時代)に作られた三寸五分(約10㎝程)の仏様。 こちらは、商売繁盛の神様。

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⑤宝生院(大黒天)
・・・・・・・・・・・・・こちらは、新柴又駅の北側に位置し、何もない(失礼! 所々に水仙が咲いていた)広い境内の寺。 真言宗智山派寺院の大黒山宝生院は、寛永元年(1624)に、東京の京橋付近で創建された。 その後、下谷谷中への移転し、明暦年間には上野池之端へ移転、関東大震災では罹災し昭和2年(1927)に現在地へ移転した。 本尊が大黒天立像である。・・・・・・・・・私が寺に着いたときは、本堂にて何やら読経の声が聞こえ、本堂のガラス戸が閉められていた。 『おいおい、本尊が見えないぞ!』と、言いたかったが、本堂脇のガラス窓の中に、代役の大黒様(本尊とは、まったく異なる姿・形)がいたので、今日は許す!・・・・・・・・・・大黒様は出世財福の神様。 この神様を本尊とするこちらの荒れた寺には、御利益がないのか?(これまた失礼しました!)

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⑥万福寺(福禄寿)・・・・・・・・・・・昭和3年に創建された、曹洞宗の万福寺。 寺としては比較的新しく歴史を感じるものはなさそうだ。 短身長頭の神様で、福は幸福、緑は高緑、寿は長寿で、三徳を兼ねた神様。・・・・・・・・ところで、この寺の本尊は毘沙門天立像だ。 なぜ、七福神めぐりでは「毘沙門天の寺」としてアピールしなかったのか? 疑問です?、、、、、ナイショの話だけれど、私の推測では、「毘沙門天の寺」は、寺の力関係に起因して、題経寺(=帝釈天)に譲ったのではないかと思う。

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題経寺(毘沙門天)・・・・・・・・・・・・・・ご存じ、寅さんの柴又帝釈天。 正式名称は経栄山題経寺である。 本尊は、まさに帝釈天。 毘沙門天は本堂にあがりの裏手の方に祀られているそうだ。 今日は初詣の人が多く、本堂に上がるのは難しく、毘沙門天とのご対面は後日にしてくださいとのこと、毘沙門天に会えない“七福神めぐり”である。・・・・・・・・・ここまでの“七福神めぐり”の寺は、どこも参拝客はまばらで、警備の必要なし。 でも、題経寺だけは別格、賽銭箱は大きく作られ、警備にはお巡りさんも出動し、境内は人・人・人、、、、、これぞ、寺の力の差か?

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⑧参道でひと休み・・・・・・・・・・・絶滅危惧種を食し、全国に自生する野草の団子をおみやげに、、、、、、人の波にもまれて参道を歩く。

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⑨真勝院(弁財天)・・・・・・・・・・・・帝釈天参の裏側に位置する、道真言宗豊山派の真勝院は、石照山真光寺と号する。 大同元年(806)の創建と伝えられている。 弁財天は本堂正面に祀られていたが、ガラス戸が邪魔だ!・・・・・・・・・女性であり、知恵と財宝の神様である。 真剣に御利益を期待して手を合わせてきた。

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⑩良観寺(宝袋尊)
・・・・・・・・・・・・・「柴又七福神めぐり」最後の寺は、金町浄水場前の真言宗豊山派の良観寺。 創建年代不詳。 宝袋尊は大きな袋を持って、すべてを包容する和合成功の神様。 境内には、大きな宝袋尊の石像があり、像の腹を3回なでると願い事が叶うそうだ。 若い娘がなでていたのを見て、つい、宝袋尊になりたいと念じた。、、、、、、七福神の「宝袋尊」は石像とは別物で、堂内に祀られているそうだ。

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⑪水戸街道を横断する金町線・・・・・・・・・・・水戸街道(国道6号)を横断すると京成金町駅。 この辺りを歩いていると、天から白いものが舞い降りてきた。 「雪だ! 寒い! 帰ろう!

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