今日は昼前に、『○○(孫の名)が来るから早く帰ってきて』と妻の一言。 家を出たが遠出もできず、『こうなりゃ、東京駅までブラブラしよう』と、浅草橋の我が家から東京駅まで、1万1千歩、8kmの散歩となった。
①イ-グルビル・・・・・・・・・・・浅草橋交差点(中央区)に建つ、縦長の細い窓、直線的な外観デザインが特徴的なビル。 「イーグルノート」の商号によるノート類を扱う卸問屋の店舗兼住宅として鉄筋コンクリート5階建てのビルが、震災後の昭和初期に建てられた。・・・・・・ちょうど70年前の今日、昭和20年(1945)2月25日、神田駅を中心とした東京の下町に、229機の爆撃機が出動して焼夷弾を投下した、東京大空襲の中でも比較的大規模な作戦が実施された日である。 このときは横山町から馬喰町一帯が相当焼けたが、イーグルビルは浅草橋交差点に面した角にあったこともあって、延焼を免れたそうだ。、、、、焼けずに残り70年、引き続き、今後も残してほしいい建物である。

②大安楽寺・・・・・・・・・伝馬町牢屋敷跡に建ち、受刑者を弔うために明治15年(1882)に創建された新高野山大安楽寺。 日本橋小伝馬町のにある、現在の、この寺や、旧十思小学校、十思公園などは牢屋敷の敷地内で、約2700坪の面積かあった。 牢屋敷には、身分により、旗本が入る揚座敷、御家人・大名の家来・僧侶・医者などの揚屋、一般町人の大牢、無宿人の二間牢、百姓牢、女牢などがあったそうだ。 旧十思小学校の改築工事に際し発掘調査も行われた。 寺の名「大安楽寺」は、寺の創建にに際し寄進した、財閥の大倉喜八郎、安田善次郎に由来するそうだ。

③十恩公園・・・・・・・・・・大安楽寺の前に震災復興公園の一つ十思公園(じっしこうえん)がある。 公園には見るべきものがいくつかあり、その中に、「石町(こくちょう)時の鐘」、「吉田松陰の終焉地」石碑がある。 公園の隣りには、震災復興小学校の旧十思小学校 もある。 ついでに、公園は江戸最大の処刑場があった場所でもあり、心霊スポットとしても有名らしい。 夜、私が来たときは、是非是非、美女の霊が出てきてほしいね!
・・・・・・・・・・・・・石町時の鐘・・・・・・・・・・石町(こくちょう)は、江戸時代の地名で現在の本町4丁目・室町4丁目の一部である。 その石町にあった、時刻を市民に知らせる時の鐘。 現在の鐘は宝永8年(1711)に鋳造された。 大晦日、我が家で聞こえる除夜の鐘は、この鐘か?・・・・・・・・・鉄筋コンクリート造の鐘楼は昭和5年(1930)に完成した。


・・・・・・・・・・・・・・吉田松陰終焉之地・・・・・・・・・今年の大河ドラマ「花燃ゆ」で、登場する吉田松陰の終焉の地である。 幕末の長州藩士:吉田松陰は、幕府の日米修好通商条約調印に関して老中:間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)、伝馬町牢屋敷で処刑された。、、、、、、おしのびで、妹役の井上真央に公園に来て手を合わせてもらいたいね。 握手して、サイン貰うから!

④日本橋ワカ末ビル・・・・・・・・・・・日本橋室町に昭和37年(1962)に竣工した事務所ビル。 外装は竣工時とは異なるが、何の変哲もない、ごく普通のビル。 しかし、私には、貴重な思い出のあるビル。 大学生の時、日本IBMの“施設企画課”でバイトをし、工場・事務所などIBMが使用していた建物の利用計画と管理を行っていた。 その時、このビルの1階にIBMの計算センターがあり、当時としては最高の商用大型コンピュータ“S/360”が設置され、空調のガンガン効いた“寒いマシンルーム”に驚いたものだ! 私と“コンピュータ”のかかわりは、この時から!・・・・・・・・・・蛇足だが、「ワカ末」は、カネボウに吸収された中滝製薬の製品で、90年以上の歴史ある黄色のパッケージが目印の下痢止め薬である。 家庭の常備薬の一つで、薬箱の隅に鎮座していた。

⑤常磐橋・・・・・・・・・日本銀行本店の近く、高速道路下の石橋で、明治10年(1877)に架けられた国宝級の橋。 東京最古の橋だが、著しく劣化していた、そんな時に東日本大震災で致命的なダメージをくらった。 平成23年(2011)から修復工事が始まり、現在も工事中である。 修復工事は、石積みを全て解体し、基礎部分を調査し・補強し、石積みを復旧し、高欄部分を復旧する手順で行われる。
・・・・・・・・・・・・・・・只今は石積み復旧中。 完成が待ち遠しいね。 でも、首都高の橋脚、邪魔だな!


・・・・・・・・・・・・・・平成11年、修復工事前の常盤橋

・・・・・・・・・・・・・明治末期の常盤橋。後ろに見えるは日本銀行。

・・・・・・・・・・・・明治に架けられた常盤橋の南に、昭和元年(1926)に架けられた現在の常盤橋。


⑥日本ビルヂング・・・・・・・・・昭和37年(1962)に竣工した地上14階の規模を有する大手町の巨大ビル。 現在は周辺にさらに巨大な高層ビルが立ち並び、巨大さは薄らいだ感じがする。 でも、ヨクヨク見ると、やはりでかい!


⑦大和証券呉服橋ビル・・・・・・・・昭和31年(1956)の建設の大和証券ビル。 現在はパソナグループが使用している。 屋上、外壁面は緑化されている。 また、各階ごとに花や野菜が栽培されているらしい。 ビルの前を歩くと、花屋の前を歩いている気分、ビルの1階には田圃があり、働く人は農作業をしている気分?

⑧三井住友銀行呉服橋ビル・・・・・・・・・・大和証券呉服橋ビルの斜め前には、平成24年(2012)に建てられた三井住友銀行呉服橋ビルがある。 設計・施工は清水建設。

・・・・・・・・・・・・・・ビルの玄関前には鉄骨の一部がオブジェとして飾られていた。 これは?、、、、、答えは、この地には旧日本相互銀行本店ビルがあった。 同行は三井住友銀行と合併し、建物は取り壊された。 その旧日本相互銀行本店ビルの、柱・梁の接合部が残されているのだ!

・・・・・・・・・・・・・・・旧日本相互銀行本店ビル。 昭和27年(1952)、前川國男の設計で建てられた。

⑨鉄鋼ビル・・・・・・・・・昭和26年(1951)、戦後初の高層ビルとしてスタートした、東京駅八重洲口脇の鉃鋼ビルは、いくどかの増改築を経て、全長200mの巨大ビルとなった。 その巨大ビルを建て替え、地上26階建ての新たな鉄鋼ビルが本年秋にお目見えする予定である。 新ビルはオフィスが主体のビルで、地上26階/地下3階、敷地面積は7,400㎡(2,238坪)、延床面積約117,000㎡(約35,392坪)、事業は広島県の建設会社「増岡組」の関連株式会社が行い、施工は大成・増岡組建設共同企業体。 今日はデカイものが多い!

・・・・・・・・・・・・・平成22年(2010)の、今は無き鉄鋼ビル

⑩新呉服橋ビルディング・・・・・・・・・・デカイものついでに、もう一つ、大和証券呉服橋ビルの前に建っているのが新呉服橋ビルディング。 設計は日本設計、施工は大成建設、大林組、西松建設の共同事業体により、昭和54年(1979)に竣工した21階建てのオフィスビル。 建設当時は、安田信託銀行(現:みずほ銀行)の創業50周年事業として建設された。

⑪東京建物ビル・・・・・・・・東京駅駅前の八重洲通に面して建つ、地上8階建てのビル。 東京建物という会社は、安田財閥の創始者、安田善次郎が明治29年(1896)に設立した日本で最も古い歴史を持つ総合不動産会社である。 その本社が入っているビルで、昭和4年(1929)竣工、設計は阿部美樹志、施工は大倉土木(現:大成建設)。 現在1階はブライダル・サロンとなっており、何年か前に60歳を超えた私には玄関を入る勇気がなかった。 顔とスタイルは自信があるのだが、恥ずかしがり屋で、気の弱い男で、、、、

・・・・・・・・・・・・・・屋上にある搭屋。 この部分を見て「東京建物本社ビル」と答えられたら、その人は建築の“通”だ! この部分は東京駅八重洲口の「グランルーフ」から、パチリ!

⑫ヤンマー東京ビル・・・・・・・・・・東京駅八重洲口の真ん前にあるビル。 昭和52年(1977)竣工の地上11階/地下3階建て。・・・・・・・・“♪♪ ぼくのなまえはヤン坊 ぼくのなまえはマー坊 、、、、、♪♪”でおなじみ「ヤン坊マー坊の天気予報」を、すぐに思いだすね。 そして、口ずさみ、スキップして、駅前を行ったり来たりしたら、もう人生の御終い。 即、入院だ!

⑬旧東京市城東尋常小学校・・・・・・・・・・・東京駅の前、八重洲2丁目に中央区立城東小学校がある。昭和4年(1929)に建てられた関東大震災の復興小学校。 学校は明治8年(1875)に創立した日本橋城東小学校と昭和3年(1928)創立の京橋昭和小学校が廃校の上合併し、昭和37年(1962)から旧京橋昭和小学校校舎に中央区立城東小学校として新設された。 この付近には児童が少なく、昨年は全校生徒87名であった。 この児らは、いったいどこに住んでいるのやら?


⑭常和八重洲ビル・・・・・・・・・ビルの全容は知らなくても、東京駅前で株価表示を眺めるサラリーマン・投資家の光景はおなじみのはず。 その株価表示のあるビルがここである。 昭和42年(1967)に竣工した、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上9階/地下5階建て。


⑮グランルーフ ・・・・・・・・・平成25年(2013)にできた、東京駅八重洲口の大屋根です。

・・・・・・・・・・・・・・散歩の最後は、ここから八重洲通りをパチリ!
