水道橋~飯田橋
朝の天気予報では、連日の雨の続きで今日も天気が悪そうだと言ってた。 散歩をあきらめていたが、午後になっても降らない、『天気予報に騙された!』と思い、15時に、水道橋駅から九段下経由で飯田橋駅まで、7千歩、5㎞のプチ散歩をしてきた。
①三崎町の六叉路・・・・・・・・・・水道橋駅の南側に、都内でも珍しい六叉路がある。 この六叉路がある一画は、三菱財閥が明治23年(1890)に練兵場跡の払い下げを受け、開発した。 六叉路は開発の目玉として造られた街路らしい。 その後、この地は繁華街として栄えたそうだ。・・・・・・・・練兵場があった明治初期には、まだ水道橋駅も鉄道も無く、神田川の北側(現:後楽園遊園地)は砲兵工廠であった。 さすが“三菱”、先見の明がある、この土地を手に入れ、しこたま儲けたことであろう。
②研数学館・・・・・・・・・・・白山通り三崎町交差点近くにある研数学館は、明治30年(1897)に数学の私塾として開校し、戦後まで理数系の専門学校であった。 この間、震災で建物は壊滅し、昭和4年(1929)にスクラッチタイル貼りの現:本館(写真:右側の茶色の建物)と、塔のある別館(写真:左側の白っぽい建物)が建てられた。 戦後は、昭和30年から平成12年(2000)まで大学予備校として経営した。 昭和39年頃は、私も通った予備校であった。 現在は、本館・別館とも貸しビルとなり、研数学館は理数教育の支援を行う法人となっている。・・・・・・・・私が通った頃は、本館の隣りにも校舎があり、終日、学生で賑やかな校舎であった。、、、、、当時は、研数学館前の白山通りに都電が走り、通りの向かいには、日大の旧校舎と塔のある三崎町教会(現:建て替えてビルの中の教会)があった、懐かしいい風景を思い出すね。
③東方学会・・・・・・・・・・・西神田2丁目にある、装飾の少ない白い箱型の4階建てのビル。 玄関はアーチ形の小さな入り口で、私が知るかなり以前から脇にはソテツが一本、守衛さんのように植えられている。 大正15年(1926)完成の鉄筋コンクリート造、3階建て(4階部分は後の増築)。 当初は「上野塾」と称する学校(現:世田谷区に移転した東京高等学校)の校舎として建てられたようだ。・・・・・・・・昭和22年(1947)、外務省所管で、日本の東方文化の学術的研究の発展、東方諸国の文化の進展および国際文化の交流を目的として「東方学会」が設立された。 現在は、その拠点となっている。
④昭和館・・・・・・・・・・・・九段下交差点に建つ、戦中、戦後の国民生活を中心とした資料を展示している厚労省所管の博物館。 平成11年(1999)に開館。 地上7階/地下2階建、鉄骨造で、菊竹清訓の設計、竹中工務店+間組+鉄建建設共同企業体の施工。
・・・・・・・・・・・・・只今、企画展「よみがえる日本の姿」が開かれていた。 “入場無料”に、つい、つられ入館してきた。 英連邦軍として参戦し、戦後日本に駐留したオーストラリア軍が撮影した昭和20年・21年の写真が100枚程出展されてる。、、、、東京と駐留した呉の街を中心に、街の人々と駐留軍の交流の姿が撮影されている。 また、記録映画として、ミズリー号上での降伏文書の調印、終戦直後の広島・東京などが上映されていた。、、、、、、壊滅した広島・東京の姿は、何度も映像で見て知っているが、改めて驚きを感じた。 また、戦後70年、焼け野原から立ち上がった、今日の日本にもビックリ!
⑤九段会館・・・・・・・・・・・・・昭和館の隣りは九段会館、二・二六事件では戒厳司令部が置かれた旧軍人会館。 川元良一の設計、清水組(現:清水建設)の施工、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階/地上4階建て、工事費約2,500,000円にて、昭和7年(1932)2月に着工し昭和9年(1934)3月に竣工した。・・・・・・・・・平成23年(2011)、東日本大震災で天井が崩落し、これまで日本遺族会が会館・ホテル・レストランを運営してきたが、以後営業を停止し、建物は国に返還された。 国はこの建物をどうするのか、、、、、帝冠様式の代表的建物をぜひ保存してもらいたいね。