佐賀
我が家(浅草橋)から、明治座、清洲橋を通り、江東区佐賀へ。 佐賀の町をうろつき、門前仲町まで。 1万1千歩、8kmの散歩です。
佐賀の町は、清洲橋から永代橋までの隅田川左岸(江東区)の町。 今は、隅田川大橋(上部は首都高9号線)につづく道路が、1丁目(南側)と2丁目(北側)を分断するように横切っている。
「江東区の地名由来」によると:::寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。 元禄8年(1695)の検地後、この地形が肥前国(現・佐賀県)佐賀湊に似ているので佐賀町の名をつけたと伝えられる。
その後、猟師町から江戸の材木置き場、蔵の町と発展した。 町は周囲に多くの運河があり、戦後も昭和の時代までは倉庫・洋館・看板建築などが、多数う残されていた。
①上之橋跡・・・・・・・・・・・上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀川に架る橋であった。 現在、橋跡に残されている4本の親柱は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場 建設に伴い撤去された橋の名残である。
②蔵のある住宅・・・・・・・・・・・・佐賀2丁目の、3階建ての蔵のある住宅。 築100年程経過したそうだ! 大正初期の建築か? 内部はヒノキの木組みで、外部は近年、黄土色で塗られた。・・・・・・・・・外見上は、改修されたためか、古さを感じることはできない。
③佐賀稲荷神社・・・・・・・・・・佐賀稲荷神社は、佐賀町に住む人々の厄除招福を願い寛永7年(1630)に創建された。 境内には力持ちを競う力石が奉納されている。
④三井倉庫・・・・・・・・・・佐賀2丁目、松永橋の際に建つ、昭和37年(1962)竣工の倉庫。
⑤佐賀の橋・・・・・・・・・・3橋を紹介する
・・・・・・・・・・・・・緑橋・・・・・・・・・・・佐賀町1丁目と福住1丁目を結ぶ橋で、大島川西支川に架かる。 昭和4年(1929)竣工の鋼鉄製トラス橋で、東京市復興局の設計である。 橋長23mの小さな橋であるが、トラス部分に膨らみのあるデザインを施し、存在感を出している。
・・・・・・・・・・・・・緑橋の北側で、大島川西支川を望む。
・・・・・・・・・・・・・御船橋・・・・・・・・・・・緑橋の南に架かる御船橋(みふねはし)は、昭和3年(1928)に竣工した3径間鋼鉄ガーター橋である。 アールデコ調の洒落たギザギザの親柱が特徴の橋。
・・・・・・・・・・・・・・豊島橋・・・・・・・・緑橋の北側、佐賀2丁目の大島川西支川の支流・中之堀川に架かる橋。 東京市臨時復興局の設計で、昭和5年(1930)に竣工した1径間鋼製ガーター橋である。
・・・・・・・・・・・・・豊島橋の架かる大島川西支川の支流・中之堀川。 突き当りの右側で川は途切れる。 水運時代の名残りの運河。
⑥佐賀1丁目の建築・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・チョイと洋館風の建物・・・・・・・・・・「コスガ」という会社の建物です。
・・・・・・・・・・・・・コスガの隣りは肥料製造業「網中産業株式会社」。 近年、外装を改装しているが、玄関ドアに古さを残している。
・・・・・・・・・・・・・看板建築・・・・・・・・・・
⑦精麦会館・・・・・・・・・・・佐賀1丁目に建つ、昭和26年(1951)に設立された全国精麦工業協同組合連合会の建物。 連合会HP掲載の昭和37年(1962)当時の写真では、クラシカルなデザインが外壁を覆い、特徴ある建物であった。 現在は補修したのか? 凹凸、飾りは無くなり、味のない建物だ!
⑧村林ビルディング・・・・・・・・・・・・精麦会館の斜め前にある、鉄筋コンクリート3階建て、コーナー部に玄関を配し、丸みのある特徴的なビル。(「佐賀町スタジオ」とも称されていた) 建物は関根要太郎の設計、大林組の施工により、昭和3年(1928)に竣工した。・・・・・・・・・・今は設計事務所が使用している。 ときたま、TVの撮影などにも使用されているようだ!
⑨紀文稲荷神社・・・・・・・・・・・・御船橋の袂(江東区永代1)に、江戸時代は元禄の華やかなりし頃の豪商:紀国屋文左衛門が伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地にお祀りした神社が紀文稲荷神社だ。 当時、紀国屋文左衛門の店は八丁堀にあり、その下屋敷が現神社の近くにあった。 また、運河に近く、このあたりに紀国屋文左衛門の船蔵があり、航海の安全と商売の繁盛を祈り、この地にお稲荷様を祀ったものである。・・・・・・・・・なんだか、蒲鉾屋の神社のようでもあるね?
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