浅草橋~田端
昨日は「鳥越祭り」、祭りのあとの余韻が何か残されているか、気になり神社に行ってみた。 その足で散歩を続け田端駅まで、1万3千歩、10㎞の散歩です。
①鳥越神社・・・・・・・・神社への道すがら、あれだけ大勢の見物客と、夜遅くまでの祭りで、今日はゴミの散乱した神社周辺を想像していたが、、、、、なんと! 道路は綺麗に清掃され普段とかわらぬ状態だ。 違うのは、ビニール袋に入ったゴミが小さな山になっている程度。 サッカーの試合の後のゴミ拾いを思い出させる、『これぞ、日本人! 立派、よくやった、感動した!』・・・・・・・・『昨日はご苦労様でした』気持ちを込めて、賽銭も奮発して、手を合わせた。、、、、、神社では「千貫神輿」が片づけられていた。
②CC4441・・・・・・・・・・神社の北側に、2個の海上コンテナーで造られたアートギャラリーがあった。 建物の名「CC4441」とは、不明(?)であるが、1階は1個のコンテナーを2個に切断し配し、2階はその上に1個のコンテナーを載せた構造の面白い建物である。 早川友和建築設計事務所の設計、江尻建築構造設計事務所の構造
③エドワードフジヤ・・・・・・・・・・・台東区小島2丁目のバッグ屋さん。 木造3階建ての店舗兼住宅で、外部柱型部分にはスクラッチタイルが張られている。
④不忍池・・・・・・・・・・・ハスが咲くには早そうだ。 池の周りのアジサイは只今盛り。
⑤七軒町停留所・・・・・・・・・・戦後、20、37、40系統の都電は、神田方面から中央通りを通り、「上野公園」停留所(現:アブアブ(当時は赤札堂))の前から、専用軌道で上野の山と不忍池の間を通り、モノレールのイソップ橋の先で動物園に沿って西へ向かい池之端七軒町(現:池之端二丁目)の交差点に出る路線を走っていた。、、、、、当時の私には乗る機会の少ない路線であったが、緑の中の専用軌道を走るこの路線が好きであった。 この区間の路線は昭和46年(1971)3月17日に廃止となった。 その「七軒町」停留所があった位置に、現在は、都電7500形が保存されている。 (小さい写真は昭和45年の池之端2丁目停留所)
・・・・・・・・・・・・・はん亭・・・・・・・・・・・明治時代に建てられた木造3階建ての建物。 関東大震災や戦災も耐え国の登録有形文化財に指定されている。 もとは下駄の爪皮(雨や泥などをよけるために下駄の先っぽに着けた保護サック)屋だった建物を、現在の串揚げ屋さんが買い取った。
・・・・・・・・・・・・・M邸・・・・・・・・・・はん亭前にある洋室付の近代和風建築。
・・・・・・・・・・・・・・釜竹・・・・・・・・・・・はん亭の東側、裏道の奥に、明治43年(1910)に建てられたという煉瓦蔵がある。 旧田嶋浅次郎邸の蔵だけが残され、今は「釜竹」といううどん屋になっている。・・・・・・・・・・田嶋浅次郎は建設業を営み、東海道線の丹那トンネルの工事を請け負うなどして財を成した。
・・・・・・・・・・・・・・天眼寺・・・・・・・・・・谷中1丁目に、臨済宗妙心寺派の楞伽山天眼寺がある。 延宝6年(1678)の創建。 奥平松平家(徳川の重臣の奥平信昌の流れ)の菩提寺。、、、、、、、眼病に効くのは点眼、坊さんの説教聴くのは天眼寺。
・・・・・・・・・・・・・・臨江寺・・・・・・・・・臨済宗大徳寺派寺院の龍興山臨江寺。 臨江寺は、寛永7年(1630)頃下谷池之端に臨江庵として創建、延宝9年(1681)現在地へ移転した。 広い境内と奥まった場所が、都心の寺院とは思えない空気を創っている。
⑧田端駅南口・・・・・・・・・・・・田端駅は明治29年(1896)に日本鉄道の駅として開業した。駅の西側は高台となって、崖下にホームがある配置となっている。・・・・・・・・・田端駅南口は、大きな北口とは対照的で、自動改札機が2機しかない小さな駅舎である。、、、、、“小さい”よりも、“可愛い”駅と言った方がピッタシだ! もちろん、無人の改札で、駅員に用がある場合はインターホンを利用する。
・・・・・・・・・・・・・・改札を出ると、前には坂道と階段の選択肢があり、どちらも崖上に出るルートだ。 只今は、アジサイの季節、花を見ながら坂道を上ることを薦めます、、、、、、てなことは、どうでもいいので好きなように上ったら!
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