南千住~浅草
南千住から、三ノ輪、竜泉、千束とぶらつき、浅草まで、1万2千歩、9kmの散歩です。
①浄閑寺・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線三ノ輪駅近くにある浄土宗の栄法山清光院浄閑寺(じょうかんじ)。 吉原遊郭誕生の2年前、明暦元年(1655)に創建された。 安政2年(1855)の大地震で、多くの犠牲となった吉原の遊女たちの遺体が、投げ込まれたことから別名「投込寺(なげこみでら)」と呼ばれている。 吉原の遊女:約11,000人を埋葬したらしい。
・・・・・・・・・・・・・・本堂・・・・・・・・・・昭和59年(1984)に焼失し、平成7年(1995)鉄筋コンクリート造に改築された。
・・・・・・・・・・・・・・新吉原総霊塔・・・・・・・・・大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲で死んだ吉原遊女の霊も含め、25,000の霊がまつられている。 その、平均年齢は21歳程であったらしい。 石塔の下の台座は納骨堂になっており、小さな空気抜きの窓を通して骨壺も見える。 また、台座には、「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の花又花酔(廓をよく詠んだ川柳作家、昭和30年代に死亡)の句が刻まれている。
・・・・・・・・・・・・・・永井荷風文学碑・・・・・・・・・・・小説家の永井荷風は、遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせ、たびたびこの寺を訪問していたそうで、荷風の碑はその縁で建てられた。
・・・・・・・・・・・・・・首洗い井戸・・・・・・・・・・鳥取藩士の平井権八は、父の同僚である本庄助太夫を些細な遺恨から殺し逐電する。 本庄の遺児の助七・助八の兄弟は江戸の三ノ輪に住んで権八の行方を追うが、万治3年(1660)、逆に権八に居所を知られ、助七は吉原田圃で斬られ、兄の首を井戸で洗っていた助八もその場で斬られ、仇討ちは成就しなかった。 仇討に失敗し、悲惨な末路をたどった本庄兄弟の最期の地がこの井戸である。 この平井権八は歌舞伎の「白井権八」のモデルとして有名。 仇討話は、曽我兄弟、荒木又衛門、赤穂浪士など成功例が多い中で、このように失敗例もあったのだ。
●このあと・・・・・・・・・・・・・・台東区竜泉の千束稲荷神社、一葉記念館、飛不動 と歩いて、チョイと危ない吉原を横切る。
・・・・・・・・・・・・・「たけくらべ」の舞台、千束稲荷神社。 『一葉の 「たけくらべ」 読んで忘れた ストーリー 無花果の 味くらべ 食べてこわした ストマック』
・・・・・・・・・・・・・下水管工事中の一葉記念館前。 『工事中 きょうもお仕事 ご苦労さん 記念館 あしたも開館 ありがとさん』
・・・・・・・・・・・・一升瓶のお供え並ぶ飛不動。 『酒並べ 御利益さずかる 飛不動 酒飲んで 操縦するな パイロット』
・・・・・・・・・・・・店員もいないのか朝のソープランド街。 『梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第 山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな~ 梅は咲いたよ ソープはまだかいな 男ビクビク金(かね)次第 親爺は浮気で 色ばっかり しょんがいな~』
②吉原神社・・・・・・・・・・・吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などに御利益を期待できる。 もともとは遊郭に祀られていた5つの稲荷を明治8年(1875)に合祀したのが始まりで、大正12年(1923)の震災後に現在の場所に移った。 遊女が生ある間に幸せを祈り、参拝したであろう神社だ。 亡くなった遊女の霊は浄閑寺で弔ったのか?・・・・・・・・・・社殿の扉は閉められ、社務所はカラで、御用のある人は千束稲荷神社が兼務している。
・・・・・・・・・・・・・・さらに、吉原神社の斜め前には、かつて弁天池という大きな池があった。 関東大震災の際に発生した大火は吉原も巻き込んだ。大火災から逃れようとした遊女など約500人は、この弁天池に飛び込み溺死したと言われている。 現在、池は埋められ、いいわけ程度の小さな池と、震災の殃死者追悼記念碑が建てられ、そして艶めかしい小さな吉原弁財天が祀られている。 弁天像は新しいものだが、私の好みだな!
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