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2015年5月

2015年5月28日 (木)

花畑運河

昨日の早朝、私の足に激痛が走った。 『イデデ イデデ(いてて 痛てて) イデデーオ!』、浜村美智子「バナナ・ボート」を唄う余裕はない!、、、、、、布団を掛けずに寝ていたので、足がつったのだ!(こむら返りである) 気持ちは七転八倒、足は痛くて動かせず、叫ぶ声は泣き声と笑い声の合成音、、、、、痛みは一日中続き、散歩は休みにした。 寝っ転がって、地図を開き、23区の北のはずれに「運河」を発見。 普段、歩いているのに、なんで、今まで気づかなかったのか、「花畑運河」である。 綺麗でメルヘンチックな名は、物語を想像してしまう。・・・・・・・・・・・・・早速、今朝の散歩で歩いてきた。 つくばエクスプレス八潮駅 (埼玉県八潮市)から、六町駅 (足立区)まで、1万4千歩、10㎞。



①八潮駅の南側
・・・・・・・・・駅の南側は、機械油の匂いが漂う工場、ぺんぺん草の生える空き地が多く、コンビニ・商店がない町だ!

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②垳川排水機場
・・・・・・・・・・埼玉県八潮市と東京都足立区の境の一部をなす垳(がけ)川が、中川に接する位置に昭和54年(1979)に造られた埼玉県垳川排水機場。 垳川はかつての綾瀬川本流であったが、江戸時代に綾瀬川・中川から切り離され、河川としての機能を失い、単なる川状の溜池となった。 しかし、増水時には水害防止のため排水する必要があり、県では垳川排水機場を設け、5台のポンプで1秒間に40立方メートルの水を中川に排水する能力を有している。・・・・・・・・・“垳”の文字は和製漢字で、現在は八潮市のこの地だけに使用されているそうだ。 この地の地名で使用されなくなると、この世から消える運命となる漢字である。 しっかりと地名を守ろう!

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③中川
・・・・・・・・・・・・・足立区、葛飾区、江戸川区と流れ、旧江戸川と合流し東京湾に注ぐ一級河川。

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・・・・・・・・・・・・・・・・この辺りの対岸は、八潮市と葛飾区である。 その境となる大場川水門が見える。

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④花畑運河
・・・・・・・・・・・・・美しく、メルヘンチックな名の運河。 「花畑川」とも呼ばれる。 この運河は、昭和6年(1931)に、足立区東部において「中川」と「綾瀬川」を結び開削された。・・・・・・・・・明治43年(1910)の荒川大洪水で東京が壊滅的打撃を被り、翌明治44年(1911)から荒川放水路(現:荒川)の建設事業が開始された。 この荒川放水路の工事により、中川は分断され、木下川水門小名木川閘門が設けられた。 当時、中川は東京市民の糞尿を肥料として北の穀倉地帯へ送り出す水運の経路となっており、水門が設けられ“糞づまり状態(渋滞)”となったのである。 そこで、大正14年(1925)から「花畑運河」の計画が立てられ、着工となり、完成した。、、、、、“糞づまり”が、運河に変わった、運がいい話!・・・・・・・・・・ところで、現在の運河は糞尿の水運も無くなり、舟も通らぬ、単なる川となった。、、、、、その名に恥じぬ、美しい、親しみある川に変わってほしいね!・・・・・・・・・・全長1.4㎞、両端に水門があり、運河には5か所に橋が架かっている。

・・・・・・・・・・・・・中川側から、まずは水門の外側に架かる、白い塗装の花見人道橋(平成23年(2011)完成)と、錆びたガードレールの花見橋(昭和6年(1931)完成)。

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・・・・・・・・・・・・・花見橋の隣りに、六ッ木水門がある。 幅員7.5mのローラーゲート式で、こちらは常時開放されている。 平成11年(1999)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・六ッ木水門から真っ直ぐ伸びる運河、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・次に架かるのは桜木橋(昭和24年(1949)完成、平成17年(2005)改修)。
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・・・・・・・・・・・・・釣りする人もいる運河。 何が釣れるか? 食べるのか?

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・・・・・・・・・・・・・運河の中間地点には、富士見歩道橋(昭和58年(1983)完成)が架かる。

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・・・・・・・・・・・・・歩道橋から見る中川方向。 

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・・・・・・・・・・・・・歩道橋から見る綾瀬川方向。 

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・・・・・・・・・・・・・次なる橋は、雪見橋(昭和13年(1938)完成)、平成23年(2011)改修)。
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・・・・・・・・・・・・・最後は月見橋(昭和6年(1931)完成)が、花畑水門の手前に架かる。

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・・・・・・・・・・・・・花畑水門は綾瀬川との合流点に設置された水門。 幅員7.5mのローラーゲート式で、昭和42年(1967)完成。 頭上には、首都高6号三郷線が走る。

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・・・・・・・・・・・・・運河が接続する綾瀬川。 チョイと汚いね!

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2015年5月25日 (月)

北新宿3・4丁目

JR中央線の大久保駅と東中野駅間の、線路の両側に新宿区北新宿の町がある。 今日の散歩は東中野で下車し、北新宿3丁目・4丁目の裏道を歩き回り、大久保駅 まで。 1万1千歩、8km。



神田川
・・・・・・・・・・・・・東中野駅東口を出て、200m程歩くと中野区と新宿区の区境を流れる神田川がある。 桜も散り、葉の色も緑深くなり、神田川に映えるようだ。

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②柏木不動尊
・・・・・・・・・・・中央線の盛土の下(北新宿4丁目)に小さな祠がある。 神田川を改修した際に、川底から引き上げられた。 ご近所の住民が大切に祀っているそうだ。・・・・・・・・不動尊の左隣りには、普段は入れぬように鉄扉で閉じられた、JRの東中野変電所(変電所の建物は線路の反対側)に通じる専用ガードがある。 

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③淀橋市場
・・・・・・・・・・・・・淀橋市場は昭和14年(1939)に北新宿4丁目に開設された青果市場である。 都内には11か所の市場があり、青果を扱うのは7か所で、取扱規模は大田市場、築地市場に次ぐ第3位である。

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④柏湯
・・・・・・・・・・・淀橋市場近くの銭湯。 私は利用したことはないが、銭湯マニアには知られた湯であるらしい、、、、、チョイとボロいね!

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⑤fit北新宿
・・・・・・・・・・北新宿3丁目の路地の奥に建つアパート。 昭和45年(1970)築の木造、12室。 50年程前の建物だが、なぜか、戦前のアパートのような雰囲気が漂っている。 アパートの裏には中央線が走る。、、、、、、、、引っ越しで荷物を運ぶのが大変そうなアパート。 世帯道具の少ない方におすすめの物件!

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⑥鎧神社
・・・・・・・・・・・・・・・・・・北新宿3丁目の鎧(よろい)神社は、平安時代に創建した。 社号の鎧は、武の神様として名高い日本武命が東国の平定に向かったとき、当地に甲冑六具を蔵めたという話があるそうだ。 北新宿の旧地名:柏木村の鎮守として崇敬を集め、氏子地は北新宿全域と西新宿の一部にまで広がっている。、、、、、、境内には、立派な「よろい保育園」が昭和31年(1956)から併設されており、現在は園児60名程。 経営多角化の先がけかな、商売繁盛の御利益を期待し、神様もご安心を! 

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⑦円照寺
・・・・・・・・・・・・鎧神社の近くに、真言宗豊山派寺院の円照寺がある。 創建年代は不詳。 天慶3年(940)、藤原秀郷が平将門征伐の際に寺となったと伝えられている。 鎧神社の別当寺であった。、、、、、、新宿とは思えない環境・景色で迎えられる!

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⑧北新宿3丁目の裏道
・・・・・・・・・・・

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2015年5月24日 (日)

散歩は休み!

散歩は休みで~~~す。

母と妻と娘の女三世代を引き連れ、山形新幹線で家族旅行です。

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2015年5月22日 (金)

秋山~本八幡

北総鉄道北総線の秋山駅からJR総武線の本八幡駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。



①秋山駅
・・・・・・・・・・平成3年(1991)、北総線京成高砂~新鎌ヶ谷駅間の開業時に秋山駅は開業した。 相対式ホーム2面2線を有し、ホーム両端からは空が見える掘割式の半地下駅である。 地下鉄のような駅入口はホーム直上の丘の上に立地する。 駅前にはロータリーとマンションがあるが、コンビニ、銀行、ファミレスなどの店舗が一軒もない!、、、、、、開業後20年以上経過したが、この寂しさは何と言うことか?、、、、ひょっとすると、『都会の秘境駅』かも?

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②ゴミ置き場?
・・・・・・・・・・・マンションのゴミ置き場に、私には読めない掲示があった。、、、、、英語ではない、ハングルでもない、何語だ!、、、、、、ここは、“松戸市秋山”なので、私には市のゴミだしルールは知らないが、おそらく“分別して出してください”とでも書いてあるようだね。、、、、、日本語の表示がないので、外人に向けた住民の怒りかな?
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③農家の匂い・
・・・・・・・・・・松戸市秋山・高田新田と市川市稲越町・曽谷の市境の付近には、農家が健在である。

・・・・・・・・・・・・・畑では何を栽培しているのやら、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・この付近は梨の産地だ!、、、、、、棚は手入れされ、小さな実もつき、収穫を待つ農家、、、、、、秋になれば、我が家でも御馳走になれるかも?

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・・・・・・・・・・・・・・左右のカーブミラーに守られた馬頭観音の石碑、、、、、、道路が整備され、石碑も集団移転し集合住宅に入居した感じだ!、、、、、、なかに「日露軍馬観世音」と彫られた碑もある、これも馬頭観音かな?

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④曽谷貝塚
・・・・・・・・・・・・市川市曽谷2丁目には、牧草地と間違えるような場所があった。 草の生えた広い場所には、「曽谷貝塚」の名が読める。 ここには、縄文人の生活した跡が地中に埋まっており、国の史跡(約50000㎡)として保護されているそうだ。 市では公有地として、周辺の住宅を買い上げている。、、、、、いずれ、“曽谷貝塚記念公園”とか称して、復元住居などが立ち並び、周囲には“曽谷貝塚饅頭”とか、“曽谷貝塚煎餅”などを売る店ができるかも?、、、、、

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⑤昭和学院
・・・・・・・・・・・昭和15年(1940)に昭和女子商業学校を創立し、戦後には、教育の対象を広げ、現在は幼稚園から短期大学までを一貫 して併設する総合学園となった。 創立70周年を機に、幼小中高等学校の校舎を新築し、講演・演奏会等に利用する創立者を記念する、伊藤記念ホールも新築した。

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・・・・・・・・・・・・・・キャンパスの一画に、登録文化財となっている創立記念館が整備された。 学院創立者:伊藤友作の自宅(千葉市内)を、現在地に移築した。 南北棟の入母屋造で建てられ、背の高い2階屋が特徴的である。 今日が外観だけをチラリと拝見。

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京成八幡駅
・・・・・・・・・大正4年(1915)に開業した京成八幡駅。 京成電鉄本社が駅前にある。・・・・・・・・・JR本八幡駅も近い!

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2015年5月21日 (木)

豪徳寺

小田急線の豪徳寺駅で下車、ここまで来たら、久しぶりに駅名の「豪徳寺」に行ってみよう。 寺に寄ってから梅ヶ丘駅まで歩き、1万歩、7kmの散歩となった。



①豪徳寺駅
・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)、小田急線の全線同時開業時に豪徳寺駅も開業した。 今年で米寿を迎える駅だ!、、、、、、私が小田急線を利用し川崎市生田の明大工学部に通っていた昭和40年代、小田急線は複線で、路線の大半は地上を走っていた。 しかし豪徳寺駅付近では、東急世田谷線(当時は玉川線)と交差するため盛土と高架で越えていた。 当時の豪徳寺駅ホームからは、東急世田谷線が見えた、駅舎は高架下北側にあり、道路からは数段の階段を上った高台に改札口があった。、、、、、、その後、平成6年(1994)から世田谷代田~喜多見間の複々線化工事が始まり、平成14年(2002)に梅ヶ丘~豪徳寺間の高架化完成により工事は完了した。(なお現在は来年度の完成をめざし、代々木上原~梅ヶ丘間の複々線化工事実施中。)

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東急世田谷線
・・・・・・・・・・小田急線豪徳寺駅の西隣に、世田谷線山下駅がある。 両駅は接続駅であるが、名称は異なっている。 豪徳寺の寺までは線路沿いを歩いていく。 カラフルな路面電車が通り過ぎていく、、、、、見てワクワク、乗ってワイワイ、話してニコニコ、楽しい世田谷線。

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③豪徳寺
・・・・・・・・・・・豪徳寺(ごうとくじ)は曹洞宗の寺院で、文明12年(1480年、=室町時代)に世田谷城主吉良政忠が、伯母の菩提のために臨済宗弘徳院として創建したと伝えられている。 寛永10年(1633、=江戸時代初期)世田谷領が彦根藩領となり、豪徳寺が井伊家の菩提寺となった。 でかくて、静かな、いい寺だが、『チョイと団子で、休憩!』できるような“門前の茶屋”がないので寂しいね!

・・・・・・・・・・・・・参道・・・・・・・・・・大きな松が重なりトンネルをつくり迎える、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・山門・・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・仏殿・・・・・・・・・・・延宝5年(1677)に完成した黄檗様式(中華風の木組み、屋根の先の形式、丸窓、中華式の瓦などを用いた建築様式)の建物。  内部には、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の三世を象徴する仏像が祀られている。 

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・・・・・・・・・・・・・・本堂・・・・・・・・・江戸時代に建てられた本堂は関東大震災によって焼失し、現本堂は昭和42年(1967)に鉄筋コンクリート造で建てられた。  本尊は釈迦如来である。

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・・・・・・・・・・・・・・鐘楼・・・・・・・・・・・鐘は延宝7年(1679、=江戸時代初期)の鋳造。

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・・・・・・・・・・・・・・三重塔・・・・・・・・・・・・平成18年(2006)に完成した、木造の三重塔。、、、、、今時のご時世、木造で建てるとは、余裕だね! いいね!

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・・・・・・・・・・・・・・招福猫児(まねぎねこ)・・・・・・・・・・・・豪徳寺は招き猫発祥の地と言われている。、、、、井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという。、、、、、、招福殿の周りは、招き猫で満員状態!

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・・・・・・・・・・・・・・彦根藩主井伊家墓所・・・・・・・・・井伊家は、遠江国の武将で、戦国時代には今川の配下にあった。 初代井伊直政は十五歳で家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。 合戦後、直政は近江十八万石を与えられ初代藩主となった。 以後、井伊家は幕末まで家格は堅持され、寛永10年(1633)頃には、世田谷が井伊家の所領となった。 これを機に、領内の弘徳院(後に豪徳寺となる)が普提寺となった。 豪徳寺には、江戸で亡くなった藩主や家族が葬られた。 豪徳寺の墓地の一画に囲われたエリアがあり、ここには、藩主・家族だけではなく、藩士とその家族なども葬られ、井伊家関係者の墓石300基以上が建てられている。 凄い、壮観である!

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・・・・・・・・・・・・・・「花の生涯」の大老:井伊直弼の墓もある。、、、、、尾上松緑、淡島千景の大河ドラマを思い出すね!

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④国士舘大学
・・・・・・・・・・『国士舘大学』と言われると、スグに、『柔道』を連想してしまう。 学校の所在地、学部などは、とんと思い出せず、、、、私には、どこにあるか知らなかった。 豪徳寺の東:世田谷区梅丘4丁目にありました。、、、、なんだ、こんなところにあったのか!

・・・・・・・・・・・・・・梅ヶ丘校舎・・・・・・・・・・・本館はこの建物の南側にあるらしい。

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・・・・・・・・・・・・・・梅ヶ丘駅から大学へ向かう学生。

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⑤梅ヶ丘駅
・・・・・・・・・・・・昭和9年(1934)に、東京山手急行電鉄(未成線)と接続する計画で設けられた駅。 現在は、高架駅で国士舘大学・高校の最寄駅として、学生が目立つ駅である。

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2015年5月19日 (火)

八広

夕飯前の散歩で、京成押上線の八広駅から押上駅まで、1万1千歩、8kmの歩きです。



八広駅
・・・・・・・・・・・・大正12年(1923)に開業、平成6年(1994)には駅名を「荒川」から「八広」に改称した。 平成4年(1992)~平成11年(1999)にかけ、高架化工事が行われ、高架駅となったが、いまだに商店街・コンビニもない寂しいい駅だ。

・・・・・・・・・・・・・ホーム端から荒川の方向を望むと、押上線荒川橋梁 がすぐ近くに、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・只今、15時半、、、、、ホームに数人、改札は0、駅出入口の階段を下りて来たのは4人だけ、、、、、

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②日枝神社
・・・・・・・・・・・・墨田区八広6丁目、荒川土手際に日枝神社がある。 慶長19年(1614)に鎮座し、この辺りを開墾した元木之下村の氏神様である。 境内には、摂社として木下稲荷神社が祀られている。 社殿は鉄筋コンクリート造。

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③ノコギリ屋根の工場
・・・・・・・・・・・八広6丁目のエボナイト製造所の工場です。 トタン貼りの工場、ノコギリ屋根、工場の妻に割り菱の家紋、、、、、懐かしさが漂う工場の建物だ!

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④八広庚申塔
・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・八広駅近くの交差点、何か発見できそうな裏道があった。 早速、歩いてみた、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・お~、何かあるぞ! 「八広庚申塔」と記されていた。、、、、、右に観音菩薩、中央に庚申塔、左に地蔵菩薩が祀られている。 全て、江戸時代のものである。

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・・・・・・・・・・・・・・私のビックリは、この後、、、、、なんじゃ、誰じゃ、観音菩薩に麦わら帽子をかぶせたやつは!、、、、次のビックリは、、、どこの誰じゃ、割烹着を再利用したのは、、、、頭のいいやつがいたもんだ、、、、地蔵菩薩と庚申塔は割烹着の両端部分、観音菩薩は前垂れ部分に紐をつけたようだ。 感心したね!

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⑤八広の東郷元帥
・・・・・・・・・・東郷元帥が明治38年(1905)に日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した翌年に、その強さにあやかり命名された“東郷ハガネ”が生まれた。 看板は“東郷ハガネ”を取り扱う代理店に、発売元の日本橋「河合商店」(現:カワイスチール&カワイスチールホールディング)から与えられたそうだ。、、、、、知る人ぞ知る、懐かしの看板である。

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京成押上線(押上~八広間)連続立体交差事業
・・・・・・・・・・上り線は平成25年(2013)に高架化された。 下り線は、まだ高架化されていないが、高架橋の土木工事はほぼ終わっており、只今は軌道工事・架線工事・駅舎建築工事などが実施されている。 まもなく、下り線も高架に切り替えられる予定である。、、、、地上を走る押上線が遠からず消え、踏切も無くなり、下町の景色も変わってしまうのは残念無念、珍念だ!

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⑦消えた向島駅の南龍館
・・・・・・・・・・・・・京成押上線の曳舟と八広の間(上の写真の踏切近く)に、かつて「向島」駅があった。 この駅から京成白鬚線が分岐し、玉乃井の方に向かっていた。 白鬚線は大正3年(1914)に開業し、昭和22年(1947)に廃止された。・・・・・・・・・当時は向島駅周辺には映画館「南龍館」、商店街「南竜館商栄会」、ミツワ石鹸の工場などがあり大いに賑わっていたそうだ。 駅周辺は、東京大空襲で焼け野原となり、駅が復活することはなかった。 映画館は昭和30年頃廃業し、商店街は駅も無くなりシャッター通りとなった。 今は、街路灯にその名が残り、商店街は細々と営業中。

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⑧三輪里稲荷神社
・・・・・・・・・・・・慶長19年(1614)出羽国湯殿山の僧が大畑村(墨田区八広、東墨田の一帯)の総鎮守として羽黒大神の分霊を勧請した。(現;八広3丁目)、、、、通称の「こんにゃく稲荷」と呼ばれ、初午の日に授与される「こんにゃくの護符」を煎じて服用すると、のどや風邪の病に効くと言われている。、、、、煎じて飲むのは勝手だが、医者に行くのを忘れずに!

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⑨八広から眺めるスカイツリー
・・・・・・・・・雨降り後の曇天、もう一雨降りそうだ。雲行きも怪しいね?

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●・・・・・・・・・・・・・・・八広を抜け、京島、押上と歩いて押上駅へ向かう。

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2015年5月18日 (月)

昭和島~大森町

モノレールに乗りたくなり、昭和島まで乗車してきた。 東京モノレール昭和島駅から、京浜急行大森町駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。



①昭和島駅
・・・・・・・・・・・・羽田空港へ行くとき乗ることが多い東京モノレール羽田空港線であるが、昭和島駅(しょうわじまえき)で下車する人は少ないと思う。 駅名のとおり空港の手前に、昭和に埋め立てられた人工島で、島の3分の1は水再生センターが占め、さらに3分の1を鉄工所などが使用する工業用地となっている。 この島にモノレールの車両基地も置かれている。

・・・・・・・・・・・・・・・・昭和39年(1964)にモノレール:浜松町~旧羽田空港間が開通したが、昭和島が駅として開業したのは昭和60年(1985)である。 島式ホーム2面4線を有する地上駅で、“普通”が“快速”に追い抜かれる駅である。 ホームは狭く乗降客も少ない。

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・・・・・・・・・・・・・・ホームから見る車両基地

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・・・・・・・・・・・・・・ホームの端から、基地の下を横断する専用道を抜けると駅舎がある。 売店なんぞは無し! あるのは自販機2台のみ。、、、、、、この島は、定住人口は0名の変な無人島である。

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・・・・・・・・・・・・・島の対岸、大田区大森東・大森南地区から通勤通学客が自転車でやってくる。 駅舎の横にはズラリ並ぶ自転車!、、、、、屋根のある駐輪場は無いようだ、ここは駐輪OK、しかも無料、盗まれたら自己責任、いいシステムだね。

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②大森東避難橋
・・・・・・・・・昭和47年(1972)、昭和島の埋め立て造成時に、勝島運河上に対岸の大森東5丁目との間に工事用道路として設置された。 現在は、緊急時の避難場所となっている昭和島の運動場・公園に向かう避難用の人道橋として利用されている。 昭和島駅へ向かう経路としても大事な橋である。

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・・・・・・・・・・・・・・橋から勝島運河を眺める

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③呑川水門/貴船水門
・・・・・・・・・・昭和島から大森東避難橋を渡ると左手の際に呑川(どんかわ)水門がある。 右手奥には貴船(きふね)水門が見られる。 この2水門の他に、整備場駅近くには、北前堀水門、南前堀水門がある。 4ヵ所の水門は、すべて門扉型の単葉ローラーゲート、幅6mの水門で昭和41年(1966)度に竣工した。・・・・・・・・・・4ヵ所の水門は『四つ子の兄弟』のように、同じ運命を歩んでいる。 水門の上流は旧用水路で、下水道が普及した現在は、用水路は埋め立てられ緑地化され、いずれも公園になっている。 水門と水門の上流100m程が船溜りとして残されているが、東京都では4水門を廃止し、防潮堤を整備する計画があるそうだ。、、、、ぜひ、江戸前の漁場を思い出させる景色を残してほしい!

・・・・・・・・・・・呑川水門・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・貴船水門・・・・・・・・
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・・・・・・・・・・・・・・緑地化され細長~い公園となった貴船掘緑地。 ご近所の奉仕か、公園にはいっぱいの花が咲き誇っている、、、、、、、

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④貴舩神社
・・・・・・・・・・・・大田区大森東3丁目の裏通りにある神社。 京都の貴舩神社(きふねじんじゃ)を総本社とする。 創建年代は不詳であるが、文永3年(1266、=鎌倉時代)以前からあったらしい。 旧社殿は関東大震災により倒壊し、現社殿は昭和30年(1955)に、正面の柱間が一間の流造りで建立された。・・・・・・・・・・・・今週末からお祭りで、境内では鳶職が準備中に追われていた。 神社の周りには海苔問屋が多く残っており、きっと、多くの奉納提灯が灯されると思うね!

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⑤厳正寺
・・・・・・・・・・・貴舩神社の北側に、浄土真宗本願寺派の厳正寺がある。 厳正寺は、北条重時(1198-1261)の六男である法円が文永9年(1272)に海岸寺として創建した、大きな古い寺だが、本堂は鉄筋コンクリート造である。 こちらも鉄筋コンクリート造の山門の2階には、安永元年(1722)に鋳造された鐘が吊るされている。

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⑥大森町駅
・・・・・・・・・・・・明治34年(1901)六郷橋~官設大森駅間が開通。 開通時の駅は道路上の停留所で、明治39年(1906)には線路は軌道となった。 現在の大森町(おおもりまち)駅の近くに、大森山谷駅があったが戦後廃止された。 現在の大森町駅は昭和27年(1952)に開業した。 平成24年(2012)に高架駅となり、その後、高架下も整備され、駅は一新した。・・・・・・・・・・我が町の駅“浅草橋”より綺麗で、垢抜けした駅だ!

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2015年5月16日 (土)

三社祭

午前中は雨、午後は曇り。 今日は浅草神社の三社祭。 行こうか、やめとくか、迷っていたが、、、、、、夕飯前に散歩に行こう、、、、、なんじゃ、かんじゃ、言っても、祭りは三社。 1万歩、7㎞。

・・・・・・・・・・三社(さんじゃ)さまとは、、、、、、推古天皇の時代、漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で網にかかった観音菩薩像を持って帰った。 兄弟は土師真中知に、観音菩薩像の一件を話し、相談した。 僧となった土師真中知は自宅を寺して、観音菩薩像を祀り、浅草寺(せんそうじ)の始まりとなった。 土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し土師真中知と桧前浜成・竹成兄弟の三人を神として祀ったのが三社権現社(=浅草神社(あさくさじんじゃ))の始まりと言われている。


●・・・・・・・・・・・雷門前は、観光客、警察官、担ぎ手、人力車の車夫、暇な親爺、、、、凄い人出!

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●・・・・・・・・・・・本社神輿の出番は明日、今日は各町内の神輿で気分を盛り上げよう! 

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●・・・・・・・・・・・お、お、仲見世に神輿が出てる、、、、
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●・・・・・・・・・・・・世界の観光客が来る浅草は、地元の暇な親爺にとっても、楽しいね!、、、、、、自分の好みでモデルを選び、すみません!
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●・・・・・・・・・・・まずは、浅草神社(三社さま)拝殿に手を合わせ、神楽殿では奉納舞踊をチラリと鑑賞、神輿庫では3基の本社神輿が明日の御渡りを待っていた。

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●・・・・・・・・・・・・各町内では神輿が出てる、、、、、人も出て、、、、笑も、驚きも、笑顔も、、、、

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●・・・・・・・・・・・なんだか、変なものかついで来たよ、、、、、

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●・・・・・・・・・・・スゲェ~~、姐ちゃんもかついでる、、、、、、

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●・・・・・・・・・・・?
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●・・・・・・・・・・こちらの町会でも、、、、

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●・・・・・・・・・・・・全員参加のお祭りだ!
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●・・・・・・・・・・・・?

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●・・・・・・・・・・・カッコいい、お年寄り、、、、

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●・・・・・・・・・・・この4人組はどこの国から来たのやら?20150516_219_1024x683

2015年5月14日 (木)

草加~見沼代親水公園

東武伊勢崎線に乗り、『今日はどこで下車しようか?』、、、、、『先日、谷塚で下車したので、今日は草加にしよう』、、、、草加駅から順調に西に歩き、峯ヶ岡八幡神社まできたら、カメラのバッテリーが無くなった。残念! この後は、ただひたすら歩くだけ、見沼代親水公園駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩となった。



①草加駅
・・・・・・・・・明治32年(1899)に開業した古い駅だが、昭和63年(1988)に立派な高架駅となる。・・・・・・・・・・私の住む、浅草橋からは、都営浅草線に乗り、押上で東武の準急に乗り換えれば、約30分で到着。 昔に比べ便利になったね!

・・・・・・・・・・・・・降りたホームはガラガラ、向かいの上りホームを見ると、、、、『何じゃ、この人出!』、『そうか、草加は東京のベッドタウン、今は出勤時間だ!』、『通勤、ご苦労さん。』 と、顔で驚き、心で労い、足で立去る、わたしゃ暇でのんきな親爺。

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・・・・・・・・・・・・・・イトーヨーカドー、マルイが駅前にある東口は堂々たる駅名表示の構え、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・セブンイレブン、パチンコ屋が駅前にある西口は紙ペラを貼りつけたような駅名表示、、、、、、、恥ずかしそうで貧弱だ。

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淨捷寺
・・・・・・・・・・草加駅西口正面の道を真っ直ぐ行くと、浄土宗の淨捷寺(じょうしょうじ)がある。 元和2年(1616)の創建。

・・・・・・・・・・・・遠くから眺めると、本堂・山門が白い塀の向こうに頭を出し、『お~、絵になるな!』と言いたくなる寺。 

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・・・・・・・・・・・・近くによると、鉄筋コンクリートと鉄骨の『なんだ、張りぼてか!』(失礼)と言いたくなる寺。、、、、、、(私は、この寺に今年3月に立ち寄っていた。 忘れてしまい、ゴメン!)

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③庚申塔
・・・・・・・・・・・・宅地化が進む草加市だが、、、、、住宅地の一画に青面金剛をかたどる庚申塔が残っている。 誰かが手を合わせているようだ、、、、、

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④京北変電所
・・・・・・・・・・・草加市苗塚町と川口市峯の市境に来ると、めったやたら送電線と鉄塔が目に入る。 なんじゃ、もんじゃ、何だか変じゃ、と思い、地図を見ると変電所があった。 納得! ちなみに、変電所の機器・施設の半分は屋内に収まっているそうだ。・・・・・・・・・・帰宅後、調べてみたら、275kV級の大型変電所で、マニアには必見の変電所らしい。 私には“275kv”と言われても、?????。、、、、しかし、鉄塔と送電線が創る造形美はいいね! 

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⑤新郷東部公園
・・・・・・・・・・・・・3日前に歩いた辰井川の上流で、谷塚治水緑地と同様に遊水池の役割を担うのが、川口市新堀にある新郷東部公園。 辰井川の氾濫を防止するための遊水地を、普段は公園として利用している。

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・・・・・・・・・・・・・・・取水口

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⑥峯ヶ岡八幡神社
・・・・・・・・・・・新郷東部公園の西側で裏道を歩き、ぶつかったのが峯ヶ岡八幡神社である。 その名のごとく、川口市峯にある八幡神社だが、創建年代は不詳である。 天正19年(1591、=千利休が自害した年)には社領30石の御朱印状を拝領し、総鎮守であった。 現在の本殿は、大永7年(1527)に造営された。拝殿は、昭和39年(1964)に再建された。 小高い丘の上にあり、 約7700㎡の境内には、樹齢約600年の大銀杏を初め、多くの樹木が繁茂し神聖な境内である。 

・・・・・・・・・・・・・・・65基の石燈籠がズラリ並ぶ参道。 

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・・・・・・・・・・・・・・・平成20年(2008)完成の朱塗りの大鳥居。

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・・・・・・・・・・・・・・大正末期に造られた神門

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・・・・・・・・・・・・・・奥にデンと控えし拝殿は昭和39年(1964)の造営。

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⑦新光寺
・・・・・・・・・・・峯ヶ岡八幡神社の東隣りに、天台宗の新光寺がある。 新光寺は、慈覚大師(794~864)が開山し、承久年間(1219~1221)の創建とも言われている。 江戸時代には峯ヶ岡八幡神社の別当寺を務めていた。 小さな本堂と緑豊かな境内は、京・鎌倉の寺のようだ!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここで、バッテリーの残量なし、、、、、、写真はあきらめ、歩きましょう・・・・・

2015年5月13日 (水)

泉岳寺~浜松町

都営浅草線泉岳寺駅から、芝浦に出て浜松町駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



①高輪大木戸跡
・・・・・・・・・・・・泉岳寺駅の出入口付近に高輪大木戸跡がある。 大木戸(おおきど)は、江戸時代に、街道上の江戸内外の境界に設置された簡易な関所である。 大木戸では、人間や物品の出入りを管理していた。・・・・・・・・江戸時代の初まり元和2年(1616)に、現在の札の辻交差点(港区)付近に芝口門が建てられたが、その後、宝永7年(1710)に現在地に移された。  高輪大木戸は、江戸の南の入口として、道幅約6間(約10m)の両側に石垣を築き、夜は門を閉めて通行できないようにしていた。

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②車両基地の再開発
・・・・・・・・・・・・品川と田町の両駅中間にある広大なJRの車両基地を東側(海側)に寄せて整理し、西側に広い再開発地区を創出する事業が始まっている。 その一環として、山手線を東側に移し、品川と田町の中間には新駅がつくられることになっている。、、、、、、チョイと高い処から覗いてみたら、、、、、、西側の旧田町車両センターがあったところは、線路が撤去され更地に変わっている。 山手線、京浜東北線もいずれ東側に移ることになる。

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③高輪橋架道橋
・・・・・・・・・・車両基地の中程を東西に横断する区道が、高さ制限1.5mという極端な低さの高輪橋架道橋(たかなわきょうかどうきょう)である。 上の写真では京浜東北線の中央下あたりにガードがある。 身長165㎝の私は、首をかしげなくても通れるが、気分的には首をかしげて歩いてる。 170㎝の人はギリギリで、頭のてっぺんが多少擦れて、河童頭になるかもね、、、、、タクシーもギリギリで通行可。

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④芝浦併用橋
・・・・・・・・・芝浦4丁目の運河に架かる芝浦橋。 その頭上には、トラス構造の上に高さの異なる2つの橋梁を載せた芝浦併用橋が架かっている。 写真、手前に架かる鉄道橋は新幹線の大井車庫回送線、奥に架かるは東海道貨物線(現在は休止)。 昭和47年(1972)の完成。 珍しい形式の橋梁だ!

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⑤新芝運河遊歩道
・・・・・・・・・芝浦1丁目から芝浦4丁目まで、新芝浦運河沿いに約1.5㎞程の遊歩道が整備されている。 この運河は、明治末から、大正中期にかけ埋立によって生まれた、東京でも古い運河であるが、遊歩道によって生まれ変わったようだ。・・・・・・・・ボランティアか、地域住民か、それとも、善意の謎の人か、、、、、数人の60歳前後のおばさんが、ハサミを手にして花の手入れをしていた。 若い娘なら声を掛け話を聞いたのだが、おばさんなので遠慮した。 綺麗な花を見せてくれてありがとう、感謝です。

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⑥旧東京電燈株式会社
・・・・・・・・・・芝浦4丁目に建つ、昭和4年(1929)竣工の建物。 現在は日本電気計器検定所別館2号館。 今日はチョイと内部も拝見。

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旧芝浦見番
・・・・・・・・・・昭和11年(1936)に芝浦花柳界の見番として建てられた、木造2階建ての建物。 平成21年(2009)、老朽化のためそれまで港湾労働者の宿舎として使用されてきたが閉鎖された。 その後、港区に土地・建物が無償貸付され、区では有形文化財に指定し、修復保存が決まった。・・・・・・・役所仕事は遅い! いまだ修復もされずネットに覆われた状態だ。文化財が泣いている!

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2015年5月11日 (月)

谷塚~見沼代親水公園

草加市の東武伊勢崎線谷塚駅から、足立区の日暮里・舎人ライナー見沼代親水公園駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



①谷塚駅
・・・・・・・・・・東武伊勢崎線で北に向かい、都内最後の駅「竹ノ塚」を過ぎると、草加市に入り、最初の駅が「谷塚」(やつか)駅である。・・・・・・・・伊勢崎線の北千住~久喜間の開業は明治32年(1899)である。 この時は、北千住、西新井、草加、越谷、、、、、などの駅が開業しているが、谷塚はまだ開業していない。 谷塚駅の開業は大正14年(1925)である。・・・・・・・・・駅は島式ホーム1面2線を有する高架駅。 改札口は高架下に1か所あり、改札口を出ると東西に出入口がある。 東口は駅前ロータリーもある、郊外住宅地に多いスタイルの堂々とした出入口である。 西口はこれから駅前の開発に着手するような雰囲気で、裏口的な感じだ。、、、、、今日は裏口から駅前に出て東へ向かう。

・・・・・・・・・・・・・・広いホームは、私の住む浅草橋駅よりも立派だ!

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・・・・・・・・・・・・・・駅前駐車場を横切って、西口へ向かうサラリーマン。
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・・・・・・・・・・・・・・谷塚のメインストリート(?)、、、、「谷塚西口商店会

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②国道4号
・・・・・・・・・・・・・草加バイパスです。、、、そうか!  足立区から越谷までの区間が草加バイパスとして、昭和42年(1967)に開通した。、、、なるほど、そうか!
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③辰井川
・・・・・・・・・・・・・・・草加バイパスの西側に、パイパスと並行にする小さな川がある。 この川は、昭和56年(1981)の台風24号で浸水の激しかった谷塚西部の被害軽減を図るべく、昭和56年から6年がかりで開削された新しい川:「辰井川」(たついかわ)である。 事業費109億1300万円、川幅10m、深さ2.5m、市内延長は2.4km。 チョッピリ、水の汚い川。 市街化が急激に進行した谷塚西部一帯は、主要な排水路を持たないことから、少しの雨でも浸水の被害があり、治水対策として整備された。

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・・・・・・・・・・・・・・川筋の途中に、大雨などで辰井川が氾濫しないように調整池が設けられている。 その一つに、谷塚治水緑地がある。 普段は、お年寄りのゲートボール場であり、釣り堀である。 大雨になると取水口から雨水が流れ込む仕掛だ。、、、、、そうか!

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④住宅の裏は畑
・・・・・・・・・・方向感覚が鈍くなるゴチャゴチャ・グルグルの道を歩き、気がつくと畑がある。

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⑤川の向こうは足立区
・・・・・・・・・こっちは草加、あっちは足立、間を流れる毛長川、、、、、毛長川(けながかわ)は、埼玉および東京を流れる利根川水系綾瀬川支流である。 昭和23年(1948)より40年(1965)にかけて改修拡張された。 周辺人口急増による生活排水の増加などの影響により、汚いドブ川より汚い川となったが、下水道の整備、川底の清掃、埼玉高速鉄道線のトンネルを活用して荒川の水を引き込み、など、、、、水質改善の努力が実り、現在は鯉が住み、ボラが上がってくる川となった。

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⑥見沼代親水公園駅
・・・・・・・・・・・日暮里・舎人ライナーの終点駅で、平成20年(2008)に開業。 

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●おまけ
・・・・・・・・・・・歳をわきまえず、日暮里・舎人ライナーの先頭に陣取り、車窓に顔寄せ、パチリ!

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2015年5月10日 (日)

中川 (船堀~西葛西)

一昨日の続きで、都営新宿線船堀駅から中川沿いに歩き、荒川との合流点まで行き、東京メトロ東西線西葛西駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩です。



①船堀駅
・・・・・・・・・・・・今日のスタートはここから、、、、、

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②新川
・・・・・・・・・・・・新川は、都営新宿線と東京メトロ東西線の中程を東西に流れ、中川と旧江戸川を結ぶ運河である。・・・・・・・・・徳川家康が江戸に入府し、利根川から江戸に向け水運を活発化させる整備事業として、日本橋茅場町から隅田川をチョイと上って、小名木川に入り、小松川閘門を通り新川に入り、浦安の北側で旧江戸川に入り、またまた川を上り行徳に至る水運路を整備した。(江戸時代には、現在の荒川・中川は無かった。)、、、、、家康は古くからあった隅田川、旧中川、旧江戸川を小名木川、新川の運河で結び、行徳の塩、利根川周辺の味噌、醤油、東北地方の年貢米など、江戸へ輸送する大動脈を構築したのである。・・・・・・・・・現在は、江戸川区の地盤沈下が進み、新川の両端にあった水門は閉鎖し、東水門(旧江戸川)から導水して西水門(中川)から排水することで水位を低下させ一定に保つようにした。 新川は運河としては使用されなくなった。・・・・・・・・・・・今日は、新川の西寄り宇喜田橋から中川へ向かう。

・・・・・・・・・・・・・・宇喜田橋・・・・・・・・船堀駅から船堀街道を南へ来ると、新川に架かる宇喜田橋がある。 初代の宇喜田橋は昭和4年に架設された賃取橋であった。 2代目は昭和15年木造で架橋された。 現在は3代目で、昭和32年に架設された中路鋼床版箱桁橋で、日本初の鋼床版橋である。 設計・架設は横河橋梁製作所。

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・・・・・・・・・・・・・・2代目の宇喜田橋。 昭和32年の宇喜田橋架け替え工事の頃の写真。

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・・・・・・・・・・・・・・宇喜田橋の西には擬宝珠橋(ぎぼしばし)が架かる。 この橋は人道橋で、木材を鋼板で補強した橋梁桁を使用している。 平成20年(2008)完成、橋長23.9m。

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・・・・・・・・・・・・・・つづいて、擬宝珠橋と似た櫓橋(やぐらはし)が架かる。 こちらも、平成20年(2008)完成の人道橋。 三径間単純木橋。

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・・・・・・・・・・・・・・排水機場前に、西水門橋がある。 平成18年(2006)に完成した橋。 デザインは水門に合わせたのか、明治調の雰囲気を出しトラス強調している。

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・・・・・・・・・・・・・・水門橋の背後に、昭和43年度に竣工した新川排水機場がある。 新川の水を中川へ排水するため、毎秒12トンの排水の能力を備えた施設である。 この排水機場がないと、大雨などで新川が溢れ周辺は浸水で、スイボツ、オダブツ、ナムアミダブツである。

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・・・・・・・・・・・・・・排水機場の内部。 (東京都江東治水事務所のhpより)

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・・・・・・・・・・・・・・排水機場の北側は新川西水門広場として公園になって、高さ15m程の火の見やぐらがモニュメントとして建てられている。

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③新川排水機場前の中川
・・・・・・・・・・・・上流には都営新宿線荒川中川橋梁が見える、下流は川筋がチョイとカーブしていて葛西橋が見えない!

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④安楽寺
・・・・・・・・・・北葛西1丁目に、安楽死できそうな名前の寺がある、江戸時代初期に創建されたと思われる浄土宗の安楽寺。 寺は昭和28年(1953)の火災で鐘楼門を残して、その他の堂宇を焼失した。 鐘楼門は江戸時代の建造で2階建て、鐘は昭和47年の鋳造。 また、本堂は昭和48年(1973)に再建。

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⑤葛西橋
・・・・・・・・・・・荒川の右岸ん(江東区東砂)と中川の左岸(江戸川区西葛西)にかかる橋で、葛西橋通りを通す。 旧葛西橋は昭和3年(1928)に架けられたが昭和25年(1950)に崩壊し、その後現在の橋ができるまで、木製の橋が架けられていた。 現橋は、昭和38年(1963)に完成した、長さ727.4mのゲルバー橋。・・・・・・・・・私の幼き頃は、シジミ採り、ハゼ釣りのメッカで、都電29系統が神田須田町から浅草橋・錦糸町をとおり葛西橋(江東区側)まで運転されていた。 29系統は昭和47年(1972)11月11日で営業終了した。

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・・・・・・・・・・・・・・・・首都高環状線の股座に、荒川に架かるゲルバー桁(吊り構造のように持ち上げている桁。)が見える。

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⑥橋梁ではない?
・・・・・・・・荒川と中川を隔てる土手上をとおる首都高環状線の清新町出入口につながる部分が中川を越える。 これ、橋梁ではないのか、、、、、中川の橋梁一覧には記載なし。

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⑦荒川中川橋梁
・・・・・・・・・・・首都高出入口へつながる部分のすぐ隣に、東京メトロ東西線の荒川中川橋梁がある。 全長1,236mで、長~~いワーレントラス橋である。 中川に架かる部分では両側に道路橋があり、全容が撮影できないのは残念。

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⑧清砂大橋
・・・・・・・・・・・・中川の最下流に架かる橋が、この清砂大橋(きよすなおおはし)である。 江東区新砂と江戸川区清新町を結ぶ。 平成8年(1996)に着工し、8年後の平成16年(2004)に開通した、全長1317.2mの長~~い、長~~い橋。

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⑨荒川への合流点
・・・・・・・・・荒川と中川を隔てた土手もここでなくなり、中川は荒川に合流し、下流は“荒川”である。 首都高環状線は合流点のチョイト先で中川側にすり寄り、湾岸道路に向かう。
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⑩西葛西駅
・・・・・・・・・・東西線の東陽町~西船橋間は、昭和44年(1969)に開業したが、西葛西駅は10年後の昭和54年(1979)に開業した。 相対式ホーム2面2線の高架駅。       
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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・京成本線中川橋梁から、下流へ向かい歩き、今日、最下流の合流点に到達した。 今度、機会あれば上流に向かい歩いてみよう!

2015年5月 8日 (金)

中川 (新小岩~船堀)

総武線新小岩駅から、中川沿いに都営地下鉄新宿線船堀駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩です。



①新小岩駅
・・・・・・・・・・・新小岩駅の元々は、大正15年(1926)に設置された新小岩信号所が始まりである。 昭和3年(1928)に駅に昇格した。 今では、快速も止まる駅だが、駅舎はゼロメートル地帯にあり、大雨などでは冠水も心配されている。 また、南北の自由通路がないため、駅南北の行き来がチョイと不便で、駅前の雰囲気もチョイと違うようだ。 JR・葛飾区では、南北自由通路の整備 、駅高架下に改札口の一本化を、平成30年(2018)に完成させるべく工事に着手している。 南口付近では、まだ工事している様子が見えていないが、着々と工事は進んでいるようだ。

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②JR総武線荒川中川橋梁
・・・・・・・・・・・3日前の続きで、JR総武線荒川中川橋梁から中川沿いに下ることにした。 まづは、左岸の堤防上に立ってみると、荒川と中川の2本の川を越える橋梁なので、さすがに長~~い!

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・・・・・・・・・・・・・・・まだ朝の空気で、靄っている中を、中川は静かに流れている、、、、、

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小松川大橋
・・・・・・・・・・・国道14号(京葉道路)を通す全長約500m程の橋で、下り線と上り線が方向別に架橋された。 下りの小松川大橋が昭和44年(1969)に開通し、上りは昭和47年(1972)に開通した。

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④荒川大橋
・・・・・・・・・・・・・・荒川の上は、日本で造られた5番目の斜張橋となっているが、中川の左岸堤防上からの撮影は難しく、残念だが写っていない。 中川の上は斜張橋にはなっていない。 昭和45年(1970)の完成。

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・・・・・・・・・・・・・・中川の部分では、首都高7号線と首都高環状線を結ぶ、「小松川JCT」が建設中である。 

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・・・・・・・・・・・・・・・首都高速道路会社のHPにあった、「小松川JCT」の完成予想図。 図の上部に小松川JCTがあり、右の荒川と左の中川を隔てる土手上に首都高環状線が走り、左側にカーブし首都高7号線の千葉本面と接続する。 図の下の橋は小松川大橋。

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⑤ゼロメートル地帯
・・・・・・・・・・・・・写真は小松川大橋付近で撮影。 右側の江戸川区松島・東小松川地区の道路面と、左側の中川の水面、、、、、一目瞭然、水面の方が高い!

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・・・・・・・・・・・・・・・首都高7号線の下の堤防には、こんな表示が、、、、、「A.P.±0m 干潮位」は大潮の時の干潮位の高さである。 つまり、この辺りの地盤面は干潮の時でも水没するのだ。 さらに、写真:黄色の自動車の上にある赤い表示は、昭和34年(1959)の伊勢湾台風が襲ってきた場合の予想潮位である。 一般住宅では、完全に2階部分まで水没する!

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⑥仲台院
・・・・・・・・・・西小松川町に浄土宗寺院の仲台院がある。 仲台院は、鎌倉光明寺の学僧應誉良道上人が創建し、八代将軍徳川吉宗の代より将軍御膳所となっていたそうだ。

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⑦西小松川天祖神社
・・・・・・・・・・こちらは、西小松川にある天祖神社。 神社は下総国千葉家より康正二丙年(1456、=室町時代)に神職が当所に引き移り創建した。 旧西小松川村の鎮守さま。 現社殿は、慶応3年(1867)に建てられ、昭和30年(1955)に増築された。 さらに、平成13年(2002)には、土台を新たに造り、かさ上げされた。 広い境内には、社務所などもなく、寂しそうに社殿だけが建っている。

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⑧江戸川競艇場
・・・・・・・・・・昭和30年(1955)に開場した競艇場。 名称は“江戸川”競艇場だが、中川の左岸にあり、レースは中川で行われている。・・・・・・・・・午前9時、多くのファンが既にギャンブルモードに突入している! 私も仲間に入りたいが、ルールは判らず、賭ける資金もなく、ファンの熱気だけを体感。

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⑨船堀橋
・・・・・・・・・・・荒川・中川を跨ぎ、昭和46年(1971)に完成した、長さ524.1mの船堀橋(ふなぼりばし)は、橋上には新大橋通りが通っている。

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⑩都営新宿線荒川中川橋梁
・・・・・・・・・・・橋長699.3mの長い鉄道橋。 昭和58年(1983)完成。  橋の上は通常の軌道と同じバラスト道床となっている。 荒川上のトラスの外側には遮音壁を設置し騒音対策も行っている。 中川上はコンクリート桁。

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⑪船堀駅
・・・・・・・・・・都営新宿線の駅で、昭和58年(1983)に開業。 相対式ホーム2面2線の高架駅。 

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2015年5月 7日 (木)

水道橋~浅草橋

午前中は去年手術した病院でその後の経過検査を行い、午後は後楽園のクリニックで定期検査、ともに異常なしで、良好であるとの診たて、ヨシ、ヨシ。 結果良ければ言うことなし、気分よく歩いて帰ろう、、、、、と、言うことで、水道橋から我が家(浅草橋)まで、1万歩、7㎞の歩きです。



①水道橋交差点
・・・・・・・・・・・・50年間、通勤通学で見続けてきた交差点である。 写真右端の東京歯科大学、中央の東洋高等学校、左端の都立工芸高校、、、、どの学校も、昭和から平成にかけて、みな建て替えられた。 “昭和”の面影が薄れた交差点だ。

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②本郷1丁目をブラブラ
・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・都立工芸高校の裏には水道橋金刀比羅神社がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・工芸高校の裏を東に行くと、坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があった忠弥坂がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・今は、坂の上には、4人に1人が東大に合格している女子中高一貫校の桜蔭学園がある。 学園本館の建物は、昭和6年(1931)に大林組の設計・施工で建てられた。スパニッシュ様式の建物。・・・・・・・・東大工学部建築学科を卒業したタレントの菊川怜もここの卒業生。、、、、、、ここで「怜は東大 私は明治 同じ学科で 差がついた」

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・・・・・・・・・・・・・桜蔭学園の東には、関東大震災復興小学校の一つ旧元町小学校」、復興公園「元町公園」、「昭和第一高等学校など、歴史ある建物が残っている。

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・・・・・・・・・・・・・歴史ある建物の一つ、昭和初期の建築と思われる旧都教育庁お茶の水庁舎。 現在はトウキョウワンダーサイトとして芸術家支援施設になっている。

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③湯島御霊社
・・・・・・・・・昔々の遥か昔、祟りや災いを避けるため、死者の霊魂の働きを鎮めるための祭りである御霊鎮祭が各地で盛んに行われた。 奈良時代から平安時代(710-1192)にかけては都を中心にさらに盛んになり、湯島御霊社(文京区湯島2丁目)もそうした縁起に始まった。 宝永7年(1710)の創建。 社殿は戦災で被災したため、昭和48年(1973)再興した。

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④霊雲寺
・・・・・・・・・・・・・・湯島2丁目に真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺(れいうんじ)。がある。 元禄4年(1691)徳川幕府の永代祈願所として、江戸城から見て鬼門にあたる北東の当地に創建された。 元禄6年には寺領100石の朱印状を拝領、また塔頭7ヶ院、末寺46ヶ寺を擁していた真言律宗の本山であった。 現在の霊雲寺は、関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、昭和51年(1976)に鉄筋コンクリート造で再建したものである。 広い境内に堂々と建つ本堂は、私にはチョイと威圧的に感じるのだが、、、、、

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⑤Once Upon A Time
・・・・・・・・・・台東区上野1丁目にある、明治初期の煉瓦蔵を利用した、クラシックバー。

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燕湯 ・・・・・・・・上野3丁目(上野松坂屋の南側)にある、昭和25年(1950)に建てられた銭湯。 国の登録有形文化財。 私が幼き頃、度々、連れて行かれた、白湯(薬湯)で有名な銭湯だ!

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2015年5月 5日 (火)

中川 (立石~新小岩)

一昨日歩いた中川沿いの散歩の続き。 今日は京成押上線立石駅から総武線新小岩駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩です。



①立石駅付近
・・・・・・・・・・・・立石駅 で下車し、まずは本奥戸橋へ向かう、、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・踏切の脇にある、江戸時代中期に創建されたらしい立石諏訪神社を通り抜け、、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・奥戸街道に出て、喜多向観音に朝の御挨拶をして行こう。、、、、、江戸時代、近くの寺の尼さんが、浅草寺に千日詣での願かけし、大願成就の日、枕元に観音様の姿が現れたそうだ。 そのお礼に建てたのが、この観音様。 世のため人のため喜び多く参拝する人の願いは叶うそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・観音様の近く奥戸橋際には、地蔵尊・馬頭観音・道しるべの3点セットがある。

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②本奥戸橋
・・・・・・・・・・・・・一昨日、渡った奥戸橋の下流に位置する本奥戸橋。 昭和7年に開通し、昭和62年(1987)に現在のトラス橋に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・・上流側(奥戸橋方向)を眺める

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・・・・・・・・・・・・・・下流側(平和橋方向)を眺める

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③奥戸1丁目付近の中川
・・・・・・・・・・・・本奥戸橋と平和橋の中程(森永乳業東京工場前)で、中川は奥戸1丁目に向かい“U”字型に出っ張っている。 ここから、中川を見ると、、、、、「中川は右から左へ流れる。 質草は右から左へ流れ去る。」

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平和橋
・・・・・・・・・・・・千住新橋北詰から、小菅・堀切菖蒲園・新小岩と抜け、千葉街道までを結ぶ「平和橋通り」が中川を越える橋。 昭和35年(1960)架橋。

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・・・・・・・・・・・・・親柱には鳩の飾りがあるが、なぜここに平和橋なのか由来が判らぬ?、、、、、何となく「広島」を連想してしまうね!

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・・・・・・・・・・・・・橋から上流を眺める、、、、、
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⑤平和橋水管橋
・・・・・・・・・・・・・・平和橋の下流側に水管橋が並行して架かっている。 管の中は工業用水と言うことだが、、、、
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⑥王子白髭神社
・・・・・・・・・・東四つ木1丁目の木根川小学校裏の、裏道の行き止まりに王子白髭神社がある。 清和天皇の第七皇子貞辰親王(さだときしんのう) が東国遊行の途中、元慶元年(937)、この地で亡くなった。 たまたま近くの浄光寺に留錫中の比叡山の和尚が親王の遺骸を葬り、王子権現として慰霊を行い、以後浄光寺がその塚を管理してきた。 明治時代になり、荒川の開削工事が行われ、神社は浄光寺(木根川薬師)とともに現在地に移転した。

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⑦上平井橋
・・・・・・・・・・・昭和30年代に架け替えられた、下路曲弦ワーレントラス橋。 中川はこの橋の下流で綾瀬川と合流する。・・・・・・・・・「平井橋」と「中平井橋」は荒川によってチョン切られた墨田区側の旧中川に架けられている。

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・・・・・・・・・・・・・・上平井橋から見た上流側

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⑧上平井橋の下流
・・・・・・・・・・かつしかハープ橋 の主塔橋脚右側から綾瀬川が合流して、中川は左側の上平井水門へ流れていく。
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⑨上平井水門
・・・・・・・・・・・上平井水門は、台風などで高潮や津波が発生し川の水位が上昇した際に、遡上による水害を防ぐ役割で、昭和45年(1970)に約23億円で造られた。

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⑩平井大橋
・・・・・・・・・・・荒川・中川に架かる橋長484mの鋼ゲルバー箱桁橋。昭和42年(1967)に開通した蔵前橋通りを通す。

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⑪JR総武線荒川中川橋梁
・・・・・・・・・・・・平井~新小岩間で、荒川と中川を渡るトラス橋。 上流側から、越中島貨物線(単線)、総武快速線(複線)、総武緩行線(複線)の3橋が並行して架けられている。
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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日はここまで、中川の続きは、またの機会に!

2015年5月 3日 (日)

中川 (高砂~立石)

京成本線高砂駅から中川沿いに歩いて押上線立石駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

中川・・・・・・・・・・・中川(なかがわ)の最上流は埼玉県羽生で、春日部、三郷、八潮と流れ、大場川水門 付近から東京に入る。 葛飾区を東西に二分するように、区の中央を北から流れ下り、京成本線高砂駅の近くで中川と新中川(旧中川放水路)に分かれる。 中川は、ここから葛飾区内を尻を振り振り悩ましく蛇行し、四ツ木と新小岩の中程の上平井水門 で綾瀬川と合流する。 その後は、荒川に寄り添い並流し、東京湾に流れ込む。



①高砂駅
付近・・・・・・・・・・・・散歩のスタート、行先は未定だが、まずは高砂駅 の北側へ、、、、、、私好みの塀のある裏道があった、、、、、、オ!下町の住宅街だ、、、、、、新金貨物線の踏切を越える

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・・・・・・・・・・・・・・線路を越えると、そこは青龍神社だった。、、、、、神社の創建年代詳だが、榛名神社から雨乞いの神様を勧請した。、、、、、、暑い日差しの下、釣りを楽しむ人もいる。、、、、、、、『獲れた、デカイ!』子供の声、なんと亀である。 お父さん、慌ててスマホでパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・青龍神社の裏手、中川の左岸土手に上がると、、、、、、対岸に東京慈恵会医大葛飾医療センター が、下流には京成電鉄中川橋梁が見える。、、、、、『今日の散歩は中川沿いに歩いてみよう!』、やっと散歩の行先が決まった!
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②京成電鉄中川橋梁
・・・・・・・・・・青砥~高砂間の中川に架かる橋梁。昭和48年頃に現在の橋梁に架け替えられた。

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③高砂橋
・・・・・・・・・・・京成電鉄中川橋梁の下流に、葛飾区青戸と高砂を結ぶ高砂橋が架かっている。 旧橋は昭和7年(1932)に架けられたが、平成15年(2003)に現橋に架け替えられた。 橋の長さ約187mあり、シンプルな2径間連続斜張橋(塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造の橋)である。

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④中川と新中川の分岐
・・・・・・・・・高砂橋から下流の分岐点を撮影、、、、、写真右奥へ流れる中川、左へ流れる新中川(旧中川放水路)。・・・・・・・・・新中川は、昭和22年(1947)のカスリーン台風により東京の東部地域が浸水し、再発を防ぐため、昭和24年(1949)に中川放水路(新中川)の開削に着手し、昭和38年(1963)に完成した。 

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⑤青砥橋
・・・・・・・・・・・昭和60年(1985)に竣工した、橋上には環七が通っている。

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・・・・・・・・・・・・・・・橋上からは、屋並みの奥に青砥駅が見え、蛇行する中川が見える。

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⑥諏訪野八幡神社
・・・・・・・・・・・・青砥橋を渡り高砂1丁目に、創建年代不詳の諏訪野八幡神社がある。 鮮やかな朱塗りの鳥居には、ドッキリ、ビックリ、シャックリして、ポックリ死にそう! 婆さんが真紅のルージュを塗った、ケバイ化粧という感じだな。

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⑦おみごとなツツジ
・・・・・・・・・・川筋に咲き並ぶツツジ、、、、、

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⑧奥戸橋
・・・・・・・・・・・・・立石と奥戸を結び、昭和47年に完成した、地元の人のみ知るような、比較的に交通量の少ない、地味な奥戸橋。 奥戸地区には、奥戸街道沿いに「本奥戸橋」、「奥戸新橋 」があり、こちらは交通量も多い。

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・・・・・・・・・・・・・・・橋上から上流側を見ると、S字に蛇行している。
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・・・・・・・・・・・・・・下流を見ると、川筋は直角に右へ折れている。

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⑨熊野神社
・・・・・・・・・奥戸橋を渡り立石8丁目に入ると熊野神社がある。 社伝によると、創建は平安時代中期の長保年間(999~1003)と言われている。 私は見たことがないが、神社の御神体は「神代の石剣」で極めて珍しいものと記されている。、、、、、「珍しいものなら、拝観料をとって公開したいいのに」と私は思うが、「公開したら後悔するかも?」、御神体は謎を多くし隠しておくとありがたみが増すからね。

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2015年5月 2日 (土)

浅草

GWは快晴、気温は夏、人出は好調、、、、、私は我が家で留守番。 夕方近くになり散歩する時間ができたので、『チョイと浅草まで散歩してくるよ!』 1万歩、7㎞の散歩です。



①スカイツリー
・・・・・・・・・・・国際通りに雷門通りがぶつかる「雷門1丁目」交差点から撮影。 この場所(台東区西浅草1-8)には、昭和61年(1986)まで、知る人ぞ知る「仁丹塔」があった。 仁丹塔は取り壊され今はビルが建っているだけ。

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②久しぶりに賑わう六区
・・・・・・・・・・・・映画館が消滅し寂しい六区 であったが、、、、、、

・・・・・・・・・・・・・・複合商業施設「ROX・3G」が六区ブロードウェイにオープンした。 5階建てで、1階から4階までは飲食・衣料・雑貨・家具・スポーツなど約30店舗程が入居している。5階はフットサルコートとなっている。

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・・・・・・・・・・・・・・手焼きせんべいの「入山せんべい」も、今日は忙しそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・浅草演芸場も満員。

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・・・・・・・・・・・・・・六区ブロードウェイの中程には、阪急阪神東宝グループ開発している14階建てのホテルが姿を現した。 オープンは今年の秋。

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・・・・・・・・・・・・・・・賑わいが戻ってくるようだ、、、、、、、

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③懐かしの紙芝居
・・・・・・・・・・・・・水飴、ソースせんべい、焼きそば、、、を、まず購入。 その後、一番前に陣取って紙芝居を見る、、、紙芝居は「黄金バット」、、、思い出す60年前の自分。
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④浅草寺五重塔
・・・・・・・・・・・・浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)に本堂と共に建立したのが初めである。 その後数度倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建した。  徳川家光により本堂・仁王門などと共に建立された国宝の五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)、他の伽藍とともに惜しくも焼失した。 戦後、浅草寺では伽藍復興に邁進し、本堂、雷門、宝蔵門など一連の建物に続き、五重塔を再建した。 昭和45年(1970)に着工し、昭和48年(1973)に完成した。 鉄骨鉄筋コンクリート造。 地上53.32m(塔のみ48.3m)を誇る高さは京都東寺に次いで高い五重塔です。

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2015年5月 1日 (金)

浅草橋~京橋

我が家(浅草橋)から、人形町、兜町、日本橋を抜け京橋まで、1万歩、8kmの散歩です。



①浜町センタービル
・・・・・・・・・中央区日本橋浜町に、平成5年(1993)に竣工した複合ビル。 設計は竹中工務店、施工は竹中工務店+清水建設のJV、地上18階/地下2階建。 この建物には、1~6階に明治座が入居し、7階以上にはオフィスとして複数の企業が入居している。・・・・・・・・・明治座の歴史は、明治6年(1873)の喜昇座の開場に始まる。 明治13年(1880)には、前年久松座と改称した劇場を火災で焼失し、明治18年(1885)に千歳座と改称し新築開場した。 しかし不運にも、明治23年(1890)に再び火災で焼失し、再建する。 明治座と改称した劇場も、大正12年(1923)の関東大震災で焼失。 またまた新築するが、昭和20年(1945)の東京大空襲でも焼失し、戦後に再建した劇場も昭和32年(1957)漏電で焼失。 そして、平成2年(1990)、前劇場は老朽化で閉め、現在の劇場に変わった。 長い劇場の歴史だが、火災の歴史でもある。 

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・・・・・・・・・・・・・私が記憶している、なまこ壁の外壁デザインによる戦後の明治座。(明治座hpより)

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②明治観音堂
・・・・・・・・・・・・・明治座正面道路の緑地に小さな観音堂がある。 明治観音堂建立の由来には「本堂は昭和20年3月10日の戦災に依り、死没せる幾多の霊の冥福を祈るため建立す 昭和25年12月 発願主 新田新作」と記されている。、、、、、新田新作(にったしんさく)とは?、、、、、、明治37年(1904)に福井県で生まれ、昭和31年(1956)に没した、国粋会系「新田組」組長・新田建設社長である。 昭和25年(1950)東京大空襲で焼失した明治座を復興し社長となった。 プロレスの力道山の後援者でもある。 昭和28年(1953)には、力道山らと日本プロレスリング協会を設立し理事長となる。 昭和29年(1954)頃、横井英樹の白木屋乗っ取り劇の調停にも活躍した。・・・・・・・・・きっと、戦後の歴史の裏を知っていた人だ!

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③壽堂京菓子司
・・・・・・・・・・・・窓まわりの紅色、2階の上にチョコンと乗った3階、特徴ある木造建築は、創業明治17年(1884)の人形町の老舗和菓子屋「壽堂」。 建物の詳細は不明。 店の看板商品「黄金芋」はさつま芋を模した形の黄身餡ニの饅頭に、ニッキがふりかけられた逸品である。

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④鎧橋
・・・・・・・・・・・・・日本橋川に架かり、小網町と兜町を結ぶ、全長56.7mの3径間鋼製ゲルバー桁橋の鎧橋(よろい ばし)。 昭和32年(1957)の竣工。 鎧橋が最初に架けられたのは明治5年(1872)、三井家など当時の豪商が自費で木橋を架けた。 その後、明治21年(1888)に、鉄骨製のトラス橋に架け替えられた。 現橋は、昭和32年(1957)に旧橋の老朽化に伴なって架け替えられたものである。  兜町(かぶとちょう)にあって、鎧橋(よろいばし)とはこれ如何に?、、、、、「鎧橋」 の橋名は、平安時代からこの場所にあったといわれる「鎧の渡し」にちなみ、名付けられた。 「兜町」の町名の由来は、源頼義が東征凱旋の時、兜を埋め納めたという伝説が残っており。 その「印の石」といわれる石が兜神社境内に残っている。 この「兜塚」にちなみ名付けられた。

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・・・・・・・・・・・・・・明治24年頃の鎧橋

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⑤東京証券取引所
・・・・・・・・・兜町のシンボル東京証券取引所は、旧ビルの跡地に、昭和63年(1988)に建てられた。 地上15階(高さ:70m)で、低層部は花崗岩の外装で重厚感がある。 設計は三菱地所、施工は大成建設+竹中工務店+清水建設+大林組のJⅤ。、、、、、、、ここいらで、「兜と鎧 わが身、守もるは どちらが大事 今や武具より 株価なり」

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⑥山二証券
・・・・・・・・・・東京証券取引所の脇道に建つ、西村好時設計のビル。 昭和11年(1936)竣工、施工は清水組、鉄筋コンクリート造り3階建て。 外壁は、1階部分が石貼り、上層部はタイル貼りの仕上げ。 屋根はスペイン瓦を用い、丸窓や飾りのあるアーチ窓、煙突、、、、、スパニッシュ風の印象的なビル。

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⑦フィリップ証券
・・・・・・・・・・・・山二証券の隣りに、フィリップ証券(旧成瀬証券)のビルがある。 こちらも西村好時の設計で、昭和10年(1935)に清水組の施工で完成した。 白い石の飾り柱に挟まれた、黒い窓枠の部分が特徴的だ。

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⑧兜神社
・・・・・・・・・兜(かぶと)神社は、兜町に東京株式取引所が設けられるに当り、明治11年(1878)に取引所関係者が鎮守として造営した。 神社は何度か移転し、昭和2年(1927)に現在地に移った。さらに、昭和44年(1969)には、頭上の首都高の建設により社殿を取り壊し、昭和46年(1971)に現在の鉄筋コンクリート造りの社殿となった。・・・・・・・・境内に安置されている兜岩は、前九年の役(1050)に源義家が東征にあたり、この岩に願を懸けて戦勝を祈願したと伝えられている。

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⑨日本橋ダイヤビルディング
・・・・・・・・・・・江戸橋の際に建つ地上18階、地下1階のビルは、「旧三菱倉庫江戸橋倉庫」の外壁を残し、高層部と内部を新たに造ったオフィスビルである。 設計:三菱地所、施工:竹中工務店、着工:平成23年(2011)、竣工:平成26年(2014)

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⑩野村証券本店
・・・・・・・・・・・・日本橋の脇に、川に添って建つ大きなビルが、昭和5年(1930)に、安井武雄(1884~1955)の設計で竣工した野村證券本店。 タイルの茶色と石の白色とが、シンプルながら新しさを感じさせるデザインです。コーナー部の丸みもいいですね。

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⑪日本橋御幸ビル
・・・・・・・・・・・野村証券ビル前の、レンガ色のシャープな建物は旧村井銀行の跡地に建つ「日本橋御幸ビル」。 昭和50年(1975)、日建設計の設計により竣工した。 このビルの1階に、かつての村井銀行の建物の一部が嵌め込まれ保存されている。

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⑫東京搬送機・・・・・・・・・・・・こちらは京橋のレトロな建物、昭和初期の建築だ。 1階は喫茶店で、2階から上は、エレベーター、エスカレーター、コンベアなど運搬用器具、機械の会社であったが、今日、前を通ると空き家となっていた。、、、、、、、耐震化に対応するため建て替えるようだ。 また、昭和が一つ消える、残念!

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