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2015年6月

2015年6月30日 (火)

板橋~西巣鴨

板橋駅で下車し、毎度のことだが、「さて、どっちへ歩くか?」、、、、、中山道の方向に歩いてみるか、、、、板橋3丁目で方向感覚を失い、、、、もとの板橋駅近くに戻ってしまった、、、、、結局、西巣鴨まで歩いて、1万1千歩、8kmの散歩です。


板橋駅
・・・・・・・・・・・日本鉄道の駅として、明治18年(1885)に開業した歴史ある駅。 1面2線の地上駅。・・・・・・・・・・西口(板橋口)は板橋区、東口(滝野川口)は北区、そしてホームの池袋寄りは豊島区にある。 豊島区のホームに降り、北区のトイレに入り、板橋区の改札から出ることができる、面白い駅である。

・・・・・・・・・・・・・・私は豊島区で下車する。 出口は、はるか先、ホームの反対側の端にある。

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・・・・・・・・・・・・・・かつて、板橋駅では貨物の取り扱いを行っていた。 当時の面影が残る、雑草の生えた貨物引き込み線の跡。 中央のマンションがある位置に、コンクリート工場があり、引き込み線はそこまで伸びていた。

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・・・・・・・・・・・・・・ホーム脇には、保線用の車両が止められている。 マルタイは、線路の高さを調整しながら砂利を付き固める車両。 車両はオーストリアのプラッサー&トイラー社から輸入した高価な機械。

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・・・・・・・・・・・・・・東口(滝野川口)は北区。 駅の斜向うに近藤勇の墓 がある。

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・・・・・・・・・・・・・・西口(板橋口)は板橋区。

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②板橋宿
・・・・・・・・・・中山道(写真左の国道17号)の板橋郵便局前から、旧中山道の商店(写真右の商店街)が並んでいる。、、、、、今日は、この商店街の右奥の裏道を歩いてみようと思った。

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・・・・・・・・・・・・・・観明寺・・・・・・・・・商店街入口近くにある、真言宗豊山派の観明寺。 暦応元年(1338、=将軍:足利尊氏の時代)の創建。 千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請し、現在は出世不動と呼ばれている。 参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661、=江戸時代初期)に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古と言われている。

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・・・・・・・・・・・・T邸・・・・・・・・・・観明寺の隣り、商店街に面して建つ住宅。 塔のようなものもある独特の姿の住宅。 元は安田貯蓄の建物(明治時代の建築)で、大正元年に買い取り、歯科医院として使用していた。、、、、、、玄関には白く塗りつぶした看板が残っている。

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・・・・・・・・・・・・・花の湯・・・・・・・・・・T邸から1軒飛んで隣りに、大型唐破風の銭湯「花の湯」がある。 建物は比較的新しく、昭和42年(1967)に宮大工が建てたそうだ。、、、、、この銭湯の脇を通り抜け、商店街の裏を歩くことに、、、、、、

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③板橋3丁目の町
・・・・・・・・・・・・・板橋宿の商店街の東側が板橋3丁目である。 この裏通りは、私好みの路地が入り組んで、方向感覚が鈍ってしまった!

・・・・・・・・・・・・・・一雨降りそうな雲行きだが、この道を入ってみよう、、、、、、奥には、戦後の「昭和」の匂いが残っていた!

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・・・・・・・・・・・・・柳ビル・・・・・・・・・・3丁目の中程で遭遇したビル。 前を通ると、屋台が目に入った! 床屋さんは営業中だが、両隣は商売していないようだ。 チョイと上を見上げると、手摺はボロボロ、穴もあいてる、ひどい劣化! 住んでいる人も少ないみったいだ! 昭和40年頃の建築か?、、、、、気になる建物が一つ増えた! 

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・・・・・・・・・・・・・煉瓦塀・・・・・・・・・・板橋3丁目、王子新道のある、この辺りは、加賀藩下屋敷があったところだ。 なにか関連があるのか、それとも宿場町の遊郭か、それとも旧陸軍の関連施設があったのか、想像は尽きないが、立派な煉瓦塀があった。 塀の内側には大きなビルが建っているが、これまた、マンションか、オフィスか、、、、謎の多い、煉瓦塀である。

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④圧磨機圧輪記念碑
・・・・・・・・・・・板橋3丁目を抜け、加賀1丁目の加賀西公園の隅に、円盤状の石を組み合わせた、石の動輪のようなモニュメントがある。 これは、石神井川の際にあった旧加賀藩下屋敷の一部を陸軍の「砲兵校舎工廠」として、ここで火薬を製造した時の圧磨機の圧輪をそのまま記念碑として転用したものである。、、、、、、“バカでかい碾き臼のようなもので、これで蕎麦を挽いたら、うどん粉になるかも”と、考えるのは私だけ!

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⑤漆坊弁財天
・・・・・・・・・・板橋4丁目にある六叉路のような交差点のど真中に、ロータリー状の中央に「漆坊弁財天」として、個人によって再興された神社がある。、、、、その由来記には、『此の地三五の原に住んでいました私に、昭和三年の戌夜 与は此処加賀の下屋敷六万五千坪の弁天であるが今は跡形もなくなっている。そなたは此の地に再興せよとのお告げがありましたのでお祀りいたしました。   昭和十年区画整理の行なはれましたとき移転するようにと云われましたが、地主板谷様と話し合いの上 末代まで此の地でこの弁天様をお守りするよう申され今日に至りました。  その後私が屋敷内の草取りをしておりますと、熊手と斧を持った翁が来て、おばさん此の弁天様は漆弁天とあるが漆ボウ弁財天と申すのだ。そのボウは田宮坊来郎の坊である。今後は漆坊弁財天とせよと申され姿が見えなくなりました。   本富に有難い弁天様で幸運及び厄除けの御祈祷を致しています。   先達 岩本 一江』と、記されている。、、、、、、つまり、個人の一軒家がロータリーの中央に鎮座している、珍しい家だ! 

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⑥埼京線
・・・・・・・・・・・・ぐるりと板橋3・4丁目を回り、中山道(国道17号)が埼京線を跨ぐ跨線橋の上に出た。 
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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・このあと西巣鴨駅まで歩き帰宅。

2015年6月28日 (日)

南千住~三河島

隅田川駅と貨物線でも見てこようと家を出たが、南千住駅に到着するや否や、目の前を通過した可愛い娘に方向を託して変更した。 南千住・荒川の裏道・路地裏散歩となり、お隣の三河島駅まで歩いてきた。 1万1千歩、8km。


①南千住駅
・・・・・・・・・・南千住駅は、JR東日本(常磐線)・東京メトロ(日比谷線)・つくばエクスプレスの駅である。 3線も乗り入れてるが、一日当たりの乗降客数は少なく、JRが32,000人、東京メトロが27,000人、つくばエクスプレスが9,000人、合計68,000人である。 ちなみに、私の住む浅草橋駅は、JRが106,000人、都営浅草線が56,000人、合計162,000人である。勝った!、、、、、今上天皇は、南千住駅からつくばエキスプレスに2回乗車したことがあるそうだ、浅草橋駅には来たこともない、負けた!・・・・・・・・駅の東側には隅田川駅が広がっている。

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②狭い前面道路
・・・・・・・・『何でこんなに狭いの?』と、言ってしまいそうな、幅1m程の前面道路(勝手口のある裏道ではない)に、民家が並び立っている。

・・・・・・・・・・・・・南千住5丁目にて・・・・・・・・・中程には、アパートもあるのだが、この幅では大きな家具を運び込むのも難しそうだ。、、、、、、私も、撮影に苦労したね。

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・・・・・・・・・・・・・南千住6丁目にて・・・・・・・・・・消防車も入れず皆さん火災には注意しているようだ。 細い道の両端は、消防車の入れる広い道路で、ここからホースをひいて放水できそう。

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③ハトヤ
・・・・・・・・・・・南千住署の東側の裏道に、コカコーラとスプライトの間に『日用品 雑貨 ハトヤ』と書かれった看板があった。 木造平屋の店舗に大きな看板、下町に戦後の「昭和」が残っていた。 店はもちろん閉じられている。、、、、、、夕方、割烹着姿の主婦が、買い物籠をさげて立ち寄った店であろう、、、、想像できるね!

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④南千住1丁目の建物
・・・・・・・・・来るたびに変わる姿は、チョイと寂しいね!

・・・・・・・・・・・・・裏通りに残る木造4軒長屋。 

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・・・・・・・・・・・・・下町の風景に変化を与えるマンション

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・・・・・・・・・・・・・・左隣のおじさんが、右隣のおばさんに、『一緒にカラオケに行こうよ。』と、気さくに声を掛ける町。

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・・・・・・・・・・・・・下町の裏通りで昭和30年(1955)から続いているという珠算学校。 現在は、道の向かい側に教室を移したようだ。 

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⑤荒川1丁目の路地
・・・・・・・・・・南千住署の前の通りを西へ300m歩くと荒川1丁目となる。 ここに「婦人服お仕立てします この奥3軒目 ふみ」の立て看板が目に入り、チョイと覗いてみるか?、、、、、フラフラと路地に入り込んで行くと、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・玄関に生地を飾った住宅があった。ここだな、誰もいないようだ、、、、、さらに奥へ、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・路地の交差点に手押しポンプがあった。 これは、炊事・洗濯に使用したと思われるポンプだ、今は水道を使用している、、、、、これも、懐かしい下町の風景だ!
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・・・・・・・・・・・・・さらに奥には、アパートが、、、、、疲れた建物だ、いまどき珍しい外の共同洗濯場もみえる、、、、どのような人が住んでいるのか、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・アパートを過ぎ、路地を先へ進み、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・出たところは、南千住署の前の通りで、何度も歩いたことのある仲村整形外科医院の前!(荒川1丁目)、、、、、私は“コ”字形に歩き、来た道に戻ったのだ。、、、、、チョイと話をすると、こちらの外科の初代院長先生は名医で、特に腰痛にたけ、大橋巨泉も診てもらったそうである。、、、、ついでに、建物は平成20年(2008)に改修してよりモダンになった。
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N邸
・・・・・・・・・・外科の隣りの住宅。 今年4月にも、この邸宅前を歩いた、、、、

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⑦洗濯日和
・・・・・・・・・・・・イヤでも、洗濯物の下を歩かされる裏道、、、、、

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⑧荒川二丁目付近の都電
・・・・・・・・・

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⑨「皇太子殿下御降誕記念」国旗掲揚塔
・・・・・・・・・・・「荒川二丁目」停留所近くに残る、昭和10年(1935)建立の「皇太子殿下御降誕記念」のアールデコ風の国旗掲揚塔。・・・・・・・今上天皇が誕生したのは、日本が国際連盟を脱退した昭和8年12月23日である。 地元商工会結成10周年記念に建てた、当時は国民の祝賀ムードも最高潮となったのであろう。

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⑩宮地稲荷
・・・・・・・・・・・JR三河島駅近くの荒川3丁目にある稲荷神社。 別名三河島稲荷ともいわれる。 天正7年(1579)の創建と伝えられている。・・・・・・・・この神社のある三河島の地では、かつて「三河島菜」と「三河島枝豆」と呼ばれる、菜と枝豆が栽培されていたそうだ、しかし農地の消滅とともに菜も豆も消えたそうだ。、、、、、、、「菜も枝豆も 子種遺せず 名だけ残して 三河島」

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2015年6月26日 (金)

TOHOシネマズ新宿・ミラノ座

新宿に所用で出かけ、帰りにチョイと夫婦で歌舞伎町に寄ってみた。


①TOHOシネマズ新宿
・・・・・・・・平成20年(2008)、業績悪化と建物の老朽化により、新宿コマ劇場と隣の新宿東宝会館が閉館した。 その跡地で平成24年(2012)に新宿東宝ビルの建設工事が始まった。 今年(2015)3月、工事は竣工し、4月から開業した。 地上31階地下1階建て、高さ130m、延べ床面積は55,390平方メートル、竹中工務店の設計・施工による、歌舞伎町のランドマークとなるビル。 1・2階には飲食店ほかテナントが、3~7階に「TOHOシネマズ新宿」が、9階~31階が970室をそなえる「ホテルグレイスリー新宿」である。 ゴジラは8階屋上から見下している。

・・・・・・・・・・・・・セントラルロード(靖国通りとの交差点)側から見ると、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・今日は雨なので、今年4月に撮った写真では、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・ミラノ座側から撮ると、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・上の写真と同じ位置から、壊される前のコマ劇場(右)と東宝会館(左)、、、、、平成22年(2010)、ミラノ座側から撮影

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・・・・・・・・・・・・・ホテルはお泊りの予定もないので、チョイとシネマコンプレックスのTOHOシネマズ新宿の内部を見て行こう、、、、、と、気の弱い夫婦が、ゴジラの下のビルに入ってみた、、、、(歌舞伎町では、“ぼったくり”注意の放送が街中で聞こえていた。 親切だが、うるさいね!)

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・・・・・・・・・・・・・・3階のチケット売り場に向かう、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・3階から見下りしながら、私が『ここ一年、夜の歌舞伎町、来てないな、、、、楽しそうだな、、、、』。 すかさず妻は『夜はダメ、止めときな、、、、』と、身体を心配して? ぼったくりを心配して? それとも・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・ナント! デジタルプロジェクター対応の全12スクリーン、総座席数約2500席をようする都内最大級のシネマコンプレックスで、チケット売り場も広い。

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・・・・・・・・・・・・・スクリーンはこちらの方です、、、、、、正直言って、私には、なじめない雰囲気だ、、、、映画館は、入り口横の切符売り場で、おばさんから買い、、、小便+タバコくさい空気の世界に入り、、、薄暗い通路で目の慣れるのを待ち、空いた席を探し、、、硬い座席に座り、観るものである・・・・・・こんな雰囲気では成人映画は見られないね!

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②ミラノ座
・・・・・・・・・・「シネシティ広場」と言われた空間を挟み、コマ劇場と対峙していたミラノ座。 私が大学生の頃は、よくロードショウを見に行った映画館である。 先日、古い学生手帳を見ていたら、手帳の間からチケットの半券が数枚落ちてきた。 思い出多い映画館である。、、、、、どうやら、取り壊されるようだ、懐かしさと、寂しさを感じたね。・・・・・・・昭和31年(1956)、座席数1500の映画館「ミラノ座」が営業を開始した。

・・・・・・・・・・・・・・「シネシティ広場」を通して、ミラノ座を見る、、、、、下の写真は5年前の同じ場所。

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・・・・・・・・・・・・・・「58年間 ありがとうございました」の看板も、雨でぬれ、汚れ、いずれ全てがなくなるのだ、、、、私が『学生の頃は、この辺りは映画館が何軒もあった。 ミラノ座・昭和館・武蔵野館、、、、』 妻の一言『そう、、、、、』 ・・・・・・・?

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・・・・・・・・・・・・・5年前のミラノ座、、、、営業中です

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●・・・・・・・・・・・・オープンしたばかりのTOHOシネマズ新宿、壊されていくミラノ座、、、、私には、思い出もあるミラノ座を残して欲しかった。、、、、感傷的な親爺になったのか、、、、でも、歌舞伎町を歩いていると、若い娘に目がチラチラ、、、、新宿駅まで来たら、感傷的な親爺から助平親爺に変身、、、、ああ~~、ライザックに行って若返りたいね!

2015年6月25日 (木)

浦安

地下鉄東西線の葛西駅から西の葛西橋へ向かう予定が、葛西駅前でコロリと気が変わり、東の浦安橋に足が向いた。 結局、葛西駅から浦安駅までの一駅間、1万歩、7㎞の散歩となった。


①葛西駅
・・・・・・・・・・・・昭和44年(1969)、東西線の東陽町~西船橋間延伸開業時に、同時開業した駅。 中央に通過線2線がある、2面4線の相対式ホームの高架駅。 高架下には「地下鉄博物館」がある。、、、、、

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②自性院
・・・・・・・・・・江戸川区東葛西の1丁目と2丁目の境に、複数の社寺が集まっている。 その一つ、真言宗豊山派の自性院(じしょういん)は、覚王山神宮寺と号し、古刹である。 良範法印(文亀元年(1501)没)が中興したと言われている。

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・・・・・・・・・・・・・山門前には、寛文8年銘がある「観音菩薩像庚申塔」がある。 中国の道教に由来する三尸(さんし)は、人間の体内にいて、60日ごとの庚申の日の夜に、眠った人の体内から抜け出して天帝に罪過を告げにいく虫と信じられている。 江戸時代の庚申信仰の本尊として悪疫を退治する青面金剛が刻まれているものが多いが、初期には阿弥陀や地蔵、観音なども刻まれていた。

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③浦安橋
・・・・・・・・・・・・・江戸川区と千葉県浦安市を結ぶ道路橋。 初代の橋は昭和15年(1940)に架けられたが、橋の老朽化と交通量の増大により、昭和53年(1978)に現在の浦安橋に架け替えられた。、、、、、浦安橋が架けられる以前は、近くに「堀江の渡し」と「浦安の渡し」が運行されていた。

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・・・・・・・・・・・・・浦安橋から旧江戸川の上流を眺めると、右手に浦安市、左手に中州の妙見島がある。

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・・・・・・・・・・・・・・浦安橋の下流側 50m程のところに、かつて「浦安の渡し」の船着き場があった。 その地点から撮った東西線の江戸川第一橋梁。、、、、昭和43年(1968)完成、長さ145mのランガートラス橋。

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④境川西水門
・・・・・・・・・・江戸川第一橋梁の下流で、旧江戸川から境川が分かれている。 この川は、かつて、漁師町だった浦安の面影を残していたそうだが、今はかすかに残っている程度。 その分岐点(浦安市堀江4・猫実5)に西水門がある。 昭和41年(1966)、西松建設の施工で完成した。、、、、この水門の際に「堀江の渡し」があったそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・境川・・・・・・・・・・・浦安と言えば漁師町、その船を係留した川で、浦安の象徴である境川。、、、、、、昭和40年代まで2000艘近くの船が係留されていたそうだ。

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⑤清瀧神社
・・・・・・・・・・・清瀧神社は御祭神に大綿積神(海の神)を祀っり、浦安市堀江に鎮座する神社。 建久4年(1196、=鎌倉時代)の創建。 清瀧神社の本殿は、安政2年(1855)に造営されたもので、棟梁の肥前松五郎が手掛けたそうだ。 ちなみに拝殿は明治29年(1896)の建立である。、、、、、神社も夏越の大祓いの準備で忙しそうだ!

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⑥堀江水準原標石
・・・・・・・・・・清瀧神社境内にある「堀江水準標石」は日本最古の水準標石で、近代水準測量の出発点とされています。 土木学会が定める「土木遺産」に認定されている。、、、、、、堀江水準原標石は40㎝ぐらいの方形の中央に10㎝程の正方形の突起が出ている基準石で、境内の隅に囲われ雑草に埋もれて鎮座している。、、、、、明治5年内務省の招聘でオランダ人技師リンドが江戸川を測量するに当たり、水準(高さ)の基準をここに設けた。 これが、近代水準測量のはじまりである。、、、、、、現在の水準測量は、日本水準原点 霊岸島量水標 、油壺験潮場を基にして決定している。

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⑦宝城院
・・・・・・・・・・・・・清瀧神社の隣に、真言宗豊山派の宝城院がある。 

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・・・・・・・・・・・・・境内の案内板によると、庚申塔は、高さ1.18mで、青面金剛が邪鬼を踏みつけて立ち、足下には、三猿と四夜叉を配し、両側に日月、雌雄の鶏と童子を配した、庚申塔の典型ともいえる貴重なものらしい。

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・・・・・・・・・・・・・格子戸越しに、庚申塔を拝見し、“さて、旅立つか!”と思ったら、ちょうどお寺に来ていた電機屋さんが、『おびんずる、を見て行きなさい。 私が寺に話してあげますから、、、』と、言うことで、本堂に安置されている「おびんずる」を見て来た。 江戸時代後期の文政7年(1824)、大仏師西山浄慶・西山清八によって作られたもの。・・・・・・・・「おびんずる」とは、お釈迦さまの弟子である十六羅漢の一人で「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」のこと。 日本では、本堂の外陣に安置し、一般の人が直接触れて参拝することができるようにしているところが多い。 参拝人は、治したい患部と同じところを撫でて回復を祈願すると、病が治ると信じられ、「撫で仏」とも言われている。 天神様の「撫で牛」と同じ発想である。、、、、、私の場合は、全身を撫で、ライザップに行ったように、筋肉質のテカテカノ身体にしたいね。

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⑧旧宇田川家住宅
・・・・・・・・・・・・・・宝城院の後、近くの商家「旧宇田川家住宅」を、見ていくようにすすめられたので、こちらも拝見。・・・・・・・・・・・・明治2年(1869)に葛飾県葛飾郡堀江村(現在地)に建てられたもので、道路に面した店舗部分と裏の住宅部分からなり、「藤村屋」と称して、米屋・呉服屋・雑貨屋・油屋などの商家(現在のスパー)として使われた。 幕末から明治に至る江戸近郊の町家の形をよく伝えており、商家遺構の少ない関東地方では特に貴重な建物であることから、浦安市の有形文化財として公開されている。

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⑨旧大塚家住宅
・・・・・・・・・・・旧宇田川家住宅を案内してくれた、50歳ぐらいのお嬢さんが、近くの路地を入った川べりの「旧大塚家住宅」も、ぜひ見て行っての御言葉を頂戴し、こちらも拝見することにした。・・・・・・・・・旧大塚家は、境川に面して建つ漁業と農業を営んでいた、浦安では比較的大きな規模の住宅。 木造平屋建、寄棟造、茅葺の建物は江戸時代末期と推定されている。 間取りは中央に板敷きの大きな居間があり、境川側に土間がある。 また、屋根裏の2階には、度重なる洪水の際に家財道具などをしまう物置としての工夫がなされている。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・拝見が終わり、イザ帰るか、、、、案内してくれたお嬢さんが、『近くに古い商家(旧宇田川家)があるので、帰りに寄ってみてください。』の一言、、、、、アレレ、また振出しに戻るのか?、、、、、でも、皆さんよく声を掛けてくれ、感謝してます、ありがとう!

●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩は浦安の観光地巡りになったようだ! ちかくで、「焼き蛤」を土産に買ってきた。

2015年6月24日 (水)

西馬込~蒲田

都営浅草線の終着駅:西馬込で下車し、池上本門寺には寄らず東側を回って、京浜東北線蒲田駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。


①西馬込駅
・・・・・・・・・昭和43年(1968)、都営1号線(現:浅草線)の終着駅。 朝の通勤時はサラリーマンの始発駅で、ゾクゾク、セカセカ、急ぎ足で駅に吸い込まれていく。

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②馬込車両検修場
・・・・・・・・・・西馬込駅から南へ300m程行くと、平成12年(2000)に発足した馬込車両検修場がある。 浅草線の車両基地。、、、、、西馬込に来ると、私は、通勤時間帯で、電車が少なくなり線路ばかりの、この基地を見たくなる。 今日もゆっくりと、検修場の中央を横断する「どどめき橋」から拝見!

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・・・・・・・・・・・・・E5000形・・・・・・・電車のいない検修場、留守番するのはE5000形電気機関車。 この電気機関車、、、、何に使うと思いきや?、、、、、2両1組で、大江戸線の電車を、検査するためこの基地まで引いてくるのである。 レール幅は浅草線、大江戸線とも、同じ1435㎜であるが、駆動の仕組み、車体の大きさ、パンタグラフも異なってるため、この専用電気機関車で大江戸線の車両を運んでくる。 ちなみに、大江戸線と浅草線は、新橋~大門間に、平成18年(2006)「汐留連絡線」が開通している。、、、、オタクしか知らない謎のトンネル!

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・・・・・・・・・・・・・・道々女木橋・・・・・・・・・人読んで“どどめきはし”、検修場構内を横断する跨線橋。 “道々、木の前に女が立っている”、艶めかしく、悩む名前だ! 橋を渡ると、木の陰から美女が手招きし、、、、、、てなこと、想像して、胸はとどろき、心ときめき、狐狸でもいいからと期待すれども何もなし。 ちなみに、「道々女木」とは、かつて耕地であった、池上本門寺の北側の地名である。

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③本門寺北側の町並
・・・・・・・・・・・本門寺北側にチョコット池上1丁目の住宅地がある。 静かな住宅地、本門寺の山を下る坂、塔頭の並ぶ細い道、、、、、、住んでみたい処かも?

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④洋館もどきのアパート
・・・・・・・・おや! 洋館かな?と、どきっとした建物が池上1丁目にありました。 平成元年(1989)築、木造2階建て、全9戸のアパートだった。

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⑤堤方橋
・・・・・・・・・・・池上通りが呑川をこえる位置に架かる堤方橋(つつみかたはし)。 平成2年(1990)の竣工。、、、、、橋から、本門寺の山が見える。

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⑥都営池上5丁目アパート
・・・・・・・・池上5丁目の都営住宅。 昭和44年(1969)から昭和46年(1971)にかけて建設された総戸数211戸の団地。 とこにでもありそうな団地である。、、、、、、ところで、この団地の自治会名は、、、「女塚団地自治会」らしい。 なぜ、アパート名と異なるの? ひょっとしたら、女好きの役員でもいたのか、、、私も気になり、団地内の若いママ二人に聞いてみた、、、『えっ! そうなんですか! 知りませんでした。 でも近くに“おなづか小学校”てありますよ。』、、、、そう、この辺りの旧地名は「女塚」だった、 団地が建つ前の、昭和42年(1967)の住居表示で消滅した地名を使用していたのだ。、、、、いい地名だったね!

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⑦蓮沼熊野神社
・・・・・・・・・・熊野神社の創建年代は不詳であるが、隣にはもと別当寺で、寛弘年中(1004-11)に創建された蓮華寺がある。 蓮華寺と熊野神社の創建年代は同時期と推定されている。・・・・・・・・祭神は伊邪那岐命で、社は銅葺の権現造、鉄筋コンクリート造、昭和42年(1967)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・・鳥居の隣りには、綺麗に手入れされた蓮華寺の山門がある。

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・・・・・・・・・・・・・・・手前の熊野神社と屋根が並ぶ蓮華寺

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⑧蒲田駅
・・・・・・・・・・・明治37年(1904)に東海道本線の蒲田駅として開業し、大正3年(1914)には京浜線(現:京浜東北線)が運行した。 大正時代には、池上電気鉄道線(現:東急池上線)の蒲田~池上間が開通。目黒蒲田電鉄(現:東急多摩川線)の蒲田~沼部間も開通した。・・・・・・・・・西口の駅ビル(現:グランデュオ蒲田)は昭和45年(1970)の竣工で、ちょうどその頃、私も仕事でこの近くで寝泊まりしていた、思いでのある駅だ!、、、、、ホームでは「蒲田行進曲」がチャンチャカチャンチャカと、発車メロディーに送られて、またね~~

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2015年6月22日 (月)

北新宿1・2丁目

先月、新宿区北新宿3・4丁目 を歩いたので、今日は北新宿1・2丁目の裏道をタップリ歩いてきた。 大久保駅で下車し、歩き回って大久保駅までの、1万3千歩、10㎞。

・・・・・・・・・・・・北新宿1・2丁目、、、、、、都庁・副都心の高層ビルがある西新宿の北側に位置する住宅街。 1・2丁目は、ほぼ長四角な地域で、東側は小滝橋通り(さらに東に中央線の大久保駅がある)、北側は大久保通り、西側は神田川、南側は通称:抜弁天通りと呼ばれる都道302号線(靖国通り)の支線が通っている。 昭和46年(1971)の住居表示以前は「柏木(かしわぎ)」と呼ばれていた地域の一部で、アパートの密集する住宅地である。


①大久保駅
・・・・・・・・・・明治28年(1895)に甲武鉄道の駅として開業。 昭和6年(1931)に現在の高架駅となる。、、、、、北口改札天井のステンドグラス、ホームの木造の上屋、高架部分のデザイン、南口改札の古レールなど、駅の歴史を感じさせるね。

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②北新宿1丁目の路地
・・・・・・・・・・未舗装で敷石が並ぶ道。 両側で10数軒が使用している私道だ、奥には鍼灸医・アパートもある。 本日の『いいね』、其の一。

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③北新宿のマンション
・・・・・・・・・・“マンション”と言えば、昭和30年・40年代の公営住宅より、見映えが良くて、規模の大きな集合住宅をイメージしてしまう。 それは、最近の建築によるマンションで、ここ「北新宿」では、そのイメージが狂う。 戦前からの木造アパート“○○荘”を戦後の早い時期に建て替えたため、敷地・間取りは戦前の延長上で考え、いち早く鉄筋コンクリートで改築した。 ついでに、名称も“○○アパート”、“○○ハイツ”としたようだ。、、、、、、早いはなし、古い(昭和30~40年代の築)、小さな(3~4階建て、戸数10戸前後)、鉄筋コンクリート造りのマンション(?)が裏道のアッチャ、コッチャに建っている。

・・・・・・・・・・・・・KAビル・・・・・・・・・1階は劇団の小劇場、2階には音楽教室もある4階建てのビル。 このビルは総戸数:11戸のマンションである。 昭和35年(1960)の建築。

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・・・・・・・・・・・・・新宿エンゼル・・・・・・・・こちらは、3階建て、8戸ほどのマンション(アパート)。

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・・・・・・・・・・・・・大久保マンション・・・・・・・・・“公営住宅”と思いきや、民営の「大久保マンション」でした。 RC(鉄筋コンクリート)造、4階建、総戸数28戸、1戸の専有面積は約60㎡である。 昭和39年(1964)に大林組の施工で建てられた。、、、、、洗濯物が干されているのを見ると、ほぼ満室状態だ!   
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・・・・・・・・・・・・・今西ハイツ・・・・・・・・・・チョイとデコレーションケーキを思わせるマンション。 そうだ、“秀和○○レジデンス”にも似てるね!、、、、、地上5階、鉄筋コンクリート造、昭和45年(1970)の建築。

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・・・・・・・・・・・・・富山マンション・・・・・・・・・昭和45年(1970)築。 3階建て。

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・・・・・・・・・・・・・北新宿ハイツ・・・・・・・・築年、かなり古そうだ、調べられなかった。 某宗教団体の文化会館裏手に建つマンション。 マンションの2階が道路面と同じ高さで、1階には階段を下る。 約10戸程の規模。

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・・・・・・・・・・・・・・鶴マンション・・・・・・・・昭和63年(1988)に建てられた、鉄骨造、3階建て、全4戸で、間取りは全てワンルーム。、、、、、家主さんが1階に住んでるようだ、チョイと下宿風のマンション。

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・・・・・・・・・・・・・近鉄柏木ハイツ・・・・・・・北新宿は、毎日のように、小さな新しいマンションが建っている。 その中で規模が大きく、周囲を見下しているマンションが、、、、、こちら、地下1階地上9階建て、総戸数268戸、昭和47年(1972)に、大林組の施工で建てられたマンション。、、、、、屏風のようにギザギザの外観は、屏風のように視界を遮っている。

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・・・・・・・・・・・・・そして、町の中央部では、広い敷地に5階建ての共同住宅を数棟配した、ロイヤルパークス柏木新築工事が進んでいる。、、、、景観に配慮して、低層住宅となったのか?

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④蜀江坂
・・・・・・・・・・北新宿1丁目と2丁目の間を、南から北に向けて上る蜀江坂(しょっこうざか)。、、、、、、標識の説明では、『かつてこの辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は、天慶の乱の時平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に三代将軍家光が鷹狩でこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したからだという。』、、、、、今や、鷹狩も紅葉も見ることのできない坂となった。

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⑤北新宿2丁目の路地
・・・・・・・・・・柏木小学校の南側に、私を誘う裏道がある、、、、、手招きしているようだ!
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・・・・・・・・・・・・・・道は細くなり、いい雰囲気になってきた!

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・・・・・・・・・・・・・・奥にはビルが建っている、チョイと雰囲気は変わったね!

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・・・・・・・・・・・・・・道は階段に変わる、、、、、車は入れない!

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・・・・・・・・・・・・・・道は“コ”の字に曲がり、風呂屋の煙突が見える、手前に階段がある、、、、

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・・・・・・・・・・・・・階段を下り、もとの道に戻る、、、、、楽しいが、短い時間のワクワクの探検でした!

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⑥綺麗に咲いていました
・・・・・・・・

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⑦淀橋咳止地蔵尊
・・・・・・・・・・蜀江坂を下り、抜弁天通りにぶつかった角に、宝永5年(1708)の建立と伝えられる地蔵尊が祀られている。 こちらの地蔵尊は、咳止め、子供の虫封じに霊験があるといわれてる。、、、、、、龍角散と宇津救命丸を足した効果があるようだ。

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2015年6月20日 (土)

東武亀戸線

数日ぶりの晴天。 『よし、散歩にでも行くか。』と思いきや、家族が風邪のため病院への付き添いで午前中の散歩はパー。 夕食前の散歩となり、東武亀戸線の全踏切を完全踏破すべく家を出た。 曳舟から線路沿いに亀戸まで、1万1千歩、8kmの散歩です。、、、、、亀戸線を目的に歩くのは3年ぶり。

東武亀戸線・・・・・・・・・・・明治30年(1897)に設立した東武鉄道は、当初、本線の東京側の起点を越中島として計画された。 しかし、免許がすぐに下りなかったため、明治35年(1902)、まず北千住~吾妻橋(現:とうきょうスカイツリー)駅間が開業した。 その間に免許が下り、越中島への延伸に向け、曳舟~亀戸駅間が明治37年(1904)4月5日に開業した。 これが現在の亀戸線の誕生日である。 開業と同時に、総武鉄道(現:JR総武本線)亀戸 - 両国橋間への直通運転も行われた。 しかし、その後は、市街地化により用地取得が困難になったり、震災、空襲などで、ナンダ・カンダ・トンダ・モンダで計画は未達に終わった。 現状は、路線距離:3.4km、駅数:5駅(両端の駅含む)、単線の曳舟駅構内を除き全線複線電化、2ないし3両編成の8000形の電車が運行している。 “東武のローカル線”である。


①曳舟駅
・・・・・・・・・・明治35年(1902)、開業。  明治37年(1904)、現:亀戸線区間の開業。 現在は3面5線の高架駅。 高架下では耐震補強工事中。

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②曳舟川通り跨道橋
・・・・・・・・・・曳舟駅を出た亀戸線は伊勢崎線と並走して、まず曳舟川通りの跨道橋を通過する。

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③伊勢崎線と分かれる
・・・・・・・・亀戸線は跨道橋を通過すると、地上(写真:中央の地上線)を走り、京成押上線(写真:左の高架)の下をくぐる。 伊勢崎線は高架で押上(写真:右の木の陰の高架)に向かう。、、、、、この辺りは、京成の押上~八広間連続高架化工事のため、足場・資材・構造物が入り乱れた状態で、説明するのも、ややっこしい!

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④亀第1号踏切・・・・・・・・・・・亀戸線の踏切は曳舟側から順に、『亀第○号踏切』と名付けられて亀戸まで続く。 1号踏切は、押上地区から京島地区を抜けて明治通りに向かう「四ッ目通り」にある。

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⑤亀第2号踏切から9号踏切まで、一挙公開!・・・・・・・写真の順に、2号、3号、、、、、9号

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⑥小村井駅
・・・・・・・・・・・・小村井駅(おむらいえき)は、9号踏切と10号踏切に挟まれている。 駅舎は10号踏切の脇にあり、前は「明治通り」である。 

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⑦亀第10号踏切
・・・・・・・・・・・・明治通りにある踏切。

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⑧亀11号踏切
・・・・・・・・・・・曳舟から順に、順調に、順番通り、順序良く、撮影してきたが、『あれ! 11がない、撮影の落としか、私のお歳か、東武鉄道のミスか?』 私は、慌てふためいたが、死んで償う気になれず、帰宅した。、、、、、帰宅後、調べてみたら廃止された踏切らしい。 現在は欠番となっている。、、、、、、と、言うことで、写真は無いが、一件落着。


⑨亀12号踏切、13号踏切
・・・・・・・・・・・

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⑩東あずま駅
・・・・・・・・・・昭和3年(1928)、平井街道駅として開業。 昭和20年(1945)に駅は廃止され、その後、昭和31年(1956)に東あずま駅として再開業。、、、、亀戸線のほぼ中間に位置し、上下線のすれ違いが、この駅の付近で見られる。、、、、、駅には構内踏切があるが、この踏切はカウントしない。

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⑪亀14号踏切
・・・・・・・・・・・構内踏切の脇に、14号踏切がある。

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⑫亀15号踏切
・・・・・・・・・・・

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⑬亀16号踏切、17号踏切と十間川の鉄橋
・・・・・・・・・・・スカイツリーの下を流れ、旧中川と隅田川を結ぶ運河「北十間川」に架かる鉄橋を亀戸線は渡る。 その鉄橋を挟むように両端に16号、17号踏切がある。

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⑭「蔵前橋通り」の下をくぐる
・・・・・・・・・

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⑮亀18号踏切
・・・・・・・・・・亀戸水神駅前の踏切が第18号である。

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⑯亀戸水神駅
・・・・・・・・・亀戸天神は商売繁盛で天にも昇る勢い、亀戸水神は水に流されたのか忘れ去られた神社。 駅も地元の人が利用する程度だ。 昭和3年(1928)開業。 こちらも、構内踏切(カウント外)がある。

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⑰亀19号踏切
・・・・・・・・・・・

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⑱旧亀戸水神駅・・・・・・・・・19号踏切と20号踏切の間に、旧亀戸水神駅のホーム跡が残っている。、、、、、現:亀戸水神駅は、かつて隣駅として存在していた北十間駅と旧亀戸水神駅を統合して、戦後に、両駅の中間に設けられた駅である。・・・・・・・遺構は、線路際にコンクリートで造られた四角い基礎のようなものが等間隔に並んでいる。

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⑲亀20号踏切、21号踏切、22号踏切
・・・・・・・・・・亀第22号踏切が最後です。これにて、全踏切を制覇した!

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⑳亀戸駅
・・・・・・・・・・終点の亀戸駅は1面2線の地上駅。 

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2015年6月17日 (水)

浅草橋~八広

我が家(浅草橋)から、蔵前橋、業平、京島を抜けて、京成押上線八広駅まで、1万3千歩、10㎞の散歩です。


①メタセコイア・
・・・・・・・・・・浅草橋2丁目に、身長30m弱の「メタセコイア」の木がある。 江戸通り(国道6号)に面するビルの一角に、平成元年(2013)に植えられたもの。 ビルの竣工記念に植樹し、その年の台東区緑化コンクールで最優秀賞を受賞した。、、、、、この辺りは、徳川幕府の米蔵が354戸ほど軒を連ね、貯蔵米は62万5千俵程あったそうだ。 このビルが建つ敷地には“札差”が店を構えていた。

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浅草御蔵跡碑・・・・・・・・・・・蔵前橋の台東区側の際に碑はある。 碑の案内には、、、、「浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。 大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。 浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。 元和六年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋2丁目、蔵前1・2丁目にかけての地域(旧蔵前国技館の跡地周辺)を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716~1736)頃までに浅草御蔵に吸収された。 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。 現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和9年のことである。」と、書かれている。

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・・・・・・・・・・・・・・蔵前橋から見ると、、、、、御蔵の跡には、現在は北部第一下水道事務所(写真のレンガ色のビル)、蔵前変電所 (レンガ色のビルの右隣)などが建っている。

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③蔵前橋
・・・・・・・・・・震災復興橋として昭和2年(1927)に竣工した。 橋長:173.2m、形式:3径間連続上路式スチールアーチ橋、設計:井浦亥三(復興局)、施工:石川島造船所、総工費175万円(昭和元年の物価 白米(10キロ)3円20銭)。・・・・・・・・・・・“黄色の橋”の欄干には、力士と芸者の透かし彫が、旧蔵前国技館と柳橋花柳界を想像させる、いいね!

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④若宮牛嶋神社
・・・・・・・・・・・蔵前橋を渡り、墨田区本所2丁目の若宮公園に隣接して若宮牛嶋神社がある。 江戸時代、牛嶋神社(本社、墨田区向島1)は、三代将軍家光から当時の本所石原町の土地が寄進された。神社は、祭礼の神輿渡御の旅所とし、この地に仮宮を建てたことに始まる。 その後、地名は若宮町と変わり現在は若宮牛嶋神社と称している。

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⑤柳島妙見堂
・・・・・・・・・・柳島の妙見様と古くから慕われている法性寺。 日蓮宗の法性寺は明和元年(1492)開基の墨田区でもっとも古い寺院です。 北辰妙見大菩薩を奉安した妙見堂がある。・・・・・・・・建物は全て、マンション、ビルに変わり、古き時代の面影はない。 

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・・・・・・・・・・・・・建物の周囲には、吉運を開いた人物、近松門左衛門、豊国筆塚、落語柳家などの碑が多数ある。 

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⑥十間橋
・・・・・・・・・・・妙見堂の前、北十間川に架かる橋。 スカイツリー工事中は、スカイツリーの見える橋として、連日、観光客、カメラマンが押し寄せていた。 今は、誰も来ない寂しい橋となった。 全長19.6m、幅15m、業平5丁目と文花1丁目を結ぶ橋で、昭和14年(1939)に架けられた橋。

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⑦京島の町
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・十間橋を渡り、押上の町から、東武亀戸線 の踏切を越えると京島地区になる。

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・・・・・・・・・・・・・・今日は、昭和の下町、匂いプンプンの京島 の町をブラブラせずに横切り、先へ進む、、、、、、

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⑧八広駅
・・・・・・・・・・・・京島地区、八広地区を抜け、八広駅へ向かう。 散歩はここまで、家に帰る。

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2015年6月15日 (月)

氷川台~江古田

今日は、飯田橋駅から有楽町線に乗り、さて、どこで下車しようか?、、、、私にはなんの思い出も、話題もない、氷川台“駅”で下車してみた。、、、、地下鉄有楽町線氷川台駅から西武池袋線江古田駅まで、1万歩、8kmの散歩です。


①氷川台駅
・・・・・・・・昭和58年(1983)、営団地下鉄有楽町線の池袋~成増間開業時に、氷川台駅は開業した。

・・・・・・・・・・・・「氷川台」なる駅があることは承知していたが、東京に住んでいて、開業後32年経ち、初めて下車した駅。 多少、ワクワクしてホームに降りたが、「なんだ、他の駅とあまり変わらないね。」、、、、、チョイと、落胆!

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・・・・・・・・・・・・・・改札口は地下1階に1か所のみ。

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・・・・・・・・・・・・・・出入口は2か所。 出入口の真ん前には、屋台村がある。、、、、夜は提灯も灯り、地下鉄から上ってくるサラリーマンを迎える店だ!

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②正久保橋
・・・・・・・・・・・氷川台駅の出入口は、正久保橋(まさくぼはし)際に位置している。 石神井川に架かる、現在の正久保橋は昭和58年(1983)に架け替えられたコンクリート桁の橋である。 橋上を通るは、「正久保通り」(都道441号)。 この道を南下すると、江古田駅に達する。

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③桜台の裏道
・・・・・・・・・環七通りにぶつかる桜台駅付近まで、正久保通り(練馬区桜台3丁目)の裏道を歩いてみた。、、、、一般の住宅、アパートが静かに建ち並ぶ住宅街。

・・・・・・・・・・・・・・正久保通り、、、、、、車は少ない、見て楽しいものもなさそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・チョイと裏道に入ってみた、、、、超大金持ちも、芸能人も住んでいないような住宅街。

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・・・・・・・・・・・・・・出たところは環七通り、、、、、『あっ! 新桜台駅だ!』、駅を見て2年前に歩いた道を思い出す。

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④茅原浅間神社
・・・・・・・・・・江古田駅の北側に、茅原(かやはら)浅間神社がある。 創建年代不詳。 社伝によると、、、、承平元年(931、=朱雀天皇の時代)、夏山の茅原浅間に雪が降り、山の姿がいかにも富士山に似ていた。 村人たちが登ったところ、御神体と思われる石があり、これを拝して「富士の大神」と崇めたことに始まるという。

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・・・・・・・・・・・・拝殿の裏側に、天保10年(1839)に築かれた高さ8mの富士塚がある。、、、、、小さくとも富士山なので、登山は正月三が日と七月の山開き以降と限られている。 ちなみに、現在は噴火の警戒レベルは“0”。 

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⑤武蔵野稲荷神社
・・・・・・・・・・・・茅原浅間神社とは西武池袋線を挟み反対側に鎮座する、こちらも創建年代不詳の神社。・・・・・・・・・明治時代以降、商家、歌舞伎役者、馬主、事業家等の信仰を集め、現在でも除災招福、病気平癒、商売繁昌の祈願が多い。 境内建造物は、大正7年(1918)建築の際儀殿を除いて、昭和50年から5年計画で、本殿、拝殿、鳥居、随神門と新築整備された。、、、、、日光東照宮を超小型にしたような、けばけばしい建物群は、神の“社”として、違和感を感じた。

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⑥武蔵大学
・・・・・・・・・・東武鉄道など事業創設に携わった「鉄道王」:初代根津嘉一郎(万延元年(1860)~昭和15年(1940))によって大正11年(1922)に設立された旧制武蔵高等学校を前身とする大学。 昭和24年、新制大学として経済学部と、医学部進学課程(1962年廃止)の構成で出発した。 現在は、経済学部、人文学部、社会学部の3学部が設置されている。

・・・・・・・・・・・・校門・・・・・・・・・校門を入ると前に大学3号館が控えている。

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・・・・・・・・・・・・大学3号館・・・・・・・・・・キャンパス内で最も古い建物、大正12年(1923)に清水組(現:清水建設)の設計により建てられた。鉄筋コンクリート造、3階建て。

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・・・・・・・・・・・・・“コ”の字型の大学3号館の中庭から見ると、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・大学講堂・・・・・・・・・・・昭和3年(1928)に竣工した講堂は、早稲田大学の建築科を創設した佐藤功一(1878~1941)の設計による建物。鉄筋コンクリート造、2階建て。外装はスクラッチタイル貼り、開口部には半円のアーチを多用したデザインで、ロマネスク様式の建物。・・・・・・・・佐藤功一は、早稲田大学大熊記念講堂 日比谷公会堂 などの作品が残っている。 

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・・・・・・・・・・・・・正面玄関を入る、、、、、格調高いね!

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・・・・・・・・・・・・・・講堂内部、、、、明るく、落ち着く空間が広がる。

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・・・・・・・・・・・・・・2階には、大学の歴史を説明する展示室もある。

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・・・・・・・・・・・・・2棟以外は、平成の時代に多くは建てられた、モダンな校舎である。

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⑦江古田駅
・・・・・・・・・・・大正11年(1922)、旧制武蔵高等学校(現:武蔵大学)の設立に合わせて「武蔵高等学校用仮停留所」として開業。 翌年、駅名を「江古田」に改称した西武池袋線の駅。、、、、、、西武鉄道が、なぜ、競争相手の東武鉄道:根津嘉一郎が建てた学校用の駅を設置したのか? 答えは簡単、池袋線の前身は武蔵野鉄道であった。 根津嘉一郎は、その武蔵野鉄道の株主だった。 その後、武蔵野鉄道は箱根土地(西武鉄道の前身)に買収された。、、、、当時の駅は、現在の位置より、200mぐらい西に寄った、現在の稲荷神社あたりだったらしい。・・・・・・・・現在の駅は、平成22年(2010)から整備された2面2線の橋上駅舎。

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2015年6月13日 (土)

浅草橋~三ノ輪

午前中に台東区の施設で実施している二つの企画展を見なが、我が家(浅草橋)から三ノ輪まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


須賀神社
・・・・・・・・・江戸通りに面し、我が家と同じ浅草橋2丁目に鎮座する、古~い神社。 推古天皇9年(601年)の夏、この地に疫病が流行し、郷の人々は病気平癒を、近くの森の牛頭天王を祭った祠に病気平癒を祈り、尽く快気したそうだ。 以来、今日まで、人々により祀られてきた。 推古天皇の時代に浅草橋に神社があったとは、、、、ほんとかいな? 

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②本法寺
・・・・・・・・・・・台東区寿2丁目にある、日蓮宗の長瀧山本法寺。 天正19年(1591)の創建と言われている。 この寺は、落語家の寺で「はなし塚」がある。

・・・・・・・・・・・・・・通りに面した塀には、落語家を中心に、寄席芸人、寄席、放送局、団体名がズラリ!、、、、、とくに、落語家のなつかしい名前があり、顔が浮かんでくるね。

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・・・・・・・・・・・・・・本堂熊谷稲荷、、、、、、正直に言うと、『チョイとオソマツな本堂と稲荷』(失礼しました)、、、、、外見ではなく、中身で勝負!

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・・・・・・・・・・・・・境内にある「はなし塚」、、、、、この塚は昭和16年(1941)に建立された、太平洋戦争へ向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目について自粛を強いられていた。 落語界では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺など53種を選び、禁演落語とされた。 この中には名作といわれた「明烏」「五人廻し」等の噺もあり、高座から聴けなくなった。 「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一堂、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。  戦後昭和21年(1946)、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。、、、、、テレビの時代となり、噺の時間も短く、名作をじっくり聴く機会も少なくなったようだ。 

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③かっぱ橋道具街
・・・・・・・・・・・・「かっぱ橋道具街」は、浅草と上野の中間にある南北約800mの商店街(約170店舗で構成されている)。 大正の初めに新堀川という江戸時代に作られた川の両岸に古道具を商う人たちが店を出したことが発祥とされている。 関東大震災後に、新堀側は暗渠化された。 新堀側に架かっていた、菊屋橋、河童橋も無くなり、現在は交差点名として残っている。、、、、、商店街は歴史もあるが、建物は、戦後、ほとんどがビルとなった。

・・・・・・・・・・・・・道具街のシンボル、、、、、道具街入口のコックさん、、、、、中程のかっぱ河太郎の像

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・・・・・・・・・・・・・『無いものは無い!』道具街、、、、、買わずとも、見て歩く、楽しさよ

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・・・・・・・・・・・・・・京成菊屋橋ビル・・・・・・・・・・・・道具街の中程に位置する低層の共同住宅。 1階には店舗が入りかっぱ橋道具街の賑わいをつくっている。 昭和34年(1959)竣工の1LDKのマンション。

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・・・・・・・・・・・・・各店舗では、アーケード下の河童がお出迎え。

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④台東区立中央図書館
・・・・・・・・・・かっぱ橋道具街の北のはずれに、台東区の中央図書館がある。 そこで、開催していた企画展「百貨店の時代 昭和初期の上野松坂屋」を見て来た。(無料)、、、、、当時の松坂屋を写した絵葉書、新聞広告など、展示されていたが、私の期待していたほどではなかった。 チョイとかっかり!

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・・・・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)竣工時の上野松坂屋

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一葉記念館
・・・・・・・・・・・台東区の北のはずれ竜泉3丁目には、一葉記念館がある。 ここでは、企画展「樋口一葉が見た町並み 明治の東京風景」が開催されている。 こちらも拝見。、、、、、こちらは有料で、展示内容も入場料に見合い、しっかりしている。、、、、、、当時の住宅・商家など、精巧な模型で紹介され、充分楽しめる内容であった。

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2015年6月11日 (木)

泉岳寺~五反田

都営浅草線泉岳寺駅から五反田駅まで、9千歩、7㎞の散歩です。


①建設反対
・・・・・・・・・・・・泉岳寺中門 (天保7年(1836)建築)前に「建設反対」の立て看板が目に入った。 その瞬間、『ア!、あ!、ア! 反対する対象の建物はこれだな、一目で解った。』 中門のすぐ隣では、反対しなければ気持ちは収まらないね。、、、、、、昨年秋に、8階建て、39戸のマンション建設が始まり、その計画段階で、泉岳寺をはじめとする団体・住民の請願・陳情が始まったようだ。 請願書の反対理由には、、泉岳寺の歴史的価値を貶す、参拝者に失望感を与える、文化財・町の景観破壊などが、列挙されている。、、、、、、私のブログがこの問題で炎上すると困るので、賛成・反対の気持ちは伏せておくことに、、、、、私の足は、中門前を左に折れて先へ進む。

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②大きな空き地
・・・・・・・・・・泉岳寺境内にそった、南側に大きな空き地が出来ていた。 コレ、マタ、マンション建設の用地かな? 道路は狭く一車線の一方通行、マンションに囲まれた谷底、近くには区立幼稚園もある、、、、「建設反対」の住民運動がおこりそうな立地だ。、、、、、、大きな騒動が起きないことを祈る!

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③廃墟化した永楽荘
・・・・・・・・・・・・上記の空き地前の道を奥に進むと、坂の途中にマンション「永楽荘」がある。 昭和33年(1958)に建てられた、鉄筋コンクリート造、4階建ての、ボロボロマンション。 2年前には住人もいたが、既に全戸空き家となったようだ。、、、、、この建物の取り壊し、建て替え工事も、住民の反対運動が起きそうだね。

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④高野山東京別院
・・・・・・・・・・高輪警察署の隣り、広い境内の高野山東京別院がある。 弘法大師を本尊とする、この別院は江戸時代(慶長年間)、高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所として開創され、延宝元年(1673)「高野山江戸在番所高野寺」として建立された。 明治に入って在番所の廃止に伴い、牛嶋の長寿寺の名跡を移して存続を図る。 昭和2年(1927)「高野山東京別院」と改称し、首都圏における大師信仰の拠点となっている。 昭和63年(1988)に現本堂「遍照殿」が建立された。、、、、広い境内にある建造物は、山門、本堂、不動堂、鐘楼、寺務所だけで、どれも戦後の新しい建物である。 チョイと、新しすぎて面白くないね。

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⑤高輪3丁目の木造住宅
・・・・・・・・・どちらの建物も、劣化したようだ、残して欲しいけど無理かな、、、、

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⑥公衆電話
・・・・・・・・・・・白金台2丁目でパチリ! シャッターの下りた商店の軒先で、チョイとへこんだところに公衆電話があった。 頭上には、「電話 公衆 電報」の文字が、もし、この場所から我が家に電報を送るとしたら、どうやって送ったらいいの?、、、、、、店の人に聞くのか? 通りすがりの人に聞くのか? ひょっとしたら、我が家に電話して、送り方を教えてもらうのか??? 電報の送り方も忘れた、懐かしい看板だ!
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⑦牛肉の今里
・・・・・・・・・・・・・・・白金台2丁目17の二又の角に小さな祠があり、中に小さな「今里地蔵尊」が祀られている。、、、、、「今里」て何? 答えは簡単、旧地名です。 この辺りは、現在のカッコいい「白金台」の前は「芝白金今里町」、さらに昔は「今里村」であった。・・・・・・・・明治時代には、牛肉を食べる文化が入り、時の政府がココ「今里」に屠殺場をつくった。 そして、町の肉屋は競って、ココの屠殺場から肉を仕入れるようになったのである。 現在、老舗の肉屋「今半」など、店名に「今」の字がつくのは、ココ「今里」との繋がりを示しているのだ。・・・・・・・・ちなみに屠殺場の痕跡は、焼肉として食べたらしく、何も残っていない。

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⑧池田山公園・
・・・・・・・・東五反田5丁目、旧岡山池田藩下屋敷跡の公園。高低差を生かした池泉回遊式の庭園で、屋敷は無いが、その昔をしのぶことができる。
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⑨ねむの木の庭
・・・・・・・・・・池田山公園の近く、先日、皇后陛下も訪れた公園。 皇后美智子さまの生家である、日清製粉社長の正田邸跡地に、品川区が整備した。 邸宅は平成14年(2002)に解体され、跡地中央にねむの木を植え、その周囲には季節の花が咲いている。・・・・・・・さほど広くない庭園だが、皇后の生家でもあり、手入れは抜群! 管理する人も気を使うだろうね!

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2015年6月10日 (水)

上北沢~下高井戸

京王線上北沢駅から下高井戸駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。


①上北沢駅
・・・・・・・・・・・京王線は名が示すように、東京と八王子を結ぶ路線として、まずは、大正2年(1913)に笹塚~調布間が開通した。 この時、上北沢駅も同時に開業した。 京王線の駅の中では最古参である。、、、、、、平成元年頃には20,000人/日いた乗降客が、現在は14,000人/日程しかおらず、乗降客が減少している駅。 もちろん、普通電車しか停車しない駅。

・・・・・・・・・・・・・島式ホーム1面2線を有する地上駅である。 

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・・・・・・・・・・・・・・改札口はホーム下の地下にあり、出入口は線路わきの道路をはさんだ向かい側にある。(写真の中央が出入口)

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・・・・・・・・・・・・・・近くの踏切も、遮断機が頻繁に降りる“開かずの踏切”

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・・・・・・・・・・・・・・・通勤時間帯なのに人影の少ない駅前。

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②日本キリスト教団松沢教会
・・・・・・・・・世田谷区上北沢3丁目に、プロテスタント系「日本基督教団」の松沢教会がある。 この教会は、明治時代に設立され、現在の建物は戦後の建築であるが、周辺の緑豊かで静かな住宅街と調和し、「地域風景資産」に指定されている。

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③上北沢3丁目の町
・・・・・・・・・・・超高級住宅街と言うと、首をかしげるが、そこそこの高級住宅街で、緑豊かで静か、自販機・コンビニがなく、歩いてる人も気品があり、私の住む、典型的な下町「浅草橋」とは、共通点が少ないようだ!、、、、、すれ違う女性はみんなセレブに見えた? 老化したね!

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④N邸
・・・・・・・・・・・そんな、上北沢の南側(現:上北沢3)に建つ大正末期の木造住宅。 知らずに通らば、素通りしてしまう、古さを感じさせないモダンな住宅。 この地は関東大震災後の大正13年(1924)に、当時の松沢村の村長等が所有していた土地を分譲した宅地に建てられた。

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⑤上北沢一丁目第2アパート・
・・・・・・・・・・・上北沢の住宅地に建つ、総戸数200戸の都営住宅。 平成17年(2005)~平成18年(2006)の建築で、まだ綺麗だが、せっかく美しい住宅地に建てたのだから、周囲と合わせて汚れの目立たないタイル張りのモダンな外装にするなど、チョイとデザインに配慮して欲しかったね!、、、、、いかにも、相変わらずの“都営住宅”というデザインだ!

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⑥勝利八幡神社
・・・・・・・・・・・世田谷区桜上水3丁目にある勝利八幡神社(しょうりはちまんじんじゃ)は、万寿3年(1026)京都の石清水八幡宮を勧請、創建したと言われている。 現社殿は昭和43年(1968)に鉄筋コンクリート造にて建てられた。

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⑦密蔵院
・・・・・・・・・・・・勝利稲荷神社の南西(桜上水2)に、神社の別当を務めていた、真言宗豊山派寺院の密蔵院がある。 慶長3年(1598)の創建。、、、、、閉じられたいかめしい山門、延享元年(1744、=徳川吉宗の時代)建立の本堂、百体の観世音菩薩を祀る観音堂、どれも歴史あり重厚で、いいね!

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⑧日本大学文理学部
・・・・・・・・・・・・文理学部は、ズバリ、文系と理系の複合した学部で、人文科学、社会科学、自然科学の各分野にわたる18学科をようしている。 日本大学は明治22年(1889)に日本法律学校として創立し、昭和12年(1937)に現在の敷地に大学予科文科世田谷校舎(現在の文理学部)が設けられた。、、、、当時としては、東京の郊外と言う感じかな。

・・・・・・・・・・・・・1号館・・・・・・・・・・・文理学部では最も歴史のある建物で、昭和12年(1937)の建築。 キャンパスのシンボル的な建物で、内部は講義室、AV教室 などがある。 

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・・・・・・・・・・・・・その他・・・・・・・・・・1号館以外は、戦後の建築のようだ! ぐるりとキャンパスを回ってきた。
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⑨日大通りを下高井戸駅まで
・・・・・・・・・・・・・

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2015年6月 8日 (月)

浅草橋~田端

昨日は「鳥越祭り」、祭りのあとの余韻が何か残されているか、気になり神社に行ってみた。 その足で散歩を続け田端駅まで、1万3千歩、10㎞の散歩です。


①鳥越神社
・・・・・・・・神社への道すがら、あれだけ大勢の見物客と、夜遅くまでの祭りで、今日はゴミの散乱した神社周辺を想像していたが、、、、、なんと! 道路は綺麗に清掃され普段とかわらぬ状態だ。 違うのは、ビニール袋に入ったゴミが小さな山になっている程度。 サッカーの試合の後のゴミ拾いを思い出させる、『これぞ、日本人! 立派、よくやった、感動した!』・・・・・・・・『昨日はご苦労様でした』気持ちを込めて、賽銭も奮発して、手を合わせた。、、、、、神社では「千貫神輿」が片づけられていた。

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②CC4441
・・・・・・・・・・神社の北側に、2個の海上コンテナーで造られたアートギャラリーがあった。 建物の名「CC4441」とは、不明(?)であるが、1階は1個のコンテナーを2個に切断し配し、2階はその上に1個のコンテナーを載せた構造の面白い建物である。 早川友和建築設計事務所の設計、江尻建築構造設計事務所の構造

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③エドワードフジヤ・
・・・・・・・・・・台東区小島2丁目のバッグ屋さん。 木造3階建ての店舗兼住宅で、外部柱型部分にはスクラッチタイルが張られている。

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④不忍池
・・・・・・・・・・・ハスが咲くには早そうだ。 池の周りのアジサイは只今盛り。
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⑤七軒町停留所
・・・・・・・・・・戦後、20、37、40系統の都電は、神田方面から中央通りを通り、「上野公園」停留所(現:アブアブ(当時は赤札堂))の前から、専用軌道で上野の山と不忍池の間を通り、モノレールのイソップ橋の先で動物園に沿って西へ向かい池之端七軒町(現:池之端二丁目)の交差点に出る路線を走っていた。、、、、、当時の私には乗る機会の少ない路線であったが、緑の中の専用軌道を走るこの路線が好きであった。 この区間の路線は昭和46年(1971)3月17日に廃止となった。 その「七軒町」停留所があった位置に、現在は、都電7500形が保存されている。 (小さい写真は昭和45年の池之端2丁目停留所)

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⑥根津の建物
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・はん亭・・・・・・・・・・・明治時代に建てられた木造3階建ての建物。 関東大震災や戦災も耐え国の登録有形文化財に指定されている。 もとは下駄の爪皮(雨や泥などをよけるために下駄の先っぽに着けた保護サック)屋だった建物を、現在の串揚げ屋さんが買い取った。

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・・・・・・・・・・・・・M邸・・・・・・・・・・はん亭前にある洋室付の近代和風建築。

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・・・・・・・・・・・・・・釜竹・・・・・・・・・・・はん亭の東側、裏道の奥に、明治43年(1910)に建てられたという煉瓦蔵がある。 旧田嶋浅次郎邸の蔵だけが残され、今は「釜竹」といううどん屋になっている。・・・・・・・・・・田嶋浅次郎は建設業を営み、東海道線の丹那トンネルの工事を請け負うなどして財を成した。

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⑦谷中1丁目の寺
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・天眼寺・・・・・・・・・・谷中1丁目に、臨済宗妙心寺派の楞伽山天眼寺がある。 延宝6年(1678)の創建。 奥平松平家(徳川の重臣の奥平信昌の流れ)の菩提寺。、、、、、、、眼病に効くのは点眼、坊さんの説教聴くのは天眼寺。 

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・・・・・・・・・・・・・・臨江寺・・・・・・・・・臨済宗大徳寺派寺院の龍興山臨江寺。 臨江寺は、寛永7年(1630)頃下谷池之端に臨江庵として創建、延宝9年(1681)現在地へ移転した。 広い境内と奥まった場所が、都心の寺院とは思えない空気を創っている。

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田端駅南口
・・・・・・・・・・・・田端駅は明治29年(1896)に日本鉄道の駅として開業した。駅の西側は高台となって、崖下にホームがある配置となっている。・・・・・・・・・田端駅南口は、大きな北口とは対照的で、自動改札機が2機しかない小さな駅舎である。、、、、、“小さい”よりも、“可愛い”駅と言った方がピッタシだ! もちろん、無人の改札で、駅員に用がある場合はインターホンを利用する。

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・・・・・・・・・・・・・・改札を出ると、前には坂道と階段の選択肢があり、どちらも崖上に出るルートだ。  只今は、アジサイの季節、花を見ながら坂道を上ることを薦めます、、、、、、てなことは、どうでもいいので好きなように上ったら!

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2015年6月 7日 (日)

鳥越祭り

今日一日、我が家の周辺は「鳥越祭り」で明け暮れ、私も朝・昼・夜と祭りの様子を見て回り、チョイと忙しい一日となった。   (去年の鳥越祭りは、こちら!

●・・・・・・・・・・・・朝8時、我が家から10m程でた通り、何もなく静かな日曜日ようだが、、、、、通り正面が鳥越神社、よく見ると青と白の浅黄幕が玉垣に張りめぐらされている。

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●・・・・・・・・・・・・鳥越神社の「千貫神輿」(本社神輿)は都内最大級の神輿で、今日は朝6時半に神社を出て、氏子地域を渡御している。、、、、、私が神社に行くと、神輿は既に神社を出て、境内は静か。

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●・・・・・・・・・・・・町には祭りの雰囲気が出て来たぞ、、、、露店も開店準備中。

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●・・・・・・・・・・・・8時半、本社神輿は春日通りの近くにいた!、、、、すでに、多くの担ぎ手も集まり、熱気ムンムン。

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●・・・・・・・・・・・・神輿の後ろに、馬上の宮司、、、、、、 しんがりは、一輪車を轢き、馬糞を清掃する担当者。、、、、、チョイと、辛い仕事だな。

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●・・・・・・・・・・・・祭囃子は生演奏!

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●・・・・・・・・・・・・あそこに喰い込む、、、、、今日だけのスタイル!

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●・・・・・・・・・・・・祭りを楽しむ、長老、兄さん、姐さん、、、、皆さん、いい顔してるね!

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●・・・・・・・・・・・・これが「千貫神輿」、重そうだ、、、、

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●・・・・・・・・・・・・午後からは、見物客も増え、祭りはいっそう盛り上がる、、、、

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●・・・・・・・・・・・夜、いよいよ宮入、提灯に囲まれ本社神輿は神社に戻る。 まさに、“暗いマックス”なり、、、、、
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●・・・・・・・・・・・・夜9時、神輿は境内に消え祭りは終了。 警察官も撤収です、ご苦労様!

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2015年6月 5日 (金)

浅草橋~梅島

久しぶりに、我が家(浅草橋)から、北の方角に、“スタコラ サッサ ホイ サッサ”と歩き、3時間弱で東武伊勢崎線の梅島駅(足立区)に到着。 昼までに我が家に戻るため、“ヤットコ ドッコイ ホイサッサ”と帰宅した。 1万6千歩、12kmの散歩です。

●am7:50・・・・・・・・・浅草橋駅前から旅立つ、、、、、「行く春や おくる女(ひと)なく 寂しい別れ 昼に『ただいま』 早すぎる!」

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●am8:00・・・・・・・・・蔵前一丁目交差点

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●am8:10・・・・・・・・・駒形橋西詰交差点を通過、、、、、「どぜう むぎとろ どっちを食べる 駒形堂に きいてみる」.

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●am8:15・・・・・・・・・浅草駅を横に見て、私の行く先、もっと先、、、、、

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●am8:30・・・・・・・・・言問橋西交差点、、、、、、ここで終わりだ「江戸通り」、この先「国道6号線」。 私の足は北へ(都道464号線)行く。、、、、、、“スカイツリーと涙の別れ!”を、したいと思うが、涙が出ない!

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●am8:40・・・・・・・・・吉野橋・・・・・・・・・・旧山谷堀川に架かっていた橋。 現在は親柱だが残されている。 かつて猪牙舟で隅田川から山谷堀川に入り吉原に通う、重要な(?)交通路であった。、、、、、私も、この世の思い出に乗ってみたかった、残念!  

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●am8:53・・・・・・・・・日本堤交番前を通過、、、、、「日本堤」って、カッコいい名だが、かつては「山谷交番」と呼ばれていた。 当時の愛称「マンモス交番」。 日雇い労務者の集まる山谷地区であったが、労務者相手の簡易宿泊所も、外人観光客相手の宿と変わり、山谷の名は消え、イメージが変わりつつある。

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●am8:55・・・・・・・・・泪橋交差点を通過、、、、、日本堤交番から100m北に、泪橋(なみだばし)交差点がある。 ここまでは台東区、ここからは荒川区。

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●am9:10・・・・・・・・・南千住駅前を通過、、、、、今日は、JR貨物の隅田川駅をチラリと見て、先へ急ぐ。 先には、東京メトロ日比谷線の高架下に南千住駅南口が口を広げている。

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●am9:20・・・・・・・・・南千住交差点・・・・・・・・・・今歩いてきた都道464号線が、国道4号線(日光街道)にぶつかる交差点。 交差点の角は素盞雄神社、週末の例大祭に向け準備中。

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●am9:25・・・・・・・・・千住大橋・・・・・・・・・・橋を渡ると足立区だ! 南千住は荒川区、北千住は足立区で、千住真理子はミュージック。

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●am9:30・・・・・・・・・千住大橋駅

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●am9:45・・・・・・・・・北千住駅入口交差点・・・・・・・・・・右折し、奥が北千住駅。 今日は寄らずに先を急ぐ。

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●am10:00・・・・・・・・・千住新橋を渡り荒川を越える。、、、、、「梅雨近し いやな天気だ 雨模様 二人の仲は 荒れ模様」

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●am10:10・・・・・・・・・荒川を越えると、そこは梅田交差点。、、、、、、ここで、国道4号線と分かれ、男一人で、梅島駅へ向かう、、、、、、

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●am10:30・・・・・・・・・東武伊勢崎線梅島駅へ到着。、、、、、浅草橋の我が家から、2時間40分で着いた、「遠いいようで 近い足立区 でも遠かった」。

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2015年6月 4日 (木)

水道橋~茗荷谷

今日は循環器内科の定期検診日、水道橋のクリニックで診察を受けた後、いつものように裏通りを歩いて茗荷谷まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



①日中友好会館
・・・・・・・・・・・・私が受診しているクリニックの北側に、名勝「後楽園 」がある。 その後楽園の入場門の隣りに、「日中友好会館」が建っている。 なんとなく名前には違和感を感じる人もいるかも知れないが、、、、、、昭和63年(1988)に竣工、日中国交正常化 10周年を期して、両国の共同事業として建てられた建物。 本館は、オフィス、ホール、ホテルなどで使用し、別館は「日中学院」という教育施設と寮となっている。、、、、会館が建つこの敷地には、知る人ぞ知る、かつて日本共産党が入居していた「善隣学生会館」と称する建物があった。・・・・・・・・・私がかつて勤めていたゼネコンがこのビルを建てた。 また、私が転職したIT企業のオフィスはこのビルの斜め前にあった。 私とは、赤い糸(中国だから“赤”)でつながっている建物のようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・内部には、私が昼食を食べていた中国レストランもある。

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・・・・・・・・・・・・・今日は、1階の美術館で「中国漫画展」が開かれていたのでチョイと拝見。

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②丸ノ内線
・・・・・・・・・・・・・昭和29年(1954)、茗荷谷~後楽園間を含む、丸ノ内線の池袋~御茶ノ水間が開業した。 開業した時は、私が8歳の頃、なんと古い昔の話である。・・・・・・・・・今日、撮影したポイントは、文京区春日2丁目。

・・・・・・・・・・・・・文京区水道1丁目の方向から路地を入って行くと、丸ノ内線を隠すように長い塀が連なり、先で跨線橋の上に出る。

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・・・・・・・・・・・・・・跨線橋から見る丸ノ内線。 ここ、茗荷谷付近では高台を開削し、線路がひかれている。

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・・・・・・・・・・・・・・・跨線橋の先は、自転車も通れぬ細い階段となり、最後の10段を上がると、春日通りの竹早高校の前に出る。

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国際仏教学大学院大学
・・・・・・・・・・・・春日2丁目に建つ、日本で一番小さい大学である。 平成8年(1996)に霊友会の国際仏教学研究所を基礎として設立された、定員20名、5年一貫制の博士課程のみの大学。 傾斜地に建つ大学は、槇総合計画事務所の設計により、竹中工務店の施工で、平成22年(2010)に完成した。

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・・・・・・・・・・・・・・この大学の敷地は、徳川幕府最後の将軍:徳川慶喜の終焉の地である。 慶喜は大政奉還後、天皇に対し恭順の意を示し、水戸、駿府にて隠棲したが、明治30年に東京に戻り、明治34年(1901)に、ここ文京区春日に移った。 大正2年(1913)に、この地で享年76歳にて没した。 敷地の奥に慶喜の屋敷跡の大銀杏が残されてる。
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④服部坂
・・・・・・・・・・・文京区小日向1丁目と2丁目の境に、服部坂(はっとりさか)がある。 坂の上(現:小日向神社)に、江戸時代、服部権太夫が住んでいたことから名付けられた。、、、、服部権太夫とは何者だ?、、、、、徳川家康幕下の旗本、三河の出で、千葉県夷隅郡岩熊村の領主(300石)であったらしい。、、、、、そげーな者、わしゃ、知らんね!

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・・・・・・・・・・・・・屋敷があった、小日向神社

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・・・・・・・・・・・・・・坂の上(小日向2-1)には、5000円札の肖像となった新渡戸稲造(文久2年(1862)~昭和8年(1933))の旧居跡がある。 案内板はあるが、建物はない、あるのは関東財務局の名が記された立札と、官舎のような建物の空き家。

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⑤小日向3丁目の裏道
・・・・・・・・・・・拓殖大学の南側の細い道。 お天道様の下を真っ当に歩けぬ日陰者が、南京豆を食べながら、スーパーのレジ袋を提げて歩く姿が想像される、私好みの道です、、、、、、、、?

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⑥拓殖大学
・・・・・・・・・・・「拓大ルネサンス事業」として、只今、キャンパスを整備中。・・・・・・・大学発祥の地として、昭和7年(1932)に建設されたA館(拓殖大学本館 )を保存し、昭和30年代から40年代に建設された教室、図書館、研究室などは、取り壊し、再整備が進められている。 

・・・・・・・・・・・・・残された本館

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・・・・・・・・・・・・・本館前に建つ、初代校長:桂太郎の像。

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・・・・・・・・・・・・・・・新しい校舎
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2015年6月 3日 (水)

浅草

朝から雨が降り、今日は家の中でゴロゴロさま。、、、、ところが、午後3時過ぎに雨もやみ、『チョイと、浅草までぶらついてくる』と出てみたが、5時過ぎにはポツリポツリと再び落ちてきた。 7千歩、5㎞のプチ散歩。



東本願寺
・・・・・・・・・・地下鉄銀座線の田原町駅と稲荷町駅の中間に、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺がある。 開創は、慶安4年(1651)で、神田明神の近くに建立された。 明暦の大火の後、現在地浅草に移転した。 しかし、関東大震災で本堂が焼失したため、昭和14年(1939)鉄筋コンクリート造の本堂を再建した。 その後空襲で内部を焼失したが、現在の荘厳な内部に改装した。 本尊は、鎌倉時代の木造阿弥陀如来立像。

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・・・・・・・・・・・・・・今日は早くも店終いか? 仏壇は閉められていた。

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・・・・・・・・・・・・・京都にある東本願寺、西本願寺と、東京の東本願寺(浅草)、築地本願寺の関係は、どうなっているのか調べてみた、ややっこしいよ!、、、、、、まず、西本願寺(京都)は、浄土真宗本願寺派の本山で、正式名は「龍谷山本願寺」。 東本願寺(京都)は、真宗大谷派の本山で、正しくは「真宗本廟」という。、、、、東京の築地本願寺は西本願寺(京都)の別院である。 東本願寺(京都)の東京別院は“浅草”ではなくて、練馬区谷原の「東本願寺真宗会館」である。、、、、、となると、浅草の東本願寺は何なのだ?、、、、、浅草の東本願寺は、かつては真宗大谷派(京都の東本願寺)に属していたが、昭和63年(1988)に真宗大谷派から離脱し、新たに結成された浄土真宗“東”本願寺派の本山となった。 正式名称は「浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺」である。

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②本願寺周辺の建物
・・・・・・・・・西浅草2丁目

・・・・・・・・・・・・・・本願寺裏の木造建築。 表通り側に4店舗、裏通り側にも数店舗のバーが入っている、大きな木造建築だ。 2階はアパート形式になっているようだ?

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・・・・・・・・・・・・・・染太郎・・・・・・・お好み焼き屋
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・・・・・・・・・・・・・・漫才協会・日本喜劇人協会・・・・・・・・
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・・・・・・・・・・・・・・西浅草八幡神社・・・・・・・・・神社は、江戸時代、宇佐八幡宮の神霊分神を勧請して元禄13年(1700)に創建。 明治維新に際して浅草神社の兼務社となった。

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②鎮護堂
・・・・・・・・・・浅草寺伝法院境内の一隅に祀られている通称「お狸(たぬき)さま」。 火防・盗難除けの守護神として信仰されている。 明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首(かんす)唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)大僧正が、夢告により境内に棲む狸を「鎮護大使者」として、伝法院の守護に祀ったもの。

・・・・・・・・・・・・・・伝法院通りの中程に巽門がある、、、、、今日は水曜日、人出が少ないようだ、シャッターを下している店もある。

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・・・・・・・・・・・・・鎮護堂(ちんごどう)は大正2年(1913)の建立。
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・・・・・・・・・・・・・・堂の隣りには、昭和54年(1979)建立の水子地蔵尊。、、、、懇ろに手を合わせてきた!

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・・・・・・・・・・・・・・「幇間(ほうかん)」とは、男芸者のことである。幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和38年(1963)に建立された幇間塚
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③外国からのお客様
・・・・・・・・・・・外人は足が長く、スタイルがカッコよく、憧れるね!、、、、、短足の私には、羨ましい限りである。、、、、カメラも、ついつい憧れの対象に向いてしまう!

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2015年6月 2日 (火)

栗山浄水場

北総線矢切駅で下車し、栗山浄水場、柳原水閘などを見て矢切駅に戻る、1万歩、7㎞の散歩です。



①矢切駅
・・・・・・・・・北総鉄道北総線の「矢切(やぎり)」駅は、江戸川を見下す松戸市下矢切(地名は“やきり”と読む)の高台にある、平成3年(1991)に開業した2面4線の地下駅。

・・・・・・・・・・・・・・広い駅前だが、店舗、商店街などはなく、“賑わい”のない駅である。 かまぼこ型の駅の出入口、箱形のエレベーター、商店のような造りの交番が地上にポッコリと突出ている、チョイと変わった駅前の景観だ。 

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・・・・・・・・・・・・・2面4線の広い地下駅だが、乗降客は6500人/日程で、閑散としている。

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②栗山浄水場配水搭
・・・・・・・・・・矢切のシンボルとして、栗山浄水場の給水塔が高台に建っている。、、、、、、千葉県では、昭和初め、東京からの人口流入がはじまり、近代水道の設置が求められてきた。 栗山配水塔は千葉高架水槽 (千葉浄水場:千葉市中央区矢作町)と同時代の昭和12年(1937)に建設された、高さ:31.9m、内径:15m、有効容量:3,356立方mの鉄筋コンクリート造の配水塔である。 当初は約5km離れた古ケ崎浄水場からポンプで圧送された水を貯水し、塔圧力で浦安町や検見川町(当時)などに配水していた。 その後、昭和31年(1956)から千葉県は給水塔のある栗山に浄水場を建設し、栗山浄水場の給水塔となった。 現在は、松戸市、市川市に向け配水してる。

・・・・・・・・・・・・・・屋根の向こうに給水塔が見える

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・・・・・・・・・・・・・・江戸川の対岸:柴又から見る栗山浄水場給水塔。(今年2月撮影)

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・・・・・・・・・・・・・円筒形高架水槽、ドーム状の屋根で、頭頂部には4本柱の換気口をもつ、昭和12年(1937)竣工の現役の給水塔。 

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・・・・・・・・・・・・・浄水場の芝の中に立つ給水塔。

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・・・・・・・・・・・・・現在は、江戸川を水源として、日量186,000立方mの給水の能力を持つ栗山浄水場

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③ちば野菊の里浄水場
・・・・・・・・・栗山浄水場の西側(江戸川寄)に平成19年(2007)に完成した「ちば野菊の里浄水場」。 江戸川を水源として、日量60,000立方m/日を給水する能力を有する最新の浄水場。、、、、、、正門前に行ってみたが、電子部品の工場みたい、面白くなさそうなのでパス!

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④浄水場に挟まれて
・・・・・・・・・高台の栗山浄水場、川っぷちのちば野菊の里浄水場、2つの浄水場の間に急な斜面があり、ここに神社と寺がへばりつくように並んでいる。

・・・・・・・・・・・・・・日枝神社・・・・・・・・・・急な階段が特徴的な神社。 江戸中期の創建。

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・・・・・・・・・・・・・本久寺・・・・・・・・・・日蓮宗の寺。

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⑤柳原排水機場
・・・・・・・・・・江戸川に沿って流れる坂川との合流点(松戸市と市川市の市境)に柳原排水機場がある。 排水機場は松戸市側にあり、江戸川に面する柳原水門、柳原排水樋門ゲートは市川市側にある。、、、、松戸市東部では都市化が進み、この付近は保水・遊水機能が著しく低下したため、平成元年(1989)頃より、洪水被害・浸水被害を防ぎ、雨水を強制的に江戸川に配水する排水機場、水門などが整備された。

・・・・・・・・・・・・・柳原排水機場・・・・・・・・・千葉県が管理する、揚水量:26立方m/秒の排水機場。 平成7年(1995)度完成。

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・・・・・・・・・・・・・柳原水門柳原排水機場ゲート・・・・・・・・・柳原水門:平成元年(1989)度完成。 排水機場ゲート:平成4年(1992)度完成。

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・・・・・・・・・・・・・・排水機場前の江戸川。 対岸は葛飾柴又なり。

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⑥柳原水閘
・・・・・・・・・・・・・・柳原排水機場の横に、明治37年(1904)にできた煉瓦造の柳原水閘(やなぎはらすいこう)と称する水門がある。 4連アーチの煉瓦造りの水門は美しく、明治時代のレンガ積み工法を伝える貴重な土木構造物である。 手賀沼の干拓に取り組んだ土木技師の井上二郎の設計。 現在は、国の『近代化産業遺産』として選定され、水門の役目を柳原水門・柳原排水機場に譲り、親水公園の一部として保存されている。

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・・・・・・・・・・・・・・五ヶ村落樋管・・・・・・・・柳原水閘の脇に(松戸市下矢切)にある落し樋管(おとししかん)の銘板。 大正14年(1925)竣工と彫られている。、、、、、樋門(ひもん)・樋管(ひかん)とは、河川や用水路でよく見かけるもので、用水の取水や内水の排除を目的とした、水門に似た施設。 水門より小ぶりで、土手(堤防)に埋め込まれた水が流れるトンネル。 樋門と樋管には厳密な区別はなく、規模が小さい場合は樋管と呼ばれることが多い。、、、、、早い話、樋門・樋管は用水路だね! 銘板は、その用水路の出入口部分に取り付けられた看板だ!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここいらで、畑を見ながら、駅に戻ることにした。

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2015年6月 1日 (月)

中板橋~東十条

東武東上線の中板橋駅から、京浜東北線の東十条駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。



①中板橋駅
・・・・・・・・・・板橋区を南東から北西に抜け川越方面に向かう東武東上線。 池袋寄りの下板橋駅と川越寄りの上板橋駅の中間に位置するのが中板橋駅である。 チョイと駅間距離を調べてみたら、下板橋~中板橋間は2.0㎞、中板橋~上板橋間も2.0㎞、なんとピッタシカンカンで、まさに“中”板橋であった。・・・・・・・・・・大正3年(1914)、東上鉄道の池袋駅~田面沢駅(現:川越市駅の手前)間が開通し、下板橋駅、上板橋駅とも同年に営業を始めた。 中板橋駅は昭和8年(1933)に開業した。 現在は島式ホーム2面4線を有する地上駅。・・・・・・・・・駅名の由来は川越街道の「上板橋宿」にある上板橋駅と、中山道の「下板橋宿」にある下板橋駅の中間に位置することから「中板橋駅」と名付けられた。 「中板橋」という地名は、先行した駅名に由来し昭和32年(1957)に名付られた。

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・・・・・・・・・・・・・南北の出入口は、ホーム端の跨線橋を渡る。

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・・・・・・・・・・・・・・中板橋駅には優等列車は止まらず、普通列車が優等列車の通過を待たされる、、、、、、待つ身はつらい、イライラするね!

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②北へ向かう
・・・・・・・・・・・・中板橋駅で下車し、まずは北へ向かうことにした、、、、

・・・・・・・・・・・・・駅前の中板橋商店街・・・・・・・一本の通りだけの商店街ではなく、駅の北東側一帯が商店街となっている。

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・・・・・・・・・・・・・・石神井川に架かる久保田橋・・・・・・・・・きれいな水が流れる石神井川だが、護岸が高すぎるね!

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・・・・・・・・・・・・・環七通りをこえる、、、、、、

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③第3板橋富士見町アパート
・・・・・・・・・・第3、第4板橋富士見町アパートは昭和40年前後に建設され、ほぼ50年が経過した。、、、、、、建物は劣化し、住人も立ち退き、空き家となった、建て替えるようだ!、、、、、、どんな建物でも、壊されるのはつらいね!

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④エスビー食品
・・・・・・・・・・・板橋区宮本町のエスビー食品スパイスセンターの入口わきに石造りの古い倉庫がある。板橋工場が竣工した昭和10年(1935)頃の建物のようだ。妻の部分には「S&B」の商標が彫られている。、、、、、、エスビー食品は昭和5年(1930)に「社運が、日が昇る勢いであるように、また鳥が自由に大空をかけめぐるように、自社製品が津々浦々まで行き渡る」の願いを込めて「太陽」と「鳥」を図案化したヒドリ印をその商標とした。 翌年には、その「太陽=SUN」と「鳥=BIRD」の頭文字である「S&B」を併記して商標とした。

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⑤清水稲荷神社
・・・・・・・・・・エスビー食品から東へ500m程行くと、「イナリ通り」と称する商店街があり、その中程に神社は在る。 豊受姫命を祭神とする、創建年代不詳の古い鎮守さま。

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⑥姥ガ橋延命地蔵尊
・・・・・・・・・・・再び環七通りに出て、板橋区から北区に入ると、スグに姥ガ橋陸橋のある交差点となる。 交差点の角で、交通事故を見張るように、姥ガ橋延命地蔵尊は祀られている。・・・・・・・・・姥ガ橋とは稲付川(石神井川用水の、この付近での通称)に架けられていた橋で、その名の由来は幼児を誤ってこの川に溺死させてしまった乳母が、責めを感じてこの橋から身を投げて死んだ事による伝説であるという。 この延命地蔵は身投げした乳母を憐れんで村人が供養の為、享保9年(1724)に建てた。、、、、乳母だから悲しい物語になる。 私の場合、還暦を過ぎた親爺が、孫を誤って神田川で溺死させたら、悲しい物語ではなく、馬鹿な親爺の事件としてニュースになるね、、、注意・注意・要注意!

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⑦十条の住宅
・・・・・・・・・・上十条4丁目、、、2階の桁の出、6枚のガラス窓、1階の商店風入り口、、、、チョウ、趣きのある建物だ! 

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⑧赤羽線中原踏切
・・・・・・・・・・・北区中十条3~中原2、ここで埼京線をこえる。

・・・・・・・・・・・・・「埼京線」の呼称が定着し、呼ばれることがなくなった正式名「赤羽線」。 「赤羽線」の呼び名を懐かしく感じるのは、私だけではないだろう!

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・・・・・・・・・・・・・板橋駅付近から真っ直ぐにのびるレール

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⑨東十条駅北口
・・・・・・・・・・昭和6年(1931)、赤羽駅まで京浜線(京浜東北線の前身)が延長された際に下十条駅(しもじゅうじょうえき)として開業。 現在は、中線1本をはさむ、2つの島式ホームで、2面3線の構造となっている地上駅で、改札は南口・北口の2か所あり、ともに橋上駅となっている。・・・・・・・・・駅は武蔵野台地の崖下にあり、板橋方面から来ると、橋上駅に下がるアプローチとなる。

・・・・・・・・・・・・・・駅へ向かう細い路。 突き当りに階段があり、北口へは下って行く。

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・・・・・・・・・・・・・・橋上から眺めたホーム

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・・・・・・・・・・・・・・・中線をはさんで、両側にホームがある。

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