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2015年2月

2015年2月28日 (土)

南千住~浅草

南千住から、三ノ輪、竜泉、千束とぶらつき、浅草まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

①浄閑寺・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線三ノ輪駅近くにある浄土宗の栄法山清光院浄閑寺(じょうかんじ)。 吉原遊郭誕生の2年前、明暦元年(1655)に創建された。 安政2年(1855)の大地震で、多くの犠牲となった吉原の遊女たちの遺体が、投げ込まれたことから別名「投込寺(なげこみでら)」と呼ばれている。 吉原の遊女:約11,000人を埋葬したらしい。 

・・・・・・・・・・・・・・本堂・・・・・・・・・・昭和59年(1984)に焼失し、平成7年(1995)鉄筋コンクリート造に改築された。

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・・・・・・・・・・・・・・新吉原総霊塔・・・・・・・・・大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲で死んだ吉原遊女の霊も含め、25,000の霊がまつられている。 その、平均年齢は21歳程であったらしい。 石塔の下の台座は納骨堂になっており、小さな空気抜きの窓を通して骨壺も見える。 また、台座には、「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の花又花酔(廓をよく詠んだ川柳作家、昭和30年代に死亡)の句が刻まれている。

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・・・・・・・・・・・・・・永井荷風文学碑・・・・・・・・・・・小説家の永井荷風は、遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせ、たびたびこの寺を訪問していたそうで、荷風の碑はその縁で建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・首洗い井戸・・・・・・・・・・鳥取藩士の平井権八は、父の同僚である本庄助太夫を些細な遺恨から殺し逐電する。 本庄の遺児の助七・助八の兄弟は江戸の三ノ輪に住んで権八の行方を追うが、万治3年(1660)、逆に権八に居所を知られ、助七は吉原田圃で斬られ、兄の首を井戸で洗っていた助八もその場で斬られ、仇討ちは成就しなかった。 仇討に失敗し、悲惨な末路をたどった本庄兄弟の最期の地がこの井戸である。 この平井権八は歌舞伎の「白井権八」のモデルとして有名。  仇討話は、曽我兄弟、荒木又衛門、赤穂浪士など成功例が多い中で、このように失敗例もあったのだ。 

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このあと・・・・・・・・・・・・・・台東区竜泉の千束稲荷神社、一葉記念館、飛不動 と歩いて、チョイと危ない吉原を横切る。

・・・・・・・・・・・・・「たけくらべ」の舞台、千束稲荷神社。   『一葉の 「たけくらべ」 読んで忘れた ストーリー   無花果の 味くらべ 食べてこわした ストマック』

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・・・・・・・・・・・・・下水管工事中の一葉記念館前。   『工事中 きょうもお仕事 ご苦労さん   記念館 あしたも開館 ありがとさん』
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・・・・・・・・・・・・一升瓶のお供え並ぶ飛不動。    『酒並べ 御利益さずかる 飛不動    酒飲んで 操縦するな パイロット』

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・・・・・・・・・・・・店員もいないのか朝のソープランド街。    『梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第 山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな~   梅は咲いたよ ソープはまだかいな 男ビクビク金(かね)次第 親爺は浮気で 色ばっかり しょんがいな~』

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②吉原神社・・・・・・・・・・・吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などに御利益を期待できる。 もともとは遊郭に祀られていた5つの稲荷を明治8年(1875)に合祀したのが始まりで、大正12年(1923)の震災後に現在の場所に移った。 遊女が生ある間に幸せを祈り、参拝したであろう神社だ。 亡くなった遊女の霊は浄閑寺で弔ったのか?・・・・・・・・・・社殿の扉は閉められ、社務所はカラで、御用のある人は千束稲荷神社が兼務している。

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・・・・・・・・・・・・・・さらに、吉原神社の斜め前には、かつて弁天池という大きな池があった。 関東大震災の際に発生した大火は吉原も巻き込んだ。大火災から逃れようとした遊女など約500人は、この弁天池に飛び込み溺死したと言われている。 現在、池は埋められ、いいわけ程度の小さな池と、震災の殃死者追悼記念碑が建てられ、そして艶めかしい小さな吉原弁財天が祀られている。 弁天像は新しいものだが、私の好みだな!

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このあと・・・・・・・・・・・・浅草寺によって手を合わせ、買い物して、お帰り。

2015年2月27日 (金)

五反田~目黒

五反田駅から山手線の外側をお隣の目黒駅まで、9千歩、8kmの散歩です。


①五反田駅
・・・・・・・・・・・・五反田駅は、JR山手線、東急池上線 、都営地下鉄浅草線の3線が発着する品川区内の駅。 明治44年(1911)に官設鉄道の駅(現:山手線)が開業し、昭和3年(1928)に池上電気鉄道(現:池上線)が開業、そして昭和43年(1968)に都営地下鉄(現:浅草線)が開業した。・・・・・・・・・・JR五反田駅は、私にとって思い出のない駅である。 脳味噌をかきまわして、無理やり思い出を探すと出てくるのは、駅近くの桐ケ谷斎場での葬儀のことばかり、、、、、

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海喜館・・・・・・・・・・・五反田駅近く、目黒川脇にある日本旅館だが、数年前に倒産し廃業した。 夜のとばりが下りた頃、芸者を呼んでチントンシャンする料亭旅館か、その道のベテランを連れ込む宿か、、、、、てなことを、勝手に想像していたが、実際は修学旅行、社員研修などで利用されていたらしい。 建物は廃屋に近い無残な状態となっているが、玄関周りなどは綺麗に清掃されている。 外の看板には3桁の市内局番が表示されている。 東京の市内局番が4桁になったのは平成3年(1991)、今から20年以上前のこと!・・・・・・・・「海喜館」が怪奇館にならないように!

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③公営住宅
・・・・・・・・・・・・・写真:手前は都営西五反田3丁目アパート(平成11年(1999)建設)、奥は品川区民住宅ファミュー西五反田(平成16年(2004)開設、400戸、家賃8万円~16万円)、どちらも駅に近いし、立派だし、便利がいいし、綺麗だし、、、、、今晩の味噌汁は鰹だし!

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④名前の判らぬ坂
・・・・・・・・・・・東急目黒線が目黒川を越える際から目黒駅方向に向かう坂で、目黒川側から上りとなる。 かなり長く、急な勾配で、チョイと上りはつらい!  この道は「ドレメ通り」の愛称で呼ばれ、坂を上がると両側は杉野学園の校舎など関連施設が両側に並んでいる。 

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⑤杉野学園
・・・・・・・・・・・ドレメ通りの両側に、ドレスメーカー学院・杉野服飾大学・同短期大学部・学生寮など15棟ぐらいの建物がズラリ並んでいる。 学園はどうも“女の園”に見え、気の弱い私は内部に入れず、もっぱら外観だけ遠くからパチリ! 

・・・・・・・・・・・・・本校舎・・・・・・・・・・教務部・学生部などの事務室がある学園の中枢的な建物で、服飾造形科の教室もある。 地階には購買部もあるらしい。 建物の年代不詳。

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・・・・・・・・・・・・・第3校舎・・・・・・・・・・杉野服飾大学の校舎。 チョイと女子学生の出入りが多く、怪しき親爺と思われたかな?

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・・・・・・・・・・・・・衣裳博物館・・・・・・・・・・昭和32年(1957)に日本で初めてのコスチューム・ミュージアムとして完成した。 世界各地の歴史的な西洋衣裳、民族衣裳、日本衣裳などがテーマごとに展示されているそうだ、私は今だ入館したことがない。

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・・・・・・・・・・・・・・杉野記念館・・・・・・・・・・創立者:杉野繁一・芳子夫妻の旧宅。 昭和13年(1938)完成に建てられ、現在は記念館として公開されている。

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カトリック目黒教会(聖アンセルモ教会)
・・・・・・・・・・この教会は、旧帝国ホテル建設の際、フランク・ロイド・ライトの助手として活躍したアントニン・レーモンドが、戦後はじめて手がけた作品である。 打放しコンクリートによる折版構造の壁で、隙間から外の光が差し込み、神聖な空間を創りだしている。 昭和31(1956)竣工、白石建設の施工。・・・・・・・・・今日は、ここまで来る途中、可愛い娘に目がいったり、“ながらスマホ”の姐さんが転ぶことを期待したり、坂を下る車のブレーキが利かなくなるのを期待したり、、、、いろいろ良からぬことを想い、神の前で“ごめんなさい”して、少々の献金をしてきた。

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このあと・・・・・・・・・・・・・・・・・私の散歩は、目黒駅前から雅叙園(焼肉は叙々苑)に通じる行人坂を下り、大円寺東電下目黒変電所によって目黒通りに出た! 既に、神に誓った言葉は忘れ、キョロキョロ、良からぬことを想い散歩は続く!

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⑦急な階段
・・・・・・・・・・・目黒通り「権之助坂商店街」の脇に、細い急な階段を発見! 下りてみたくなるね。 もちろん、下りました。 

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・・・・・・・・・・・・・階段を下りると、そこは日出高等学校裏の路地だった。 私好みの路地だ!

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⑧富士見坂
・・・・・・・・・・・・目黒区目黒1丁目から品川区上大崎2丁目に上る、これまた急な坂。 以前来たときは、名前は不明であったが、今日は富士見坂と表示されていた。 勾配15%、長さ200m程の坂で、スキーのゲレンデを上っているような感じとなる。 私の呼吸はゼイゼイ、パクパク、足はヨタヨタ与太郎、若い娘に負けてオイ(老い)コラコラ。

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・・・・・・・・・・・・・坂の上の“雲”も見えず、“富士”も見えず。 

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このあと・・・・・・・・・・・・・・目黒駅に出て帰宅。

2015年2月25日 (水)

八重洲

今日は昼前に、『○○(孫の名)が来るから早く帰ってきて』と妻の一言。 家を出たが遠出もできず、『こうなりゃ、東京駅までブラブラしよう』と、浅草橋の我が家から東京駅まで、1万1千歩、8kmの散歩となった。


①イ-グルビル・
・・・・・・・・・・浅草橋交差点(中央区)に建つ、縦長の細い窓、直線的な外観デザインが特徴的なビル。 「イーグルノート」の商号によるノート類を扱う卸問屋の店舗兼住宅として鉄筋コンクリート5階建てのビルが、震災後の昭和初期に建てられた。・・・・・・ちょうど70年前の今日、昭和20年(1945)2月25日、神田駅を中心とした東京の下町に、229機の爆撃機が出動して焼夷弾を投下した、東京大空襲の中でも比較的大規模な作戦が実施された日である。 このときは横山町から馬喰町一帯が相当焼けたが、イーグルビルは浅草橋交差点に面した角にあったこともあって、延焼を免れたそうだ。、、、、焼けずに残り70年、引き続き、今後も残してほしいい建物である。

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②大安楽寺
・・・・・・・・・伝馬町牢屋敷跡に建ち、受刑者を弔うために明治15年(1882)に創建された新高野山大安楽寺。 日本橋小伝馬町のにある、現在の、この寺や、旧十思小学校、十思公園などは牢屋敷の敷地内で、約2700坪の面積かあった。 牢屋敷には、身分により、旗本が入る揚座敷、御家人・大名の家来・僧侶・医者などの揚屋、一般町人の大牢、無宿人の二間牢、百姓牢、女牢などがあったそうだ。 旧十思小学校の改築工事に際し発掘調査も行われた。  寺の名「大安楽寺」は、寺の創建にに際し寄進した、財閥の大倉喜八郎、安田善次郎に由来するそうだ。

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③十恩公園
・・・・・・・・・・大安楽寺の前に震災復興公園の一つ十思公園(じっしこうえん)がある。 公園には見るべきものがいくつかあり、その中に、「石町(こくちょう)時の鐘」、「吉田松陰の終焉地」石碑がある。 公園の隣りには、震災復興小学校の旧十思小学校 もある。 ついでに、公園は江戸最大の処刑場があった場所でもあり、心霊スポットとしても有名らしい。 夜、私が来たときは、是非是非、美女の霊が出てきてほしいね!

・・・・・・・・・・・・・石町時の鐘・・・・・・・・・・石町(こくちょう)は、江戸時代の地名で現在の本町4丁目・室町4丁目の一部である。 その石町にあった、時刻を市民に知らせる時の鐘。 現在の鐘は宝永8年(1711)に鋳造された。 大晦日、我が家で聞こえる除夜の鐘は、この鐘か?・・・・・・・・・鉄筋コンクリート造の鐘楼は昭和5年(1930)に完成した。

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・・・・・・・・・・・・・・吉田松陰終焉之地・・・・・・・・・今年の大河ドラマ「花燃ゆ」で、登場する吉田松陰の終焉の地である。 幕末の長州藩士:吉田松陰は、幕府の日米修好通商条約調印に関して老中:間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)、伝馬町牢屋敷で処刑された。、、、、、、おしのびで、妹役の井上真央に公園に来て手を合わせてもらいたいね。 握手して、サイン貰うから! 

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④日本橋ワカ末ビル・
・・・・・・・・・・日本橋室町に昭和37年(1962)に竣工した事務所ビル。 外装は竣工時とは異なるが、何の変哲もない、ごく普通のビル。  しかし、私には、貴重な思い出のあるビル。 大学生の時、日本IBMの“施設企画課”でバイトをし、工場・事務所などIBMが使用していた建物の利用計画と管理を行っていた。 その時、このビルの1階にIBMの計算センターがあり、当時としては最高の商用大型コンピュータ“S/360”が設置され、空調のガンガン効いた“寒いマシンルーム”に驚いたものだ! 私と“コンピュータ”のかかわりは、この時から!・・・・・・・・・・蛇足だが、「ワカ末」は、カネボウに吸収された中滝製薬の製品で、90年以上の歴史ある黄色のパッケージが目印の下痢止め薬である。 家庭の常備薬の一つで、薬箱の隅に鎮座していた。

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⑤常磐橋
・・・・・・・・・日本銀行本店の近く、高速道路下の石橋で、明治10年(1877)に架けられた国宝級の橋。 東京最古の橋だが、著しく劣化していた、そんな時に東日本大震災で致命的なダメージをくらった。 平成23年(2011)から修復工事が始まり、現在も工事中である。 修復工事は、石積みを全て解体し、基礎部分を調査し・補強し、石積みを復旧し、高欄部分を復旧する手順で行われる。

・・・・・・・・・・・・・・・只今は石積み復旧中。 完成が待ち遠しいね。 でも、首都高の橋脚、邪魔だな!

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・・・・・・・・・・・・・・平成11年、修復工事前の常盤橋

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・・・・・・・・・・・・・明治末期の常盤橋。後ろに見えるは日本銀行。

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・・・・・・・・・・・・明治に架けられた常盤橋の南に、昭和元年(1926)に架けられた現在の常盤橋。

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⑥日本ビルヂング
・・・・・・・・・昭和37年(1962)に竣工した地上14階の規模を有する大手町の巨大ビル。 現在は周辺にさらに巨大な高層ビルが立ち並び、巨大さは薄らいだ感じがする。 でも、ヨクヨク見ると、やはりでかい!

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⑦大和証券呉服橋ビル
・・・・・・・・昭和31年(1956)の建設の大和証券ビル。 現在はパソナグループが使用している。 屋上、外壁面は緑化されている。 また、各階ごとに花や野菜が栽培されているらしい。 ビルの前を歩くと、花屋の前を歩いている気分、ビルの1階には田圃があり、働く人は農作業をしている気分?

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⑧三井住友銀行呉服橋ビル
・・・・・・・・・・大和証券呉服橋ビルの斜め前には、平成24年(2012)に建てられた三井住友銀行呉服橋ビルがある。 設計・施工は清水建設。

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・・・・・・・・・・・・・・ビルの玄関前には鉄骨の一部がオブジェとして飾られていた。 これは?、、、、、答えは、この地には旧日本相互銀行本店ビルがあった。 同行は三井住友銀行と合併し、建物は取り壊された。 その旧日本相互銀行本店ビルの、柱・梁の接合部が残されているのだ!

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・・・・・・・・・・・・・・・旧日本相互銀行本店ビル。 昭和27年(1952)、前川國男の設計で建てられた。

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⑨鉄鋼ビル
・・・・・・・・・昭和26年(1951)、戦後初の高層ビルとしてスタートした、東京駅八重洲口脇の鉃鋼ビルは、いくどかの増改築を経て、全長200mの巨大ビルとなった。 その巨大ビルを建て替え、地上26階建ての新たな鉄鋼ビルが本年秋にお目見えする予定である。 新ビルはオフィスが主体のビルで、地上26階/地下3階、敷地面積は7,400㎡(2,238坪)、延床面積約117,000㎡(約35,392坪)、事業は広島県の建設会社「増岡組」の関連株式会社が行い、施工は大成・増岡組建設共同企業体。 今日はデカイものが多い!

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・・・・・・・・・・・・・平成22年(2010)の、今は無き鉄鋼ビル

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⑩新呉服橋ビルディング
・・・・・・・・・・デカイものついでに、もう一つ、大和証券呉服橋ビルの前に建っているのが新呉服橋ビルディング。  設計は日本設計、施工は大成建設、大林組、西松建設の共同事業体により、昭和54年(1979)に竣工した21階建てのオフィスビル。 建設当時は、安田信託銀行(現:みずほ銀行)の創業50周年事業として建設された。

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⑪東京建物ビル
・・・・・・・・東京駅駅前の八重洲通に面して建つ、地上8階建てのビル。 東京建物という会社は、安田財閥の創始者、安田善次郎が明治29年(1896)に設立した日本で最も古い歴史を持つ総合不動産会社である。 その本社が入っているビルで、昭和4年(1929)竣工、設計は阿部美樹志、施工は大倉土木(現:大成建設)。 現在1階はブライダル・サロンとなっており、何年か前に60歳を超えた私には玄関を入る勇気がなかった。 顔とスタイルは自信があるのだが、恥ずかしがり屋で、気の弱い男で、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・屋上にある搭屋。 この部分を見て「東京建物本社ビル」と答えられたら、その人は建築の“通”だ! この部分は東京駅八重洲口の「グランルーフ」から、パチリ!

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⑫ヤンマー東京ビル
・・・・・・・・・・東京駅八重洲口の真ん前にあるビル。 昭和52年(1977)竣工の​地​上1​1階/​地​下3階建て。・・・・・・・・“♪♪ ぼくのなまえはヤン坊 ぼくのなまえはマー坊 、、、、、♪♪”でおなじみ「ヤン坊マー坊の天気予報」を、すぐに思いだすね。 そして、口ずさみ、スキップして、駅前を行ったり来たりしたら、もう人生の御終い。 即、入院だ!

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⑬旧東京市城東尋常小学校
・・・・・・・・・・・東京駅の前、八重洲2丁目に中央区立城東小学校がある。昭和4年(1929)に建てられた関東大震災の復興小学校。  学校は明治8年(1875)に創立した日本橋城東小学校と昭和3年(1928)創立の京橋昭和小学校が廃校の上合併し、昭和37年(1962)から旧京橋昭和小学校校舎に中央区立城東小学校として新設された。  この付近には児童が少なく、昨年は全校生徒87名であった。 この児らは、いったいどこに住んでいるのやら?

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⑭常和八重洲ビル
・・・・・・・・・ビルの全容は知らなくても、東京駅前で株価表示を眺めるサラリーマン・投資家の光景はおなじみのはず。 その株価表示のあるビルがここである。 昭和42年(1967)に竣工した、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上9階/地下5階建て。

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グランルーフ
・・・・・・・・・平成25年(2013)にできた、東京駅八重洲口の大屋根です。

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・・・・・・・・・・・・・・散歩の最後は、ここから八重洲通りをパチリ!

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2015年2月23日 (月)

荒川ロックゲート

東大島駅から、2月7日 に寄ることのできなかった「荒川ロックゲート」を見てきた。 その足で、江東区東砂をブラブラし、1万2千歩、9kmの散歩です。


①旧小松川閘門
・・・・・・・・・・まず「閘門(こうもん)」とは、、、、水位の異なる2つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のこと。 けして、「黄門」、「肛門」とは書かないように。・・・・・・・・・・江戸時代から終戦直後にかけ、水運は重要な物資輸送手段であった。 しかし、旧中川と荒川の合流する地点を中心とする地域は度々の水害に悩ませられてきた。 明治44年(1911)に荒川の改修工事に着手し防災対策は進んだが、その結果、荒川と旧中川に水位差が生じ、閘門の設置が必要となった。・・・・・・・・・昭和5年(1930)、工費約101万円にて小松川閘門が完成した。 昭和51年(1976)には、閘門の必要性もなくなり撤去された。 撤去後は閘門の一つがそのまま土に埋められ、現在は、公園の中央で頭を出して残されている。

・・・・・・・・・・・・・・小名木川に架かる番所橋 から見ると、中央を流れる小名木川が旧中川にぶつかり、その先に小高い公園が見える。 公園の右側に階段がありその頂部に閘門の頭が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・空から眺めると、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・下半身を埋められ、頭だけ出した閘門。 『陸に上がったカッパ』状態。 なんとか掘り返して全身を見てみたいね!
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・・・・・・・・・・・・・・昭和6年の小松川閘門。 土木画報より

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②荒川ロックゲート
・・・・・・・・・「ロックゲート」と、カッコつけた名前だが閘門のことである。 災害時の水運利用による防災機能強化のために、荒川と小名木川・旧中川の水上交通路を確保するため、旧小松川閘門の下流側に復活建設された。 高さ29.5mの扉室と長さ65.0mの閘門で、総工費75億円、戸田建設の施工による。・・・・・・・・船が閘門に入り、水位が制御されるのを見たかったが、只今、設備修繕工事中につきゲートは閉鎖されていた。 残念!

・・・・・・・・・・・荒川よりゲート

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・・・・・・・・・・・・・・・旧中川よりゲート

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③お地蔵さん
・・・・・・・・・東砂2丁目のマンション裏手で、こちらはお地蔵さんが埋まっていた。 名前も、由緒も、一切わからないお地蔵さんだが、、、、、地蔵さんには“明暦元年”(1655)と、並んでいる墓石には“明和9年”(1772)と彫られている。  どうして、こんな姿で祀られてんの?

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④上妙寺
・・・・・・・・・・東砂1丁目の日蓮宗上妙寺は、寛永2年(1625)に創建された。(本堂は昭和35年(1960)に再建)  かつて大津波にあい堂宇が大破した時、境内の椎の古枝に鬼子母神の像が係留していた。 以後、海中出現子育鬼子母神と尊称し、毎月八の日に開帳している。 鬼子母神で有名な寺らしい。 門前には文化10年(1813)に建てられた「鬼子母神道道標」がある。 道標には、神田小柳町(現:千代田区)の世話人3名が記されており、鬼子母神信仰が遠く神田にまでおよんでいたことが判る。

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⑤生田稲荷神社
・・・・・・・・・・・東砂3丁目にある生田稲荷神社。 境内の石碑では、『慶安年中(1648~1651)当地開発のさい、土地の鎮守とす。元禄初年(1688~1703)疫病のさい、里民当社に祈願し安全を得、特に産婦の安全を守護し、神徳を崇め遠近より参詣が多い。』と記されている。  つまりは、安産に御利益があるのか? 私が手を合わせたのは、まずかったかな?

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⑥奉仕ストアー
・・・・・・・・・東砂4丁目の末広通り商店街にあるストアー。 ≪肉のサカエヤ≫、≪鮮魚部・おさしみ屋≫≪洋品部・まるみ洋品店≫≪青果部・八百友≫と4店が営業していたそうだが、中を覗いたら、一部店舗は閉鎖したようだ。  戦後のバラックに闇市の時代を連想させる、名前がいいね。

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2015年2月22日 (日)

マラソン応援のため散歩は休み

東京マラソン のコース整備状況を見ておこうと、日曜日にもかかわらず早起きしたが外は雨。 『雨が降ってるし、チョイと肌寒い、散歩はやめた!』と言ったが、、、、、、9時過ぎ、スタートをTV観戦して、『おや、雨がやんでる』、こうなると『チョックラ、応援に行ってくる』と言い残し。、、、、、、我が家から5分たらずの30㎞地点を視察し、そのまま橋上で応援。11時過ぎまで立って応援していたが『寒い、帰ろう!』。・・・・・と言うことで、本日は散歩を休み、家でグダ~~

・・・・・・・・・・・・・9時50分、既に車椅子の選手は浅草橋を通過。 江戸通りは、完全に交通規制されていた。

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・・・・・・・・・・・・・・30㎞地点(浅草橋交差点)では、まだ、一般の応援は少なく、医師団/消防団の方が応援

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・・・・・・・・・・・・・私は浅草橋の橋上に行き、応援することにした。

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・・・・・・・・・・・・・・10時30分、『オー来た来た』、、、、選手も、中継車も通過
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・・・・・・・・・・・・・・通り過ぎる選手を見送る顔、顔、顔

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・・・・・・・・・・・・・・外人さんも合わせて、がんばれよ!

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・・・・・・・・・・・・・・・10時40分過ぎ、『早~い』、雷門を折り返し、戻ってきた!

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・・・・・・・・・・・・・・日本橋方向からは、ゾクゾクと後続選手がやってきた。

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・・・・・・・・・・・・・・女子1位のエチオピアの選手もカメラが捉えていた! 日本人選手(扇まどか)も!

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・・・・・・・・・・・・・・私の後輩:明治大学の選手(?)も、外人も、

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・・・・・・・・・・・・・・カラフルな色どりで、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・女子選手を囲む集団(?)、気持ちは判るね!

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・・・・・・・・・・・・11時30分、私の身体が冷えてきた、チョイと小用ができ、我が家に帰ることにした。  『早く、用事を済ませ、カレーうどんで温まろう!』 

・・・・・・・・・・・・地下鉄の地下道を抜け、我が家へ急ぐ!

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2015年2月21日 (土)

上野・谷中

平成24年(2012)から耐震補強工事のため閉館していた上野の「黒田記念館」が、この1月からリニューアルオープンしたので、夫婦で見に行ってきた。 その後、芸大音楽学部、谷中をぶらつき日暮里まで、9千歩、7㎞の散歩です。


①黒田記念館
・・・・・・・・・・・・洋画の巨匠:黒田清輝は大正13年(1924)に没したが、“遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう”に遺言を残した。 その言葉を受けて、昭和3年(1928)に「黒田記念館」が竣工した。 昭和5年(1930)には、美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、平成12年(2000)の新庁舎移転まで、記念館で研究所業務が続けられた。  研究所移転後、黒田記念館は東京国立博物館に移管され、黒田清輝の油彩画126点、デッサン170点のほか写生帖、書簡などを所蔵・公開している。・・・・・・・・・建物は岡田信一郎の設計、竹中工務店の施工により、昭和3年(1928)に竣工した。 鉄筋コンクリート造2階建、半地下階付、外壁はスクラッチタイル張りで、玄関、階段、天井などの細かなデザインも素晴らしい。 私には黒田清輝の裸婦の絵も素晴らしく感じたね。

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②東京藝術大学音楽学部
・・・・・・・・・・「音楽学部」となると、私には縁遠いね。 でも、音楽学部に“演歌科”とか、“小唄科”、“都都逸科”(これは、文学部か?)などができたら身近に感じるかも、、、、、

・・・・・・・・・・・・・正門

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・・・・・・・・・・・・・・赤レンガ1号館・・・・・・・・・明治13年(1880)竣工、設計は林忠恕。この建物は明治10年(1877)に上野に創設された教育博物館の書籍閲覧所書籍庫であった。書籍庫として耐火を重視したのか、全ての開口部に鉄扉が付けれれている。 都内最古の煉瓦建築。

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・・・・・・・・・・・・・赤レンガ2号館・・・・・・・・・1号館に隣り合わせで建つ赤レンガ2号館。こちらは明治19年(1886)の竣工、設計は小島憲之、地上2階建だが3層構造になっている。 この建物は旧東京図書館書籍閲覧所の書庫であった。 “緑の中の赤レンガ”と言う感じだが、空調の屋外機が邪魔だ、どかしてくれ!

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③円珠院
・・・・・・・・・・・・東叡山寛永寺の子院で、天台宗の円珠院(えんじゅいん)。 寛永寺が徳川家によって創建されると、 有力大名は寛永寺近くに子院を建て、将軍家の法要参列のための装束の着替所とした。 円珠院は長州(萩) 藩が建てた、その内のひとつ。 創建は承応元年(1652)である。 芸大音楽学部の裏通りに面して建ち、よく手入れされた境内が美しく、チョイとお立ち寄り。

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④S邸
・・・・・・・・・・大正10年(1921)に建てられた、上野桜木の和洋折衷の住宅。左側の洋館部分の屋根下コーナーに飾りが見える。

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⑤旧吉田屋酒店
・・・・・・・・・・・・明治43年(1910)に建てられ、昭和61年(1986)まで谷中で営業していた「吉田屋酒店」。 上野桜木の交差点角に移築し、台東区の展示施設として公開されている。 出桁造りの重厚な佇まい、前土間、揚戸の出入り口など江戸商家の建築様式を伝える貴重な建物で、内部には、酒・砂糖などを量り売りしていた頃の貴重な資料が残されている。

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⑥岡埜栄泉
・・・・・・・・・・・「岡埜栄泉」と言えば、『ああ豆大福の、虎ノ門にある・・・』、『いやいや、上野の・・・』、『違うよ、上板橋の・・・』てなぐあいで、「岡埜栄泉」を名乗る和菓子屋さんは都内だけでも30店舗程あるそうだ。 どこが本家か?元祖か?総本店か?はっきりしてほしいね!・・・・・・・・・・その内の一つが、旧吉田屋酒店横を入った谷中6丁目にある、創業明治33年(1900)の谷中の「岡埜栄泉」。 こちらも、名物は豆大福、、、、食べたくなったね!

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観音寺築地塀 ・・・・・・・・・・谷中5丁目の観音寺横の通りに面して築地塀が38m程の長さで伸びている。 観音寺は明和9年(1772)の火災で灰燼に帰し、文政年間(1818~1831)頃に再興した寺である。 築地塀は、瓦と粘土を交互に積み重ねて造り、江戸寺町の面影を残している。 塀を見てたら、なぜか、嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」を思い出した、、、、つづいて、杉作役の美空ひばり、、、、なんだか歳を感じるね!

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⑧錻力店吉川
・・・・・・・・・・・玄関のガラスに書かれた“錻力店”、漢字検定に出てきそうな単語? 答えは、“ブリキ店”である、“ブリキ”これまた何ぞや? 答えは、雨どい、屋根貼りなど、スズをめっきした銅板のこと。 懐かしい商売で私が幼き頃は、ブリキ屋さんがブリキ挟みで切った後に丸まった破片が残り、拾って遊んだ記憶が残っている。 江戸っ子職人の、味のある、いい店構えだ!

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谷中ぎんざ
・・・・・・・・散歩の終わりは「夕やけだんだん」の谷中ぎんざ。 凄い人出だ、春節の影響か観光客が多い! 

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2015年2月20日 (金)

立石~亀有

『ここを曲がると○○がある』、『こちらの方向に歩くと○○に着く』と判るようになってきた葛飾区立石付近。 今日は歩いたことのない裏道を選びながら歩いてきたが、向かっている方向が推察できるためか、亀有まで大きな迂回もせずに到着。  京成押上線の立石駅から常磐線亀有駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。

●・・・・・・・・・・・・まずは立石駅 からスタート。 駅裏のこの路地を入ると「呑んべ横丁 」、こちらの路地には赤線時代の建物、駅の反対側には「立石仲見世」と気になる処がいろいろあるが、今日は気にせず商店街の通りを北へ向かう。 まだ、朝の8時半、店は開いていないね!

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●・・・・・・・・・・・タカラトミー本社ビルの前に出た。 戦後生まれの私の世代は「ダッコちゃん」、その娘の世代は「リカちゃん」、「チョロQ」、孫の世代は「ポケモン」と、世代を超えておせわになった玩具メーカ。 ここ立石に本社を置く優良企業。 建物の正面玄関は?、、、、、建物を一周してみたら、似たような小さな玄関が表通りと裏通りに1か所ずつあるだけだった。

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・・・・・・・・・・・・・謎の像??がタカラトミーとお隣のホームセンター裏口の間の細い通りにあった。 タカラトミーの建物に向かって立っている像で、台座には「大木貞次像」と彫られ、他の説明は一切なし! その場で、私は思った『この大木さんはタカラトミーの創業者で、会社の発展を見守っているのか』。 このブログを書くにあたり、調べてみたら、タカラトミーの創業者とは別人であった。 「大木貞次」なる人は、戦前田圃であった像の立つ地を買い取り、「大木温泉」なる事業を始めた実業家で、像は生存中に自分で建てたらしい。 今、温泉はなくなり、アパートが建っている。 詳細不明で、謎の多い人物か?・・・・・・・タカラトミーの人は、この像をどう思っているのか、知りたくなった。

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●・・・・・・・・・・学校の裏を抜け出てきたところは、葛飾区総合庁舎 の裏側。 高く見えるのは、7階建ての新館だが、昭和53年(1978)の竣工で耐震性能も不足し、只今、立石駅前再開発により移転する計画あり。 いつになったら実現するのか?

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●・・・・・・・・・・・総合庁舎前の道は「立石さくら通り」と称し、あとひと月もすれば、花見ができそうだ!

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●・・・・・・・・・・・水戸街道(国道6号)に出てきた。 京成本線のガードを横目で見て、国道をこえる。 

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●・・・・・・・・・・・・都立葛飾野高校の前を歩く。 約1万坪(33,000㎡)の敷地を有する23区内では最も広い高校。 敷地が広くてボールを追っかける練習が充分できるからか、都立では有数のサッカーの強豪校。 学校の設立は昭和15年(1940)。

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●・・・・・・・・・・・高校の隣りには、東電江戸川変電所の鉄塔がそびえる。 なんとなく、私の好みに合った風景なのでパチリ!

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●・・・・・・・・・・水と親しむ「曳舟川親水公園」のはずだが、水は循環式で冬場は水に入る人もなく、電気代の節約と、掃除代の節約か、水が無い!  水のないときは、“曳舟川節約公園”と名を変えたらいかがかな?

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●・・・・・・・・・・・・亀有1丁目、親水公園の脇に、真宗大谷派の蓮光寺がある。 徳川幕府とともに三河から江戸に移り、江戸では明暦の大火(明暦3年=1657)、関東大震災(大正12年=1923)などの火災にあい、昭和3年(1928)現在地亀有1丁目に移った。現本堂は昭和11年(1936)に落慶した。 緑が多く、手入れも行き届いており、都会にあっては落ち着いた雰囲気の寺である。別名“松の寺”、“花の寺”とも呼ばれるらしい。 今日は、ウメが咲き、シダレザクラが花をつけ、緑の色も添えられて、しばし癒しの空間を堪能してきた。

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●・・・・・・・・・・・・「こち亀」の銅像が点在する亀有駅 に到着。 南口バス停でも、両さんがベンチで休んでいる。

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2015年2月19日 (木)

四ツ谷~乃木坂

JR四ツ谷駅から地下鉄千代田線の乃木坂駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


①四ツ谷駅赤坂口
・・・・・・・・・・・明治27年(1894)に甲武鉄道の駅として開業した四ツ谷駅。 歴史ある駅だが新宿寄りの赤坂口は、昭和34年(1959)の営団地下鉄丸ノ内線の開業と同時期に設置されたと思われる。 JRと地下鉄の改札が向かい合い、便利な乗換駅だ!・・・・・・・・ところで、「四ツ谷」駅は“ツ”あり、丸ノ内線の隣駅「四谷三丁目」は“ツ”がない! どちらが正解?、、、、JRの駅名は昔の地名を踏襲して“ツ”あり、後からJR駅に同居した地下鉄はJRに合わせて“ツ”あり。 「四谷三丁目」は地下鉄だけの駅なので、現在の地名に合わせて“ツ”なし。 町名、小学校名、警察署名などは「四谷」で“ツ”なし。・・・・・・・・さらなる問い、駅名は「四ツ谷」、「四ッ谷」と“ツ”の大きさの大小はどちらが正解?、、、、、江戸時代の地名は「四ッ谷」で小さい“ッ”、現在の駅名は「四ツ谷」で大きい“ツ”。 江戸時代には「四ッ谷」、「市ヶ谷」と小さい文字で“ッ”、“ヶ”を書いたそうだ。・・・・・・・さらなる問い、漢字の間に入る“ツ”、“ケ”はひらがな、カタカナ、漢字、記号?、、、、、私には解りません、答えは自分で調べて! 

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迎賓館
・・・・・・・・・・・・・建築家:片山東熊の設計により、明治42年(1909)に、元紀州藩の屋敷跡に東宮御所として建てられた。 正面の鉄扉から、ず~~っと奥に、ネオ・バロック様式の華麗な建物があるのだが、遠すぎてよく見えない! 一度は中へ入ってみたいね、、、、、中から『チョイと兄さん、寄ってらっしゃい!』てな言葉がかかるのを期待して、今日も前を通るだけだ!

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③AKASAKA K-TOWER
・・・・・・・・・・・・・赤坂見附に建つ地上30階建の超高層ビル。 鹿島建設の設計で、平成24年(2012)に竣工した。 3階~24階はオフィス、25階~30階は住居。 どんな人が住んでいるのか、羨ましく、興味あるね!

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・・・・・・・・・・・・手前の白いビルは鹿島建設の本社ビル。

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④赤坂センタービル
・・・・・・・・・・鹿島建設本社ビルの西側に建つ赤坂センタービルは地上20階建て、平成25年(2013)の竣工。 施工はもちろんお近くの鹿島建設。

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⑤橋の欄干?
・・・・・・・・・・・赤坂御所東門に近くの元赤坂1丁目に大正14年(1925)に造られたコンクリート製の欄干がある。 隣接する道路に高低差があり、御所の前でもあり、欄干を設置したのであろうと私は推測した。

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⑥豊川稲荷東京別院
・・・・・・・・・・豊川稲荷は愛知県豊川市の曹洞宗の寺院で、この東京別院は唯一の直轄別院である。 あの三河の藩主で南町奉行の“大岡越前”が豊川のダキニ真天を邸内鎮守として勧請した。 明治20年(1887)に邸内の豊川ダキニ真天を奉遷し、豊川稲荷妙嚴寺の東京別院となった。・・・・・・・・・由来はどうであれ、狐が多いこと! 昨日は雪がコンコン、今朝は咳がコンコン、赤坂は狐がコンコン、私の懐にはカネがコンコン。

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⑦リキマンション
・・・・・・・・・赤坂5丁目の圓通寺前を歩いていると、ビルの屋上に独特の書体の“R”の表示が見えた。 『オー、久しぶりチョイと寄って行こう!』と、懐かしの力道山が建てた「リキマンション」へ足を向けた。 当時実業家としても大活躍した力道山が手がけた、昭和38年(1963)10月竣工、8階建てのマンション。 築後50年経過し、今ではどこにでも見られる集合住宅だが、当時は高級住宅で外国人や有名人も多く住んでいたらしい。・・・・・・・・力道山は、昭和38年12月にナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で喧嘩により刺され死亡した。 墓は池上本門寺 にある。・・・・・・・・・・薄暗くした部屋、モノクロTVで三菱電機提供のプロレス中継を見て、興奮していたころが懐かしい。

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⑧乃木神社
・・・・・・・・・・・・・乃木坂陸橋 交差点の角に、日清・日露戦争で活躍し、後に学習院長となった、乃木希典と夫人を祀った乃木神社がある。 建物は空襲で焼失し、昭和37年(1962)に再建された。 境内はしっかり整備・清掃され気持ち良い神社である。 結婚式場としても有名で、私も次回の結婚式はココで、、、、、

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・・・・・・・・・・・・神社と地続きに、「203高地」を落とした乃木大将の屋敷:乃木邸が保存されている。 馬を愛した大将であり、屋敷は木造、馬小屋はレンガ造である。 屋敷は明治35年の質素な建物でした。 明治天皇の崩御に合わせ夫婦で殉死した部屋もある。

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2015年2月15日 (日)

後楽園

春が来たかと、夫婦で梅香る後楽園へ行ってきた。 梅の後は、地上25階からの展望、その後は、いつものパターンで、コーヒータイム、買い物と続き、8千歩、6㎞の散歩。



①後楽園
・・・・・・・・・・寛永6年(1629=江戸時代初期)、水戸徳川家の祖である徳川頼房が作庭家:徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園。 黄門様の光圀は、庭を改修し、「後楽園」と命名した。 庭園は池を中心にした回遊式築山泉水庭園で、随所に中国の名所の名をつけた景観が配されている。  明治時代になると、庭園は政府のものとなり、後に東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となる。・・・・・・・・今日は“庭”というより、“梅”を見て来た。 北風に耐え、皆より先に力強く咲く、可憐な一枝、、、、、まるで私のようだ!

・・・・・・・・・・・・・まずは、東門からご入場。 妻は300円、私は150円、、、、、と言うことは、私は年寄り扱いなり!

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・・・・・・・・・・・・・・まずは、雪吊りが施された松と池のシンフォニー、、、、、
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・・・・・・・・・・・・・・カンザクラ、蕾も膨らみ春を待つ、、、、、、色気を感じる季節到来!
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・・・・・・・・・・・・・・園内の山を越えると、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・見えました、見ました、来ました、我が故郷へ、、、、、、池の先、写真中央の13階建ての高層のビルは、私のかつての勤務先である。 その頃は、私のデスクから上から目線で庭園を眺めていたものである。

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・・・・・・・・・・・・・池の脇には、江戸時代の酒亭も復元されている。 風流を知らぬ旅人は、『これ、昔の公衆便所』、それとも『馬屋』?、、、、、私は言いたい『早く帰れ!』

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・・・・・・・・・・・・・・春が私を迎えてくれた!

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・・・・・・・・・・・・・チョイと口から出たのは、江戸端唄、、、、、黄門様も唄ったか?

 ♪♪ 梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第 山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな~

 ♪♪ 梅にしようか 桜にしよかいな 色も緑の松ヶ枝に 梅と桜を 咲かせたい しょんがいな~

 ♪♪ 昨日 北風 今日は南風 明日は浮名の たつみ風 恋の風なら 色ばっかり しょんがいな~

・・・・・・・・・・・・・・チョイと浮気心を出して、他の花にも誘われた!

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・・・・・・・・・・・・・大きな池も一周し、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・お帰りは、西門から、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・これで、観梅はおしまいだが、チョイとまちね~い! 後楽園の塀に面白いものがある。 丸に山の文字が入った刻印の石で積まれた石垣だ。 この石垣は江戸城鍛冶橋門跡から出土した石を用いて積んだもので、備中成羽藩主の山崎家が築いたものである。 この他にも、四角い刻印の石などもある。

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②文京シビックセンター 展望台
・・・・・・・・・・・文京区春日の区役所「文京シビックセンター」の25階に展望台がある。 後楽園まで来たら、ついでに見ておこう! もちろん無料!  ガラス張りのエレベーターは、高所恐怖所の私にはチョイと怖いね!

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・・・・・・・・・・・・まずはスカイツリーを、、、、、見える、見える、右側に我が家は、、、、、見えない

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・・・・・・・・・・・・・・・写真中央の低層住宅が密集している地区は本郷。

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・・・・・・・・・・・・・・・後楽園を眺めると、、、、、視界不良!

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2015年2月14日 (土)

八潮~南水元

昨日は八潮パークタウン(品川区八潮)へ散歩、今日はシャレて八潮駅(埼玉県八潮市)から散歩をスタートし南水元まで、南水元から金町駅まではバス。  1万3千歩、10㎞。



①八潮駅
・・・・・・・・・・・・・埼玉県南東部の八潮市は、中川と綾瀬川に挟まれた山のない平坦な農地であったが、工業地に変身し、住宅地にも変身している。 その八潮市で、唯一の鉄道駅がつくばエキスプレスの八潮駅。 平成17年(2002)に開業した、島式ホーム2面4線の高架駅だ。 高架下のコンコースも広く、改札口の内部だけでもイベントが開けるほどのスペースが確保されている。・・・・・・・・私の地元、浅草橋駅においては駅構内のエレベータ設置も、スペースが確保できず難しかった。 駅の改札外に柱を増設して、エレベータを設置する工事に、昨年やっと着手、八潮駅が羨ましいね!

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・・・・・・・・・・・・・・駅前の県道沿いにも空き地が多い。 いずれ、マンションができるのか? じっくり駅前の地図を見て、キョロキョロ周囲を見渡したが、古き歴史を語る構造物は無いようだ! 新しき町で、私の散歩には不向きかも?

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②潮止橋
・・・・・・・・・・中川に架かり、県道が通る潮止橋(しおどめはし)。 橋名は橋の上流にかつて潮止村があったから。 潮止村とは、東京湾の潮がここまで上がり、ここで打ち止めだったから。(ホントかな?)

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・・・・・・・・・・・・・・橋上から上流(三郷市)を眺める、、、、、、何もない!

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・・・・・・・・・・・・・・橋上から下流(葛飾区)を眺める、、、、、、、オー、肉眼ではスカイツリーが見える、、、、、、写真では、写っているのだが、解らないだろうね? (ヒント:左端から2本目の電信柱の後ろ。拡大して、よく見るとあるよ!)

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③文化住宅
・・・・・・・・・・中川沿いに、味気ない戦後の文化住宅が並ぶ。(古新田地区にて)  かつて、この手の造りの公営住宅が多かった。

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④新大場川水門
・・・・・・・・・・・・大場川は東京都葛飾区と埼玉県三郷市との境を流れ、途中で水元公園 からの流れを呑み込み、新大場川水門の外で中川に合流する。 大場川の歴史は古く、延宝年間(1975頃)に、現在の埼玉県三郷市付近の村々で整備された農業用水の排水路である。  水門は、中川の逆流を防ぐ目的で設置された。 幅20m×2門の水門で、昭和55年(1980)に奥村組の施工で完成した。・・・・・・・対岸に回らないと水門の正面の写真が撮れず、あきらめた、ゴメン!!

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・・・・・・・・・・・・・・・水門から対岸(足立区)を見ると雪の富士山が美しい!

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・・・・・・・・・・・・・・・水門を横から見るとスカイツリーが正面に!

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⑤円蔵寺
・・・・・・・・・・・新大場川水門を渡り葛飾区西水元に入ると、浄土宗の円蔵寺がある。 円蔵寺は、走蓮社頓誉円鏡(承応3年(1654)寂)が開山し、村民五郎左衛門夫婦が創建したと伝えられている。

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⑥安福寺
・・・・・・・・・・・・西水元1丁目に真言宗豊山派の安福寺がある。 元禄年間(1688~1704)前後に創建されたようだ。  夕顔観音という秘仏があり有名な寺だそうだ。 賽銭箱に200円入れたら、内緒でチラッと見せてくれたらいいのに、ダメ!

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・・・・・・・・・・・・・・・本堂脇には地蔵堂がある。、、、、、、よく見ると、左手に一人、足元に二人、赤子がいる。、、、、、、、、水子地蔵尊だ!  しっかり、手を合わせて来た。

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⑦1.5m浸水
・・・・・・・・・・南水元2丁目に入ると、『ここは江戸川のはん濫により1.5m以上浸水するおそれがあります』の案内板を電柱に発見。 ヤバイね、ここでも江戸川の水位以下なのか? 

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●・・・・・・・・・・・江戸川が氾濫する前に、そろそろ私の腹の中で反乱が始まり、何か食べたくなった。 ヨシ、金町駅へ、これよりバスの旅、、、、、、

2015年2月13日 (金)

東京貨物ターミナル

東京モノレール「大井競馬場前」で下車し、八潮5丁目のアパート、その東にある「東京貨物ターミナル駅」、JR東海の車両基地などを見てきた。 1万2千歩、9km。


①大井競馬場前駅
・・・・・・・・・・・昭和39年(1964)の東京オリンピック開催の直前に、浜松町駅~羽田駅間にモノレールが開通した。 この時点では、モノレールに途中駅はなかった。 昭和40年(1965)5月27日からは、大井競馬場前駅がレース開催日のみ臨時開業し営業を始めた。 昭和42年(1967)からは、通年営業の常設駅となる。 そしていつのまにか、東京湾の海の上を疾走していたモノレールが、都会の中を走るモノレールとなっている。 駅数も両端の駅を含めて11駅となった。 立派な私鉄なのだが、モノレールに乗り、喫茶店のような駅に下車すると、遊園地の乗り物に乗った気分になるのは私だけか?

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・・・・・・・・・・・・・・勝島運河沿いに走るモノレール

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・・・・・・・・・・・・・・・運河に架かる勝島橋と対岸の八潮パークタウン

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②八潮パークタウン
・・・・・・・・・・昭和50年代に埋め立てもほぼ完了し、約41ha(東京ドーム9個分)の土地に建物が建ち始め、昭和58年(1983)から入居が始まった。 パークタウンには約6,000世帯(13000人)が、70棟程の集合住宅に住んでいる。 今年(2015)には、高齢化率が35%近くになるそうだ。 ここも多摩ニュータウンと似た、お年寄りの街に変わっていくのか? 平日の午前中のだからか、人影は少なく、声は聞こえず、ベランダの洗濯物が見えなければ、ゴーストタウンだ!

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③首都高速湾岸線
・・・・・・・・・・・・・八潮パークタウンをあとにして、大井競馬場前駅を通る道路に戻ると、新幹線車両基地・東京貨物ターミナル駅を跨ぐ「大井中央陸橋」がある。 陸橋の上からは、まず首都高速湾岸線が目に入ってくる。

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④東海道新幹線車両基地
・・・・・・・・・・陸橋は車両基地の中央に架かり、両側の歩道から新幹線が見える。 新幹線は、日中は稼ぎに出て基地に残るは数編成だけ。 ドクターイエローは、日中は休憩で夜の稼ぎに出るのは深夜だ!・・・・・・・・・陸橋には投石よけの網がかかり、写真を撮るには邪魔だ!

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・・・・・・・・・・・・・・写真右半分が新幹線車両基地、左半分が東京貨物ターミナル。

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⑤東京貨物ターミナル駅
・・・・・・・・・・・新幹線基地の隣りは「東京貨物ターミナル」が広がっている。 東海道本線を中心に日本各地からの貨物列車が発着する。 日本の貨物駅としては最大の面積を誇る駅である。 機関車がコンテナを引き頻繁に出入りして、見てても飽きないね! ターミナルの東側にはJR貨物がつくった大型の物流施設「エフ・プラザ東京」が13棟並び、佐川急便、ヤマト運輸などがそれぞれ使用している。・・・・・・・・・新幹線基地、貨物ターミナルとも広すぎて、ヤードを歩いて一周するのは無理だ!

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・・・・・・・・・・・・・・大井中央陸橋を歩いてる人は私だけ、、、、、長い~~陸橋

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⑥りんかい線 八潮車両基地
・・・・・・・・・・・・陸橋はまだ続き、東端には東京臨海高速鉄道りんかい線の八潮車両基地がある。 平成13年(2001)から供用された。 東京テレポート駅を出た営業線は天王洲アイル駅へ向かうが、回送電車は東京テレポート駅の先で東京湾トンネルに入り東京貨物ターミナル駅(八潮車両基地)へ向かう。 陸橋から基地を見ると、東京貨物ターミナルの一隅に間借りしているような小さな基地だ!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・大井中央陸橋の上と下を行ったり来たり、今日の散歩はここまで!

2015年2月12日 (木)

猿楽町

ここ数日、寒さと雨で散歩が遠のき、チョイと退屈であった。 今日は、午前中は手術後の定期検診、午後は循環器クリニックの定期検診と、2軒の医者通い。 後楽園にあるクリニックの帰りは、水道橋駅と御茶ノ水駅の間の千代田区猿楽町あたりをウロウロして我が家まで歩いた。 1万1千歩、8km。

①三崎稲荷神社・・・・・・・・・・・水道橋駅の南に鎮座するお稲荷さん。 寿永元年(1182=平安末期)豊島郡三崎村鎮守として創祀した。 神社は度々移転し、明治38年(1905)に現在地に落ち着いた。  こちらの神社は旅の安全に御利益があるそうだ。 イスラム国へ行くジャーナリストは、神社に参拝してから出国してほしいね!

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②皀角坂・・・・・・・・・・・水道橋から御茶ノ水に向かい、線路の右側にある坂を皀角坂(さいかちさか)という。 “サイカチとは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ている”と、言われても都会育ちの私には????? とにかく、サイカチの木が多っかった坂で、その名がついたようだ。 現在は1、2本ある程度。

・・・・・・・・・・・・・水道橋側(坂下)から眺める

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・・・・・・・・・・・・・・・坂の途中から眺めると電車が目の前を疾走し迫力あるね!!

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・・・・・・・・・・・・・・・JRとは反対側を振り向けば、今年創業35年となるJazzの老舗ライブハウス「東京倶楽部」がある。 酒はダメと言われた身では、行く機会も少なきなったね。

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・・・・・・・・・・・・・坂の上からは

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③カトリック神田教会・・・・・・・・・・・・教会は明治7年(1874)に現在地に創設され、聖堂は昭和3年(1928)にマックス・ヒンデルの設計で完成した。 内部の見学は16時まで、チョイと遅かったようだ、残念! 

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④千代田区猿楽町町会詰所・・・・・・・・・・・・神田女学園前の、昭和5年(1930)前後建築の元交番。 2階の木製窓枠は時代をにじませている。 できることなら、1階の外灯を交番らしく赤色灯にしてほしいね!

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男坂・女坂 ・・・・・・・・・・・坂の下は猿楽町2丁目、坂の上は駿河台2丁目。 ここに、「男坂」・「女坂」と名づけられた二つの坂がある。 どちらも、大正13年(1924)に復興計画の一環で造られた。

・・・・・・・・・・・・男坂・・・・・・・・・・明治大学猿楽町校舎の脇にある真直ぐな階段で、勾配30度、段数73段の階段。 私の場合、ここでこけたら天国への階段となりそうで、手摺を頼りに下ってきた。

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・・・・・・・・・・・・女坂・・・・・・・・・・男坂から100m程北西にある、2折れ、総段数82段の女坂。 

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⑥アテネフランセ・・・・・・・・・・・・女坂を上がると左に、100年の歴史を誇るフランス語学校:アテネフランセがある。 紫色の外壁が特徴的な校舎は、昭和37年(1962)の建築で、設計はル・コルビュジエの弟子であり、アテネフランセの卒業生でもある吉阪隆正が担った。  私が高校生の頃の建物で、出来た頃は駿河台のシンボルであった。

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⑦錦華公園・・・・・・・・・・・山の上ホテルの裏側に、元大名屋敷の庭園であった歴史ある錦華公園がある。 公園は震災後の昭和4年(1929)に開園したが、その後改修もされ現在はゴク普通の公園として整備されている。 公園の隣りには、夏目漱石も学んだ明治6年(1973)開校の錦華小学校がある。

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⑧山の上ホテル・・・・・・・・・・・昭和11年(1936)に「佐藤新興生活館」として完成した建物で、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(東洋英和女学院 などの作品がある)が設計した。 アール・デコ調のクラシカルな内外装を施した味のある建物。 戦後は、GHQに接収され「ヒルトップホテル」と呼ばれ、婦人士官用に使われた。昭和29年(1954)の接収解除後は、「山の上ホテル」として営業している。

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2015年2月 9日 (月)

浅草

今朝の寒さは身に染みて堪える! 夜中の寒さのせいか冬眠状態となり、深夜のトイレに呼ばれることもなく熟睡、気がついてみたら夜が明けていた。 朝食後、『散歩に行くの?』と妻の問い。 『寒くて! からだを壊すと良くないので、今日はパス!』が、私の応え。、、、、、、でも、午後の太陽を見ると、身体がムズムズ、気持ちはヨレヨレ、、、、、、ついに、『お茶を飲んだら、チョイと浅草へ行って塩昆布買ってくる』と言ってしまった。 9千歩、7㎞。

●・・・・・・・・・・・地下鉄田原町駅の方から浅草六区に向かうと、雷門通りに面して旧安井商店の建物がある。 建物は鉄筋コンクリート造3階建て、大正12年(1923)の建築らしい、今は「タイガー餃子会館」が使用中である。 外観は大正時代の雰囲気が残っている。、、、、飲食店になってから、建物の中に入ったことがなく、内部は不明なり。 たまには、餃子を食べないと情報が古くなるね!

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●・・・・・・・・・・・旧安井商店前から見るスカイツリー

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●・・・・・・・・・・・「すしや通り」の裏手、狭い路地に入ると、江戸時代から続く銭湯の老舗:蛇骨湯(じゃこつゆ)がある。 ここは、黒湯と呼ばれる温泉で、入浴後は体の芯までポッカポカに温まるそうだ。  “蛇”と“ビビンバ、クッパ”は嫌いなので、銭湯には興味あるが、入ったことはない。 ちなみに好きなのは、“美人”と“コロッケ、イカフライ”。

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●・・・・・・・・・・・浅草六区 は、只今工事中、映画館は一軒もありません! 

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●・・・・・・・・・・・六区と言問通りを結ぶ全長180mの「ひさご通り」。 関東大震災後の大正13年(1924)に区画整理が行われ、沿道商店の自已資金により道路整備が行われた。 大正14年(1925)に浅草公園ひょうたん池にちなみ、「ひさご通り」と命名した。  浅草寺の裏手で観光客も少なく、両側には地域のお年寄りや労務者を客とする、アウトレット商品の店、安売りの店が並んでいる。 私には、その昔は浅草寺から吉原遊郭に向かう“お遊びの道”であり、現代は旧山谷地区から場外馬券売り場へ向かう“勝負の道”と思える。 

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●・・・・・・・・・・・・ひさご通りの中程に、台東区の施設で平成9年(1997)にオープンした「江戸下町伝統工芸館」がある。 こちらでは、江戸時代から下町の職人が伝えてきた、江戸指物、江戸鼈甲、江戸すだれ、江戸漆器などの伝統産業を紹介している。 日によっては、職人による実演や手づくり教室なども開催されている。  平日は無料にもかかわらず、客の入りが少なく、チョイと寂しいね。

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●・・・・・・・・・・・・六区の北端と浅草寺を結ぶ、「花やしき通り」。 嘉永6年(1853)に開園した、日本最古の遊園地「花やしき」のある通り。 私が記憶しているのは、戦後の「花やしき」で、昭和30年頃はまだビックハウス、豆汽車の時代であったが、花やしきにはジェットコースターが既にあった。 私の娘が小さい頃はまでは入園料は無料であったが、今は1000円以上するので、今日も入園せずに前を素通り。 “あったり前田のクラッカー”ならぬ、“あったり前田の入園料”。

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●・・・・・・・・・・・・六区の中程(場外馬券売り場横)と浅草寺を結ぶ全長150m程の商店街が「西参道」。 昭和29年(1954)、戦後の雑然とした浅草公園ひょうたん池跡地と奥山の周辺を整備し商店街が発足した。 呉服屋、観光土産屋が多い。 昨年、リニューアルして歩きやすく明るい商店街に変わったが、まだまだ客は少ない。 浅草のド真ん中にある陸の孤島という感じ。

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●・・・・・・・・・・・・ブツブツああだこうだ一人で自分に言い聞かせ、キョロキョロ怪しい目つきで、ウロウロ宛てもなく歩き、美人の後姿を追って、着いたところは毎度おなじみ浅草寺。 今日も合掌。

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●・・・・・・・・・・・・・派手な衣装の御一行。 東南アジアはどこぞの国からおこしかな? “Welcome Asakusa!”

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●・・・・・・・・・・・・仲見世の裏を抜けて行く、、、、、裏道にも店はある

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●・・・・・・・・・・・・伝法院通り東側には歌舞伎でもおなじみの「白波五人男」という盗賊たちが、商店会の屋根などに潜み、道行く人を見下ろしている。 作者の河竹黙阿弥が商店会の近くに住んでいたことから、町の歴史を伝えるべく人形を作った。 五人の頭目、日本駄右衛門は、荷車の上で見えを切り、残る弁天小僧菊之助ら4人は商店会の上から眺めてる。 五人男も雨ざらしで疲れも出たようだ、そろそろ手入れしないと色落ちしてしまうぞ!

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●・・・・・・・・・・・・さて、目的の塩昆布を買ったら。 チョイと松屋の屋上からスカイツリーをパチリ!

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●・・・・・・・・・・・・大正ロマンの香り漂う「神谷バー」(大正10年(1921)築)を振り返り、、、、、、江戸通りを真っ直ぐ浅草橋へ向かう、、、、、、

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2015年2月 7日 (土)

平井~東大島

久しぶりの散歩日和。 総武線平井駅から、都営新宿線東大島駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

●・・・・・・・・・・『午前中は晴れ、最高気温11℃、風速0.5m』、、、、、寒くなさそうなので、『荒川の水門(ロックゲート)でも見てくるか』と家を出た。

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●・・・・・・・・・・途中で欲が出て、『どうせ行くなら上流側の平井駅付近から荒川土手にのぼり、春を感じながら歩こう』と亀戸駅下車の予定を、平井駅下車に変更。

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●・・・・・・・・・・JR総武線荒川橋梁寄りの土手は只今工事中、土手にはのぼれず、ついてない!  「橋梁渡る 電車を撮ろう 勇んできたが 徒労なり」

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●・・・・・・・・・・『土手上がダメなら、土手下の道を歩いて寺にでも寄って行こう』と、またまた予定変更。

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●・・・・・・・・・・この近く(平井1丁目)に、最勝寺、成就寺、大法寺、善通寺の4ヵ寺が並んでいるので、まとめてお立ち寄り。 先の3寺は墨田区本所から、善通寺は近くの東小松川村から、それぞれ大正から昭和初期にかけて現在地に移転してきた。

・・・・・・・・・・・・土手側から、最初は、、、、、、貞観2年(860)創建、天台宗の「牛宝山明王院最勝寺」である。 この寺は“五色不動 ”の一つ「目黄不動尊」で知られている。 不動尊とのご対面を期待したが、堂の柱に「大護摩修行中」なる札が建ち、内部は見えない。 「目黄不動尊」は身持ちが良いようで、私との御対面が、いまだ実現していない。 会えないと、いっそう愛おしさがつのり、会いたくなるものだ!

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・・・・・・・・・・・・お隣は、嘉祥元年(848)に開山した、天台宗の嘉桂山西光院成就寺

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・・・・・・・・・・・・そのお隣は日蓮宗の宝聚山大法寺。 大法寺は、現:墨田区太平の法恩寺 第八世大権院日巧上人(千葉常明の子)が大永2年(1522)に創建したといわれてる。

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・・・・・・・・・・・・さて、どん尻にしかえしは、浄土真宗本願寺派の真光山明証院善通寺なり。 康正年間(1455~1457)に創建したと伝えられている。  境内には、弘化3年(1846)に日本最初の精神病院(江戸小松川)を設立した奈良林一徳(奈良林家)と、その子の元春の墓がある。 元春は、明治6年(1873)に病院を引き継ぎ、明治11年(1879)に病床40余の病院に改築し、明治13年(1880)には「小松川癲狂院」と改称した。 病院は、明治41年(1908)に南葛飾郡亀戸村に移転し「加命堂脳病院」と改称、その後、昭和19年(1944)に廃止された。

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●・・・・・・・・・・4ヵ寺に手を合わせ、身も心も清くなったつもりだが、元々穢れた身のせいか、清くならず。 路辺の花壇に足を取られ、犬の糞を踏んだように、泥まみれの足となった。 まったく、ついていないね、私は落ち込んだ!  『こうなりゃ、ヤケの勘八、ヤケ珈琲でも飲むか!』 京葉道路を横断し、小松川の商店街へ、喫茶店はまだ開店前。 またもやガッカリ! ますます落ちんだ。

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●・・・・・・・・・・暖かい珈琲にも見離され、落ち込んだ男一人どこに行く!  靴の泥を道にこすり付け、草で拭き、見苦しい歩き格好で、荒川土手に上がってみた。  景色は『まだ冬です、春はもうしばらくお待ちください!』

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●・・・・・・・・・・努力の甲斐があり、泥も落ち、見た目には誰も気が付かないだろう! 土手に続く、広大な(約24万㎡)「大島小松川公園」に行くと、犬を連れた中高年が多い。 足の汚れには気づかないようだ、シメシメ!・・・・・・・・・・ここは、災害時には防災拠点としても活用されるよう、物資の備蓄倉庫と防災設備も整っているそうだ。 約20万人を収容することを想定している。 

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●・・・・・・・・・・『今日は、ついてない! この大事な我が身に傷がついては一大事、老いのロマンスが実現できなくなるかも? 怪我せぬうちに帰ろう!』  荒川ロックゲートへ行くのはまたの機会とし、東大島駅から帰ることにした。 東大島駅は江東区大島と江戸川区小松川に出入口があり、ホームは旧中川の真上にある珍しい駅である。 

・・・・・・・・・・・・江戸川区側の出入口(小松川口)。 

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・・・・・・・・・・・・江東区側の出入口(大島口)。 

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・・・・・・・・・・・・・区境である旧中川の上にはホームがある。 

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・・・・・・・・・・・・・ホームでは、下に川が流れているとは想像できない。

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2015年2月 3日 (火)

大塚~目白

今日は“節分”、明日は“立春”だが、やたらめったら寒い、昨日今日。 寒さにめげず散歩に出た。 大塚駅から目白駅まで、1万1千歩、8km。


①大塚駅前停留所
・・・・・・・・・・JR大塚駅の高架下に都電の停留所がある。 JRの大塚駅は、日本鉄道の駅として明治36年(1903)に開業した。 8年後、明治44年(1911)に、王子電気軌道の大塚駅(現:大塚駅前停留場)が開業した。・・・・・・・・・・現在は都電荒川線 と称しているが、当初は王子電気軌道の大塚線(飛鳥山~大塚)であった。 開業後100年以上走り続け、今は存在感ある名物路線だ。

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②天祖神社
・・・・・・・・・・・大塚駅前の飲食店街の中に鎮座し、天照皇大御神を祭神とする神社。 鎌倉時代末の元亨年間(1321~4)の創建。 本殿は昭和43年(1968)に建て替えられた。 節分祭は夕方から始まるようで、可愛い年女の豆まきを見たかったが、私は待ってられないね! 

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③大越外科医院
・・・・・・・・・・大塚駅の西側(東池袋2)の裏通りに鎮座する、昭和レトロの外科医院。 戦後の建物と思われるが、年代不詳。 木造だが、規模も大きく、以前は入院もあったかも?・・・・・・・・・外科、皮膚科、性病科、肛門科、レントゲン科、内科の診療科目には、時代を感じさせられるようだ!   (写真の色が悪いのはカメラの設定ミス。ゴメン。)

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④造幣局東京支局
・・・・・・・・・・・東池袋の造幣局東京支局へ盗みに行ってきた。 ここは、昭和14年(1939)に造幣局が麹町から移転し、硬貨と勲章・メダルなどを製造している東京支局である。・・・・・・・・・ナイショノ話であるが、コインの製造方法を盗むつもりで、支局内の「造幣東京博物館」に入館したが、工程が多く、高度な技術を要し、我が家で夜なべをしても偽物は作れないと解った。盗みは失敗! 局内のショップで、2015年製造の全コイン(500円+100円+50円+10円+5円+1円)と純銀製の名板の組み合わせセットを、入館記念のおみやげに約2000円程で売っていた。 懐のあまい男で、つい、フラフラと購入、、、、、、

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⑤雑司が谷霊園
・・・・・・・・・・・・幽霊も、この寒さと日中の明るさで、出ることもないであろうと思い、堂々と霊園を通り抜けてきた。

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⑥豊島区役所新庁舎
・・・・・・・・・・・♪♪新庁舎は5月オープンです~♪♪てなことで、豊島区は今年の5月から南池袋の新庁舎に移転する。 その新庁舎は、工事も終盤にかかり姿を現していた。 下層部の台形でゴチャゴチャした部分が区役所、上層部の真っ直ぐ立ち上がっている部分が住宅。 下層は緑豊かな外観となるそうだ。 

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⑦金乗院
・・・・・・・・・・・・学習院大学の東側(豊島区高田2)に真言宗豊山派の金乗院がある。 天正年間(1573-92)の創建といわれており、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされている。 護国寺の末寺。 昭和20年(1945)に戦災で、堂宇・宝物類を焼失し、現:本堂は鉄筋コンクリート造にて、昭和46年(1971)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・何と言っても、地名「目白」の出どことなる「目白不動明王」がおわす寺である。 目白不動明王は、江戸守護の江戸五色不動(目青不動 目黄不動 目赤不動 ・目白不動・目黒不動)の一つである。 本堂脇の不動堂に祀られている。

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・・・・・・・・・・・・・寺には、丸橋忠弥の墓、鍔塚、庚申塔など、石造物が多く残されている。 本堂裏の墓地には、かなり年代物の墓石が多く、『墓石をチョイと整理したね!』と言いたくなる狭さだ。

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2015年2月 1日 (日)

江戸川~京成小岩

『今日は寒いよ』と妻の声。 『寒さがなんの、俺は男だ!』と家を出た。 京成本線江戸川駅で下車し、土手にあがってみた、『寒い、寒い、帽子はとびそう、来なきゃよかった! 帰りたい!』、、、、、、、、元気づけに、一曲、吉永小百合に抱かれている気持ちで、、、、、♪♪北風吹きぬく 寒い朝も カイロひとつで暖かくなる 毛玉がいっぱい正ちゃん帽を 白髪頭にかぶって今日も ああ 北風の中で鍛えよ足を 北風の中鍛えよ足を♪♪

江戸川駅から京成小岩駅まで、9千歩、7㎞のやせ我慢の散歩。


江戸川駅
・・・・・・・・・・大正元年(1912)11月3日、京成電鉄初の開業区間として、押上~伊与田(現:江戸川)が開通した。 開業当時は終着駅で、ここから渡し船で江戸川をこえて対岸の国府台へ向かった。 当時の駅名「伊与田」とは、江戸時代からの村名である。 明治時代には小岩村に編入し、昭和13年(1938)になると江戸川区小岩町となり、現在は江戸川区北小岩と変わった。

・・・・・・・・・・・・・乗降客が少なく“チョイと寂しい”、いやいや“大いに寂しい”、たった一か所の高架下改札口。 

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・・・・・・・・・・・・・・ホームから見ると目の先に、江戸川橋梁が見える。、、、、、今日は、ホームに降り立って、寒さを感じる運命に!

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②京成電鉄江戸川橋梁
・・・・・・・・・・昭和54年(1979)に完成した現在の橋梁。 橋長は433.2mの下路ワーレントラス橋。・・・・・・・・・・初代の橋梁は、大正3年(1914)に完成し、伊与田~市川新田(現:市川真間)間が開通した。 工事は全長226mにおよぶ大工事で、鉄道連隊の支援を得て完成した。・・・・・・・・・土手の上で鼻水を拭いたティシュが、北風の支援を得て吹っ飛び、蝶のように舞った。 華麗な舞で見とれていたが、拾うこともできず、江戸川を汚してしまった、ゴメン!

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③北野神社
・・・・・・・・・・江戸川駅近く、旧伊予田村(現:北小岩3・4丁目)の鎮守。 江戸時代に、この地にあった稲荷神社と北野神社を、明治42年(1909)に合祀し、さらに昭和39年(1964)には近くにあった須賀神社も合祀した。 現在は祭神として、稲荷神社の倉稲魂命、北野神社の菅原道真、須賀神社の素戔鳴尊の三柱を祀っている。 

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④光ヶ嶽観音堂
・・・・・・・・・・・・北小岩4丁目の光ヶ嶽(てるがたけ)観音堂には弘法大師作という、一寸八分(約5.5cm)の小金像の光ケ嶽観音が祀られている。 小さいのは、室町時代の武将:里見義豊、義俊が守り本尊として常に甲胄の中に入れて戦場に出たものといわれている。 以来、地元になじみ深い観音堂として信仰の対象となっていた。 観音堂は、平成19年(2007)に再建された。 堂内には、小さな像が安置されていた。 これは、果たして、黄金の観音様か? レプリカか? 案外、粘土細工かも?

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⑤真光院
・・・・・・・・・・・真言宗豊山派で稲荷山遍照寺と号し、慶長7年(1602)に東小岩の善養寺末として開山したした寺。 昭和47年(1972)に萱葺きの本堂を、鉄筋コンクリート造に建て替えた。 萱葺きの本堂を残しておいて欲しかったね!

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・・・・・・・・・・・・・・この寺の付近には、小岩村の時代の土の匂いが残っている。 農家らしき建物。 街道・農道らしき駅前に続く通り。

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⑥小岩田天祖神社
・・・・・・・・・江戸川の土手沿い(北小岩4丁目・7丁目)には寺社が点在している。 この神社は、天正年間(1573~1592)の創建といわれ、祭神に天照大御神を祀っている。 現社殿は文政10年(1827)に再建された。・・・・・・・・風が強い中、社殿の扉が開いており、賽銭が飛んでこないか心配したが、飛ぶものも無いようだ!

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⑦江戸川土手
・・・・・・・・・・・寒い強風の中、勇気をもって、再び土手の上に出てみた。 江戸川の向こう正面には国府台のが見え、右に和洋女子大の校舎が、左には栗山浄水場配水塔 がチラリと見えるのだが、写真では小さくて見えないかも。

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・・・・・・・・・・・・・土手から都心方向を見ると、スカイツリーと富士山が、強風で揺れていた?(私の身体が揺れていた)
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⑧正真寺
・・・・・・・・・・・北小岩7丁目の、真言宗豊山派に属する神明山西光院正真寺。慶長6年(1601)に、国府台合戦の戦場となったこの地に堂が建てられたのを起源とする。 現在の本堂は唐破風様式の鉄筋コンクリート建で昭和43年(1968)に新築した。

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⑨唐泉寺
・・・・・・・・・またの名を「江戸川不動尊」と称する、真言宗の寺。 ここの、現住職は愛娘を急性白血病で失ったのを機に、世の無常を感じ、脱サラをして出家した。京都随心院で得度、修行後、全国各地を乞食行脚。 そして、当時無住であった唐泉寺を再興した。 また、住職自身も咽頭に腫瘍が発生したが、ハーレーダビッドソンにまたがり、西国三十三箇所の巡拝にでかけた。 すると腫瘍は消滅したので、以後、“ガン封じ”を標榜することになったそうだ。・・・・・・・・・・病気なら、私も負けない。 三年前、後頭部に悪性腫瘍ができ、美人の女医さんに手術してもらった。 一昨年は、鐘ヶ淵の踏切で転び右肩脱臼、お目目パチクリの美人看護婦のいる病院で診てもらう。 昨年は、大動脈解離で腹を切り、日替わりの若い看護士さんにお世話になる。 全て治ったので、私も“口封じ”を標榜して観音様と弁天様を御本尊とする寺を建てるかな?

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⑩千代田通り商店街
・・・・・・・・・・身体もだいぶ冷えてきた、お茶でも買いたいが、周辺にはコンビニもないようだ、喫茶店はもちろんなし、『ヨシ、帰るか』と思いきや、目の前に『ちよだもーる』と表示した道幅の狭い商店街が出現! ここは、葛飾区鎌倉4丁目なり、葛飾区の一部が、江戸川区北小岩に出っ張ったところにある商店街だ。 オイオイ!店が開いてるぞ、これから開店の店もあるけど。 とりあえず、ホットを買って、ホッとした。・・・・・・・・小さな、商店街だが約50店舗程の店が並ぶ、活気ある商店街に見えた。 

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⑪大珠院
・・・・・・・・・・・葛飾区鎌倉4丁目、寛永3年(1626)に創建された寺。 明治維新のとき廃寺同様となったが、その後再建されて現在に至っている。 境内に八代将軍吉宗の第2子徳川宗武(1715-71)が側室のために建てた宝篋印塔がある。 寺は宗武家の隠居寺であったといわれている。 今も、廃寺のような佇まいの寺で、本堂というより、農家の母屋だね。

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⑫京成踏切
・・・・・・・・・・・・・冷えて、お茶を飲み、時間が経って、、、、、、その結果は、『我慢できない、漏らしそう!』、、、、、、急げ、どこぞへ!、、、、、、この近くで、確実なのは「京成小岩駅」、、、、、、、『ヨシ、はや足で』

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⑬京成小岩駅
・・・・・・・・・・・写真を撮る余裕はあったが、改札を入り目的地に一直線!

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●・・・・・・・・・・・・・・駅で処置するとき、寒さと苦しさに耐えて、ブル・ブルとし、その後ホッとした。 寒い日の散歩はくれぐれも御注意を!

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