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2015年3月

2015年3月31日 (火)

花見のため散歩は休み

ポッカポッカの「ポッカレモン」のような、今日は暖かい爽やかな天気で、まさにポッカポッカの日本晴れ。

散歩は休み、お友達と「お花見+向島七福神めぐり」をしてきた。 1万2千歩、9km。

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・・・・・・・・・・・・・・ここで、、、、、「下戸の花見は 花よりだんご さくら(長命寺桜もち)こととい(言問団子) 食べつくす」  

2015年3月29日 (日)

小岩~亀戸

JR小岩駅から亀戸駅まで、千葉街道・京葉道路に沿い歩いてきた。 1万6千歩、12㎞。

JR小岩駅・・・・・・・・・・・・明治27年(1894)、私鉄の総武鉄道が本所(現:錦糸町)~佐倉間を開通させた。 5年後の明治32年(1899)に途中駅として小岩駅が開業。・・・・・・・・私が高校生の昭和30年代頃までは、まだ地上駅で駅前の商店街も、かなりゴチャゴチャしたところだった。 今でも記憶に残っているのは、駅前路地裏の焼き鳥屋が、使用した串を、赤く塗り、軒下に並べ干している光景である。 不衛生と思ったのか、強烈な印象で、頭の中にこびり付いてしまった光景となっている。 

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②円蔵院
・・・・・・・・・・・・・南小岩6丁目、JR線路沿いの道がクネクネしたところに、真言宗豊山派の円蔵院がある。 創建年代は不詳だが、江戸中期には創建していたらしい。 門前には庚申塔・地蔵などが祀られている堂もある。

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③沖天祖神社
・・・・・・・・・・円蔵院の隣りにある天祖神社。 創建年代は不詳であるが、明治維新の神仏分離令により、それまで別当であった円蔵院より分離したそうだ。 境内は公園として利用し広いが、社殿は“お粗末、唐松、十姉妹”という感じだ!

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④辰巳新橋
・・・・・・・・・・・新中川開削工事に伴い、昭和31年(1956)に初代の辰巳新橋が架けられたが、交通量の増大、橋の老朽化、幅員の狭さなどにより、平成5年(1993)に現在の橋に架け替えられた。 現在の橋はアーチ型のニールセンローゼ橋だが、軽いタッチで明るい印象の橋である。 橋長は120m、幅員15m。・・・・・・・・橋名が深川の「辰巳芸者」と港区の「新橋芸者」を足したような粋な名前で、「ビックリ、ドッキリ、シャックリ」。

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・・・・・・・・・・・・・辰巳新橋の際には、たった一本だけ桜の木が土手で花を咲かせていた。  橋の際で、別れを惜しむ芸者のように、、、、、「辰巳新橋 行っちゃいやよ わちき今宵も ここで咲く」

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⑤JR総武本線中川放水路橋梁
・・・・・・・・・・・・新中川、辰巳新橋の上流側に、架かる鉄道橋で総武緩行線が走る。 この橋梁も、新中川掘削工事に伴い昭和31年(1956)に架橋。  昭和47年(1972)には、総武本線高架・複々線化により上流側に下路コンクリートPC桁橋が架けられ、総武快速線で使用されている。

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⑥興之宮神社
・・・・・・・・・興之宮神社は、新中川の右岸:江戸川区興宮町にある神社。 創建年代等は不詳だが、寛永7年(1630)には改築したと伝えられており、興宮村の鎮守だった。 現社殿は戦後、昭和40年(1965)頃改修されたが、この神社も境内が広いのに、社殿はチョイと寂しいね。

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⑦宍戸動物病院
・・・・・・・・・・江戸川区中央4丁目に残る、動物病院の一棟。 以前から気になる木造下見板張りの朽ちた建物(用途不明?、戦前の建築か?)は残され、後ろの母屋らしき建物は壊さた、建て替え工事が始まっていた。 広い敷地に残されるのか、、、、、またまた、気にかかる建物だ、、、、、残るといいね!

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・・・・・・・・・・・・・4年前の同建物。 後ろに母屋らしき建物がある。

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⑧東小松川香取神社
・・・・・・・・・・・・中央4丁目にある香取神社で、東小松川村の鎮守として祀られてきた。 建治3年(1277)の創建んと言われている。 現社殿は平成8年(1995)の再建。

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小松川大橋
・・・・・・・・・・・・荒川に架かる小松川大橋(小松川橋+新小松川橋)を渡ると、亀戸駅 は近い。 橋上からパチリ・・・・・・・

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●付録
・・・・・・・・・・・・・午後から、夫婦で日本橋に、買い物ついでに花見です、、、、、高島屋前(丸善の横)をはいる、「日本橋 さくら通り」も見事に開花!

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2015年3月27日 (金)

草加~見沼代親水公園

東武鉄道伊勢崎線の草加駅から日暮里舎人ライナーの見沼代親水公園駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

草加駅 ・・・・・・・・・・・・草加駅(そうかえき)は、埼玉県草加市高砂二丁目にある、東武鉄道伊勢崎線の駅である。 明治32年(1899)に開業した歴史ある駅だが、昭和63年(1988)に完成した高架複々線化により、立派な高架駅となる。・・・・・・・・・戦後は東京のベッドタウンとして、駅周辺の住宅化が進んだ。 通勤客が増えたせいか、駅前には飲食店が多く、朝は寂しく、夜はまぶしくネオンの光る町。

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・・・・・・・・・・・・・駅前ロータリーから西にのびるメインロード。

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②淨捷寺
・・・・・・・・・・駅から真西に600m程いった、浄土宗の氷川山護国院淨捷寺(じょうしょうじ)。 元和2年(1616)の創建で、浅草吉野町(現:台東区今戸)の浄生院を昭和初期に合併し淨捷寺となった。  広い境内には、平成の時代に再建したと思われる本堂が建ち、近くには寺が経営する幼稚園などもある。、、、、私には、見るべきものがない、チョイとガッカリする寺だ!

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③This is 草加
・・・・・・・・・・埼玉都民のベッドタウンとして、畑が宅地化により減少し、若い夫婦が新しい住宅に入居し、まだまだ人口も増える草加市だ。 畑の裏には大きな小学校が建ち、少子化の影響は少ないみたい、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・草加市の西側を縦断する国道4号(草加バイパス)、、、、アッ、そうか(草加)い!

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・・・・・・・・・・・・・コリャなんだ、この鉄塔の多さは、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・草加市は軟弱な地盤の上にできた町で、大規模災害に備え、市内を流れる河川の親水公園化を進めている。 西を流れる辰井川も緑化し整備したそうだ、、、、、、今日の水は黒ずみ、川の周囲は緑化されても、水は墨化したようだ!

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④真蔵院
・・・・・・・・・・・・草加市西町に建つ、真言宗智山派の真蔵院は、長渓山興精寺と号す。 創建年代は不詳だが、寺の本尊背面の銘によると享保5年(1720)に完成しているので、江戸時代中期には創建していたらしい。  まあ、創建の話は、どうでもよくて、、、、この寺には、まさに田舎の寺の雰囲気が漂っている。、、、周囲の緑に囲われて、小さな素朴な本堂があり、今にも和尚さんと小坊主が現れそうだ! 陽だまりでは猫も寝ている、のどかな景色に感動した。

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⑤歩きながら目に入る小さな堂
・・・・・・・・・地蔵さん・権現さん・不動さん、、、、“アッチモ・コッチモ・ドッチモ・ソッチモ、Jazzはサッチモ”てな具合に、道端に残されている。

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⑥西願寺
・・・・・・・・・・・草加市遊馬町の浄土宗寺。 寺は、元和元年(1615)の創建と言われている。 参道に松が並び、チョイと惹かれて境内へ、、、、

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⑦タンポポと土筆
・・・・・・・・・・・・春ですね

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⑧見沼代親水公園駅
・・・・・・・・・・・東京23区の最北端にある日暮里・舎人ライナーの駅で、平成20年(2008)に開業。 

・・・・・・・・・・・・駅がある尾久橋通りの北300m程の地点が、東京都足立区と埼玉県草加市の境である。 “境”だからといって、特に検問所があるわけでもなく、国境警備隊も常駐していない平和な境界である。

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・・・・・・・・・・・・・“境”を越え、足立区に入ると、『ここまでが東京』と言わんばかりに、バッサリと切った日暮里・舎人ライナーの線路が頭上に見える。

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・・・・・・・・・・・・・・駅舎は線路下にぶらさがるように造られている。

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・・・・・・・・・・・・・終着駅であるが、ホーム上は他の駅と同じ造りで代わり映えしないね!

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2015年3月26日 (木)

南千住~浅草

南千住駅から清川・今戸を抜け浅草まで、1万歩、7㎞の散歩。


①風を切り颯爽と歩く姿は
・・・・・・・・・若い娘のあこがれ、短足のヨタヨタ親爺(?)、、、、、(本音は)風が強く、寒い!

・・・・・・・・・・・・・今朝は、「北風ビュービュー、鼻かぜズルズル、すきま風スースー」の寒さ。 私にはどこ吹く風で、南千住JR貨物隅田川駅から散歩をはじめた。

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②玉姫稲荷神社
・・・・・・・・・・旧山谷のドヤ街の近く(現:台東区清川2)にある神社。 天平宝字4年(760)に伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建した。  名前の由来は、正慶2年(1333)新田義貞が鎌倉追討にあたり、当社で戦勝を祈願し、弘法大師直筆の稲荷大神の像を瑠璃の宝塔に納めたことから「玉秘め(たまひめ)」の名がついたという。、、、、、、、“玉姫”だと子供っぽい、“玉秘め”だと艶めかしい。 わたしとしては、“玉秘め稲荷神社”なら、賽銭を倍額にするのだがね!

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・・・・・・・・・・・・・境内にある摂社の「口入稲荷神社」は、元は新吉原の高田屋という口入れ屋に祀られていたという。安永年間(1772~81)高田屋の主人が夢告を受け、玉姫稲荷の境内に遷座した。 「口入れ屋」とは、、、、、、表向きは、現在の人材斡旋業とか、ハローワークと言ったところだ。 裏では、職業斡旋・保証人代行などでピンハネ、岡場所・吉原などに人身売買、もしていたようだ。 水戸黄門・大岡越前のドラマでは、悪代官と結託する「おぬしも、悪よの~~」。・・・・・・・・商売繁盛や就職・求人、あるいは良縁祈願に霊験があると言われている。 祈願する人は、羽織を着た立ち姿の「お狐さま」を一体拝受し、自宅に安置して祈願する。願いが叶えば、もう一体拝受し、雌雄一対にして神社に納めるならわしだ。

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・・・・・・・・・・・・・ここいらで、、、、、「風の日に 嫁をもとめて 狐を祀る 咳はコンコン 嫁もコン」


③今戸神社
・・・・・・・・・今戸神社は、康平6年(1063)、源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を勧進したことに始まる。 関東大震災・東京大空襲で被災したため、現社殿は昭和46年(1971)に再建したものである。  伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神様を、祭神として祀っていることから、縁結びに御利益を期待する若い娘の参拝が多い。 また、今戸神社がある今戸は、招き猫発祥の地。 そのため、神社では、お守り・絵馬・石像などに、くどいほどの猫がいる。・・・・・・・・若い娘と猫好きを集客し、神社が商売繁盛するのかな?

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・・・・・・・・・・・・・・ここで、、、、、、「独り身が 今宵見る夢、ニャンと美人が 猫なで声で 招いてる」  「猫に化かされ わびしく一人 床を汚すは 夢の中」


待乳山聖天
・・・・・・・・・・・・本龍院(ほんりゅういん)が正式な名で、台東区浅草7丁目にある、浅草寺の子院の一つで聖観音宗の寺院。

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⑤隅田公園
・・・・・・・・・・・開花宣言も発せられ、あとは満開になるばかり、、、、、チョイと隅田公園に立ち寄って、花見の下調べ、、、、、、ヨシ、ヨシ、良う~~し! 準備良し!・・・・・・・・・対岸、墨田区側でも色づいている。 花見のぼんぼりも下がり、あとは酔っぱらいを待つ桜。

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⑥浅草寺
・・・・・・・・・・・・・・・

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2015年3月25日 (水)

千石~大塚

昨日、外出先から帰り洗面台にて顔を洗うとき、突然、私の愛するスマホが手から滑り落ち、水深10㎝程の深みにジャボン! 私は、急遽、洗うのをやめ救出したが、遅かりし、スマホは電源も絶え、画面はマックロケノケ! 急ぎ、auショップへ搬送し、可愛いい店員さんに診察してもらったが、時すでに遅し、スマホはSDカードとICカードを残し、息絶えた。 惜しいことをした、“南無阿弥陀仏のオダブツ”、“アーメン・ソーメン・ラーメン”。 懇ろに弔った後、スマホの後妻を娶るため、可愛い店員さんに教えてもらった、「au 安心ケータイサポートプラス」なるサポートセンターへ連絡したところ、2日以内に、同色の同機種が我が家に送られてくるそうだ。 保証期間・ポイントの積み立てなどもあり、ナント!、約600円程で交換機が手に入る、ユーザには嬉しいサービスである。 、、、、、本日の午前中に、交換機が御到着し、昼からは再設定に作業に大忙し。 やっとこさで、19時に回復した。・・・・・・・・・日本流のサービスに感心したね。 ついでに、“女房”にもこういうサービスがあり、老いて使用不能になったら、若いピチピチの女房が2日以内に送られてくると嬉しいね!(これは、内緒の話で、冗談です。 チョイと口が滑っただけ!) 

・・・・・・・・・・・・・と言うわけで、今日午前中の、都営三田線千石駅 からJR大塚駅までの散歩は、スマホを持たずチョイと不安であった。


①巣鴨大鳥神社
子育稲荷神社・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・千石駅前の千石一丁目交差点から、店の数も少なく寂れた、「千石本町通り商店街」を北西に向かっう、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の先に「巣鴨大鳥神社」と「子育稲荷神社」がある。 巣鴨大鳥神社は、貞享5年(1687)に稲荷社として創建され、嘉永2年(1849)に子育稲荷社と改称した。 元治元年(1864)には境内社の大鳥神社にて「酉の市」が始まったといわれ、巣鴨大鳥神社と呼ばれている。、、、、、なんだか、“神社”とは呼べないような粗末な神社だ。

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②童心社・・・・・・・・・・・・千石3丁目と4丁目の境となる裏通りに面し、児童書籍の出版元「童心社」がある。 昭和32年(1957)に、紙芝居出版社として童心社が創立された。 現在は、紙芝居、絵本の出版元として、営業している。 おそらく、戦後に子供を育てた親たちは、こちらの絵本を読み聞かせたことがあるに違いない。 私も、飾られていた絵本の表紙を見て、懐かしく感じた一人だ!・・・・・・・・平成18年(2006)に、地上4階建ての、近代的な現社屋を建設し移転した。

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③千石の長屋・・・・・・・・・千石3丁目と4丁目の境の裏通りには、長屋も残っている。 それぞれ木造2階建ての4軒長屋である。 

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④伊勢五
・・・・・・・・・・・長屋の並ぶ通りには、江戸時代から続く米屋さんがある。 建物は、明治初頭の建築で、往時の町家の姿をよく留めていることで、国の登録文化財に指定されている。 

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⑤IT邸
・・・・・・・・・・・こちらは千石3丁目の住宅。  昭和5年(1930)建築であるが、チョット見では、昭和初期の建物と思えないほど手入れも良く、古さを感じさせない。 タイル貼りの門柱もいいね!

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⑥天理教本羽分教会教職舎・・・・・・・・・・・・千石3丁目の天理教分教会に、大正3年(1914)建築の洋館がある。 この建物の由緒は不明だが、外観は大きな改造なされていないようで、建設時の姿が残っている建物のようだ。

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⑦丸山町南住宅
・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・千石3丁目(旧丸山町)を東側から歩いてくると、猫又坂の北側に大きなマンションがある。

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・・・・・・・・・・・・・・大きなマンションの先は谷となり、階段で下ることになる。 上からは、池袋の高層ビルも見える。、、、、、、、この階段の左側に2棟の古いマンションがある。

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・・・・・・・・・・・・・・・「古いマンション」とはチョイと失礼なので、「昭和の香り漂うマンション」がある。 「丸山南住宅」と称し、2棟残っている。 昭和30年(1955)、高度経済成長期のスタート時期に、鉄筋コンクリート造4階建て(全32戸)建てられた。 建設当時は、弁護士、官僚などが住んだ高級マンションだったそうだ。

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⑧猫又坂・・・・・・・・・・千石2丁目と3丁目の間で、不忍通りが千石1丁目交差点から千石3丁目交差点に向かう、170m程の下り坂である。 坂の由来は、坂下を流れていた千川に架かる橋が、狸橋/猫貍橋/猫又橋などと呼ばれていたことにちなむそうだ。

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⑨日本基督教団 巣鴨教会
・・・・・・・・・・・・・南大塚1丁目、巣鴨教会は明治9年(1876)に設立された、歴史はチョウ古い教会である。 ただし、現建物は昭和48年(1973)の完成である。

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・・・・・・・・・・・教会の庭には山田耕作の「からたちの花」の碑がある。 なんで?、、、、、山田耕作は10歳の時、キリスト教の伝道活動をしていた実父を亡くした。 耕作は父の死後、遺言に従い巣鴨宮下(現南大塚)にあった自営館という施設に入館する。 この自営館こそ、今の巣鴨教会の前身で、苦学生に仕事を与え、自活させながら学校へ通わせるための施設であった。 耕作は13歳まで、自営館の活版工場で働き、過ごした。 この時の耕作の思い出を北原白秋が作詞したのが「からたちの花」である。   ♪♪ からたちの花が咲いたよ 白い白い 花が咲いたよ  からたちのとげはいたいよ ~~~ ♪♪

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2015年3月22日 (日)

築地

墓参りも終わり、今日は夫婦で買い物に、、、、、銀座での買い物が早く終わり、築地の煎餅屋に寄ってみるか、、、、、煎餅買ったら、ケーキでも食べるか、、、、、、で、1万歩、7㎞の散歩です。 食事して、お茶して、ひょっとして、カロリーオーバー、太ったかもね!


①ブラブラ
・・・・・・・・・ウララ ウララ 春うらら、、、厚手のコートは脱ぎ棄てて、二人で歩く空の下、、、心うきうきギン・ブラ・ブラよ!

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築地本願寺 ・・・・・・・・・・・築地の煎餅屋で、紙袋イッパイの煎餅を買い、、、ここまで来たら、本願寺で手を合わせて行こう。 東京帝大教授:伊東忠太の設計により、関東大震災で焼失した本堂が、昭和9年(1934)にインド建築の様式で再建された。

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・・・・・・・・・・・・・今日の本堂は、香の煙で靄がかかっていた。

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・・・・・・・・・・・・・本堂には、昭和45年(1970)に、2000本のパイプによるパイプオルガンが設置された。 今日はパイプオルガンの演奏はなく、彼岸だからか、坊さんの合唱による読経であった。、、、、ここで素晴らしいアイディアを披露、、、、、木魚を大小2000個程並べて演奏する、パイプモクギョを考案・設置すると、厳かな寺院にリズミカルな響きが流れ、評判になるかもね!


③聖路加病院 チャペル
・・・・・・・・・・仏教寺院だけでは“片手落ち”、ここまで来たら聖路加病院内のチャペルにも寄って行こう!・・・・・・聖路加病院は、明治35年(1902)に米国の宣教医師ルドルフ・トイスラー(Rudolf B. Teusler 1876~1934)によって創設された。 設計は最初アントニン・レーモンド(1888~1976)が担当したが、装飾に乏しく、途中からJ.V.W. バーガミニー(1888~1975)に代わり、現在のような意匠に変更された。   施工は清水組(現:清水建設)、鉄骨鉄筋コンクリート造7階建てで、昭和7年(1932)に竣工した。 建物は平成9年(1997)に病棟中心部の塔屋とチャペルを残して改築された。 中央の十字架を頂く塔には、タイルが貼られ、内部は重厚な石貼りで天井も高く、崇高な雰囲気をつくり出している。・・・・・・・・こちらには、2077本のパイプを持つパイプオルガンがあり、日曜礼拝などで演奏されている。

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④聖路加病院 トイスラー記念館
・・・・・・・・・・病院の前庭に保存されている旧宣教師館(現:トイスラー記念館)。 設計はチャペルを手掛けた建築家のJ・V・W・バーガミニィーで、施工は清水組(現:清水建設)で、昭和8年(1933)の建築である。 建物は隅田川畔の明石町19番地に建設され、平成10年(1998)に現在地に移設・復元された。 昭和初期の住宅では珍しい鉄筋コンクリート造、一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる建物。

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⑤Kurosawa
・・・・・・・・・・・・築地2丁目の路地裏に築80年の大正ロマンあふれる民家を改装したステーキ屋がある。 「鉄板焼 Kurosawa 」だ、黒澤明監督が好んで食した店だと言われている。

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2015年3月21日 (土)

散歩は休み

彼岸の中日、母と妻を連れ三人で、遠く郊外にある柴又帝釈天別院の霊園へ、墓参り、、、、、散歩は休みです。

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・・・・・・・・・・・・「彼岸会に 麗艶(霊園)菩薩の 身体を擦り 今宵も元気に 頑張ろう」、、、、、「擦っても 興奮しない、愚弄するなと 冷艶菩薩に 叱られる」  

2015年3月20日 (金)

下北沢~池尻大橋

小田急線下北沢駅から、世田谷区代沢界隈をブラリ歩いて、東急田園都市線池尻大橋駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。

下北沢駅・・・・・・・・・・・・小田急電鉄・京王電鉄の共同使用駅である。 小田急線は、複々線化事業区間のうち、東北沢~世田谷代田間の地下化工事に、平成16年(2004)から着手し、平成25年(2013)には同区間の在来線の地下化が完成した。 現在は増線分(複線)の工事を進めている。 平成29年(2017)度内の複々線による運転を目指している。・・・・・・・・・ホームは地下3階の深いところにあり、駅舎は工事中につき仮通路を通り地上に出るため、チョイと大変である。 完成予想図などを見ると、便利になりそうなので、もうしばらく(2年程)のガマンだ。・・・・・・・・・工事の複雑さ、長期、難しさなど、まさに“男の仕事”だ。 やってみたいね、現場監督を! 

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②下北沢庚申堂・・・・・・・・・・・・駅前の「南口商店街」を抜ける位置に庚申堂がある。 歴史・由来は一言「古そうだ!」

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③KO邸・・・・・・・・・・・・代沢5丁目に建つ、昭和11年(1936)建築の住宅。 1階の縦長半円形の窓が印象的な建物である。

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④森厳寺・・・・・・・・・・・・・代沢3丁目に、浄土宗の森巌寺(しんがんじ)がある。 慶長13年(1608)に徳川家康の二男:結城秀康の位牌所として建立された。 それゆえに、境内には三つ葉葵の紋を目にすることができる。・・・・・・・・・江戸時代には、“灸”と“針供養”と“富士講”の寺として知られたそうだ。 “灸”は寺を開山した和尚が日頃腰痛で苦しみ、淡島明神に願掛けをしたら、明神が灸の秘伝を教えてくれ腰痛が完治した。 和尚は喜んで、境内に淡島堂を建て、加太から淡島明神を勧請したそうだ。 寺の山門には、「粟嶋の灸」という看板が掲げられている。  ここいらで、、、、、「和尚さん 腰が痛いと 明神頼み 仏たよらず ホットケー」

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・・・・・・・・・・・・・・現本堂は昭和39年(1964)に鉄筋コンクリート造で再建された。

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・・・・・・・・・・・・・・淡島堂は、天保7年(1836)に完成。

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⑤北澤八幡神社・・・・・・・・・・・・森巌寺の近くにある八幡神社。 神社は、文明年間(1496~1487)に世田谷城主により勧請されたといわれている。 森巌寺は八幡神社の別当であった。 現社殿は昭和53年(1978)に鉄筋コンクリート造で改築された。

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⑥東京聖三一教会・・・・・・・・・・・代沢2丁目には東京聖三一教会(とうきょうせいさんいちきょうかい)という、日本聖公会に属する教会があった。 「聖三一」とは、三位一体の神を指すそうだ。 明治7年(1874)に築地居留地で立教学校(立教学院)の新校舎が建ち、その教室・講堂で立教教会の名称にて集会を開いたのが、当教会の始まりである。 教会は築地・青山などに移転し、昭和36年(1961)に現在の代沢に移った。・・・・・・・・・教会の建物は昭和35年(1960)の竣工で、今は取り壊された白木屋百貨店や旧朝日新聞社の建物を設計した、建築家:石本喜久治の設計である。 1階は事務所で、聖堂は2階である。 尖塔の下に入口があり、内部は円形の梁に支えられた構造、スリット状の窓から差し込む光で明るくモダンである。

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⑦富士見丘教会・・・・・・・・・・・・日本基督教団に属する教会で、こちらも代沢2丁目にある。 富士見丘教会は、昭和10年(1935)、下北沢の地で開拓伝道の取り組みに始まる。 翌昭和11年(1936)に教会堂が建設され正式にスタートした。 木造2階建ての小さな質素な教会である。 国の登録有形文化財。・・・・・・・・ブラリ散歩の立ち寄りで、門は施錠されていた。 次回は内部を拝見したいものだ!

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⑧松本歯科医院・・・・・・・・・・・・富士見丘教会の隣りに、廃業したと思われる歯科医院がある。 私の推定では昭和初期の建物。 建物は空き家となり、庭木は伐採されていたが、ウメの木が3本残され、花を咲かせていた。 切ない光景である、、、、、、今度、ここへ来たときはおそらく見ることはできないであろう。

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⑨MT邸・・・・・・・・・代沢1丁目の住宅。 この建物は昭和初期の建築か?

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⑩目黒川緑道・・・・・・・・・・・世田谷区池尻4丁目から、目黒川沿いに「目黒川緑道」が約500m程、整備されている。 平成21年(2009)に完成し、地元の人が手入れをしている緑道である。 水は澄み、ごみはなく、花は咲き、鯉がおよぎ、癒される緑道である。、、、、、、こんな綺麗な緑道初めて見た!!

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池尻大橋駅 ・・・・・・・・・・・・・ここで、散歩は御終い、、、、、、

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2015年3月17日 (火)

浅草橋~亀戸

我が家(浅草橋)から、気持ちはジグザグに、足はブラブラと、美人を見てフラフラと、すべては適当に歩いて亀戸まで、1万2千歩、8kmの散歩です。


①チョイとややこしい浅草橋
・・・・・・・・・・まいどのボヤキです・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・次の写真を撮ったのは、浅草橋の左岸で私が住む台東区側からパチリ。 橋を渡った向こう岸(右岸)は中央区。 住居表示では、台東区側は浅草橋1丁目と柳橋1丁目、中央区側は日本橋馬喰町2丁目と東日本橋2丁目。 つまり、住居表示で「浅草橋」は台東区側、中央区側は「日本橋」である。 さらに、ややこしくすると、JR・地下鉄の「浅草橋」駅は台東区側にあるが、国道の「浅草橋」交差点は中央区側にある。 写真右端の白い建物は「日本橋」女学館高校。

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・・・・・・・・・・・・・・次の写真は橋の左側を撮影したもので、対岸は中央区。 写真中央の白いビルはナント、「両国」郵便局である。 つまり、中央東“日本橋”に在り、“浅草橋”の際に在る、“両国”郵便局である。(注:JR両国駅は隅田川を渡った墨田区)

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・・・・・・・・・・・・・・昭和37年(1962)の住居表示制度の施行により、メジャーな地名を取り入れたためか、、、、橋名の「浅草橋」を地名に採用し、遠く「日本橋」の地名を冠し、有名な「両国橋」の名を借用し、、、、、、ああ、ややこし。


②かすむスカイツリー
・・・・・・・・・・昨夜の雨で、東京の朝は視界不良。 霞(かすみ)の正体は、霧(きり)か、靄(もや)か、どちらかだ。  ここで、披露!、、、、、「二人の仲も 春なら霞 逢わずば腹がきりきり(霧霧)と 逢えば心がもやもや(靄靄)と」

・・・・・・・・・・・・・・両国橋 から

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・・・・・・・・・・・・・報恩寺参道から

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・・・・・・・・・・・・・天神橋から

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③増田外科医院
・・・・・・・・・安田庭園裏、大正10年(1921)に建てられた家屋は、震災・戦災を免れ、 昭和30年(1955)に改築されて医院となった。 最近、外装も塗り直したようだ。

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④本所警察署石原三丁目交番
・・・・・・・・・チョイと傾いてきました! 2階の部屋で仮眠していると転がるかもね? 

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⑤あれ!壊された!
・・・・・・・・・・・石原4丁目、蔵前橋通り交差点にあった「旧安田蓄財銀行」の建物(大正12年(1923)築)が取り壊され、只今、マンション建築中。

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・・・・・・・・・・・・・一年前には、在ったのだが、私の知らぬ間に誰が壊した!(2014/2/6撮影)

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⑥賛育会病院
・・・・・・・・・・・・“賛育会”は、大正7年(1918)に東大YMCAの有志が設立した診療所に始まる。 震災では建物を焼失し、昭和5年(1930)に建物が再建された。(現:西館) さらに、東京大空襲では施設を灰燼に帰し、戦後は焼けた病院からの再出発となった。  キリスト教系の病院で、もともとは産院だったが、現在は13科、約200床の総合病院となっている。

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⑦横川5丁目アパート
・・・・・・・・・・・墨田区横川を流れる横十間川沿いにある都営アパート。 昭和45年(1970)度の建築、当時の高層住宅の一つである。 このアパートも高齢化しているようだ、今日も玄関には、デイサービスの車と救急車が止まっていた。

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⑧くず餅の船橋屋
・・・・・・・・・・錦糸町方面から天神橋を渡ると、すぐに、くず餅の「船橋屋」がある。 船橋屋は文化2年(1805)に、現在の千葉県船橋で創業した。 現在の本店の木造建物は戦後の建築らしい。 でも、江戸下町の面影を残す愛すべき建築である。・・・・・・・・・今日は、散歩のみやげにくず餅を買って帰った。  ここで、再び披露、、、、、「梅を見て きな粉を抱いた もち肌を とろり蜜かけ 口にする」

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亀戸天神
・・・・・・・・・・・寛文元年(1661年)創建の江戸の本所亀戸村の鎮守さま。 今日は梅の鑑賞にお立ち寄り、、、、、、散る梅もあり、季節は桜にバトンタッチ!

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・・・・・・・・・・・・・写真中央にメジロがいるのが、わかるかな?  ここで、もう一丁、、、、、「ウグイス離れ メジロで我慢 色香で誘う ウメの花」

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⑩福地写真館
・・・・・・・・蔵前橋通りの、亀戸天神参道入り口近くの写真館。 戦後の木造の建物だが、正面から見ると2階の大きな前面ガラスの窓と青のスパニッシュ瓦で飾られ、昭和の写真館だ!・・・・・・・・・こちらの写真館の歴史が、凄い! 大正9年(1920)にロシアのウラジオストックで創業した写真館。 大正13年(1924)には広島に移り開業したが、原爆で写真館は焼失し、昭和24年(1949)に現在の亀戸で開業したそうだ。 現在は3代目が跡を継ぎ、“10年後20年後に写真を撮影したときの感動が伝わる写真を撮影し続け、写真にこだわる方の写真館”として営業している。

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2015年3月16日 (月)

中野~鷺ノ宮

中野の病院にて眼科の定期検診を受けるため、JR中野駅から病院経由で西武新宿線鷺ノ宮駅まで、1万1千歩、8kmの散歩となった。

●・・・・・・・・・・朝一番の診察を受けるため、7時45分には中野駅に下車した。 通勤電車は満員状態。 毎日が日曜日となった私には、通勤ラッシュがチョイと懐かしくなってきたね。

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●・・・・・・・・・・・中野駅周辺は再開発の話題が絶えず、その一つで目玉の中野駅駅ビルの建設がある。 こちらは、現線路上の空間に、2020年東京オリンピック開催時期に合わせてオープンさせる予定らしい。 写真手前(三鷹寄り)に計画しているらしい、、、、、まだ、極秘の情報だ!
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●・・・・・・・・・・・中野駅北側、旧警察学校跡地 の再開発は終わり、次はコンサートでおなじみの中野サンプラザとお隣の中野区役所を取り壊し、2024年までに再整備する予定。 こちらも大きな再開発となり、地元からも期待されている。

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●・・・・・・・・・・・・こちらは私がお世話になっている病院。 以前は中央線の飯田橋駅にあった病院で、15年程前に名医の診察を受け以来、入れ代わり立ち代わり眼科の女医さんは変わるが、どの先生も私を見離すこともなく、『また来てね!』、、、、、ハイ、鼻の下を長くして、また来ます。・・・・・・・・8時45分に診察終了、ヨシ、引き続き歩くぞ!

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●・・・・・・・・・・・病院の前の早稲田通りと環七通りが交差する処に大和陸橋がある。 陸橋上には“環七”が通り、交通渋滞もないようだ。 出来れば、地下トンネルにして、歩行者の視界を広げて欲しかった。

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●・・・・・・・・・・・環七通りを横断して、私の散歩は路地裏へ入って行くことにした。 ここは中野区大和町1丁目、、、、、

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●・・・・・・・・・・・路地裏には見るべきものがないので、送電線の鉄塔でも拝見しよう、、、、、

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●・・・・・・・・・・・シンプルでいいね!

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●・・・・・・・・・・・裏道・路地を歩いて出てきたのは、大和町1丁目と3丁目の境にある「中央通親和会」。 チョイと見、寂れた商店街のようだ、少し歩いてみよう、、、、、

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●・・・・・・・・・・・商店街を行くと、「民生食堂」の看板を掲げた昭和の大衆食堂「天平」がある。 「民生食堂」とは、、、、戦前、戦中は「外食券食堂」により外食が統制されていた、戦後になり食糧事情も改善されたが、貧しさは変わらず、そこで都は「民生食堂」を各所に指定し、食堂には水道料などを援助をし、客には安価な食事を提供できるようにした。 「民生食堂」の看板が残っている食堂は、ここのほかには両国国技館裏の「下総屋食堂」がある。 “昭和”が残っている大衆食堂だ! まだ、朝の内で暖簾は出ていないね、、、、、、
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●・・・・・・・・・・・・大和町4丁目、こちらは3軒長屋。 まだ、廃屋にはなっていないようだ、、、、、、

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●・・・・・・・・・・・・大和町4丁目から妙正寺川を越えて若宮2丁目に入る。 写真の橋は下谷橋(昭和43年竣工)、、、、、こんなこと、どうでもいいね! 
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●・・・・・・・・・・・若宮の裏道だが、私をワクワクさせるものがない。 

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●・・・・・・・・・・・・オヤ、いまどき伝書鳩を飼っている家がある。 鳩レース、まだやっているのかな? 世の中は、情報通信技術が進歩し、いつのまにか、伝書鳩が必要なくなった時代となったね。

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●・・・・・・・・・・・ミモザの咲く頃になった。 「ミモザ」はオジギソウの総称みたいだが、私には黄色い花が咲く木が「ミモザ」で、触ると縮まる木が「オジギソウ」。、、、、、、植物の名前て、面倒くさいね、どうでもいいや!  

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●・・・・・・・・・・裏通りから出てきたところは鷺ノ宮駅 。 帰ろう!、、、、、、

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2015年3月15日 (日)

赤羽~王子

赤羽駅からJR沿いに歩いて王子駅までの散歩です。 今日は万歩計がトラブリ、歩数計測不能となった。


①キャバレー「ハリウッド」
・・・・・・・・・赤羽駅 東口の閑散とした飲食店街で、「グランドキャバレー ハリウッド」の看板が目に飛び込んできた。 おお、すっかり忘れてしまった、昭和40年代の懐かしの社交場だ。・・・・・・・50年程前は、仕事を終えると“打上げ”だ、“上棟”だ、理由は何でもいい、『飲みに行くぞ!』、、、、まずは、料理屋へ、二次会はキャバレーへ、そして店の娘とナイトクラブへ、てな時代であった。 当時のキャバレー、「ハリウッド」、「ハワイ」、「杯一」、「クインビー」、「ウルワシ」、「ミカド」、「ニューチャイナ」、「日の丸」など、店の名前を、ドンドン、ゾロゾロ、スラスラと思い出すね!(まだボケていないぞ!)・・・・・・・・昭和40年代の健康的な“踊るキャバレー”が、昭和50年代には踊りはディスコ、キャバレーは“キャバクラ”、“ピンサロ”と変身し、品行方正な私の足も遠のいた。・・・・・・・・「ハリウッド」のオーナーは“知る人ぞ知る”、、、、終戦と同時に銀座のキャバレーで働き、昭和30年代に独立しキャバレーのオーナーとして“キャバレー王”、“キャバレー太郎”の名を馳せた福富太郎である。

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・・・・・・・・・・・・・今でも 『飲んで! 歌って! 踊って! 華やかなショー』 オ・ト・ナの憩いと癒しの場、安心してお遊び戴ける唯一の社交場として営業している。 店の前には連日のショーの案内が貼られていた。 懐かしい50年前の雰囲気が残っているようだ、今度は夜の散歩で来たくなったね、、、、、

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②路地裏のアパート・
・・・・・・・・・赤羽南にあった、どこにでもありそうなアパートだ。 でも何となく、懐かしさを感じる雰囲気がある。 土のアプローチには、草が生え、植木鉢を粉々にした素焼きの破片が撒かれ、建物の中は薄暗い板張りの廊下、壁には関係者以外の入室禁止のボロボロになった注意書きが貼られている、、、、、、

 

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③3代前の蔵
・・・・・・・・・・・・東十条5丁目にあった、3代前が建てたらしい。(ご近所の話だがね!) 昭和初期の建築か?  裏側から見る蔵もいいね!

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④FJ邸
・・・・・・・・・・・・東十条5丁目の住宅。 競って玄関わきに洋風の応接間を造った、戦前の名残りかな、、、、、、今は物置?

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⑤平和橋
・・・・・・・・・・・・北区中十条と東十条に架かり、下にはJR在来線、上には新幹線が走り、橋上は「環七通り」の橋。 昭和26年(1951)に完成した、主桁と橋脚を剛結合したラーメン橋(ラーメン屋とは無関係、ラーメンは独語の「骨組み」)。

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・・・・・・・・・・・・・・橋上からパチリ!

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⑥KW邸
・・・・・・・・・・・中十条の銅板建築。 緑青色となった銅板がキレイだ! また左奥の木造押縁下見の造りもいいね。

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⑦元料亭?
・・・・・・・・・・東十条駅北口近くの建物。 以前から気になっているだが、私には、いまだに解決しない疑問、『元料亭の建物? 建築年代は?』

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⑧富士神社(十条富士塚)
・・・・・・・中十条2丁目、もとは古墳であったところを、江戸時代に富士塚とし信仰した。 明治14年(1881)には鳥居・頂上の祠などを整備し、今では、富士山の溶岩が配され、中腹には小御岳神社の祠もある。 世界遺産になった富士山にあやかり、高さ6m程、30歩で山頂に立てる、高齢者登山の穴場かも? 遭難しないように注意して! 

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⑨中十条から岸町へ下る階段
・・・・・・・・・・東京の西に広がる武蔵野台地、その台地が東北本線の西側で崖となってJRの線路側に下っている。 崖上から下る坂・階段が東十条~王子間に多く点在する。 その一つ、中十条1丁目から岸町2丁目に下る階段は、結構長い!

・・・・・・・・・・・・下りのスタート地点

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・・・・・・・・・・・・・正面に住宅があり、その後ろには新幹線の高架橋が見える。

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・・・・・・・・・・・・階段は住宅の前で右折し、さらに下る。 リズムよく、ポンポンと下ると腸も飛び跳ね調子よく、“下りそう”になるから御注意を!

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・・・・・・・・・・・・階段の正面には反対側から下ってくる坂道が見える。

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・・・・・・・・・・・・階段と坂が一体となり、さらに坂が続く。 坂の正面が終点だ!

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⑩ちんちん山トンネル
・・・・・・・・・「南橋大橋」という陸橋の高架下に「ちんちん山トンネル」のポータル部分の石組みが残されている。 戦時中のこの辺りは、板橋火薬製造所と十条兵器製造所を結ぶ軍用列車の線路が、縦横に敷かれており、小型電車がチンチンと鐘を鳴らして走っていた。 その鉄道トンネルが現:南橋大橋のところにあったので、トンネルの出入口部分の石積みが残されている。 トンネル上部中央には東京砲兵工廠のマークが組み込まれている。

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⑪名主の滝公園
・・・・・・・・・・嘉永年間(1848~1854、=江戸時代)に王子村の名主が屋敷内に滝を作り、一般に開放したのが始まり。 園内には複数の滝があり、全体的には渓谷の中を歩くような配置となっている。 現在は区立公園となっており、敷地内には老人憩いの家もあり、お爺さん、お婆さんには喜ばれているかも?

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⑫王子稲荷神社
・・・・・・・・・人を化かす女狐がかえって人に化かされる顛末を描いた、落語「王子の狐」で有名な神社。 また、私は見たことないが、大みそかの夜には狐の行列もあり、これまた必見の行事らしい。 私は、よく、お稲荷さん詣でをするが、まだ女狐にだまされたことがないので、一度経験してみたいものである。(我が家の女狐には、よくだまされるけどね。)・・・・・・・・・・治承4年(1180)以前の平安時代に創建された。 現在の社殿は文政5年(1822)の建立である。

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2015年3月13日 (金)

西新井~舎人公園

どこへ行くあてもなく東武線に乗り、いつものように可愛い娘につられ、西新井駅で下車。 駅前で、“右に行こうか左に行こうか”、“西に行こうか東に行こうか”、“いっそ、天国に行こうか地獄はイヤだ”と迷い、行くへ定まらず。 交番のお巡りさんが東を見ている、『ヨシ西へ歩こう』と決めたが、グニャグニャ曲がる裏道を成り行き任せで着いたところは舎人公園。 1万1千歩、8kmの散歩となった。


①西新井駅前
・・・・・・・・・・・・朝、店は開いておらず、通勤、通学の人ばかり、『さて、どちらに向かって歩こうか?』

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●・・・・・・・・・・・・・「グリーンロード」と称する商店のほとんどない、商店街を行くと、「環七通り」に出た。

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②満願寺
・・・・・・・・・・・真言宗豊山派寺院の満願寺は、創建年代不詳であるが、もと西新井大師 の末寺であった。 この辺りは足立区栗原という地名だが、もとは栗原村と称していた。 その頃、栗原村は3地区に分かれて、その一つの地区は「満願寺」と呼ばれていたそうだ。 つまりは、その頃(具体的には?)から存在していた寺である。・・・・・・・・【満願】とは、“願望が満たされること”。 懇ろに手を合わせ、『宝くじが当たりますように!』

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③栗原立体交差
・・・・・・・足立区栗原では、南北に走る「尾竹橋通り」と、並行して走る東武線により、東西の交通が遮断されてきた。 足立区では昭和60年(1985)から平成3年(1991)にかけ、総延長380m、トンネル部160m、総工費36億円で尾竹橋通りと東武線の下を抜けるトンネルを造り、東西をつないだ。 これが栗原立体交差である。

・・・・・・・・・・・・・・・車道の出入口・・・・・・・・手前側が尾竹橋通り

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・・・・・・・・・・・・・・・この付近の尾竹橋通り

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・・・・・・・・・・・・・・トンネルは東武線の下を抜けて行く。・・・・・・・・・線路の向こう側にかまぼこ型の覆いがあるのは、人・自転車の出入口。

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④源正寺
・・・・・・・・・・足立区伊興2丁目、源正寺の開山は、遠く鎌倉時代、後醍醐天皇の御代で、当時は玄性寺と称した。 天文20年(1551)には、寄進された阿弥陀如来像を本尊として、本堂も改築し、宗派を真言宗に改宗し、名称も玄性寺を源正寺と改字した。 名も、宗派も、本堂も、そして本尊も、、、、なんたるコッチャ全て変えて、寺の大革命だ、『この罰あたりが』!・・・・・・・・現本堂は昭和50年(1975)の改築で、鉄筋コンクリート造。

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・・・・・・・・・・・・・・ウメも満開

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⑤舎人公園
・・・・・・・・・・・・舎人(とねり)公園は、足立区舎人公園、西伊興、古千谷などの町に広がる都立公園。 もとは、戦時に空襲による被害を軽減するための、防災緑地として整備された約100haの広大な土地である。 戦後になり、昭和56年(1981)に公園として整備され開園した。 公園は池を中心とした散策などができる広場と、陸上競技、テニスコート、野球場などがある。 また、地下には日暮里・舎人ライナーの地下車庫が造られている。 さらには、現在工事中の部分もあり、まだ広くなる予定である。

・・・・・・・・・・・・・舎人公園駅からの眺め

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・・・・・・・・・・・・・・池では釣りを楽しむ人も、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・そろそろ木々も芽吹き、色付いてきた、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・ネコヤナギにも春が来た、、、、、ここいらで、キャンディーズの「春一番」、♪♪雪がとけて川になって 流れて行きます つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します もうすぐ春ですねえ ~~~~~ 日た゜まりには雀たちが 楽しそうです 雪をはねて猫柳が 顔を出します もうすぐ春ですねえ ちょっと気どってみませんか ~~♪♪  

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⑥舎人公園駅
・・・・・・・・・平成20年(2008)3月、日暮里・舎人ライナーの開業と同時に駅も開業した。 島式ホーム2面3線の高架駅で、舎人公園の中央に位置する。・・・・・・・・ここから日暮里まで、先頭車両の一番前に座り、60過ぎの親爺が運転手気分で楽しんできた。

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2015年3月12日 (木)

千石~茗荷谷

都営三田線千石駅から、東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


①千石駅
・・・・・・・・・・・都営三田線は昭和43年(1968)に巣鴨~志村(現:高島平)間が開業し、昭和47年(1972)には日比谷~巣鴨間が続いて開業した。 千石駅は、このとき同時に開業した島式ホーム1面2線の駅である。・・・・・・・・・駅名・地名「千石」は、何となく、江戸時代の大名、禄高などと関係ありそうな名で、由来を知りたくなるね、、、、、期待して調べたら、ビックリ、ガックリ、ガッカリだ、驚いて、おくちパックリ、胸はシャックリ、おしりポッチャリ! 昭和42年(1967)の住居表示改正で7町が合併した時に、小石川植物園の脇を流れていた千川(現:暗渠)の“千”と、小石川の“石”を合成して「千石」と命名した。 期待を完全に裏切る由来であった。 調べなければよかった!

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明化小学校
・・・・・・・・・・明治7年(1874)に、職員3名、児童20名により近くの浄土寺を借用して開校した私立学校。 一か月後には、公立明化小学校となる。 現年度は、創立170周年でいろいろ企画・実行しているようだ。・・・・・・・・現校舎は昭和5年(1930)に復興小学校として建てられ、いまでも正面玄関のまわりには、懐かしい学校の雰囲気が残っている。 (今日はちょうど下校時間にぶつかり、内部の写真撮影は控えた。)

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③MM邸
・・・・・・・・・・・文京区千石2丁目の住宅。 和風住宅に、ちょこっと付いた応接間か?

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④進開屋
・・・・・・・・・・・千石2丁目の蕎麦屋として、昭和4年(1929)に建築された。 1階入り口側が客席で、奥が調理場である、一般的な間取り。 客席土間から階段で上がると、2階は座敷がある。 木造2階建て、瓦葺、建築面積52㎡の建物は、国の登録有形文化財である。

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⑤巨大なソテツ
・・・・・・・・・・千石2丁目で発見! こちらは、マジでドッキリ、ビックリ。

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⑥UE邸
・・・・・・・・・・・・・千石2丁目の住宅だが、元は医院のようだ、玄関を入り左側は待合室かな?

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⑦東京諸聖徒教会
・・・・・・・・・・・・・・神田に在った教会が、関東大震災で倒壊し、昭和6年(1931)に現在地(文京区千石2丁目)に移転・建設された。 設計は米国人建築家バーガミニで、立教大学本館などを手がけている。 コンクリートのどっしりした重量感、シンプルなデザイン、印象的な尖塔部など特徴ある外観だ。 内部も飾り付けたデザインではなく、シンプルで清潔感がある。 国の登録有形文化財。・・・・・・・・・今日は扉に施錠してあり、入れなかったので、内部は4年前の写真です。

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簸川神社
・・・・・・・・・・・孝昭天皇3年(473)創建と伝えられている由緒ある簸川(ひかわ)神社。 旧小石川村の鎮守である。 神社はもともと小石川植物園内の水源地にあったが、承応年間(1652~1655)に白山御殿が建てられる際に原町(旧地名)に移され、さらに元禄12年(1699)に景勝地といわれた現在の高台へ移った。・・・・・・・・東京大空襲で、本殿・社務所などは焼失し、昭和33年(1958)に再建された。 

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⑨旧東京医学校本館
・・・・・・・・・・・・小石川植物園の北側の隅に東大本郷キャンパスから移設された、重要文化財:旧東京医学校本館の赤い建物がある。 現在は、東京大学総合研究博物館の小石川分館として使用されている。 今日は、常設展示の「建築博物誌/アーキテクトニカ」を見て来た。

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⑩都バス大塚車庫
・・・・・・・・・茗荷谷駅に近い大塚1丁目に都バスの大塚車庫がある。 もとは東京市電の車庫として使用されていた場所をバス車庫に転用したもので、開設年は大正14年(1925)である。 車庫は今月29日に、85年の歴史に終止符を打ち、廃止される予定。 建物はその後取り壊され更地となる予定、チョイと寂しいね。 

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2015年3月11日 (水)

荻窪~西荻窪

やっと、青空の下で散歩をすることができた。 荻窪駅から西荻窪駅まで、杉並区の住宅をキョロキョロ拝見しながらの散歩でした。 1万1千歩、8km。


荻窪駅西口
・・・・・・・・・・明治24年(1891)に甲武鉄道の駅として開業。 開業時の出入口は現在の南口だけである。 昭和2年(1927)には北口が設けられた。 昭和35年(1960)には、駅の西側に南北を連絡する跨線橋が設置された。 西口改札はこの跨線橋の上にある。 

・・・・・・・・・・・跨線橋上の西口改札を出て、駅南側道路と出てくる

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・・・・・・・・・・・・・西口改札は、古レールで組んだ小屋組みが残されていいる。 年代不詳であるが、戦前に組まれたものか?

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②南荻窪の住宅
・・・・・・・・・・・荻窪駅の南西、杉並区南荻窪・西荻南の一帯は、田園調布のような豪華さは無いが、落ち着いた高級住宅街である。 この町には震災後に建てられた近代建築が各所に残っている。

・・・・・・・・・・・・・KT邸・・・・・・・・・・可愛い玄関灯のある木造住宅

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・・・・・・・・・・・・YN邸・・・・・・・・・・・現在は空き家となっているが、塀の一部をあけ、ショーウィンドがあったようだ。 質流れ品を飾った元質屋かも?(私の推測)

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・・・・・・・・・・・・・・シュロの木が1本ある住宅・・・・・・・・戦前の建築と推定したが、その答えは、、、、?

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・・・・・・・・・・・・・MR邸・・・・・・・・・・チョイとメルヘンチックな洋館風建築(年代不詳)

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・・・・・・・・・・・・・YN邸・・・・・・・・・・丸窓と暖炉の煙突が印象的な和洋折衷住宅は、昭和12年(1937)に建てられた。 約80年経過した今でも、綺麗な状態で使われており、素晴らしい建物だ。
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・・・・・・・・・・・・・・古宇田邸・・・・・・・・・・・切妻の大屋根が特徴的な洋館風住宅。 昭和2年(1927)の建築。 国の登録有形文化財。

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・・・・・・・・・・・・・IS邸・・・・・・・・・・・・・昭和13年(1938)に建てられた、片流れのような屋根と正面の開口部が特徴的な洋館風住宅。 この建物もよく手入れされているようで、状態はいいようだ。

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③日本イエス・キリスト教団 荻窪栄光教会
・・・・・・・・・・・数年ぶりに立ち寄ってみたら、昨年新しい教会が完成したそうだ。 モダンだね!

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・・・・・・・・・・・・・・4年前の同教会、昭和41年の建築だが“教会らしさ”がプンプンしていた。

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④神明天祖神社
・・・・・・・・・・・創建年代は不詳だが、天正12年(1584)に検地した際に、草叢の中に小さな社があったらしい、これが神社の基となった。 ほんとかな?、いずれにせよ、古い神社ということだ。 現社殿は昭和53年(1978)の改築で、鋼板茸鉄筋コンクリート造。 現境内は1850坪あり、かなりの広さがある。 チョイと欲を言えば、緑を増やして、憩いの場にしてほしいね。

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⑤西荻南の住宅
・・・・・・・・・・・・・・・・JR西荻窪駅の南東側:杉並区西荻南に建つ住宅、、、、、

・・・・・・・・・・・・・・IK邸・・・・・・・・・・・庭木の後ろに洋館風の住宅が建つているのだが、よく見えず残念。 赤と緑のステンドグラスの窓がチラリと見え、建物の全容が気になる住宅だ!

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・・・・・・・・・・・・・SG邸・・・・・・・・・・・押縁下見の木造住宅で、玄関先に可愛らしい洋室風の部屋がついている。
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・・・・・・・・・・・・ギャラリーMADO・・・・・・・・・西荻窪駅の近く、昭和13年(1938)に建てられた、チョッピリ洋風の混じった住宅。 数年前は小さなギャラリーとして使用されていたが、今日は施錠されていた。

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⑥西荻デパート
・・・・・・・・西荻窪駅近く、昭和12年(1937)に建てられた、“デパート”という名の商店。 建物はL型になって、両端が道路に面し入口となっている。 看板を見ると6店舗あるはずだが、肉屋、魚屋はなかったね! 奥には、絵と写真が飾られ、洋品店の店主曰く『ギャラリー』とのこと。

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⑦西荻窪駅
・・・・・・・・・・・・大正11年(1922)に、井荻村の村長が誘致運動を起こし、開業したと言われている。 昭和44年(1969)には、駅は高架となり、中央・総武線(各駅停車)と地下鉄東西線直通電車が荻窪から三鷹まで延長された。
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2015年3月 8日 (日)

乃木坂~渋谷

『連日の雨天、曇天、わるかばってん、の天気、、、、、晴天、好天、青天、蒼天、よかばってん、の天気を求め、お天道様にお祈りしよう。』と、朝、我が家の屋上に出てみたら、ビショビショ、こりゃだめだ!

昼から雨はあがりそうなので、夫婦で国立新美術館に「ルーヴル美術館展」を見に行った。帰りは渋谷まで歩き、1万歩、7㎞の散歩となった。


①国立新美術館
・・・・・・・・・・・・・・地下鉄千代田線乃木坂駅近くに、平成19年(2007)に開館した、コレクションを持たない国立の美術館。 建物は東京大学生産技術研究所跡地に建設され、設計は黒川紀章・日本設計共同体、地上階は鉄骨造4階建、約5万㎡の床面積を有している。 緑豊かな広場に建ち、明るく波打つガラス張りの外観は、訪れる人を癒す力がある。 

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・・・・・・・・・・・・・「ルーヴル美術館展」は同館所有の約80点程の風俗画(人々の日常を描いた絵。 風俗業を描いた絵ではないので、誤解なきように。)で、16世紀から19世紀のヨーロッパの情景が紹介されている。 レンブラント、フェルメール、ティツイアーノなどの作品が一堂にに会していた。 パチリは禁止。

・・・・・・・・・・・・・国立新美術館別館・・・・・・・・・・・美術館玄関前に小さな3階建ての建物がある。 この建物が別館。 昭和3年(1928)に竣工した旧歩兵第三連隊兵舎であり、戦後は東京大学生産技術研究所として使われていた。 研究所が駒場に移転し、取壊し予定であったが、保存を望む声に配慮し、ほんの一部分だけが「別館」として残された。

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②谷内六郎の壁画
・・・・・・・「週刊新潮は明日発売で~~す」の表紙を描かれていた谷内六郎さんのモザイク壁画がある表参道交差点角の山陽堂書店。  現在の壁画は昭和50年(1975)に完成した「傘の穴は一番星」である。 初代の壁画は、新潮社社長の発案で、昭和38年(1963)に完成した黄色い背景の空に赤い風船が描かれていた。 私が学生の頃からある建物で、もう50年が経過した。 壁画は色あせもせず大切にされているが、私は身体にガタがきて、物忘れもそろそろだし、夜尿症もそろそろ始まるかも、、、、、歳とったね!

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③渋谷駅大改造がスタート
・・・・・・・・・・東京メトロ、JR、京王、東急の4社の路線・ホームが立体的に複雑に絡み合う駅の改造工事が始まっている。 完成は当分先のことだが、楽しみだ。

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2015年3月 5日 (木)

高砂・金町

浅草橋から京成高砂行に乗り、今日は『どこで下車しようか?』考えながら高砂に到着。 つまりは、終着駅に着くまでに下車駅が決まらなかっただけ。 高砂駅を出て、『よし、途中の帝釈天は避けながら金町まで歩いてみよう!』と決めた。 金町の方角、ルートは、地図がなくても、北斗七星が見えなくても、私の身体が応えてくれる。 足取りは軽く、脇目も振らず、さっさか歩いたら、1時間ほどで金町駅に到着。 『おやおや、チョイと早く着きすぎた。 ヨシ、今度は金町から高砂まで歩いてみよう!』てな、調子で、結局、高砂~金町間を往復してきた。 1万1千歩、8km。



①さっさか・すたすた歩いて
・・・・・・・・・・・金町に向かう、、、、、

・・・・・・・・・・・・・・・高砂駅 から、北に向かって歩く、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・葛飾区立住吉小学校前を通過、、、、、、ただ前を通っただけ、何の関係も、話題も、ございません。 あしからず。

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・・・・・・・・・・・・・・真宗大谷派寺院の聞明寺(もんみょうじ)は、神力山と号します。天正15年(1587)歓喜坊栄源により、下総国岡田郡横曽根村(茨城県水海道市)に創建。 その後、慶長7年(1602)に江戸桜田本郷の報恩寺に移転、寛永7年(1630)には浅草の東本願寺に移転。 関東大震災では被災し、昭和2年(1927)に現在地:高砂7丁目へ移転した。・・・・・・・・ここいらで、、、、、「高砂の松 腰をくねらせ 我を誘うが 色気なし」 

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・・・・・・・・・・・・・聞明寺のお隣には、曹洞宗寺院の理昌院(りしょういん)がある。 慶安元年(1648)、品川天龍寺3代目の斧山和尚の創建。 もとは浅草吉野町にあったが、関東大震火災に遭い、昭和2年(1927)に現在地に移転した。・・・・・・・・・ここでまた、「チョイと兄さん よっておいでよ 梅の色香で 我誘う」、、、、、手を合わせ、色香に迷い、ハイ、パチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・足は北に向かいスタスタと、柴又2丁目の小さな古録天神社でチョイと止まった。 創建年代は不詳。

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・・・・・・・・・・・・・・柴又2丁目・3丁目のあたりは、下町の住宅街という感じ。

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・・・・・・・・・・・・・京成金町線の線路に出てきた、、、、、金町駅まで200m。 水戸街道を横切る金町線。

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・・・・・・・・・・・・・・駅裏では、旧水戸街道が『買う街 飲む街 食べる街』のキャッチフレーズで客集め。 水戸黄門も助さん格さんと、このへんの居酒屋で飲んだのか?

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・・・・・・・・・・・・・・京成金町駅に到着。 道路に面して改札があり、改札から階段を5段上るとホームである。 この駅、バリアフリーの対策として、エレベータ、エスカレータの設置は必要それとも不必要?、、、、、私の答えは、どうでもいいや!

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②スタコラ・サッサと帰ろう
・・・・・・・・・・高砂に向かう

・・・・・・・・・・・・・A邸・・・・・・・・・・京成金町線の車窓からも見える、大きな三角屋根の元医院。 大正12年(1923)の建物。

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・・・・・・・・・・・・おりつ地蔵尊・・・・・・・・柴又駅の券売機前にあるコーヒースタンド裏に、しっそりと祀られている「おりつ地蔵尊」。 昭和7年(1932)、ここ柴又で、肉親のために尊き生命を絶たれる悲惨事があった。 或る貧困の家庭に五人の子供があり、その三女律子を他家へ養女として出したものの、五才の時故あって実家に戻されたが何故か両親は何の罪科もない律子を虐待し果ては実父がなぐり殺して、その死体を床下に埋めたが約一ヶ年余の後に父親の胸に、頑是ない少女の浄き魂がよみがへり、良心の呵責に堪えかねて、亀有警察署に自首した。 幼き律子の死を憐み、隣り近所の人々によって地蔵尊が建立された。 

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・・・・・・・・・・・・帰路は京成金町線に沿って歩く

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・・・・・・・・・・・・・・戻ってきました高砂駅に!

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2015年3月 4日 (水)

市ヶ谷~牛込柳町

JR市ヶ谷駅から都営地下鉄大江戸線牛込柳町駅まで、両駅間は直線で2kmである。 この間を、1万2千歩、9kmで散歩した。


市谷亀岡八幡宮
・・・・・・・・・・市谷八幡町の高台に、防衛省と地続きで神社はある。 文明11年(1479)に、太田道灌が江戸城西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まり。 “鶴岡”に対し“亀岡”と命名した。 実在のニッカウヰスキー創業者:竹鶴正孝が、朝ドラの「マッサン」では亀山政春として登場しているように、元は鶴で、マネするのは亀かな!

・・・・・・・・・・・・・急な階段を上り、文化元年(1804)建立の銅鳥居をくぐると社殿。

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・・・・・・・・・・・・・・社殿の右横から“裏参道”と称する細い路地に入る。

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・・・・・・・・・・・・・・参道の北側(上の写真では左側)は防衛省である。 この地には、戦前は陸軍士官学校、近衛師団駐屯地があり、戦中は陸軍参謀本部があった。 参道の際に、境界石を発見! 一つには「陸軍用地」、もう一つには「陸軍省所轄」の文字が彫られている。 これも、都心に残る戦争遺跡の一つかな? 私はこの裏参道を、度々利用していたが、以前には細い道の中央に大木が4本並び、つい邪魔な大木に気を取られ気付かなかった。 大木は1本を残し(写真奥に写っている)、切り取られたようだ。

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②一瀬邸
・・・・・・・・・・・・・昭和5年(1930)に建てられた昭和初期の住宅。 木造2階建て、瓦葺、建築面積158㎡の建物で、国の登録有形文化財である。 下見板張りの外壁も綺麗な状態で使われており、古さは感じられない。 

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③大日本印刷 市谷工場
・・・・・・・・・・防衛省北側の市谷加賀町周辺には、大日本印刷の関連施設が密集している。 会社では平成21年(2009)から平成29年(2017)の完成を目標に、本社機能の集約、環境に優しい印刷工場の整備など、再開発に取り組んでいる。 中央部には約125m(地上25階建て)の高層事務所なども工事中である。・・・・・・・・・・工事現場の片隅に時計台のある、昭和の工場が見えた。 とりあえず、写真を撮り調べてみたら、、、、、やっぱり! 古い工場で、大正12年(1923)の建築、設計は宮内初太郎(聖母病院を施工)、土井某の2名、施工は宮内建築事務所。  この工場、取り壊さずに残してほしいね!

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・・・・・・・・・・・・・ついでに、工場前の道の両側では、大日本印刷の再開発が進んでいる。 そして、前の道は中央部がへこんだ坂で、中根坂と呼ばれている。 『昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。』と、坂の案内板に表示されていた。

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④へんてこな形のへんな家
・・・・・・・・・・・防衛省と大日本印刷の北側の二十騎町に、かなり、へんてこな形の家がある。 誰の家かと、キョロキョロしたが表札がない。 気になるので調べてみたら、「アド街」にレギュラー出演している方の豪邸(5億円)らしい。 義父がいたら、『へんてこな家で、どうもすみません!』てな、話だろう。

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⑤N邸
・・・・・・・・・・市谷甲良町の大正8年(1919)の建物。 元は耳鼻咽喉科の医院、現在は閉院し住宅となっている。 チョイとメルヘンチックな建物で、子供が喜びそうだね!

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⑥レストラン「かがり火」
・・・・・・・・・・・牛込柳町の交差点近くに建つレストラン。 鉄筋コンクリート造、2階建て。 この建物は、大正14年(1925)第一信用金庫本店として建ち、戦後は柳町病院として、平成元年(1989)からはレストラン「浪漫亭」となり、現在は「かがり火」として使用されている。 私が来るたびに、店の名が変わったり、外装が変わったり、落ち着かない建物だ。 

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2015年3月 2日 (月)

赤羽~浮間舟渡

JR赤羽駅から、埼京線沿いに、2駅先の浮間舟渡駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。


①赤羽駅
・・・・・・・・・・・明治16年(1883)、日本鉄道により上野~熊谷間が開通。 この時点では赤羽駅はできておらず、素通りである。 2年後の明治18年(1885)3月1日に現在の埼京線のルート(以前は赤羽線とも呼ばれていた)で品川駅に至る分岐線を開通するのに合わせ、分岐駅として赤羽駅が誕生した。 昨日が開業130周年にあたる。 東京駅の100周年より長い! ちなみに、大宮、桶川、吹上の各駅も3月1日で開業130周年である。

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②赤羽八幡神社
・・・・・・・・・・・赤羽駅から高架橋沿いに北へ600m程向かうと赤羽八幡神社がある。 神社の創建は不詳であるが、延暦期中(782-806)に坂上田村麻呂が東征の際に当地に陣を敷き祭神を勧請したのにはじまるといわれている。 神社は東北本線と新幹線・埼京線が二又に分かれる、間の位置にある。

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・・・・・・・・・・・・・神社は武蔵野台地の東北端に位置し、標高20m程の小高い山にあり、境内の下を新幹線・埼京線の「赤羽台トンネル」がある。 トンネルは総延長585mの複々線トンネルで、昭和59年(1984)に完成し、翌年の東北新幹線上野乗り入れとなった。 ところで、トンネルのルート上に、八幡神社と隣には星美学園、国立王子病院(現:東京北医療センター)、住宅などがあり、騒音・振動など対策として厳しい条件が求められたそうだ。・・・・・・・・・・注:「赤羽台トンネル」は、同名の道路トンネルもある。

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③師団坂
・・・・・・・・・・赤羽台トンネルに並行して坂道がある。 この坂を「師団坂」と称している。 坂の上に、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した2つの工兵大隊があった。 明治20年(1887)、これらの工兵大隊が現在の千代田区丸の内1丁目から北区赤羽台4丁目に移ってきたので、この坂はつくられた。 2つの工兵大隊の跡地には、現在、星美学園と東京北医療センターがある。

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・・・・・・・・・・・・・・坂の上の星美学園。 私の“苦手な”女子高・女子大などがある。

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・・・・・・・・・・・・・・近衛師団跡地に建つ東京北医療センター
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・・・・・・・・・・・・・・病院前の調剤薬局では、ピンクのラビットが手をあげて、客を呼んでいる。 これで、ツカツカと入っていくのは子供だね、可愛いバニーガールなら、私がフラフラと入っていくかも!

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④諏訪神社
・・・・・・・・・・北区赤羽北に鎮座する神社。 応永3年(1396、=室町時代)の創建らしい。

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⑤北赤羽駅
・・・・・・・・・昭和60年(1985)、国鉄時代に開業した埼京線の駅。 島式ホーム1面2線の高架駅で、ホームは新河岸川上にあり、改札口は川を挟んで赤羽寄りに「赤羽口」、大宮寄りに「浮間口」の2カ所がある。 駅が川の真上に在る、珍しい“河川橋上駅”の一つで、当駅のほかには、都営新宿線の東大島駅 、兵庫県の阪神電鉄武庫川駅、高知県の土佐北側駅ぐらいしかない。 この手の駅では、改札を間違えて出ると、『さあ~、大変、川を渡らないと』、、、、近くに橋があればいいがね!、、、、北赤羽駅はすぐ横に浮間橋がある。『ラッキー!』

・・・・・・・・・・・・・・・・赤羽口・・・・・・・高架上は新幹線と埼京線の上下4線が走る。

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・・・・・・・・・・・・・・浮間口・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・新河岸川に架かる浮間橋(手前のトラス橋)とその後ろの長~い北赤羽駅

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・・・・・・・・・・・・・・浮間橋・・・・・・・・・駅に寄り添って架かっている。 現橋は昭和59年(1984)に竣工した。

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⑥荒川
・・・・・・・・・・・浮間1丁目の土手にあがり、対岸の川口市を拝見!

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・・・・・・・・・・・・・振り返ると富士山、スカイツリーが見えた! 写真の大きさで、富士山の方が近くに見える、、、、こりゃ、また、失礼!

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⑦氷川神社
・・・・・・・・・・浮間2丁目の氷川神社。 創建年代は不詳。 明治40年(1907)、村内にあった第六天社、御嶽社、稲荷社、八王子社、猿田彦社を合併合祀した。 大同合併か?

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⑧浮間公園
・・・・・・・・・・・浮間舟渡駅から荒川に方向に細長の公園は、駅・公園・荒川を貫く中央線が区境となっている。 東側が北区、西側が板橋区である。  元は荒川が流れていたが、大正から昭和にかけての河川改修で一部が池になったそうだ。 昭和42年(1967)に浮間公園が開設された。 大きな池だ、数人の釣り人もいた、何が釣れるやら?

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⑨浮間舟渡駅
・・・・・・・・・・北区浮間と板橋区舟渡にまたがる駅。 昭和60年(1985)に埼京線の駅として開業。 島式ホーム1面2線の高架駅。 ホームからは隣に並走する新幹線が良く見える。・・・・・・・・・会社勤めの頃、東北方面へ出張した帰り、夜、大宮を過ぎるとマンション・団地の明りが灯る夜景の中に、浮間舟渡駅の駅名が見え、『あ、もうすぐ上野だ、帰ってきたぞ!』と思う、私には旅の終わりを告げた駅である。

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