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2015年7月

2015年7月31日 (金)

上野~日暮里

我が家の在る台東区の気温は、9時に30℃、12時に34℃、15時に35℃、18時に31℃、そして21時には28℃、日中は“暑くて散歩できません!”。 陽が落ちたら、夕涼みの散歩で上野駅に行ってみた。 チョイと、ついでに、もう少し歩いてみるかと日暮里駅まで、9千歩、7㎞です。

①上野駅・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・1番線は京浜東北線北行ホーム。 電車が行ったあとのホームは、♪♪北へ帰る人の群れは 誰も無口で 耳鳴りだけを聞いている♪♪、という感じ。

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・・・・・・・・・・・・・・大空間の頭端型の地上ホームの13番線。 中距離電車では、♪♪どこかに故郷の 香りをのせて 入る列車の なつかしさ 上野は俺らの 心の駅だ♪♪、という感じはしないね!

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・・・・・・・・・・・・・こちらは、♪♪上野発の 特急列車 着いた時から 清掃員はゴミの中♪♪、車内清掃が終わるまでチョイとお待ちを!

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・・・・・・・・・・・・・♪♪ここが ここが 上野駅 記念の写真を とりましょね♪♪、駅舎は昭和7年(1932)完成、設計は鉄道省、施工は鹿島組。

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・・・・・・・・・・・・・・♪♪かわいあの娘は誰のもの かわいあの娘は誰のもの かわいあの娘は誰のもの いえあの娘はひとりもの♪♪、歌うは、昭和33年(1958)に結成したコーラスグループ「ボニージャックス」。

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・・・・・・・・・・・・・両大師橋の上から、♪♪あゝ上野のどこかに 私を待ってる人がいる 暑い日 旅立ち夕焼けをさがしに♪♪、、、、、山口百恵も引退して35年が経った。
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②鶯谷駅
・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・花咲ゆき美「哀愁本線」、♪♪最終列車の 青森発は なぜか別れる 人ばかり♪♪。 通勤電車の 鶯谷着は なぜかくっ付く 人ばかり、、、、、?

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③日暮里駅
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・裕次郎が歌う、♪♪赤坂で別れて どこへ帰るの 赤坂で別れて 朝まで歩きつづけるの♪♪。 日暮里まできて どこへ帰るの 日暮里まできて 浅草橋(我が家)まで歩きたいの、、、、、でも、暑い、暑い、暑い、もうイヤだ!

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2015年7月30日 (木)

東急大井町線(中延~大岡山)

きょうは、昨日の続きで、大井町線中延駅から大岡山駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。 今日歩いた、一部、中延~旗の台は、昨年もあるいいたので、コチラもみてね!



①中延駅
・・・・・・・・・・・・大井町線沿線のサラリーマン、学生の多くが、中延にて下車し、都営浅草線に乗り換える、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・人の流れは一方的に都営浅草線の中延駅に向かう、、、、、

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②荏原町第二架道橋
・・・・・・・・・・・・・・品川区中延4丁目付近の大井町線架道橋。 この付近の高架化工事は昭和32年(1957)頃に完成した。 中延駅が高架化されたのは、昭和32年7月である。、、、、、、今から60年前のこと! まだ、周囲には高い建物はなく、木造住宅の瓦屋根が並ぶ中に、鉄筋コンクリート造の高架橋か複線分一挙に造られていった。

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③線路沿いの路地
・・・・・・・・・・・・中延と荏原町、両駅のちょうど中間地点に、線路沿いに石畳の路地がある。 車はもちろん、人も通らず線路わきに出られる、私好みのナイショの道だ。
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④荏原町駅
・・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)、大井町線の開業と同時に駅も開業した。 

・・・・・・・・・・・・・・溝の口方面行のホームに直結する正面口。

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・・・・・・・・・・・・・・・大井町方面はコチラからどうぞ!

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・・・・・・・・・・・・・・相対式ホーム2面2線の駅。 
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⑤荏原町2号踏切
・・・・・・・・・・・・・荏原町と旗の台、両駅の中間に位置する踏切。 踏切に立つと両駅が見える。、、、、、駅間距離は0.5kmなので、踏切から両駅までは250mぐらいだ。

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・・・・・・・・・・・・・・踏切から見る荏原町駅
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・・・・・・・・・・・・・・踏切から見る旗の台駅

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⑥旗の台駅
・・・・・・・・・・・高架で上を走る大井町線と、地上をのんびり走る池上線 が、立体交差する乗換駅。、、、、、、大井町線のホームは、昭和2年(1927)7月、目黒蒲田電鉄大井町線の東洗足駅として開業時した時には、現在位置より二子玉川寄りにあった。 池上線のホームは、同年8月、池上電気鉄道の旗ヶ岡駅として開業し、現在地より五反田寄りにあった。 つまり、それぞれ別会社がほぼ同時期に開業したが、ホームは離れ、駅名も異なっていた。 東急になり、戦後の昭和26年(1951)、両ホームを現在位置に移設し旗の台駅とした。

・・・・・・・・・・・・・・大井町線の乗降に便利な南口。 改札の上が大井町線のホームになっている。

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・・・・・・・・・・・・・・池上線のホームに直結する東口。 

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・・・・・・・・・・・・・・・チョイと古めかしい池上線ホーム上屋。 奥には大井町線の跨線橋が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・・・反対側から見ると、大井町線の下を抜ける池上線。

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⑦中原架道橋
・・・・・・・・・・・・・大井町線が中原街道をこえる架道橋。 以前は踏切で平面交差していたが、昭和38年(1963)に架道橋が完成し、立体交差となった。

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⑧環状七号架道橋
・・・・・・・・・・・中原架道橋に続いて、環状七号線をこえる架道橋。 昭和39年(1964)完成。、、、、、両架道橋は250m程しか離れていない。

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⑨北千束駅
・・・・・・・・・・昭和3年(1928)池月駅として開業し、2年後には洗足公園駅に改称。 さらに、6年後の昭和11年(1936)に北千束駅に改称した。、、、、、姓名判断でもしたのか? はたまた、飲み屋勤めで源氏名だったのか? コロコロ変わりすぎだ!、、、、、、駅名は変わっても、駅の雰囲気は昭和の面影を残す、渋い!、いい駅!

・・・・・・・・・・・・・駅の出入口は、自動改札機3台が並ぶガード下の1か所のみ。 待ち合わせには、「駅の改札で待ってます」の一言で、間違えずに伝わる、判りやすい駅である。

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・・・・・・・・・・・・・ホームは島式1面2線で、木造の上屋も“昭和の匂い”がプンプン。
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大岡山駅
・・・・・・・・・・・大正12年(1923)に、目黒蒲田電鉄線(現:目黒線)の駅として開業し、昭和2年(1927)には、大井町線も開業した。 平成9年(1997)に、駅の地下化が完成し、ホームは地下に潜った。 平成19年(2007)に、地上の改札の上に、5階建ての「東急病院」がオープンした。 外壁では植栽され、建物は緑のベールに覆われたデザインだ、いいね!

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2015年7月29日 (水)

東急大井町線(大井町~中延)

東急大井町線の起点:大井町駅から線路沿いに歩いて中延駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。


東急大井町線
・・・・・・・・昭和2年(1927)、目黒蒲田電鉄(目蒲電鉄)が大井町~大岡山間の大井町線を開業した。 昭和4年(1929)に自由ケ丘(現:自由が丘)~二子玉川間を開業し、同年の暮れに大岡山~自由ケ丘間を開業した、これにて大井町線の全線が開業した。 昭和18年(1943)には二子読売園(二子玉川)~溝ノ口間を大井町線に編入した。 昭和38年(1963)年に大井町線を「田園都市線」に改称する。 地下鉄半蔵門線が開通すると、昭和54年(1979)には溝ノ口~二子玉川園(二子玉川)は田園都市線として残り、電車は渋谷経由で半蔵門線に乗り入れた。 この時、大井町~二子玉川園間が再び大井町線と称して、分離された。 そして現在は、二子玉川~溝の口は田園都市線と大井町線が並走し、大井町線は起点の大井町から終点の溝の口まで直通運転している。、、、、簡潔に大井町線の歴史を記したが、実態は駅名・線名などがかなり変化して、ややっこしく、解りずらい路線である。、、、、、書いた私も、解らずに参考書を引っぱり出した次第なり! 


①大井町駅
・・・・・・・・・・・・JR京浜東北線、東急大井町線、東京臨海高速鉄道りんかい線(長ったらしい名前だ!)が乗り入れる駅。 りんかい線は地下2階に乗り入れており、外から見えないので今日は無視!・・・・・・・・・・京浜東北線南行の最後尾で下車すると、大井町線との乗換改札にでる。 JRの橋上駅舎が京浜東北線ホームの上にある。

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・・・・・・・・・・・・・・朝のJRのホームは通勤客がいっぱい!、、、、、オ! 美人の駅員さんも朝は忙しそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・JRの改札の奥には東急大井町線の改札がある。 電車が到着するたびに東急の改札からはサラリーマン、学生がゾロゾロ、、、、、スタート・ダッシュの早い人もいる。

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・・・・・・・・・・・・・東急側の大井町駅の駅舎。 駅名表示の看板では、白地に右から東急、JR、東京臨海の順でマークが並ぶ。 

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・・・・・・・・・・・・・東急大井町駅は高架駅で、高架下には店舗が並んでいる。 一部には地下もあり、飲食店が入っているようだ。

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②東小路
・・・・・・・・・・・・大井町駅の橋上駅舎を出ると東側に、「東小路 飲食店街」と書いた横丁がある。 “○○横丁”、“○○小路”の一つだ! 朝なので開いてる店はないが、チョイと歩いてみた。、、、、、、、飲めない私でも、夜、ぜひ来てみたいと思う“昭和の小路”だ。

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③JR広町アパート・
・・・・・・・・・大井町線の高架の北側にある巨大なアパート(団地)が廃墟化するかも? ここは、JR東日本大井町社宅(旧国鉄広町アパート)の跡で、現在は仮囲いの中で空き家となっている。 12階建ての高層アパートが6棟並んでいる。 1棟には120世帯が入居し、全720所帯、約2,000人が住んでいたのか? 建物は昭和41年(1966)に完成し、耐震性能が満たされておらず、取り壊して再開発が予定されていたそうだ。 ところが、再開発計画が頓挫して、今年初旬の時点では、跡地利用は未定となっている。、、、、、、陸の“軍艦島”と言われないように、しっかり再開発してほしいね!

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④高架下
・・・・・・・・・・大井町の次の駅:下神明に近くでは、高架下の飲食店はすべて立ち退き、高架橋の耐震補強工事も終わっていた。、、、、、以前のような、ゴチャゴチャした高架下の雰囲気は再現されないようだ。 チョイと寂しいね。

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・・・・・・・・・・・・・・・4年前の同じ場所には、飲み屋、食堂が残っていた。(平成23年撮影)

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⑤下神明駅
・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に、戸越駅として開業した高架下の薄暗い駅。 一日の乗降客は7,000人程で少ない。

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・・・・・・・・・・・・・・駅の隣りに大きな空き地ができ、大崎駅前のビルを背景に新幹線がよく見える。

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・・・・・・・・・・・・・・・駅近くには、昭和8年(1933)に架けられたコンクリート造の橋の欄干が残っている。 川は暗渠化しその上は住宅の裏道となった。

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・・・・・・・・・・・・・・駅の裏(西側)には、4層の立体交差 がある。、、、、一体として造られた4層ではなく、構造的にはバラバラに造られたものが、4層となったものだ。 最下層と第2層は「第2戸越架道橋」として道路上を横須賀線(品鶴線)が走り、第3層に東急大井町線、そして最上層に横須賀線の真上を新幹線が走行する。

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戸越公園駅
・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に、大井町線の開業と同時に蛇窪駅(へびくぼえき)として開業。 昭和11年(1936)、戸越公園駅に改称した。 、、、、、駅名の戸越公園は下神明駅と戸越公園駅のちょうど中間にある。

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・・・・・・・・・・・・・・・大井町線の車両に貼られているステッカーは何だ?、、、、、、白い矢印が大井町線、その他の細い線は他の東急各線(左から、田園都市線・東横線・目黒線・池上線)を表し、大井町線は東急各線を結んでいることを表現している、「誤乗防止用」ステッカーである。、、、、、、、お客さんの立場で、「なんだかサッパリ判らん?」

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・・・・・・・・・・・・・戸越公園駅の手前(大井町寄り)100m程にある下神明1号踏切

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・・・・・・・・・・・・・・中延駅から戸越公園駅に向かう電車。

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⑦新京浜架道橋
・・・・・・・・・・「新京浜」とは「第二京浜」のことで、中延駅の手前で大井町線は第二京浜を架道橋で越える。 昭和46年(1971)架橋。
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中延駅
・・・・・・・・・・昭和2年(1927)開業。 
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2015年7月27日 (月)

平井~押上

太陽ギラギラ、空気ムシムシ、お肌ベタベタ、下着グジョグジョ、典型的な猛暑。 終戦直後なら、タライに井戸水を満たし葦簀の陰で行水し、夜は玄関先の縁台で夕涼みする日だ!

今日は、夕食後、総武線平井駅から押上駅まで、夜の散歩となった。 1万1千歩、8km。



平井駅
・・・・・・・・・・・明治32年(1899)、総武鉄道の駅として開業。 駅周辺には大型商業施設、大企業などがなく、特徴・話題のないゴク普通の駅。

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燈明寺
・・・・・・・・・・・平井駅の北に位置し、妻沼聖天・浅草待乳山聖天と共に関東三聖天の一つとして知られている平井聖天の燈明寺。 時刻も夜7時を過ぎ、閉門していた。

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③平井諏訪神社
・・・・・・・・・・・享保年間(1716~1736)に隣の燈明寺の恵祐法印が、自分が生まれた国である信州の諏訪大明神の神霊をここに祀ったのが始まりといわれている平井諏訪神社がある。 現社殿は昭和440年(1969)に鉄筋コンクリート造で、新築したものである。、、、、、、明るく浮き出た社殿は、いいね!

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④平井橋
・・・・・・・・・・・・墨田区立花3丁目と江戸川区平井6丁目を結び、昭和55年(1980)に旧中川に架橋された。

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・・・・・・・・・・・・・・橋からは、スカイツリーも遠く見える。

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⑤東あずま駅
・・・・・・・・・・昭和3年(1928)に開業した、東武亀戸線 の駅。 サラリーマン、学生が帰宅する時間だ。 

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⑥立花のスカイツリー
・・・・・・・・・・・人通りも少ない立花1丁目から見るスカイツリー
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⑦祐天堂
・・・・・・・・・・・・・北十間川沿いにある「祐天堂」は、江戸時代初期の浄土宗名僧:祐天上人が江戸と千葉を往来していたとき、この付近に水死者の死骸の多い事を憂い、供養した祠である。、、、、、堂の左脇に木下川やくしみち道標も保存されている。

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⑧文花1丁目アパート
・・・・・・・・・・昭和40年(1965)から昭和58年(1983)にかけ建てられた都営住宅。 総戸数約1800戸程の大規模団地である。 現在、高層化して建て替え中。

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⑨スカイツリー
・・・・・・・・・・・・・散歩の最後はスカイツリーを見上げて〆る。

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2015年7月25日 (土)

隅田川花火大会

日中は猛暑日につき、家でゴロゴロ昼寝、夜は隅田川花火大会をブラリと見に行ってきた。 

・・・・・・・・・・・・・・浅草橋駅前の江戸通りは、既に第二会場(厩橋・駒形橋)へ向かう人がぞろぞろ、、、、、江戸通りが交通規制を受けるのは、東京マラソンと花火大会の時ぐらいだ。

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・・・・・・・・・・・・・・駅からはゾロゾロと若い人が出てくる、、、、、外人さんも

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・・・・・・・・・・・・・・私は、会場から遠ざかり、柳橋を渡り両国橋へ向かう。

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・・・・・・・・・・・・・・両国橋から見る花火は、チョイと遠くて小さいけど、見物すには空いていて見やすい穴場だ!
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・・・・・・・・・・・・・・船宿では、花火が終わり屋形船の到着を待っている。

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・・・・・・・・・・・・・・・駅では人の流れが変わり、家路を急ぐ、、、、、チョイと、寄り道するカップルもいそうだ!

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2015年7月24日 (金)

立石~小岩

京成立石駅から総武線小岩駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。 


①京成押上線(四ツ木~青砥間)連続立体交差事業
・・・・・・・・・・・京成電鉄押上線の四ツ木~青砥間は、両端の四ツ木駅、青砥駅とも既に高架駅となっているが、中間の立石駅を含む前後が高架化されていないため、11か所の踏切が残されている。 事業は、残されたこの部分を高架にすることにより、押上線全線の高架化を達成する予定である。、、、、、しかし平成15年(2003)から始まった用地買収が進まず、現在に至ってる。 用地買収は90%以上済んでいるようだ。 事業施工期間は当初予定から10年延長し、平成35年(2023)3月31日までとなった。、、、、、、いつになったら、工事に着工するのだ、イライラするね!

・・・・・・・・・・・・まだ、しばらくは地上ホームの立石駅

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・・・・・・・・・・・・・・踏切も、当分の間残りそうだ。 踏切の好きな、私には嬉しいが。

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西円寺
・・・・・・・・・駅から東に行った立石8丁目に、新義真言宗の西円寺がある。 永禄10年(1567)覚元法師が創建したと伝えられている。 江戸時代末期には寺子屋が開かれ、学制発布後の明治7年には、公立青砥学校堅石分校(現:本田小学校)として開校した、この時、仮校舎となった。 現在は、摩耶幼稚園を併設しており、教育に縁のある寺だ。

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③中川
・・・・・・・・・・・・埼玉県から流れ、葛飾区の真ん中あたりの高砂付近で中川と新中川に分岐する。中川は葛飾区内を蛇行し、綾瀬川、荒川と合流し東京湾に流れ込む。

・・・・・・・・・・・・・・本奥戸橋・・・・・・・・・・初代の橋は昭和7年(1932)開通したが、現橋は昭和62年(1987)に架け替えられたトラス橋。 橋長は122.1m。 橋上には奥戸街道が走る。

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・・・・・・・・・・・・・・奥戸橋・・・・・・・・・立石と奥戸を結ぶ、飾りの少ないガータ橋。 昭和47年(1972)竣工。 

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・・・・・・・・・・・・・・奥戸橋から眺める下流。

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・・・・・・・・・・・・・・立石8丁目の中川沿いの道には、交通安全祈願で祠に入った地蔵尊、正面には大きく「帝釋天王」側面には「文政三(1820)庚辰歳四月」と彫られた帝釈道の道標が残されている。、、、、、、寅さんは、この道標を知っていたかな?

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④細田橋
・細田橋人道橋・・・・・・・・・新中川に架かる細田橋は昭和35年(1960)に新中川の掘削工事に伴い架橋された。 隣の細田人道橋は、昭和54年(1979)の架橋され人車分離された。、、、、、、、ギリギリ2車線の細田橋は、トラックと乗用車が対向すると、乗用車が“橋の端”までバックしてトラックを通す、親切な橋である。 

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・・・・・・・・・・・・・・左は細田橋、右は細田橋人道橋

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⑤細田神社
・・・・・・・・・・・・・・葛飾区細田に鎮座する神社。 細田神社は、曲金村(高砂)から分村して細田村が開村した元禄8年(1695)頃に細田村の鎮守社として稲荷社を勧請したものといわれている。 現:社殿は昭和4年(1929)に修復された。 社殿脇にある石造りの鳥居は、安政の大地震(安政2年、=1855)で壊れ、文久2年(1862)に再建されたものである。、、、、、貴重な地震災害の資料の一つである。

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新金貨物線
・・・・・・・・・・・新小岩と金町を結ぶ貨物専用線。 いずれ、旅客列車も走るかも? 
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●・・・・・・・・・・・・・・・・この後、小岩駅まで行って帰宅。 駅に着いたら、健康的なサラサラ汗がダラダラ流れ、服はビチョビチョ。

2015年7月22日 (水)

江戸川水閘門

夕飯前の散歩で、都営新宿線篠崎駅で下車し、水閘門、都営住宅、商店街を歩いて来た。 8千歩、6㎞。

江戸川水閘門 ・・・・・・・・・・・・江戸川区篠崎の付近で、江戸川は江戸川(本流)と旧江戸川に分岐する。 分岐した旧江戸川は江戸川区篠崎と千葉県市川市河原を結ぶ、水閘門(すいこうもん)により仕切られている。 5門のゲートがある水門と船が通るための閘門が併設されており、“水閘門”の名がついている。・・・・・・・・昭和11年(1936)に建設に着手し、戦時中の昭和18年(1943)に竣工した。 この水閘門により、東京湾の海水が流山付近まで遡上することを防止し、都民の飲み水として、金町の浄水場で安定的な取水が可能となった。

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・・・・・・・・・・・・・・・水門・・・・・・・・・・・幅10m、高さ5mのゲートが5門連なる水門。 鉄筋コンクリート造の水門だが、ゲートは鋼製で、基礎杭には松丸太が使用されている。

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・・・・・・・・・・・・・閘門・・・・・・・・・・下流の旧江戸川と上流の江戸川の間はこの閘門を通過しないと行けない。 閘門の通行時間は朝5時から夜10時まで、通行可能な船の大きさは幅8m、長さ50mまでである。 潜水艦は通行不可能かもね?
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・・・・・・・・・・・・・・旧江戸川の下流側から、閘門のゲートを望む

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②東篠崎一丁目アパート
・・・・・・・・・・・・・その名のごとく江戸川区東篠崎1丁目に建つ大規模な都営住宅。 棟番号だけ見ると48号棟まである。 建て替えが進んでいるようだ、また一部の建物では部屋の増築も行われたようだ。、、、、、旧江戸川沿いに建つ、この住宅の最寄駅は都営新宿線篠崎駅だが、駅まで徒歩20分もかかる、チョイと不便なところだ。

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③篠崎新町商店街
・・・・・・・・・・総武線小岩駅付近から江戸川沿いに南下し葛西の方にのびる篠崎街道と、東篠崎一丁目アパートの間に位置する商店街。 この付近には、大規模な商業施設は無いようで、「新町商店街入口」のバス停から東篠崎一丁目アパートへ向かう住民は、商店街を抜けて行くことになる。 東京の最東端に位置する商店街らしい。 街は一本道でなく、面として広がりを持つている。、、、、、商店街の入口では地蔵さまが迎え、奥にはパチンコ屋があり、喫茶店・飲み屋も点在し、惣菜・衣料品・薬・雑貨の商店も複数の店舗で競っている。 “昭和”が残っている商店街だ。

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2015年7月21日 (火)

鶯谷~日暮里

猛暑日の東京は気温37℃、毎日が日曜日の私には、猛暑日はエアコンを入れて昼寝。 (働いてる人には、申し訳ないね。)、、、、、、でも、夕暮れ近くになると、ゴソゴソ起き出して、『散歩してくるよ』と家を出た。

今日は暑いので、木陰が多いとろろにしよう。、、、、、以前から気になっていた、几号水準点を探しに行くことにした。 行先は、鴬谷の寺と谷中の墓地。 9千歩、7㎞の散歩。



鶯谷駅
・・・・・・・・・・・明治45年(1912)、東北本線の駅として開業した。 当時は2両連結の電車の時代でありホームはさほど長くないため、現在の南口寄りの崖上に駅舎があった。 現在のラブホテル街に通じる北口と、南口の橋上駅舎はまだ存在していなかった。、、、、、、現在の北口、南口が出来たのは、昭和5年(1930)頃と言われている。(正確な時期は不明)

・・・・・・・・・・・・・東京国立博物館の裏側に位置する南口

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・・・・・・・・・・・・・ラブホテル街の中心に出る北口
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②寛永寺橋
・・・・・・・・・・・・・・北口の北側に、言問通りが線路を跨ぐ寛永寺橋がある。 昭和3年(1928)に竣工し、既に90年近くが経過した。 橋はかなり老朽化したようだ。 橋を渡った先には、寛永寺と関連する寺、谷中の墓地が、台地上に広がっている。

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寛永寺坂駅
・・・・・・・・・・・・寛永寺橋を渡り、言問通りを西へ進むと、「上野桜木二丁目」の交差点に出る。 この角に「台東倉庫(株)」がある。 ここは京成電鉄の「寛永寺坂」地下駅の跡である。 昭和22年(1947)に駅は廃止されたが、地上の駅舎や地下ホーム跡などは現存していて会社が借りている。、、、、、、チョイと、ボロッチクなった建物だが、中には地下へ降りる階段、切符売り場と思われる部屋などが残っている。

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④浄名院
・・・・・・・・・・天台宗寺院の浄名院は、寛永寺36坊の一つとしてとして、寛文6年(1666)に創建された。 享保8年(1823)に寺号を浄円院から浄名院へ改名した。 本日の散歩の目的地:1か所目。 まずは手を合わせて、、、

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、江戸六地蔵 の六番がある。、、、、、明治初年神仏分離に際し、江戸六地蔵六番(永代寺、富岡八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地蔵尊も破壊され、以後当寺に江戸六地蔵第六番のピンチヒッターとして、明治39年(1906)に再造された地蔵さまがある。

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・・・・・・・・・・・・・さて、私の目的である「几号水準点」がこの寺の山門脇にあるはずだ!、、、、、、「几号水準点(きごうすいじゅんてん)」とは、“几帳面”の“几”で“き”と読み、机の意味である。 石碑・鳥居・石垣・欄干などに刻まれ、水準測量に用いた“不”の字に似た記号が、三本足の机に似ているところから“几号水準点”と呼ばれた。 “不”の字の横棒が標高を示す位置となる。、、、、、内務省では、明治9年(1876)の東京・塩釜間の水準測量(高低を測る)から、この記号を用いたが、明治期に測量が参謀本部に引き継がれると使用されなくなった。 都内には、約30か所(上野東照宮 江戸城 ニコライ堂 など)に現存している。・・・・・・・・その一つが、この浄名院にあると解り、今日の散歩となった。

・・・・・・・・・・・・・黒塗りの旧山門の前に「不許葷酒入山門」の碑があり、その後ろにあった。

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⑤谷中の墓地・・・・・・・・・・「几号水準点」のもう一つが、この谷中の墓地にあると聞いて、今度はコチラを探すことにした。 おおよその位置は調べてきたが、墓地なので掘り返してもうないかも、、、、、

・・・・・・・・・・・・・まずは、墓地へ

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・・・・・・・・・・・・・さっそく、在ったのは渋沢栄一の墓。 なんじゃ、この大きさは! ジャンボだ!

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・・・・・・・・・・・・・次は、徳川慶喜、、、、、厳重に管理されているね。

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・・・・・・・・・・・・・・さすが谷中の墓地だ! 有名人がズラリと墓地を構え、全て見て周ると一週間以上かかりそう、、、、今日のミッションである「几号水準点を探せ!」に戻る。、、、、、墓地の中を1時間程、行ったり来たり、あきらめたりねばってみたり、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・やっと見つけた! 車の前にあった! こんなところにあるなんて、草の中、墓石の脇、敷石の脇、、、、アッチャ・コッチャ探して疲れたね!

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・・・・・・・・・・・・・・まさしく、几号水準点。 表面に“不”の記号が標されている。 明治時代から、本当にここに在ったのか? チョイと疑いの気持ちが過ぎる、、、、

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⑥紅葉坂・・・・・・・・・・・・・・本日の散歩、目的を達成したので、谷中の墓地から日暮里駅に向かう「紅葉坂」を下り、帰ることにした。 名の由来は、江戸時代、坂道周辺の紅葉が美しかったので命名したとのこと。 

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・・・・・・・・・・・・・坂を下ると、日暮里駅南口。
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2015年7月20日 (月)

上野公園

朝の天気予報では、『本日は34℃』、、、、、今日も熱中症に注意して歩くことにした。

熱中症で倒れても、24時間365日、診察してくれる台東区の総合病院に近い、上野まで歩いてみることにした。 浅草橋の我が家から上野公園まで、1万歩、7㎞の散歩です。、、、、、、念のため、診察券を持参して出発!、、、、、「備えあれば憂いなし、診察券あれば病なし」


①浅草橋3丁目の建物
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りに面して建つモルタル系の看板建築。 2軒長屋で右側の家は数年前に塗装した(白い部分)。 外壁中央に「蔵前橋通 東京日日新聞」と標された道路名標が貼られている。、、、、、、下の写真は2年前に撮影した道路名標。 「東京日日新聞」は昭和17年(1942)まで存在し、翌年からは「毎日新聞」となったので、この建物は戦前から建っていた証だ!

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・・・・・・・・・・・・・・こちらも蔵前橋通りに面して建つ6軒長屋。 長屋右端の蕎麦屋は私が小学生の頃、すでに営業していた老舗だ。、、、、、、ちなみに、長屋の左隣に建つ白いビルの7階に、我が家の建て替え工事期間中(20年程前)の半年間、一家全員で暮らしていたマンションだ、懐かしいね。

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徳大寺
・・・・・・・・・・・・御徒町アメ横商店街の真ん中で、江戸時代前期に開山した摩利支天を祀る日蓮宗の寺。 (開山したころはアメ横は無かった。 誤解しないように!)、、、、、関東大震災で古い堂宇を焼失し、大正15年(1926)には総欅造りで摩利支天堂が再建された。 しかし摩利支天堂も戦災で焼失し、昭和39年(1964)に現在の伽藍で再建された。 

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・・・・・・・・・・・・・寺の案内に載せられていた、大正15年に造られた摩利支天堂の全景。
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③不忍池のハス
・・・・・・・・・・・不忍池のハスは、江戸時代より浮世絵に描かれる名所であった。 しかし、戦時中、食糧不足のため池は埋められ畑となり、戦後になって、池が復活した。、、、、、、戦時中はレンコン畑だったのか?   不忍池のハスは7月中旬から8月中旬が見ごろらしいが、今日はチラリ、ホラリ、ポカリスエットで、2分咲き程度。

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・・・・・・・・・・・・・・ハスを撮影するカメラガール、私は可愛いカメラガールを撮影。

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・・・・・・・・・・・・・・弁天堂(昭和33年(1958)再建)に手を合わせて行こう!、、、、、寛永年間(1624~44)に創建された不忍池弁天堂は、天海大僧正が琵琶湖竹生島の弁才天を模して建立した。

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五條天神社・花園稲荷神社
・・・・・・・・・上野公園にある医薬祖神の五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)は、大己貴命(大国主命)と少彦名命を祭神として、元々は上野忍が岡に祀っられていたが、昭和3年(1928)に花園稲荷神社のある現在地に合祀された。 花園稲荷神社は創建年代不詳ながら、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった。、、、、、、上野公園の山から不忍池に下る途中に鎮座する、静かな神社である。

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⑤小松宮彰仁親王銅像
・・・・・・・・・・上野公園に建つ『この人、誰?』と聞きたくなる銅像。 主人公の小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう)は、弘化3年(1846)の生まれで、明治36年(1903)に没した皇族で、陸軍軍人であった。 慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。 慶応4年(1867)の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。 引き続き、会津征討では越後口の総督となる。 戊辰戦争にも従軍した。 明治10年(1877)には、日本赤十字社の前身である博愛社が創立されると、その総長に就任した。、、、、、、日本史で習った記憶がない人物だ。 歴史の時間、私は寝てたのか?

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⑥旧上野動物園正門
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・学校は夏休み、お父さんは3連休、天気は晴天、、、、、、動物園の正門に向かう人・人・人・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・・現在の正門の右:東京都美術館の裏側に上野動物園の旧正門がある。 上野動物園は明治15年(1882)に開園した。 現在残る旧正門は、明治44年(1911)に新家孝正工学博士の設計で建てられた。 正面の4本の柱のデザインは、トスカーナ様式であり鉄扉のデザインも他の柵と比較すると古典的で、重厚な構えである。、、、、、、昭和6年(1931)まで、門は北向きに設置されていたが、昭和8年(1933)に京成電車が公園の下を通り上野まで開通するに伴い、現在の東向きに変更した。 その変更時に切符売り場と門番小屋が増設された。、、、、、、現在は、開かずの門となっている。

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⑦旧博物館動物園駅
・・・・・・・・・・・・・・・上野動物園旧正門の北側、国立博物館の西端にに、京成電鉄:旧博物館動物園駅の跡がある。 昭和8年(1933)に開業し、平成9年(1997)に営業停止した。 建設時には、上野恩賜公園内に建てるという事で、そのデザインは御前会議にかけられて決定したそうだ。 駅出入口は名前の通り、博物館側と動物園側にあった。 相対式ホーム2面2線を有し、同一位置ではなく、上下線で互い違いにホームが設置されていた。 改札口は上りホーム側に設置されていた。 地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の敷地内に建設されたものと、上野動物園旧正門へ続くものの2か所があった。 

・・・・・・・・・・・・・・東京帝室博物館側の改札口は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴である。 昭和11年完成の国会議事堂よりも建築時期(昭和8年)は古い。 この出入口は、平成9年の営業休止時まで供用されていた。

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・・・・・・・・・・・・・・上野動物園旧正門側の出入口は、昭和40年代に現在の動物園正門が開設されたことで駅出入口より遠くなり、人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。 閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されているらしい。 

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⑧旧東京音楽学校本館奏楽堂
・・・・・・・・・・・・明治23年(1890)築、東京芸術大学音楽学部の施設であった。 昭和62年(1987)に台東区の手により、上野公園内に移築・保存され、国の重要文化財に指定されています。、、、、、、現在、保存修理のため工事中で閉鎖されている。 平成30年度、リニューアルオープンが予定されている。

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⑨旧因幡池田屋敷表門
・・・・・・・・・・・・因州池田藩は因幡の国(鳥取県)の大名で高い格式を持っていた。 この表門は最高の格式の門構えで、左右に向唐破風屋根の番所を備えている。 現在は東京国立博物館の敷地内にあるが、当初は丸の内に藩邸があって、その表門として建てられた。 明治以後は東宮御所の正門、さらに高松宮家を経て、現在地に移築保存されている。、、、、、、、この門だけでも、我が家より大きい!

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⑩国立科学博物館
・・・・・・・・・・・・関東大震災後の昭和6年(1931)に東京科学博物館本館として竣工した。 鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階。設計は文部省、施工は大林組。 車寄せを持つ堂々とした玄関、その玄関を中心に左右対称の外観はスクラッチタイルが貼られ、威厳に満ちている。、、、、、、、、戦時中は陸軍の高射第一師団司令部が置かれていた。・・・・・・・・・今日は、親子連れでの見学が多そうだ!

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・・・・・・・・・・・・・博物館入り口前にはD51-231号が展示されている。

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⑪上野駅公園口
・・・・・・・・・公園口は、その名の通り上野公園に直結する出入口で、震災後の大正12年(1923)から大正14年頃までにできたようだ。 当初は公園口からは電車線のホームにだけ行ける改札口だあった。 今は、博物館、美術館、動物園などの最寄りの出入口として、休日は込み合っている。

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・・・・・・・・・・・・・公園口改札内に設置されている博物館・美術館のチケット売り場。 行列ができていた。

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2015年7月19日 (日)

浅草

7月1日から9日までは連日の雨、10日から15日までは酷暑、16日からは17日は台風、18日・19日は台風一過の猛暑、その間の晴れ間には暑中見舞いのご挨拶、、、、、のんびり散歩できるのは何時だ!  

梅雨明けした明日から、本格的に散歩できることを期待して、夕方からウォーミングアップで浅草まで行ってきた。

・・・・・・・・・・・・・・どんよりした蒸し暑い天気は、身体も、気持ちも、ベッチョリして、歩き辛いね。

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・・・・・・・・・・・・・爆買い客・観光客をよけながら仲見世を進む。

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・・・・・・・・・・・・・・・財布にあった小銭のすべて63円を賽銭箱に投げ入れ、『私だけは、熱中症になりませんように』と、観音様に手を合わせる。

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・・・・・・・・・・・・・・開演前の呼び込みも暑そうだ、、、、、最近、若い娘に人気のある、イケメンの芝居役者、、、、、“おやじタイプ”の役者はもういないのかも。

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・・・・・・・・・・・・・・暑気払い、屋台は空席なし。

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・・・・・・・・・・・・・・雷門前で待ち合わせ?、、、、、暑いよ、熱いよ

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・・・・・・・・・・・・・・時刻は、18時30分。 そろそろ暗くなる、、、、、

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2015年7月15日 (水)

北千住~堀切

いよいよ猛暑のシーズン到来。 昨日に続き今日も猛暑、まだ死にたくないので、散歩は休むつもりだった。 でも、夕方近くなら散歩してもいいだろうと勝手に決めて、北千住駅から堀切駅まで、9千歩、7㎞の散歩。


①北千住駅東口
・・・・・・・・・・東口の駅前にあった日本たばこ産業 (JT) 社宅の跡地に、東京電機大北千住キャンパスが平成24年(2012)に、駅前に開設された。 大学の開設に合わせ駅前整備も進んでいる。

・・・・・・・・・・・・・・・駅ビルの「ルミネ」、マルイなどがあるショッピングの西口と比べると、東口は飲み屋の多い下町の駅前だ。

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・・・・・・・・・・・・・・北千住はJR常磐線、東京メトロ千代田線、日比谷線、東武鉄道伊勢崎線、つくばエキスプレスが乗り入れている。 東口寄りには東武鉄道が乗り入れ、1階は伊勢崎線のホーム、2階はコンコース、3階は東武に乗り入れてる日比谷線がホームとなっている。

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②北千住大踏切
・・・・・・・・・・・・北千住駅から都心側に寄った位置に通称「大踏切」がある。 大踏切には、JR常磐線の「北千住一丁目踏切」と東武伊勢崎線の「22番踏切」が並んでいるのだ。 

・・・・・・・・・・・・・東寄りに東武伊勢崎線の「22番踏切」がある。 後ろに日比谷線とつくばエキスプレスの高架も見える。

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・・・・・・・・・・・・・「22番踏切」手前から、常磐線が走る「北千住一丁目踏切」を見る

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・・・・・・・・・・・・・日比谷線の高架と左側につくばエキスプレスの高架。 

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・・・・・・・・・・・・・つくばエキスプレスの高架下を走る常磐線。 この踏切が「北千住一丁目踏切

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・・・・・・・・・・・・・「北千住一丁目」??、、、、踏切の近くには「千住1丁目」と「千住東1丁目」はあるのだが、「北千住一丁目」は無い! 

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・・・・・・・・・・・・西側から見ると、常磐線の上につくばエキスプレスの高架、さらに奥に日比谷線の高架が見える。

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③煉瓦の架道橋
・・・・・・・・・愛里病院(足立区千住東2)の近くに、東武伊勢崎線の煉瓦の架道橋がある。 高さ:わずか1.6mで、もちろんクルマは通れない、身長165㎝の私もチョイと前かがみで通行する高さである。

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・・・・・・・・・・・・・自転車に乗ったママは、思ったほど高くないようで、スイスイと通って行く。

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・・・・・・・・・・・・・煉瓦はイギリス積み(長手だけの段と小口だけの段が、交互に積まれる)と呼ばれる積み方で、明治から大正時代のものと思われる。

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④21号踏切
・・・・・・・・・・伊勢崎線牛田駅と北千住間にある踏切。 大きくカーブする線形の、ちょうど中程に位置する踏切。、、、、、、一昨年、鐘ヶ淵駅の踏切で、不覚にも転び脱臼した私は、その後踏切がチョイと怖くなった。 私の脱臼と同時期ぐらいに、この踏切では、自転車を押しながら横断していた女性が、急行電車に撥ねられたそうだ。 お互いに、注意、注意。  死にたくなければ、、、、警報機が鳴ったら渡らない。鳴らなくても渡らない、これが一番安全だ。

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⑤20号踏切
・・・・・・・・・・牛田駅の西側(北千住より)の踏切。
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⑥牛田駅
・・・・・・・・・・・1932年(昭和7年(1932)に開業した下町の駅。 京成電鉄本線の京成関屋駅は道路を挟んで向かいにあり、連絡運輸が行われている。

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⑦煉瓦の架道橋
・・・・・・・・・・・こちらは、牛田駅のホーム下にある架道橋。 高さ1.7m。 こちらは幅もあり、皆さん、スイスイ通って行く。

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・・・・・・・・・・・・・・架道橋の前には中華そばの「日の出屋」の暖簾が揺れて、“おいで、おいで”していた。 「3年B組金八先生」も、近くでロケのとき、中華そばを食べたそうだ。

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⑧東京未来大学
・・・・・・・・・・・・堀切駅の隣りに、足立区で廃校になった区立第二中学校の校舎を改修増設して、平成19年(2007)に開校した大学。 こども心理学部とモチベーション行動科学部がある。、、、、、、正直に言うと、新しい大学なので、知名度は低いようだ。

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堀切駅
・・・・・・・・・・・・・・・・「雅万歩」には、度々登場する駅。

・・・・・・・・・・・・・東武線と荒川土手の間の草叢に、堀切駅上りホームに通じる踏み分け道がある。

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・・・・・・・・・・・・・・土手下に上り(浅草方面)のホームがある。

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・・・・・・・・・・・・・上り電車に乗る人は数人だけ!

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2015年7月13日 (月)

目黒~恵比寿

JR目黒駅から恵比寿駅まで、爽やかな青空の下をブラリ散歩ができず、ギンギンの猛暑の中を汗がダラリ・ベッチョリ散歩。 気温35℃、熱中症がヤバイ、途中で散歩も切り上げ! 9千歩、7㎞。


①JR目黒駅
・・・・・・・・・・・まだ官営の鉄道は新橋発着の東海道線だけの明治18年(1885)3月1日、私鉄:日本鉄道の品川線(品川~赤羽)が開通した。 このとき、設置された駅は両端の品川、赤羽と、途中に渋谷、新宿、板橋の3駅であった。 開通から、半月遅れて3月16日、途中駅として目黒、目白の2駅が開業した。 ちなみに巨大ターミナルである池袋駅の開業は、なんと18年後の明治36年(1903)である。 当時は池袋より、目白、目黒のほうが集客力があったのか?

・・・・・・・・・・・・・・東口、西口

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・・・・・・・・・・・・・・朝からガンガン照り、通勤のサラリーマンは、アジ~ィ、アジ~ィ!

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・・・・・・・・・・・・・・跨線橋:上大崎新橋から眺める目黒駅。 五反田~目黒間の線路の勾配はきつく、多少とも勾配を緩和するため、五反田駅は高架ホームで線路をかさ上げし、目黒駅は深い切通しの底にホームが設けられている。

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・・・・・・・・・・・・・・上大崎新橋から眺める恵比寿駅方向。

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②日本基督教団白金教会
・・・・・・・・・大正7年(1918)白金伝道教会として始まる。 大正13年(1924)現在地(上大崎2)に会堂を建設、昭和51年(1976)現在の会堂を建設。

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・・・・・・・・・・・・・内部は“シンプル・イズ・ベスト”の教会だ! 写真は3年前撮影。

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③白金桟道橋
・・・・・・・・・・・・上大崎2丁目に、古レールを構造材として利用した、長さ:24.4m、幅:2mの跨線橋がある。 山手線部分(写真:右側)は単純な垂直に組んだ橋脚で、山手貨物線(埼京線、湘南新宿ライン)部分(写真:左側)は掘割りの深さもあり、橋脚部分はアーチ形状に組まれている。 昭和元年(1926)に建設された。

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④長者丸踏切・目黒道架道橋
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・白金桟道橋から恵比寿方向を眺めると、山手貨物線の上を山手線が走る光景が見える。

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・・・・・・・・・・・・・交差地点は、現在はボックス形のトンネルになっているが、昭和の時代には、山手線が鋼製のガータ橋を渡り越えていた。
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・・・・・・・・・・・・・トンネルの目黒寄りに、山手貨物線に長者丸踏切があり、山手線には目黒道架道橋がある。
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・・・・・・・・・・・・・「長者丸」とは、かつて、長者が住んでいた、この付近の地名である。 昭和42年(1967)の住居表示改正で、「品川区上大崎長者丸」から「品川区上大崎2丁目」と変更され消滅した。 現在は大崎2丁目の高級住宅街の中の交番・マンションにその名が残されている。 

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・・・・・・・・・・・・・交差点の恵比寿側に「大丸跨線橋」がある。 ここから交差地点を見た景色。

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⑤土浦邸
・・・・・・・・・・・・・・上大崎2丁目に、モダニズム建築家として活躍した土浦亀城(1897~1996)の自邸がある。 土浦亀城は、東京帝大を卒業し、旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの手伝いをし、その後大倉土木(現:大成建設)に勤め、作品として強羅ホテル(1938)、銀座シネパトス(1952)などがある。、、、、、、自邸は昭和10年(1935)に竣工した。 白い四角形の組み合わせ、インターナショナルスタイルを木造で表現した、実験住宅である。、、、、、、住宅地に建つ白亜の小住宅は、昭和初期の建物とは思えない“新しさ”が残っている。  

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⑥目黒区三田の境界石
・・・・・・・・・・・三田2丁目に私を引き付ける裏道があった。 すり鉢状の地形の底に下る道だ。

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・・・・・・・・・・・・・中程を過ぎたあたりで、住宅の間に路地を発見。 路地の先には階段がある。 この雰囲気好きだね!

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・・・・・・・・・・・・上から2段目に、『陸軍』と読める境界石が埋められていた。

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・・・・・・・・・・・・・階段を上がりきると、2車線程の裏道に出た。 写真:ブロック塀の右端と街路灯のポールの間に階段の手摺が見える。

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・・・・・・・・・・・・・調べてみたら、、、、、三田2丁目の北側には現在:防衛庁技術研究所がある。 また、三田2丁目を挟んで南側には白金自然教育園がある。 その2か所を結ぶ、裏道が階段上の裏道である。 現:防衛庁技術研究所のところに目黒火薬製造所(明治13年(1880)に完成)があり、白金自然教育園には火薬庫があったそうだ。 どうやら、この裏道は、2地点を結ぶ火薬運搬用の軍用軌道跡らしい。 境界石は、軌道沿いに埋められたものであろう。



⑦共立電機
・・・・・・・・・・・恵比寿駅 近い、渋谷区恵比寿南2で、チョイと古そうな建物発見。 こちらも、調べてみたら、昭和38年(1963)建築の鉄筋コンクリート4階建ての工場事務所。 現在はアパレル企業に貸してるみたい。

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2015年7月12日 (日)

上中里~王子

上中里駅で下車し、飛鳥山の文化施設を堪能しながら、隣の王子駅まで、7千歩、5㎞の、夫婦で歩くプチ散歩。


①蝉坂
・・・・・・・・・・上中里駅前から平塚神社の脇を上り、日光御成道(現:本郷通り)に出る60m前後の坂道。 江戸時代の後半にはあったようだ。 昭和18年に拡幅して現在の蝉坂(せみさか)となった。

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②平塚神社
・・・・・・・・・平塚神社の創立は平安後期といわれている。 八幡太郎源義家が兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜した。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚(かっちゅうづか)とよばれたが、高さがないために平塚ともよばれた。、、、、、、この平塚神社の境内は、かつて平塚城があったところ。、、、、、、、、歴史ある老舗の神社だ!

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③旧内閣印刷局滝野川分室工場
・・・・・・・・・・西ヶ原2丁目、本郷通りに面して建つ現在の国立印刷局滝野川工場。 正門正面には、昭和5年(1930)竣工の鉄筋コンクリート造4階建て、大蔵省営繕管理局設計、安藤組(現:安藤ハザマ)施工の工場が見える。 内部に入れないので、外から見る限り、装飾を廃した平坦なデザインで小学校のようにも見える。、、、、、、、紙幣・切手など、印刷に失敗したのでいいから、孫のお絵かき用に数枚頂戴したね!

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④西ヶ原一里塚
・・・・・・・・・・・・・西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」(現:本郷通り)の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの旧位置に残されている。 大正時代には、市電の路線延長工事で撤去されそうになったが、実業家:渋沢栄一などを中心とする地元住民の運動によって塚は保存された。、、、、、、現在は道路中央に残っており、中央分離帯の役も兼ねているようだ。

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⑤七社神社
・・・・・・・・・一里塚の横に大きな鳥居が建つ七社神社(ななしゃじんじゃ)。 高野山四社明神と、伊勢・春日・八幡の7柱を祀っていることから、七所明神と呼ばれている。 かつては、西ヶ原村の総鎮守であった。、、、、、、社殿には渋沢栄一の揮毫による扁額が掲げられている。

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⑥IT邸
・・・・・・・・・・・七社神社前に建つ個人住宅。 大正6年(1917)の建築、イギリス人の設計による木造2階建て。 約100年経過したが、手入れも行き届いているようで、しっかり残されている。、、、、、樹木が茂り、外部からは見えにくくなった。

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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、2年前に撮影した写真。

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⑦青淵文庫
・・・・・・・・・・・・御存じ渋沢栄一は、第一国立銀行、東京証券取引所、王子製紙など500以上の銀行・企業の設立に関わり、日本の資本主義を構築した第一人者。 その渋沢栄一の傘寿(80歳)と、子爵への昇爵を祝い、門下生から贈られた建物が、飛鳥山公園(渋沢邸はここにあった)に建つ「青淵文庫(せいえんぶんこ)」である。 大正14年(1925)竣工、鉄筋コンクリート造2階建て、清水組(現:清水建設)施工。国の重要文化財。 手をかけた素晴らしい建物だ。、、、、、、さすが、大物。 建物1棟を贈る人がいるのだ!

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⑧晩香盧
・・・・・・・・渋沢栄一の喜寿を祝い、大正6年(1917)に旧清水組(現:清水建設)からプレゼントされた、木造平屋建ての建物:晩香廬(ばんこうろ)。 こちらも国の重要文化財。 旧渋沢邸の来客接待用の建物として使用された。、、、、、、、祝いのたびに、1棟づつ頂戴するとは、「おそれ入谷の鬼子母神」。

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⑨渋沢史料館
・・・・・・・・・・渋沢栄一の旧邸 「曖依村荘」跡(現:飛鳥山公園の一部)の一角に、昭和57年(1982)設立された博物館。 渋沢栄一の偉業を、諸資料で説明する施設。 現在の史料館の建物は、鉄筋コンクリート造り、 地上2階/地下1階建て、清水建設の施工で完成した。 (内部は撮影禁止)、、、、、、、資料も豊富で、解りやすく展示されて、一見の価値あり。

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⑩北区飛鳥山博物館
・・・・・・・・・渋沢史料館の隣りに建つ、北区の歴史・自然・文化を展示する博物館。 平成10年(1998)に隣接する紙の博物館、渋沢史料館とともに「飛鳥山3つの博物館」として開館。 平成22年(2010)にはリニューアルオープンした。、、、、、、内部は明るく、広い空間で、展示物も見やすい。

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⑪紙の博物館
・・・・・・・・・・・「王子」は、我が国の洋紙の発祥地であり、飛鳥山公園内に、紙の歴史・製造・利用を解説する博物館が、平成10年(1998)に開館した。 来たついでに、こちらも拝見。
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●・・・・・・・・・・・・・・・この夏、初のかき氷である。 チョイとあずきの量が不足しているね! でも、美味しかった、満足!!

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●・・・・・・・・・・・・・・・チョイと欲張って見過ぎたせいか、知識の大半が小さな頭から漏れ、ブログを書いてみると、何にも覚えていなかった。 コリャ、歳だ!

2015年7月10日 (金)

ほおずき市

毎年7月9、10の両日は、浅草寺境内で「ほおずき市」が開かれる。 この日は、浅草寺の「四万六千日」でもある。

「四万六千日」は、、、、、、毎月18日は観音様の縁日であるが、このほかに「功徳日(くどくび)」と呼ばれる特別な縁日がある。 この日はポイントアップの日で、参拝すると百日分、千日分の参拝に相当するご利益が得られると信仰されてきた。 参拝しないと損する日だ、この中で最もご利益の期待できるのが、浅草寺では「四万六千日」と呼ばれている7月10日である。 一日の参拝で、ポイント46,000倍は魅力的である。

「ほおずき市」は、、、、、、「四万六千日」に合わせて開かれる市で、「ほおずきを水で鵜呑みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれ、薬草として売られていた。

46,000倍のポイントの魅力、ほおずきの効能、どちらも嬉しいが、現在は東京下町の風物詩として楽しまれている。

私は、“ほおずきガール”を見るのが楽しみで、夕食前にブラリ散歩をしてきた。 今日は2度目の散歩となった。

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中野~東中野

雨も上がり、10日ぶりの晴れ。 中野駅から池袋方向へ歩き始めたが、途中で裏道を歩き方向が180度狂い、気が付いたときは遅かりし、結局、隣の東中野駅までの散歩となった。 1万1千歩、8km。


①中野駅
・・・・・・・・・明治22年(1889)、甲武鉄道の新宿駅~立川駅間開通と同時に開業した歴史ある駅。 平成23年(2011)から翌年にかけ、中野サンプラザ・区役所などのある北口の改良工事が実施され、明るく・利用いやすい駅前となった。・・・・・・・・“中野”と聞くと、だいぶ前に還暦を過ぎた私は、お世話になったことはないが中野刑務所、市川雷蔵の陸軍中野学校 などを思い出すね。 

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②ブリック
・・・・・・・・・飲めない私が、アルコールを完全に断って10余年。 飲み屋に行く機会も激減した。 いまは、同窓会などで居酒屋・料理屋に行くだけ。 中野駅北口の路地の奥に、バー「ブリック」はある。 今朝、歩いてみてらありました、もちろん営業前でドアは閉められていた。 昭和39年(1964)にトリス・バーとして開店したブリックは、今年で創業51年の老舗である。 “トリス・バー”といえば、白黒TVのCMに出てきた柳原良平のアンクルトリスが、最近、復活して活躍中だ、アンクルトリスのCMデビューは昭和33年(1958)で、懐かしいね! 

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③ワールド会館
・・・・・・・・・・・中野ブロードウェイ南側入口の東側の裏通り奥に建つ、昭和40年代の建築で、当初はホテルが併設されていた雑居ビル。 昔、某AV女優が飛び降りたという噂話があり、去年は、土地差押えの話があり、現在は「中野の九龍城」などと呼ばれている。 ホテルは廃業し、エレベータは止まっているそうだ。、、、、、、ディープで、カオスな建物であるが、いずれ壊されると思われる。 「昭和」が、また一つ消えるかも!

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④新井薬師
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・ワールド会館の北、早稲田通りに「薬師参道」が口を開けたように見える。 新井薬師には、度々、参拝しているが、参道入口からは歩いた記憶がない。 『今日は、ここを歩いてみよう』

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・・・・・・・・・・・・・『なんだ、空いてない! まだ、開店前だ! つまらないね!』 

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・・・・・・・・・・・・・ふてくされる時間もなく、新井薬師 に着いた。

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・・・・・・・・・・・・・・来たからは、手を合わせていこう。 真言宗豊山派の寺院だ正式には新井山梅照院薬王寺と称す。 今日も、賽銭100円を入れ、『健康で、長生きできますように。』とお願い。 100円入れたので、ついでに、『もう一つお願いします、サマージャンボ1等あたりますように。』

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⑤「たきび」のうた発祥地
・・・・・・・・・上高田4丁目の裏通りを歩いていると、欅・樫の大木に竹の垣根を発見。 手入れの行き届いた長い垣根、素晴らしい!、、、、、、個人の邸宅で、垣根は明治時代に作られ毎年手入れをして、当時の面影を今に伝えているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・垣根の中では、木造の住宅を新築中であった。 垣根に沿いぐるりと回ってビックリ、なるほど、ガッテンした。、、、、、屋敷の角に教育委員会の案内板がある。、、、、、、そこには、この屋敷の垣根の中でたき火をしている光景を見て、北原白秋を師事していた作詞者:巽聖歌(本名:野村七蔵 1905~1973)が、昭和初期に童謡『たきび』を作詞したと記されている。、、、、、、、戦後、松田トシや安西愛子が歌い、いまは由紀さおりも歌う童謡 ♪♪ かきねの かきねの 曲がり角 たきびだ たきびだ 落ち葉焚き ♪♪ 

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⑥上高田氷川神社
・・・・・・・・旧上高田村(現:上高田4)の鎮守として享徳2年(1453)に創建された。 現社殿は大正15年(1926)に建てられ、大戦では被災しなかった。 神の御利益か?

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⑦東光寺別院桜ヶ池不動院・
・・・・・・・・氷川神社近くの、妙正寺川に向って下る台地の斜面に桜ヶ池不動院がある。 不動明王が安置された堂の脇に水が湧き出していて、この水が境内の小さな池に注いでいる。 鯉が泳いでいるが、チョイと狭そうだ。

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⑧最勝寺
・・・・・・・・・・新宿区上落合の山手通りに面して建つ、真言宗豊山派の最勝寺。創建年代不詳だが、江戸時代には中井御霊神社、下落合東山藤稲荷神社の別当寺を勤めていた。、、、、、、、枝垂桜で有名だが、来年までお預け。 百日紅で我慢して。

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⑨中央環状線山手トンネル路内換気塔
・・・・・・・・・・山手通りの地下には首都高が走って、その排気塔が山手通りの7箇所に2本づつ計14本、天に向かって突き出ている。 この塔は、車の排気ガスを処理した後、高さ45mの排気塔から上空100mに向かって、放出・拡散させている。 都心の必要設備の一つかな?、、、、、、、シンプルで山手通りとも調和し、違和感なく受け止められるデザインだ。

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2015年7月 8日 (水)

雨天中止

今朝は曇天。 『こりゃ、散歩が出来そうだ!』と思ったが、あいにく我が家の壁紙貼り替えで、午前中はクロス屋を待ち、手順の確認。 午後、工事は妻に任せ、私はポツリ、ポツリと落ちてきた雨粒のなかを、水道橋の内科で定期検診を、、、、、、検診後の天気は、雨、雨、雨、、、、

にくい雨だ、恨みの雨だ、、、、、散歩は雨天中止なり。 

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2015年7月 7日 (火)

浅草橋~綾瀬

7月に入り連日の雨、毎日が日曜日の私は散歩はできず、我が家で写真の整理・模型作り・パズル・昼寝・・・・・・・・『あ~~退屈だ!』

今日は曇天だが、ひとまず雨はあがった! 4日ぶりに散歩ができるよろこびで家を出た。 ウキウキ・ニヤニヤ・セカセカ・ドタバタ気分で家を出たため、スマホ・万歩計を忘れた。歩数計測できず、残念!、失敗! 浅草橋の我が家から、隅田川沿いに歩き、常磐線綾瀬駅までの散歩です。


●7:45AM
・・・・・・・・・・・・我が家(浅草橋)をあとにし、近くの鳥越神社 に道中の安全を祈願する。 『道中安全、よろしくお願いします。 ついでに、家内安全も!』

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●7:55AM
・・・・・・・・・・・・蔵前一丁目交差点から「江戸通り」を北へ歩く。 『交通安全も、お願いすればよかったかな?』

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・・・・・・・・・・・・・・玩具屋の前では、小学生が品定め。 『学校遅れるなよ!』

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・・・・・・・・・・・・・・駒形橋から見ると、スカイツリーの展望台に意地悪な雲かかってる。 『見せないよ!』

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・・・・・・・・・・・・・・・浅草寺の本尊聖観音菩薩が隅田川で見つかった場所に駒形堂 が建っている。 駒形堂の境内に、「戒殺碑」(かいさつのひ)がある。 “この地は、観音様が出現した聖なる場所であるから、殺生(魚を獲る)を禁じる”という主旨の碑。 碑は元禄6年(1693)に浅草寺権僧正が建立したものである。 関東大震災後の昭和2年(1927)に土中から発見された。  『“魚を獲るな!”とは、近くのどぜう屋、うなぎ屋が可哀そう!』 

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●8:30AM
・・・・・・・・・・・東武鉄道浅草駅を通過。  『この時間から、早くも外人観光客がウロウロしてるね。』

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・・・・・・・・・・・・・・隅田公園からスカイツリーを見ると、今度は第二展望台を雲が隠している。  『きょうは、素晴らしい景色を見せてあげないよ。』

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・・・・・・・・・・・・・「爆買ツアー」の御一行様。  『そろそろ次の観光地:浅草寺に向かいます。 集合してください!』

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●8:45AM
・・・・・・・・・・・言問橋西詰を通過。 ここは五叉路の交差点で、浅草の方から来ると、右に折れると言問橋 を渡り墨田区押上方面へ向かう。 直進するとY字型に分岐し、右側の道は隅田川沿いに荒川区南千住汐入地区を抜け足立区へ向かう。 左側の道は台東区山谷 地区を抜けて南千住駅へ向かう。 私は右側の道を行くことにした。 

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・・・・・・・・・・・・・・・天平宝字4年(760)、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧の弟子が開創した橋場不動尊。 きょうは参道入口から、遠く本堂に向かい手を合わせ通過。  『こんど来たとき賽銭は倍払いますと心で言って、頭から忘れていくよ!』

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●9:10AM
・・・・・・・・・白鬚橋(しらひげばし)西詰を通過。・・・・・・・・「白鬚橋」は、私にとって、辛く泣きたくなる、楽しい笑いたくもなる、思い出のある言葉である。、、、、その思い出とは、一昨年の6月、鐘ヶ淵駅前踏切で右肩を脱臼し白鬚橋病院に救急搬送されたことが始まりである。 翌日、再び病院を訪れ診察待ちの間、目のパッチリしたチョイと化粧の濃い丸顔の、年増の看護婦さんが、私の方を見てお目目をパチパチしている。 ドッキリ、私にウインクしている、こんな場所でヤバイ! 少し顔を伏せ、もう一度見ると、また目をパチクリ、純情で内気の私に気があるのか? 再び、顔を伏せ、ドキドキ・ハラハラ・ニヤニヤの気持ちを抑え、冷静に考えてみると在り得ぬ話だ! しばらく、看護婦さんを観察してみると、どうやら、お目目パチパチは癖のようだ。 安心した、早とちりせずによかった、熟女と良からぬ関係にならなくて。 その後、何度か通院したが、看護婦さんを探す楽しみがあり、診察待ちの時間を有意義に過ごすことができた。 見てるだけで楽しいい看護婦さんであった。   『あの看護婦さんに、また会いたいな! また脱臼でもするか。』

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・・・・・・・・・・・・・・白鬚橋を過ぎると荒川区南千住となる。 水神大橋 を右手に見て汐入地区の岸辺の公園を抜けて行く。  『濡れた道、ランナーは転ばぬように走ってね。』

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・・・・・・・・・・・・・・公園に咲く花。 『私のように、しっとり濡れて、美しく可憐だ!』

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●9:40AM
・・・・・・・・・千住汐入大橋を渡り足立区千住曙町に入る。

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・・・・・・・・・・・・・東武・京成交差点 ・・・・・・・・・・・地上に東武伊勢崎線が走り、その上を高架で跨ぐは京成上野線。 堀切橋から撮影。  『上も下も同じような車両だ!』

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・・・・・・・・・・・・・・足立区と葛飾区を結ぶ全長514.5mの堀切橋を渡る。 左側(上流側)には京成本線荒川橋梁が架かっている。   『歩いて渡る人も無し。』

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●10:10AM
・・・・・・・・・堀切橋を渡り葛飾区に入る。 橋の際に、創建年代不詳の小谷野神社がある。 昭和47年(1972)に造営された、鉄筋コンクリート造の社殿の扉は閉められていた。  『開かずの扉は、いつ開けるのだ!』

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・・・・・・・・・・・・・・常磐線の綾瀬と亀有の付近では、かつての古隅田川の流れに沿って設定された区界が、グニャグニャに蛇行し葛飾区と足立区を分けている。 その古隅田川も多くは暗渠化され、現在は小菅4丁目に、一部が緑道として残されている。  『チョイと水が汚いね、鯉も亀も息苦しいのかパクパクしているね。』

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●10:40AM
・・・・・・・・・綾瀬駅に到着。 約3時間で、浅草橋から綾瀬まで歩いた。  『万歩計を忘れたのが残念だ。』

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2015年7月 2日 (木)

芝公園

今日の天気は曇りと聞いて、散歩に出ることとした。 浜松町駅で下車し、芝公園に入ったら、ポツリポツリ、、、、しばらく、木の下で雨宿りしたが、、、、雨脚は、ザアザアに変わり、、、、、散歩は中止とした。 6千歩、5㎞。


渡邉ビル
・・・・・・・・・・・・モノレール浜松町駅の南側に建つ帝冠様式のビル。 昭和6年(1931)に大林組の設計・施工で建てられ、以来84年間、大きな改修もなくレトロな風情を匂わせてきたが、いよいよ今月より、鹿島建設の手で取り壊しとなった。、、、、、、貿易センターが建つ一画の再開発が始まったのだ。、、、、、レトロな外観を活かし保存して欲しかった、残念!

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②芝公園
・・・・・・・・・・・明治6年(1873)の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山とともに芝の5ヶ所が、日本最初の公園に指定された。 当初は、増上寺の境内も含まれる、広~い範囲が芝公園であった。 戦後は、増上寺・プリンスホテルなどの敷地は除かれ、環状の公園となった。

・・・・・・・・・・・・・曇り空の下、東京タワーも、増上寺の屋根も見える。 まだ雨粒は落ちてない。

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・・・・・・・・・・・・・・芝東照宮・・・・・・・・・「東照宮」といえば、日光、久能山、上野などが有名だが、日本全国には、かつて700社程あった。 その内、130社程が現存しているそうだ。 さらに、その一つが芝公園の中にある。・・・・・・・・・芝東照宮の祭神は、もちろん家康であるが、生前、駿府城にて彫らせた等身の自像である。 元和2年(1616)に家康は逝去し、翌年元和3年(1617)に家康を祀る安国殿が創建された。 明治6年(1873)、安国殿は東照宮と改称し、郷社に列格した。 しかし、昭和20年、国宝であった旧社殿は、戦災でより灰燼と化した。・・・・・・・・現社殿は鉄筋コンクリート造で、昭和44年(1969)に建てられた。 豪華さはなく、規模は小さくなり、普通の神社と変わりない。

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・・・・・・・・・・・・・・芝丸山古墳・・・・・・・・・・・芝東照宮の社殿後ろには小高い山があり、これが古墳である。 築造は5世紀中頃過ぎとみられ、墳丘長125mは、都内では最大級の規模の古墳。、、、、、、たしかに古墳だが、高松塚古墳のように貴重な古墳ではないようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・伊能忠敬測地遺功表・・・・・・・・・・・古墳の頂上には、日本地図を作った伊能忠敬の功績を顕彰した、「伊能忠敬測地遺功表」が建てられている。 遺功表は明治22年(1889)に東京地学協會が、青銅製の角柱型のもので建てられたが、戦時中に失われ、昭和40年(1965)に現在ののものが再建された。、、、、、なぜ、古墳の頂上にあるのか?、、、、伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪であった。 その功績をたたえるため、近くの公園の古墳に建てたらしい。、、、、、高松塚古墳のように貴重な古墳なら、おそらく、古墳の上に建てることは許されなかったと思うね!

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●・・・・・・・・・・・・・・・・頂上で写真を撮っていると頭上から、雀の小便のように、雨粒がポタポタと、ヤバそうだ! 急遽下山して、公園の大木の下で雨宿り。

●・・・・・・・・・・・・・・・・公園の中を若い娘が通り抜けて行く。 誰も私に見向きもしない、、、、、、せめて一人ぐらい立ち止まり、『よかったら、傘にお入りください。濡れますよ!』てな言葉をかけて欲しかった。

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●・・・・・・・・・・・・・・・雨はより激しくなり、、、、、、♪♪ ドシャ降りの雨の中で わたしは泣いた やさしい人の想い出を つよく抱きしめて ♪♪、、、、、私をつよく抱きしめてくれる、やさしい娘はいないようだ!、、、、散歩は中止、急ぎ帰宅することにした。

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